1911(明治44)年4月13日 大阪朝日新聞

鳶田墓の移転 ▲天王寺歴代の墓地

 西成郡今宮村字鳶田に 鳶田の墓地と云ふあり 維新前の処刑場(しおきば)にて ここにて斬られたる罪人の数知れず 昔は随分物凄かりし地(ところ)なりしが 何時の間にか附近に人家建ち連なり 開祖廟も雨に破れ 風に傾き 本尊地蔵菩薩の踞像、同立像の御前すら 勿体なくも寸莎(すさ)の乾場(ほしば)となりたる有様なれば 有縁無縁の石塔の如き仏石台石離散して 彼方此方に転り 荒れに荒れたる次第 浅猿(あさま)し
 その中に 天王寺秋の坊先代の碑15基を初めとして 中之院先代の碑4基 吉院先代の碑6基、静専院先代の碑3基、東光院先代の碑1基、一音院先代の碑4基、静心院(廃寺)歴代の碑2基、法憧院(廃寺)歴代の碑5基、玉照院(廃寺)歴代の碑5基、千葉院(廃寺)歴代の碑4基、修禅院(廃寺)歴代の碑2基、明静院(廃寺)歴代の碑5基、自性院(廃寺)歴代の碑2基、天王寺末寶泉寺先代の碑2基、其の他伶人の石碑あり
 四天王寺にては この墓地が 同寺の開基聖徳太子御手印縁記及び四天王寺寺史等に 太子が同寺の墓所と定めたまひたる処なるに関らず
 何時の間にやら今宮村のものとなり
 軈(やが)て北区樋上町上田熊次郎 難波新地四番町上田徳治郎等の所有に帰し 今は香花手向くる人とてもあらざれば
 sc海(ふくでんかい)の人々是を歎き この程 四天王寺の乾地に立像の地蔵尊を移し これを中央として前記の墓碑をも移す事としたれば sc海の有志は何れも向ふ鉢巻きエンヤラヤアで数の石碑を天王寺に移し
 鳶田には罪人の罪業消滅の為に祀りし 踞像の地蔵尊を遺して その跡をとどむる事としたるが 福田会にては 近々のうちに この石碑の供養をなすとのことなり
(注:「sc海」と「福田会」の2種の表記があるが、どちらが正しいか、目下不明)