釜ヶ崎総合年表−1970年代


1970(昭和45)年

万博関連求人・就労数(西成労働福祉センター・昭和44年度事業報告)
職業安定機関が取り扱った万博関係求人の充足状況(関連工事含む・就労延べ日数不明)
送出県 充 足 数 送出県 充 足 数 送出県 充 足 数
42・43年度 44年度 42・43年度 44年度 42・43年度 44年度
北海道 2,040 570 2,610 石川 317 158 475 岡山 70 24 94
青森 1,237 775 2,012 福井 118 96 214 広島 53 69 122
岩手 189 350 539 山梨 1 24 25 山口 150 96 246
宮城 98 133 231 長野 19 101 120 徳島 218 268 486
秋田 431 184 615 岐阜 10 15 25 香川 341 74 415
山形 245 296 541 静岡 12 13 25 愛媛 408 565 973
福島 49 134 183 愛知 31 17 48 高知 371 161 532
茨城 9 28 37 三重 58 5 63 福岡 253 132 385
栃木 6 16 22 滋賀 54 16 70 佐賀 163 41 204
群馬 13 9 22 京都 46 37 83 長崎 276 141 417
埼玉 15 7 22 大阪 1,941 4,721 6,662 熊本 1,487 793 2,280
千葉 10 25 35 兵庫 242 107 349 大分 344 244 588
東京 47 29 76 奈良 28 37 65 宮崎 865 531 1,396
神奈川 14 23 37 和歌山 29 36 65 鹿児島 1,919 1,117 3,036
新潟 577 1204 781 鳥取 102 65 167 沖縄 33 176 209
富山 204 148 352 島根 127 171 298 15,270 12,982 28,252
西成労働福祉センター昭和44年版事業報告(昭和45年10月発行)による。滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山の充足数合計は、7,294人で、充足数総数の25.8%。
職業安定機関が取り扱った万博関係求人の充足状況職種別(関連工事含む。42.10.1〜45.1末)
職種 求人数 充足数 充足率
大工 7,790 5,391 69.2%
左官 1,890 898 47.5%
とび工 1,667 621 37.3%
その他の技能労働者 5,946 3,535 59.5%
土工 21,194 17,807 84.0%
38,517 28,252 73.3%
西成労働福祉センター昭和44年版事業報告(昭和45年10月発行)による。
万博会場建設労働者数の月別推移
基礎施設

 造成人工池
 道路・上下水道
 電気・通信
 地域冷房等
修 景

 緑地整備
 造 園
 日本庭園
 一般照明
シンボルゾーン等施設

 お祭り広場
 メインゲート
 多目的ホール
 美術館・名店街
 EXPO・タワー
 迎賓館
娯楽施設
 
 娯楽地域施設等
サービス施設

 動く歩道
 モノレール
 EXPOサービス施設
管理施設等

 本部ビル
 報道センター
 整備消防本部
 電子表示装置
パビリオン建築
年月 稼働日数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数
44/4 23 129,603 5,635 25,319 1101 8,786 382 14,395 626 2,592 113 10,538 458 7,192 313 60,781 2,642
5 24 148,269 6,178 27,344 1,139 9,159 382 18,595 775 3,775 157 14,568 607 7,481 312 67,347 2,806
6 23 138,734 6,031 20,543 893 8,910 387 15,908 692 2,388 104 13,356 580 5,659 246 71,970 3,129
7 23 183,934 7,997 38,401 1,670 8,699 378 21,624 940 1,946 85 18,746 815 3,913 170 90,605 3,939
8 24 179,234 7,468 23,570 982 5,541 231 25,170 1,049 2,618 109 18,479 770 3,216 134 100,640 4,193
9 22 212,097 9,639 25,783 1,172 7,551 343 29,175 1,326 2,684 122 19,875 903 3,730 169 123,299 5,604
10 26 225,414 8,669 23,273 895 10,941 421 30,416 1,170 2,218 85 20,572 791 3,458 133 134,536 5,174
11 25 224,994 9,002 14,477 580 8,866 355 36,338 1,454 4,638 186 18,607 744 1,700 68 140,368 5,615
12 25 239,462 9,579 11,366 455 7,440 298 45,249 1,810 5,508 220 15,624 625 4,033 161 150,242 6,010
45/1 23 170,336 7,406 10,190 443 6,699 291 35,713 1,553 4,501 196 9,761 425 3,272 142 100,200 4,356
2 24 116,699 4,862 6,657 277 5,748 240 21,639 902 5,767 240 7,829 326 2,310 96 66,749 2,781
3 11 25,163 2,288 1,292 117 2,517 229 0 0 966 88 517 47 0 0 19,871 1,807
273 1,993,939 7,304 228,215 836 90,857 333 294,222 1,078 39,601 145 168,472 617 45,964 161 1,126,608 4,127
西成労働福祉センター昭和44年版事業報告(昭和45年10月発行)による。
万博工事と宿所・簡易宿泊所
 参議院・予算委員会(昭和45年03月03日)では、「万博会場のまわり、周辺に、非常に衛生的にも問題のある簡易宿舎がたくさんできて、住民との間で非常な摩擦が起きている(亀田得治議員)。」という質問に対し、「大阪近辺で、許可申請その他条件の整わないまま簡易住宅を建てたものがあるようでございます。さっそく府県知事のほうから現場に対して、厳重にそれらを、あるものは取りやめさせる、あるものは改造して十分使えるものは指導してやり直させる、というふうにしておる次第(根本龍太郎国務大臣)という答弁。
 昭和44年版西成労働福祉センター事業報告でも、「ドヤ(簡易宿所等)は、ここ数年来新築・増築・改築のブームを呼び、軽量鉄骨 5〜6階建で宿泊定員300〜400人といった大型のものがネオンをつけて続出している。中には冷房・エレベーター付きといったものまであらわれている。しかし、新築のものでも一室一畳のものがほとんどで、料金は 1日200〜300円、3畳になると350はかかる。」と報告されています。
 ▲釜ヶ崎日雇労働組合調査班が、1984年に萩之茶屋1 〜3 丁目の簡宿を対象に「ドヤ調査」を行いましたが、その時に把握された建設年と構造で見ると、一階2 層構造の簡宿が、1960 年代に登場していることがわかります。1 階を2層に使い、一畳一間の部屋として、面積あたりの収容能力を高めた簡宿が、万博工事で急増した労働者の宿泊先対策として機能したことを示すものと考えられます。
3月14日 日本万国博覧会(大阪)/釜ヶ崎キリスト教協友会結成
1月31日 宝ホテル火災、焼死者4名。
3月17日 衆議院 予算委員会第一分科会議事録 5号
出稼ぎ労働問題
3月31日 大阪港労働公共職業安定所西成出張所廃止
4月 わかくさ保育園西成市民館内に開所
4月1日 あいりん労働公共職業安定所発足
仮庁舎は、廃止された「大阪港労働公共職業安定所西成出張所」を使用10月センターオープン後は「あいりん職安分庁舎」となる。
4月7日 衆議院大蔵委員会議事録 21号
消費税 釜ヶ崎
4月8日 地下鉄工事現場でガス爆発(天六ガス爆発事故
79人死亡、420人負傷。家屋26戸が全半焼、336戸が損壊。
4月15日 あいりん労働公共職業安定所、青空労働市場第1回調査
5月1日 第1回釜ヶ崎メーデー
7月1日 財団法人大阪社会医療センター発足
9月22日 参議院文教委員会議事録 閉3号
臨海工業地帯開発 釜ヶ崎
9月1日 大阪社会医療センター付属病院開所
外来業務開始(1日平均91名)、9月14日夜間診療業務開始(火・木)、12月22日病棟入院業務開始(内科 1日平均9名)
8月12日 国際連合主催 第4回国際会議出席者が大阪自彊館「和光寮」を視察
犯罪防止および犯罪者処遇に関する第4回国際会議
9月30日 大阪自彊館本館リハビリ室、作業室完成
本格的な機能回復訓練開始
10月 国勢調査(簡宿組合に国勢調査委員会設置
同時に簡宿利用の老人調査(西成愛隣会から簡宿組合に依頼)が実施された
10月1日 「愛隣総合センター」オープン
(労働省・大阪府・大阪市・雇傭促進事業団、22億円)あいりん総合センター内に西成労働福祉センター・あいりん労働公共職業安定所を移転・大阪社会医療センター・市営萩之茶屋住宅開設
▲写真上今宮中学校。写真左萩之茶屋小学校。真中やや左の住宅密集ブロックには、現在萩之茶屋第2市営住宅が建っている
▲オープン前のセンター前路上。車の通行状態から、中央分離帯のように見える柵が、道路拡張工事前の歩道柵であったことがわかる
 「愛隣総合センター」は、市営住宅や食堂などの店舗、行政機関や医療センターなどが入っている建物の総称として使われるのが正しいようです。 「あいりん労働センター」は、一階寄り場部分と職安・西成労働福祉センターの部分をさして使われるようです。
 センターに入っているのは、「大阪市営萩之茶屋第 住宅」(南側5階以上)。「大阪社会医療センター」(北5階以上。写真あいりん職安の看板の上に見えています)。「あいりん労働公共職業安定所」(3 階北部分。普通に階段を昇と、2階フロアーと思えますが、一部、散髪屋・ロッカーのある2階部分があるので正式には 3階といわれます)。「西成労働福祉センター」(職安と同じフロアー、南側にあります)。
  変則的なものとして、「あいりん労働福祉センター」というものもあります。「西成労働福祉センター」と紛らわしいのですが、愛隣総合センターから市営住宅と医療センター部分を 除いた、娯楽室や食堂、職安、西成労働福祉センター部分を指して使われていたようです
 労賃のピンハネを資金源にしている暴力団は、愛隣地区内30団体の内20数団体もあり、その配下にある約200人の暴力手配師が、毎朝労務者を雇い入れている。また、各種保険や安全衛生規則などを守っている企業は数少ない。いまのまま職安が就労あっせんを引き受けると、暴力団やあいまい会社に労働力を供給することになる。といって、職安法の精神どおり悪徳業者を排除すれば、求人数は大幅に減り、労務者の“あぶれ”が続出して、どんな騒動になるかわからない。
 36年8月の第一次暴動の翌月、あいりん対策として府労働部分室、37年 10月に労働福祉センターができたが、いずれも就労形態の改革を回避、職安法の保護を受けない無料職業あっせん所にすぎなかった。
 さる、昭和45年10月、労働省・府が22億円を出して愛隣総合センターを建設したとき、府労働部、労働福祉センター、職安の三者が協議、このままでは暴力手配師や悪質業者を追放できないと「向こう 6ヶ月間はこれまで通りセンターが就労あっせんを行う。センターはその間に業者の保険加入を徹底させ、違法業者は職安に通告して摘発、 600社にのぼる業者を整理したうえで、職安へ一切の業務を引き継ぐ」との約束ができ、求人業者にも伝えられた。阿倍野職安の西成出張所をあいりん公共職安に昇格させ、労働福祉センターと向かい合ったセンター 3階に事務所を開かせたのは、その布石であった。
 しかし、悪質業者の整理がすすまず、中断している。あいかわらず“人買い市場”がまかり通っている。
 あいりん総合センターは、路上いっぱいに行われていた就労あっせんを一階の寄り場にまとめ、港湾関係はあいりん職安(南分庁舎)、建設と製造部門は西成労働福祉センターが担当、届け出制をとった。スラムの分散論でなく集中論が押しきった形。  “相対方式”のマン・ツー・マン求人はそのまま(注:西成労働福祉センターの事業報告では“相互選択方式”と書かれている時期がある)。手配師は、求人連絡員と名を変えただけで実質的に野放し。』 (「あいりん地区に於けるスラム対策と現状の問題点」1973年3月、細見 正、私家版による)
10月17日 釜ヶ崎の手配師「新世界の料亭で結団式
11月15日 日雇失業保険適用開始(あいりん職安白手帳発行=10001番から)
12月8日 あいりん公共職業安定所、就労申告書制度開始
12月2日 西成区内接客業者8団体「街を明るくする会」結成
12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策」(大阪社会医療センターで)(朝日新聞)
「昭和45年の開設当時(外来患者の年齢構成)は、30歳代が40%近くを占め、次いで40歳代(26.5%)、30歳未満(15.6%)と続いており、20歳代と30歳代の若年層が半数を占めていた。40歳代を含めるといわゆる働き盛りの患者が80%を超えていた。」(大阪社会医療センター創立40周年記念誌)
12月30日 労働センター一階詰め所放火
12月31日「あいりん地区歳末の“暴発”・労務者大荒れ・求職センター襲う・約5百人・商店でも乱暴」(1面)
「どっと“あぶれ組”・あいりん地区騒動に生活のカゲ・不況ムード・行政への不信」(社会面)
全港湾労組西成建設支部は労働者のつのる不満に、この年末の越冬対策を大阪府、大阪市に早くから訴えてきた。しかし、府市ともなんの手も打たないまま年末を迎えた結果が今度の騒ぎになった。(朝日新聞)
この年 「いこいの家」海道町に移転
1968年金井、広瀬、大宮氏、東四条に「いこいの家」開設(三畳一部屋、共同便所、共同炊事の長屋)。1970年海道町に一軒家を求めて移転。聖書研究会、無料診療所、学習教室を開く。(釜ヶ崎キリスト教協友会40年誌所収喜望の家編年表)(場所は解放会館東路地)写真は「釜ヶ崎はワタシの故郷」エリザベス・ストローム著1972.3.20.教文館刊より
12月 釜ヶ崎越冬対策実行委員会結成(第1回)
大阪市越年対策
越年対策=面接相談 45年12月28日〜46年1月3日、233人 貸付金対応

1971(昭和46)年

大阪府防犯部調査
=簡易宿泊所−220、日払いアパート−46、一般アパート286、バラック−25。簡易宿泊所220軒中81軒は鉄筋、高層。220軒中 小間式206、ベッド式1、小間・ベッド併用9、大部屋4。
1月  大阪自彊館 断酒会をグループカウンセリングの応用として実施開始
14日きびしい幕あけ・職なくてなんの仕事始めか・あいりん地区・求人たった2人・就労あっせん初日」
去年11月から適用された日雇失業保険金が初めて支払われ登録者54人のうち約50人が3日分計2280円を受取った。(朝日新聞夕刊)
1月 住民票や米の通帳は、「ドヤ」の証明で代用できることに
3月5日 中央更生相談所を愛隣地区に持って行く議論
【昭和46年2・3月定例会常任委員会(民生保健・通常予算)-03月05日】
 中央更生相談所にお見えになる相談者のほとんど7割から8割が、この地区の住民あるいは日雇い労働者である。ところが愛隣会館でそういうようにご相談になつても、措置権がない。そこで困つた人にはバス代をやつて中央更生相談所まで行かす。−日常の生活相談を措置ができる、福祉事務所や、あるいは中央更生相談所までいかなくてもここで十分こなせる。そういう権限を与えたものをここにつくつてもらわないと、やつている職員もやりがいがないし、また地域住民のそういう市に対する要請に対して答えることができない。こういうふうに思うんですが、この際、民生当局はそういうふうに愛隣会館を新しく権限を与えて拡張する意思があるのかどうか(内村作二委員)
 中央更生相談所は私がご説明するまでもなく、梅田更生館の伝統を受け継ぎまして、無宿者に対する施策を実施しておるわけでございまして、ご指摘のとおり愛隣地区の関係が大体七割程度占めておるわけでございます。したがいまして、われわれのほうといたしましては、この中更相の機能の重点を愛隣の地区にもつてまいりたい。愛隣会館にこれは集結をしてまいりたいこう考えておるわけでございます。
3月24日 裸の会代表松原忍、西成署を定年退職
3月26日 “町を明るくする会”を設立
「不安な情勢下にある“あいりん地区”を民間の手で守ろうとして立ち上がった11業種団体は、西成保健所長の指導のもとに”町を明るくする会”を設立。(簡宿組合20年の歩み)
4月7日 西成地区職員事務連絡会(19施設)発足
4月 大阪自彊館 大韓民国 木浦共生園と兄弟施設の縁組を行う
4月25日 釜ヶ崎の文芸サークル「裸の会」解散。雑誌「裸」第110号で終刊
5月1日 釜ヶ崎にもメーデーこだま
「ピンはね手配師を追放せい」「ドヤ代をもっと下げろ」―大阪市西成区の愛隣地区(釜ヶ崎)でも、午前7時から同地区内の通称三角公園に全港湾建設支部西成分会の組合員ら約400人(主催者発表)が地下タビ、作業服に赤ハチ巻き姿で集まり“第2回釜ヶ崎メーデーを開催、府公安委員会が初めて許可したデモ行進を行った。/−コースは西成署前の通称“釜ヶ崎銀座”を抜け、府道尼平線から愛隣総合センターを一周する約1.5キロ−昨年の第1回メーデーでもデモを申請したが“不穏”を理由に不許可になった。ことしは革新知事誕生で風向きが変わり無条件でOK。/簡易宿泊所の窓にはシャツ一枚の労働者がすずなり。釜ヶ崎銀座では、隊列の前後左右に仕事にあぶれた労働者が千人以上もつめかけ、一時はごった返したが、混乱はなかった。毎日新聞・夕刊
5月4日 天井落ちる 西成の愛隣センター
4日午前7時半ごろ、大阪市西成区西入船町3のあいりん労働福祉センター1階南寄り場で天井のセメント壁がタテ30センチ、幅40センチ、厚さ4センチの大きさではがれ、約5メートル下の床に落ちた。午前7時から行われていた港湾労務者の職業紹介もほぼ終わっており、寄り場には安定所の職員、労務者ら約30人がいただけで、ケガ人はなかった。毎日新聞・夕刊
5月25日 第13次釜ヶ崎暴動(夜勤求人のトラブルから)
25日夕、大阪・西成区で労務者の求人にきたマイクロバス(補注:船内荷役業辰巳商会築港営業所)を取り囲んで約200人の労務者が乱暴、うち150人が国鉄大阪環状線、地下鉄中央線に無札で乗り込み、港区内にある求人先まで押しかけ日当を要求、途中、車内やホームでもしたい放題の暴行をするという無法事件が発生した。このあと労務者たちは愛隣地区に引きあげ、約千人にふくれ上がった集団は西成署を取り囲んで投石を繰り返し、附近の自動車をひっくり返すなど暴徒化した。−/(午後)7時30分ごろから、同営業所内で話し合いがはじまり、労務者は一人当たり千八百円の日当を要求。大阪府警は独自の判断で機動隊50人を付近に待機させたが午後10時15分、結局会社側は一人当たり二千百円を全員に支払うことで話し合いが付き、労務者たちは引きあげた。/西成署は強盗などの疑いで調べているが、同営業所のバスが午後5時ごろ求人に行き集まった労務者にMさんが「あとでバスに乗せるから待っていてくれ」と声をかけながらセンター内で顔見知りの労務者20人を集めて求人を打ち切り、はじめに声をかけた数人を無視したのが騒ぎのきっかけ。
/愛隣地区には2年前の大学紛争で根拠地を追われた全共闘学生や「釜ヶ崎解放戦線」を名乗る元大学生と一部労働者、反戦労働者らが流れ込み、過激グループを形成。一昨年秋には同地区で学生が火炎ビンを投げ、労務者を扇動、当時、簡易旅館の一室で赤軍のヘルメット十数個を西成署が発見した。また、さる1日の“釜ヶ崎メーデー”では「革命的共産主義者同盟」のビラがまかれるなど過激グループが愛隣地区の労務者に活発な働きかけを続けており、こうしたことから警備本部はこんどの騒動はさる36年から断続的に起きた6回の“大騒動”が暴力団員や不良労務者の扇動によるものだったのとくらべて全く異質の“仕組まれた暴動”と見ている。同本部はまた26日5時30分ごろ学生風の男が愛隣総合センターに集まった早朝就労労務者に全港湾西成分会の機関紙「大阪城」500枚手渡していたことをキャッチ、「大阪城」には「警察が賃金紛争に介入したので西成署に文句をつけに行ったら仲間をつかまえられた。怒るのは当たり前で暴動は正義の闘いだ」と書いてあり、グループの一部が組合員800人の全港湾建設支部西成分会の活動メンバーにもぐりこんでいるとみている。(26日毎日新聞)
6月5日 大阪市立更生相談所条例公布 6月17日施行
 市立中央更生相談所附属病院廃止。市立更生相談所附設一時保護所診療所開設。大阪市立中央更生相談所条例(昭和40年大阪市条例第77号)廃止。「昭和58年度事業報告」記載の沿革では、次のように書かれています。
 「当相談所は、昭和46年8月、愛隣会館(西成区太子1丁目)と中央更生相談所(大淀区長柄西1丁目を統合して、あらたに大阪市立更生相談所として発足したもので、愛隣地区における住居のない要保護者の福祉に関する措置を行うほか、地域庄民の生活向上と環境の整備改善を図るとともに生活保護法に基づく更生施設である一時保護所 (大淀区長柄西1丁目)を付設している。さらに地区隣保事業の中心である西成市民館(西成区萩之茶屋)、自立更生を目的として家族を有する低所得者を対象に宿所を提供する今池生活館 (西成区天下茶屋北)、馬淵生活館(浪速区恵美須西)の各施設を所管している。」
6月3日 大阪地裁刑事第2部、被告と傍聴人の抗議で、起訴状の労務者を労働者に改める
6月13日 第14次釜ヶ崎暴動(「日の本旅館」管理人と労働者トラブル)
7月 「食堂いまみや」開店
「暁光会、愛徳姉妹会、フランシスコ会、ルーテル教会、いこいの家」の協友会経営
▲北隣が海道出張所。南に邦寿会今宮診療所がある。72年6月には「わかや食堂(現解放会館)」オープン。写真は「釜ヶ崎はワタシの故郷」エリザベス・ストローム著1972.3.20.教文館刊より)
7月20日 早朝手配師ミスで300名団交10時間、アブレ賃25万円支給させる
7月 あいりん貯蓄組合業務を民友会に委託
8月  ドルショック
アメリカの新経済政策(ドルと金及び他通貨との交換停止=ドルショック)から引き起こされた「円高不況」
8月16日 愛隣会館と中央更生相談所を統合し、大阪市立更生相談所として事業開始
9月7日 日雇労働者福利厚生資金(ソーメン代、モチ代)支給開始
9月11日 第15次釜ヶ崎暴動(夜勤手配のミスから)
9月11日 大阪自彊館 吉村 敏男 会長就任、吉村 靫生 理事長就任
9月22日 衆議院運輸委員会議事録 5号
愛隣地区 指名手配
9月23日 衆議院地方行政委員会議事録 4号
愛隣地区 指名手配
10月1日 大阪自彊館「あいりんカウンセリングルーム」開設(三菱財団から助成金)
昭和48年3月の閉鎖までに延2,700名の相談を取り扱う。
右車の奥2階建てがカウンセリングルーム。
『外部から見る限り、釜ヶ崎は、変革され、改善されたかのごとくみえた。そして、その名も「あいりん地区」と改称されるようになった。しかし、そこに住む2万人といわれる労働者は、果たして、幸せになったであろうか?。
 私には、未だ何か大事な問題が、忘れられているように思われてならない。それは何か?―それは、心の問題である。―
 ほとんどの人が単身者で、ドヤ住まい、仕事も絶えず変わる、親身になって話合える人も居ない、そんな人達にとって「心」の問題は、われわれが想像する以上に重要なものと思われた。そして公的機関が、あいりん対策として、次に行うべきことは、この「心」の問題の解決でなければならないと感じた。
 しかし、行政が乗り出す前提として、先ず民間において着手し、その必要性や効果を実証する必要がある。
 釜ヶ崎地区改善を目的として設立され、今日まで60余年間、つねに、先駆的な役割を果たしてきたわが大阪自彊館にとって、これこそ正に最適の事業ではなかろうかと思った。』(「あいりんカウンセリング・ルーム実践報告」1975年1月10日大阪自彊館刊。発刊に寄せてー理事長吉村靫生)
12月23日 越冬を成功させるために=12月23日集会用レジュメ
71〜72年越冬対策開始前検討資料レジュメ 越冬対策実行委の現実的課題(71〜72年越冬対策実施にあたっての準備会資料
12月29日〜1月3日 「年末年始医療対策
大阪市越年対策
越年対策=46年12月29日〜47年1月4日(6泊7日)、331人収容(延べ1,303人)、収容施設(長柄寮151人・大阪自彊館118人・救世軍・京橋宿泊所323人)
簡易宿泊所の状況 西成警察署調べ 
1970年代初頭の三角公園
▲中央に僅かに見える児童遊具のある部分と他を区分する柵が何時頃まであったのか?何時無くなったのか?
公園内トイレの位置が変わったのは何時頃だっただろうか?。

1972(昭和47)年

日刊えっとう」 (第2回)1971.12.31〜1972.1.4 発行:釜ヶ崎越冬対策実行委員会
5月15日 沖縄施政権返還/8月4日 沖縄県発足/9月29日 日中国交正常化
1月 市立長柄宿泊所が市立中央更生相談所旧館跡に移転
1月 わかくさ保育園の新しい事業「青空保育」を支えるため青空保育打合会開催
2月1日 大阪地区労働者解放戦線釜ヶ崎解放委員会 「春雷」第2号 発行
釜ヶ崎越冬対策特集=越冬日記・テント村の警備から・釜ヶ崎労働者から学ぶ・友人への手紙・釜ヶ崎越冬闘争に関わって・労働者の社会主義的責任制・越冬闘争に参加して・整風運動について・プチブルの涙をぬぐって・関西新空港粉砕の闘いをまきおこそう・11.19沖縄統一行動に参加して
2月14日 「赤軍ラーメン(勝浦飲食店)」開店
2月29日 大阪自彊館 「南山寮」と「向上寮」を併合し、「向上寮」を廃止
3月31日 青空保育打合会「あいりん子ども研究会」となる
▲わかくさ保育園の青空保育。西成署西の公園。写真撮影時期は1980年前後。
4月 労働センター求人業者に親睦会(建設関係)、相互組合(製造・運輸関係)、協力会(飯場関係)の3団体発足
4月 釜ヶ崎医療を考える会発足
4月12日 衆議院社会労働委員会議事録 14号
労働安全衛生法案 釜ヶ崎
4月20日 参議院大蔵委員会議事録 19号
労働保険特別会計法案 あいりん
5月1日 第16次釜ヶ崎暴動(第3回釜ヶ崎メーデーでの逮捕者をめぐり)
5月1日 大阪自彊館 本館に歯科診療所 開設
5月20日 「野鳥の会」結成
5月26日 「暴力団淡熊会系天梅会の鈴木建設興業」の組員、「野鳥の会」事務所を襲撃(不在)
5月28日 第17次釜ヶ崎暴動(センターでの鈴木組糾弾行動から)

6月 「あいりん子ども研究会」子どもの遊び調査実施
6月3日 「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」結成
6月10日 南大阪の旗編集委員会 野鳥の会気付 「南大阪の旗」 U−1 発行
発行にあたって・連載=光洋争議について−1・釜ヶ崎メーデーを戦い抜いて・釜ヶ崎夏祭りの呼びかけ(案)・釜ヶ崎医療を考える会のこれから・富士闘争より
6月 西成署防犯相談コーナー「コーナーだより」創刊号
6月28日 第18次釜ヶ崎暴動(鈴木組糾弾行動への警察の家宅捜査、逮捕活動への抗議から)
7月1日 大阪社会医療センター「財団法人」から「社会福祉法人」へ改組
7月25日 「南大阪の旗」編集委員会 野鳥の会気付 「南大阪の旗」 U−2 発行
抗議声明―野鳥の会・釜ヶ崎レポート(5月28日〜7月8日・鈴木組)−釜ヶ崎救援会・獄中のとうちゃんに捧げる・大衆の参加する自衛組織を作り出せ・公の口実より真実を・連載=光洋争議について−2・釜ヶ崎夏祭り−開催予告・編集後記
8月 大阪府労働部「日雇労働者対象に、特殊車無料講習会」実施に踏み切る(受講中1日1,000円を支給)
8月4日 大阪自彊館 財団法人 更生保護施設「和光寮」廃止
事業廃止となった向上寮および和光寮の居室は自彊寮の寮室として、転用。
8月13日 第19次釜ヶ崎暴動(第1回夏祭りのドラム缶みこしの運行で
8月14日 右翼団体「大日本正義団」乗用車2台で夏祭り会場に殴り込み、乱闘
10月10日 第20次釜ヶ崎暴動(早朝センターでのビラから)
10月20日 南大阪の旗編集委員会 野鳥の会気付 「南大阪の旗」 U−3 発行
釜ヶ崎レポート(夏祭りへの弾圧)・光洋争議について−3・年間300名の行旅病死者の死を生かすために!もっともっと具体的徹底的全面的な調査研究を!・搾取なき自由の国、闘い取らん!・持続した闘いの基盤を!・共同作業の一層の拡大を!−釜ヶ崎のこの一年
12月6日 釜共闘、500万円の年末資金を要求して「大阪府労働部職業対策課特別対策室長」と団交
12月21日 あいりん学校地鎮祭
12月25日〜1月4日釜ヶ崎越冬対策実行委員会のテント村(四条ヶ辻公園)
12月26日 あいりん総合センター3階トイレで爆発
29日〜1月3日 救世軍テント村・大阪市民生局法外対策実施
越年対策=47年12月29日〜48年1月4日(6泊7日)、507人収容(延べ1,680人)、収容施設(労働会館・藤沢会館・長柄寮・大阪自彊館)処遇内容(朝昼夕3食、日用品)生活保護法による施設収容入院措置は含まず。

1973(昭和48)年

日刊えっとう」合冊版(第3回)
1972.12.25〜1973.1.4 発行:釜ヶ崎越冬対策実行委員会内 日刊えっとう社健康相談呼びかけビラ(72〜73越冬 釜ヶ崎越冬対策実行委員会医療班発行 裏:文化体育班スケジュール)
西成区町名改正
▲新旧町名対象表。
▲大阪市立更生相談所の平成20年版「事業統計集」に付けられた「事業概要」には「あいりん地域」の範囲が、右表のように掲げられています。
1月4日 大阪市役所に座り込み・あいりん地区の労働者(朝日新聞夕刊)
民生局の話によると去年12月中旬、あいりん地区に釜ケ崎越冬対策実行委員会が生れ、5百万円の越冬資金、無宿者救護用の物資、宿泊所の整備、今宮中学校講堂の開放などを要求していた。
しかし、市側は「無宿者の収容対策は大阪府・市で行う」と援助をことわり続けてきた。
市では年末の
29日から3日までに、自彊館、市立労働会館など4施設に計57人の無宿者を収容した。
方実行委員会側は、あいりん地区内の公園にテントを張り無宿者のたき出しなどを続けてきた。
1月11日 越冬闘争の報告 医療を考える会内部通信 特別号
記録と反省・問題点
4月  大阪自彊館 療護施設「今宮寮」新築工事開始
「あいりんカウンセリングルーム」を取り壊した跡地に
4月某日 「釜族」編集委員会(毛) 野鳥の会気付 「釜族」第2号 発行
「釜族」を発展させよう・徳さんの死・あなたに・西成慕情・死・さあ一パイいこう・アンコギャンブル考・階級独裁に反対する・釜共闘は冬眠しているのか・暴力手配師追放・釜族創刊号の「我々は自由人だ」に反論する・人間は幸せになれないのか・日雇労働者の夢・明日に向かって生きようじゃないか・或る夜の独り言・思う事・釜ヶ崎共闘会議支持・労働者の団結が第一だ・飯場脱走記・釜ヶ崎鬼兵隊・信濃忍拳(空手)をおぼえよう
2月12日 釜ヶ崎医療を考える会 活動報告書「いのち」第3号 発行
記録=12・6 釜ヶ崎労働者をくいものにする悪徳病院糾弾集会(大和中央病院・阪和病院・国分病院・栗岡病院・安田病院他)・報告=人民の医療機関を(第3回越冬医療の反省)・報告=殺られた仲間の調査を(呼びかけと記録)・資料(医療ニュース・12/6集会プログラム・新聞他)第1PDF(栗岡病院まで)/第二PDF(安田病院以降
2月27日 衆議院社会労働委員会議事録 4号
 建設労働法 日雇いの労働環境 釜ヶ崎
4月9日 衆議院石炭対策特別委員会議事録 7号
石炭特別対策 釜ヶ崎
6月5日 衆議院社会労働委員会議事録 23号
港湾労働 釜ヶ崎 笹島
6月某日 「釜族」編集委員会(毛) 野鳥の会気付 「釜族」第3号 発行
西成おし問答−1・ノーチャブ・本船・釜族の詩・抵抗・呪苦悶(じゅくもん)・「釜族」前衛俳句・タカリを追放しよう・労働者コーナーだより・許せないポリ公と云う奴・闘争を強化しよう・階級意識に醒め闘おう・警察は何をしてくれたか・釜ヶ崎反体制派大同団結しよう・我々も立ち上がろう・釜ヶ崎13年野鳥の会本来の姿へ・人と金その性格について考える・ヤクザホテル・あしたのジョー・革命てなんな?解放てなんな?・労災の病床で思うこと・犯罪者解放への道は?
7月 市立更生相談所内3階に生活相談室開設
8月 簡宿の門限11時となる
(事犯にならない労働者の騒ぎが続いたとき、爆竹を鳴らして喚声を上げる群衆を取り締まる必要があるので、門限時間の繰り上げが要望された。宿泊業者が夜の11時に営業をやめるということは非常識であるとの反論もあったが、8月20日の役員会において“あいりん地区対策”の一環であるが宿泊業自体の体質改善にも有効である-臨時総会で承認された。)(簡宿組合20年の歩み)
9月11日 参議院社会労働委員会議事録 23号
日雇い健康保険 釜ヶ崎
10月25日 第1次オイルショック
第4次中東戦争を背景とする原油価格の上昇(第1次オイルショック)による不況
10月 釜ヶ崎生協設立準備会発足、牛乳・地下足袋等販売開始
11月 西成区住居表示変更に伴ってあいりんの公園名称を変更
1)萩之茶屋南公園(旧、東萩公園〔通称三角公園〕)/2)萩之茶屋中公園(旧、海道公園)/3)萩之茶屋北公園(旧、甲岸公園)/4)花園公園(旧、四条公園)
11月 大阪自彊館 高野山に慰霊碑建立
12月 新今宮小・中学校開校に伴いあいりん小・中学校廃止
12月1日 大阪自彊館 「アル中特別指導対策」・「あすなろ断酒会」発足
大阪アルコール問題研究所・西成保健所あいりん分室の専門医グループによる指導と援助を受けた、アルコール依存症者特別対策
「アル中特別指導対策」=対象者人員30名。専用居室2部屋(二段ベッド14台使用)、専任指導員2名、補助指導員3名。カウンセリング・作業療法等実施。対象者で「あすなろ会」結成。(アルコール依存症者特別対策班は昭和49年1月にあすなろ会と改称。昭和56年11月に愛隣寮に引き継がれる=復刊自彊館だより第5号)
12月1日 大阪自彊館 身体障害者療護施設「今宮寮」開設
身体障害者福祉法第30条の4による新しい制度の確立による。収容定員50名。寮長以下職員総数34名をもって重度の男子身体障害者の収容保護業務開始。旧和光寮後に新設。
12月 大阪市が「あいりん越年対策」開始。越年対策無料宿泊所で改善闘争盛んに


左写真の入り口右に「第四回越冬闘争実行委員会本部テント」とある。

センター前で結核住民検診事業開始(環境保健局)
大阪市越年対策
越年対策=48年12月29日〜49年1月11日(13泊14日)、1,027人収容(延べ6,630人)、収容施設(労働会館旧館・藤沢会館・長柄寮・大阪自彊館・豊崎東会館)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、求職交通費)

1974(昭和49)年

1月5日 「あいりん子ども研究会」子どもの遊び調査が、大阪市民生局調査課の実験的開拓事業として承認され、報告書「あいりんの子どもたち 子どもセンター建設に向けて・・」刊行
「日刊えっとう」合冊版 第4回越冬闘争の記録
1973.12.29〜1974.1.8 発行:釜ヶ崎越冬闘争実行委員会情宣部 日刊えっとう越冬闘争(行政班)の総括釜ヶ崎越冬闘争をめぐる問題点と総括
1月6日 「職なし寒波やってきた・西成・山谷もろに直撃・あぶれ手当9千人・無料宿泊所も延長へ・西成」

西成労働福祉センターは4日から業務を再開した。が、求人は少なく、あっせんしたのは4日百50人、58百人とふだんの12割。
大阪市は毎年
1229日から13日までの6日間、仕事にあぶれ泊まるあてもない労働者の越年対策として大阪市立長柄共同宿泊所をはじめ、大阪府下の7宿泊施設へ労働者たちを収容、6日間の宿泊場所と3度の食事を提供している。
昨年末から昨年初は延べ578人、昨年末からこの3が日までにはすでに700人。
日雇労働者たちの団体、全港湾建設支部西成分会が中心となって昨年末から大阪府庁前へすわり込んだり、大阪市と交渉を続け、
4日以降も職につけない労働者たちのために宿泊所と3食の保障を続けるよう要求していた。
大阪市はたび重なる激しい突き上げに
2日、労働者たちの要求を入れ、年末から施設に収容されていた労働者に限り、0日までの延長を認めることになった。食事の現物給付をやめ、1日千5百円の食費と求職のための交通費を支給することになる。4日約百人、5日は約50人がこの延長を受けた。(朝日新聞)

2月 結核相談コーナー、西成保健所分室に開設
2月27日 参議院物価等対策特別委員会議事録 6号
釜ヶ崎 便乗値上げ 砂糖等
3月2日 大阪市、「労務者」は差別用語と認める。西成分会が公文書の差別を抗議
3月9日 衆議院予算委員会第三分科会議事録 5号
山谷対策
3月28日 衆議院地方行政委員会議事録 19号
山谷の労働対策 現闘委
4月 あいりん地区内生活道路清掃事業の実施(萩之茶屋福祉会に委託)
5月14日 参議院社会労働委員会議事録 11号
結核 合併症対策 愛隣地区
5月16日 衆議院社会労働委員会議事録 25号
結核 生活保障
10月14日 「仕事要求闘争準備会」発足。23日、「仕事保障期成同盟」へ
12月21日 参議院社会労働委員会議事録 1号
日雇い 給付金
12月 越年対策無料宿泊所で闘争委員会結成
大阪市越年対策
越年対策=49年12月30日〜50年1月11日(12泊13日)、1,108人収容(延べ12,748人)、収容施設(旧市立衛生研究所330人・藤沢会館239人・長柄寮120人・大阪自彊館96人・港湾労働福祉センター323人)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、求職交通費)

1975(昭和50)年

3月10日 新幹線 博多まで開通/4月30日ベトナム戦争終結
1月9日 「不況に厳しい新年・あいりん地区の日雇労働者・無料宿泊所も11日限り・「場当たり行政では解決困難」

不況の始まった去年の正月から、労働者の要求などでこれを12日間に延ばし、今回はさらに定員を3百人ふやして5カ所千3百人の受け入れ準備(3011日朝)をとった。
ところが暮れの
30日に受け付けを始めると同時にどっと押しかけ、大みそかまでに定員いっぱいになった。正月3日間は、あぶれた約3百人に食糧の現物支給として即席めんなどを配る事態になった。
臨時の宿泊所の
1つ北区北扇町の市立衛生研究所跡では1日、労働者たちでつくっている釜ケ崎越冬闘争実行委員会のメンバーが市の委託した臨時所長と「仕事をよこせ、仕事があるまで宿泊を延期せよ」など要求して団交、所長が倒れて病院にかつぎこまれ、後任が決まるまでの3日間、現場責任者は空席となった。
自彊館では同じ日、押しかけた同闘争実行委の労働者ら
5人が暴力行為などの疑いで逮捕された。
また
5日からは、港区港湾労働者センターで、市から委託されていた責任者と、ボランティアの天理教徒全員がこわくなって姿を消し、市職員が港署員に守られて弁当の支給をする異常事態が続いている。
いずれの場合も市は現場責任を権限のない社会福祉活動家にまかせ、ほとんど顔を出していない。
4日までボランティアとして3加した協友会の金井愛明牧師は「労働者が疲れきって入所してきたのは確かだ。場当たりの越冬行政ではどうにもならない」という。
これに対して大阪市民生局桜木総務部長は「宿泊所の世話は役所がやるとギスギスするので、民間など社会福祉のベテランにお願いした。宿泊は予定通り
11日まで続けるが、就労問題がからむそれ以降については労働行政の問題であり、民生としては限界がある」といっている。(朝日新聞)

1月11日 「仕事なく凍る路上へ・日雇い宿泊所閉鎖・退去拒む2人逮捕」

大阪市民生局は、無料宿泊所の期限が切れる11日朝大阪府警機動隊と関係各署の出動を求め、5ケ所の宿泊所を予定通り閉鎖した。
この朝、天満臨時宿泊所では約
30人の労働者がはち巻き姿で同玄関ホールに座り込み、「ワシらはこれからどうすればいいのだ。市に行けば府の労働部へ行けといい、府へ行けば国に言えというし…」と演説。
しかし、退去時間の同
9時には、府警機動隊と曽根崎署員が排除にかかり、外に押し出した。また屋上から垂れ幕を降ろし、マ・イクで呼びかけていた2人が、下りてきたところを建造物侵入現行犯で逮捕された。
同市民生局ではこの朝、差し当たっての“生活の糧”として、労働者ひとりずつにカンパン
1袋(5個入り)、即席めん1個、ハイライト2個、菓子パン3個、交通費百円を渡した。(朝日新聞)

1月12日 越冬テント村閉鎖。15日、再開
「日刊えっとう」合冊版 第5回越冬闘争の記録
1974.12.28〜1975.1.11(実際は12日号まで) 発行:越冬闘争実行委員会 日刊えっとう社
1月22日 途方にくれる労働者・市・あいりん地区の“テント村”に退去通告・療養施設に入れぬ病人

公園は地元の人が「年末年始に子どものたこあげをしたい」と先に借りていたが、地元と交渉して労働者が相乗りのかたちで借り、12日までは市公園局も黙認していた。
テント村は
4年前から年末年始につくられている。暮れの28日から街頭カンパなどで集めた金を資金に3食のたき出しをし、多いときは約200人がテントに入った。いま3つのテントにふとんが35人分ある。夜、深夜、未明に分け4時間交代で計百人が寝ている。
市立更生相談所でも「ことし医療相談は
1日平均百30人と、例年の3倍近い。市の療養施設(4カ所、約700分)は満員で、待ってもらっている状態だ」と頭をかかえている(朝日新聞)

1月30日 朝日新聞夕刊

「“不況寒波”食えず泊まれず・あいりん地区「テント村」ルポ・寝るのも交代で・タキ火囲み疲れた輪」
あいりん地区(釜ケ崎
1帯)の日雇労働者に、きびしい冬が居すわっている。
例年なら求人が好転する
1月下旬だが、年末年始の落ち込みのまま回復は鈍い。年の瀬から開いた“テント村”は世間がお正月から抜け出しても、ことしはまだ“閉村”できないでいる。
29日夕から、村で1夜を過ごした午後7時ーとっぷり暮れた公園を長い列がヘビのようにうねる。「仕事よこせ」の大きな看板のある炊事テントへと、黙って並ぶ約220人の労働者たちだ。
地区のキリスト教団体が差し入れている夕食弁当と、街頭カンパによる野菜汁のたき出し。食事がすむと公園内の人数は1
20人くらいに減った。
7時半ー宿泊用のテントは長さ8メートル、幅4メートルの1張りで、泊まれるのは詰め込んでも40人。4時間ずつ寝ては交代する。
午前
0時ーたき火のまわりに腰かけてあたれるのは30人足らず。あとは立ったまま、夜が更けて刺すような寒さが襲う。
みんなが前に出ようとするので、たき火を囲む輪が何度もくずれる。疲れ切った
45人が輪の外に出て身を横たえるが、寒さで230分ともたない。
あついお茶をのみに炊事テントへ走る。清酒カップのあきびんと、塩を入れたわん。「塩をたっぷりいれてのみ、朝方バンク(血液銀行)にいくといい。そうする人が近ごろは多い」と若い労働者が教えてくれた。
午前
5時ーたき火の輪から1人抜け2人抜け、西成労働福祉センターの寄り場へ。6時ごろには30人余りがいなくなっていた。「どうせ、あかんやろ」。残った労働者たちのうつろな顔。
7時ごろになって、案の定、労働者たちが重い足をひきずってたき火に戻ってきた。「マイクロ(バス)ぜんぜんきてへん」

1月31日朝日新聞夕刊

「テントにバリケード・あいりん撤去めぐり緊迫」
30日夜から301日朝にかけ、周囲約50メートルにベニヤ板、廃材などでバリケードを築いた。
今月中旬以降、大阪市公園局から「公園の目的に反す」と
2度にわたり退去通告が出されており、同テントの存続をめぐって緊張が高まっている。
同越冬委は、東京・山谷地区の同様な公園内のテント村が
30日強制撤去されたと知り、抗戦に出た。
同夜、「テント村防衛決起集会」を開いたあと、労働者たちと公園の東側を中心に、立ち木や公園の遊具なども利用して高さ
2メートルのバリケードを張りめぐらした。

2月 「結核患者の会」結成
2月10日 「宿泊施設の開放を!・仕事のない労働者に・キリスト教団体近く市長に要望・あいりん地区」

協友会は地区内の生活相談所「いこいの家」、保育活動の西成ベビーセンターなどを中心としたキリスト教5団体のボランティアグループ。
市が年末年始、労働者に開いた無料宿泊所を手伝ってきたが、同施設は
111日で閉鎖された。
ところが同地区では、仕事がないまま食事代にもこと欠く労働者がまだ多いので、先月
13日から夕食弁当の炊き出しをはじめた。
最初は、百
50食をリヤカーに積み、地区内をまわり、野宿したり、たき火を囲んでいる労働者に配った。
やがて、釜ケ崎越冬闘争実行委のテント村が再開され、
16日からはテント村への差し入れに切り換え、12百食に。1月いっぱいで打ち切るはずだったが、テントの中に、高齢者や、体が弱いうえ、働き口のない労働者が多いので、2月もさらに続けることになった。
だが、協友会はボランティア活動では、根本的な解決にはほど遠いとみて、市へ「積極的な姿勢で解決を」と要望書の作成に踏み切った。
市や民間宿泊施設の活用と開放。無料宿泊券の発行。労働センター食堂の無料食券の発行。病人を
1日も早く病院へ。ふろ券の発行ーの5項目。
実施されるまで、テント村や他の公園の労働者に、経済措置を講じてほしい、といっている。

2月20日 「病人・病弱者は収容へ・あいりんテント村撤去をめぐり大阪市」

テント村に泊まっている労働者に対し、大阪市は22日と24日の2回にわたり「病人や病弱者は市が準備した施設や病院へ来てほしい」と呼びかけ、応じない重病者には生活保護法に基づく強制入院措置を取ることを20日決めた。
同テント村の病人に対して市が収容に乗り出すのは初めてである。
テント村は
1日延べ百20人が利用、4060人が泊まっている。(朝日新聞夕刊)

2月21日 「強制入院に反発・あいりん地区テント村」

市の強制入院の方針に釜ケ崎越冬闘争実行委は、「場当たりの病人対策はテントをつぶす伏線であり、受け入れられない」と、反発している。
これまで同テントの病人たちは連日、どう地区にある市更生相談所に「入院か療養」を申し入れているが、受け入れられない場合が多い。
たとえば、
12日、右足の骨ずい炎と診断された男(42)が、「このままでは右足切断になるので、ご配慮下さい」と病院の添え書きを持って相談に行ったが、過去、勝手に退院したことなどから入院を拒まれた。
かっ血して急救車で運ばれても入院できず、ぐったりとなって戻ってきたケース。
数日前からは「釜ケ崎結核患者の会」を作って入院を要求する動きも出ており、越冬実行委のメンバーはこれまでのやり方から、病人を受け入れてもらえる保障はどこにもない」と今度の病人対策を警戒。
仕事のないテントの労働者には、街頭カンパを資金にしてたき出しを続けている。
(朝日新聞)

2月22日 「入院を呼びかけ・あいりんテント村・まず2人応じる」
ぶり返し寒波で冷え込んだこの日午前0時、大阪市は公報車1台と急救車2台、市職員約20人が大阪府警機動隊に守られ、テント村の外から「病人は出て来て下さい」とマイクで繰り返し呼びかけた。
バリケードで囲いをしたテント村には、赤旗が
10数本立ち、バリケードには「仕事をよこせ」などと書きなぐってある。労働者約百50人が中から「仕事を持ってこい」「入院させよ」「テント村は防衛するぞ」とこぶしをふりあげシュプレヒコールやがて結核と足の骨ずい炎で松葉づえをついた0島さん(42)と作業現場から落ち、腰を痛めている0実さん(51)の2人が釜ケ崎越冬闘争実行委のメンバーに付き添われてテント村を出てきた。
2
人は「これまで何度も相談に行ったのに、なんで入れてくれなんだのか」と市職員に詰め寄り、「ほかの病人にも全員入院を約束せい」など抗議した後、タンカで急救車に運ばれた。(朝日新聞夕刊)
2月25日 「あいりん地区のテント村に市強制撤去の方針」
テント村に対し大阪市は24日、事実上の最後通告に当たる2度目の「病人の入院を呼びかけた。
テント村からは労働者たちが「テント村は防衛するぞ」と、旗ザオをふりあげて“対決”の構えをみせただけで病人は現れず、市は約
0分後に呼びかけを切りあげた(朝日新聞)
2月25日 あいりんテント村手入れ・越冬委の4人逮捕・リンチ容疑・撤去へ布石

仕事と宿泊場所のない労働者のために釜ケ崎越冬闘争実行委員会が昨年末から花園公園に開設しているテント村をめぐって、立ち退きを求める大阪市との間で緊迫した状態が続いているが、大阪府警警備部は25日朝、約7百人の警察官を動員、テント村で起きたリンチ事件に関する傷害容疑で同実行委員会の4人を逮捕した。
同時に労働者を扇動して暴動を起こす目的で凶器類を用意したという凶器準備集合容疑などでテント村を捜索、角材、竹ヤリなどを押収した。
同テント村については大阪市が近く行政代執行法に基づく強制撤去に踏み切るとみられており、この日の強制捜査は、強制撤去の際に予想される混乱を防ごうとする“先制摘発”ともみられる。
警察側は、実行委メンバーやテント村の労働者たちの大半が連日午前
8時・前後に近くの愛隣総合センターまで早朝デモを続けていることから、この朝も午前8時すぎ、約50人のデモ隊が出たすきにテント村に踏み込み、中に残っていた約10人の労働者らを退避させたうえ、リンチ事件の現場検証と凶器準備集合容疑の捜索を進めた。
デモの
1団はテント村近くで「テントの仲間がんばれ」などのシュプレヒコールを繰り返したが、周辺の10カ所を交通しゃ断しての警備に動きを封じられた.
テント村は昨年
1228日に設置、例年は正月過ぎには求職が増えるためテントをたたんできたが、ことしは不況の影響で112日にいったん打ち切ったものの、3日後に復活させた同警備部の調べでは実行委の母体となっている釜ケ崎共闘会議は、47年に「手配師追放」を掲げて労働者のほう起をくわだてたが、労働者側との意識のずれや爆弾事件などでリーダーらが摘発されたこともあって昨年は目立った動きをみせなかった。
しかし、不況で仕事にあぶれた労働者らの不満をとらえて、連帯を呼びかける動きが最近活発となっており、東京・山谷の活動家らもこれに呼応する動きをみせているという。
テント村で過ごしてきた人たちによらと、他人の金品を奪いとる“しのぎ”のうわさのある男たち
45人が、警察の追ってこないテント村に逃げ込んできていた。
うち
1人が18日に腕時計をしており、問いつめたら「しのぎをした」といった。56人が寄ってたかってなぐったり、こづいたりして追い出したという。「もしあれが“容疑”というやつやったら、どっちが被害者なんや」と、はきすてるような声も。(朝日新聞夕刊)

2月26日 病院で死亡・西成・花園公園・テント村の病人
花園公園のテント村に14日から収容されていた愛知県南宇和城辺町出身0元弘さん(43)が24日夜、住吉区の阪和病院で手当てを受けていたが、25日午前8時すぎ死んだ。
住吉署の調べによると、
0さんは昨年1118日から筋無力病で通院していたが、この13日で通院をやめ、花園公園のテント村で過ごしていた。(朝日新聞)
2月26日 テント村 機動隊が強制排除
2月27日 あいりん・テント村ついに撤去・抵抗の住民14人逮捕・機動隊出動させ代執行・2カ月ぶり

大阪市は26日午後、テント村を行政代執行により2カ月ぶりに強制撤去した。しかし、労働者ら約80人がたてこもって抵抗したため大阪府警機動隊千百人が出動、投石などした14人を公務執行妨害などの現行犯で逮捕した。
越年のためのテント村は今度で
5回目だが、市が強制的に撤去したのは初めて。
労働者と支援学生ら約
80人は、赤いヘルメット姿でバリケード内にたてこもり、撤去作業に対して石や汚物をビニール袋に入れた「黄金爆弾」を投げて抵抗。
強制撤去に伴い、同市はテント村内にいた病人
4人を病院に収容、40人を同市更生相談所で受け付け、更生施設へのあっせんと宿泊代(千円)の支給などをした。
同市が行政代執行に踏み切った理由@ー略ーAテント村から病人や死者が出ているにもかかわらず、収容の呼びかけにも協力的でないので、人命上このまま放置するのは適当でないBー略ー
「抜本策なく追いたて」
テント村が長引きそうになって市民生局は頭を抱えた。
テント村を強制撤去した場合、住人をどこに収容するかー要保護者をあずかる更生施設は不況のせいで入所者が急増している。大阪市内
4施設、定員7百人のところへ千人の超満員。
あいりん地区に多い結核患者を収容してくれる病院も少ない。和歌山、京都の病院まで捜しまわっているのが実情。
「今年の暮れは、もう公園は貸さない。再びこのようなテントはつくらせない。」代執行終了後、大阪市公園局管理部長は断言した。
しかし、十分な施設と病床はあるのか。
「更生施設は
50年度に急いで2カ所を新設する計画ですが、場所や時期はまだ…」と市民生局福祉部長は口ごもった。
就労対策となると民生局は大阪府労働部の責任範囲だと逃げ、府労働部の現在の対応も民生局から「とても満足のいくものでない」と批判されている有り様なのだ。

2月27日 参議院社会労働委員会議事録 2号
完全失業者 釜ヶ崎 滞留
3月1日 仲間もとめて、1夜で姿消す・あいりん地区テント村撤去で入院のAさん

花園公園にあったテント村が26日撤去された。そこで“静養中”だった41歳の労働者、Aさんは「要診察者」として、急救車で病院に運ばれ、入院した。ー寒風に身を縮めるテント村とは比べものにならないほどに居心地は良かったはず。だがAさんは1夜明けた27日、病院から姿を消した。雪が降りしきる正午前であった。・・
ポッリポッリと語るAさんの「気持ち」はおよそこんなものと思われたーいくらいい施設に入っても、まわりになじめず、息苦しい。本当の「仲間」はテント村で気ままに暮らしていた労働者たちだ。病院なんかにいると、だんだん仲間が恋しくなると…。

3月5日 市会答弁に見る府市の対応
高野民生局福祉部長 労働問題に対します府の問題−、たしかに2月13日だと思いますが、−愛隣地区に対します就労対策について大阪府のほうに要望を出した−。−できましたら特別公共事業を興していただきたいということと、それから各建設協会なり、あるいは元請け業者に対しまして雇用促進をしていただくような方法は取れないかというような内容−。
それに対しまして、府のほうからは元請業者、あるいは建設協会に対しましては、就労のあっせんを強くお願いするような、いわゆる文書をもってお願いするというような回答−、特別公共事業につきましてはいろいろな問題があるので、いますぐ興こすということは非常にむずかしい問題があるということ−回答が返ってきたわけでございます。
 われわれといたしましては、−この問題は民生だけのサイドではなしに、やはり基本的には労働問題というものが大きくあるわけでございますので、やはり平常的な時代ならば別といたしまして、特にこのような不況下におきましては、強く大阪府の愛隣地区に対します労働対策というものについて、強く要望しておるわけでございますが、その点まだちょっと遺憾ながら、われわれとしては満足のいくような回答が来ないというのが実情でございます。
 それから、先ほども申し上げましたとおり、厚生相談所におきましては、いわゆる病人、病弱者につきます対処というものは今後引き続き当然行なっていくわけでございますが、問題は病人の入床なり、あるいは病弱者の方々のはいる厚生施設というものが不足しているというのが実情でございます。
 そういう面から、まず病院の入床に対しまして、それが入院しやすいような方法を取っていくべきであろうということで今年の 50年度の予算に対しましてもいわゆる入院者一人について5,000円程度の謝金制度というものを計上さしていただいているとともに、ベッドを確保するというような方向で 150床ほどの民間病院のベッドを確保するように努力をしておるわけでございますが、現在90床程度確保しておりますが、もうすでにそれが満床になっているというのが実情でございます。が、やはり愛隣地区の労働者の方々が病院にはいるについてのはいりやすいような方法といたしまして、たとえば被服等、着ているものがまっ黒でございますので、入院するとともに新しい被服を着ていただくというような日用品の支給なり、あるいはベッドの確保というような方向、
 もう一つは厚生施設というものが非常に足りない面がございますので、その厚生施設の確保ということについて今年度は努力していきたい、そのように考えております
3月11日 千成ホテル火災。3人死亡、52人重軽傷
「施設の窓の金網が火災事故のときに避難上大きな妨げとなるので全面撤去するよう問題化した。しかし日常の防犯上、とくにあいりん騒動防止のために窓には網が必要で、組合としては全面撤去でなく必要な所には取り付け、必要でない所は取ると、統一見解を発表した。」(簡宿組合20年の歩み)
3月20日 参議院社会労働委員会議事録 7号
山谷 失業対策
4月 社会福祉法人「聖フランシスコ会」の老人給食センター「わかや食堂」開設
客席は13席。後に、所有者が代わり釜ヶ崎解放会館となる。「わかや食堂」は現「ふるさとの家」へ。
7月31日 「ぼうはんコーナーだより・特報
「労働者の敵・釜共闘!暴動の手配師釜共闘!/釜共闘は、「警察が簡易宿所に金網を張らした」と宣伝して、労働者を扇動し、暴動を起こそうとしている。/警察は、簡宿に対していままでも、今も、「金網を張れ」とか、「金網を張るな」とかの指導はしていない。また、将来もこのような指導はしない。消防当局も、警察と同じ考えである。/金網の問題は、業者自身の問題であり、必要があれば張る、必要がなければ張らない のである。/業者が、必要あって張っている金網をはずせと、強要すること、また、金網の問題以外の何事においても・・・/他人の正当な権利を妨害したり・・・/他人に義務のないことを強要したり/することは、犯罪であり、警察は、断固として検挙する。
8月12日 夏祭り 15日まで
    (注:多分、第5回と思うが、前年の可能性もある。)
10月 大阪自彊館 リハビリ室、電気治療室を地域に開放
10月1日 第12回国勢調査
第12回国勢調査にあたり、組合施設経営者は指導員に、管理者は調査員に任命され、宿泊中の人員に対して調査を行った。今まで知ることのできなかった“あいりん”の宿泊人口と実態が判明して貴重な資料となった。−不況。宿泊者激減。(簡宿組合20年の歩み)
11月18日 衆議院社会労働委員会議事録 3号
山谷就労事情 失業対策
11月29日 越冬闘争突入集会
12月1日 大阪自彊館 救護施設「愛隣寮」開設
大阪市の母子家族寮を借用して改装(改造費2億4千万円)
12月4日 花園公園使用不許可通知
10日、花園公園でたき火、炊き出し(弁当)開始するも、連日、たき火は消され、フトンは持ち去られた。19日、公園で1名衰弱死、20日焼身自殺、21日には3名の路上死確認
12月10日 衆議院法務委員会議事録 6号
保護司 愛隣地区
12月25日 初代勝利号購入
12月26日 あいりん地区の労働者百人・どこか野宿さして…・多難なバス・キャラバン

バスは午後0時ごろ、天王寺区の四天王寺に「境内で野宿したい」と申し入れたが断られ、深夜の町をさまようバスの後には大阪府警の警備車1台、バス2台、パトカーなどが続き、物々しい“行列”にふくれ上がった。
今年の
2月、大阪市から「公園の不法占拠」としてテント村の強制退去をさせられ、この冬は早くからテント使用の不許可を言い渡されていた。
実行委はあくまでも越冬闘争は続けると、この
0日から花園公園で夜食のたき出しや、たき火野宿を続け、25日夜には約180人の労働者が弁当を受け取った。しかし、実行委ではテントを張ることができないうえ、警察の監視態勢がきびしく、地区外に宿泊場所を求めることにした。
20万円で買い入れたバスの車体に「仕事よこせ」「殺人行政糾弾」と赤ペンキで大書し、花園公園に乗りつけた。
四天王寺の南谷恵澄執事長が「重要文化財もあり史跡なので野宿はお断りしたい。多人数の宿泊施設はない」と断り、
1120分、再びバスに乗り住吉神社へ向かった。
住吉神社では、大阪府警警備車、パトカーなどが先まわりして神社への立ち入りを規制。労働者たちは神社前に降り立ち、
1服しただけ。26日午前040分ごろ、国鉄大阪駅西側ガード下で、ふとんなどを敷いて“寝ぐら”づくりを始めたが、警察側から「撤去しなさい」と警告されしぶしぶ引き揚げ、また深夜の町へ。(朝日新聞)

12月 大阪市「あいりん越年対策」南港プレハブ仮設となる
12月28日 あいりん地区・臨時宿泊所・あすから開設・昨年より百人ふやす

2年続きの不況できびしい年の暮れを迎える西成区のあいりん地区の労働者のために、大阪市は年末年始恒例の臨時宿泊所を昨年より1日早い29日から開設することを決めた。期間も112日までと1日延長し、昨年より百人多い千3百人を収容する。
昨年は
5カ所千2百人の受け入れ準備をしたが、大みそかまでに満員。正月3日間はあぶれた約3百人に即席めんなどを配る騒ぎになった。
今年は態勢強化のため、プレハブ
2階建て、8百人収容の大きな「南港臨時宿泊所」をつくった。民間施設「自彊館」で2百人、さらに生活保護施設3カ所を新増設して3百人を受け入れる態勢を整えた。(朝日新聞)

12月 大阪自彊館 昭和46年から続く大阪市の「あいりん越年対策」を受託
大阪市越年対策
越年対策=50年12月29日〜51年1月12日(14泊15日)、993人収容(延べ10,194人)、収容施設(大阪自彊館200人・南港793人)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、求職交通費)
日雇い失業保険給付金(アブレ手当)の推移
あぶれ手当が推定平均賃金の6割になり、「手帳」の値打ちが高まった。
西成労働福祉センター把握求人数月別推移(71-75年)

1976(昭和51)年

尼平線道路拡張工事着工/邦寿会今宮診療所閉鎖
2月 長柄寮の一部を更生施設大淀寮に変更
2月12日 衆議院予算委員会議事録 11号
雇用不安 雇用対策
3月1日 越冬実、釜ヶ崎仕事保障闘争委員会と名称変更
3月8日 みなと宿泊所を救護施設に転換する理由
【昭和51年3月定例会常任委員会(民生保健・通常予算)-03月08日】では、港区のみなと宿泊所を救護施設へと転換することの説明がなされています。
議案第67号「大阪市立環境改善施設条例の一部を改正する条例案」について、ご説明をいたします。今回おはかりいたしますのは、港区港晴2丁目におりますみなと宿泊所を廃止するためであります。
 みなと宿泊所は、主として港湾作業に従事する単身労働者に宿泊を提供し、規律ある生活を通じて、その福祉の向上をはかることを目的として、昭和 38年2月に設置したものであります。定員は230名で、当時は、定員を上回る利用希望者があったのでございますが、昭和 40年に港湾労働法が制定され、港湾労働者の雇用の促進が行なわれましたこと、荷役作業の機械化が行なわれたことなどにより、宿泊希望者が年々減少し、今年度における1日平均利用者は 40人強、利用率19%となっております。
 一方、西成区の更生相談所をはじめ、各区の福祉事務所では、就労の機会に恵まれない病弱者、あるいは住所不定者の相談が増えており、施設収容を必要とする人々のために、旧愛隣寮や長柄寮の転用をはかり、対応してございますが、これらと呼応して、このたびみなと宿泊所を廃止することとし、これら施設をできるだけ早期に回収にとりかかり、生活保護法における救護施設への転用を行ない、病弱な人々を収容していきたいと考えております。
4月 「今池こどもの家」今池生活館に開設
6月14日 機動隊つき撤去・あいりんの“無料休憩所”
花園公園に釜ケ崎仕事保障闘争委員会が5月初めから開いていた労働者の“無料休憩所”を都市公園法違反の不法占用として作業員を動員して撤去した。大阪府警の機動隊ら3百人が警備ー略ーこれに対して仕事保障闘争委員会は約30人が休憩所の中にスクラムを組んで座り込み「強制立ち退きをゆるさないぞ」などとシュプレヒコール(朝日新聞夕刊)
6月 大阪市、花園公園退去勧告。14日強制排除
6月16日 

大阪市は「釜ケ崎仕事保障闘争委員会」の休憩所・食器などを撤去したが、この措置に反発する同闘争委は公園内に屋台を持ち込んで無料の食事提供を再開、15日も労働者の列が続いた。
市公園局は再び撤去する構えだが、撤去作業はすでに
6回。屋台での食事提供が再開されたのは、撤去作業から間もない14日午後1時半。他の場所で作った雑炊を同公園に持ち込んだ屋台の上で食器に盛り、従来通り朝、昼、夜の3食を提供。夜には野宿用のふとんを貸すなどしている。
撤去で食事が中断したと思った人もあり、
1415両日に食事を受けた人は以前よりも少なく、1回につき20人から30人。
同闘争委では、去年
12月から労働省・府・大阪市の3者に対し「特別公共事業・特別求人を出すなどして1カ月に14日の仕事を保障せよ」などと失業者の救済を強く要求したが、実りある回答はなかった。(朝日新聞)

6月30日 大阪市 大阪市社会福祉審議会に諮問
愛隣地区福祉対策の今後の進め方について
7月1日 釜ヶ崎日雇労働組合結成
7月20日

「釜ケ崎日雇労働組合」は19日夜、3角公園で市公園局が15日に行った花園公園の立ち入り禁止措置に抗議する「花園公園締め出し糾弾集会」を開き、近く市に抗議することを決めた.。同組合によると、食事提供は同地区内の別の公園で再開したが、このことを知らない人もあり、食事にくる人は半減。これまでのように宿賃のない人がテントの中で寝ることもできなくなり、同組合所有のバスの中で夜をすごしているという。(朝日新聞)

8月 大阪自彊館 館内報「自彊の友」創刊
「自彊館は明治45年6月15日事業を開始、この6月で創立満六十四周年目を迎えた。この伝統ある歴史の上に立つ館が現在経営する施設は、自彊、白雲、愛隣、今宮、南山の五寮で、年間予算額は十億円近いものとなり、職員数も百八十名を数える大所帯となった。/こうした状況下において、かねてから館内報の発刊が望まれてい−た。」(自彊の友・創刊号・「創刊にあたり」)
11月 花園公園フェンスで囲われる。炊き出しは仏現寺公園へ
11月 釜ヶ崎の労働者に越冬の100万円カンパを
関西キリスト教都市問題協議会・越冬支援世話人会(1975年10月27日〜1976年10月25日記録)
11月6日 「喜望の家」オープン
萩之茶屋2-8-18。現在地に同じ。
12月15日 釜ヶ崎における越冬についての要望書
市長・民生局・公園局宛 要望者代表=釜ヶ崎協友会・関西キリスト教都市産業問題協議会・釜ヶ崎地域問題研究会)
12月21日 たき出しや巡回も・日程は「日刊越冬」を見て下さい

支援活動はこれまで冬季に限られていたが、同労組が今春以降もたき出しを続けているので、今年はたき出しなどの規模を拡大しようと、同地区の労働者らに実行委への参加を呼びかけてきた。
計画によると援助活動の期間は
228日まで。(1225日から)炊事班の食事提供は西成区萩之茶屋1丁目の萩之茶屋北公園(通称仏現寺公園)で、朝・昼・夜3食各23百人分を作るほか、無料で寝具も提供する。夜間パトロールは午後8時と午前2時の2回。(朝日新聞)

12月25日 29日から臨時宿泊所・あいりん地区・市が年末年始対策
大阪市は29日から来年10日まで(1213日)臨時宿泊所を設ける。
同市の推定ではあいりん地区の労働者は約
18千人。住之江区の南港東と西成区天下茶屋に臨時宿泊所を設け、計千人を受け入れることになった。
2930の両日午前0時から午後3時まで大阪市立更生相談所で受け付けるが、29日は50歳以上、または40歳以上で雇用保険日雇労働被保険証を所持している人に限る。(朝日新聞)
12月25日 あいりん冷雨・雑すいに行列黙々・支援活動始まる

越冬実があいりん総合センター前の軒下で雑炊のたき出しを始めたのは午前9時、1泊約4百円の宿泊代が払えずにふとん1枚で夜を明かした人たちが、それより12時間も早く集まり列ができた。3年目の“不況寒波”をかぶってことしも厳しい年の瀬を迎えた。
同地区でこの
1年間、仕事にあぶれた人に、たき出しを続けている同実行委の母体である「釜ケ崎日雇労働組合」や関係機関の話だと、同地区の労働者の求人状況はことしのお盆すぎから秋にかけて前年より約4割ふえた。
しかし、万国博や列島改造ブームの当時と違って、老人や病弱者向けの軽作業は数えるほど。
救護施設にも入れないまま凍死や病気で路上死する人が
50人を超えた。今月中旬ごろからは建設現場などが相次いで仕事休みとなり求人数も減少した。(朝日新聞夕刊)

造船不況と釜ヶ崎
 1976年、鎌田慧さんは、木津川の河口にかかっている「めがね橋」の中程から木津川沿いの造船所を一望します。
  「河口にむかって左岸に、手前から佐野安船渠(ドック)、名村造船所、三井造船藤永田と櫛の歯状にドックが掘りこまれ、岸壁には造船所特有のクレーンの林立が続いているのだが、ドックには船影はなく、クレーンはそっぽを向いたまま動こうともしない。労働者の姿は見えず、鉄板を叩く景気のいい音もたちのぼってこない。−造船ブームのピーク時の 74年に、佐野安船渠は大阪本社工場だけで本工1,300、下請1,300。名村造船が本工1,100 、下請1,400。藤永田が本工で2,000、下請が1,400ほど在籍していた。ところが、いま、佐野安で本工は 200、下請で80名たらずになってしまった。ほかの造船所も同様である。−
 造船業は、受注産業であり、そしてまた労働集約型産業であるため、下請労働者への依存度が高い。−たとえば、造船業界で 60年を100とした場合、ピーク時の74年は本工が131にたいして、下請工は264にも達していることによっても、そのことを理解することができる。−
 わたしは、この木津川筋の下請労働者たちと話あって、彼らのほとんどが釜ヶ崎の労働センター前で、手配師に拾われて造船所で働くようになったことを知った。製鉄業でも、たとえば北九州の八幡にある労働下宿が、新日本製鉄への労働供給を一手に引きうけていた。鉄鋼、造船など日本の重工業の最底辺部は、土木業とおなじように人夫供給業によって維持され、そこが需給バランスの調整弁となっているのである。( 1980年、鎌田慧、「労働現場」、岩波新書)」
1970年から76年にかけて職安登録した労働者の平均年齢
大阪市越年対策
越年対策=51年12月29日〜52年1月10日(12泊13日)、1,202人収容(延べ10,322人)、収容施設(大阪自彊館278人・南港924人)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、)

1977(昭和52)年

1月 大阪自彊館 「自彊寮」と「白雲寮」の耐火構造工事、設備改善工事完了
(昭和51年5月〜52年1月末) 木造間仕切り壁を耐火構造化。全居室にカラーテレビ設置、全館冷暖房化。
2月2日 長びく不況にあえぎ・あいりん野宿者に続く夜間パト・延べ3百人以上保護
(朝日新聞)
2月19日 撤去は許せない・日雇労組代執行に「異議」

萩之茶屋北公園で仕事にあぶれた労働者に食事などを提供している「釜ケ崎越冬闘争実行委員会」が活動拠点としている同公園の仮設雨よけなどを行政代執行法に基づいて強制撤去する方針を打ち出し、代執行令書を同越冬委に渡した。
去年までは同区花園北
1丁目の花園公園で実施していたが、同公園は去年11月、同市公園局が「改造の必要がある」としてフェンスで囲って立ち入り禁止とした。
今年は去年
1225日から萩之茶屋公園行われている。同公園には、ベニヤ板で作った仮設雨よけのほか、野宿用ふとん30枚、たき火用の廃材などが置かれ、1780人の労働者が利用しているという。(朝日新聞)

3月1日 衆議院社会労働委員会議事録 2号
 景気のしわ寄せ 山谷 あいりん 中高年
3月13日 「海陸風(司)」(朝日新聞)

テント村強制撤去について、大阪市を相手どって執行停止を申し立てていたのに対し、大阪地裁は11日、これを却下する決定をした。
理由は「申し立て人が損害をこうむるわけではないから。」テント村は第
7回越冬闘争実行委員会が萩之茶屋公園に去年の暮れから設けていた。
決定は行政事件訴訟法の解釈をタテに実質的な判断を回避し、門前払いの形で終わった。

3月15日 衆議院地方行政委員会議事録 3号
あいりん 救急医療対策
4月7日 仏現寺公園越冬仮設テント強制撤去。公園閉鎖
4月8日 市・テント村を撤去
釜ケ崎日雇労働組合などが去年6月中旬から仕事にあぶれた労働者に無料で食事を提供、泊まらせていたテント村を、大阪市は7日午後、都市公園法に違反した不法占用として行政代執行による強制撤去に踏み切った。
府警警備部と西成署の約
2百人が出動、340人の労働者が見守るだけでトラブルなし。テント村にいた病人1人が入院、5人を更生施設へ収容、宿泊・食事代千円を支給。この日労組のメンバーの姿はほとんどみられなかった。(朝日新聞)
4月13日 衆議院社会労働委員会議事録 9号
日雇い雇用保険 給付金
5月28号 「喜望」 発行:喜望の家
仏現寺公園テント村封鎖写真」
5月18日 参議院決算委員会議事録 7号
釜ヶ崎 こども 箱根
8月1日 衆議院社会労働委員会議事録 1号
柳井建設 宿舎火災
8月 大阪自彊館 盆踊り(2日間)、初の夜店も
9月 聖フランシスコ会「ふるさとの家」オープン。敷地は邦寿会今宮診療所跡地。
11月21日 ホテル新大阪火災(8室に留まる)
12月13日 萩之茶屋中公園封鎖。炊き出しは市民館前で
12月27日 大阪自彊館 滋賀県高島郡今津町に「今津浜生活訓練センターさわやか荘」を開設
総事業費 173,529,000円 (日本船舶振興会、大阪市助成補助)生活保護施設在寮者に、一般の社会人と同様な生活習慣を身につけると共に、美しい環境のもとでスポーツ、クラブ活動などによって浩然の気を養うことを目的とする。定員48名。
12月27日 千人分の臨時宿泊所を用意「あいりん地区」
自彊館臨時宿泊所に2百人分と南港南に8百分の計千人分。期間は29日から110日まで。
市民生局の推計では、同地区の労働者はこの年末で約
2万人。このうち生活に困って相談にやってくる人は約千人と見込んでいる。今年の同地区労働者の越年の世話に費やされる額はざっと12千万円といっている。
釜ヶ崎1977年冬(セミナー資料?)
キリスト教釜ヶ崎越冬委員会(K・J法による越冬を中心とした釜ヶ崎の問題)
大阪市越年対策
越年対策=52年12月29日〜53年1月10日(12泊13日)、1,362人収容(延べ11,308人)、収容施設(大阪自彊館310人・南港1,052人)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、)

1978(昭和53)年

5月20日 新東京国際空港(成田)開港
1月 「センターだより」創刊号
1月 36号「喜望」 発行:喜望の家
海道公園封鎖」野鳥の会使えず喜望の家使用・越冬呼びかけ
1月7日 大阪市3局、簡宿組合に窓の金網撤去を指示
「金網問題が再び問題とされ、大阪市の3局(消防、保健、建築局)は労働者団体の強い要望で 組合に対し全面撤去を指示。組合は築状況を説明して統一見解を発表。3局の再考を促した。(簡宿組合20年の歩み)
2月 37号「喜望」 発行:喜望の家
「ドキュメント夜間医療パトロール」/1978年4月39号・市民館前炊き出し写真「レポート越冬支援活動を終えて・越冬日誌(11月22日〜2月28日)・夜間医療パトロールに参加して」
。。
2月6日 行き倒れて病死か・西成で中年の男性
4日午後1140分ごろ、花園北1丁目の道路工事現場の作業員用たまり場付近で、中年の男性が死んでいるのを、釜ケ崎キリスト教越冬委員会のパトロール隊がみつけ、西成署に届けた。(朝日新聞)
3月23日 衆議院社会労働委員会議事録 7号
無年金対策 あいりん
3月23日 参議院社会労働委員会議事録 5号
あいりん 雇用対策
4月 釜ヶ崎解放会館設立
4月11日 衆議院内閣委員会議事録 11号
原発労働 あいりん
5月 第9回釜ヶ崎メーデー、初の地区内デモ(三角公園→銀座通り→センター)
6月 中島組闘争(7/7まで)
6月6日 衆議院社会労働委員会議事録 20号
特定地域振興 釜ヶ崎
9月 萩之茶屋中公園のカギが外され、炊き出し公園へ戻る
9月12日 大阪自彊館 施設利用者30人が10班に分れ大阪市上空を遊覧飛行
(大阪航空会社 創立10周年記念としてのプレゼント)
10月19日 参議院社会労働委員会議事録 2号
特定不況地域離職者臨時措置法案 釜ヶ崎
10月 釜ヶ崎今昔考 釋 智徳 「大阪春秋」連載
1=1978(昭和53)年10月・第6巻3号・通巻18号 2=1979年1月・第7巻1号・通巻19号 3=1979年5月・第7巻2号・通巻20号 4=1979年9月・第7巻3号・通巻21号
11月21日 大阪自彊館 「今宮寮」の利用者14人が新幹線で岡山方面に旅行
多数の車いすでの新幹線利用は、初めての試みで、上降車時間等で国鉄も配慮。
救護施設「白雲寮」、更生施設「自彊寮」ともに定員240名となる。「消費福祉から生産福祉へ」を合言葉に、利用者全員の作業参加を目指す
11月 ホテル太洋開業
(部屋の広さが3畳になり各部屋に冷暖房とテレビのついた。当時の常識を破る画期的な施設であった。宿泊料金も他の施設は1,000円以下という中で1,800円という思い切ったものであった。/そしてそれ以降建設された簡宿は次第にこのシステムになっていた。(簡宿組合40年の歩み)
12月 大阪自彊館 あすなろ断酒会 5周年記念大会
5年間に300余名が対象者となり、内16名の社会復帰を実現。社会復帰したOBグループを中心に、西成地区での地域断酒会も誕生し、“西成で生活しながら断酒する”という当初の試みが形となって実現した。(大阪自彊館だより・第9号)。
12月22日 海道公園が施錠され、再封鎖。三公園が封鎖状態となる。
12月46号 「喜望」 発行:喜望の家
越冬活動予告・環保局保健所への要望項目」
12月25日 越冬闘争突入、炊き出しは市民館前。布団敷きは医療センター軒下
12月28日 あいりん地区・労働者に臨時宿泊所を開設・あすから市
南港臨時宿泊所に8百人、自彊館臨時宿泊所に2百人の計千人分。期間は29日から10日まで。
受け付けの
29日は病弱者、40歳以上の雇用保険手帳の所持者、50歳以上で手帳のない人が対象、30日はこれ以外の人。(朝日新聞)
大阪市越年対策
越年対策=53年12月29日〜54年1月10日(12泊13日)、1,542人収容(延べ12,342人)、収容施設(大阪自彊館416人・南港1,107人)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、)

1979(昭和54)年

1月47号「喜望」 発行:喜望の家
3公園封鎖・第9回越冬参加呼びかけ」
2月1日 大阪自彊館だより 第9号 収容定員数 860名に
更生施設 自彊寮 定員240名/救護施設 白雲寮 定員240名/救護施設 愛隣寮 定員100名/身体障害者療護施設 今宮寮 定員50名/簡易宿泊所 南山寮 ベッド数230/さわやか荘(生活訓練センター)定員36名/無料労働紹介所/館内診療所(大阪自彊館だより・第9号)
2月48号「喜望」 発行:喜望の家
ある日の夜間パトロール・越冬支援中間報告」
3月49号 「喜望」 発行:喜望の家
「青カン者実態調査中間報告
4月23日 愛隣地区福祉対策の今後の進め方に関する答申
大阪市社会福祉審議会
9月 大阪自彊館 あいりん地域清掃開始
9月 市立長柄宿泊所の事業を廃止
10月 市立長柄寮が市立長柄宿泊所跡に移転
11月57号 「喜望」 発行:喜望の家
釜ヶ崎の結核問題
12月7日 参議院科学技術振興対策特別委員会議事録 2号
原発労働 釜ヶ崎
12月 大阪自彊館 本館食堂、厨房大規模改修工事完了(バイキング方式導入)
食器洗浄機、連続魚焼機などの大型厨房機器を導入。食事の種類と量を自分でコントロールすることで、自立心の養成の一助とするため。同時に、自分で規則的に体重を測定することを推進。
今宮寮連続入浴装置も完成。
越冬支援活動内容
キリスト教釜ヶ崎越冬委員会 1979年12月16日(越冬決起全体集会配付資料?)
大阪市越年対策
越年対策=54年12月29日〜55年1月10日(12泊13日)、1,744人収容(延べ13,363人)、収容施設(大阪自彊館414人・南港1,316)処遇内容(朝昼夕3食、日用品、おやつ、煙草、)
西成労働福祉センター把握求人数月別推移(76-79年)