新聞記事文庫 生活費問題(1-011) 神戸大学附属図書館

大阪朝日新聞 1912.7.10(明治45)

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生活難問題 (一?五十四・完結) その内 13〜20

男爵 渋沢栄一氏述/津村秀松/植村俊平

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 (十三) 生活難の現状 () 大阪の貧民

 日本国中 生存競争の最も激しい大阪に 落伍者となった細民が 何人あるか 精確の調査は 中々困難であるが 昨年 大阪市で 米価昂騰の際 瀕死の窮民に施米する為 一般の細民の生計程度を 警察部と協力して 調査したものがある、是れは 当局者自ら語る如く 正確なるものではないが、兔も角 比較的信用を措くに足るものである、
 此の調査に依ると 先ず支出の方から見て一日の家賃6〜7銭迄 即ち月額2円以下を支払う者、又は収入の方から見て 稼賃一家一日60銭以下の者が 2,225戸あって、男は3,839人 女は3,831人、
 此の部類に属するものは 多くは人力車夫の家庭である、此の外には 日雇稼や人夫という様な職業に従事する者である、
 次に同上 月額2円以上を支払う者又は60銭以上の月額2円以上を支払う者 又は 60銭以上の稼賃を得るもの
(此の部類に属する者は 平常は生活難を訴えざるものである)であって 家に病人があるとか、又は 赤児や年寄の多くある為は、特に困難の状態にある者が 826戸 男1,492人、女1,455人ある、
 是等の多くは 活版や下駄等の職工 又は 鍛冶職に従事する者である、
 それから第三に 季節又は天候に依って 忽ち糊口に窮する者が 553戸、男1,099人、女954人あった、
 之等の職に在るものは 無論手伝、仲仕等である、
 以上は 細民という中にも 兔も角正業に就いている労働者であるが 彼等も 一朝米高となると 忽ち飢に泣くの窮状に陥るのである。

 其の他 常に木賃宿に泊り込んで 適当の業務を得ないものが 男35人、女16人、立坊、浮浪者、又は 下等人夫が 男277人 女118人、祭礼、縁日等の物売に借託け、又は 乞丐同様の手段に拠って口を糊する者が 男37人、女40人、又 幾らか資を得ることは得るけれども 自ら炊事するに至らず 兵営其の他の残飯を安価に求め、又は焼芋、饂飩位で其の日を過す者が 男31人、女87人という数、
 以上の総てを計算すると 男6,730人、女6,501人、合計1万3,231人に達する、
 即ち 大阪市全人口の百分一強は 細民である、又 以上 窮民を調査せしと同時に 里子、不就学児童も併せ調査したということであるが、前者は 男186人、女216人、後者は 男469人、女453人あるから 如何に窮状に在るもの、多きかを想像することが出来る、
 尤も 大阪市が 昨年9月16日から本年3月26日まで 施米を為したる窮民は 毎日1,200人の割合であったと云う。
 

 
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十四) 生活難の現状 () 大阪の貧民

 更に 警察の調べによると 大阪市の貧民数は 戸数3,421戸、人口1万2,742人である、
 之れを三種に区別し、
 先ず 普通生活難を唱えているものを 窮民又は細民と言い、
 三度の食事にも差支うるものを 極貧民と称し、
 一定の職業も住所もなく、水草を追うて転居する無頼の徒を非人と名づけている、(注記:次号に以下の訂正記事有り=前号「大阪の貧民」の項中窮民は細民非人は無頼貧民と訂正す)
 窮民又は細民というのは 四区中夫の 船場、島之内、堂島、中之島、靭 等を除く外は 何れの町にも多少ずつある、
 先ず 前記統計の中5,980人が 窮民で、残る6,762人は 極貧者である、
 それから非人は 定着して居らぬから 纏った統計は 取れない 取っても余り当に成らぬ、此の非人は 外の区には先ず無い、南区に限って居るようで 南区も木津、難波、今宮、西浜辺に限って居る
又 極貧者も大部分は南区で、外の区では 天災に罹った者 疾病で困難せる者、鰥寡孤独で保護者の無い者等で ほんの指を屈す許りである、
 此6,700余人の極貧者は 一定の場所に 別世界を為して居る、これが所謂大阪の貧民窟として知られている、
 社会学者も度度見に来たし、内務省の窪田静太郎氏なども実見した、
 彼等は 昔から名護町人種と称して 一団を為して居るが、元元大阪生れの者で無く、大和、河内、和泉、阿波、讚岐、紀伊、播磨、淡路等の生れが最も多い、いつの間にか茲に落ち込んで来て居るので、斯んな貧民窟は他にあるまいと実見した人はいう、以下此の貧民窟の状態を掲げる
  

貧民窟の生活

 貧民窟の所在は 南区今宮広田町、南高岸町、東関屋町、西関屋町、恵美須町四丁目、日本橋東二丁目、下寺町三丁目字八十軒長屋、同四丁目字山口裏、木津北島町三丁目、同四丁目等で、元は名護町と渡辺村の二箇所であったが 衛生係が矢釜しく言うのと、第五回博覧会の際に 追払われて分割したので、まだまだ郡部の今宮村や天王寺村へ 移住したもの 幾らあるかも知れない
 住宅は 孰れも長屋で 勿論 破れ戸、破れ障子 ほんの雨露を凌ぐだけ 不潔の何のという沙汰ではない、宛然 馬小屋だ、彼等は 孰も合同生活で 下二畳、四畳半、二階四畳、四畳半という間取りの一軒に 下は家族二組、二階も二組というのは上等の方、下等になると 下に三組 上に三組位いるのである
 着物は 年中一張羅、但し 夏になると 女は襦袢一枚に腰巻、其の上に穢い前掛をぶら下げて居る、大暑になると 腰巻一枚で稼ぎに出掛ける、男は 法被にパッチ、この社会で着物を着ていると 長い物と称して羨まれる 長い物を着る者は 威張ったもので、それさえ お祭か正月も元旦丈け、翌日は早速 質屋の蔵へ保管される、子供は 夏中全く丸裸、鼠の子のように5人も10人も 一所にごろごろ寝たり起きたりして 何も知らず遊び戯れて居る、
 食物は 牧場の牛や豚や養鶏場の餌にする残飯が常食である、其の残飯は 師団の食残り、汽船、牛肉店、料理店の客の食残り等で 副食物の肴も 野菜漬物も 同様の残りものを買って食っている、
 この残飯残肴にも 上等と下等とがある、第四師団の残飯は 米七分に麦三分だから 下等としてある、他は 皆上等である、
 直段は 物価の高下によりて少々宛の差がある 此の節は 上等残飯一貫目17銭、下等が13銭である、一貫目で白米一升3〜4合ある、
 副食物は 皿一盛の肴と野菜が1銭乃至2銭、漬物は 同5厘乃至7〜8厘、汁一杯5厘、
 夫れで 一人が何程食うかというに 此の計算は中々六かしい 彼等は 収入の少い時は 少く食う、それから 収入のない時には 食わずに辛抱するという賄方である、
 従って 彼等の生活は 収入次第で、近頃 米高の為 残飯が3銭位高い、が それ程感じないようである、
 若し雨でも降るか何か故障あって 買わぬ者の多い時は 行商人の残飯と副食物が持になる、其の場合には 牧場と養鶏場へ持ち込みて 豕や鶏の餌に売るのである、残飯の捌方は 日々大部分は 貧民、一部は 豕と鶏の餌とになって居る 「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」というが 此の食倒れの大阪の半面に 6,700余人の同胞が豕や鶏と生活を同じうして居る訳である。

 
(十五) 生活難の現状 ()
大阪の細民

 彼等の生活は 其の日暮しであるが 比較的呑気である、
 残飯を食って居るから 薪炭代は要らぬ、水は 大抵井戸水で済ます、
 屋賃は 一日一家族が5銭、6銭、7銭、上等が8銭、油代の割前 一組一夜3厘から5〜6厘、夜具の借賃 一夜上蒲団2銭、敷1銭、5〜6人で一枚の夜具に 足を突き込みて寝る、盛夏になれば 蒲団を倹約する者が多い、
 小遣銭は 煙草を喫み 酒を嗜む者が多いから 3銭乃至5〜6銭要る、煙草は多く粉を喫み、酒は支那のアルコール混合の一升3〜40銭位のものに 唐辛子を打ち込む、酔って睡るのが 彼等の唯一の慰藉である、
 日々の雑用といえば雑とこんなもので、一人一日の生活費は7〜8銭、10銭位が 最上等の暮しである、
 下寺町の貧民窟は 上等で 残飯は食わぬと 威張って居る者があるが、其実 矢張り残飯は喰う、只 彼等の中に 稍体裁を飾るものは 人目を忍んでそっと買いに行き、前掛で匿して帰る、何れの貧民窟でも 残飯だけは余り人に知られたくないようである。
 職業は 賃貸車夫、燐寸職工、下駄拾、辻占売、屑物行商、紙屑拾、磨砂売、不潔物掃除人夫、門芸人、坊主、下等羅宇仕替等で 一日の収入は 女が7〜8銭から12〜3銭、男は25銭、30銭、最高45銭位で、若し雨でも降ろうものなら 大半は休業である、此の社会では 雨は大禁物、
 それで 彼等に取っては 腹一杯食うのと眠るのが 最上の慰安で、美服を着飾りたいとか、演劇や寄席や興行物に行きたいとか、神社仏閣の参拝、名勝見物などは てんで念頭に置いて居らぬ、又ゆきたくも無いと言って居る、併し 彼等が日常又しても口にする チョンガレ即ち浪花節を聞く事は 余り嫌いでもなさそうだが、それとても 金を払って態々聞きに行くのは 贅沢の骨頂であるとして居る、
 今日この頃 炎熱燬くが如きの日、終日労働して 身体は綿の様に疲れ果て がっくりとしながら馬小屋同様の己が住家に辿り帰り、先ず滝なす汗を流さんものと思っても 中々燃料が高いから 思う様に湯に入る事が出来ぬ、だから 愍然なことには 古下駄を集めて 共同の風呂を焚き 交る交る入浴して居る、入浴が済むと 入口で古下駄を燻べて 蚊の来襲を防いで居る、此の部落は 何れも酷い蚊で、血に餓えた千万の蚊は 鋭い嘴を揃えながら 群を為して唸り 一組の蚊帳の用意さえも無い、それでなくても 血の気の少い営養不良な彼等の身体を いやという程刺すという状態にある、
 かかる裏に、偶には思わぬ余得があると 家族一同 残飯的珍味に大満足するが これもほんの束の間で、やれやれと身体を横へ 楽しい眠りに就こうとしても 意地の悪い蚊軍は 同類の蚤軍さては南京虫軍などと連合軍を組織して 包囲攻撃をして 遂に碌々寝る事も出来ぬ様な 憐れな有様なのである。

 訂正 前号「大阪の貧民」の項中窮民は細民、非人は無頼貧民と訂正す


 (十六) 生活難の現状 () 東京の貧民

 東京市には 15区を通じて 大約20万の細民が居る、東京市の人口を2百万とせば 其の一割が食う事の出来ない人と云うのが適当であろう、此の20万の細民が 東京の如何なる方面に散在して 如何なる職業に従事し、又 如何なる生活をして居るかは 社会問題を研究する上にも 或は 国家経済の上より見ても 容易ならぬ大問題であるが、
 此の調査が 又甚だ困難で 到底十分なる調査が出来ない、昨年来 警視庁でもやり 内務省でもやって居るが 何れも詳細な満足の結果が得られないとの事である、茲に掲ぐる東京の貧民なるものは 記者が実地に踏査し 見聞した処を綜合して、彼等の生活状態を写すに過ぎんので 
 先ず第一に 順序として 彼等の根拠地から云わねばならぬ、最初に指を屈する処は 下谷の万年町である、万年町と云えば 東京市に於ける貧民窟の代名詞で、誰でも知って居る、次ぎは 四谷の鮫橋、芝の新網 其の他浅草、本所、深川、麻布、小石川の各区に散在し 各一小部落をなして居る

 居住地と其の関係

 而して 是等貧民部落の所在地を 東京市全図の上より見る時は、下谷万年町は 上野公園と浅草公園との中間繁華の地にある、又 四谷鮫橋の如きは 東宮御所に程近き鮫橋谷町に巣を構えて 帝都の中央部を占め、芝の新網は 殆ど帝都の門戸とも云うべき 新橋と品川との間に位し、何れも皆市の中枢の地に介在して居る、唯 本所、深川の両区にある貧民窟のみは 僅に東京市の場末に駆逐されて居るに過ぎぬ 更に其居住区域に就き研究するに 自から皆一種特有なる気風と歴史とを有し 職業も亦異って居る、下谷万年町は有名なる丈に それ丈古い歴史を持って居る

 万年町と願人坊主

 徳川氏三百年中庸の頃より 上野に近き山崎町(今の万年町)には 浮浪の徒が住っていた、これが尚今日迄 貧民として存続するに至りし根源を作ったものであると云うが、斯くも 浮浪の徒が 山崎町にのみ集合するに至った由来を尋ぬれば、徳川時代には 上野の山内に宮様がお住いになっていた、冤罪で死刑に処せらるるものなどが 宮様に御縋りをして 無罪を訴え、之によって助かった者は 山内に入って坊主になる、之を称して願人坊主と言った、然るに 此の願人坊主なる者が 年と共に甚だ怪しい者が現われて、一方 訴願人と宮様との間を お取次ぎをすると云った様な 所謂 請負じみた行為をなし、切取強盗を何とも思わぬ浮浪の悪僧等が 白昼墨染の衣で 大道を闊歩し、上野の山下の山崎町辺に 巣を構えて、願人など、記したる高張を 戸毎に出していたものである、今でも関東にては 獰悪なる相貌の者を 願人坊主というが 如何に彼等の猛悪なりしかを知るに足る

両奉公の悪同心

 搗て加えて 東西両奉行の日傭与力同心なる者が住んでいた 何処彼処に 博奕の手入があると聞けば お先廻りをして予告を与え 金銭を強請し、是又箸にも棒にも懸らぬ代物であったが 御維新後 彼等も遂に飯が食えなくなって 種々の職業を求める事になったが、年来の放浪生活と慓悍なる性質とが 到底真面目な仕事に従事して居れず、掻浚えはする、泥棒はする、乞食に落ちる、
 之れが 今日迄尚依然として 他の貧民窟に比較し 獰悪なる気風と掏摸、乞食、掻浚の徒を多く出す 万年町の基礎を固めた歴史である
 

 
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十七) 生活難の現状 () 東京の貧民

 下谷万年町に次ぐ所は 矢張り 四谷の鮫橋であろう、然しながら 鮫橋の貧民窟は 名前丈は一般に知れ渡って居るが、現在の鮫橋は 貧民窟と一概に云う事は出来ぬ、場所が場所丈に 漸次 家屋の改造と共に駆逐されて 僅に 谷町の一小部分に縮小されて居る、市内の貧民窟中 第一に跡を絶たねばならぬ運命を持っている所である。

鮫橋は昔水田

 であったとやら、寛文四年 伊賀者の組屋敷 代地となり 後 元禄九年 市街に編入されたが、余り其の地が低いので 谷町と名けた窪地で 且其の当時は 場末であったので 次第に人足乞食の徒が住む様になった 而し 此の地は 万年町の如く 歴史的に出来上った貧民窟でなく 漫然と寄り集まったものであるから 所謂 貧民ゴロは居らぬ、
 目下の調査によっても 鮫橋の貧民は 重に土方、人足等の日雇労働者が多い、其の新網も 鮫橋と同じ運命を有して居る部落で 是又 純粋の貧民は 漸次減退されて行く、僅に現存して居る貧民の多くは 其の附近にある 芝浦の鉄工場 又は 煙草工場等に通勤する 云わば貧民としては 高等なる定業を有して 生活して居る部落である

最低度の貧民

 本所、深川、浅草などの貧民窟に至れば 是等は 所謂 東京の場末で求めずして 彼等の団体が 落合わねばならぬ所である、深川では 東西大工町の如き、本所は 割下水花町などと来た日には 目も当てられぬ有様で、生活に疲れたる凡ての落武者が 入込むどん底で、種々雑多の職業を有し 又は 全く職業を持たぬ浮浪人も居るが、
 概して云えば 本所より深川の貧民は 其の居住地が幾多大工場の所在地丈に 工場労働者 及び 木場辺の小揚人足が多く、天気の持具合で 其の日其の日の運命を卜される日傭人足から見れば 幾分 生活の安固を保証されて居る定職を有する手合である、
 更に 浅草に於ける貧民窟を挙ぐれば 田中町、浅草町、地方今戸、玉姫一帯の地であるが 昨年の吉原大火の際焼出されて 彼等が一日の労を医する唯一の安息所たる棟割長屋も 遂に其の跡を止めない、焼出された貧民等は 皆 下谷、金杉、三輪と移住して 一時に下谷、金杉辺は 貧民の数を増加した、是等の貧民は 重に 吉原土手などに辻待する 夜稼ぎの車夫が多い。
 

 貧民の標準

 其の他の区にも 全然居らぬとは限らぬが 極めて少数のものである、
 然しながら 此の貧民であると、あらざるとは 甚だ区別に困難を感じ、其の標準を立てるに 何を基点として宜いかが 今の処では一定して居らぬから 東京市の貧民を研究するには 市が認めて 以て貧民となす者を 目標にするより外はない、
 市は 去る35年以後 特殊学校として 下谷に万年小学校、深川に霊岸、本所に三笠、四谷に鮫橋、浅草に玉姫の5校を第一期として設立し、其の後 麻布の絶江 小石川の林町、本所の菊川、深川に猿江の4校を増設して10校とした、
 市の目的が 貧民の子弟教育の為に設立した学校であるから 此の10校に通学する生徒の父兄を 貧民と見て差閊ない訳である、
 又 警視庁の調べも、内務省の貧民調査も 皆 此の特殊学校生徒の父兄の生活状態に因って居る、是れとて 決して完全なものではないが、記者も例に倣って 彼等貧民の概括した職業別と賃金額と家族数とを示す事にする
 

[図表あり 省略]  

 以上は 只各区に於ける貧民の内 必ずある職業丈を列記し、平均を取ったに過ぎぬのであるが、其の他揚げ来れば 鳶職、下水掃除夫、屑拾、小使、鍛冶工、鋳物職、研物師、納豆売、マッチ箱張、点灯夫、魚腸商あさり売等 約百種以上に分れて居る

 (十八) 生活難の現状 () 東京の貧民

 概括したものや 平均率などで 不規則な彼等の生活の内情が 容易に判るものでない 記者は 是より 直接彼等部落に入り込み 研究した事実を 記すこととしよう。   

四畳半に九人

 万年町も 大分近年は立派になって 衛生上なども中々に行届いている、
 貧民窟の真中に立って居る 万年小学校に通学する生徒は 750余名あると云うが 昨年 内務省でこの生徒の家族を調べた時に 家屋が2,800軒で 世帯主が3,048、人口が1万548人であったとの事であるが 之は 単に生徒の家族に過ぎぬので 其の他学校に関係のない貧民が 其の何倍あるか知れぬ、
 そこで大約ではあるが 下谷、浅草で戸数が2万 其の以外の区に3万、一戸に家族4人と見て20万と云う数が 出たのだそうな、彼等の一戸と云っても 大抵 二畳か三畳一間、四畳半などに居るのは 余程贅沢か 左もなければ 四畳半に幾組かの家族同居してるのである、
 現に記者が目撃したる所では 四畳半の一室に 二世帯で9人の家族が居った、
 万年町には 同居の家族は多いけれども 浅草や本所の様に 木賃宿生活をして居る者は 一人もない、是れは 万年町に 木賃宿と云うものが 一軒もないからである、皆一家をなして居る丈に 木賃宿に居る者の如き 独り者や住所不定の浮浪人が少いからして 妻もあれば 子供もある為に 又 貧困の度も甚だしい。

 子供故に貧乏

人間は 自分独りぽっち程 気楽な 簡単なものはない、食うと食うまいと 只自分が我慢をすればそれで済むが 子供があったり、妻があったりしては 先ず自分が食わなくっても 子供丈にも食わせたいのが親心 亦 人間の情である、
 記者が 下谷金杉下町に住む 某鋳造職人に就て訊す所によれば、彼には 子供が4人あって 女房と二人共稼ぎで 僅に一日60銭にしかならぬ、子供がなければ 是れでもどうにか 一週間に一度位は 濁酒の一合も飲めるのであるが 子供の4人もあっては 粥も飲む事が出来ない、子供の為に 此の境涯を脱する事がならぬと嘆息していた、
 多くの中であるから 随分惰者も居ないではないが 彼等も人間であるから 食わんでもよいから寝ていたいというものはない、只 年来の惰性で 食う丈の金さえあれば 一文もなくなる迄遊んで居る、之れが 彼等特有の貧乏性とでも云うのであろう、記者の目に触れた中に 随分酷いのがあった、病身の父を抱いて 13歳の少女が 工場に通うて 僅に月4円内外の金を得て 生計して居るのがあった。
  

雨が禁物

 最低度に際限はないが 貧民月収の最高額と云うのは 17〜8円が限度である、
 此の点に就て 左官職の某が 記者に向って「雨さえ降らなければ 飯が食えないなど云う事はない、日傭殺すに刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよいと 唄にもある通り、雨には全く困ります、併し 世間では 万年町にでも住んで居ると 一も二もなく掏摸か泥棒の様に思って居るが 私等は そんな者じゃありません 憚りながら 人の物など毛筋一本だって取らない、腕に覚えた職がありますから、雨さえ降らなければ 一日70銭は 定ってとります、併し 一箇月10日は雨と先方の都合で 休まねばならず 正味20日間です、是れで14円、嬶が 内に下駄の緒内職をして 一日10銭 是は降っても照っても10銭だから3円 都合17円の収入がある、家内は 夫婦に 子供が7歳を頭に3人、うんと倹約して 月3〜4円は足りません、嬶が 少し眼玉が見える
(文字を解する事)ので 毎日の費用を記けていたから見てください」と 突出した帳面を見ると 成程細かに記してある、参考の為に 表にして現すとした

 [図表あり 省略]  

 一箇月の収入17円に対して 支出19円70銭を要する、
 此の表によって見れば 決して無益の費用は一つもない 是れ以上倹約は出来まい、同人は 煙草も酒も飲まぬから 収入を全部計費に当てらるるも 酒でも飲む口なら 到底食う事が出来ない、
 日70銭と云えば 彼等の部落では最上の方で 而して 同人夫婦は惰け者ではない、最後に同人が「是れ以上稼げったって 稼げないじゃないか、うんと働いても食えぬのだから 仕方がない、此の上は 天を恨むより外ない」と云った時には 思わず冷汗が出た、
 彼等を慰むるには 稼げば食えると励ますのが唯一の言葉であったが 真に稼いでも食えぬと実証を示されては、それでも稼げば食えると 云い得るであろうか、遂には 質朴な労働者の中より 不穏な思想が知らず知らずに養成されはすまいかと思われた。

 (十九) 生活難の現状 () 東京の貧民

 浅草の貧民窟は 火事で自然淘汰の結果 大部分 減退された
 玉姫町には 市設の貧民長屋が 百戸程建てられてあるが 其の住民は 市の監督を受けて居る丈に 惰者も居らぬば 不良の徒も居らぬらしい、
 併し 金の取れぬのは同じと見えて 選りに選って貸附けた貧民でさえ 日に8銭乃至10銭の家賃が 二箇月も滞って居るのが 百軒の内2割はあるそうだ、是等は 貧民として性質上 先ず上の方であるが 記者は是れより更に進んで 本所、深川両区に散在する貧民窟を探る。

  ボール紙の壁

 本所深川は 場末ではあり 大工場の所在地であり 何れの点から見ても 他区に比較すると 貧民が住み易い様に思われる、
 特殊学校の如きも 一区に二校設立されてあるのは 此の両区のみである
 本所に於ける貧民窟としては 横川町、三笠町、表町、菊川町、長岡町、中の郷、
 中にも横川町の如きは 最も甚だしい、電車を 石原で降り 亀井戸道を約五丁程行った左横町に入ると 一種異様の臭が鼻を突く、薄闇い汚い路次に 数棟の丈の低い 家だか小屋だか訳の分らぬものが 200戸ばかり 二間半に十間位の建物が 40戸にも区劃されて 其の屋根下には 150人位生息している、
 隣と隣の壁などは 甚だしきに至っては ボール紙を以て 境をして居るのもある、
 家賃は 大抵一日3銭より7銭位迄で 住民の多くは 貧民中の又下級、立坊、ヨボ車挽、葬式の花持等で 一日の収入が 10銭以上20銭位迄である、
 食うに困る位であるから 家賃なども 三箇月四箇月も滞って居る 従って 家主も 手入などはしないと云った次第で 其の不潔見るに堪えぬ、殊に 梅雨期に入って 雨の2〜3日も降った日には 入口からして 溝泥を掻き廻した様である

 本所深川貧困の差

 其の他 南北割下水から 横川を渡って 業平町に掛けての一帯は 大同小異 其の生活状態が 略一定して居る
 本所区内貧民の職業は 千差万別で 他区の貧民に比して 甚だ区分が困難である、
 同じ場末でも 僅か離れた隣区の深川に至ると 貧民の種類が違う 
 深川にて 最も甚だしいと云われて居る 東西大工町の如きは 職工町と云っても宜い位である、附近には 紡績工場もあれば 製鋼会社もある、其他 種々の大小工場が林の如く立って居るから 大抵は工場に通う 定職ある職工で 本所に比すると 生活状態が 非常に裕福である、
 又同区には 猿江裏にも貧民窟があるが 此の地一帯は 工場労働者に次ぐに木場の定雇人足で 是亦労働者としては 高等の方である、一日安くっても40銭から7〜80銭の日傭になる、
 是れは 隣りから隣り職工の住む 東大工町に居る 車夫の談であるが、車夫は 勢一杯働いて一日60銭位になるが 車夫の取った金は 何んだか取栄がしない、内に帰ると 大分其の金が減っている 其の内 又 歯代を取れれ 残る所は 幾何もない、職工のは 取れば取る丈残るのであるから 車夫の60銭と職工の40銭とが 比適するとの事である。
 

 木賃宿の貧民

 本所深川に於ける 詳細な貧民の状態や 其の数が 未だ調わって居らぬ 内務省では 昨年 下谷、浅草を調べ 本年は 本所、深川を調べる事になって居るが 其の調査に苦しんで居るらしいので 人口の如きも 何程あるとは分らぬが 戸数から言ったら 約2万位はあると云うから 大体の数は想像される、
 職業の如きも 深川は 前記の通り、或る程度迄 区分されるとしても 本所に於ける職業別は 千差万別 殆ど 補捉する事が出来ない、長岡町、三笠町の辺には 車夫が多いかと思えば 菊川には 人足が多い 横川は一定した職業はない、
 花町に行くと 是又 軒を連ねた木賃宿100戸以上もある、
 一軒の木賃宿に 少くとも10人以上多くて20人も居る所がある、
 是等の者は 木賃宿の一室を 自分の家と心得て 長くて十年以上も 同じ内に居るのがある、
 木賃宿生活などと聞けば 独身者かなどに聞ゆるが 決して独身者には限らぬ 妻子眷属を引連れて 木賃宿を常住として居る、是等の手合になると 立ち坊もあれば 屑拾もあり、乞食もあると云った次第で 中には兇悪なる犯罪者なども 警察の目を盗んで隠れて居る、
 木賃宿の序に 今一言するのは 中の郷、業平町附近一帯は 殆んど軒並 木賃宿と云っても宜しい、警視庁の統計によると 浅草辺の白首以外に 淫売婦を多く出すのは 木賃宿生活の者に多く 男子にしては 犯罪者が多い様だ。

  

(二十) 生活難の現状 () 東京の貧民

 本所区内の貧民職業を 強いて区別すれば 車夫、人夫、車力が 大部分を占めて居る、
 是れは 三笠小学校生徒 1,000名に対して 統計を取った順になって居る。
  

買食は浪費でない

 尚 同校に就て聞くに 生徒1,000名に対する家族が4,700余、通学区域は 本所、深川、浅草郡部から来るのがある、是れは 貧民の住所が 転々して 一年と同じ処にいるのが少いので、今日本所に居ても 明日は浅草に引越すと云った様な次第で 各貧民部落を追うて歩くからである、
 大多数を占めて居る 車夫の収入は一日40銭乃至60銭 其の内 歯代を差引き 平均5人の家族を養わなければならぬから 子供に着物を着せると云う様な贅沢は 出来ぬ、大抵は 夫婦共稼ぎであるから 午前の6時頃に 飯を食い 子供には お銭の1銭も持たせて 学校に追出し 自分等は 稼ぎに出掛ける 殆ど 夜の明け明けから 生徒は学校の門前に集って居る、能く世間では 貧民の子供が 買食をすると云うが 決してそれは 浪費するのではない、其の1銭なり1銭5厘なりの金は 昼食の代りになるのである、若しも 生徒に 昼食を持って来いと命じたならば 殆ど生徒がなくなるであろう、
 彼等の術語には 食料の内 硬いものと軟いものと称して居るが 硬いとは 普通の飯を云うので 軟いとは 粥とかおじやとか水気のあるものを云うのだそうだ。
  

貧民と食慾

 一年生271人の内 食料を調査した中に 三食共食塩のみで生活して居るのが2人、二食の者が1人、
 朝食を欠く者12人、白米常食の者152人、麦飯が82人、残飯が11人、外国米を食する者32人、
 併しながら 昼食を欠く者12人と云うは 甚だ当にならぬので 前にも云う通り 1銭2銭の小使で 焼芋なり駄菓子なりを食して 昼食の代りにするのであるから 昼食を欠く者は 事実に於て 大部分であろう、
 之を 一年から六年迄の 生徒の小使を合算して 或る定数と見て 其の割合が 全体の四分の三強が食物、其の残りの三分の一が 他の玩具 其の他の費用となって居る、貧民の子弟に 買食を禁ずる事は 実際に於て出来ない。
  

取った丈使う

 又 子供のみならず 貧民が買食をする事は 一面から見ると 止むを得ない事かも知れぬ、
 其の一例を挙ぐれば 三笠小学校教員の一人が 真に貧民生活を味う為に 労働者となって 花町の木賃宿に泊り込み 毎日労働者に交り 車の後押しとか人足とかに雇われて働いて居た
 始めの内は 自ら高く構えて 労働者気質に落ちまいと務めて居たが、日数が経るに従い 始めの考えは 漸次薄らいで行く様になり 何にも考えずに 只食う事と寝る事ばかり考える、仕事をして居る内にも 何町の角には寿司屋があるとか、蕎麦屋があるとか 又は 夜の何時頃になれば おでんやが出るなどと云う事が 常に頭を去らぬ、一日 其の当時で40銭の日給を取ってくると 先ず帰りには 知らず知らずの間に 其 食物屋の前を通ると這入って了う、只もー 食う事以外に 何事も考えない、僅か四箇月程の内に 純然たる労働者の型に 箝って仕舞ったとの事であるが 之に依って見ても 労働者が一日に50銭取れば 50銭悉く使って了うのは 食わなければ 働けぬ 結果かも知れぬ。
  

貧民と残飯

 何れの貧民窟にも 残飯屋の入込んで居らぬ処はないが 本所には殊に多い、
 大平町二丁目には 染屋とて 手広くやって居る残飯屋がある、
 是れは 被服廠や衛戍所等から払下げた残飯で 十貫目とか二十貫目とかを 一貫目大抵8銭か9銭で請負い 売値にすると 味噌漉一杯が4銭位で 其の分料 五百目位ある 米一升 炊けば八百目になるとの事であるから 六合五勺位には当る、
 工場などに入る弁当を見ると 大概一合二三勺しかない それで一人の一食を過して居るから 一杯4銭で買って行けば 親子3人は 優に食えるのである、
 此の頃なら 午後の6時から7時頃迄の間は 残飯屋の前は 味噌漉を持った者、丼を持って買いに行く者 引きも切らず、併し 米が高くなったので 追々 残飯は不足になる、貧民は 殖えて行くので 残飯さえも食えぬのがある。