1911(明治44)年7月6日 大阪朝日新聞

開かれた徳風小学校

 今宮の久保田権四郎氏と難波署長天野警視と医師大田豊道、同豊の両氏及び有志者に依って今宮に設立中なりし貧兒収容の徳風小学校及び施療所は5日午後3時開校式を挙げた
▲揃への筒袖 12畳敷の保育室には有志者より寄贈した学用品が山の如く積まれてある、新しき揺籃に新調の巻き蒲団まで揃えて天井から吊り下げてある 「どうです、この通り何から何まで有志の寄贈を得たのです」と天野署長は言う、
 屋内体操場が当日の式場で 児童は教師に導かれて入って来る、皆揃への飛白(かすり)の筒袖に手拭いを帯にはさみ、胸に学校の徽章をつけ 女兒(ぢょじ)は揃へのリボンで整列する、父兄がその後ろに立つ、「君が代」の合唱がある、校長浅井清太氏(木津第二高等小学校長)の勅語奉読がある、その間児童は身を堅うして頭を下げる、
 来賓河井医師は小学校や施療所の設立を祝し 「私は是れまで種々の式場に臨んだが 今日ほど心底から涙がこぼれるほど嬉しい式は見たことがない、それは昨日とは打って変わって皆さんの可愛らしい おとなしい姿を見ることです」と演説し
 男女80余名の児童総代として丸田鶴吉(10年)が答辞を述べて 一同は「うれし、うれし、今日しも開く学びの庭」の唱歌を合唱して式を了つた、
 式後 池上警務長其の他来賓一同撮影をなし 涼風会の氏原一山は 得意の講談を寄付出演した
▲父兄の嬉し涙 大田氏兄弟が 日々時を定めて出張して施療に従事する施療所は 同校と壁一重を隔て 玄関には三名の看護婦が詰め切り 薬品其の他の設備をしてある、父兄は一教員に案内され「腹でも痛かったら直ぐここへ来て遠慮なく診断を受けなさい」と云はれて マア 何といふ結構なことだ、子供も真人間にさして頂く 病気までも診て頂く」と 嬉し涙に暮れていた
▲万事は愛 学校は6日より開校して 浅井核長(ママ)の外樽本、細川、松本の訓導 其の他2〜3の女教師が教授の任に当たる、
浅井校長「本校の校規は「小事は不同 大事は一致、万事は愛」といふ方針で児童を教導します」と語る、教室は第一、第二に分かれている