釜ヶ崎総合年表−1960年代
1960(昭和35)年
- 1月1日 第1次山谷暴動(前年に引き続き、第2次とする見方もある)
- 2月8日 大阪社会学研究会「大阪市西成区福祉地区実態調査」
- 2月9日〜20日 朝日新聞(大阪・柴田俊治記者)「大阪のどん底・釜ヶ崎に住んでみて」ルポ
- 職安=通称西成職安、お役所流にいえば「大阪府阿倍野公共職業安定所西成労働出張所」。―表門の前がメーンストリート。そのまわり、勝手気ままに建ったドヤ、日払いアパート。くねくね曲がってはくっつく路地に群がるめし屋、古物屋、競輪のノミ屋。
- 午前6 時45分、西成職安の紹介が始まる。空はまだ暗い。ここに登録している日雇労務者は、男4,300 人、女700 人。「直行」といって直接きまった工場や作業場に行くのもあって、毎朝集まるのはざっと4,000
人。場ちがいに大きな照明灯が、群がる労務者たちの防寒帽を浮かび上がらせる。―
- “民間”(失業対策事業とは別に工場や作業場から求める日雇)の紹介場は人間のセリ市だ。「××建設、 500円」係員が壇上で求人先と賃金を読みあげる。その下につめかけた人たちは、証券取引所の場立ち人みたいに、ホイ、ホイと登録カードを差し上げる。係員は手近なところから、ひょい、ひょいとカードをつまむ。これでその日の仕事が決まるのである。「つぎ!○○運輸、
450 円」つまみ上げられなかったら、最後に、仕事がきつく賃金は安くて、希望者の少ない“ケタ落ち”の仕事にでも行かねばならない。―
- 一泊30 円―板の間に湿った毛布が三枚。並んでゴロ寝する。50円―同じ板間のゴロ寝だが、薄っぺらいワラのマットがつく。60 円から70円―カイコだなのような二段式の仕切り。せんべいブトンが上下一枚ずつ。
- 80円から100円―二人のあい部屋。フトンは上下各一枚。交代でフロに入れる。
- 200円―一室貸し切り。フトンが掛け二枚になる。
- 住む人も違う。“職安横丁”の路地、50円から70円のドヤは、まず職安の日雇労務者、拾い屋、手伝い、行商人、不安定だが何がしかの職を持つ“勤労者”である。
- 西成署の周辺から釜ヶ崎の中心部へかけて100円―200円のドヤ。なにをしているのか分からぬのが多い。売春婦とヒモ、男ショウ、ヤミの労務手配師、押し売り、マージャン屋のメンバー、ヤミタクの運転手・・・・ひる間ごろごろしている若もの、とにかく目つきが鋭い。
- アベノ近鉄百貨店前から西へのびる舗装道路。南海本線が高架でこの道をまたぐ。ここで目をガードの真下に落とすとコンクリートの側壁にへばりつくように並んだ小屋、小屋・・・。犬小屋をやや大きくしたというか、牛小屋を半分に割ったというか、ひょこゆがんだ老朽バラックが折り重なるように連なっている。ガードの脚と脚のとの中には、小屋の上に小屋をのっけた二階建てもある。
- ここ西成区西入船町、東四条町の密集バラック地域には約300軒の小屋、2,000人近い人たちが暮らしている―。
- 日雇、立ちんぼ、拾い屋、モク拾い、クツみがき、ダ菓子屋、ワンタン屋・・・・。
- おかゆ、ぞうすい、イモ・・・戦争中の食生活が、ここではまだつづいている。
- 窓がない。あっても小屋がくっつきあっているので昼でも電灯をつけねばならない。なかはまず三畳。たまに四畳半のがある。三畳といっても衣類を入れる小箱、ナベ、カマ、食器類などを置くと二畳しか残らない。ここに平均
4〜5人、最高7人の家族が住んでいるのである。
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- 4月 大阪市勤労青少年グループ連絡協議会 結成
- 各所に種々雑多なニュアンスをもつグループないしサークルが誕生していたが、特に働く青少年友の会の会員たちを中心として出身府県や職域、地域の青少年が集まってグループを結成する傾向が強まり、これらグループ間の連絡協調と相互の親睦を目的として。(民生事業40年史)
- 4月 大阪市 生業貸付基金増額
- 1億6,500万円に増額。5月から同和生業資金を新設。取り扱いは民生局福祉課。(民生事業40年史)
- 4月18日 大阪市 加美ユースセンター 開館
- 東住吉区加美町にあった旧加美警部派出所跡を改装したもの。(民生事業40年史)
- 5月 住宅地区改良法 制定
- 改良住宅の建設をもって不良住宅地区の改良が行われることとなった。(民生事業40年史)
- 5月 大阪市働く青少年映画野球友の会
- 市内にフランチャイズを置く南海ホークス、近鉄バファローおよび阪急ブレーブス各球団の協力を得て、プロ野球についても学生なみの割引が実施され、大阪市働く青少年映画友の会の名称を変更したもの。後に、「大阪市働く青少年友の会」と改称。(民生事業40年史)
- 7月26日 第2次山谷暴動
- 8月1日 第3次山谷暴動
- 8月 山谷宿泊人対策協議会発足
- 8月 大阪社会学研究会「第2次釜ヶ崎調査」
- 9月 大阪・西成愛隣会結成
- =関係諸団体が緊密な連携のもとに、地域住民の教養文化の向上及び福祉の増進を図るため隣保事業を積極的に行い、もって地域の環境浄化を図ることを目的として結成されたもので、当初市補助金30万円(35年度)。
- 11月 大阪市民生局 1部9課20係となる(弘済院含まず)
- 国民健康保険全面実施の体制を整えるため保険部を新設。
- 釜ヶ崎地区での物価
- 映画館(封切館)−230円/大工賃金−1,700円/銭湯大人−19円/バクダン(サイダービン1本)25円
- 登録日雇労働者の状況
- 35年度において市内7公共職業安定所(大阪東・堂島・信濃橋・阿倍野・西野田・淀川・大阪港)に登録する日雇労働者は21,594人で、そのうち失業対策事業紹介適格者は16,570人である。失業対策事業就労者の賃金は36年度より49円の賃上げ改正が行われ、現在は平均419円となっている。(民生事業概要・昭和36年度版)
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- ▲港区約3,850人 西成区約3,350人と数えられる。
1961(昭和36)年
- 7月 釜ヶ崎仲よし子供会誕生
- 3月 西成愛隣会館竣工、事業開始
- 所在地=西成区甲岸町21の市民館に隣接した空地、木造2階建て、延100坪、第1愛隣会館(西成愛隣会館)を36年4月に建設した。この建物は生活指導室、婦人相談室、内職作業室、学習指導室、相談室、診療室など地域のニードを満たす機能を持った施設 建設経費 500万円)
- 3月2日 大阪市国民健康保険条例 公布
- 4月1日から被保険者103万人という“マンモス国保”としてスタート(民生事業40年史)
- 4月 西成市民館共同洗濯場設置。利用提供開始(寄付金を財源に洗濯機2台購入、無料で利用に供する。簡宿所では洗濯できない)
- 8月1日 第1次釜ヶ崎暴動発生
- 日雇労働者(老人)がタクシーにはねられた交通事故をきっかけにして付近の労働者がい集し、救急車の処理の遅れから、「見殺しにした」などと騒ぎだし、次第に暴徒化した群衆が、5日間にわたり、派出所、商店、通行車両、西成警察署などを襲撃して、放火、投石、略奪等の不法行為を繰り広げた。これが最初の釜ヶ崎暴動であり、死者1人を出したほか、警察官の負傷者771人、一般人の負傷者163人、検挙者194人、動員警察官10万5000人という戦後最大の暴動事件に発展した。
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- 8月 警察把握の簡宿数
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- ▲警察調べの簡宿数の中に「水崎地区」の数字がある。当時は広義の「釜ヶ崎」の中に水崎地区も含まれていた。
- 8月4日 府・市・府警本部による「釜ヶ崎対策連絡協議会」発足
- 9月1日 「大阪府労働部西成分室」開設。所在地 西成区東四条3-34
- 西成分室斡旋賃金=定時(土工―940円/運輸−960円/港湾―930円)/オールナイト(土工―1,900円/運輸−2,133円/港湾―1,784円)/飯場・定時−平均900円、飯代200円
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- ▲右奥南海本線高架。現在の花園北交差点北東角、地下鉄通風口のある緑地一帯。
- 9月 「釜ヶ崎の実態」(大阪府警察本部防犯部発行)
- 「職安による就労あっせんは、日雇いで、普通300〜500円で、(紹介数によっては)職にあぶれることもあるが、手配師を通じると健康者であれば
1,200円〜1,500円の収入があるといわれ、−略−職安の窓口を訪れるものは、年寄りか、体の弱いもの、あるいは婦女子というのが実情である。」
- 9月 大阪港の滞船問題と労働力供給問題の論議−府議会
- 当時大阪港の船混現象は、「国際的な問題にもなつているー。月額1億3千万、年間15億以上の滞船料を実は支払つているわけであります。−大阪の港に行くとあとのスケジユールが立たないということで、信用の問題にもなるわけでございます。先般運輸大臣が見えた際に、−港湾の施設の問題と同時に、やはり人の問題が解決しないと問題が解決せないということをつぶさにお聞きしたわけです。−日雇いあるいは釜ケ崎のような状態の人を使わなければどうしても困るということであるわけでございまして、抜本的にはやはり他の地区から労働力を持つてくるということが先決問題であります。」という状態でした。
- それを解決するには「(手配師は)職業安定法自体から言いますと、労務供給事業でございまして、現行法から申し上げますと、アウト・ロードになつておるわけでございます。−(それでは労働力が確保できないので)先般中央に対して実情に即するように法を改正してくれということを要望いたしております。」という、違法を是正するのではなく、公認する必要を、大阪府の労働部長が昭和
36年大阪府商工労働常任委員会会議録(9月例会)で発言しています。
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- ▲港湾青空求人。船内作業。 ▲艀で本船に向かう労働者
- 9月1日 西成警察署に「防犯相談コーナー」開設
- 9月12日 参議院建設委員会議事録 閉3号
- 1961年失業対策事業実施方法と釜ヶ崎
- 9月17日 全日本自由労働組合釜ヶ崎分会結成
- 9月22日 参議院地方行政委員会議事録 閉5号
- 釜ヶ崎集団暴力事件について−警察当局報告
- 10月 新世界浄化対策委員会発足
- 10月1日 大阪府労働部「日雇労働者転職促進訓練事業」発足(期間6ヶ月、1日510円支給、就職決定時に2万円)
- 10月9日 政府次官会議(厚生・建設・労働・文部)でスラム総合対策基本方針を決定
- 10月 西成愛隣会館に西成保健所分室併設。20日より事業開始、西成区甲岸町21、同会館2階
- (37年8月愛隣会館竣工に伴い同会館に移転)
- 10月11日 衆議院予算委員会議事録 8号
- 補正予算反対討議
- 10月12日 衆議院地方行政委員会議事録 6号
- 公安条例
- 10月13日 衆議院地方行政委員会議事録 7号
- 全日自労 公安条例
- 10月17日 衆議院地方行政委員会議事録 8号
- 第1次釜ヶ崎暴動−背景・対応など
- 10月17日 衆議院法務委員会議事録 3号
- 釜ヶ崎事件 被疑者暴行事件
- 10月20日 衆議院石炭対策特別委員会議事録 8号
- 炭鉱の状況
- 10月25日 西成宿屋組合、環境衛生同業組合創立事務所を設け、第1回発起人会を開催(簡宿組合20年の歩み)
- 環境衛生営業適正化に関する法律が制定され、36年1月6日付で大阪府知事が環境衛生同業組合を承認することになったことから。
- 11月9日 大阪市民生局長と西成宿屋組合、釜ヶ崎地区の宿泊業について懇談会を開催。(簡宿組合20年の歩み)
- 11月14日 衆議院法務委員会議事録 8号
- 釜ヶ崎暴動 警察官暴行
- 11月20日 全日自労釜ヶ崎分会「応急宿泊所設置」を要求、西成分室前で座り込み。(朝日新聞)
- 11月27日 読売新聞「波止場」シリーズ連載
- 11月30日 大阪自彊館敷地(938坪、3095.4u)買収完了
- 資金は社会福祉事業振興会から借入
- 12月 西成愛隣会「小口生活資金」制度発足
- =生活資金困窮者(世帯持ち 3,000円 単身者 1,500円)無利子、無担保、保証人なしで貸し付け開始。資金150万円
- 12月7日 西成宿屋組合(会員数106名)解散総会。環境衛生同業組合へ移行
- 簡宿組合事務所=西成区西入船町3番地(市民館の2階にあったこともある)、組合員数131名。(簡宿組合20年の歩み)
- 12月8日 衆議院社会労働委員会議事録 13号
- 釜ヶ崎視察報告
- 12月8日 衆議院社会労働委員会議事録 9号
- 釜ヶ崎視察報告
- 12月12日 簡宿組合、西成保健所と無許可営業者対策について意見交換。
- 保健所は、現在の無許可業者を出頭させ、建築、消防、衛生面について積極的に指示し、改良しだい許可申請させるようにしていると説明。(「簡宿組合20年の歩み」なお、同書に、「大阪市は条例で西成区の釜ヶ崎地区以外に木賃宿の営業を許可しなかったので、簡易宿泊所の存在は大阪府下においては当地だけであり、−全国から蝟集する労働者のための宿泊施設を民間の手に期待されたのである。人口の増加で宿泊施設が不足したので、急造の建物で簡易宿業務が増加したのは当然のことであった」との記述がある。大正15年10月25日府令第157号宿屋営業取締規則で「木賃宿」の名称が「簡易宿」と改められ、新市内に於ける営業許可地が定められているが、西成区以外にも許可地が認められている。その後市条例で許可地が定められたかどうかは未確認、調査中である)
- 12月15日 宿泊対策懇談会開催
- 会場西成警察署。官庁関係7名、組合側11名、全日自労釜ヶ崎分会3名(簡宿組合20年の歩み)
- 12月20日 大阪自彊館 「和光寮」宿舎1棟増築
- ブロック造 延32坪竣工 定員32名増員
12月26日 阿倍野公共職業安定所西成労働出張所(東萩町28番地)、新庁舎(鉄筋コンクリート2階建1棟)竣工。(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)
(2023年10月現在、釜ヶ崎支援機構お仕事支援部が使用中の建物)
2003年頃の撮影。建物は建設時のまま。
- 12月30日 東萩公園(三角公園)に「無料宿泊用テント3張」開設(朝日新聞)
- 管理は総評大阪地評(1月3日まで)。150名収容。府市協調(府はテント、市は公園提供)。50名を「梅田厚生館」「東成寮」に収容
- 12月31日 アブレ労働者50名を「梅田厚生館」に収容(朝日新聞)
- その他
- 釜ヶ崎簡易宿泊所−175軒中無許可営業49軒
宿泊料 1泊100円−153軒/80円−20軒/50円−2軒
茂木草介、テレビドラマ「釜ヶ崎」で芸術祭賞
- 昭和36年当時の保護行政
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- ▲昭和36年4月現在区別保護率(民生事業概要・昭和36年度)
- 保護施設の種別
- 養老施設=いわゆる養老院であり、主として60歳以上の老人を対象
- 救護施設=身体または精神上に著しい欠陥があるため、日常生活に不便のある者を対象
- 更生施設=身体または精神上の理由により補導を必要とするものを対象
- 宿所提供施設=住居のない要保護者に住宅扶助を行う施設
- 弘済院=総合的保護施設。養老・救護・更生・医療保護の各施設のほか、児童福祉法による乳児院・養護施設があり、収容児童のため小・中学校も併設。昭和33年6月に開設した緊急救護所は専ら精神病院退院者の社会復帰の訓練と指導にあたっている。
- 梅田厚生館=大都市特有の浮浪者対策としての一時保護機関。収容後7日以内にそれぞれ適当な保護施設及び病院等へ送致している。
- 行旅病人=行旅病人及死亡人取扱法によって、歩行に堪えざる行旅中の病人にして療養の途を有せずかつ救護者なき者を所在地市町村が救護する事が規定されている。本市の場合は、主として警職法第3条第1項により、職権でパトロールカーにより病院に入院措置され、事後、区長に身柄を引き渡しているが、法上の措置費がないため、生活保護法による医療扶助に肩代わりされている。
- 行旅死亡人=行旅病人及死亡人取扱法に基づき、所在市町村長が、その状況、相ぼう慰留物件、その他本人の認識に必要な事項を記録しその遺体を処置することが定められている。民生局保護課がこれを所管し、各区区役所市民課が現業を担当し施行している。/取り扱い屍体は検視後(死因等により解剖を要するものは阪大医学部経由)市立斎場において火葬に付し遺骨は一年間、当該斎場において保管し、引き取り人なきときは、市立服部霊園内の無縁墓地に埋葬する。また慰留物件は、告示後60日以上保管し、遺族の発見、申し出によってこれを引き渡し、遺族不明の場合は売却し取り扱い費用に充てている。/昭和35年度の各区取り扱い状況は右表のとおりで、浪速区、西成区、北区が取扱件数が多いのは浮浪者のたまり場になっている関係である。(民生事業概要・昭和36年度)
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▲(民生事業概要・昭和36年度)
1962(昭和37)年
- 1月24日 衆議院本会議議事録 7号
- 代表質問
- 1月25日 「裸の会」初会合(31日結成式、3月雑誌「裸」創刊号)
- 1月30日 あいりん学園のパイプ校舎完成(西成警察署前)
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- 右奥は西成警察署
- 1月30日 衆議院社会労働委員会議事録 2号
- 特別地区労働福祉対策費
- 2月1日 あいりん学園54名で開校
- 西成区海道町「西成警察署」前に仮校舎建設。不就学児小・中生徒56人収容。(37.8.8 愛隣会館へ移転。38.3.廃止)
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- 左上は西成警察署。
- 2月20日 衆議院予算委員会第一分科会議事録 2号
- 釜ヶ崎対策予算について
- 2月23日 簡宿組合「組合情報第3号」で「宿泊規定」を各組合員に伝達
- 3月1日 衆議院法務委員会議事録 10号
- 釜ヶ崎対策予算について 2
- 3月6日 参議院地方行政委員会議事録 12号
- 警察官の待遇
- 3月 全日自労釜ヶ崎分会解散
- 4月4日 衆議院内閣委員会議事録 23号
- 政府刊行物
- 4月25日 大阪市長、簡易宿所経営者を「生活指導員」に委嘱
- (宿泊者の生活内容をもっともよく知っている経営者にその生活相談と指導を委嘱すれば実行が上がるとの見知から委嘱したもの。指導要領は大阪市民生局が作成・配布。)
- 4月 釜ヶ崎銀座「完全舗装・水銀灯139基」
- 4月 保護施設の問題研究 (1) 刊 大阪市生活保護施設連盟
- 「大阪市生活保護施設連盟は、大阪市管轄の全保護施設が加盟しており、昭和33年に保護施設の職員の技術、教養、福祉の向上を図り、もって要保護者の福祉増進に資することを目的として発足したものであります。/大体、生活保護施設というものは、まったく地味な仕事であって、近来、老人福祉の点から、養老施設がクローズアップされているというものの、更生、救護、宿提施設等は、極端に言えば、何らかの事故でもない限り、世間の注目を集めることはないといつても良い。そしてまた、収容者自身も、首尾よく退寮してしまうと、後をふり向こうともしないのが常であつて、その点からも施設の職員は恵まれることは少ないのであります。/しかしながら、このようなことが、保護施設の存在価値を低くすることでは決してなく、とくに大都市の特性として全国から流れ来るアウト、ローの人達の福祉については、ゆるがせにすることのできないことであるのは間違いのないことであります。(はじめに−会長吉村敏男)」
- 「病弱者の介護実態−大阪市立信太山老人ホーム。現在収容人員は104名(定員104名)であるが、健康状態を区分すると次のとおりであり、本題に該当するC・Dに属する者は60%を占めている。(健康者 6人−6%、保養者 37人-35%、病弱者 58人−56%、要注意者 3人−3%)。/現在分類収容が行われていない我国の養老施設のあり方としては、以上の結果が生じることは蓋し当然のことと言わねばならない。」
- 「養老院における老齢福祉年金の使途の実態とその指導について−社会福祉法人 城南天森養老院。被保護老人に支給される老齢福祉年金は、恩給等の公的年金と同様収入として認定し、別に老齢加算として同額が支給されている。−当施設では、収容老人74名のうち約76%にあたる56名が支給を受けている。−なお、病弱者で内職も出来ずまた老齢加算金の支給も受けていない老人は全然自由なお金がないので、この老人達に助け合いの献金として、老齢加算の支給を受けている人達の自由意志で、わずかでも出し合ってこれに充てている。」
- 「収容者の更生実態−長柄寮(宿所提供施設)。収容者の殆どは日雇労務者であり、最高年齢は66歳から19歳までの巾広い年齢層である。/この収容者の多くは、酒、女、賭事、それに事業失敗、犯罪が主な転落要因となっている。現在200人以上の収容者を寮長以下4名の職員で指導にあたっているが、到底この職員数では満足な指導が出来るとは思われない。/退寮状況(昭和36年度)=更生退寮者(52%)、無断退寮者(25人 20%)、梅田厚生館へ返送(18人 14%)、病気入院(13人 10%)、事故退寮(4人 3%)。死亡(1人 1%)。この間の入寮者は120人。/更生退寮者のうち、他に住居を求めて退寮したもの46人中の37人は西成、釜ヶ崎附近の1日80円から130円のドヤ(安宿)に住居を求めたもので、この人たちは、潜在浮浪化し、やがてはまたいずれかの施設に再保護される可能性が強いものである。俗に「施設太郎」と呼ばれている人達である。−宿所提供施設は、住居の現物給付のみでよいのか、積極的に生活指導、就職斡旋等の指導が必要ではないのか−本市の宿所提供事業としては、単なる宿所の提供にとどまらず積極的指導が必要であるという考えに立っており、現行の基準は全く低過ぎると考える。−収容者の大部分が働いており(日雇労務者)朝5時から帰寮は夜9時ないし10時、残業でもすれば11時を廻ることもある。」
- 「患者施設の健康管理のあり方について−大阪市立西成寮。施設の対象が病弱、虚弱の特異者であるところに施設の特色があり、収容者の全員が体と心の調和のバランスを失っている人々である。/従って陰気な環境になり生気のない、いかにも社会の落伍者の集まりというような状態に陥りやすい。/収容者の4割が結核性疾患で、そのうち通院治療患者が約6割、寮内治療者が4割である。/治療養生が長期に及ぶ人が多く在寮期間が長くなり、気力、精神力の問題がからんでくる。要するに治療に根気が必要である。」
- 「給食献立の作成について−社会福祉法人大阪自彊館。男子浮浪者の更生施設の給食という、あまりデーターもない仕事を受け持って暗中模索している現状で、単に計算の上だけで栄養的に充足しているからというだけでは、安心出来ないということにむつかしさがある。−昨年秋までのように好景気の時は外食したり、仕事の後でちょっと一杯の人が多くて残食がふえる。それに雨の日と晴天の日とでは残食に差があり、晴天の日は残食が多いという結果がでている。−この差は施設利用者の大半が日傭労務者であり、雨が降れば仕事に行けない者が殆どであって、外食する金がない。−生活保護施設連盟主催の−給食研究会に依頼した各大学の教授は、その給食費では献立作成は到底無理だとの理由で全て講師となることを拒否された。−出来得る限り家庭的な暖かさを盛って食事が明日の生活への源泉となるよう願いながら、今一番実現してみたいことは作りたて、焼きながら一番おいしい食べ方をしてもらいたいということと、食器をいろいろ美しく使い分けたいということである。」
- 「浮浪母子の形態と更生の連関についての一考察−社会福祉法人 駒川ホーム。宿所提供施設で対象は母子という特殊の施設-現在51世帯160人。/入所原因別=完全母子世帯(夫と死別)10世帯24人、離婚 13世帯31人、住宅問題で別居(夫は単身寮あるいは住み込みで働いているもの)10世帯37人、服役中 6世帯21人、行方不明 5世帯15人、性格相違 4世帯16人、暴力行為(夫の暴力に堪えかねて逃げ出してきたもの)3世帯16人(37.3.1.現在)/昭和36年度退寮世帯28世帯112人。そのうち65%は他の施設、あるいは独力で更生した夫とともに家族寮へ変わるか、又は引き取られて更生している。入院・その他が15%。残り20%は母子のみで第2種住宅、母子寮において、あるいは住み込み就職して、更生への道を歩もうとしている世帯。/これらの人々は施設入寮当時は殆ど着のみ着のままであり、戸籍関係も、大半は内縁関係のままで、子供も入籍していない状況であり、学齢期であつても入学出来ないし、健康状態も悪く、欠乏症寸前というような状況であって、決して住宅や施設があれば、これらの人々が直ちに更生出来得る姿ではないのである」
- 「緊急救護所の3ヶ年の歩み−大阪市立弘済院緊急救護所。緊急救護所は設立する際に、専門家から運営が困難である等の理由で、可成りの反対意見があり、そのようなムードの中で設立された施設である。/当救護所は精神病院において、症状が固定して、病院における治療の限界に達したもので、自営の生活をなし得ないか、あるいは引き取り先がないか、または引きとり先はあつても家庭に問題を起こすか、所謂、社会復帰に問題がある男子について、生活扶助を行っている施設である。/救護施設はその定義において、明らかな如く、養護または補導を加えても、正常な状態に帰って社会復帰する可能性のない者であるが、本施設はこれにあきたらず、利用者の実態より生活指導要綱を作成し、作業療法を中心とする生活指導を行って、更生可能な者には、社会復帰させつつ3年6ヶ月を過ごしてきた。施設開始以来147名を収容。−104名が退所。就職したもの33名、無断退所24名、再発再入院27名、施設変更・希望退所(帰郷)20名。」
- 「退院時の問題ケースに対する活動実態−天王寺病院。病院における退院時の問題は、社会的問題ケースと個人的問題ケースに分けられる。/1.社会的問題ケース=病気は治癒したが行先がない。また老衰等医学的に症状が固定し治療の要がないが、身の廻りの世話が出来なく、また引取先がなくて退院出来ない場合/2.個人的問題ケース=個人的な理由で退院を非常にいやがったり拒否したりする場合で比較的解決方法は発見出来る問題である。そういう患者は、内科的で慢性的な病気(結核患者等)が非常に多い。/今後の問題としては、−最近の入院患者の中には、極く悪質なケースがあるように思われるので、入院時あるいは入院中のケースワークの一層の強化を図る必要があると思われる。行旅病人を例にとると、本病院において昭和36年度71名、昭和35年度74名で、ほぼ同数の入院患者があつたが、その中の7割程度は退院後どこえ行ったか判らない。そして、行旅病人は再入院が意外に多く、病気ではなく食・住の目的で、行旅病人の制度を悪用するケースが最近とくに目立って増えてきた。これらは常習者、病院ゴロを生む結果ともなっている。−結局このような人達の更生指導という点では全然行っていないわけである。/今後は退院時の問題と合わせて入院中のこのようなケースに対するケースワークを強化する必要があると考えている。」
- 「弘済院附属病院における生保患者の特異性−大阪市立弘済院附属病院。病床数は700床であり、昭和36年度平均の入院患者数は509名、うち500名は生活保護患者であり、他の患者は本来ならば生活保護の適用を受けてもよいが、日傭健康保険あるいは国民健康保険があり、他法優先の建前から生活保護の適用を受けていないものであり、何れも布団その他必需品は一切病院が支給する必要があるものばかりである。/60歳以上の老人が約7割を占めている。殆どは老人の半身不随患者で大半は寝たきりであり、入院することによって症状が良くなるということは殆どなく、−養老施設に入所させる方が好ましいと考えられるものである。−ところが、身の廻りのこと、洗濯等々一切出来ない寝たきりであるという点で現在の養老施設に収容することは到底無理である。/1年以上の入院が約6割である。/退院状況=死亡 37%、社会復帰 27%、他施設 18%、院内施設(養老所・保養所・児童福祉施設等)11%、転医・他 7%(昭和35年4月〜36年3月)/現状−半分養老施設で、その中に病院があるという−事態。
5月1日 大阪府労働部内に「西成労働福祉センター設立準備事務局」
- その他
- 三角公園に移動テレビカメラ車
防犯コーナー主催の「映画の夕べ」「音楽の夕べ」の取り組み始まる
- 5月 「釜ヶ崎」対策連絡会設置
- =府・市・府警・労働局の関係課長級で構成。7日、第1回会議開催、主として運営要綱を審議
- 5月20日 私立「東萩託児園」開園
- 6月 西成分室の期限切れをめぐり、地元に西成労働福祉センター設置反対運動おこる
- 6月 簡易宿泊所へ西成警察署から週刊誌を配布、宿泊者へ回覧する取り組み始まる。(簡宿組合20年の歩み)
- 6月30日 防犯コーナー主催「労働者野球大会」
- 8月8日 愛隣会館竣工(当時西成愛隣会館との関係で第2愛隣会館とも称した)
- 事業開始=西成区東田町73-1 36年8月発生した「釜ヶ崎」事件後急激に高まった「地区改良、福祉対策拡充」の世論にこたえて設置したもので、地区における民生・衛生・教育などの各分野を総合した福祉センターの使命をもっている。主な設備は、西成保健所分室、相談室(婦人、戸籍、住民登録、防犯、生活保護、児童、更生保護)。西成警察署前の不就学児対策の「あいりん学園」を同会館の4,5階に移転、屋上は簡易運動場となる。
西成愛隣会館は愛隣会館付設授産場として再発足(生活及び学習指導の事業は、愛隣会館へ吸収)
-
- 開館式場会場の案内看板には「大阪市立愛隣寮」と「大阪市立愛隣会館」が併記されている。
- 。。
- 間仕切り教室と屋上校庭。。
- 8月15日 「労働者慰安の夕べ」開催(簡宿組合20年の歩み)
- 9月20日 釜ヶ崎東萩町公園「テレビ答・ステージ完成」
- 9月20日 参議院社会労働委員会議事録 閉1号
- ドヤ街対策・昭和38年度予算
- 9月21日 労働省、西成労働福祉センターの無料職業紹介を認可
- 10月 愛隣会館に「ベビーセンター」設置
- (運営主体は西成愛隣会。定員50人。保育料 月 1,600円)
- 10月 馬渕生活館第1期工事竣工
- (事業開始37.12 建設経費102,926,811円 浪速区馬渕・水崎両町のスラム街の環境改善と当該居住世帯の入居、更生施設として建設したもので、主な施設は、保育所、宿泊室、授産及び学習室がある。)
- 10月1日 (財)西成労働福祉センター設置。大阪府労働部西成分室廃止。西成区東入船町23に設置(38年5月移転)
- 10月 愛隣会館内に「あいりん貯蓄組合」業務開始=国民貯蓄組合法により設立(通称あいりん銀行)
- 11月3日 西成署、求人業者に「人夫のトラック輸送」を厳禁と
- 12月 西成署、簡易宿泊所止宿労働者より「生活相談連絡員116名」を決定
- 12月 労働センター「転職促進訓練生」22名決定
- 12月 愛隣寮(37年7月9日「山田ビル」を買収)、改修終了し事業開始。市立愛隣寮(50.12.廃止)
- =住宅に困窮する地区在住家族持ちの低所得者に宿所を提供し、自立更生をはかる。定員70世帯、買収及び改修費 53,832,777円 事業開始 昭37.12。1階に西成警察署東田町派出所、西成愛隣会生活指導員室(簡宿組合事務所=竣工した愛隣寮内に事務所を借用する件について再三交渉の結果8月1日付で大阪市より使用許可が出たので、同所に事務所を移転=簡宿組合20年の歩み)
- 12月 みなと宿泊所竣工
- =事業開始38.2 人口、家屋ともに密集した地区の分散、縮小策並びに港湾労働者の確保のため建設したもので、単身労働者(定員230人)に宿所を提供。その自立更生を図っている。運営は大阪港湾福利厚生協会に委託 建設費47,113,322円
- 12月7日 衆議院法務委員会議事録 8号
- 暴力団取り締まり
- 12月17日 大阪救世軍、都島に「無料宿泊所」開設
- 12月19日 西成署「当たり屋5名逮捕」
- 12月 大阪市民生局「あいりん学園クリスマス・パーティ」
- 12月24日 西成青少年浄化協議会「モチつき大会」
- 12月28日 大阪市民生局「ドヤ住まいの老人に年忘れ老人慰安会」
- 12月31日〜1月3日まで「青カン(野宿)労働者」を梅田厚生館・なにわ寮・自彊館へ。延べ363名(朝日新聞)
- 昭和37年 釜ヶ崎施設位置図
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- 略図の右端に、南海天王寺線とある左に「市立愛隣会館」、その上に「市立西成市民館付設保育所」。なお、図の中に「旧紀州街道」とあるのは間違いです。(図は「大阪市・釜ヶ崎対策施設案内・昭和37年9月30日・大阪市民生局」につけられているもの。西成署西の海道公園のさらに西に、「市立西成愛隣会館付設授産場」があり、その西に「西成市民館」があります。1955年に今宮市民館が移って西成市民館になったのですが、その後、今の市民館にいつ建て代わったのかは、不明。
1963(昭和38)年
- ベトナム戦争・ケネディ大統領暗殺・「売血400cc=1,000円」
- 1月4日 本田良寛「済生会今宮診療所所長」に就任。初診察
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- 1月5日 篠田自治大臣兼国家公安委員長、釜ヶ崎視察
- 1月5日 釜ヶ崎労働者、相馬六郎「ガリ版新聞・釜ヶ崎」創刊
- 1月20日 大阪市民生局「あいりん寮内に遊戯センター・あいりん文庫」を設置
- 1月23日 大阪府田中副知事、西成労働福祉センターの件で、地元各種団体と懇談
2月 釜ヶ崎で「大阪中華麺販売員医療互助会」済生会今宮診療所と診療契約し、発足
- 2月2日 衆議院予算委員会議事録 5号
- 所得格差
- 3月 大阪社会学会「簡易宿泊所利用者調査」大阪市委託調査
- 3月 釜ヶ崎の劇団「くるま座」10周年記念公演
- 3月 愛隣会館「吉村資金」制度発足
- =「吉村キタノ」氏の寄付金100万円を財源に、最高3口15,000円貸し付け、自立世帯更生資金(住宅の権利金・保証金・生業資金)に活用
- 3月1日 参議院農林水産委員会議事録 14号
- 農業改善普及員 処遇
3月20日 大阪市立みなと宿泊所完成(240人収容、1泊60円)
- 4月 愛隣会館ベビーセンター、同会館附設保育所として許可される
- あいりん小中学校の独立(定員→ベビーセンター 30人、収容力→あいりん小中学校 160人)
- 5月 全国港湾労働組合建設支部西成分会機関紙「大阪城」創刊
- 5月 西成区長と西成保健所長の連名で愛隣地区対策連絡会を開催
- 釜ヶ崎の医療対策について)患者が医療費に困る場合(金がなくて、民生保護法の適用も受けられない場合)は、愛隣会館、労働福祉センター、西成警察、そのほか役所関係の施設や民生委員が、“診療依頼券”なるモノを発行することにした。医療費に困っている患者には、あなたを信用してお貸しします、ということにした(借用書方式の開始)。
- 5月7日 衆議院地方行政委員会議事録 20号
- 警察 戸口調査
- 5月12日 第2次釜ヶ崎暴動 長雨と日曜日で「アブレ労働者」800名投石
- 5月 財団法人西成労働福祉センター新庁舎完成「落成式」(旧西成区東入船町)
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- ▲完成予想図(住吉区苅田の土地と交換で四恩学園が移転した跡地に建設)
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- 5月17日 第3次釜ヶ崎暴動 夜勤求人のトラブルで
- 長雨で求人数が減少し、仕事にあぶれる者が多く、不満が鬱積していた折りから、夜間作業の求人に来た小型トラックを労働者50人位が取り囲み「オレ達にも仕事をさせろ」とわめきながら車をゆさぶったり、叩いたりした。通行人の110番通報で西成署員30人を乗せたパトカー5台が現場にかけつけ、小型トラックは離脱できたが、サイレンの音を聞いて付近から集まった労働者が600人位に膨れ上がり、取材に来た新聞社の車を取り囲んで足でけったり、通りがかりのタクシーに投石するなどの乱暴を始めた。その後、説得により一旦は四散したが、再びい集し始め、通行車両やバスに投石を繰り返し、乗客が負傷する事態も生じた。離合集散を繰り返しながら6日間続いた。
- 6月 西成労働福祉センター、新庁舎で業務開始
- 6月 馬渕生活館第2期工事竣工
- (事業開始 38.8 建設経費 121,332,242円 浪速区馬渕・水崎両町の立ち退き、1期共 施設定員 342世帯)
- 6月3日 衆議院文教委員会議事録 20号
- 教科書無償化
- 6月24日 衆議院大蔵委員会議事録 38号
- 戦時補償
- 6月27日 参議院法務委員会議事録 23号
- 吹田事件 裁判
- 7月1日 参議院本会議議事録 31号
- 失対事業 スラム対策
- 7月18日 大阪府労働部西成分室を撤去
- 8月 大阪自彊館 本館施設RC造化第一期改築工事着工
- 10月10日 西成労働福祉センター、「常傭化支度貸付金貸与(1万円)、常傭化援助支度金(5千円)」の制度を発表
- 11月25日 釜ヶ崎にヤミ手配師組織「近畿労生協会」
- 12月 大阪自彊館 家族寮「向上館」閉鎖
- 12月29日〜1月3日 今宮診療所所長が、防犯コーナーに出張して「年末年始医療対策」を始める。
- 12月31日 年末アブレで1,000名騒ぎ、投石
- 就労のため福祉センター前に集まった約1500人の労働者が、求人が少ないことから騒ぎだし、暴徒化して通りがかりのタクシーや市バス、乗用車のほかパチンコ店などにも投石し、重傷者も出た。また、ガソリンを浸した布きれを道路にまいて放火し、交通を妨害
- 「西成区環境改善地区の社会医学的実態調査」実施。大阪市が社会医学研究会に委託(済生会今宮診療所成人通院患者の社会医学的実態調査)
1964(昭和39)年
- 10月1日 東海道新幹線スタート/10月10日 第18回オリンピック東京大会(〜10月24日)/環状線新今宮駅開設
- 1月1日〜3日間 アブレ労働者を「なにわ寮・自彊館・梅田厚生館」に収容。延べ299名。(朝日新聞)
- 3月 「大阪市西成区愛隣地区(通称釜ヶ崎)における売血の社会医学的実態調査」実施(社会医学研究会に大阪市衛生局委託)
- 3月5日 参議院社会労働委員会議事録 10号
- 港湾労働者の状況
- 4月7日 参議院社会労働委員会議事録 19号
- 麻薬
- 5月20日 大規模ヤミ暴力手配師組織「近畿労生協会」手入れ
- 5月31日 西成署「簡易宿泊所調査」14,071名宿泊と
- 6月2日 参議院社会労働委員会議事録 29号
- 売血問題
- 6月24日 「釜ヶ崎現地報告シンポジウム」
- 大阪府医師会館において、主催朝日新聞厚生文化事業団、後援大阪府・大阪市。過去3ヵ年活動の評価と総合的対策立案のための開催
- 6月27日 衆議院決算委員会議事録 29号
- 売血問題衆議院
- 7月3日 厚生省、全国主要都市簡易旅館街9ヶ所に公営住宅「厚生ホーム」建設計画を発表
- 7月20日 毎日新聞、釜ヶ崎「黄色い血」の売血経験者3,000名と
- 7月 ストーローム宣教師、釜ヶ崎へ
- 8月 「地区簡易宿所利用実態報告」「不良住宅地区整備方式樹立調査」として大阪府建設局実施
- 9月 三角公園に大型テレビ設置
- 9月1日 「演芸慰安の夕べ」開催(簡宿組合20年の歩み)
- 9月10日 西成労働福祉センター「日雇労働者健康保険・日雇労働者失業保険」の業務を開始
- 9月30日 衆議院法務委員会議事録 48号
- 派遣委員報告
- 10月1日 愛隣寮入居開始(月800円〜1,200円)
- 11月 釜ヶ崎人口増加の傾向、ドヤの増改築ブーム
- 12月1日 西成労働福祉センター「自彊館・みなと寮・浪速寮」と協議
- 12月23日 防犯コーナー、釜ヶ崎の子供450名にケーキ
- 12月26日 相馬六郎「新聞釜ヶ崎50号記念批判会」
- 12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」(朝日新聞)
1965(昭和40)年
- 釜ヶ崎の「ガンジー先生死亡」、大正13年より労働者相手の守屋医師
- 2月15日 衆議院決算委員会議事録 4号
- 売血
- 3月 弘済院長柄分院廃止
- 4月 今池生活館竣工。事業開始
- 40.6 家族持ちの低所得者で住宅に困窮する者(定員30世帯)に宿所を提供し、その自立更生を図る。保育所併設 建設費 71,740,830円
- 4月 日雇い労働者の社会保険加入時の住所としてセンター所在地が認められる
- 「1965(昭和40年4月から、管轄の職業安定所(西成労働出張所)と社会保険事務所(玉出)の理解と協力を得て、センターの日雇登録労働者にかぎり、居所の一定しないものについては、センターの所在地を連絡場所として、保険申請の住所に認めてもらう」(西成労働福祉センター・昭和41年度事業報告)
- 5月7日 参議院社会労働委員会議事録 16号
- 港湾労働法案
- 6月 大阪市立今池生活館開所。市立今池生活館保育所開所
- 6月 西成警察署調査(簡易宿泊所214軒―15,851名、日払いアパート 40軒−1,855名、バラック153軒−536名
- 8月20日 慰安の夕べ
- 「西成区萩町公園にて西成警察署後援のもとに慰安の夕べという名称にて松竹演芸部の優秀の芸人数名来たり、その熱演の演芸ぶりに数千の労務者等の観賞あり、−組合としては今や年中行事の最大の一つになりました」(簡宿組合20年の歩み)
- 9月 1970年万国博覧会の日本開催が内定
- 9月 西成消防署調査「建築法違反のドヤ58軒」
- 11月 ドヤ街不景気風、労働者激減
- 11月 大阪自彊館本館敷地買収後3年間に及ぶ寮舎改築工事完了
- 原資1億6千万円 老朽施設改善補助、日本自転車振興会助成、お年玉年賀はがき寄付金、共同募金配分金、社会事業振興会、国民年金、大阪府振興基金、大阪市からの借入金、篤志家寄付金
- 12月 大阪自彊館、大阪府の越年対策として200人収容の要請を受ける
- 12月22日 衆議院法務委員会議事録 2号
- 新東洋硝子大阪工場 労働争議
- 12月25日 衆議院法務委員会議事録 5号
- 新東洋硝子大阪工場 労働争議 2
- 12月28日 参議院社会労働委員会議事録 2号
- 新東洋硝子大阪工場 労働争議 3
- 12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」
- 12月30日 西成署「泥酔保護−2,054、家出人保護−125、行旅病人−1,975、変死人−84名」と発表
- 40年度「地区における人口と生活及び施設利用実態調査」大阪社会学研究会へ大阪市民政局委託
40年度「大阪市西成区環境改善地区の社会医学的実態調査」(済生会今宮診療所通院患者−1,結核、性病による届け出患者及び入院、保護、依頼患者における動態について。2,精神病、精神神経症及び人格異常について−)社会医学研究会に市民政局委託
1966(昭和41)年
- 南海電鉄新今宮駅設置
- 1月6日 早川労働大臣釜ヶ崎視察「総合福祉施設をつくる」と
- 1月30日 西成署調査
- (簡易宿泊所225軒―12,855名=内訳 男−10,795、女−1,446、子供−614。 日払いアパート275軒、旅館55、バラック150軒、共同住宅 55軒)
- 2月 愛隣会館附設授産場跡を改修、あいりん保育園として発足
- 改修費 100万円 乳児 50人 運営主体は西成愛隣会。託児料給食費計100円(日) 徴収
- 2月 西成市民館付設保育所を東田保育所と改称分離
- 2月3日 参議院社会労働委員会議事録 4号
- 新東洋硝子大阪工場 労働争議 4
- 2月8日 「スラム街解消に取り組む」閣議決定
- 2月25日 衆議院本会議議事録 19号
- 代表質問
- 2月28日 衆議院予算委員会第三分科会議事録 4号
- 警察官 拳銃の小型化
- 3月1日 大阪市立中央更生相談所設立
- (旧梅田厚生館と更生施設豊崎寮、医療保護施設弘済院長柄分院を統合。大淀区長柄中通2-9へ移転)
- 3月15日 第4次釜ヶ崎暴動(坂本酒店店員と労働者トラブルで)
- 立ち呑み屋で酒代の支払を巡って店員と労働者が喧嘩となり、関係者を西成警察署に同行したことから、労働者約500人が同署に押しかけ、酔って煽る一部の労働者の煽動で同署玄関に投石するなどの不法行為を行った。
- 4月 みなと宿泊所 使用料改正。現行1人1泊60円を1人1泊70円に改正
- 4月 大阪自彊館 本館寮舎 防火設備完成
- 非難袋、縄梯子、火災報知機、消火栓、消火器、非常用水槽(中庭貯水槽48t)の配備と設置
- 4月1日 阿倍野公共職業安定所西成労働出張所を、港湾労働法施行に伴い「大阪港労働公共職業安定所西成出張所」と名称変更
- 5月6日 警視庁調査
- あいりん地区=10,148世帯、47,518名(男−33,212、女−14,306)、未登録人口約2万。簡易宿泊所−256軒、12,855名。
山谷地区=8,180世帯、35,489名(男−22,290、女−13,199)、未登録人口約1万人。簡易宿泊所−189軒、12,700名。
- 5月10日 衆議院決算委員会議事録 25号
- 売血問題
- 5月28日 第5次釜ヶ崎暴動(ニコニコ碁会所火事。消防車遅いと)
- 火事現場に集まった約2500人の群衆が「消防車が遅い」などという一部煽動者の言葉に刺激され、次第に暴徒化し、パチンコ店や食堂、民家、派出所などや通行車両、電車などに放火、投石し、警察官の拳銃を奪うなどの不法行為に及び、新聞社のカメラマンらが重傷を負った。
- 5月31日 衆議院地方行政委員会議事録 37号
- 横須賀のデモ
- 5月31日 参議院石炭対策特別委員会議事録 14号
- 産炭地 釜ヶ崎
- 6月 大阪市立大学釜ヶ崎研究会調査結果発表
- 6月2日 参議院文教委員会議事録 18号
- 国立劇場 歌舞伎
- 6月7日 衆議院法務委員会議事録 43号
- 執行吏制度改正問題 立ち会い屋
- 6月13日 「どんぞこのこども−釜ヶ崎の徳風学校記」 碓井隆次著 教育タイムス社 刊行
- 1968年3月1日第4版(普及版)刊行
- 6月15日 「釜ヶ崎」を「あいりん地区」に改称
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- ▲市更相(平成8年版事業概要)。
事業概要には「あいりん地区周辺要図」が掲載されていますが、上の地図に見られる地域囲み線は後で書き込んだもので、掲載されている原図にはありません。
- 大阪府・大阪府警察本部・本市による「三者協議会」が設置され、各役割分担のもとに対策をたてるとともに、「あいりん」の呼称を使用することが決められました。
- 警察の資料である「あいりん地区の実態」(昭和57年3月 大阪府警防犯部/西成警察署)には、『昭和36年8月1日地域内において発生した交通事故に端を発したいわゆる釜ケ崎騒動が起り、これを契機に種々の地域対策が講ぜられ区域を阿倍野区境まで広げて、昭和 41年6月から「あいりん地区」と呼称されるようになつた。』と書かれています。
- 6月21日 第6次釜ヶ崎暴動(パチンコ店「第一ホール」で玉の出が悪いと)
- パチンコ店での店員と労働者との喧嘩がきっかけとなり、約1500人がい集、その後次第に暴徒化して、パチンコ店に投石し、シャッターを壊すなどして暴れ、取材のカメラマンや警察官ら九人が負傷し、南海電車も一時運行を取り止め
- 6月27日 参議院商工委員会議事録 33号
- 進歩と調和
- 7月 国鉄関西本線、南海電鉄天王寺線、同阪堺線に防護柵
- 7月 釜ヶ崎で労働司祭になろうと考えていたマイケル・ギャラガー 1ヶ月のドヤ生活・日雇労働
- 「爆弾と銀杏」(講談社・1970年刊)
- ここがよそと違う点といえば、それはただ一つ、萩の茶屋の南海線の線路に近づくと、街の雑踏がいっそう激しくなり、それもほとんど男ばかりの、普通、ボタンをかけないままのクレープシャツ、腹巻きをつけ、下駄ばき姿の労働者たちばかりになったことであった。作業シャツ、作業ズボン、それに地下足袋姿の者もたくさんいた。私の感じでは、私たちに注意を払った者は誰もいなかった。人ごみが人ごみであったから、私たちが向こうから来る姿を見たり、私たちが通り過ぎてから、ふりかえって見ることなどできなかった。
- 一軒で満員だからと断られた末に、やっと南海電鉄の高架線沿いの往来に面した宿で、一人前200
円ずつの二人用の部屋を借りた。−
- その部屋は二畳の間で、シーツをふとんカバーに使っていたが、もう大分使い古したものらしい点は別として、手入れも充分にゆきとどいていた。−私たちが外人でも何ら興味を持たず、好奇の目で見ることもなかった。前払いで宿泊料を払いさえすれば、それ以上何の説明もいらなかった。−
- 南海電車沿いの通りを歩いていった。−夜にはなかった静けさが、明け方になってやっとやってきた。街に人影がなかったからではない。とんでもない。線路を左にして労働市場のほうへ歩いて行くと、労務者が、物もいわず、大部分は一人で、稀に二人組で、足を引きずりながら四方八方から集まってくる姿が見えた。仕事場ではく地下足袋やら、なけなしのもち物の入った風呂敷包みや新聞をもっている者が多かった。もう、叫びわめいたり、浮かれ騒ぐ声、前夜のやかましい親睦の声などは全然消えていた。
- アンコを手配する組のトラックやバスが駐車している大通りまで、まだ150
メートルほどもあろうという、南海線に近いこの一角で、とうとうドヤも絶え、小さなほこりっぽい公園のそばに密集した小屋がそれにとって代わった。この小屋には家族連れの世帯が住んでいた。釜ヶ崎の住民は大半は世帯もちではなかったから、これは比較的珍しいことであった。−
- 左手には、南海電鉄の線路がずっと上がり勾配になっていて、私たちが四車線大通りに出たところでは、数メートルの高さに達し、その大通りと、平行して走っている環状線の両方と交差していた。−
- 。
- 労務者は、まだ数は多くはなかったが、トラックがあとづけになっている歩道や道端に集まりはじめていた。地下道の中や歩道に、食い物屋の屋台が店を広げはじめた。ミルク、飲み物、パンを売る店、汁、うどんなどもっと腹にたまるようなものを売る店など。こうした屋台の店主はふつう女性で、中年以上の年配であったが、ときには、もっと年の若い婦人や娘さんであることもあった。女性といえばこの人たちだけで、この女性たちがいなければ、全く男性だけの世界になる。−
- 『宝ホテルは、ドヤとしてはかなり大きいほうであった。表は二階建てにすぎなかったが、うしろ側に六階建ての建て増しがされていた。そこがいわゆる「個室」といっているところであった。そこに行くには、広い玄関でスリッパにかえてから、左側に廊下をまわっていかなければならなかった。この狭い廊下には、両側に三畳の間が五部屋ほどあった。あとでわかったことだが、その部屋にはそれぞれ世帯もちがはいっていた。
- 個室という代物は、ふつう一冊の雑誌、一箱の煙草、小さいカバンといったもの以外は、全く何もない殺風景なものであった。ふりの客はもち物を一切合切身から離さずにもち歩かなければならなかったのである。それとは対照的に、廊下の両側の部屋には、枕、ふとん、急須などの台所用具といった、さまざまな家庭用品がごたごたと入っていた。建て増しをした棟に入る前に、小さな調理用のガスレンジが、廊下の端の壁に備えられているのが目に入った。
- 建て増しの棟は六階だったが、その一、二階は同じ造りになっていて、二階の各部屋の前後に、狭いバルコニーが通っていた。それは、私が刑務所映画で目にした造りを思い出させるものであった。
-
- 部屋から眺められるのは新今宮駅から出てすぐの、環状線の鉄のガードだったのである。頭をぶっつけないように、ちょっと頭をすくめて部屋に入ってすぐ気づいたことだが、この眺めには音響効果も加わっていたのである。−環状線の電車ばかりでなく、また別の鉄道が、それも私の部屋から数ヤードと離れていないところを通っていた。−小さな部屋―間口六尺、奥行きせいぜい六尺ちょっと、立つとつっかえる天井―の戸を開け放しておいても、戸からも窓からもそよとも風は入ってこない。−「新室、お一人様用、金一六〇円也」』
- 7月1日 港湾労働法 施行
- 六大港で働く総ての労働者(常用、日雇とわず)は、職業安定所に登録し、港湾労働者手帳(通称青手帳)の発行を受け、職安の紹介を経て就労することになる。なお、この制度は通常の保険料をプールして失業給付金を支払う失業保険と異なり、荷主からトン数に応じて雇用調整金を徴収し、求人数が登録求職者数を下回った場合に雇用調整手当を支給するもの。
- センターの寄り場から就労する港湾労働者は、少ない時で数百名、多い時は千数百名といわれていましたが、これらの労働者は、職安を通さず、毎早朝各荷役会社が迎えに来る輸送バスに乗って直接現場に行っていました。しかし、7
月1日からは職安に出頭し、職安を経由して雇用されなければならなくなりました。
- その転換はうまくいかなかったようです。電車賃やバス代までつかって、朝早く港の職安に出かける労働者はいたって少なく、正式に届け出されたものは皆無に近いという状態になりました。港における労働力不足の現実には勝てず、
7月5
日から法秩序にそわない募集が行なわれ、従来の慣行通りの求人体制となりました。
- 7月5日 大阪港安定所アブレで1,000名騒ぐ
- 7月11日 第7次釜ヶ崎暴動(雨の中求人者とトラブル)
- 7月15日 「西成に残酷病院」大阪府衛生部医務課が実態調査
- 7月26日 参議院社会労働委員会議事録 2号
- 港湾労働関係 付録 夫役と労災認定
- 7月29日 衆議院運輸委員会議事録 2号
- 港湾労働法関連
- 8月20日 第8次釜ヶ崎暴動(早朝求人トラブルで)
- 8月26日 第9次釜ヶ崎暴動(腐ったスイカの件で)
- 9月 市立中央更生相談所附属病院業務開始
- 9月 大阪府・市 愛隣地区総合対策基本計画を決定
- (部分紹介)1、就労の安定化(1) 常用化の促進 日雇労働者の常用化を図るため健全な求人先の開拓、技能労働者の就労あっせん、港湾労働者への切替え、就労身元保障の代行制度の実施、就労支度金の貸付等を実施する。(2) 就労あっせん場所の建設、移転、整備
現在の尼崎平野線に沿う路上あっせんは、常に問題が発生し、好ましくないので、地区内に有蓋の就労あっせん場所を建設、移転する。(娯楽施設、理髪室、及び浴室など厚生施設を併設)
(3) 港湾労働者用宿泊施設の設置 港頭、愛隣地区に単身労働者用計800人分、世帯用500世帯分の宿泊施設新設方を国に要望する。
- 9月2日 鈴木厚生大臣「山谷・釜ヶ崎地区の医療を無料に」
- 9月26日 第10次釜ヶ崎暴動(4日続きの長雨で「仕事よこせ」と)
- 10月11日 参議院運輸委員会議事録 閉2号
- 港湾荷役に関する件
10月16日 第11次釜ヶ崎暴動(通行中の車両に投石)
- 11月8日 衆議院大蔵委員会議事録 9号
- 独禁法
- 11月18日 山手労働大臣「あいりん地区にマンモス職安作る」と
- 11月 釜ヶ崎に防犯テレビカメラ2台設置
- 12月27日 釜ヶ崎労働者激減。約三分の一が飯場で越年
- 12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」
1967(昭和42)年
- イタイイタイ病・阿賀野川水銀中毒事件/四日市喘息患者 大気汚染公害訴訟を起こす/釜ヶ崎出身という歌手、三音英次「釜ヶ崎人情」でデビュー/釜ヶ崎好景気で、土工1,500円/大阪府労働部「大阪港労働者をバス輸送」
- 3月18日 衆議院社会労働委員会議事録 2号
- 労働大臣所信 関連予算概要
- 3月23日 参議院社会労働委員会議事録 2号
- 労働大臣所信 関連予算概要
- 3月29日 衆議院建設委員会議事録 3号
- 改良住宅
- 4月 センター寄場に「洗濯場、手洗場」設置
- 4月1日 大阪自彊館後援会 発足
- 会長 左藤 行子(左藤 義詮前知事夫人)・ 副会長 中馬 富美子(中馬 馨前市長夫人)・ 副会長 小田原 みつ代(久保田鉄工且ミ長、大阪商工会議所会頭 小田原 大造氏夫人)・ 監事 落合 愛子(鐘紡取締役 落合 九一氏夫人)
- 4月24日 大阪府労働部にあいりん対策として「職業対策課」設置
- 5月 釜ヶ崎出身という歌手、高石友也、三角公園で歌う
- 5月22日 参議院予算委員会第四分科会議事録 1号
- 労働省予算概要
- 5月23日 参議院決算委員会議事録 10号
- 労働対策
- 6月2日 第12次釜ヶ崎暴動(丸福食堂で70円の酒代でトラブル。千成ホテルほかセンター周辺のドヤに投石)
- 飲食代金が70円不足し、店主が客の頭をこづいたりしたことから、まわりにいた労働者がいきりたち、店主らを殴り、ビール瓶を投げたりしたが、パトカーが駆けつけ、一旦騒ぎは収まった。しかし、その後、再び労働者が集まり始め、「店を燃やせ」などとわめきながら同店に向かって石やビール瓶を投げつけ、店の窓ガラスや店内の食器類のほとんどを壊し、店主に負傷させるなどし、騒ぎがますます広がり、約3000人の群衆が集まり、通行車両や商店、民家、警察官に投石
- 6月6日 衆議院社会労働委員会議事録 16号
- 6月暴動 万博の影響は
- 6月8日 衆議院内閣委員会議事録 16号
- 港湾労働 直接雇用
- 6月20日 衆議院法務委員会議事録 23号
- 当たり屋
- 6月22日 参議院社会労働委員会議事録 17号
- 雇用促進事業団 予算
- 6月27日 大阪市民政局に「あいりん地区担当主幹」を置く
- 6月 南海電鉄阪堺・天王寺線に「投石防止ネット」完成
- 7月1日 大阪自彊館 救護施設「白雲寮」開設
- 更生施設「自彊寮」から分離(70人)。「在来の更生施設は健康者の短期保護が主体であったが、社会のニードに応じて結核後保護や一般病弱者、さらにアル中患者の後保護などに変更されたので、事業内容の検討を要することとなり、新規に大阪市の要請に応じて−開設、和光寮は定員40名に減少し、基準の改正に合致した」(大阪自彊館だより・第1号・理事長現況報告)
- 7月19日 参議院石炭対策特別委員会議事録 11号
- 産炭地 教育
- 7月25日 大阪府労働部、大阪駅前に「万国博関係労働公共職業安定所」を開設
- 11月10日 参議院社会労働委員会議事録 閉3号
- 派遣委員報告
- 12月27日 西成署調査
- =日雇労働者(11,585名−女1,343)、泥酔保護−3,375、行旅病人−1,668、変死49、精神異常−73名)
- 12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」
- 「総合センター」用地をめぐって
- 昭和42年頃には綜合センターの用地をどこにするかでガヤガヤ言っていたときで、飛田が地代が安いから、いや交通の便が悪い。それなら新世界の横のバス車庫では、えらいこっちゃ 地元の人の反対運動がある。へー珍珍堂のところ、顔役が入って地代がポーンと上がりよったで。と言っていた時代。(労務者渡世・第27号・1978年8月1日発行・読者の声欄/投稿者は本田良寛氏=済生会今宮診療所の先生、医療センター初代院長)
1968(昭和43)年
- 1月27日 大阪府労働部 港湾登録労働者のバス輸送開始
- 1月28日 大阪港労働者輸送バス「未登録労働者」も乗せる
- センター仲介で雇用する未登録労働者の輸送も行うこととなる。バス輸送した労働者については、港職安で紹介した形式をとる事によって遵法体制を整えた。
- 2月29日 参議院社会労働委員会議事録 2号
- 厚生省予算概要
- 3月 大阪市環境改善地区総合実態調査
- 3月13日 衆議院予算委員会第三分科会議事録 2号
- 山谷 釜ヶ崎 対策概要
- 3月14日 衆議院予算委員会第三分科会議事録 3号
- 生活保護 失対 雇用促進事業団
- 3月16日 衆議院予算委員会議事録 17号
- 予算審査報告
- 4月 大阪社会医療センター建設着工
- 4月10日 参議院予算委員会第三分科会議事録 1号
- 貧困居住 万博交通網整備
- 4月15日 参議院予算委員会議事録 20号
- 不良住宅改良
- 4月18日 参議院大蔵委員会議事録 16号
- 基礎控除
- 5月9日 参議院商工委員会議事録 17号
- 万博工事の影響
- 「大体関連事業でピークのときには3
万6千で、会場関係で約8千人ということで、大体5万人余りの新規の労務需要があるわけでございます。この新規の労務需要の確保というのは、―東京の地域と違いまして、労働供給のエリアがやや大阪は関東と比べて少ない関係で、非常にむずかしいとは思っておりますが、
- 一つは大阪府下におきまして、万博専門のための職業安定所をつくりまして、そこで広域職業紹介をとにかく展開をしていただく。この広域職業紹介といたしまして、
24の府県に労務の供出目標というのをつくってもらいまして、それからひとつ大阪の万博に労務者の供給をはかるというふうなことで、現在はその
24の府県に労務協力員というのが設置されてございます。
- ―その他、労務のそういった他府県からの確保のためには、住宅の問題がありますので、雇用促進事業団の資金によりまして、
43、44年にわたり、一万戸の簡易住宅を建設するというふうな考え方を現在とっております。―その一万戸の簡易住宅をどの地域にどういうふうな形でつくるかということは、―おかしな形でつくりますればその地域に定着してしまうおそれもある。かといって、あまりこれを分散いたしますれば、労務管理上にも非常に問題が起きる。また建設途上においていろいろな社会的な問題も発生するというふうな点もございまして、現在大阪府の労働部を中心にいたしまして、どういう形においてこの一万戸の住宅をどういうふうに分散的につくることが適当であるかということを検討しておる段階でございます(橋本徳男説明員)。」
- 5月29日 大阪府労働部「大阪西成簡易宿泊所・南山寮」新設
- 大阪自彊館敷地内で経営を委託。定員264人。宿泊料は自彊館と均衡をとって1泊125円、食事は朝食70円、夕食120円。8人部屋
- 6月21日 西成保健所「奔馬性結核・釜ヶ崎に流行」と発表
- 8月2日 衆議院本会議議事録 2号
- 故議員和爾俊二郎君に対する追悼演説
- 8月21日 大阪府公安委員会「釜ヶ崎デモ」許可
- 8月 更生施設淀川寮開設
- 10月 「ここに光を求めて−忘れられた釜ヶ崎の子等と共に」 永田道正著 文化出版社 刊行
- 10月 西成区史 西成区市域編入40周年記念事業委員会 刊
- 西成区史付録年表/西成区史 なお、39頁「あいりん地区の呼称」の部分は認識に誤りがあるので、当ホームページ「基礎知識−呼称について」を確認してください。
- 12月2日 大阪自彊館本館施設全面改築完成式
- <57年間の利用者20万人、宿泊延人数760万人>
- 12月18日 参議院決算委員会議事録 2号
- 万博工事の影響
- 12月28日 大阪府・市「愛隣地区年末特別対策」実施(朝日新聞)
- 12月30日 西成警察署調査「今冬 22,329名が釜ヶ崎で越年」(朝日新聞)
- 西成労働福祉センター、年末宿泊所斡旋324名
- 12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」
- 社会保険が浸透しない理由(西成労働福祉センター・昭和43年度事業報告・43年4月1日から44年3月31日)
- 『建設方面の事業主になると、その90%は健保、失保の印紙貼付は期待できず、大型求人バスを乗り入れる求人者であっても、適法に保険印紙購入の手続きもしていない有様であるから、20
人未満を雇い入れる零細な土建求人者にあっては、印紙の購入、貼付など考えていないといっても過言ではない。これがため、日雇労働者がアブレと病気にそなえて自発的に厚生部へ保険手続きを申し込んで、それぞれの手帳を持つことになっても、保険受給資格の必要枚数28
枚は土建関係の工事現場では貼ることが』できない。
- 『失業保険は、労働福祉センターの寄場から、西成労働出張所の寄場へ移して、正規なルートによって就労することを計る一策とも考えて、日雇失業保険手帳の申し込みとあわせて西成労働出張所の求職申し込みをさせ、出張所へ登録後に求職票と手帳を交付することにした。この結果、西成出張所へ日々出頭して同職安機関を通じて就労する者は―多数にのぼっているが、反面ではセンターの自由集合と異なって、堅苦しい時間的求職出頭を嫌うところから、再びセンターへ舞い戻った求職者の数も多いことと思う。
- 職安に移行しない日雇いの失業保険受給については、受給資格の28枚の貼付数があっても、職安の定刻午前 時(センター周辺では求職活動盛んな時間帯)までに求職出頭せねばならぬ規則があって、保険受給資格の認定は彼等にとっては、絵に描いた餅になっている。』
1969(昭和44)年
- 1月 大阪社会学研究会「簡易宿泊所調査」
- 1月18日 愛隣総合センター起工式
- 戦災復興土地区画整理事業萩之茶屋工区の設計変更認可をうけて。
-
- 戦災復興土地区画整理事業萩之茶屋工区の進行状況です。
-
- ▲国勢調査による人口の推移。万博準備に向けて人口が急増しています。
- 2月4日 衆議院社会労働委員会議事録 1号
- 労働省予算概要
- 2月18日 参議院社会労働委員会議事録 2号
- 労働省予算概要
- 2月26日 衆議院建設委員会議事録 5号
- 不良住宅問題
- 2月26日 衆議院予算委員会第一分科会議事録 3号
- 同和地区対策
- 4月24日 参議院建設委員会議事録 13号
- 改良住宅
- 5月 全港湾建設支部西成分会結成
- 5月6日 参議院文教委員会議事録 13号
- 教職員加配
- 6月1日 大阪市建築局戦後初の「簡易宿泊所立ち入り検査」を実施
- 7月20日 大阪自彊館だより 第2号 収容定員総数=708名
- 1)更生施設 自彊寮 定員250名(中央更生相談所より送致を受ける) 2)救護施設 白雲寮 定員70名(中央更生相談所および福祉事務所から送致を受ける) 3)更生保護会 和光寮 定員40名(大阪保護観察所の委託) 4)宿泊保護 向上寮 定員84名(社会福祉事業法第2種、上記3施設で修養に励み心身共に回復し国家の法による保護を離れて自活できる人達が更に社会生活に自信と勇気を養うために進んで自己負担で利用する施設。 5)簡易宿泊所 南山寮 定員264名(雇用促進事業団の委託で経営。日雇労務者を宿泊させ、食堂、診療所等の施設を利用させる。公共職業安定所に求職を申し込み常時その紹介によって就労しようとする状態にある失業保険の日雇労働被保険者、および向上寮の更生者、又は西成労働福祉センターに登録している日雇労働者で所用の経費を自己負担するもの。 6)無料労働紹介所(職業安定法による労働省許可) 7)館内診療所(生活保護法、健康保険法、結核予防法による在寮者および職員の診療と健康管理)−大阪自彊館ご案内より部分紹介
- 10月17日 あいりん「ちびっ子広場」開設
- 12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」
- 12月 西成署調査
- =泥酔保護−2,648、行旅病人−1,199、変死人90、釜ヶ崎人口44,000名中18,000名が労働者、簡易宿泊所-227、一般アパート−279、旅館−47、日払いアパート42、バラック-27。
- 1955年から1969年までの釜ヶ崎就労動向概要
- 『昭和30年代後半、所得倍増計画以降から建設業における産業基盤の設備投資ブームに乗り、就労数は年々増加している。朝鮮戦争特需や貿易の活発化による、輸出入物資の増加は港湾・沿岸荷役の就労数を激増させ、東京オリンピックが開催された昭和39年は全就労数の45%を占め、昭和30年代のピークを形成した。
- 昭和40年代にはいると昭和41年の港湾労働法の施行で、港湾荷役の合理化、近代化が進み港湾荷役への日雇労働者の比率は年々低下した。(略)
- しかし、一方、堺泉北臨海工業地帯の造成がすすむ中で、鉄鋼・化学・造船等の製造業における就労数が増え、昭和>45年には全就労数の40.2%を占めるまでになった。民間の大型設備投資ブームや万博関連工事等で昭和44年の就労数は40年代前半のピークとなった。』西成労働福祉センターの事業報告(82年20周年特集号)
-
- ▲愛隣総合センター開所前の青空求人。南海本線から西、花園北交差点まで。
- 万博及び関連工事終了後の失業問題
- 「万国博覧会、45年3月15日ですか、開かれると思いますが、それまでに大体の仕事が終わって大量の失業者が出るんではないか、こう予想するわけでございますけれども、これに対してはどのような考えで対処されようとなさっているか (昭和44年07月衆議院・社会労働委員会大橋(敏)委員議員)」と、その後が心配されていましたが、
- 動員を考え、実施した政府は、「万博関係の労働者は技能労働者が多く、きわめて優秀である。その数、最盛期およそ三万人。これは外部を入れると数がふえますが、大体地域内。でありますから、私は、これが済みましても大量の失業者などはあまり出ないように努力もいたしますし、こういう万博で優秀な技能を発揮した人は、その後においてもわりあい引っぱりだこになるんじゃないか。また、それが引っぱりだこにならないといたしましても、失業などのないように、労働省で職業紹介その他万般、いまから御注意をいただきましたが、準備をして万遺漏なきを期したい、こう思っております(原国務大臣)。」という楽観論しか示していません。
- 1969年当時の釜ヶ崎地図
-
- ▲西入船町に「愛隣総合センター(工事中)」とある。その下に「西成労働福祉センター」(現在の三徳寮、元は「四恩学園」所在地)。その右に「今宮市営住宅」(現在の夜間宿所)。東入船町の東阪堺線を挟んで「太子地蔵」とあるが、現在はない。東田町の下に「市立愛隣会館」「愛隣学園」。「仏現寺」もまだ存在、公園になっていない。
- 「市営今宮住宅」は、東入船町22
に所在。(昭和4年建設で78
戸、中層耐火構造。70年当時家賃150〜360円と記録されています(大阪市営住宅一覧。1971
年版には今宮住宅の記載はありません)。昭和初期に建てられた、日東町や下寺町の市営住宅と同じ外観・構造で、それらの住宅同様、戦災を免れた建物ということです。釜ヶ崎は戦災で丸焼けといっても、全ての建造物が焼失したのではなく、耐火構造の建物などは残ったということの証し。
- 地図右側、「山王町二丁目」の下に、「市設山王住宅」(山王町2-60)とあります。これは1946(昭和21)年に建設されたもので
91戸。家賃140〜200円。木造の共同住宅。
-
- ▲長らくセンターに勤めておられた上畑さんが、西成労働福祉センター屋上から撮影された何枚かの写真をつなげたもの
- 右端奥が「萩之茶屋小学校(校庭拡張工事中)。手前の屋上は、撮影者が立っている西成労働福祉センター屋上。中央左手は「市立今宮住宅」その建物の左上奥にかすかに見えるのは「通天閣」。ようするに、西成労働福祉センター屋上から南海本線高架方向にはじまり新今宮駅方向までをぐるりと眺めたことになる。上の地図では「西成労働福祉センター」と表記されている「ン」の字あたりに立って撮影したものと思われる。