釜ヶ崎総合年表−1910年代


1910(明治43)年

「慈善」4月30日号講演録 慈善救済事業について(男爵渋沢栄一)
維新以来40余年、−弱者保護に関する事業と云うものは他の国々と比較してはなはだ発達していないように思う
明治7年の恤救規則があって窮民を救助する方法はありますけれども、其の救助する範囲は極極小である、而して其の規則の下に与えられる救助の人間は人口百万人に対して僅かに30人位、故に其の費やす所の金額は1年20万円位にしかあたりませぬ、明治7年から43年の今日では養育院の被救助者が増すと云う程度から言うても、決して適当な方法でないと言わなければならない−機械工業の発達とか都会人口の膨張とか物価の騰貴とか云うことから、貧民の数は逐年増加しつつあり、業を失うものも続々と増して参るやうであります、養育院でも日清戦役以前は在院者が凡500名内外であったものが、今では1600〜1700ことによると2千人にもなろうかと思われる程であります、斯くの如き事実を見つつ これに対する救済事業は現在の儘に放任しておくことが果たして適当であろうか、これは大いに講究せねばならぬことではなかろうか
11月1日 大阪毎日新聞 保安課長の後任
本部の天野保安課長は難波署長に栄転せしに就き 其の後任には現警務課長岸本警視、又警務課長には 中村会計主任 栄転すべしとのことにて 本日頃 発表せらるべしといふ
12月24日 大阪毎日新聞 煙草製造所
煙草専売局大阪煙草製造所の工場本館は既に落成したるも 電気室は目下尚ほ工事中にて 明年4〜5月頃ならでは竣成せざる由なるが 電気室落成の上は刻み製造事業は一段の進捗を見らるべく需要最も多き萩の如きは製造高倍加すべしと
今宮巻き煙草工場において昨年来試験中なりし巻き煙草製造機械は その後の成績頗る良く 只欠点と云うべきは紙の破れやすきにありて 百本に対して五本位の割合に不良品を生ずれども これとて漸次其の率を減じつつあれば 今一段の工夫を凝らさば職工の数を大いに減じ得べしといふ
(補足:今宮煙草工場は今の萩之茶屋小学校)
12月24日 大阪毎日新聞 大阪市南北の下水工事
天王寺公園柵外地に新市街を設定するにつき 土地整理上の下水工事費は約1万円余の予算にて 多分 1月より着手し 3月迄に竣工せしむる筈

1911(明治44)年

1月24・25日大逆事件死刑囚死刑執行/2月11日紀元節、「施薬救療の勅語」−施薬救療の資として150万円を下賜−恩賜財団済生会設立
1月 中村 三徳、藤本 友信(帝国漁油株式会社専務)により大阪自彊館発起創立
「慈善」3月8日号 「浮浪者収容所
−近来浮浪者又は乞丐の如き他人の財物に依り、糊口するもの漸次増加の傾向あり、従って直接間接に府民の損害を来たし、善良なる風俗をみだすのみならず、窮余犯罪をなすに至るもの少なからず、依ってこれを放遏し、且つ之を改善せしむる目的を以て、今回警視庁に於いては府会の決議を経て、浮浪者収容所を設立するに至れり(補足:これは計画の発表。実施は後日談有り。)
3月31日 公設職業紹介所 大阪朝日新聞
公設職業紹介所は 近く東京、大阪の両市に開設さるべし 内務省に於いても大いに此の挙を賛し居れるが・・・
「慈善」4月8日号=警察と救済事業との連絡・警視庁方面監督警視丸山鶴吉
貧民といひ、或いは浮浪者といひ、或いは貧兒といひ、或いは棄児といひ、殊に出獄者といひ、悉く警察の方と関係を持っていない者はない−実際其の局にあたって仕事をする我々その方面と 実際暖かい手を以てこういう事(彼等自身の精神的改善、経済的改良)を導きたすけらるる諸君との間にもう少し調和と連絡がうまくついたならば、更に皆さん達の暖かい同情が効果あるものとして、もう少し有力なる力を現すことが出来はせぬか−ということも考えている
「慈善」4月8日号 「浮浪者研究会
東京市内に在る一部の救済事業当局者及びその他の有志者発起となり、浮浪者研究会なるものを組織。委員−安達憲忠、鈴木文治、原胤昭
4月3日 地獄の子供 大阪朝日新聞
貰子、預り子の虐待といふ事は 随分長い間社会の問題となつているが さて肝腎これが救済手段は殆どないというて好い位な始末、この間 難波署でも 部内の貰子、預り子の取調べを行ったが 其の結果は 苦悩(くるしみ)に呻(うめ)いて居る不幸児の救済事業が 益々急であることを明らかにしたのみである同部内だけでも不幸な目に遇うている者が384名ある、それで 一軒で金が欲しさに二人も三人も貰うて居るのがあるから 家数にすると250軒ばかりになる
4月6日 曾根崎署落成式 大阪朝日新聞
5日興行、午前は各署警官の撃剣仕合あり 午前高崎知事を始め官民の有力家数十名来会楼上にて祝宴あり 武田署長新築披露の挨拶をなし 山本検事正の祝辞あり 次に知事は「曾根崎は大阪市の関門なる故 建築の美なると共に署員の奮励を望む」との旨訓戒を垂れ 琵琶、詩吟の余興あり、終わって充実の仕合ありて 5時閉会せり
4月13日 鳶田墓の移転 大阪朝日新聞
西成郡今宮村字鳶田に 鳶田の墓地と云ふあり 維新前の処刑場(しおきば)にて ここにて斬られたる罪人の数知れず 昔は随分物凄かりし地(ところ)なりしが 何時の間にか附近に人家建ち連なり−四天王寺にては この墓地が 同寺の開基聖徳太子御手印縁記及び四天王寺寺史等に 太子が同寺の墓所と定めたまひたる処なるに関らず 何時の間にやら今宮村のものとなり 軈(やが)て北区樋上町上田熊次郎 難波新地四番町上田徳治郎等の所有に帰し −石碑を天王寺に移し−鳶田には罪人の罪業消滅の為に祀りし 踞像の地蔵尊を遺して その跡をとどむる事とした
5月 恩賜財団済生会内務大臣寄付行為認可
5月11日 貧民救済の警察−難波署長の新着眼(5月11日大阪毎日新聞)
天野署長は、彼ら社会に犯罪の多きは生活状態の不自由に起因し、その動機はいずれも憐れむべき事情によるものなれば、犯罪予防の方法として、先ず彼ら貧民の生活状態を取り調べ、その模様によりて救済の手段をつくしやるが良策なりとの意見にて、内密巡査に命じ、それぞれ条目をつくりて調査
5月21日 大阪朝日新聞 免囚保護の演芸会
貧民並びに出獄人保護事業を独力にて経営せる西成郡鷺洲町安田清兵衛のことは去月10日の紙上に「美しい改心」と題して記載したるが その後各府県より救済を依頼し来たるもの夥しく一時に収容者増加したれば来る24、25日の両日道頓堀浪花座に於いて慈善演芸会を催し救済資金を醵(拠)集すという
5月28日 小河滋次カ博士 大阪府会議事堂で講演会 大阪朝日新聞
内務省の嘱託を受け 京阪神の慈恵救済事業調査中なるを機とし 大阪慈善協会は 27日午後4時 博士を聘して 府会議事堂にて 左の講演を聞けり=犯罪者減少のため感化事業の強化・児童・乳幼児の保護の必要を説き、個人の善意に頼るのではなく国家的事業として経営すべきと
6月3日 細民部落調査会 大阪朝日新聞
内務省にては 地方改良事業施行の必要上より 先ず全国に於ける細民部落の生活状態を調査することに決し 各地方庁に其の取調方を命じたるが 来る5日午後一時 地方局に於いて 床次地方、井上神社、有松警保の各局長及び中川書記官、新居警視庁警視等会同して調査会を開き 調査方針を決定すべし
6月23日 大阪市の貧児 大阪毎日新聞
米価騰貴のため全国各地小学校児童の欠席又は退学するもの続出せる
7月6日 大阪朝日新聞 開かれた徳風小学校(写真あり)
今宮の久保田権四郎氏と難波署長天野警視と医師大田豊道、同豊の両氏及び有志者に依って今宮に設立中なりし貧児(ひんじ)収容の徳風小学校及び施療所は5日午後3時開校式を挙げた
揃への筒袖 12畳敷の保育室には有志者より寄贈した学用品が山の如くに積まれてある、新しき揺籃に新調の捲蒲団まで揃えて天井から吊り下げてある「どうです、この通り何から何まで有志の寄贈を得たのです」と天野署長は云ふ、屋内体操場が当日の式場で児童は教師に導かれて式場に
(補注:ここでいう今宮は、現JR新今宮駅北側一帯の旧今宮村今宮村の内第一次市域拡張で市内に組み入れられた地域をさす)
参考:大阪市直営「貧民」学校の設置・廃校過程とその背景 赤塚康雄 部落解放研究 50号 1986年 kiyou_0050-10.pdf
7月29日 貧民1万6千人 大阪朝日新聞
済生会の事業に参考すべく 市内各警察署及び区役所に於いて大阪市内(今宮、浦江、大仁等の接続町村を含む)在住の貧民状態取調の結果報道
「慈善」7月30日号に大阪市貧民数
−此の外立坊、浮浪者、掃除濁溝浚へ等の下等人夫、年が年中今宮長柄辺の汚くるしい木賃宿に一畳二畳の間借生活をして居るもの、残飯、塵芥箱の中の廃棄物等を貰ったり拾ったりして命を繋ぎ自ら炊事したことがないもの、祭日や縁日に玩具の風車などを売り、又燐寸、塵紙などを御慈悲に買うて貰て生活せるもの等497戸1,355人。尚大阪市の主な細民窟−南区は日本橋筋5,6丁目、下寺町及び同字百件長屋、広田町夕日橋天王寺字飛田、同電光舎舎宅同春日通字台湾、高野鉄道沿線、北島町2,3丁目
7月 大阪自彊館 慈善興業を開催
11月7日 犬塚知事、池上警部長同伴で、署長の案内により、木津北島町の有隣、西関屋町の徳風の両校を視察。徳風施療院では、トラホームの施療状況も視察。
12月13日 大阪朝日新聞 貧民校へ書籍寄贈
難波署長の肝煎りで段々と成績の見えてくる徳風、有隣の両貧民校は 此の間の知事の視察を始め 事前救済に関係ある人の参観続々あり 去る9月両校を視察して帰京した内務省の事前救済事業に関係ある留岡幸助氏の内務省報告によって 同省神社局長兼府県課長井上友一氏より 署長並びに設立者宛に 益々同事業に尽力あらんことを望む書翰に 地方経営小鑑、自治救済小鑑、修養の燭光 各三部を送付し来りたりと
12月15日 大阪朝日新聞 職業紹介事業
既記 財団法人大阪職業紹介所の申請に対し、市は同所設立敷地として北区北野高垣町及び南区恵美須町なる元憲兵屯所跡私有地を、無料にて貸与するの認可を与うべく、16日の市参事会に付議すべき筈
12月 大阪自彊館 木村 権右衛門氏から土地946坪を坪3銭で借り受け
8月 弘済会設立
明治22年夏の北区大火災の御下賜金1万2千円、篤志家の義捐金73万9千余円。罹災者12,325口に対し35万1380円を交付。残余金元利合計35万2千余円とその同額を大阪市が出資する主旨で年6分の利子相当額を支出する計画を元に弘済会設立
内務省第1回細民調査(東京)
報告書(45年3月刊)凡例より=調査は44年6月以来、項目・様式・地域等を協定、半年後に調査完了した。細民戸別調査=下谷区萬年町・山伏町・入谷町、金杉下町、龍泉寺町、及び浅草区神吉町・新谷町等。細民長屋調査=小石川区の一部。木賃宿調査=市内全部。細民金融機関(質屋)調査=下谷一区に限。職業紹介所(雇人口入業)調査=日本橋・浅草両区。職工家庭調査=市内で適宜に選ばれた。(1912年3月 細民調査統計表 内務省 の項 参照)
米価暴騰による買占め横行
大阪市の施米。米価暴騰により穀物引換券を発行。9月16日から11月21日までに救助した人員1,135名、引換券発行26,881枚。

1912(明治45)年

1月16日南の大火。4,830戸焼失。/中華民国成立/米価暴騰、堂島米市場立会い停止
1月11日 大阪自彊館 宿舎建築について大阪府へ申請
2月2日 大阪自彊館 大阪府知事(犬塚勝太郎)から「宿屋建物新築ノ件許可ス」との許可を得、宿舎建築に着手
3月 細民調査統計表 内務省 1912(明治45)年3月 刊
 pdf1(凡例・目次・細民戸別調査第10表まで)/pdf2(第17表まで)/pdf3(第24表まで)/pdf4(第37表まで)/pdf5(第41表まで)/pdf6(第44表まで)/pdf7(第45表まで)/pdf8(第50表まで)/pdf9(細民長屋・木賃宿戸別調・細民金融機関調)/pdf10(職業紹介所・職工家庭調査第16表まで)/pdf11
3月13日 木賃ホテル やまと新聞(大阪版) 1912(明治45)年3月13日
有隣学校、木津北島町3丁目に移転。普通長屋2軒をぶち抜いた昔の寺子屋然としたものであったことから、新築移転した木津第2小学校の旧校舎を移築し、運動場の広い学校となった。(地鎮祭1月24日、3月竣工予定)
5月   大阪市庁舎 北区堂島浜通2丁目の新庁舎に移る
6月5日 大阪職業紹介所開所
労働紹介−職工日傭下女下男等−手数料5銭、保証金10銭(保証金は返却)/人事紹介−事務員書記店員等−手数料10銭、保証金20銭(保証金は返却)
大阪職業紹介所は、今宮は新世界前恵美須停留所で電車を降りて西へ二丁、又二丁ほど紀州街道を往けば、東側という、現在の釜ヶ崎に至近の場所に開設
大阪自彊館
明治44年度で売却となる曽根崎、難波警察署の古建物の払い下げを受けた人から、僅かな手数料で譲り受ける。移築改造は鴻池組(鴻池忠次郎氏)が値引きのうえ10年返済(無利息)で請け負う。資金は大日本武徳会からの7,000円、利子は年7朱であった。
6月4日 小河博士、池上警務長 富田部落視察 大阪朝日新聞
内務省の命を受けて貧民部落を視察中 大阪、神戸を終って京都に向かう途中 茨木富田村の貧民部落に向ふた小川(ママ)博士と共に 池上警務長は
6月15日 古賀警保局長談(大阪朝日)
内務省警保局長古賀廉造氏は14日午前来阪し直ちに犬塚知事と同道して府立修徳館及び私立職業紹介所、特殊部落、貧民学校等を視察修徳館を見たるが−設立については自分は一種の理想をもって計画し 其の設置に際しては専ら自分が設計したり この事業の困難なるは第一に悪児童の感化に従事する立派な指導者を得る事なり、最初36年頃より再三設立を企て居たるが 遂に41年新刑法の実施は是非とも此の事業の設立を必要とする折柄 幸い大阪にて適当なる感化者を得たるを以て−設立したり今宮の職業紹介所を見たり まだ不完全なるも誠によき事業なり 従来人夫は親方なるものが其の労銀中より必ず頭を刎ね親方自身は坐しながらにして利益を得居れるが この職業紹介所にては 従来親方の刎ねたる金額は依然之を控除し 其の一部は積立金とし一部は貯金して労働者慰安の途を講ずる資となすの必要ありと自分は云い置きたり
特殊部落及び貧民学校を観たり この学校の生徒は宛然野犬の如し、しかし悪少年にもやはり教育を授け なるべく悪事を未然に防ぐ方針を以て養育せざるべからず 一度悪事を為して後 感化院とか修徳館などに監置して懲治するよりも 未だ悪事を為さざる前に於いて悪事を為さざるよう導くことは其の方法に於いても亦其の結果に於いても非常に優れり、尚同学校付近の貧民窟には久島、大田両医師が殆ど競争的に貧民のために無料施療を為し居れり 是れ全く救貧の目的に適ひ居れり
6月15日 古賀警保局長談(大阪毎日)
古賀警保局長は14日午前来阪、直ちに犬塚知事、池上警察部長等と共に十三の修徳館を視察、午後今宮の浮浪人収容所自彊館および難波の有隣、徳風の両貧民学校を巡視
現今生活難の声高く今や社会の大問題となり居れるが予等当局者も之について大いに研究し居れるが 慈善事業は姑息の方法を以ては到底救済する能はずと信ず 東京においては目下5万の労働人あるが彼等が職業に就くにあたりては請負人なるものありて賃金の幾割は請負人の腹を肥やす事となり労働者の実収は大いに減少せらるるを以て 予は政府の手にて職業紹介所を設け賃金全部を彼等の収入たらしめ而して一半分を以て彼等の衣食費にあて 一半を貯蓄して病気その他養老等の資にあてんと計画し居りたるも 経費なきため実行するに至らず 今回大阪市の自彊館を見て大いに得るところありたり 今後は浮浪人の寄宿舎たるに止まらしめず貯蓄方法をも講じ労働者永久救済の実を挙げんと切望に堪えざるなり
6月15日 警官の堂島市場臨検/保安課長以下4名の出張(大阪朝日)
政府はあらゆる調整策を出し尽くし最早種切れとなりて施すに策無く この上は買い方検挙等の高圧手段を執らん方針なるにや/昨午前数名の刑事は買い方仲買商店に出張して取り調ぶる処あり/午後は中村保安課長以下4名市場に臨検して階上より売買を監視せり/之が為人気に動揺を来たし 買い方の手控えと共に相場は後場一時多少の小緩みを呈したるが しかし 当市場は東京金澤等の検挙に鑑み疾く警戒する処あれば 取引は比較的穏健なるを以て まさか仲買人中検挙を受くるが如き者もあらざるべきも とにかく警官の臨検は時節柄いたく人気を動揺せしめ 取引上すくなからざる障害を与えたるは遺憾なり/尤も保安課長は検挙等の目的にあらず単に視察に過ぎずと弁ぜるが 大体政府は根本的の調節に努めずして 米価の高騰をして一途に人為の買い煽りに因るものなりと思惟せるが如し
6月24日 大阪自彊館 大阪市役所からシンガーミシン12台を払下げる。手芸室を設け、各種裁縫の賃仕事に使用
6月24日 昨今の貧民窟 大阪毎日新聞 1912(明治45)年6月24日
6月25日 私立 大阪自彊館事業開始
初代館長に中村 襄 就任/宿泊救護及び授産事業開始(職業紹介部併設)/二階建宿舎2棟(甲館、乙館) = 付属建物として炊事場、手芸室、納屋、事務室、販売店、舎宅、便所など9棟、計11棟。 建坪340余坪、定員150人/ 宿泊料1泊5銭(布団と入浴付)、食堂は食券制(飯3銭5厘、副食皿2銭、味噌汁1銭、漬物5厘)/甲館と乙館の建坪は299坪、畳敷六畳と八畳宛32室(押入、電灯、下駄箱付)/17時〜6時までの一泊制、門限22時
6月26日 開館したる自彊館(大阪毎日)
帝国漁油会社重役藤本有信氏発起にて中村府保安課長が万事肝煎役になり 昨年10月より府下西成郡今宮村萩の茶屋にて工事に着手し居たる慈善宿大阪自彊館はコノほど竣成し 25日開館せり/コレは先年払下げになりたる曾根崎、難波両署の古建物をソノまま譲り受け改築したるものにて 総建坪320坪2階建て8棟あり 上下30間に仕切り 衛生上の設備に注意し畳夜具など一切新調し6〜7百名を収容し得る予定になり居れり/尚ほ同館の主事綱尚庸氏はもと奈良県保安課長たり ソノ後府の防疫事務にも従事し 貧民救済に趣味をもてる人なる由にて 同館は生活に困る無職者を取調べたる上収容し男子は工場へ通はせ女子には裁縫、ミシン縫など適当の職を与ふる筈(補注:「今宮村萩之茶屋」は、現南海電車萩之茶屋駅のことで、最寄り駅を付けて場所を示したもの。現在の地名「萩之茶屋」に建てられたのではない。大阪自彊館本館の位置は、今も昔も変わっていない)
7月1日 新式安宿の男女 食物を持たぬみじめな客 同宿人の親切(大阪朝日)
(安宿は)畳の上で寝るなどは白切符の方で押入れを二段にも三段にも仕切ってそれへゴロゴロと入って寝るのが普通である、之では社会上の大問題だというので出来た萩の茶屋の自彊館は先月の25日から店開きをした
日が浅いのと広告してないのとで投宿人は少いが其代り入った以上は滅多に出ない、その筈で普通の下宿屋よりは小奇麗な室に新調の夜具蚊帳で寝て風呂附の五銭、食事は一合の大盛りが二銭五厘で其の半分の「割り」が一銭五厘、大の男でも之を二杯喰えば満腹、菜は朝なれば味噌汁が一銭で漬物が五厘、夜は三銭以下で焼豆腐に塩鯖の煮たの位は喰える、其の上酒保もあって荒物類や種々の物が原価で売ってあるので近所で働いて居る宿泊人などは草鞋が切れると態々帰って買いに来る、只禁物は酒で、其の代り貯金奨励のため十円の貯蓄をすれば二階の上等の室へ入れて貰える、更に五十円となれば膳附の飯が喰える、百円となれば先ず成功とあって優遇する仕組である
7月2日 今宮の労働寄宿(大阪朝日新聞)
7月10日 生活難問題 大阪朝日新聞 1912(明治45)年7月10日より 55回連載
序論・生活難の現状(勤め人・官公吏−収入と生活費・巡査)ー分割その1htmlファイル/生活難の現状・大阪の貧民・東京の貧民−分割その2htmlファイル/財政と生活費(男爵渋沢栄一氏述)・生活費の研究(津村秀松)・生活費の比較(植村俊平)−分割その3html
内務省第2回細民調査を実施
都市改良資料のため、3カ月にわたり、難波、日本橋、今宮、木津、西浜など6ヵ所、1681世帯7550人を調査(補注:調査範囲は、第一次市域拡張で編入された範囲であり、今宮・木津といっても、旧村の北部にあたる。)大正3年3月「細民調査統計表摘要」の項参照

7月30日 明治天皇逝去


1912(大正元)年

10月 大阪府 特別高等警察課設置
10月26日 大阪府警に試写室が設けられ
初めて警察で活動写真が上映された。当日試写に立ち会ったのは、二木千年特高課長、中村三徳保安課長ら関係係官であった。フランス革命をテーマとした活動写真と西南戦役の賊軍一青年士官を描いた活動写真は、弁士つきで無事検閲をパスした。(大阪府警史第2巻)
明治天皇崩御の際の下賜金(74万3,400円)を「大正慈恵救済資金」として府県に配布、「明治慈恵救済資金」とともに道府県費を加えて基金とし、その利子を救済事業にあてることにした。
「慈善」10月31日号 免囚保護に対する当局者の措置並びに希望=司法省監獄局長谷本三郎
先帝の−御大故後まもなく其(恩赦)準備に着手し、3つの処置を執った
1,監獄官に対し免囚保護の尤も必要な所以を説き、実行の方針と方法を訓示(監獄官吏は保護会の規模を拡張し執務の改善をはかることにつとめよ。経費は本省よ補給する。各地の保護機関の連携を強化すること。在監人に対し保護の必要を認識させ、進んで保護を受けさせること)。我が国現在の保護会は僅かの例外を除いては、表面の名義いかんに関わらず、事実上監獄官吏の手によって経営管理されているので、監獄官に対する訓令は同時に保護会に対する訓示となる。2,内務省と協議し地方長官に「免囚保護規定」の徹底を訓示。3,仏教各派殊に浄土宗、禅宗、日蓮宗、真言宗の代表者と交渉して、右各派の末寺が免囚保護事業に加功することに致した。各宗の代表者からも貢献方法について司法省に問い合わせがあった。」
大阪仏教和衷会創立
コレラ流行 東京市、各戸へ「コレラ予防の心得」を配布

1913(大正2)年

「慈善」1月30日号 救済事業に就き希望数則−内務省参事官 井上友一
1,救済事業は只在院者の救済のみならず併せて世の中一般風俗の矯正ともなるよう十分心懸けられたきこと
2,畏くも我帝室よりの恩賜金が普く一般に救済事業の元資となり居ることは他に見ざる所なり。恩賜金に関係ある記念日には同情者及隣保の人相会して相当有益なる催しをなし永世忘れざるよう之が方法の行はるるを見るは実に良工夫なるべし。
3,救済事業を経営するものは出来得べくんばなるたけ速やかに財団なり公益法人となし、永久持久の方法を立てたきものなり。又−行々は事業に従事する勤続功労者及遺族に対し退隠料又は扶助料を与えるの方法を定め、従事者をして安心して職務を執るらしむる様致したきこと。
4,事業の経営には力めて経済的方法をとり院内に空き地あらば果樹其の他の栽培をなしあらゆる利用の途を講ずべし、又賜金あらば追々農場地を広め進ては北海道其の他未開墾地ある府県当局者に諮り移住開墾をなすよう致したきこと。
5,事を成すは人にあり−役員其の他の人選に関しては十分に注意を払われたし、又寄付金の募集に関しては往々其方法を誤り却て世人の同情を失うが如きことあり最も慎重に取り扱はれたきこと。
6,育児院に於ける児童の教育は成るべく公立学校に於いて之を受けしめたし、又適当なる家庭あらば児童を委託して社会実際の事物に接触せしむるは甚だ可なり
7,内務省よりの助成金は之を基本金に繰入れて蓄積せるものと、事業資金に使用せるものとあり、当面改良を要すべき事項あるに於いては宜しく之を活用し十分の成績を上げられたし。
8,すべて己の職業に十分の趣味を感じせしめ、農人気質、商人気質、職人気質の養成に付いては殊に全力を尽くして工夫せられたし。
2月2日 発起人 藤本 友信(西区靭中通1丁目17番地)により大阪自彊館の財団法人設立申請
設立時理事中村襄、酒井猪太郎(「雑喉場大尽」といわれた実業家)、小林林之助(名物菓子「粟おこし大国」本舗の3代目主人)。中村三徳(当時難波署長)は評議員
2月25日 大阪自彊館 大阪市西区天保町の府立消毒所の土地を、分館用に有償借用申請
3月  天王寺公会堂を設置(昭和10年3月廃止)
4月18日 大阪自彊館 分館用土地建物借用申請認可
「慈善」5月30日号 浮浪者収容所建築の現状
東京府下駒澤村字深澤に浮浪者収容の目的にて建築中なる「被護人収容所」なるものは、此頃漸く竣成せんとしつつあるが−府会にては十分の調査の上ならでは今直ちに収容することの好結果なるか、あるいは不結果に終わるかの懸念もあればとの理由の下に其の収容費用を予算に編入することを否決し本年4月より収容することは延期となる−法律によらずしてある程度の強制収容と強制労働を課せんとするは憲法違反であるという反対意見警視庁は当人の同意による収容と主張。結局、開所することなく廃止。台湾では「台湾浮浪者取締規則」(明治39年)により、総督の許可を受け、定住地又は矯正就業執行地に送致することができた。明治41年台東岩湾浮浪者収容所、台東庁南卑社と称する収容所を設けた。
6月6日 大阪の社会事業=国民新聞
6月9日 大阪自彊館の財団法人設立認可  (内務大臣 原 敬)中村 襄 理事長就任
7月1日 大阪自彊館 築港分館開設
大阪市西区天保町にある大阪府立消毒所を借り、宿泊保護事業として築港分館開設(分館敷地2000坪、建物504坪、収容能力300人)
「慈善」7月30日号 大阪職業紹介所 満1年で「紹介所期報」を発行
労働者の生活状態=労働者の収入は労働の種類に依て多少の別あれども1時間4銭乃至5銭と見ば大差なかるべし 而して労働時間は概ね12時間内外なれども彼等が一日の収入は平均50銭なるべし
(1)単身労働者は木賃宿に宿泊して三度の食事は凡て安飯屋にて食するもの多し、彼等が一日の生活費は
朝食=大盛飯4銭5厘・味噌汁1銭・漬物5厘/昼食=中盛飯3銭5厘・煮物1銭5厘(此は弁当)/夕食=中盛飯2杯7銭・煮肴3銭・汁1銭/其他=莨代3銭・草鞋1銭・宿料8銭・小使2銭
草鞋代1銭とあるは一足3銭の草鞋を3日間使用する勘定にして 小使2銭とあるは昼食が弁当なるがため昼後の空腹をいやせんとて間食をなすがためなり
生活費一日36銭 1ヶ月10円80銭、之に1ヶ月間の被服費50銭、散髪料17銭(散髪1回、髭剃1回)を加ふれば、合計11円47銭の勘定なり、而して1ヶ月の労働日数は雨天又は仕事の切目等ありて平均24人と仮定せば、1ヶ月間の収入高12円にして結局53銭の残金あるに過ぎざる也、故飲酒の習癖ある者は勿論、假令その習癖なくも雨天続くか仕事の切目多き時は、忽ち糊口に窮するに至る、
因に安飯屋の飯料は凡そ左の如し
大盛飯(1合3勺)4銭5厘/中盛飯(1合)3銭5厘/小盛飯(5勺)2銭/煮肴5銭又は3銭/煮物2銭又は1銭/滓汁2銭/味噌汁1銭/漬物5厘/酒1合6銭
(2)妻帯労働者 借家賃は2階1室1円50銭、下階2円50銭、之に電灯料60銭を加ふれば、2円10銭乃至3円10銭の勘定なり、米代は夫婦に子一人と仮定して1升5合、1升23銭としても1日の米代34銭5厘、1ヶ月19円5銭の支出は、雨が降っても日が照っても支払はざるべからず、而して一ヶ月の収入高は24人分と見積もりて日給50銭ならば12円、60銭ならば14円40銭、結局5〜6円の欠損は免ること能はざるなり、此の5〜6円の欠損を補ふために夜業をなすか、妻子に内職を営ましむるか、兎に角一工夫を要せざるべからず之れ労働者が容易に妻帯すること能はざる所以なり、而も労働者の多くは飲酒、賭博の習癖を有するが故に其の生活状態は實に悲惨を極む
6月 内務省宗教局の文部省への移管
5月 「大阪救済事業研究会」府の助成の下発足
月刊雑誌「救済研究」発行
9月1日南京事件
「慈善」第5編2号(11月30日) 浮浪者の救済  丸山鶴吉
浪者が如何なる害毒を社会に流すかといふ事は一言にして盡せば、公安を害し風俗を紊るという事で盡きて居る
第1 国家は彼等浮浪者より得べき生産力を失って居る
第2に 真面目に正業に就て働いて居るものに物質上、精神上非常な迷惑を掛けて居る(繁華な雑踏の場所を徘徊し乞食して、体裁の悪いのみならず、動もすれば掻っ払いをなし、掏摸を働き、強談威迫をなし始末に行かぬ、それのみならずこれらの内から漸次養成せられて、凶悪なる大罪人を出し、安寧を紊る事が多い、而して非常なる感染力と誘惑力とを以て動もすれば、良民を引き入れて無頼の徒に化する虞がある。−冬になると火気を弄する結果火災を起こす事が決して少なくない
浮浪者自身を救済して独立の良民にせなければ、同胞の道義に悖るといふ道義上の理由以外に、社会的の大問題として、如何にかしてこの浮浪者を取り締まり救済の策を講ぜなければならぬ−
東京の焦眉の問題として、兎も角も救済の手をくださねばならぬものは、浅草公園其の他公園を本拠とする、無宿の浮浪人であります。
警視庁明治44年11月1日午前5時現在一斉取り調べ−549人(214人は病者不具者、不具者が半数、次がライ病患者、精神病者。病者不具者以外の其の他は、どこが悪いという事のない身体衰弱者
性質が懶怠にして労働心がなく、又長い間浮浪生活を続けて精神力の全く欠乏して居るもの=欧米に見るような強制労役法を実施して厳重な監督をして、設備も完全な収容所に収容して逃走を防ぐと同時に厳重な処罰を定めて、強制して労働の習慣を養う事にせなければならぬ(官設の機関)
一時的の浮浪人=失職したり、家出したりして一時的の浮浪生活をするものは、よく之を見分けを付けて、或いは国元に帰したり、或いは労働を紹介したりする機関が必要−警察の活動も一層望ましいが、或いは停車場に袈裟かけて出張って目途なく出京するものを案内し、説諭する方法もよかろう、或いは方面を分けて巡察員を派して終始公園や其の他を巡回して、見分けを付けてこの一時的浮浪者を救い出してくるという方法もよろしかろう
病人や不具者の浮浪者=救済の手が全然行き届いていない、ライ病患者だけはライ予防法の結果、療養所が出来て収容せられているけれど完全に目的を達している、不具者についても同様である
特にどこが悪いといふ程度でなくて心身の全体が総体に衰弱した結果、労働の気力も精力も欠けている浮浪者=養育院に行くわけにも行かない、労働を主眼とする救済機関たる寄宿舎にも厄介になることが出来ない、木賃銭を得るだけの労働も出来ない=主として身体の健康回復ということを主眼とした収容所または療養所を設けて、相当の食餌を与え、教戒を施して、農園か何か極めて衛生的な呑気な、最小限の労働に従事させて、ある程度まで健康を回復したら、他の救済機関に送つて普通の労働に服せしむる様にする事が必要
12月6日 今宮保育所 開所
初め徳風尋常小学校内に仮設せしが、翌年六月保育部の移転と共に現地(南区南高岸町866番地)に移り、更に大正8年2月1日保育部の南区貝殻町に新築移転するやその事務所跡を改築拡張−/当所附近は元、蜂の巣と称する有名なる貧民窟なりしが、時勢の変遷に伴い近時稍々其の体様を改めたりと雖も、尚関谷町辺は依然旧状を存せり。故に当保育所にて取り扱う保育児の家庭には極貧者多くその職業も千差万別にしてあらゆる種類を網羅す、従って代書、人事相談、救療施薬等の件数も多く、また、斯くの如き環境に生育せる保育児は心身の発育に関し一般と聊か趣を異にせる−」(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)
12月21日 木津保育所 開所
南区木津北島町2丁目。二階建て長屋3軒を連絡して、階上を遊戯室に、階下を事務室、食堂、幼児寝室に充つ。−尚隣地に三十坪の運動場を附置。/当所附近は所謂木津の細民部落にして住民の生活状態に特殊の色彩を有し、職業の多数は皮革、牛骨の加工にして、風俗習慣の他部落と異なる点あるより保育児の取り扱いに特別の注意を要するものあり。事業開始当初はその成果につき多少疑念をはさみしも、漸次保育所が彼等の生活補助機関として必須のものたるを知るに及び信頼と尊敬の意を表するに至り、着々効果をを挙げつつあり。/保育児にトラホーム患者多きは遺憾とするところにして職員は之が根絶に全力を尽くしつつあり。(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)
大正元年度大阪職業紹介所の実績「慈善−大正3年7月号」
受付数   男 13,995人 女 632人
 不紹介数  男  7,083人 女  26人
 就職数   男  6,912人 女 606人
 大正2年度
 受付数   男 14,860人 女 576人
 不紹介数  男  9,823人 女  0人
 就職数   男  5,813人 女 576人
 男求職者の就職割合が低下したるは経済界の不振に基づくものと見るを得べし。
 同所宿泊部業務成績
 大正元年度
 宿泊者総数 2,365人(延総数13,634人)
 一夜宿泊平均数 38人
 大正2年度
 宿泊者総数 2,823人(延総数26,732人)
 一夜宿泊平均数 74人


1914(大正3)年

8月23日 日本、ドイツに宣戦布告/大正3年8月23日 日本軍、青島奪取/肺結核療養所の設置及ビ国庫補助ニ関スル法律(大正8年結核予防法)制定
1月 大阪自彊館 中村 襄 理事長辞任
3月 大正元年調査 細民調査統計表摘要 内務省地方局 1914(大正3)年3月刊
pdf1(凡例・人口・世帯)/pdf2(職業)/pdf3(労働日数)/pdf4(収入額)/pdf5(家屋の構造・家賃・主食物)/pdf6(調査票・記入心得)
参考:細民調査統計表(合冊) 解説−津田真澂 :内務省地方局・社会局編纂/慶應書房刊 1922(大正11)年6月=解説のみです。
3月15日 大阪自彊館 宇田徳正 理事長就任
3月15日 大阪自彊館 授産事業開始(荷車賃貸)
荷車は難波警察署から12台を払い下げ、新規に29台を購入 使用料1日5銭
 自彊館と貸荷車「救済研究」2巻12号−対象3年12月
 今宮自彊館に於いては今回理想的新式荷車百台を新調し一般労働者に貸与すべき計画を始めたるが、客月下旬取り敢えず十台新調したるを以て希望者には普通より一日分に就き二銭宛安価にて貸与すべしとなり。
「救済研究」2巻9号大正3年9月 浮浪者の取締の一班並に下級労働者界の現況ー天王寺警察署長 長尾 長八
警察に於ても浮浪人を取締る旁々客年来の不景気に加えて失業者が増加せる傾向あるやに聞いているので、時局の影響が如何に彼等の簇出を促したかを取調ぶる必要に迫り、天王寺公園に於いて8月に3回の総狩りを催した。
 8月15日署員27名が午前1時から同4時に渡って公園内の共同椅子に眠れる者、或は芝生に横臥せる者、或は無料休息所に轉た寝をせる者等を公園内に設けたる臨時出張所へ拉致したる所、1,200名という多数であった(今までの例では多くても200名を越えたことはない)。その中で78名は本署に引致し、内22名は刑罰に処せられるべき者であった。
 8月16日も同様の体制で、拉致されたる数は約600名、40名は本署に引致、22名は刑罰に処せられるべき者であった。
 しかし、従事員が普通の総狩りと誤解し、時局の影響等に依て一時的失業のため彷徨せる者らは深き子細も聞かず放免したので、所期の目的を達することが出来なかった。そこで、8月27日に3回目を実施。本年夏中最も涼しい晩であったにもかかわらず456名に及んだ。
 その内、住所と職業共にありと認められた者40名、住所無く職のある者150名、住所あり職業無き者213名、住所職業共にない者53名。
 失業の時期では、失業者266名中7月前に失業した者は97名、7月中が57名、8月が112名であった。
「救済研究」第2巻10号大正3年10月「大阪の立ん坊と淫売婦−大阪職業紹介所主事 八M徳三郎談」
 綱一本の商売道具で荷車の先引や後押をして渡世をしている東京の所謂る立ちん坊なる輩は、大阪に於いては「はな引」とも云っている。彼等は専ら難波、湊町、道頓堀河岸、今宮方面を根拠地として 市中最も荷車の多く通る所に立って仕事を待っている、就中雑魚場仲仕、或いは船舶より荷上げをする水仲仕の連中は可成りの収入もあるが、普通一般の先引は1里10銭という相場である。−収入は、1円50銭ほどの時もあり、或る時は俗に「あふれ」と云って全然収入のない日もある。一日平均して50銭内外である。世の不景気につれて失業の徒が増加すると勢い彼等の仲間が多くなり従って競争が始まって、了ひには賃銭等を眼中に置かずして、一輛の荷車に5人も6人もの立ちん坊が群れをなして付きまとうといふ状態である。
 彼の今宮、難波、九条、玉造方面に巣窟を構えている密淫売婦である。今宮村に就いて調ぶる所によれば、毎夜此処(高架鉄橋)に顕れる密淫売婦は少なくとも80人はあろうと思う。彼等にはそれぞれ親方という者があって、親方は一軒家を借りて2名乃至3名の醜業婦を雇って居るのである。毎夜8時乃至9時頃の人出の多い頃を見計らって彼の高架鉄橋の南一丁北一丁の暗がりに隠顕出没。客は其附近の木賃宿などに宿泊せる労働者ではない、市中各方面の下級労働者が求めて淫売婦に袖を引かれんとして集まり来るのである。普通1回20銭の契約で、大概一夜に6人乃至7人の客に接するのである。
「救済研究」第2巻10号大正3年10月「公園に於ける浮浪狩り其の後の成績−天王寺警察署長 長尾 長八談」
 巡査4名を選び、甲乙2名宛に分かち、隔日隔夜専ら其の任務−天王寺公園に於ける浮浪狩り−にあたらしめ、更に其の巡査が引致し来つた浮浪者取調べに関する専務の巡査部長を一名置き都合5名の特別専務巡査に於いて9月1日より末日まで実行した。
 1ヶ月の総狩挙げ人員2千人程であつた、其の中1,300人は浮浪者でないと認めてよい程のものでそれは現場から退去を命じた。浮浪者として取扱った793人中再犯者36名、3犯8名の44名を引いた残りの749名は実際の浮浪者であった。
 749名の最終処分内訳=説諭放免−475、拘留−27、行旅病人として区役所へ引渡し−42、大阪職業紹介所へ依頼−51、親権者へ引渡し−13、府立修徳会へ収容−6、乞?−3、宇野慈善資金により帰国せしめし者−2、その他−18。
 年令は大概20歳前後の者が多く、金銭を持ったものは427名であって残りの322名は全く無銭の徒であった、たとえ持てる者でもホンの少しばかりであつた。斯くの如く窮乏に陥った輩は遂には困憊の余り勢い強窃盗に変じることもないとは云えない、實に恐るべきは此の浮浪徒であると思う。
10月 天王寺村 貧民長屋「新台湾」の改造計画始まる
「天王寺村犬飼源之助氏此地一円を買収の上、内十戸を改造して顔料製造業を営み、亦春日湯を創め(後現在の春日園=アパートを経営)頻りに生活の向上、風儀の改善を期したりしも敢てその功なく、−池田為次郎氏−八十軒長屋管理及び改善の事を嘱さる。(天王寺村誌)
12月19日 北野職業紹介所 財団法人許可を受ける
失業者を保護救済するが為め諸般の職業及び労働を紹介し、且つ寄宿舎を設け労働者を宿泊せしめ並びに附属事業として少年ホームを経営する等、総て大阪職業紹介所と同一の目的の下に大久保府知事の奨励と小河博士の指導とに依り、石井勝次郎、青木庄蔵、芦森武兵衛、稻畑勝太郎、山本発次郎、島田孫市、八M徳三郎の発起により組織。北野高垣町の市有地の無償使用の許可を受け、大正4年2月2階建て2棟及び附属建物の工を起こし、7月竣工、8月1日より事業開始。大正7年12月電鉄敷設の為、北区上福島5丁目の現在地に移転。大阪職業紹介所と同じく大正5年1月より少年ホームを附設。(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)

1915(大正4)年

1月25日米価調整令交付/11月10日大正天皇 即位の大礼
慈善―第6編6号大正4年1月号 東京の所謂特殊小学校について−萬年小学校長 坂本龍之介
 保護者をして其の子弟を学校に通わせることに就いて直接には何等負担なからしむることを原則として、理髪、沐浴、病気の手当など身体を強健ならしむる又身体上の故障を取除いてやる事等、普通の小学校からいへば家庭の仕事に属すること迄学校でやつて行くといふことにして居る、
 先年義務教育たる尋常小学校の修業年限が延長されて以来、−第4学年までを昼間2部教授編制とし、第5,6学年は全部夜間教授とし、昼間は全部家計のために働くことが出来るようにしている。また萬年小学校では特別手工科なるものを置いて、学校内でも通学の傍ら幾分なりとも生計費を補うべき収益のある様にという−設備もある。
 戸毎巡って新たに説諭奨励の結果収用しようと定めた209名児童に就いて調べた時に、年令は兎に角として本籍なり寄留籍なり、公の帳簿に録されたるだけの者が僅かに17名であった。之を普通の法式に依って、其の帳簿に依って調べそれから就学せしむるという事にすれば、特殊小学校生徒として収容すべき者は殆どなくなる。そこで松田市長が便法を定めて−先ず校長が収容除籍の手続きをして後に区長に報告するということにした。
 保護者の出生地は、東京市生まれ2割(内半分が所謂細民窟で生ひ立つた者)、他の8割は関東、東北、北越で生まれた者が多くて、中仙道に属している一部分を除くと静岡県より西の方に生まれた者は殆どないといつてもよい。
 萬年小学校保護者(813名)の従事している仕事
 人力車夫、人足、土方等所謂下層労働者−247名、指物職塗師屋職人等所謂職人−204人、空俵買浅蜊売など所謂小商人−157人、足袋を縫う、袋を張る、元結を造るなど所謂内職業者−48人、女髪結、按摩、鋸目立、蝙蝠傘直し、刃物研ぎ等−127人、その他の雑業者−30人。
 家の造り−一番多いのは4畳半乃至4畳の家で219戸、次に5畳敷きが209戸。1畳に対し1.05人が平均
2月 貧民窟探検記 第1部−山崎源泉 「救済研究」第3巻2号(1,2) 3号(3,4) 4号(5〜7) 6号(8〜10)
「貧民窟探検記(山崎源泉)」は、「近代庶民生活誌」第2巻「盛り場・裏町」1984年三一書房刊に収められている。解題によると、『雑誌「救済研究」の第3巻2号(1915(大正4)年2月)から7号(7月)まで、5回にわたって連載されたものを収録した。』とされている。今回紹介するのは、第1部のみ。なお、「救済研究」は、大阪府庁内に設置された「救済事業研究会」が発行していたもの。1913(大正2)年8月創刊、1922(大正11)年11月終刊。
3月 大阪自彊館 シンガーミシン12台による核種縫製の賃仕事(手芸室)を閉鎖
3月 感化教育機関「大阪カ行会」(土井元治郎氏)が生活困窮者、浮浪者を大阪自彊館に委託
4月 天王寺動物園 開園。
大正4年「大阪慈恵事業の栞」(大正6年10月・2版・大阪府刊・編集:救済事業研究会)
大阪力行会(市外今宮村字新家大阪自彊館内
土井元治、大正4年4月、独力私費をなげうち市内知名の官民諸氏と諮り、その賛同を得て設立。会の事業執行所を今宮自彊館に置き、府下各警察署より回付を受けた不良少年及び無頼の惰眠等を引き受け収容し、之に適当の職業を授けつつ今日に至れり
大正4年7月開設以来大正5年12月までに警察署及び各区役所より引き受け保護せる人員187名(内成業せしもの29名、残余の158名は未成業者又は逃走せしもの)、大正5年末収容人員は20名(縫工8名、靴工9名、炊事2名、雑役1名)
成業者16名の貯金を調査すると、最高は45円、最低は3円10銭。
役員=顧問2名、評議員14名。理事は土井元治其の他職員6名。
救済研究3巻6号大正4年6月「大阪自彊館慈善演芸会
大阪自彊館は創立当時の負債1万円余の返済のため昨年慈善興行をなし一部を償却したるが 尚ほ残金9千円の負債返済の為本月13、4、5の3日間近松座に於いて慈善素人浄瑠璃会を催したるが中々の盛会なりき。

1916(大正5)年

飛田遊廓新指定

今宮町の土地開拓事業の事例

「阿波学会研究紀要第45号」に現・徳島市西黒田の出身で、今宮町会議員や大阪府民生委員を務めたという四宮九平という人のことが取り上げられています。
それによれば、四宮さんは、『大正5年(1916)、42歳で独立。明治30年(1897)から始まった大阪市域拡張の流れに乗り、土地開拓事業に着手した。当時空き地だらけだった西成郡今宮町(現西成区の一部)の梅南通や萩の茶屋周辺を開発し、4か所(梅南通・松通・旭北通・三日路町)120戸を超える貸家を所有するに至った。』とされています。また、『梅南通にあった九平の屋敷跡は、現在個人病院になっていて、隣接地に九平が建てた2階建の貸家が現存している。また、松通四丁目(現松二丁目)には、戦災で焼け残った貸家が今も50軒ほど現役で働いている。』とも記されています。
4月 岐阜警察部長県下警察各署に「窮民救済並びに取締方の件」通知
県外からの流入防止と県内に於ける救済並びに取り締まり方針を明確化。
8月29日 大阪自彊館築港分館をコレラ患者隔離所に提供
大阪市とその周辺地域で流行したコレラが西区にも広がる。患者への接近者、患者を出した木賃宿の同宿者を隔離し、10月末までに82人収容。
10月8日 大阪自彊館本館乙館1棟を隔離所に提供。
今宮村にコレラ患者発生、11月末までに174人を収容。
12月の大阪府府令戸口調査の除外地
学校は、法により「学事調査(戸口調査)」を実施することになっていたが、大正5年12月の大阪府府令によると、調査除外地区が存在していることが分かる。
 戸口調査=市町村立小学校長は、調査員及び尋常科5年以上の児童をして、その調査小区において毎戸に就き調査し戸口調査票に記入し、これにより学校戸口調査要統計表を作成せしむべし
 戸口調査手続き(大阪府訓令(第28号)
第1条 市町村立小学校長は戸口調査区域の調査小区割図を製し、区、町、村、字、丁目等を記入し、調査委員に交付すべし
第6条 市町村立小学校長は戸口調査票の記入終わりたる時は、調査の重複又は脱漏なからしむる為、所定の小票を毎戸の門口に貼付せしむべし
第7条 戸口調査は、翌年1月8日より7日以内に各調査区一斉に施行し、其の月20日までに完了せしむべし
第12条 戸口は本籍、居留を問わず市町村内、現住者に対し大正5年12月31日の状態を調査するものとす。但し1所帯内の人口中一時不在の者は仍お現住者とみなす。
第13条 官舎、社寺、学校、病院、製造所、興行場等の構内に住居するも、別に一竈をなす者は1所帯として之を調査すべし。但し水上生活者、外国人、兵営、監獄及び左記町村は之を調査せざるものとす
大阪市南区の内=南区甲岸町、?町3〜4丁目、日本橋筋東1丁目、日本橋筋東2丁目、下寺町3〜4丁目、広田町、西関屋町、河原町2丁目、東関屋町、日本橋3丁目、御蔵跡町、天王寺細谷町、西浜北通4丁目、西浜中通1丁目
大阪市東区の内=谷町4丁目丹田裏
堺市の内=並松町
西成郡今宮村の内=釜ヶ崎(俗称)、八尾市(俗称)、燐寸会社跡(俗称)
西成郡豊崎町の内=南長柄、北長柄
東成郡=(略)
第14条所帯の区別
(甲)普通所帯
(乙)一人所帯
(丙)集合所帯=梶経済を異にする多人数の集合場舎、例えば学校、工場、製造所、其の他の寄宿舎及び合宿所、旅人宿、木賃宿、下宿屋、産婆看護婦養成所、孤児院、感化院、其の他各種の救護所等にして、その一場舎毎に1所帯とす。但し、集合所帯内に独立の所帯あるときは(甲)又は(乙)の所帯に拠るものとす
大阪慈恵事業の栞」(大正6年10月・2版・大阪府刊・編集:救済事業研究会)
大阪自彊館本館大正5年1月〜12月利用状況
前年より70名(男−68、女−2名)
期間中宿泊188名(男181、女−7)
退宿者190名(男−183、女−7)
年末人員68名(男−66、女−2)
延人員26,094名(男−25,177、女−917)
貯金の奨励(大正5年4月より12月まで成績)
前期より引き続き53名、貯金額209円50銭
期間内貯金人員229名、貯金額533円30銭
払戻人員259名、払戻額529円3銭
現在貯金額213円79銭
収支=創立以来大正5年12月まで
収入62,736円65銭2厘
支出61,913円33銭1厘
役員の異動無し。但し、中村三徳の肩書きは、難波署長から府監察官へ。
大阪自彊館築港分館大正5年1月〜12月利用状況
前年より142名(男−138、女−4名)
期間中宿泊769名(男761、女−8)
退宿者770名(男−760、女−10)
年末人員141名(男−139、女−2)
延人員39,486名(男−39,259、女−227)
貯金の奨励(大正5年4月より12月まで成績)
前期より引き続き20名、貯金額233円80銭
期間内貯金人員682名、貯金額2,798円50銭
払戻人員651名、払戻額2,758円60銭
現在貯金額303円70銭
収支=創立以来大正5年12月まで
収入19,464円9銭8厘
支出18,853円72銭7厘

1917(大正6)年

「慈善」1月30日=第8編3号 大阪の貧民調査
大阪府警察部保安課にては最近市内及び郡部の各警察署をして、部内に住居せる疾病者並びに疾病にあらざる者の貧民数を戸毎に就いて調査せしめしが、
市内において最も貧民の多きは難波署内にて、疾病貧民は192戸にて341人、非疾病貧民は658戸にて1,805人、合計2,176人を数え、次いで天王寺、曾根崎両署部内に多く、流石に東西の2区最も少なく
郡部にありては 十三部内の1,725人(内疾病者111人)にて 鳳、住吉の両署部内、之に次 
府下全部の貧民数は合計5,238戸に対し1万9千人(内市内2,542戸にて9,024人)あり
而して 疾病者中貧民肺患者は4,221人を数え、市内にては難波署部内の27人、郡部十三部内に肺患者最も多しという。
(当時今宮町は住吉署管内。今宮警察署の住吉警察署からの分離独立は大正8年4月)
5月 岡山県 県訓令第10号 「済世顧問」を設ける
時の岡山県知事は笠井信一
「救済研究」第5巻6号−大正6年6月 下級労働者取締建議
 陳情者=大阪職業紹介所主事・北野職業紹介所常務理事 八M徳三郎、大阪自彊館長 宇田徳正、大阪暁明館長 廣岡菊松、住吉署管内木賃宿組合長 岩間繁吉
 「下級労働者の取締に就いて」
 茲に謂う下級労働者とは、彼の定業なく路傍に立ちて職を求むるもの、通称「鮟鱇(あんこ)」又は「先曳(はなびき)」と呼べる一種の労働者階級を指せる也、彼等が自暴自棄の結果毫も身辺を修めず、常に蓬頭にして襤褸を纏ひ極めて清潔の観念に乏しく、飲酒の為め、感情亢奮し肉感的となれるもの多く、好んで賭博を行い道途「差引」(藁又は紐を集めて綯ひ其一端の結べるものを引き当てたるを勝ちとす)を弄し、或は路上電車番号の丁半を争ふて勝負を賭し或は猥雑聞くに堪へざる言を放ちて往来の婦女子に戯れ、其他群集心理のために自制心を失ひ外界の刺激衝動の奴隷となりて獣行禽為を逞ふし毫も廉恥を顧みざるは風紀上實に看過すべからざる也、若し彼等を戒飾して這般の陋習を矯せんと欲せば
(第1)鮟鱇又は先曳を公許し鑑札を附与し其の数を制限すること
   例えば 住吉署管内 600人以内、難波署管内 200人以内、天王寺署管内 100人以内、
       朝日橋署管内300人以内、九条署管内 200人以内、曾根崎署管内 200人以内
       十三橋管内 300人以内―以下略−
(第2)〜(第5)略
(第6)一定の寄場(人力車夫の帳場の如き)を設け該寄場以外に於て妄に集合せざるやう取締る
   例えば 今宮村鉄橋下/札の辻/逢坂下/難波叶橋/港町駅横/雑魚場/川口波止場/境川/今木町/築港/朝日橋下流/安治川口/梅田/天神橋六丁目/夫婦橋/天満市場/京橋口/北御堂前/安堂寺橋
(第7)彼等を宿泊せしむる労働下宿又は木賃宿営業者をして彼等の身元保証人たらしめ服装及容姿の清潔並に操行等に関し監督保証の義務を負はしむる事
(第8)一警察署管内に一人宛の人格正しく慈善心に富み常識に長じ且つ下級労働者の事情に精通せる者を選抜し警察署長と協力して下級労働者の取締及救護に参与せしむる事
(先曳の員数は未だ明確に知るを得ざれども、まず今宮に於ける木賃宿48軒に宿泊せる約3千人のうち、独身者を1500人とすれば、其半数750人を先曳生活をなせるものと見るを得べし。其の他長柄、四貫島等に散宿せるものは大略500人位を数ふべく、総てに於いて1,200〜300を計上せば大差なかるべしと信ず。「救済研究」5巻5号大正6年5月 八M徳三郎報告)
6月16日 今宮町大字今宮75番地元煙草専売局を建物3棟を改造して尋常科児童461名で今宮第3尋常小学校を開設
7月 軍事救護法制定
傷病兵ならびにその家族もしくは遺族、または、下士、兵卒の家族もしくは遺族にして入営、応召、傷病、死亡等のため生活し得ない者を救護することを目的とする。
8月 内務省地方局に救護課新設
9月1日 今宮村から今宮町へ
12月19日 大阪自彊館 実費廉売場・分配所を開設(白米、木炭、醤油等を実費販売)
 大阪市内8ヵ所 期間は15日間〜9ヵ月余まで
  朝日橋(大正6年12月19日〜大正7年1月27日)
  天王寺(大正6年12月24日〜大正7年1月31日)
  九 条(大正6年12月24日〜大正7年1月31日)
  玉 造(大正6年12月25日〜大正7年1月31日)
  曽根崎(大正7年11月15日〜大正7年10月30日)
  難 波(大正7年1月18日〜大正7年10月30日)
  鶴 橋(大正7年1月22日〜大正7年2月7日)
  今 宮(大正7年2月15日〜大正7年10月30日)
「救済研究」第5巻12号大正6年12月 紡績女工の寄宿舎−大阪毎日新聞記者 村嶋歸之
 大阪府下染織工業工場761中寄宿舎の設備あるもの31(府下の寄宿舎設備ある工場の全数を占める)。
 府下常時15人以上の職工を使用する工場に於ける職工総数14万8,011人中寄宿職工2万9,025人(19.6%)、寄宿職工中女工2万4,772人(85.3%)。寄宿女工年齢別は、10歳以上12歳未満295人、12歳以上15歳未満8,090人、15歳以上1万6,285人(65.7%)。
 建物種類の最も多きは木造2階建てにして、調査15工場中13はこれに属し、−一人当たり寝室坪数は、平均半坪強というにあり、換言すれば畳一枚に就き一人の割合まり、−調査工場中の3分の2までは、一組の寝具を二人以上で共用、−特に寒心に耐えざるは、両番使いと称して寝具寝室を昼夜引き続き使用するものある事之なり、則ち夜勤職工が朝6時工場より戻りて寝ね、夕再び工場に赴くや、之に交替して戻り来たれる昼勤務職工は、夜勤職工の余温の尚未だ覚めきらざる寝床に入るもの
 大正5年中住吉署に検挙せられたる密淫売婦108名に就き、その私娼となる以前の職業を調査したる処聞くに、総員中57名、即ち5割強は紡績女工にして、他は待合雇女2,仲居1,其の他46名なりしと

1918(大正7)年

米騒動・市長=池上四郎・米価暴騰により全ての取引所の立会を中止、米騒動起こる(全国に波及)/11月11日第1次世界大戦終結
4月 市設小売市場開場
 好景気物価暴騰時代に於いて市民大衆の生活脅威を救うため、6ヶ月の予定をもって4市場(天王寺、境川、谷町、福島)を開場した。之が本邦公設市場の濫觴である。偶々同年8月米騒動の勃発に際しよくその機能を発揮し、予想外の好成績を納め得たので物価調整策として永久的にこれを継続施設するに決し、爾来着々市場の整備を図り・・(社会部報告175号・大阪市設社会事業要覧)
6月6日 大阪自彊館 第一簡易食堂を開設(大阪南区日本橋筋東1丁目)
命名は大阪府知事 林 市蔵氏/ 土地は井上重造氏から102坪を無償で借地。 建物は71坪で、食堂内には蓄音機の音楽が流れ、卓上花が香っていた。/ 客席は100席、利用者は1日1,000人超。1食10銭で食べ放題。炊事道具などは本館食堂業務を中断して持ち込む。
 「今開業日より大正8年3月末(注:原文では大正7年とあるが、1日平均数と総数の計算からすると大正8年の誤りと思われる)迄の入堂人員を挙ぐれば35万7,207人にして1日平均1,094人強とす。/一昨大正7年8月米価騰貴の為暴徒至る所に蜂起し主として米穀商を襲い、掠奪を敢えてするや、食堂用精米運搬につき甚大の憂慮を抱きたるに、本食堂が公益主義の下に立脚することが社会一般に徹底され群衆途を開いて運搬上支障なからしめたる而巳ならず、反つて運搬に力を添えたる事実の存するか如き如何に彼等細民の歓迎する所なりしやを見るに足べし、爾来大阪市及び全国各都市に於いて本館簡易食堂と其の軌を同ふする市立又は個人経営の簡易食堂続出するに至りしも全く本館を以て之か嚆矢とすべし」(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)
村嶋歸之著「生活不安」1919年刊
大阪の最初の簡易食堂(日本橋6丁目所在、自彊館の経営)では、恰度開業してから間もなく、突拍子もない米高に遭遇したが、その折りの話に、同食堂では外米三分に糯米三分と朝鮮米三分の混合米を使用して、従前通りめし丈なら二合6銭で売っていたが、近所の飯屋では、善くもそんな値段で売れたものだと不審がって、混合具合や炊き方を聞きに来た。すると厨夫(コック)は、からかい半分に「全部内地米で、炊方は曰く秘密」と答へて返したといふー之は当時同食堂の経営の任に当たっていた宇田徳正氏の著者に語った実話である』
6月 政府 救済事業調査会を設置
勅令第263号により設置。内大臣の諮問により救済事業に関する事項を調査審議し、意見を具陳する組織。
6月 大阪府 救済課新設
大正9年1月に社会課と改称
7月 大阪市 救済係 設置
大阪市最初の社会事業担当係り。庶務課の管掌であった救済事務を継承。
8月10日 今宮町釜ヶ崎の労働者相手の飯屋18軒が相談をして、米価の高騰と白米不足で一時休業を取り決める。

8月11日 今宮町で「河太郎」を営む人らが集まり、米の安売り要求を相談。米商組合米栄会会長の経営する天正米穀店に米の安売りをさせて、他の米屋でも安売りさせることを決める。
 午後7時頃今宮町釜ヶ崎の住吉街道付近に住民300名が集まり、天正米穀店に向かう。天正米穀店で値下げに成功した後、さらに7店で値下げ要求。関西線の南から、釜ヶ崎駐在所までの街頭は、群衆であふれかえった。(午後11時半までに襲われた米商は今宮町で15軒、天王寺村で3軒)
 今宮の群衆は10時半ごろには、天王寺公会堂で行われた米価調節大会市民大会から街頭へ出てきた群衆と合流。住吉街道を南進した隊は天下茶屋方面、玉出町まで進み、解散しました。(図説・米騒動と民主主義の発展・歴史教育者協議会編・民衆社)
翌日、東成郡住吉村では手に手に竹槍を持った暴徒が、前夜の拘留者奪還を叫び住吉警察署を襲撃した。署内に乱入しようとする暴徒から、解散を命じる漆島署長以下署員は投石を受けて、ついに抜剣し正午ごろ暴徒を撃退した(大阪府警史第2巻)
(当時今宮町は住吉署管内。今宮警察署の住吉警察署からの分離独立は大正8年4月)
9月 市民有志が社会事業資金の募集を開始
応募金額93万7,000余円。大阪市はこれに内務省寄託寄附金12万1,000円及び別途取扱金利子1万1,000円と市費を追加、市営社会事業の企画実行にあたることとなる。(民生事業40年史)
9月1日 大阪市 初の簡易食堂を西区幸町に開設(幸町簡易食堂)
市内の信用と経験のある業者を指定して、食事の供給を請負はしめ、設備は無料で使用せしめた。簡易食堂では水道料、電灯料も大阪市負担。簡易食堂では朝食1食12銭、その他は15銭、希望者へは別飯、副食物のみを提供。食堂によっては洋食2皿にパンまたは飯一皿を加え一定食30銭で提供、その他各食堂ともライスカレー1皿15銭、ウドン4銭という値段で供給した。食事の供給時間は、朝食午前5時半から8時まで、昼食午前11時から1時半まで、夕食午後5時から7時半まで。大正14年2月請負制を廃し、大阪市労働共済会の直営となる。他の簡易食堂開設年次−天満簡易食堂=7年9月5日、九条簡易食堂=7年12月29日、今宮簡易食堂=8年6月29日、西野田及び鶴町簡易食堂=8年7月1日。なお、市庁舎公衆食堂は10年9月16日開設。(大阪市民生事業40年史)
10月 大阪自彊館 実費廉売場・分配所を閉鎖
一般窮民救済の目的を以て大正6年12月より大阪市内に於いて六ヶ所、接続市町村の内二ヶ所に於いて(日用品)米醤油の実費提供を開始し、大正7年10月に至る迄継続したり、その数量、 白米=1,145石4斗6升3合3勺7才、醤油=93石(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)
10月7日 大阪府 大阪方面委員規定 公布
時の知事は林市蔵。方面数35、委員527。第1期事業として5項目実施。(1.住民の生活状態調査。2.戸籍の整理について助力する。3.救療を徹底せしむる。4.幼児昼間保育所の利用其他幼児教養に関すること。5.其他必要と認める事項につき調査協力。)(民生事業40年史)
11月 大阪市 救済係を救済課に拡張。
12月19日 中村三徳。中河内郡長に転出
10年1月までその職にあったが、名郡長といわれた人物。大阪府警史第2巻=新聞記事の掲載有り「20年警察界にー新任の中村中河内郡長=中河内郡長に新任せられたる監察官警視中村三徳氏を官舎に訪う「全く初耳です。別に抱負といつてお話しするほどのこともありませぬが兎に角20年間警察界に育てられて来て今や警察拡張を目の前に見て何かお役に立てればと思っていた矢先、こん後方向の変わった仕事をやらねばならぬのでイの一番からたた研究・・・」(新聞紙名日付不詳・府警史に所収のもの)
大正7年 大阪自彊館 実績
本期間新たに宿泊したる人員 927人 延人員 9万8,238人。前期より宿泊人員314人減、宿泊延人員1万4,310人増加。
本期間の新宿泊人員と前期よりの繰越人員を合算すれば 1,177人にして 一人の宿泊延日数 83日46 を示し、前期に比し 25日65 の増加を見る
外泊延人員の如き 前期の2,588人に対し 本期間に於いては僅かに1,238人に止まり 1,350人の減少を来たせり。
蓋し 前記宿泊延日数の増加と外泊延人員の減少は 適々以て時局の関係上 労働者需要の盛んなりし為め 転々職を求めて彷徨する必要なかりしを証するものと云ふべし 
而して明治45年創業以来大正7年12月31日に至る宿泊人員を挙くれば実に8,494人 宿泊延人員42万4,626人 
職業紹介=宿泊者又は宿泊者に非らざる求職者のため無料にて職業の紹介をなしたるもの 本期間685名、創業当時よりの通計を挙げれば5,846名とす
宿泊人貯金=勤倹貯蓄の処世上最大緊要事項たることは常に宿泊人に対し高唱するところにして 本期間において 人員433人 金額1万5,223円69銭とす、創業当時よりの累計を挙げれば 人員 3,320人 金額3万4,206円79銭とす、本期間に於いて貯金額の増加したるは一に時局の関係に基づく収入額の増加したるに因るものとす
入館条件と手続=身元確実なる労働者にして本館に宿泊せんとする者に対して 左記の条件を心得しめたる上 本人の原籍職業年齢其の他一身上に関する諸事項を詳細に取り調べ相当帳簿に記入の上宿泊せしむ(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)

1919(大正8)年

パリ講和会議開催/ベルサイユ講和条約調印/改正選挙法公布(有権者納税資格3円・小選挙区制採用)
2月16日 貝柄町保育所 開所 
「南区貝柄町。洋風建築、前方は二階建て、階上を保育部事務室、応接間、職員室、階下を医務室、受付、職員室、炊事場。後方は平屋建て、28畳の遊戯室及び保育室、食堂、幼児寝室、洗面室、その右方は広い運動場。/当所附近は今宮細民部落ありて困窮者多く居住す。保育児童家庭の職業も各種に分かれ所謂その日稼ぎ多く、生活程度極めて低く木賃宿に下宿し簡易食堂、一膳飯屋にて食事を行ふを普通とす、当所開所日ならずしてかなりの保育児を得たるに徴するも、彼等が従前如何に幼児の保護に困じ居りしかを察せらるべし。児童は一般に心身の発育劣れる者多く、之が矯救には多大の努力を要せり。」(大阪社会事業要覧・第3版・大正9年)
4月 都市計画法・市街地建築物法 公布 ともに施行は大正9年1月1日)
5月1日 今宮第3尋常小学校に昼間修学困難者のための簡易就学部(夜間授業・児童78人)開設
一説に大正7年3月と)第1小学校において、明治40年頃から貧困児童で昼間就学困難なものに対して夜間部を設け、燐寸会社電光舎内でも幼年職工のための夜学をもうけたが、両所併せて60人内外であったため、大正6年3月中止したものを、第3小学校で再開したもの。
7月5日 今宮職業紹介所開設
南区宮津町今宮中学校南横手(今宮共同宿泊所と事務所共用)/今宮労働紹介所 南区宮津町 大正8911日開所 今宮職業紹介所電話使用(大阪社会事業要覧・第3版。大正9年刊)/1928(昭和3)年4月西成区東入船に移転。1936(昭和11)年には西成区旭南通5丁目に移転、西成労働紹介所と改称。
7月 今宮共同宿泊所開設 (大正15年3月火災で中止。昭和2年6月に再築)
開所:大正8年6月29日/位置:南区宮津町/建物:2階建て1、平屋1/部屋数:87室/宿泊人定員:302人(民生事業40年史)
7月 大阪自彊館 宇田 徳正  理事長辞任/酒井 猪太郎 理事長就任
7月20日 大阪自彊館 荷車賃貸の授産作業休止
利用述べ人数人員26,000人
11月30日 大阪自彊館本館で家族持ち用の間貸部を開始
本館乙館の宿泊室を一部改造し「向上館」と名付ける。
11月30日 大阪自彊館 築港分館を閉鎖
(大阪府から有償借地の返還請求あり) 利用延人員270,714人
12月24日 内務省地方局救護課が社会課と改称される
所轄事務=賑恤救済、軍事救護、道府県以下の貧院など
大阪市職業紹介所開設
一般紹介=中央・九条・西野田・天六
労働紹介=京橋・今宮