59-衆-本会議-2号 昭和43年08月02日
昭和四十三年八月二日(金曜日)
○本日の会議に付した案件
實川清之君の故議員森清君に対する追悼演説
中村重光君の故議員馬場元治君に対する追悼演
説
稲富稜人君の故議員山崎巖君に対する追悼演説
吉田泰造君の故議員和爾俊二郎君に対する追悼
演説
午後二時五分開議
○議長(石井光次郎君) この際、弔意を表するため、吉田泰造君から発言を求められております。これを許します。吉田泰造君。
〔吉田泰造君登壇〕
○吉田泰造君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員和爾俊二郎先生は、去る七月十二日逝去されました。まことに哀悼にたえません。
私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで追悼のことばを申し述べたいと存じます。(拍手)
和爾先生は、明治三十五年八月大阪市に生まれ、大阪府立市岡中学校から第四高等学校を経て、東京帝国大学法学部に学ばれました。昭和三年卒業とともに大阪市に勤務され、自来三十五年の長きにわたって市役所に在職し、大産業都市大阪の発展と市民の福祉増進とにひたすら奮闘されました。
戦後の大阪市は、申すまでもなく、戦災によってそのほとんどが焦土と化し、全市民の生活が混乱と窮乏におちいっておりました。先生は、このようなきびしい状況のもとで作業部長、教育部長、民生局長等の要職を歴任し、この間戦災校舎の復旧、六・三制義務教育の実施、あるいは現在の福祉事務所の前身である民生安定所の創設、また市営住宅の増設等に、なみなみならぬ決意のもとに文字どおり心血を注ぎ、もって戦後の教育基盤の整備に、また、市民生活の安定と福祉向上に大きな貢献をいたされたのであります。
しかるに、昭和二十五年九月大阪市を襲ったジェーン台風は、営々として復興への歩みを続けていた市民に大きな打撃を与えたのであります。先生は、直ちに被害地に急行し、濁流におののく市民の救援と激励に身を挺し、引き続き被災者の救済に当たられました。この不眠不休の活躍ぶりに市民は心から感謝し、いまなおこれを語りぐさとしているのであります。(拍手)先生は、この苦い経験から災害防止のために万全の対策を講じられたのでありまして、その後幾たびかの台風に際し、風水害が最小限に食いとめられましたのも先生の力に負うところが大きく、その功労は各方面から高く評価されているのであります。
昭和二十六年五月、先生はその力量を認められて助役に任命され、以来三期十二年にわたり、市長を助けて卓越せる手腕を発揮されたのであります。
大阪の発展はすなわちわが国の発展であるとの信念から、隣接町村の合併をなし遂げ、また海外都市との提携をはかるなど、大産業都市建設のために尽瘁されました。また、「蚊とハエをなくする運動」、「町を静かにする運動」を強力に展開し、市民組織としての赤十字奉仕団を育成強化し、また、昭和三十六年の騒動によって大きな社会問題となりました釜ケ崎に一連の福祉施設を建設し、さらに、産業の振興に伴って激しくなった地盤沈下の対策を樹立するなど、その業績は枚挙にいとまがないのであります。
昭和三十七年十月、三十年余にわたって大阪に尽くされた功績により、地方自治功労者として藍綬褒章を受けられました。大阪に生まれ、大阪を愛してやまなかった、きっすいの浪速っ子和爾先生にとって、これこそ至上の栄誉と感ぜられたことでありましょう。(拍手)
昭和三十八年二月、大阪市を退かれた先生は、長年にわたって胸に描いていた地方自治の伸長と福祉社会の実現をはかるため政界に入る決意を固められ、同年十一月、第三十回衆議院議員総選挙が行なわれますや自由民主党から立候補し、選挙民の熱烈な信望を集めて、みごと全国最高の得票をもって当選されたのであります。(拍手)
本院議員としての和爾先生は、念願の地方行政委員会にあって、その手腕力量を遺憾なく発揮されました。申すまでもなく、地方行政が当面する最大の問題の一つは、全国的な規模で都市化現象が進行し、都市に過密と過大が、農村に過疎が顕在化しつつあることであります。なかんずく、人口の集中、交通量の増大、あるいはこれから生ずる産業基盤及び生活環境の悪化は、大都市の機能に一そう重圧を加えております。先生はこれらの懸案に真剣に取り組んでこられましたが、大都市行政に直接携わった豊富な経験と知識を有する先生の声は、まさに真実の声として人に訴えるものがあり、その貴重な意見の数々は、委員会審議にあたって欠かせないものがありました。また、党内の都市政策調査会委員としても、新しい都市政策を打ち出すために尽力しておられました。都市行政の改革と地方財政の確立には幾多の困難がありますが、先生は労を惜しまず献身し、着々として成果をあげられたのでありまして、私たちのひとしく敬服してやまなかったところであります。
さらに、自由民主党において、商工部会副会長として中小企業の近代化の促進に心を砕き、また、万国博覧会対策特別委員会委員として、来たるべき万国博を成功に導くために苦心画策しておられました。
そのほか、インドの聖地ブッダガヤに建立する日本寺の建設委員、日独青少年交歓団の顧問あるいは日韓友和協会会長として各地を歴訪し、諸外国との親善、文化交流に尽力されたことも、先生の幅広い活躍を物語るものとして忘れられない事績であります。(拍手)
かくて、和爾先生は、本院議員に当選すること二回、在職期間は四年九カ月でありましたが、その間、国会議員の本務に精励し、著しい功績を残されたのであります。
思うに、和爾先生は、まことに温厚で、人情に厚く、心から親しみ信じ合うことのできる庶民的な方でありました。しかし、その反面、豪毅にして屈せず、しかも、てんたんとして悠揚迫らぬものがありました。
先生は、漢学者の家に生まれ、漢学の素養が豊かで漢詩をよくされましたけれども、そこには常に崇高な人間愛があふれておりました。先年九十五歳の天寿を全うされた母堂に対して、最後まで心からの孝養を尽くされましたことは、広く人の知るところでありますが、先生がだれからも敬愛せられ、幼児にさえ「ワニのオッチャン」と親しまれていたのも、この人間愛がひとり家庭のみならず、あまねく万人の心に及んでいたからでありましよう。(拍手)
先生は、またすぐれたスポーツマンでありました。学生時代には十種競技の選手として活躍され、生涯を通じてスポーツに親しみ、そしてあらゆるスポーツを愛好されました。先生が終始不言実行を座右の銘として行動されましたのも、スポーツ精神をそのまま体現しておられたからにほかならないと存じます。
和爾先生は、お年六十五歳、ひたすら世のため人のために働き通されて、ついに生命のともしびを燃やし尽くされたのであります。政治家としていよいよ識見を高め、円熟の境地に達しながら、雄図むなしくなった先生を思うとき、哀惜の情ますます深まるのを覚えるのであります。
いまや、わが国は社会構造の激しい流動期に直面し、解決すべき困難な問題が山積しております。このときにあたり、地方行政に通暁した政治家和爾俊二郎先生を失いましたことは、惜しみても余りあるものがあり、本院にとりましても、国家にとりましても、大きな損失であると申さなければなりません。(拍手)
ここに、和爾先生の長逝に対し、その功をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)
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