1911(明治44)年4月3日 大阪朝日新聞
貰子、預り子の虐待といふ事は 随分長い間社会の問題となつているが さて肝腎これが救済手段は殆どないというて好い位な始末、この間 難波署でも 部内の貰子、預り子の取調べを行ったが 其の結果は 苦悩(くるしみ)に呻(うめ)いて居る不幸児の救済事業が 益々急であることを明らかにしたのみである
△鬼の本場 同部内だけでも不幸な目に遇うている者が384名ある、それで 一軒で金が欲しさに二人も三人も貰うて居るのがあるから 家数にすると250軒ばかりになる、
さて其の本場は 日本橋、東、西関屋町辺で 記者が実地に就いて訪ねて見た下寺町百軒長屋の恐ろしい貧民窟などでは 貰はれた子と実子とがゴツタ混ぜになって喚いて居たが 可愛さうに貰い子に預り子は 瘦せて衰へて見る陰もない姿、余程生まれ付き頑丈な者で どうやら斯うやら 戸外で飛び廻るまでに漕ぎ附けた子が 普通の子供の半分位しか育って居ぬのを見ても 是等の子供の大部分が 死ねよがしの虐待に 朝夕苦しめられているのが判る
△若後家の秘密 こんな子供は 大抵私通姦通などの罪の塊であるが 生れ素性の卑しからぬ子も決して少なくはない、その中でも 最近の事実として此んなのがある、
船場で数代続いた資産家の呉服屋へ嫁に入つた花嫁、三年目に夫に死に分かれ、うら若い後家の身で 雇人を指図し 家政を切り廻して居たが 如何(どう)した機(はず)みか一番番頭と好い仲となり 玉のような男の子ができた しだらに こんなことが世間の評判になっては 家の大事先祖に申訳がないと 親類どもが血眼になって走り回り 秘密の内に葬ろうと思案の末、そこは又、誰の子といふことは一切秘密に 他家へ世話するのを商売にする者がある、その手を潜って50円の金付きで去る家へ遣つたところ、十日も経たぬ内に その家では10円の頭を刎ねて40円で他家へやる、其処からまた30円、20円、遂には15円と下落して百軒長屋の魔窟に落ちて終ふた、
ところが「何処の者か分からぬが何でも好いとこの子や」といふのを小耳に挟(さしはさ)んで 貰ふた鬼は根気よく実親を訪ね廻った上 赤子を抱いて強請(ねだ)りに出掛ける、若後家は痩せ衰へた我が子を見るたびに 身を寸寸(ずたずた)に裂かれる思ひ、昔の罪に夜昼なしに責められて居る
△因果の子 も一つは 東京遊学中の堕落学生にたらされ 因果の子を産み落として此の魔窟へ売った女がある、この女は 他へ縁付いたが 子供は現に此処で苦しんでいる、
この女は 今度の取調べに初めて我子と名乗り合ひ 余りの姿に気も転動し 果ては夫に離縁され 遂に浅ましくも気違ひとなつた、
鬼の手に虐待されて鳴く子の悲鳴は 罪を作った男女を呪ふ声である
兎にも角にも こんな魔窟に落ちたが最後 貰ふた親は一日でも早く子供が死んでくるれば 厄介払ひなので 罪悪(つみ)にならぬ程度で殺される、七人迄 古井戸へ貰子を投げ込んだなどは昔の事で 今はずつと手綺麗に 医者からも立派に診断を貰うて 大きな顔して厄介払ひをする
△米で殺す法 貰ふた赤子の食物は 大抵は粥の上湯で 飯粒などを 態(わざ)とドシドシ喰わして 直に胃腸病に罹(かか)る工夫をする、腹痛に苦しんで ヒイヒイ泣くのを構はず無闇に喰わす、すると三日程して骨と皮になつて了(しま)ふ 医者に見せても唯の胃腸病で死んだとなつて 殺した証拠は挙がらない、斯ういふ風だから 何ぼ警察から手を付けても 犯罪人の出しやうがない、
而(しか)も是等の鬼は 人力車夫、按摩、煙管(らを)仕替(しかへ)、手伝ひなどである、
それも 以前は下等社会の子ばかり扱つて居たが 近頃警察で調べて見ると、中流以上の親を持つた子をば 怪し気な周旋人の手を潜つて 此の地獄へ落とすものが沢山あるのは注意すべき事柄である、
前記の船場の若後家などはホンの一例であつて 同じ様な運命に弄(もてあそ)ばれて 殺され掛っている子が 三百何人中の半分はあらうといふ、親は兎に角、哀れは 親を知らぬ子供の身の上である