新聞記事文庫 生活費問題(1-011) 神戸大学附属図書館

大阪朝日新聞 1912.7.10(明治45)

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生活難問題 (一?五十四・完結) のうち 1〜12

男爵 渋沢栄一氏述/津村秀松/植村俊平

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 () 序論 ()

 現時我が邦に於て 調査研究すべき幾多の重要事項中生活問題の如く緊急を要するものは稀である、
 米価奔騰して底止する所を知らぬと共に 其の他の需要品も亦益々騰貴して到る所生活難の嘆声を聞かざるなく、
 薄給者及び下級労働者中には 現実に其の日の生計に窮し、児童の就学を中絶し 一家離散の窮迫に陥るというような悲報頻々たる有様である、
 斯の如きは 人道の上より観て忍ぶ可からざるのみならず、之が社会上経済上に及ぼすべき影響の甚大なるに想到すれば、実に国家の根本に密接の関係を有する急要問題と謂わねばならぬ、
 貧富の懸隔が 社会自然の理数なるや否やは別問題として、現時の経済状態に於ては 社会の発達と共に 益々其の度を高め、欧米先進国に於ける貧富の不平均は 我が邦人の想像も及ばぬ程度に進み、加うるに 物価騰貴は 全世界共通の事実で、最近二年間、欧米に於ても食料品の価格著るしく昇騰し、之に伴う一般の嘆声及び之が救治策に関する学者の議論各国に喧しい次第で、生活難に属する問題は 決して我邦ばかりに局限せられては居らぬ、
 従って 我物価騰貴の原因が 幾分か世界全般又は我邦以外の地方に起った特別の事由に存在するとともあろう、現に或学者は 今日一般の物価騰貴の主因を 金産出額の増加に帰すると論じて居る、又或は 一般生活程度の向上、慾望の増加に帰するもあり、其の他各国工業の発達に伴う農民の減少、市民の増加の如き、米国の「トラスト」の如き、世界の人口増加の如き、其の他尚種々一般的又は地方的原因が世界の物価を促進せしめたることもあろうという道理であるから、
 我が邦近年生活費の増加したる理由を 根本的に研究しようとすれば 右のような諸事項を詳細に調査するの要がある、
 然し 吾人の見る所に由れば、我が邦近年生計費の激増したる近因を 是等国際的事由以外 我が邦単独の事情に求むるのが寧ろ適当ではあるまいか、
 先ず 我が地方農民の生活状態が向上し、曾て麦粟等の雑穀を食った者が 漸次米飯を食する事になり、従って 米の需要を増進したることは 有力なる一因に相違ない、而も尚 他に最大原因の存するを忘れてはならぬ、
夫れは即ち 日露戦役費支弁の為に生じたる巨額の内外国債及び各種の官業及び増税である、
 是等は確に 今日の物価騰貴の素因で、之に加うるに 戦後各般の行政費は戦前に比して顕著な増加を来し、戦時中の重税は其の儘継続せられたるのみならず、政府の歳計は 年々不足を告げ、公債又は借入金を以て常に之を弥縫したのが変じて通貨の膨張となり 国民負担を増進せしめたのである、
 而して一方には 正貨を外国に保存し、外国債の利子其の他外国支払額の基金に充て、従って支払えば従って借り、之を補充するが為、外国為替は 輸入に便にして輸出に不利なる上に、外国にて補充したる正貨相当の兌換銀行券を 内地にて発行して通貨を膨張せしめ、益々物価の騰貴を誘致したのである、
 且 内地事業保護及び歳入増加の目的を以て増徴した関税を 食料品其の他の需要品にも賦課した為、生計費を増加するの結果を来した、
 約言すれば、戦役中並に戦後に増徴せられたる各種の租税、政府専売事業、各年度予算の不足及び歳入歳出の不調説より来りたる通貨の膨張関税の増加、在外正貨保留より生じたる通貨の膨張及び輸入の増進等皆今日物価騰貴の主要なる原因であって、其極 人心をして浮華軽佻ならしめ、生活状態をして益々向上奢靡ならしむる勢いを助長したのである。

  

() 序論 ()

 我が生活問題を研究するには 前に述べた米価騰貴の原由に溯り 之が救治策を講ずるの要あると同時に、一方には 日本古来の風俗習慣上生活費と密接の関係を有するものがあるから 其の改善を計る必要も亦共に攻究しなければならぬ、
 例えば 欧米諸国就中英米両国に於ては 貧窮者は言うまでもなく、中産以上のものでも 一家の主婦が躬ら食料品其の他調度品の買入れに出かくるは日常の事となって居て 何人も怪しまないが、我が国の習慣は 全く之に反し、中流の家は勿論 殆ど日々の生活にも追わるる境遇にある者まで、一家の主婦が自ら食料其の他の調度品の買入れに外出するは 士人の面目に関する行為なるかの如く考えて、多くは居ながら八百屋魚屋等行商人の来るを待ち受けて用を弁じ、適々先方へ出かけて買物をする場合には、婢僕を遣って 主婦自ら調達に行くような事は稀有と云って好い、
 総じて日本人は 封建世禄制度の余習を未だに脱し得ないで自労自活の精神に乏しく、各人自ら己れを労して用務を弁ずる代り、成るべく他人を使役し、自分は居ながらにして其の結果を楽しむという習慣が社会一般の風となり、老人は楽隠居の生活を楽しみ、青年男子は空威張りをして身の廻りの細事まで他人を労し、一家の主婦は婢僕を顋で差図して、自ら庖厨に関与せざることを名誉と心得て居る、
 此の悪風俗は 中流以上一般の習いとなって、独り大人のみならず児女も之を見習って、起床、就眠、食事、就学の事一切他人を煩わすという風で、社会上教育上多大の弊害を流すに至った、
 我が国の婦人が 自ら食用品の買入に外出するを好まないのは、以上の面目論以外更に之を助長した一源因がある、
 欧米諸国のみならず 日本以外の東洋諸国にても 相当の人口を有する市町村には必ず大小の市場を有し、其処で食料品の卸小売をするという便利がある、現に 支那朝鮮にても到る所此の設備があるので 我が日本に限り此の如き施設のないは 不可思議の現象で、其の理由の那辺に存するやは 今此に研究する限りではないが、市場の設けなきことが 主婦の買物に外出しない習慣をして一層其の根柢を固めしめたに相違ない 而して 生活問題に関係ある我が風俗は 右の一事のみでなく、日本人は概して外観を衒う念強く、服装の如き身分不相応の華美を好み、他に何等の嗜好慾望を有するの余裕なき者までが 家婦児女の外出に際しては 意外に贅沢な衣服を纏って世間体を繕うに汲々たる有様である、
 又 主人が交際と称し 家族生計費の大半を 一夕の宴会に消散する如き、或は 冠婚葬祭に無益の贈答礼儀を事とする如き、一として生活費増大の事由ならざるなく、尚審かに攻究せば 我が生活状態を改善して 以て生計費を節約すべき余地を 多々発見する事と思う、
 是等の弊は 下等労働者側に存せずして 寧ろ官民各種の俸給取りに存し、其の程度に厚薄の差別こそあれ、生活費との関係に至りては 百般の階級職業を通じて皆 其の利害を斉くしている

 

() 序論 ()

 日露の戦後物価漸く昇騰し 生活難の声已に高からんとする折柄、近時米価は 凄じい勢いを以て奔騰し 底止する所を知らぬ状況を呈し、下級労働者と薄給使用人とは 現実其の日の糊口を凌ぐ能わざるの窮境に立至り、本問題は 此に弥々社会上経済上 一日も看過すべからざることとなった、是等下層界の生活状態は 日々新聞の報道により之を窺うべく、
貧民窟の住民の如き、米麦を購うに由なく 町家の塵溜を漁り 他人の委棄した残食物を持帰り 僅に口を糊するもある、
それ程の惨状に陥らざる普通の労働者にても、従来の賃銀にては 到底一家数口を支うるに足らずして、児童の就学を中止して賃仕事の手伝をなさしめ、少しにても 生計の資を補わんと試むる者全国に渉りて 益々其の数を増加し、中には辛うじて学校に通わしむる者も 児童に弁当を給するの力なく、可憐なる少年は 空腹の為学校の体操に堪えぬ者あり、或は数百名の退学者を 一町村に出したる杯新聞の報ずる所は 多少誇大であるとするも、大体の状況は 想像し得られる、
 而して一方 薄給の官吏使用人の窮境に至りては 労働者に比し反て 一層甚だしいものがある、彼等は 兔にも角にも士人の体面を維持する必要上、衣食住共に普通労働者の如く 低劣なる能わざるだけ苦痛も一層である、親戚知友に訴え 幾分の援助を乞い 僅に一家を支持するか、已むなき者は 妻女を実家に帰し 児童は退校せしめ 手内職に服せしむる等 其の惨状筆紙の克く尽す所でない、
 巡査の如き 小学教員の如き 其の他下級官吏使用人の如き 皆此の部類に属すべき人で 英語の所謂「ヂェンチール、ポウアルチー」と称するもの即ち是れなり、
 此の種類の人々は、外に対して体面を維持せんと勉むる結果 進取活躍の勇気を消耗し、人格品性自ら陋劣となり易く、之が為 直接間接に国家社会の被るべき損害は実に甚大で、労働者の生活難に比し其の影響反って甚だしきものがある、斯く観じ来れば 生活難の社会各方面に及ぼすべき関係深く且大なるを思わざるを得ない。

 是に於て吾人は 本問題の研究を思い立ち 先ず巡査、下級官吏、教員、職工、貧民等 即ち生計費の膨張により 最も痛切なる利害を有する各方面の実況を掲載し、次に 学殖識見共に豊富なる斯界の泰斗に就き、理想的見地より生活費問題を審かに観察し、進んでは 生活費膨張の経済上並に社会上に及ぼすべき影響い関し 経済界及び社会学界の権威たる諸名士の意見を紹介し、終りに生活難の救治策に関し第一流の政治家其他先覚者の意見を発表し、読者と共に 徐ろに本問題を研究せんと欲するものである、
 乞う明日以後 号を追うて之を掲載すべく、吾人は 茲に 聊か 本問題の概論を試み以て 之が序論と為す。

 

() 生活難の現状 () 勤人

 小役人の生活難は久しい問題で 一時は増俸という総花まで蒔いて見たが 焼石に水で何の効能もない、殊に 米高と来ているから堪ったものでない、
 役人は 他の勤人と事変り 体面もあり服務規則があるので 一層苦しい境遇に立って居る訳である、
 一体 生活難と云えば 読んで字の如く 富裕でない限りは 可なりの上流社会にも生活難はある 又 下流となると 生活難どころじゃない、もう貧窮で其解決は救貧制度となる、生活難も此処まで来れば始末が悪くとも 何うなり纏め安いが、中流役員の生活難と来ては 殆ど手も附けられぬ、
 即ち それが実際の生活難である、故に 生活難の中心点は 中流、中の中以下で 小役人は勿論、苟くも勤人と名の附くものがそれである、
 中流以下というても種々あるが、先ず例を大阪市中の勤人の現状を紹介して、生活難が如何に 根帯が深いかを証明しようと思う、大阪の例を拡充すると 一般都市の生活難も推測が出来る

 一口に勤人と云うても種類がある、官公吏、学校教員、会社銀行員、或種の職工等で 其の収入からいうも一から十まである、
 併し 生活難の激甚の階級は 25円以上 即ち 所得税納税資格者から50円までと看做し、25円以下は 寧ろ多くの場合に 貧困の中へ編入し、50円以上は 生活上多少困った所があるも 原則として生活難状態にあるものと見ぬのである

 大阪市では 第三種所得 即ち 俸給、給与、土地家屋借賃料の収得、貸金預金の利子、商工庶業等で生活して行く納税者が4万3千人、其の所得が3,593万6千円、其の課税額が159万7千円である、此のうちには利息で喰うて居る者や、他に財源があり仕事があって 生活が楽に行けるものがあるが、それでも兔に角 一人平均所得僅に815円、税額37円で 此の内年300円即ち月25円以上から年600円即ち50円までの収入がある者は2万3千人で 第三種所得の人員半数以上を占めて居る、それで所得金額より云えば僅に四分一である、
 右の所得を 一人平均で見ると 356円で 月収は29円強、して見ると 若し全部が右の収入で衣食するとすれば 生活難が如何に多く大阪を蔽うて居るかが判る、若し右の外 脱税者と補税者を合すると殆ど其の倍以上に達するかも知れぬ

 以上は 勤人以外も含んで居るが、勤人の所得如何と見ると、
 大阪税務監督局の調に依れば 所得総額が810万6千円で、之を第三種の総所得額に比例すると四分一強である、
 仮りに同じ比例で人員を推算すると 一万何千人となる訳であるが、何分 収入50円以下が多いので実数は更に多数に上るであろう、
 従って 25円以上50円までの所得者の総数は 一寸計上することが至難である、
 大略と一区2千人位 少くとも8千人からあると見てよかろうと思う 逋税と脱税があるから 実数は1万人近くになるかも知れぬ、
 而して 其の家族は 大阪市の統計から割出して見ても 先ず四人と見て 主人共に5万人になる訳で、5万人の生活難、25円以下の勤人多数が 貧窮の状態は思うだも●然とする

 

() 生活難の現状 () 勤人

 単に勤人の数からいうと、大阪府庁では 国庫支弁の官吏と府吏員との総数3,500名、市吏員市の給与に生活して居る者が約1,600名、大阪税関200名、大阪税務監督局員が100名、大阪砲兵工廠約230名 大阪逓信管理局が約2千余名、其の他大阪に在住する官吏は少くない、
 又 官吏以外の勤人の数は 一寸分らぬが大した数だろう、此の勤人の生活状態を 一括して知ることが困難であるが、四五大官衙公署、大会社等の実例に依って判断しようと思う

 逓信官吏は 其の職務の繁激に拘らず 概して薄給者が多い、而して 人数の多い点でも 鉄道院と対立する、殊に20円以下の薄給者の多いので 当局者も随分苦心をして居るようであるが 無い袖は振れず、一朝病に臥せば相知るなしで 彼等の境遇は惨澹なものである、然るに 大阪逓信管理局では 江田人事課長等が 大骨折で同局員の生活状態を調べて見たのが 左の二表で 逓信官吏、雇員の生活が明瞭に分る許りか 同じ事情の下にある官公吏の生活が遺憾なく表示されて居る

 [図表(生活状態)あり 省略]

 右表に依ると2,017人の職員中1,406名は20円以下で、20円以上では 20円から40円までが最多数を占めて居る 
 20円以下で著るしい例は 10円以内で一戸持は僅に3人、之は夫婦共稼であるから 全くの異例、親掛りの3割7分になって居ること 下宿の3割4分、之が頗る目立つ、
 10円以上15円以下で 親掛り296人で3割2分、下宿の2割6分、自炊は 10円以下と通じて1割1分の比例は 如何にも能く生活状態を示して居る、
 一戸持が1割5分に 同居が10円以内と同率に1割、一戸持の多いだけ 逓信省の勤人に苦労の多いのが知れる、
 20円以上で 自炊は僅に5と為って一戸持7割1分と増し、
 30円以上 自炊は僅に1、一戸持が7割2分、
 40円以上の一戸持が8割7分、
 50円以上で一戸持9割5分という比例を示して居る、
 此処にも 生活難が50円まで 激烈に肉迫して居るのが見える、30円以上になると 全然 親から独立して 自分が幾人かの親となるのが 次表に照らしても分明である

 右は 僅に逓信官吏雇員の一例であるが 他も殆ど同様の状態にあるは 否むことは出来ないと思う、一戸を持つことの困難は 単に収入額のみに依らぬ、扶養者即ち家族の多寡如何にも依るのである、而して 下宿と云い 同居というが 之も月収額の如何に依るので 程度に大差別あるを看過する訳にはゆかぬ、
 給料10円以内の者の下宿は 殆ど自炊と選ばない、
 10円以上15円以内でも 9円の下宿料を超過せぬ 又 最低度の下宿料と同居に伴う飯代とは 殆ど一致するのである、
 親掛りの多くは 親の生活を補助するものと見るのを至当とするので、何れにしても 生活難は四方八方より潮の如く攻め来るのである。

 

() 生活難の現状 () 勤人

 収入と家族

 給料と生活状態は 大体前回で尽して居るが、支出の程度は 単り収入許りでは分らない、家族即ち扶養者の多寡如何に繋るのである、
 若し 勤人が独身とすれば 15円以上は先ず問題が起らぬと見て宜しい 20円以上なら楽である、25円以上なら 所得税を賦課されても 別に生活難を感ぜぬのである、
 故に 問題は 繋累如何に帰着し 扶養者一人を加うる毎に 生活難が倍加するのである、生活費が幾何学的級数に激増しても 収入は之に伴うことが出来ぬ、如何なる事由があっても 25円の収入ある者に 家族5人となれば 絶体絶命の苦境に沈淪する訳である、
 又縦令 40円50円の収入にても 苟くも妻帯者たるからには 出産を始め人生に伴う幾多の事故生ずるのは当然で、収入増加は 大多数の場合に於て 年功増加の外がないので、生活難の速度は 自動車的に進むが 収入増加の歩調は 人間の脚力で、ある貧乏に追付く時期はないのである、
 次に 江田君の調査表を見ると
 

 扶養状態

[図表あり 省略]

  10円以内の月収では 独身者が9割7分、妻帯1分で 之は当然のことであるが
 10円以上15円以下を見ると 妻帯は1割を占め、家族2人のもの7分に達し、
 15円以上20円以下では、独身3割8分に減じ、妻帯1割5分、家族2人が1割5分、3人即ち自分を合せ4人のものが2割1分を占め、5人即ち総勢6人のもの7分に上る、之では到底二進も三進も行けるものでない、
 20円乃至30円になると独身が僅に1割6分に減じて 家族数が著るしく増加し 夫婦外一人即ち三家内という処が一番多い、
 30円以上50円では独身者は1割1分乃至9分で、之も矢張り夫婦外一人というのが 大多数の2割5〜6分を占めて居る、総勢6人以上という処が 月給率に応じて増加し 40円から50円の間は 1割7分で、3人以上が著るしく増加するのが目立つ、
 之では 収入が増えても生活難が却て増える許りである
 50円以上になると夫婦者が僅に6人、他は繋累多く 総勢6人以上が2割9分だから驚く、
 又 総平均を見ても 独身者の5割3分、之は此の役所に 20円以下が非常に多いからであるが、之を別とした処で 妻帯1割2分、夫婦外一人が1割4分、6人以上が6分からある訳だ、
 如何に割引して考えても 25円から50円までの勤人の生活状態は 誠に悲惨なものである、
 勤人殊に官吏等にあっては体面もあり、服務規律もあり、更に虚栄心が加わるので 火の車の熱度が猛烈となる許り、左なきだに 近来のように 米が1升30銭に近づき、物価も之に准じて騰貴して居るので、先ず手の附けようがないと云うべきである、
 以上は 単に一官庁の官吏雇員の生活状態と扶養者の多寡との関係を見たものであるが、如何に困難な生計をして居るだろうとの想像がつく許りで、現実の生活は 更に社会事情と対照して判断せねばならぬ、次に他の官公吏の現状と生活難の状況を 事実に就て記そうと思う

官公吏の生活

 市吏員は 一般官吏に比べると 待遇も厚く 年二期の賞与なども 下手の会社等よりは遥に多い、
 大阪市の財政で賄われて居る吏員、雇員、附属学校、病院の職員は大約1,600名位で、25円から50円位までの月給取が 活動の中心を形成して居る 其の吏員の昇級は 一年一回で、夫れも抜択昇級で 甚だ当てにならぬ方である、賞与も 半期で二箇月分以下ではあるが、一般官吏の最高度の 約一箇月に比べると 頗る割がよろしい、
 併し 官吏と違って 少しは華美な処があるし 交際費も少と許りは要るだろう、併し 市吏員の勤続者の少くないのは 幹部の出入が頻繁な為ばかりではあるまい、
 大阪府庁は 国庫支弁の官吏と府吏員があるが 之は一般官吏同様で 生活難が余程際どく進んで居るようだ、
 警部となると警部補と格が違うても 収入が存外少いだけ苦しい度は増す許りで、1,610何名かの巡査の妻君に 服務規律に抵触せぬ範囲で 内職を選定してやる当局者の苦衷も 諒すべきである、増俸すると 財源に窮する、増税すると 他方の負担が重くなるので 成行主義に為って居るらしい、
 其の次は 大阪税関で 監吏、鑑定官補、事務官補という処で20円から25円が多く、下級者で妻帯子持が多い、監吏に 被服料3円30銭出ても 常に困窮の状態に居るが、幸い気の利いた頼母子講式の組合があって、一箇月の給料を限って前借りが出来るので急場を凌ぐ、25円で所得税は取られる、強制貯金で百分三即ち75銭差引かれる、官吏中で一番苦い立場だ、
 それで20円以上になると 出入が少いというから 愈々以て捌け口の乏しいことが判る、
 税務監督局、税務署等幾多官庁の官吏、雇員の生活も同様で、調べれば調ぶるほど悲惨である、
 現に 月給30円の勤人は 7円の家賃で 夫婦と6歳を頭に二人の幼児と 縁戚の18位の娘を居候に置いて居るが、節約は湯銭、煙草副食物の外がないので、子供にも碌々駄菓子すら与えることが出来ぬ、来客中に6歳の女児が 片手に一杯大豆を掴んで来て 厄介娘に熬って呉れとつきつけた始末 大豆が主人公行厨の副食物となったり 子供の間食となるは 実に悲惨の話ではないか、彼等は鼈の羹に鯛の洗に舌鼓を打つ等は 天国の夢と見て居る

 () 生活難の現状 () 勤人

 会社員の生活

 官公吏と会社銀行員の生活は 同じ収入程度に於ては 大なる差異があるべき筈がないが 会社銀行員の生活が 何となく華美のように思われる、
 蓋し 会社銀行員には 一般官吏の夢想し難い賞与が多く 収入の不足を補うという点に於て 差違を見出すのであるが、賞与を込めた総収入を平均して確定収入とし、其の最低を25円として50円までの収入を有する者を 同等収入の官公吏と比較せば 何等差別がないのである、
 況して 賞与の分量は 毎期確定的のものでないから 決して生活難に於て 大なる径庭を存するものと見ることが出来ぬ、
 会社銀行員と云ってもいろいろで、給料の程度は 大体似たり寄ったりであるが 賞与に大差がある、最高限で云えば 或会社は半期一箇月、或銀行は半期四月分というように 区々と為って居る、仮りに 大阪瓦斯株式会社に就て 同社員中賞与を合せ月収25円乃至50円に上る者、生活費の実際を調査すると 実に次の如き成績を見るのである 但 三種とも家族は夫婦と幼児一名即ち三人暮しの家庭を標準とし 飲酒せざる人について 精細の調査をしたものである
 

会社員生活費

[図表あり 省略]

 生計上家賃が大問題で 25円の三人暮しでは 到底独立して一家を構うる訳に行かぬ、
 25円、30円両者とも 二階を貸し 家賃を補うて居るので 表では二階貸賃を控除して 実際の支出額に依ったものである、
 50円で9円の家賃は 一見少額に似て居るが 五分の一弱で 現在では身分相当と見てよろしい、月給のみで50円取る勤人の家賃は12〜3円、多きは15円に上るは珍らしくない、
 総収入50円で 三人家族で 一家を構うるは 余程難渋と見られる、
 米の8円10銭以上は 一日一升で多いようであるが、血気盛の若夫婦と3〜4歳の小児となると実際一升まで入るそうである、
 副食物は 米代と違って 増減の自在で 25円は一日15銭、50円で一日31銭 収入が増えると砂糖等の量が増加するから覿面だ、
 扶育費が 間食と小児の玩具で 入浴、理髪、髪結は 度数、程度は些少とは云え斟酌が出来る、
 煙草も 月収増加に従い 敷島などが他所行用となる、自宅ではあやめを雁首で叩くという側である、
 臨時費は 30円の収入では 追付かぬ、そこで 妻君の内職で 3円50銭位を稼ぎ出し 25円所では 盆暮費用も 臨時費も 妻君の内職に依るという実情である、
 所得税は 賞与に係らぬから 総収入30円位までは 無税だけ助かる訳だ、
 一般官吏は 此の点が大に苦しい、要するに 総収入50円の会社員、月給のみの収入35円位から40円位の会社員は まあやっと行けるが 病気に罹っても 診察料の出所がない、
 大阪瓦斯は 嘱託医に緒方博士があり 薬代は月末払の特典がある、併し 大阪瓦斯、大阪電灯、住友、三十四、北浜の各銀行や賞与に豊富とせられて居る日本銀行でも 帝大、高商、慶応等の出身者を多数使用するが 何分国許へ送金とか借金の返済とかいう責任があり 総収入50円以下では 妻帯で満足に行き兼ねるというので 独身者が少くない、之は 自覚に出たものというより 余儀なくされた連中が十分の九分九厘まで占めて居る、之も時代思潮である、
 会社員の贅沢などは 此等の階級で見られたものでない、独身生活が 総収入50円以上で 夫婦暮し位が贅沢やるのである、併し 懐中の空胴にも拘らぬ 会社銀行員とかいう体面で 官吏の知らぬ苦心も入ることは 歴々として認められる

 大阪商船の如き大会社に於ても 大阪在勤船員以外の社員260名、其の内25円乃至50円の給料を受くる者実に110人に上る、之に賞与を加算して 実収平均25円以上50円までの生活状態は 瓦斯会社員と大同小異である、其の他大阪電灯会社にても 25円以上50円までの社員125人と日給1円60銭以下85銭以上のもの69人、此等の生活状態も亦略前同様である、其の他各電鉄、紡績、会社等社員の生活は類推するに難くはない


() 生活難の現状 () 勤人

 生活費の分析

 生活費の最低度は 上来屡述べた処で大抵分ったろうが、更に一括して見ると 勤人は職人、職工とは違って 何うしても体面ということを考える、否 境遇がそうなるので 一段の生活難を加える、例に依って 25円から50円迄の勤人を 標準とすると生活費としては

 租税、家賃、食料、燃料、灯火料、被服代、煙草代、酒代、新聞雑誌書籍代、交際費、雑費

 外に臨時費として 遊楽費、医療費、盆暮費用等を計上する訳である、之は全く単純の計算で、夫婦者とせば 出産、子持とあれば 牛乳代、教育費、成人した女子を有せば 婚嫁費等で 容易ならぬ諸掛りである、各自に就て現状を簡単に述べよう  

 所得税の負担

 勤人の生活難を加重するものに種々あるが 所得税と其の附加税が 薄給者には余程重荷である、25円か30円辺の勤人は 月割で毎月積立てて置く余裕がない、納期になると 万障差繰りで調達するから 頗るつらい、大阪市内に居住して 25円以上50円までの月給取の納税額を調べて見ると 国税の所得税附加税の府税、市税と区費(専ら学校費にて各区相違あるも平均1円につき14銭と計上)合して左の通りである

 [図表あり 省略]

 50円即ち年500円で税額月割1円76銭、35円の年420円で月割約98銭、25円で年300円、月割約70銭は 決して軽い負担ではない、
 官吏公吏などの 所得を明示されて居る者と 商人其の他第三種所得者中脱税、逋税の多き者とは比較は出来ぬ、
 何れの点より見ても 官吏は最も赤裸々に 最も厳重なる此の法規に殉して居る、此の点は 大に同情せなければならぬ、
 然るに 税制整理も幾分か問題となり 尚成りつつあるは 其の程度の所得者が多いだけ 解決が困難である、然るに 所得税徴収の成績を見ると、物価騰貴、生活難の加速加重に拘らず、逆比例に年々成績が良好で 納付の率が高まって殆ど皆納に近くなって居る、之は 同じ勤人たる税務官吏の方面でも一生懸命に徴収、強徴するからである、納税の義務は欠かすことが出来ぬだけ 生活難が更に重くなる訳である

家賃と下宿料

 家賃と収入との比例は 十数年前までは 十分一が標準とせられたものであるが、今日では 五分一でも困難と為った、
 家主の方で5円の貸家は到底引合わぬので 7円以上13〜4円までを手頃としたのである
 今日 極端な場末でなければ 勤人向で5円の家の発見することが出来ぬ 8〜9円から11〜2円が最も多いのである、
 11〜2円と言うも50円の五分の一以上で、50円の勤人には 荷が過ぎて居るが 35円位になると 同居人を置くか 二階貸をするの外途がない、多くは 二階貸又は二階借で 家賃の負担を5円位に止めて置くのである、
 現に 各官衙会社等にて急用があって 勤人の住宅に使を走らしても 住宅の判明せぬのが極めて多いそうである、夫れは皆二階借りであったそうな、25円から50円までの勤人の七分通りは 二階貸と二階借であると見て差支がない、
 勤人に役宅を存するものは 上級者の極めて少部分である、尚 二階借の増加に伴うて 二階のみに炊事用瓦斯を使用するようになった
 

 食料と営養

 夫婦子供三人以上の家族となると 家賃を如何に節約しても 5円を下ることが出来ぬ、そこになると 米代は別として 副食物の加減は 自在である故に 多くの勤人は此所に一条の活路を発見するので 結局 粗食ということに帰着する、
 粗食の結果と 粗食をせねばならぬ四囲の状況は、此等同情すべき家族を駆って 営養不良に陥らしむるのである、一度病魔に襲わると 身体の対抗力を減じ 他方医療の十分でない為 不治の疾患に陥るものが多い、
 大都市に死亡率の多く 特に大阪市に呼吸器病患者の多いのは 単り煤煙等空気の不潔の為のみでない、営養不良が与って大に力ある、
 現に 独逸の漢堡で調査したのに依ると 年400円乃至600円の収入ある者の 結核症は1000につき6.57であるが、5000円以上1万2000円以下の収入では 僅に1.77に過ぎぬという、而も其の原因は 物価騰貴の為粗食し 営養分が十分でないという点にある、此の点は 特に熟考する必要がある

市中食料品の小売相場は凡て並品として  

[図表あり 省略]  

 であるから 到底大口開いて 腹一杯食うことの出来ぬ程である、米価の暴騰は 左なきだに 生活難に悩んで居る勤人に 致命的の打撃を与えたものである、米価に対しては 勤人は屈従する外がない、三十六計は 他の副食物と嗜好杯に 大節減を施すの外がない

燃料と灯火料

 大阪市では 電灯にせよ瓦斯にせよ 料金は不廉の方である、電灯六燭60銭 十燭1円では 下役勤人は 十分に文明的設備を利用することが出来ぬ 微弱なる灯光に満足するか 石油を多量に使用せねばならない
 瓦斯を炊事に使用する便利は 認識され 二階借の勤人が多くを利用して居るが、千立方呎2円40銭は 廉価ということが出来ぬ、生活難の勤人の内でも 多くは便利の点を以てはいかった連中が 少量だけ使用するのみである、下級勤人は 未だ容易に瓦斯の恩恵に浴し得ぬのである、
 薪も一掛70銭、石油一升20銭 敢て廉といえぬが 設備其他の関係からして 大部分之を使用して居る、欠くべからざるもので 節約も或程度まで困難なものである

被服料と雑費

 生活程度の上進は 泣き泣き贅沢の真似もせねばならぬようになるが、一方 商工業の発達の為 30円の本場大島紬もあれば 1円50銭の名古屋物擬大島紬もあり、5円近くの縮の単衣も 7〜80銭の真岡の浴衣もある、夫れで体面だけは どうなり繕う訳であるが、其の出来るものは 家族の少い比較的月収の多い者で 左もなければ 賞与まで待つか 掛で拵えるか、必要費をつめるかせねばならぬ 家族が多い勤人では 殆ど被服費を削く余地がない、女児の多い下級勤人は 更に幾倍の苦心をせねばならぬ 此の間 贅沢の余地、濫費の余地を認めぬのである

医療の費用

 25円乃至50円の月給取は 常態を維持してさえも生活難である、一度び 家族の甲乙が健康を損ずると 診察料と薬価を支弁するの途がない、健脳丸とか中将湯という調子で 其の日を糊塗するのである 全快すれば儲け物 一歩誤れば病膏盲に入るのだが 左りとて 労働者同様施療病院へ入れず とどの詰りは 悲劇を演ずるのである、
 それにも拘らず 勤め先で医療の設備をする者は甚だ少い、それは 医師会で 薬価の引下げを八釜しく云うのが祟るようだ、
 現に 大阪の逓信管理局の如きは 回生病院へ 自家の薬局を特設し 薬価は実費とし 医師は別に菊池氏に託して居る、此等は理想的に行って居るようである、
 其の他 大阪商船、大阪瓦斯でも 嘱託医はあり、紡績会社では工場医もあるが、医師会の規則で 薬価の実費引下は 殆ど出来ぬ相談と為って居る、
 25円の家族が 一日薬を用いると 25銭位は現金で散在せねばならぬ、況して重症にあっても 通常病院への入院などは 思も寄らぬのである、重症の場合でも 多くは斯る悲惨の状況にあるのだから、毎月給料の内から控除される積立金、扶助料納付金 些少の交際費が 甚大の痛棒で 生命保険などの余裕はない 其の日其の日 尋常に過すさえ苦しいんであるから 稼人死後の心配までは 迚も及びもつかぬ次第である、家族の教育費然り 吉凶の出費も皆然りである

() 生活難の現状 () 勤人

 勤人と職人職工

 生活難の焼点は 50円以下の勤人であるが 其の零囲象は 高等官一等まで及んで居る、何故勤人が世智辛さを感じ易いかと云えば 体面があるからで、フロックコートも要る、燕尾服も要る、職人職工や町人とは 段階が違うという見識からして 生活難という言語道断の悪税を課せられて居る
 50円以下 太しきは25円以下の勤人にも 斯様な気質があるから堪まらぬ、腐っても鯛、最下級の判任の妻君も奥様である 隣り近所の熊公八公風情と 品格に於て お月さまと鼈の相違という 先ず見識で 生活難は弥が上に加重して来る、
 左様なると 割合に楽なのは 熊公八公で、実収入は最高60円、最低でも夫婦共稼を加えると25円はある、
 2〜30銭の立ん坊は 別であるが 第一体面が要らぬ、2〜30円の脊広服の代りに 青縞の半纏で沢山だ、安くて一足4〜5円する靴の代りに 其の修繕料にも足らぬ ボロ靴か草履で結構である、而して 多くの場合に 職人職工は 所得税を修めて居らぬ、家計上此の点が余程違う、生活難の行き方が全然違う 此の社会では体面費の代りに 却て贅沢費を支出し居る、晩酌の膳の上にも 魚を八釜しくいうような訳合で、衣類でも大工、左官とか 職人の年輩の社会では 時の物を斯なり都合する

職人の生活

 職人の階級も 一から十まであって 一概に云えぬが、
 石工は日給2円、安くとも1円30銭が相場で 30円から50円の勤人以上の収入である、
 大工左官でも 1円2〜30銭が普通である 手伝でも 6〜70銭から1円、月二回の休みを除いても 実収は月給25円の勤人以上である、
 洋服仕立職になると 特別の技能から 1円50銭で 月45円近くの収入となる、勿論 独立営業するもの、外は納税者がない、
 其の他 丁年男子の職としては 特種の技能なくとも 50円まで行ける、15円平均で 勤人では雇員、郵便局、市役所の最下級巡査の収入である、
 職人の 少しく毛の生えた処では 多少乾児も出来る、日給の頭を刎ねて 余徳も出来るという風で 判任程度の勤人が 営々当にならぬ昇級を当にし日を送るよりは 腕次第という自立の気風に富んで居る、
 従って 生活難にも案外軽微なのは 教育費で、勤人になるとそうは行かぬ、義務教育では済まされぬ 女ならば高等女学校、男ならば親の境遇に考えて ずっと高等の学校へ入れようとする、夫れの出来ぬ下級の勤人は 女子を事務員 男を給仕、雇に出す始末、左れば 勤人の苦しみは 筆舌に尽せぬ程で、下級勤人の奥様とあっては 輿入れの一張羅を染換え縫換え 娘の婚礼の席まで着用に及ぼす遣繰で、土用干で気の利いた職人の神さんと 25円の奥様の競争はてんで問題にならぬ

職工の生活

 職工の種類は 千差万別である、工場で労役して居る男工では 大阪砲兵工廠が多い処で 本廠のみで使用して居る分約1万 内女子2千許り、
 男工の常傭丁年の者 日給最高2円16銭がある 併し之は 人員から云えば極めて少い、職工の出入頻繁の50銭所が 一番多いが、70銭80銭1円5〜60銭も 敢て少くはない、
 兔に角 毎月の出入約600名宛で 年が年中募集をし通しである、如何な素人でも 証文一本を持って出願すると 大抵は日給50銭を宛がうそうな、
 又 同廠では 職工の服装を 洋服に限るとしてあるが、一着50銭の襤褸服で十分としてある、散財は製帽だけである、
 同廠には 本人病気不幸、家族病気の時にも救済規定があり、掛金をせずとも 終身年金の制度もある、
 女工の多くは 男工の妻君で 共稼の収入を合算すると 20円から25円附近で生活して行くが多い、而して 生活も太しく不良でないと云うことである、
 其の他 造幣局の職工の賃銀も 前者と似た者で、専売局煙草職工、被服支廠職工 其の他市内諸会社職工も 普通日給6〜70銭から1円2〜30銭までの収入で 体面費の入らぬだけ 勤人よりは生活難が余程軽い、併し 家族は 割合に多いので 多量の食料を要する 職工職人は 第一に米の高いので 第二には 物価騰貴で 勤人に劣らぬ生活難に苦しんで居るが、苦しい中にも 遣繰は勤人より微か楽である、
 二三職人職工の自白を聞くと 月収30円以下では 親子三人の糊口が出来ぬというに一致して居ったが、米価の暴騰で 多少労銀の引上を見るようになった、此処が 勤人と違って 融通の利く一点である、最近 電気局で 現業員職工に 日給の増率をしたのは 兔に角機宜を得た処置であるが 更に一歩の奮発が欲しい
 

 () 生活難の現状 () 勤人

 勤人と保険

 月給取の安息日を 日曜日とすると 一箇月僅に4〜5日、月給日を数え 年を送れば 一年は僅々12日に過ぎぬ 斯くまで寿命を縮める月給取の生活も 洵に同情すべきものである、
 中流以下の勤人は 格別な財産のない限りは 内職か 稍成長した子供を働かすかする外には 一文の余裕もない訳だ、
 晴雨ばかりが天候でない、三食許りが生活費でない 10銭の活動写真では 生活難の痛苦を洗い切れぬ 修養とか、国民性の陶冶などいう左様な遠い処を別としても、稼人の病気、死亡に至っては 生活難以上の問題である、其日の糊口にすら余裕のない中級以下の勤人が 家族の将来を思うて 生命保険に掛金する訳に行かぬ、市内の生命保険契約高から云えば 契約者一人平均500円見当である、例え契約した者でも平均500円しかない保険料が 唯一の遺産となる勤人の死亡は 人生の最大惨事であろう、勤人の50円附近の処で 多少余裕ある者は 下女を使用して居るが 近来 嬰児でもなければ下女を使用せぬ程進歩
した

苦しい贅沢

 勤人の中にも 高等の教育を受け 未来の希望を有て居るものは 生活難予防方法を講ずる傾向が見える、夫れは 生活難の一大原因たる 扶養者増加を恐れて 妻帯を延期することである、一定の収入額に達するまでは 妻帯せぬ連中が ちらほら出て来た、之は 華美好な銀行会社員の若手に多い、
 贅沢は 斯う云う独身の手合のすることである、独身で余裕があっても 貯蓄は出来ず仕舞である官公吏は 左様は行かぬ、薄給で 家族が非常に多いと来ては 夫婦共稼でなくては遣り切れぬ、妻君の内職中収入の割合に多いのは 女教師で、之は特別の資格を要するから 一般的には行われぬ、今後 女子教育の進むに連れて 此方面の内職が激増することと思われる、
 兔に角 勤人も節約許りで行かぬ、進んで収入増加を計るということを 自覚すると 高が2〜3円増収に釣られ どしどし転勤、転職する 目前の急を救う為には 恩給や手当を犠牲にしても 脊に腹は換えられぬという瀬戸際まで進んで来た、夫れに 収入が多少増すと支出が一層加わる、底のない桶へ水を入れるようなものだ、
 中流の上に属する者でお 生活難は脱れぬ、多少余裕がつくと 油断が生じて 不知不識の間に生活程度を上進させ、結局 貯蓄も出来ぬ始末、50円以下では 已むを得ぬとする者の 勤人の地位の自覚が其処まで到達せぬので、体裁と身分不相応の贅沢が 生活難の一大原因をも構成して居るは云うまでもない

生活難解脱法

 収入は多少殖えても 生活程度の上進で 矢張り生活難は同じことになる、否 収入の増加するほど 体面的の生活難が 激甚に襲来する、
 本来 給料は支払う側の計算で 生活費は 受取る側の勘定である、其の一致は 通例の場合に於て至難であるが、何より必要で何より苦痛は 税金、子供の扶養費と医療費、臨時変災用費である、
 之は 収入の多寡を論ぜぬものであって、官衙公署銀行会社等 使用者側で 相当の方法を講ずるのが至当であるまいか、
 使用者側で 事情の許す限り 年功昇級で 自然的に子供の扶養教育費を補い、生活程度の上進に資し、賞与の幾分は 他の二費用に充てしむる外に 相当の衛生設備と積立金
(強制貯金)の方法を講じて居る処が少くない 併し それとても 程度の問題で 強制貯金も百分の十となっては痛苦である、百分の一では 余りに少額である、
 或る会社は 増俸の際 俸給額の幾部分を特に控除して 強制貯金に加えさせて居るが、之も 適当の方法である、要するに 月収25円以上50円以下の勤人の生活難は 独身の場合には 殆ど及んで居らぬが、扶養者の多い程、激甚を加うるのである、既に妻帯となれば 出産は必然的結果である、生活難を避けんが為 多少教育あり貯えなき人々は 勢い晩婚となり 独身生活者の増加するのも亦必至の結果と云わねばならない、
 併し今日は 晩婚の傾向を云って居る時代ではない 生活難が滔々として 天下に弥蔓して居る、此際 経費の為に 生活難を感ずる勤人は 一意節約の上に節約を加うるの外がない 使用主の側から云えば上記の便利を計ること、社会の任務から云えば 法外に高い一般物価の低落を計るの外はない、其の方法に 市に計画があるという公設市場の如き、購買組合の増設の如き 一にして足らぬが 今日は最早議論の時代でない 実施が肝要である

(十一) 生活難の現状 () 巡査(東京と大阪)

 米価騰貴の為 最も苦痛の多いのは、下級労働者よりも寧ろ、各官公衙の小月給取りなる事は 上述の如くであるが 殊に巡査の如きは 最も甚だしいものである、巡査は 職務上体面を重んずる必要があるので 内輪は一層苦しい、先ず其の収入を検べて見ると

大阪巡査の収入

 大阪府下に在勤する巡査の数は 部長136人、巡査2,332人、請願巡査120人にして、部長と均しき待遇を受けて居る警部補の数は82人である、
 爾して其の月俸は 警部補の最高23円、最低20円、巡査部長最高22円、最低17円、巡査の最高22円、最低13円の規定だが 現行の実際は 最高の待遇を受けて居る者は 極めて少数である、
 これを平均すると 一人の月俸は 17円の割に当るそうな、
 是に 別収入の家賃の補助がある、警部補は 市内在勤月に4円、郡部同上3円、部長以下同3円、市に接近町村在勤同2円、郡部は同1円50銭である、
 此の外に警部補以下巡査に対し被服料と称し 靴、靴下等に月1円、
 弁当料徹夜勤務の場合 即ち隔日に10銭、これは無病皆勤の者に限って月1円50銭に当る、
 是を通計すれば 市部の警部補月6円50銭、郡部同5円50銭、巡査部長以下同5円50銭、市に接近町村在勤同4円50銭、郡部は同4円であって 此の外に1厘の収入も無い、
 要するに 大阪巡査の全収入は 月平均23円程度である、而して 此の規定は 今より15〜6年も前 米が10銭位の時代に定めたものを 其の儘で行って居るのである

 東京巡査の収入

 大阪に比べて 東京の巡査は ●収入が多い、警視庁で調査した 東京の巡査の収支計算に拠れば 警視庁巡査なるものは4,943名で 内市部費3,833、郡部費877、市郡連帯費107、国庫費126に区別され
 其の月収は 警部補にて最高30円、最低20円、巡査部長にて最高28円、最低17円、巡査にて最高24円、最低13円である、
 巡査一人の平均月俸は市、郡及び其の連帯費のものは18円、国庫費のものは16円、市、郡及び連帯費巡査は 府会の同意を得 昨年増給せしも 国庫の方は 一向増給して呉れないので 比較的敏腕家が少額の月給に甘んぜざるべからざる次第である。
 其の外に 巡査の受くべき給与品は 之を月に平均して 一人分現金として1円83銭8厘、品物代価として1円26銭である
 給与品の使用済の分は 勿論巡査の所有に帰するもの故 使用巧ならば 多少の余裕は生じ得べきなり
 次に巡査は下の差別により宿料を給与さる

 署長は15円以上24円まで、
 麹町、神田、日本橋、京橋区所在警察署警部は6円、
 芝、本郷、下谷、浅草区所在警察署警部、警部補、前欄各区所在警察署警部補並に第一部警部補は5円、
 以上を除く市所在警察署警部、警部補は4円、
 郡部所在警察署、分署警部及び麹町、神田、日本橋、京橋区所在警察署巡査は3円、
 第一部及び芝、本郷、下谷、浅草区所在警察署並に警察消防練習所巡査は2円50銭、
 以上を除く市所在警察署及び伊豆七島、小笠原島巡査は2円、
 郡部警察署、警察分署巡査は1円50銭

 給与品及び其の代価は 多少の節約は出来ても 宿料の余りに少額なる為 間借さえ給与金にては出来ない巡査が多い、外に左の賄料及び過勤手当というものがある

 賄料は 徹夜勤務者一夜につき15銭、宿直勤務者一夜につき10銭、臨時勤務者は一賄につき5銭、臨時勤務は午前6時、正午、午後6時、午後12時の各食事時間に相当したる時 一賄を給す、
 過勤手当は 隔日勤務者が 翌日非番日に於て 臨時勤務に服したる時 下の区別に従い之を給さる、
 4時間以上8時間以内は15銭、8時間以上12時間以内は20銭、12時間以上は25銭、
 而して 賄料は 市部にありては 一人一箇月につき平均2円49銭に当り、
 隔日勤務者は2円75銭、毎日勤務者
(刑事、風俗係等)は2円20銭、郡部にありては月平均1円63銭に当り、隔日勤務者は2円50銭、毎日勤務者は2円、駐在所勤務者は5銭である、
又過勤手当は 市部にては一人一箇月65銭、郡部にては60銭に相当するが 過勤手当は 毎日勤務者には支給しないことになり居れば 隔日勤務者の受くべきものは 平均金額の約2倍である。

 以上の収入を通算すると 東京巡査の平均収入は27円程で 大阪の巡査の平均よりも約5円程多い

 巡査の住居と家族

東京の巡査に就て調べた所によれば約五千の警視庁巡査の住居方は大約左の如きものである

 借屋住居は 警部補市部百分の86、郡部百分の77、巡査及び巡査部長市部百分の67、郡部百分の68
 ▲合宿所居住のもの 警部補市部にて百分の4、郡部にて百分の13、巡査及び巡査部長市部にて百分の24、郡部にて百分の20
 ▲自家居住は 警部補市部にて百分の1、郡部に無し、巡査及び巡査部長市郡とも百分の2
 ▲華族紳商等の邸内に 無賃借屋せるものは 警部補市部にて百分の9、郡部にて百分の10、巡査及び巡査部長市部にて百分の7、郡部にて百分の10
(四捨五入に依る)

次に巡査の家族に就いて見るに

 市部に居住するもの3,270、郡部に居住せるもの546は 有家族巡査にて 其の余の1千余人は独身者
 ▲市部巡査は 平均2.7人、郡部巡査は 平均4.3人の家族を有し 警部補は 市にありては 3.7人、郡部にありては4.8人の家族を有す 故に市部郡部及び巡査、警部補を通計する時は 巡査の家族は平均4人と見做すべし

 (十二) 生活難の現状 () 巡査(東京と大阪)

 巡査家族の内職

 巡査が 収入を得ん為 公休日を利用して 内職をする事が出来るか何うかというに 警視庁は 巡査に対し 一身を拘束さるべき一切の内職を禁じて居る、若し 公余他の職務を執らんとする時は 許可を受けざるべからざる規定だから 巡査の内職は殆ど絶対に出来ない訳である、
 次に 家族の内職に就いても 面倒な内規があって 一切商業又は商業類似の職業に従事するを禁じ、産婆看護婦だけ許した例がある、
 此等の点は 大阪も同じで 一般に拘束を受けるような職業に従事する事は許されない、
 従って 東京でも大阪でも 巡査の妻女の内職は 些細の手仕事位が精々で、副商業をする事は許されない、記者が 大阪の巡査の家庭に就き 其の生計の状態を取調べた所に依れば、巡査の家族の内職は、下駄の鼻緒縫、足袋縫い、石鹸箱張、ミシン仕事等で、厳格なる内規の為 自由に儲け仕事をやる事の出来ないので 其の種類も頗る限られている、其の収入は 4〜5円見当で、ミシン仕事だけは月14〜5円にもなる事があるというが、夫れは 殆 家事一切を打ちやって 早朝から夜半までかかってやる時の話で、大抵の家庭では 其様いう収入を得る程全力を注ぐ訳には行かぬから、そう多くの収入のある内職は 先ず絶無という位である、外に状袋張、夏帽子、釦、刷子、簪、造花等の内職をやっているものもあるが、是等は月3〜4円が止りである。

  巡査の生計費

 大阪に於ける巡査の一家族の生計費を 或る標準的の一家に就て 取調べた所によれば 左の如くである、即ち家族五人で、其の費用の細別は

 白米四斗代 11円(一升25銭)
 ▲家賃 6円50銭
 ▲木炭 1円50銭
 ▲湯賃 1円
(5人三日目位入浴)
 ▲散髪 29銭
(子供2人と主人、細君と細君の母とは年中すき髪)
 ▲子供の小遣と長屋交際費 1円
 ▲新聞代 43銭
 ▲醤油漬物代 75銭
 ▲副食物 5円
(但 魚類無し2〜3回 子供と主人の為牛肉 他は野菜)
 
▲水道費 50銭前後
 ▲弔慰料、文具、義務購読、書籍、雑誌 1円50銭
)

    通計29円72銭

 右の計算によれば、5人の家族で 是以上倹約するは 巡査という職業の体面上 殆ど不可能ともいうべきだが、
 前述の如く 大阪の巡査の平均収入は 22〜3円内外、生計の必要費よりは 5五円方不足している訳である 
 某巡査の妻女は 記者に語って曰うよう「主人は毎月20円の月俸と1円50銭の弁当料、3円の家賃、1円の被服料 都合25円50銭を戴きますが 之では衣服などは 親どもの着古しを直して着るばかりで 子供の衣服も碌々作えては遣れません、夫れで 世間からは 奥さん奥さんと云われるので 其の手前見苦しい風も出来ず、随分切ない次第で、実は 職工よりも劣った生計をしているのです」と、
 蓋し 体面の為に 苦しい生活を忍ぶというのが 巡査の最も苦痛を感ずる点であるが、更に 之が為に 苦しい地位に立たねばならぬ一事がある、夫れは 巡査は 体面上施しを受けてはならぬという規則のある事である、之は 大阪も東京も同じで、巡査は 施療施薬を受ける事は出来ない、最も 特に嘱託医を置いて 薬価半減という事になっているが、実際は 夫れでも苦しい、東京で記者の実現した所によれば、一巡査が 小児の大病で病院に入れた所が、三日の費用で、貯金全部を払い尽して、病院にも置けず 家に連れ帰って終いに死なして仕舞った例がある、東京には 三井の病院や市設施療院もあるが、巡査は 全く其の御蔭を蒙る事は出来ない、東京の警察協会では、此の惨状に処する方法を講じているが今に名案がない。
 

 合宿所は不成功

 独身巡査の為 東京大阪とも 合宿所の設けがある、此処に居る巡査の生活は 比較的暢気であるが、事実に於ては 合宿所は余り繁昌しない、大阪では 月8円20銭 夜具付50銭増でやっているが、受負者が少いので、困難している、其の上 巡査も合宿所の無趣味な生活を好まない、という事情で 今はほんの形ばかりである、東京でも 8〜9円止りでやっているが 矢張流行らない。

 警視庁では 数年前巡査の生活状態を調査したが 其の頃には 左まで生活難を見なかった相である、然し 今日の物価にては 迚も巡査の体面を維持する事が 出来ようとも思えないので 再び生活状態の調査を始めた、
 各府県よりも 巡査の生活状態につき 折角 警視庁に問い合せて来るが、中には 特に巡査の家族の内職に適当なるもの少くない、所が今日に至る迄生活難の為 転業を企て 巡査は 警視庁には殆ど無い、大阪では 新任者は 年平均507だが、辞職者は年平均230人位で総数の1割にもならぬ、然し 之は巡査の生活が楽という訳ではなく、特別の技倆や手に職のない者が 他の職を得るの容易でない事情にもよるのである、而して 比較的体面を重んずるという事が 苦しい裏に 一種の得意を含んでも居るので、日本では 相当なものが巡査になるのだと観察したものもある。今度 益々生活難の度合が進んだが、巡査の痩我慢も やり切れなくなりはしまいか。