釜ヶ崎総合年表−1970年代
1970(昭和45)年
職業安定機関が取り扱った万博関係求人の充足状況(関連工事含む・就労延べ日数不明) | |||||||||||
送出県 | 充 足 数 | 送出県 | 充 足 数 | 送出県 | 充 足 数 | ||||||
42・43年度 | 44年度 | 計 | 42・43年度 | 44年度 | 計 | 42・43年度 | 44年度 | 計 | |||
北海道 | 2,040 | 570 | 2,610 | 石川 | 317 | 158 | 475 | 岡山 | 70 | 24 | 94 |
青森 | 1,237 | 775 | 2,012 | 福井 | 118 | 96 | 214 | 広島 | 53 | 69 | 122 |
岩手 | 189 | 350 | 539 | 山梨 | 1 | 24 | 25 | 山口 | 150 | 96 | 246 |
宮城 | 98 | 133 | 231 | 長野 | 19 | 101 | 120 | 徳島 | 218 | 268 | 486 |
秋田 | 431 | 184 | 615 | 岐阜 | 10 | 15 | 25 | 香川 | 341 | 74 | 415 |
山形 | 245 | 296 | 541 | 静岡 | 12 | 13 | 25 | 愛媛 | 408 | 565 | 973 |
福島 | 49 | 134 | 183 | 愛知 | 31 | 17 | 48 | 高知 | 371 | 161 | 532 |
茨城 | 9 | 28 | 37 | 三重 | 58 | 5 | 63 | 福岡 | 253 | 132 | 385 |
栃木 | 6 | 16 | 22 | 滋賀 | 54 | 16 | 70 | 佐賀 | 163 | 41 | 204 |
群馬 | 13 | 9 | 22 | 京都 | 46 | 37 | 83 | 長崎 | 276 | 141 | 417 |
埼玉 | 15 | 7 | 22 | 大阪 | 1,941 | 4,721 | 6,662 | 熊本 | 1,487 | 793 | 2,280 |
千葉 | 10 | 25 | 35 | 兵庫 | 242 | 107 | 349 | 大分 | 344 | 244 | 588 |
東京 | 47 | 29 | 76 | 奈良 | 28 | 37 | 65 | 宮崎 | 865 | 531 | 1,396 |
神奈川 | 14 | 23 | 37 | 和歌山 | 29 | 36 | 65 | 鹿児島 | 1,919 | 1,117 | 3,036 |
新潟 | 577 | 1204 | 781 | 鳥取 | 102 | 65 | 167 | 沖縄 | 33 | 176 | 209 |
富山 | 204 | 148 | 352 | 島根 | 127 | 171 | 298 | 計 | 15,270 | 12,982 | 28,252 |
西成労働福祉センター昭和44年版事業報告(昭和45年10月発行)による。滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山の充足数合計は、7,294人で、充足数総数の25.8%。 |
職業安定機関が取り扱った万博関係求人の充足状況職種別(関連工事含む。42.10.1〜45.1末) 職種 求人数 充足数 充足率 大工 7,790 5,391 69.2% 左官 1,890 898 47.5% とび工 1,667 621 37.3% その他の技能労働者 5,946 3,535 59.5% 土工 21,194 17,807 84.0% 計 38,517 28,252 73.3% 西成労働福祉センター昭和44年版事業報告(昭和45年10月発行)による。
万博会場建設労働者数の月別推移 計 基礎施設
造成人工池
道路・上下水道
電気・通信
地域冷房等修 景
緑地整備
造 園
日本庭園
一般照明シンボルゾーン等施設
お祭り広場
メインゲート
多目的ホール
美術館・名店街
EXPO・タワー
迎賓館娯楽施設
娯楽地域施設等サービス施設
動く歩道
モノレール
EXPOサービス施設管理施設等
本部ビル
報道センター
整備消防本部
電子表示装置パビリオン建築 年月 稼働日数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 総延数 1日平均数 44/4 23 129,603 5,635 25,319 1101 8,786 382 14,395 626 2,592 113 10,538 458 7,192 313 60,781 2,642 5 24 148,269 6,178 27,344 1,139 9,159 382 18,595 775 3,775 157 14,568 607 7,481 312 67,347 2,806 6 23 138,734 6,031 20,543 893 8,910 387 15,908 692 2,388 104 13,356 580 5,659 246 71,970 3,129 7 23 183,934 7,997 38,401 1,670 8,699 378 21,624 940 1,946 85 18,746 815 3,913 170 90,605 3,939 8 24 179,234 7,468 23,570 982 5,541 231 25,170 1,049 2,618 109 18,479 770 3,216 134 100,640 4,193 9 22 212,097 9,639 25,783 1,172 7,551 343 29,175 1,326 2,684 122 19,875 903 3,730 169 123,299 5,604 10 26 225,414 8,669 23,273 895 10,941 421 30,416 1,170 2,218 85 20,572 791 3,458 133 134,536 5,174 11 25 224,994 9,002 14,477 580 8,866 355 36,338 1,454 4,638 186 18,607 744 1,700 68 140,368 5,615 12 25 239,462 9,579 11,366 455 7,440 298 45,249 1,810 5,508 220 15,624 625 4,033 161 150,242 6,010 45/1 23 170,336 7,406 10,190 443 6,699 291 35,713 1,553 4,501 196 9,761 425 3,272 142 100,200 4,356 2 24 116,699 4,862 6,657 277 5,748 240 21,639 902 5,767 240 7,829 326 2,310 96 66,749 2,781 3 11 25,163 2,288 1,292 117 2,517 229 0 0 966 88 517 47 0 0 19,871 1,807 計 273 1,993,939 7,304 228,215 836 90,857 333 294,222 1,078 39,601 145 168,472 617 45,964 161 1,126,608 4,127 西成労働福祉センター昭和44年版事業報告(昭和45年10月発行)による。
1971(昭和46)年
1972(昭和47)年
1973(昭和48)年
左写真の入り口右に「第四回越冬闘争実行委員会本部テント」とある。
1974(昭和49)年
西成労働福祉センターは4日から業務を再開した。が、求人は少なく、あっせんしたのは4日百50人、5日8百人とふだんの1、2割。
大阪市は毎年12月29日から1月3日までの6日間、仕事にあぶれ泊まるあてもない労働者の越年対策として大阪市立長柄共同宿泊所をはじめ、大阪府下の7宿泊施設へ労働者たちを収容、6日間の宿泊場所と3度の食事を提供している。
一昨年末から昨年初は延べ578人、昨年末からこの3が日までにはすでに700人。
日雇労働者たちの団体、全港湾建設支部西成分会が中心となって昨年末から大阪府庁前へすわり込んだり、大阪市と交渉を続け、4日以降も職につけない労働者たちのために宿泊所と3食の保障を続けるよう要求していた。
大阪市はたび重なる激しい突き上げに2日、労働者たちの要求を入れ、年末から施設に収容されていた労働者に限り、0日までの延長を認めることになった。食事の現物給付をやめ、1日千5百円の食費と求職のための交通費を支給することになる。4日約百人、5日は約50人がこの延長を受けた。(朝日新聞)
1975(昭和50)年
不況の始まった去年の正月から、労働者の要求などでこれを12日間に延ばし、今回はさらに定員を3百人ふやして5カ所千3百人の受け入れ準備(30ー11日朝)をとった。
ところが暮れの30日に受け付けを始めると同時にどっと押しかけ、大みそかまでに定員いっぱいになった。正月3日間は、あぶれた約3百人に食糧の現物支給として即席めんなどを配る事態になった。
臨時の宿泊所の1つ北区北扇町の市立衛生研究所跡では1日、労働者たちでつくっている釜ケ崎越冬闘争実行委員会のメンバーが市の委託した臨時所長と「仕事をよこせ、仕事があるまで宿泊を延期せよ」など要求して団交、所長が倒れて病院にかつぎこまれ、後任が決まるまでの3日間、現場責任者は空席となった。
自彊館では同じ日、押しかけた同闘争実行委の労働者ら5人が暴力行為などの疑いで逮捕された。
また5日からは、港区港湾労働者センターで、市から委託されていた責任者と、ボランティアの天理教徒全員がこわくなって姿を消し、市職員が港署員に守られて弁当の支給をする異常事態が続いている。
いずれの場合も市は現場責任を権限のない社会福祉活動家にまかせ、ほとんど顔を出していない。
4日までボランティアとして3加した協友会の金井愛明牧師は「労働者が疲れきって入所してきたのは確かだ。場当たりの越冬行政ではどうにもならない」という。
これに対して大阪市民生局桜木総務部長は「宿泊所の世話は役所がやるとギスギスするので、民間など社会福祉のベテランにお願いした。宿泊は予定通り11日まで続けるが、就労問題がからむそれ以降については労働行政の問題であり、民生としては限界がある」といっている。(朝日新聞)
大阪市民生局は、無料宿泊所の期限が切れる11日朝大阪府警機動隊と関係各署の出動を求め、5ケ所の宿泊所を予定通り閉鎖した。
この朝、天満臨時宿泊所では約30人の労働者がはち巻き姿で同玄関ホールに座り込み、「ワシらはこれからどうすればいいのだ。市に行けば府の労働部へ行けといい、府へ行けば国に言えというし…」と演説。
しかし、退去時間の同9時には、府警機動隊と曽根崎署員が排除にかかり、外に押し出した。また屋上から垂れ幕を降ろし、マ・イクで呼びかけていた2人が、下りてきたところを建造物侵入現行犯で逮捕された。
同市民生局ではこの朝、差し当たっての“生活の糧”として、労働者ひとりずつにカンパン1袋(5個入り)、即席めん1個、ハイライト2個、菓子パン3個、交通費百円を渡した。(朝日新聞)
公園は地元の人が「年末年始に子どものたこあげをしたい」と先に借りていたが、地元と交渉して労働者が相乗りのかたちで借り、12日までは市公園局も黙認していた。
テント村は4年前から年末年始につくられている。暮れの28日から街頭カンパなどで集めた金を資金に3食のたき出しをし、多いときは約200人がテントに入った。いま3つのテントにふとんが35人分ある。夜、深夜、未明に分け4時間交代で計百人が寝ている。
市立更生相談所でも「ことし医療相談は1日平均百30人と、例年の3倍近い。市の療養施設(4カ所、約700分)は満員で、待ってもらっている状態だ」と頭をかかえている。(朝日新聞)
「“不況寒波”食えず泊まれず・あいりん地区「テント村」ルポ・寝るのも三交代で・タキ火囲み疲れた輪」
あいりん地区(釜ケ崎1帯)の日雇労働者に、きびしい冬が居すわっている。
例年なら求人が好転する1月下旬だが、年末年始の落ち込みのまま回復は鈍い。年の瀬から開いた“テント村”は世間がお正月から抜け出しても、ことしはまだ“閉村”できないでいる。
29日夕から、村で1夜を過ごした午後7時ーとっぷり暮れた公園を長い列がヘビのようにうねる。「仕事よこせ」の大きな看板のある炊事テントへと、黙って並ぶ約220人の労働者たちだ。
地区のキリスト教団体が差し入れている夕食弁当と、街頭カンパによる野菜汁のたき出し。食事がすむと公園内の人数は120人くらいに減った。
7時半ー宿泊用のテントは長さ8メートル、幅4メートルの1張りで、泊まれるのは詰め込んでも40人。4時間ずつ寝ては交代する。
午前0時ーたき火のまわりに腰かけてあたれるのは30人足らず。あとは立ったまま、夜が更けて刺すような寒さが襲う。
みんなが前に出ようとするので、たき火を囲む輪が何度もくずれる。疲れ切った4、5人が輪の外に出て身を横たえるが、寒さで2、30分ともたない。
あついお茶をのみに炊事テントへ走る。清酒カップのあきびんと、塩を入れたわん。「塩をたっぷりいれてのみ、朝方バンク(血液銀行)にいくといい。そうする人が近ごろは多い」と若い労働者が教えてくれた。
午前5時ーたき火の輪から1人抜け2人抜け、西成労働福祉センターの寄り場へ。6時ごろには30人余りがいなくなっていた。「どうせ、あかんやろ」。残った労働者たちのうつろな顔。
7時ごろになって、案の定、労働者たちが重い足をひきずってたき火に戻ってきた。「マイクロ(バス)ぜんぜんきてへん」
「テントにバリケード・あいりん撤去めぐり緊迫」
30日夜から301日朝にかけ、周囲約50メートルにベニヤ板、廃材などでバリケードを築いた。
今月中旬以降、大阪市公園局から「公園の目的に反す」と2度にわたり退去通告が出されており、同テントの存続をめぐって緊張が高まっている。
同越冬委は、東京・山谷地区の同様な公園内のテント村が30日強制撤去されたと知り、抗戦に出た。
同夜、「テント村防衛決起集会」を開いたあと、労働者たちと公園の東側を中心に、立ち木や公園の遊具なども利用して高さ2メートルのバリケードを張りめぐらした。
協友会は地区内の生活相談所「いこいの家」、保育活動の西成ベビーセンターなどを中心としたキリスト教5団体のボランティアグループ。
市が年末年始、労働者に開いた無料宿泊所を手伝ってきたが、同施設は1月11日で閉鎖された。
ところが同地区では、仕事がないまま食事代にもこと欠く労働者がまだ多いので、先月13日から夕食弁当の炊き出しをはじめた。
最初は、百50食をリヤカーに積み、地区内をまわり、野宿したり、たき火を囲んでいる労働者に配った。
やがて、釜ケ崎越冬闘争実行委のテント村が再開され、16日からはテント村への差し入れに切り換え、1日2百食に。1月いっぱいで打ち切るはずだったが、テントの中に、高齢者や、体が弱いうえ、働き口のない労働者が多いので、2月もさらに続けることになった。
だが、協友会はボランティア活動では、根本的な解決にはほど遠いとみて、市へ「積極的な姿勢で解決を」と要望書の作成に踏み切った。
市や民間宿泊施設の活用と開放。無料宿泊券の発行。労働センター食堂の無料食券の発行。病人を1日も早く病院へ。ふろ券の発行ーの5項目。
実施されるまで、テント村や他の公園の労働者に、経済措置を講じてほしい、といっている。
テント村に泊まっている労働者に対し、大阪市は22日と24日の2回にわたり「病人や病弱者は市が準備した施設や病院へ来てほしい」と呼びかけ、応じない重病者には生活保護法に基づく強制入院措置を取ることを20日決めた。
同テント村の病人に対して市が収容に乗り出すのは初めてである。
テント村は1日延べ百20人が利用、40ー60人が泊まっている。(朝日新聞夕刊)
市の強制入院の方針に釜ケ崎越冬闘争実行委は、「場当たりの病人対策はテントをつぶす伏線であり、受け入れられない」と、反発している。
これまで同テントの病人たちは連日、どう地区にある市更生相談所に「入院か療養」を申し入れているが、受け入れられない場合が多い。
たとえば、12日、右足の骨ずい炎と診断された男(42)が、「このままでは右足切断になるので、ご配慮下さい」と病院の添え書きを持って相談に行ったが、過去、勝手に退院したことなどから入院を拒まれた。
かっ血して急救車で運ばれても入院できず、ぐったりとなって戻ってきたケース。
数日前からは「釜ケ崎結核患者の会」を作って入院を要求する動きも出ており、越冬実行委のメンバーはこれまでのやり方から、病人を受け入れてもらえる保障はどこにもない」と今度の病人対策を警戒。
仕事のないテントの労働者には、街頭カンパを資金にしてたき出しを続けている。(朝日新聞)
仕事と宿泊場所のない労働者のために釜ケ崎越冬闘争実行委員会が昨年末から花園公園に開設しているテント村をめぐって、立ち退きを求める大阪市との間で緊迫した状態が続いているが、大阪府警警備部は25日朝、約7百人の警察官を動員、テント村で起きたリンチ事件に関する傷害容疑で同実行委員会の4人を逮捕した。
同時に労働者を扇動して暴動を起こす目的で凶器類を用意したという凶器準備集合容疑などでテント村を捜索、角材、竹ヤリなどを押収した。
同テント村については大阪市が近く行政代執行法に基づく強制撤去に踏み切るとみられており、この日の強制捜査は、強制撤去の際に予想される混乱を防ごうとする“先制摘発”ともみられる。
警察側は、実行委メンバーやテント村の労働者たちの大半が連日午前8時・前後に近くの愛隣総合センターまで早朝デモを続けていることから、この朝も午前8時すぎ、約50人のデモ隊が出たすきにテント村に踏み込み、中に残っていた約10人の労働者らを退避させたうえ、リンチ事件の現場検証と凶器準備集合容疑の捜索を進めた。
デモの1団はテント村近くで「テントの仲間がんばれ」などのシュプレヒコールを繰り返したが、周辺の10カ所を交通しゃ断しての警備に動きを封じられた.。
テント村は昨年12月28日に設置、例年は正月過ぎには求職が増えるためテントをたたんできたが、ことしは不況の影響で1月12日にいったん打ち切ったものの、3日後に復活させた同警備部の調べでは実行委の母体となっている釜ケ崎共闘会議は、47年に「手配師追放」を掲げて労働者のほう起をくわだてたが、労働者側との意識のずれや爆弾事件などでリーダーらが摘発されたこともあって昨年は目立った動きをみせなかった。
しかし、不況で仕事にあぶれた労働者らの不満をとらえて、連帯を呼びかける動きが最近活発となっており、東京・山谷の活動家らもこれに呼応する動きをみせているという。
テント村で過ごしてきた人たちによらと、他人の金品を奪いとる“しのぎ”のうわさのある男たち4、5人が、警察の追ってこないテント村に逃げ込んできていた。
うち1人が18日に腕時計をしており、問いつめたら「しのぎをした」といった。5、6人が寄ってたかってなぐったり、こづいたりして追い出したという。「もしあれが“容疑”というやつやったら、どっちが被害者なんや」と、はきすてるような声も。(朝日新聞夕刊)
大阪市は26日午後、テント村を行政代執行により2カ月ぶりに強制撤去した。しかし、労働者ら約80人がたてこもって抵抗したため大阪府警機動隊千百人が出動、投石などした14人を公務執行妨害などの現行犯で逮捕した。
越年のためのテント村は今度で5回目だが、市が強制的に撤去したのは初めて。
労働者と支援学生ら約80人は、赤いヘルメット姿でバリケード内にたてこもり、撤去作業に対して石や汚物をビニール袋に入れた「黄金爆弾」を投げて抵抗。
強制撤去に伴い、同市はテント村内にいた病人4人を病院に収容、40人を同市更生相談所で受け付け、更生施設へのあっせんと宿泊代(千円)の支給などをした。
同市が行政代執行に踏み切った理由@ー略ーAテント村から病人や死者が出ているにもかかわらず、収容の呼びかけにも協力的でないので、人命上このまま放置するのは適当でないBー略ー
「抜本策なく追いたて」
テント村が長引きそうになって市民生局は頭を抱えた。
テント村を強制撤去した場合、住人をどこに収容するかー要保護者をあずかる更生施設は不況のせいで入所者が急増している。大阪市内4施設、定員7百人のところへ千人の超満員。
あいりん地区に多い結核患者を収容してくれる病院も少ない。和歌山、京都の病院まで捜しまわっているのが実情。
「今年の暮れは、もう公園は貸さない。再びこのようなテントはつくらせない。」代執行終了後、大阪市公園局管理部長は断言した。
しかし、十分な施設と病床はあるのか。
「更生施設は50年度に急いで2カ所を新設する計画ですが、場所や時期はまだ…」と市民生局福祉部長は口ごもった。
就労対策となると民生局は大阪府労働部の責任範囲だと逃げ、府労働部の現在の対応も民生局から「とても満足のいくものでない」と批判されている有り様なのだ。
花園公園にあったテント村が26日撤去された。そこで“静養中”だった41歳の労働者、Aさんは「要診察者」として、急救車で病院に運ばれ、入院した。ー寒風に身を縮めるテント村とは比べものにならないほどに居心地は良かったはず。だがAさんは1夜明けた27日、病院から姿を消した。雪が降りしきる正午前であった。・・
ポッリポッリと語るAさんの「気持ち」はおよそこんなものと思われたーいくらいい施設に入っても、まわりになじめず、息苦しい。本当の「仲間」はテント村で気ままに暮らしていた労働者たちだ。病院なんかにいると、だんだん仲間が恋しくなると…。
バスは午後0時ごろ、天王寺区の四天王寺に「境内で野宿したい」と申し入れたが断られ、深夜の町をさまようバスの後には大阪府警の警備車1台、バス2台、パトカーなどが続き、物々しい“行列”にふくれ上がった。
今年の2月、大阪市から「公園の不法占拠」としてテント村の強制退去をさせられ、この冬は早くからテント使用の不許可を言い渡されていた。
実行委はあくまでも越冬闘争は続けると、この0日から花園公園で夜食のたき出しや、たき火野宿を続け、25日夜には約180人の労働者が弁当を受け取った。しかし、実行委ではテントを張ることができないうえ、警察の監視態勢がきびしく、地区外に宿泊場所を求めることにした。
20万円で買い入れたバスの車体に「仕事よこせ」「殺人行政糾弾」と赤ペンキで大書し、花園公園に乗りつけた。
四天王寺の南谷恵澄執事長が「重要文化財もあり史跡なので野宿はお断りしたい。多人数の宿泊施設はない」と断り、11時20分、再びバスに乗り住吉神社へ向かった。
住吉神社では、大阪府警警備車、パトカーなどが先まわりして神社への立ち入りを規制。労働者たちは神社前に降り立ち、1服しただけ。26日午前0時40分ごろ、国鉄大阪駅西側ガード下で、ふとんなどを敷いて“寝ぐら”づくりを始めたが、警察側から「撤去しなさい」と警告されしぶしぶ引き揚げ、また深夜の町へ。(朝日新聞)
2年続きの不況できびしい年の暮れを迎える西成区のあいりん地区の労働者のために、大阪市は年末年始恒例の臨時宿泊所を昨年より1日早い29日から開設することを決めた。期間も1月12日までと1日延長し、昨年より百人多い千3百人を収容する。
昨年は5カ所千2百人の受け入れ準備をしたが、大みそかまでに満員。正月3日間はあぶれた約3百人に即席めんなどを配る騒ぎになった。
今年は態勢強化のため、プレハブ2階建て、8百人収容の大きな「南港臨時宿泊所」をつくった。民間施設「自彊館」で2百人、さらに生活保護施設3カ所を新増設して3百人を受け入れる態勢を整えた。(朝日新聞)
1976(昭和51)年
大阪市は「釜ケ崎仕事保障闘争委員会」の休憩所・食器などを撤去したが、この措置に反発する同闘争委は公園内に屋台を持ち込んで無料の食事提供を再開、15日も労働者の列が続いた。
市公園局は再び撤去する構えだが、撤去作業はすでに6回。屋台での食事提供が再開されたのは、撤去作業から間もない14日午後1時半。他の場所で作った雑炊を同公園に持ち込んだ屋台の上で食器に盛り、従来通り朝、昼、夜の3食を提供。夜には野宿用のふとんを貸すなどしている。
撤去で食事が中断したと思った人もあり、14、15両日に食事を受けた人は以前よりも少なく、1回につき20人から30人。
同闘争委では、去年12月から労働省・府・大阪市の3者に対し「特別公共事業・特別求人を出すなどして1カ月に14日の仕事を保障せよ」などと失業者の救済を強く要求したが、実りある回答はなかった。(朝日新聞)
「釜ケ崎日雇労働組合」は19日夜、3角公園で市公園局が15日に行った花園公園の立ち入り禁止措置に抗議する「花園公園締め出し糾弾集会」を開き、近く市に抗議することを決めた.。同組合によると、食事提供は同地区内の別の公園で再開したが、このことを知らない人もあり、食事にくる人は半減。これまでのように宿賃のない人がテントの中で寝ることもできなくなり、同組合所有のバスの中で夜をすごしているという。(朝日新聞)
支援活動はこれまで冬季に限られていたが、同労組が今春以降もたき出しを続けているので、今年はたき出しなどの規模を拡大しようと、同地区の労働者らに実行委への参加を呼びかけてきた。
計画によると援助活動の期間は2月28日まで。(12月25日から)炊事班の食事提供は西成区萩之茶屋1丁目の萩之茶屋北公園(通称仏現寺公園)で、朝・昼・夜3食各2ー3百人分を作るほか、無料で寝具も提供する。夜間パトロールは午後8時と午前2時の2回。(朝日新聞)
越冬実があいりん総合センター前の軒下で雑炊のたき出しを始めたのは午前9時、1泊約4百円の宿泊代が払えずにふとん1枚で夜を明かした人たちが、それより1、2時間も早く集まり列ができた。3年目の“不況寒波”をかぶってことしも厳しい年の瀬を迎えた。
同地区でこの1年間、仕事にあぶれた人に、たき出しを続けている同実行委の母体である「釜ケ崎日雇労働組合」や関係機関の話だと、同地区の労働者の求人状況はことしのお盆すぎから秋にかけて前年より約4割ふえた。
しかし、万国博や列島改造ブームの当時と違って、老人や病弱者向けの軽作業は数えるほど。
救護施設にも入れないまま凍死や病気で路上死する人が50人を超えた。今月中旬ごろからは建設現場などが相次いで仕事休みとなり求人数も減少した。(朝日新聞夕刊)
1977(昭和52)年
萩之茶屋北公園で仕事にあぶれた労働者に食事などを提供している「釜ケ崎越冬闘争実行委員会」が活動拠点としている同公園の仮設雨よけなどを行政代執行法に基づいて強制撤去する方針を打ち出し、代執行令書を同越冬委に渡した。
去年までは同区花園北1丁目の花園公園で実施していたが、同公園は去年11月、同市公園局が「改造の必要がある」としてフェンスで囲って立ち入り禁止とした。
今年は去年12月25日から萩之茶屋公園行われている。同公園には、ベニヤ板で作った仮設雨よけのほか、野宿用ふとん30枚、たき火用の廃材などが置かれ、1日7、80人の労働者が利用しているという。(朝日新聞)
テント村強制撤去について、大阪市を相手どって執行停止を申し立てていたのに対し、大阪地裁は11日、これを却下する決定をした。
理由は「申し立て人が損害をこうむるわけではないから。」テント村は第7回越冬闘争実行委員会が萩之茶屋公園に去年の暮れから設けていた。
決定は行政事件訴訟法の解釈をタテに実質的な判断を回避し、門前払いの形で終わった。
1978(昭和53)年
1979(昭和54)年