新聞記事文庫 住居問題(1-001)  神戸大学附属図書館

やまと新聞 1912.3.13-1912.3.27(明治45) 大阪版

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木賃ホテル (一〜十)

社会の裏面観

変装隊の活動

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 ホテルと云えば 名は好いけれど 其実 誰人も先刻御存知の木賃宿……と云っても これは又 木曾の山路や箱根の麓樹の間隠れにあるような 古風なものとは違い 木賃ホテルと銘打って 書き立てんとする木賃宿は 大阪市内に散在する 最下劣等のホテルで御座る、
 此ホテルに 宿泊滞在して 一枚の煎餅蒲団に包まれながら 僅かに 一夜の雨露を凌ぐと云う 哀れ悲惨の境遇に落込んだる 幾多の男女の中には 随分 小説以上の波瀾に富んだ歴史を踏んで来た者が 必らずあるに相違ない 兔も角 探って見たらばと評議一決 市外は住吉街道より市内各所のホテルに就き 宿泊客の人物を探って 浮世を見捨てた極楽蜻蛉や 或は 自から見捨てられた 家なき不運薄幸の千差万別な物語を引っ捕え 社会の裏面を其ままに 世の暖衣飽食の徒に知らしめんとて 
 先ず 北は天満橋筋の最北端 長柄に通ずる街道に 未だ春寒き夕暮れの冷やかな風に送られながら 目的のホテルを物色しつつ 疎らな人通りに交って 兔ある小路を窺う……薄暗くて 然かも狭い 見るからに不運薄幸の人物が出入りに 最も相応わしい 低い軒並みの 四軒目 角の行灯は ホテルの看板、
 此所だなと思い 這入らんとしても 気が咎めて 日頃鉄面皮の男も 如何わしき気がするので 窃かに忍び足に這入れば 「お出でやす」と 五十格恰の主人公 「どうぞお上りやして」と 案内のつもりか 座を立って 「お泊りだすか」と云う 「へいちょいと今晩泊めて戴きたいので」と云うと 主人公 早速後方の帳箪笥の横に掛けてある宿泊帳を取り出して 式の如き 住所職業姓名の聞取りが始まった
 夫れが済むと 今度は 眼鏡越しに 顔を穴の穿く程 熟視めながら 「お泊りは何等にしましょうか」と来た 即ち 一等か二等かの問題であるが 不図 帳場の鴨居の上を見ると 半紙二枚大の古ぼけた宿泊料の掲示がある 
 曰く一等40銭、二等30銭、三等20銭、四等15銭、五等10銭の区別があるのに 気が附いた 無論 五等が百等でも 其様事にはお構いなしであるから 最下等の一泊10銭と定め終ると 主人公自から立って二階へ案内……
 二階とは名ばかり 段梯子は 白木の上へ 足垢の焦げ附いた 踏むにも危げなのを ミシミシと音させながら上って 縁なしの 寧ろ莚とも見るべき荒畳だが 感心なことには これが新らしい6畳の部屋へと案内された 
 其一室に 北から南へ 四列に 蒲団と云えば蒲団だが 何のことはない 全然綿なしの布裂とも見るべき 薄ッペラな二枚の夜具が 敷き連ねてある 即ち 其4人前の夜具の一番奥の方へと 指図した主人公は 油煙で真黒くなった 吊洋灯の火を明るくして 階下へ降りて行く 
 残された身は 此時 初めて ホット一ト息 イザ これからが稼ぎ時 願わくは 良いお客が泊れば可いがと 心に念じながら 先ず以て 指定された夜具の上へと 腰を卸して 一服喫うとすれば 夜毎々々の垢で塗られた 宛然 防水布のようになって居る夜具だから 冷たいこと 実に氷以上で 氷の上に坐って居るようだ 其上 一種異様の臭気は 遠慮もなく鼻を衝く

 

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 氷の蒲団と 鼻を衝く異様の臭気には閉口したけれど 凡そ 社会裏面の観察と出掛くる位の 決心と勇気ある者が これ位のことに 辟易してはと思い直して 待つこと約半時 スルと何やら 俄かに騒々しくなって 男女の話声が 階下の帳場に聞え出した
 耳を澄す程もなく ミシリミシリと登って来たのは 24〜5の 色の白い女であった 小気味の悪いことには 其女が 彼の薄暗い洋灯の火影に 朦朧と姿を見せて 蓬々と乱れた鬢の毛を 掻き上げながら ニコリと笑って 近寄って来る
 女が近寄って来たとて 別に驚くことはないが 何だか斯う 初めから取られるだけの荒胆は取られた後 而も 眼前 幽闇なるこの一室 朦朧と立った年若い女を見せられては 少々ピク附かざるを得ない
……が それにしても 此女は 全体一体何者だろう 此奴も 泊の客だろうか 但 ホテルの女ボーイか それとも 此界隈での 淫的が 何しろ 只の代物ではなさそうなと 見詰むる間に 其女は遠慮なく近寄って来て 隣りの夜具の上へ 坐ろうとして 流石に 彼も極り悪げに チョイと会釈して 「貴郎もお泊りでござりますか」と 小さい声で話しかけた 
 其 態度は 何うやら これも泊りの客らしく見受けらるる 何れにしても 恁麼場所で 記者の眼にぶら下がった曲者なら 何んでも構わぬ 話の種に引摺り込まなくちゃ 役目の表面が相立たぬと思い定めて見ると 俄かに気強く落附いて ボツボツ話の糸口を求め出したが 何がさて 見ず知らずとは誠此こそ 言葉を交わすは 今が初めの彼 最初は何うしても 見の上話を恥じて 包んだ限り言おうとせない奴を 其処は即ち 言わせんが為め 聞かんが為めに 御苦労遊ばすこととて 何条此まま見逃すべきやと 百方苦心の結果 何うやら斯うやら話しだけは 聞き出すことを得たけれども 本名だけは 流石に気の毒と思う節あれば 此所には 仮りに名を変えて 書くこととする

 生れは 紀州伊都郡高野の山への近路と云えば 知る人ぞ知る 橋本町紀の川近い 角の旅館の裏手で 今は見る影もない茅屋とまで零落はして居るが 昔を問えば 紀州和歌山50余万石の御近侍で 扶持高も400石の吉見兵庫の妹娘 ときえ(27)と聞いては 少々驚かざるを得ない 指折り数うれば10年以前 まだ暖かい家庭の裏に ときえは 浮世の荒き波風にも染まず 貧しいながらも 2,000円ばかりの公債で 母娘二人は 水入らず 先ず何不足なく暮らして居たのも 今から思えば 僅か束の間 丁度 ときえが 19の春の花も綻ぶ 2月の末であった 
 茲に 東京は浅草区千束町に住居する 元同藩の馬廻役伊勢部某と云う者から 突然 藪から棒のような談判を持ち込まれたは外でもない 予て聞き及んで居た 父の兵庫が在世の砌り 桑畑の代償として 一時借用して居た 1,400円の金を 今となって 一時に 而かも利息までも積って 返済せよとの厳談である 無論 これは 予て承知はして居た金のことでもあり 且つは 同人の為には 少からざる恩義を受けて居る身の上であるから 到底 返さなければ済まぬ金だ 同じ返さなければならぬものなら 一時も早いが 後日の為と思い切って 名利に淡い武士気質の母親は 何の思案もなく 元利揃えて早速伊勢部某へと手渡して終った

 

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 元より 他に貯蓄のない身の 元利を積って渡した後の財産と云っては 只僅かの 家財道具を売り払って 当座の生活費を 遣繰するばかりのものだ それとて 何日まで継続するや 頗る心細いのを見るに見兼ねた ときえが 茲に意を決しての相談は 即ち 大阪に 昔の知己を倚頼って 2年か3年の間 奉公して 何とか 家庭の困難を救いたいとの志願であった、
 けれども 他に縁辺のない 後にも前にも母娘二人が 仮令 糊口の為とは云いながら 何条オイソレと 即座に承知して 袂を別つことが出来ようぞ 娘は 血気の無分別をとしても 老いたる母親の心としては 流石に 身を二つに裂かるるの思い 兔角 引き止めたさの涙が先きに立って 茲に 一場の悲劇を演じたが 遂には 娘の決心の堅いのと 今 眼の前に迫る生活の困難とに 施す手段も尽きた結果 其月の十何日かに 此大阪へ
 一人の知己を 倚頼って来た これぞ ときえが 一生堕落の淵に沈まねばならぬ 身の破目となるの動機で 即ち 彼が零落の 第一頁を飾るべきものであったとは 当時の ときえの 承知し得よう道理なく 倚頼った知己の某が 早速 承知の親切ごかしを真に受けた 田舎出の生娘の悲しさ
 初めは 船場の呉服屋へ小間使として 一年の間は 何事もなく勤めたけれど 直ぐ 翌年の四月に呼び戻されて 今度は 熊本の知事さんとかの家庭に 小間使が一人必要だから 是非に行けとて 無理無体に説き勧められて 行きは行ったが 偖来て見ると 知事さんとは真赤の偽り 実は 土木請負の某とて 土地でも随分 人間仲間から忌み嫌われた人物で 素行も如何わしい評判の絶ゆることのないだけ 家庭の取締りも行き届かず 之れではならぬと思う廻らす ときえの 苦労は 一方ではなかった、
 けれども 斯うして 海山数百里を遠く離れた女の身として 黙って此まま逃げ出すこともならず 其上聞けば 主人と思う某は 真実此家の主人でなく 実は亡き主人の跡を横領した手代 而かも 主人の妻女と通じ合った曲者と 初めて聞いて 愈々恐ろしくなった、
 が 其時には ときえの 身体は 籠の鳥も同然で 逃ぐる道まで塞がれた後のこととて 如何とも詮術なく 只運命の支配を受くるより外はない、
 所が恰かも其翌夜のこと 雨さえ降り切きる真夜中頃 主人の某が独り ときえの 枕頭に立っての談判……何れは多分麼ことにもなろうかと 心を痛めた其通り 威し文句の数々を 并べて置いての手籠に遭ったが 固より訴えるに所なく 縋るに人のない此の異郷で これも我身の思慮分別が 浅慮なから起ったことと 独り泣き 悔むを 誰れとて慰むる友もない 嗚呼 悲しいことになったと 奥の廊下を伝うて出ると 遥か西の空合いに 薄く悲しげに入りかかる弓張月の影……ときえは 此時 初めて 沁々と故郷の母の上を思い続けて 我身の生立から 昔の家庭を胸に描いて 思わずホロリと涙の雫を落したのである

 

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 昨日までの 清浄無垢も 無残や一夜の嵐に泥土を塗られた ときえの 操は 最早 梢の蕾と見るに由なく 哀れや名もない無頼の悪漢が 恋の虜となっては 遁るるに路なく 隠るるに所もない身の上となって 遂には 佐世保の別荘に囲われた揚句の果が 驚くべし 朝鮮馬山の料亭新海楼へと 酌婦に逐い迫られたのは ときえが 22の11月であった
 故郷の空母の身を思い案じた孝心も 次第に 堕落に沈む身の境遇に 知らず識らず 心の腐るは是非もないこと 忘るるとにはあらざれども 今では 最早 軽薄な人情の 漸やく身に染み 初めて泣いて暮したツイ昨日までを 思えば今は 却って 我儘三昧の為たい放題 堅気に育った習慣も 今では変る女心の 斯うして 日毎夜毎の浮れた生活を 為慣て見れば 結句 此方が面白可笑しく 同じ浮世を泣いて暮すも 笑って通るも 云わば 一筋道 エエ儘よの自暴心 憫れや生れもつかぬ 大蓮葉者となり了せた
 元より 女不自由の新開地 客は何れも一攫千金の山師連中とて ときえの 評判は 忽ち噂高く 毎夜毎夜の千客万来 楼主からは 大切の米櫃と尊まれる程の大全盛となって 茲に 不自由なき不足なき贅沢三昧に日を送ること2年半 然るに 京城で然る大工事を請負て 何万円とかを懐中に収め イザ東京へ帰ろうと云う 石田某と云うが 一日土地買占の視察として 馬山方面へ来たときに 一夜の春を此楼で買い 馴染んだのが縁となって 果ては 大枚2千円の身の代を抛ち ときえを 東京へ連れ帰る相談纏り 遂に其年10月 彼は 久しく背いた故国の山河に接することを得る身となった

 東京へ帰って 向島へと囲われたも暫しの間 飽く迄 不運と薄倖に纏われたる運命の 支配を受くべく生れた彼が身は 茲でも 遂に周囲の事情に追い立てらるることとなって まだ向島は 春尚寒き二月の初め 彼は少からぬ手切れ金を頂戴して それで故郷へ逃げ帰れば 斯くまで 堕落に沈むこともなかったであらが 一旦 悪魔の手に掴まれたる彼女の身として 金の有るのを幸い 東京に踏み留って 役者買いやら花合戦と 瞬く間に費消して了ったは 是非もないこと
 最早斯うなっては 行蒐りの自暴自棄 何とて真面目な生活が為し得られよう 忽ち 浅草は奥山に身を沈めたを手始めに 廻り廻って仙台までも 彷徨い歩き 遂には 宇都宮で怪しい生活をして居る間に 多年の病毒が 一時に起り 果ては見る影もない姿と変った今となっては 誰とて手を出す相手もなくて 流れ流れた身の浮沈み 或は 田舎芝居の囃方に雇われ 或は 放界節の門附となって 1厘2厘の哀れを乞うべき見となり下り 今では 斯うして 水草のそれのよう 今日を明日と 所定めぬ 果敢ない末路に泣いて居る 実にや 因果は廻る車の轍のようだと 聞いては 流石に 気の毒な話 茲に要を摘んだ 哀れの女が身の上話は 斯の通り

 

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 一夜の宿泊に 辛くも拾い上た 前回迄の物語 吉見ときえが 堕落の一条は 茲に擱筆して 次は 天王寺の山内亀の水の近辺 古く垢染みた 天竺木綿の幕の内に隠れて 外には誠光堂 身の上判断運気占ないの 文字肉太に書き記した看板を 麗々しく掲げ 近寄る老幼の男女を 片端から引捕えての判断に 僅の見料を頂戴して 其日の糊口に充当ると云う 年は60を二つ越た 白髪疎髯の老人の 身の上聞けば 多少の波瀾あり 捨ては置けずと 第二の槍玉……イヤ筆玉に挙げて 説き出す一条 
 古い文句だが 葭蘆繁き 伊勢の浜荻 土地は白子の生れで 以前は 土地の村長までも勤めた身の 持って生れた三つの癖が仇となっての此零落 年40にして 家を破り 妻子に見限られた揚句の果が 予て覚えの売卜者となって 一番 日本廻国と洒落て見たい心願を起し 恰かも 今は5年の昔 東京浅草を初陣の地として 横浜で1年 静岡で7ヶ月 尾張名古屋や京都 大阪と 流れ流れて廻って見れば
 さて 旅は憂いもの辛いものとは 正反対に 却って 旅から旅への渡り鳥 塒定めぬが 結句心安くて 今は 誰を 便頼らん術もない身の 斯うして 一日50銭も収入のある日は 甘い酒の一杯も 飲み込む肴の一皿も 満更 食うに喰われぬこともないから 之れから将来は 唯 倒れる所を墓所と定めて 峰の白雲 野の嵐 何所迄 行くか 行ける所まで行って見ましょう……とは 又 途方もない極楽蜻蛉の 此老翁 記者が聊か驚く顔を 尻眼にかけて サッサと出て行く後姿を見送って居ると 
 今度は 記者の後から 大きな声で 「私しだって全く左様ですよ」とは 今迄 此座で 売卜老人の談話を聞いて居った 按摩のお清が 何と感じてか 問わず語りの膝乗出しての 怨み小言と愚痴の交った惚け話
 「まア貴郎や 私の身の上も聞いて頂戴な」とは 少々恐れ入らざるを得ない……と云って 聞かぬも残念 聞くには 聊か馬鹿らしい さて困ったと思う所へ 
 これはまた 表の方に当って 嚠喨たる尺八の音……ハッと耳を澄ます間もなく 其美しい笛の音は止んで 暫らくすると まだ年ならば15〜6の 痩せ形の色の小白い一人の男が 手に一管の尺八を携え 悠々として昇って来たのを 見て取った記者は 好き敵御座んなれ 此奴 引捕えて叩かば豈か 一つや二つの材料は 得らるること必定 今は お清按摩なんどの端武者に 眼をかくる時でないとばかりに待ち構えると 
 尺八先生 年に似合わず 悠々と済し込んだ応揚の態度よろしくあって 記者が種々と話かくるを黙って聞いて居ったが 「全体お前さんは誰ですか」との反問……誰ですかとは 慥かに一本参ったけれども 其所は 嘘偽りも時の方便 早速の返答に安心を与えて置いて これから漸やく聞き出そうとする 尺八の恋物語……
 先ず第一は 先生の生国、東京麻布は狸穴町57番とは さても詳しい 名は 本田麗太郎 幼い時から 何よりの好物の尺八を 14の時には 早く師匠からの免状までも頂戴に及んだとのこと
 家業は菓子屋で 豊と云う程ではなかったが 別に不足を知らぬ 安気安楽の家庭に生れて 一人の兄に一人の妹と 三人兄弟
 17歳の時迄は 別に何事も 憂き目に逢った覚えのない身が 図らず 近所の染物屋の娘と乳繰り合ったが抑々の初め まだ浮世の苦労を知らぬ 真正直の心一筋に 思い込んだ恋のかけ橋 危く渡ったは頗る好かったけれども 何を云うにも 向うも一人の箱入娘と来て居るから サア堪らない 朝な夕なに僅かに顔見て楽しみ合った二人の情交も 遂には 双方の親々に引き別けられた残念さが嵩じ 層なって 娘は無分別にも 身を投げて死のうとする 此方は 煩悶に日を送ることもならずして 遂に思い切って 京都の親戚を便頼り 暫らく 茲に食客の身の上となった

 

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 他人の眼からは 楽と見えても 偖行って見て 是れ程不見識な詰らないものは 所謂 食客の身の上 馬鹿となってこそ三日の辛抱も出来るなれ 意気地の張のと云った日には 三日は愚か一日の辛抱さえも出来兼ぬる話だ
 尺八の先生 元来が 江戸ッ子の 頗ぶる以て短気ものと来て居たので 今暫くを 此家で待てば 軈て嬉しい消息も聞かるることを知りながら 少しのことから 例の短気で エエ面倒なと 飛び出して終ったのが 18の秋……
 此所が 所謂 芸が身を助くる不仕合せで 先生 元より一厘の貯蓄とてもない身の さて 其日から糊口にも窮せず 何うなり斯うなり 京都普化本山で 一日二日も泊めてもらった揚句が
 即ち 黒の木綿無紋の袷に 紺地金襴の縫模様ある 美々しい袈裟を掛け、深編笠の古風な装束に 脚絆草鞋の足元軽く 師匠の某法師に連れられて 洛中洛外を廻り暮したも一年ばかり 遂には 其師匠とは手を別ちての独り旅 今では 普化本山への義務も済んで 心に懸かる雲もなければ 東西南北 何れを目的と定めなく 思うがままの極楽僧となり果てたが身の因果、まだ27歳の花ならば 今が盛りの年を捨てて 後にも前にも 唯一□の笛を相手の杖と縋り 日毎に其の哀愁の音を漂わせながら 果敢ない恋や 人世の無常を怨み 世の外に立って行こうと云う 随分 思い切った拗者である……
 と云うような 何れも一風変った連中の話に 春の夜は 次第に闌けて 最早 12時も過ぎて1時に近くなったので 談る者も 聞く者も 其まま 例の煎餅蒲団へと潜り込む、
 潜り込んだは頗る可いが 何がさて 暫らくすると 記者の頸筋から背の辺り 例の千手観音がぞろぞろとお見舞い遊ばすこと夥しく 予て覚悟とは云え 斯うも一時に多数のお見舞では 到底も眠られそうにもないが 然りとて 此真夜半から 飛び出すこともなり兼ねて 成るべく辛抱はする心でも 時の移るに従って 手と云わず背と云わず 頭から足までの総攻撃と来たには 流石の記者も最う堪らない、と云って 起きれば寒し 今は早や 進退茲に谷まっての苦悶 折柄階下の時計は3時を打つ、3時と云えば後は心安いが まだ2時間は 此攻撃の矢玉を受けねばならぬと 遂に起上って 洋灯に近寄り 窃かに懐中の手帳と鉛筆を取り出して 今までの聞けるがままを 静かに書綴りながら 只管 時間の移るを待って居る所は 抑も何と形容ようか

 陰森とした二階の空気は 今や零落、怨恨悲哀、憤怒、有らゆる世路の艱難に蹉跌して 極端なる反動心を抱いて眠る人々の 重い寝息に罩められて居るではないか、寝て居る人は 何れも血色を失った顔色に 失意と絶望の色を漂し 今は 僅かに息あるに止まる形骸のみを休息て居るが 眠る間が 罪忘れ哀れや天涯の孤客 頼る辺渚の捨小舟同様 明日は何所へ流れ漂うことやら

 

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 千手観音の総攻撃に 半夜一睡の夢も結ばず 夜のまだ明けやらぬ4時25分に起き上って 装束もソコソコ 窃かに階下の主人公を起さんものと 忍び足で梯子段まで出て来た所が 何時の間にやら 階下では 早や4〜5人の荒くれ男が 何れも色褪せた印袢纏に 股引付けて 何所へか稼ぎに行こうと云う所
 記者の顔を 不思議そうに熟視した一人の奴さん 年は35〜6であろうか 毬栗頭の髯蓬々とした赤ら顔、見るから悪漢らしい相を現わしたのが、何と思ってか 莞爾と笑を含んで 「オヤお前さん早や出て行くかい」と 馴々しそうな言葉付 「ハア少じ急ぐので御免を蒙ろうと思います」と云えば 「マア可いじゃないか 己らだって 何れ出て行くのじゃが まだ真闇黒だから 斯うして一服喫んで居る所なんだ お前さんも 一服喫んで行っちゃ何うだい」と来た 顔には似合わぬ 優しい言葉の 何だか馴々しい挙動が 少々怪しいとは思ったが 実はまだ4時半の寒さに 闇を衝いて出て行く勇気もなかったので 幸い此連中の中へ坐り込んで 夜の明け放るるを待つこととした

 所が驚くべし 今の今では 唯だ二階に寝て居る連中のみが 此家の宿泊客と思っていたのに これは又 奥の二室と 裏の離れの六畳とが 何れも 夫婦者の宿泊室と定って居るので 目下 夫婦者として宿泊して居る客としては 都合四組もあるそうである
 其人物の種類としては 先ず 某鉄工所の職工に 荷馬車の雇われ人から 荷車の後押しと云うような連中で 妻女は 多く燐寸の箱張りか 紡績の女工である
 而して 此連中の 一日の所得を記さば 大抵60銭が最高の 35銭が最低で 之れに 妻女が 先ず少くも18銭か20銭の手仕事をするとして 一日総計80銭から50銭位いが相場であるそうな、
 然し 此連中は 二階のお客さんのような 所在定めぬ浮き雲とは全然違って居るので 斯うして夫婦が 出稼の中には 随分真面目な田舎出の 所謂 農閑の時期を考えて出て来て稼ぐと云うような者があるそうだ……
 記者が 此連中の一座で 彼是一時間ばかりの雑談に時を移して居る間に 最う東の空も明け初めて 静かな世間が 何所からともなく騒々しくなって来る
 一人二人 何時出て行たともなく 階下の連中の姿が消えて行くのを ホテルの主人公は 奥の一と室で高鼾……気楽なホテルも あればあるもの 凡そ 何れの国へ行って見ても 旅宿のお客が朝出て行くのを知らぬと云って それで済むと云う主人公は 未だ 記者の聞かざる所だ イヤ 記者ばかりではない 之れは恐らく 読者も 豈や御承知あるまい、が 此所が 即わち 木賃ホテルの木賃ホテルたる所以である 蓋し 木賃ホテルは 他の営業と違い 第一 目的たる宿泊料は 前夜 既に客から受取って居ること 第二 お客が 仮令如何なる盗賊であろうが何だろうが 朝出て行きがけに盗んで持ち出す品物は 階上階下 何所を捜しても 何一つあるでなし、夜具は 元より古物商人でさえ御免を蒙ると云うような品物、第三は 如何なる上等客と雖も 食事の心配が要らぬからである

 

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 浮草や 昨日は東 昨日は西、処定めぬ身ながらも 元はと問わば それ相当に教育も受けた身でありながら 今では身から出た錆に曇る銘刀の 何日まで待てば 元の光りに磨き直さるるや夫れさえ知らず 今日一日の安きを願う 浅ましき境界に 夜毎々々の法界節を 唯一の命と頼む二人の素性は 茲に事新らしく書くべくもない

 男は 徳島県撫養町の近辺 医師の家に生れた放蕩者、医学修業も途中で捨てた身の果が 同じ境遇に泣く 千葉の芸妓と意気相投じて 初めは 東京深川で 暫時の痩所帯も 続く道理のあろう筈なく 忽ち 首も廻らぬ借金に追い立てられての末が 即ち此始末 今は 多くて1円少くて30銭の収入を 結句心安いと観念しての放浪生活

 風俗も 先ず男が 大島偽似の絣の上下に 頭は中刈の細面 掛けた眼鏡は 14度の近視
 女は 古ぼけた縞銘仙に 同じ大島の華美な羽織 銀杏返しの髪艶やかに 嫂●と立った後姿は 昔を偲ぶ鬢のほつれに廓の香残る 婀娜々々した、斯うしてお前と二人の苦労は 元はと云えば皆妾しからとの 真実嬉しい情の絆で 大事の男と纏み合ったが因果の因 40年2月20日に 新橋から静岡へ落ち 此所で 暫らく遊び暮らした其間に 習い覚えた四弦琴 初めは遉に 人目を包む苦労もあったが 今では次第に厚くなる面の皮 東海道を辿り辿って名古屋より北陸へ彷徨い 遂には 此大阪へ流れて来るは来たものの 偖来て見ると 之れと云うべき稼ぎ効もなく 僅かの貯蓄も 今は早や費消果した其上に病患……これから春と夏へかけて 少しは気も悠長になるけれどもと 男が 思案投げ頸の物語……
 幸い 今日は雨も降り出し 風も少々お見舞とあれば 此儘ホテルを退却に及ぶも残念 今暫らくは 此家に坐り込んで 聞けるだけの談話を聞き出して帰ろうと 決心はしたけれども 肝腎の腹が 少々と空虚とあっては 折角の珍談妙説も台なしになる虞れあり 
 之れではならぬと飛び出した時刻が 午前10時 小降りの雨を衝いて 彼方此方を物色するは 外でもない飯屋 即ち 木賃ホテルに最も適当の食堂であるが 何処を見廻しても見当らぬので 珍客聊か閉口の所へ 幸いなるかな 遥か彼方は 天満橋筋、黒い暖簾に大きな文字は 慥かに目的の食堂 イヤ 大盛一ぜんめしの本家本元、
 遠慮なく暖簾を潜れば 突然大きな声で 「お出でやーすー」と来た 「大盛だっか中盛だっか」と11〜2の豆ちゃんが 襷掛けの甲斐々々しい姿で突貫して来る 見れば 広くもない漆喰叩きの庭に 長さ2〜3尺幅2尺の 蝿入らず 其中に ズラリ陳列された珍味佳肴は 高くて一皿5銭 安いのは1銭5厘の 択取り見取り 魚類は 鰊の昆布巻、鰯の煮〆に 豆と高野豆腐、追て 漬物は5厘からとは 軽便極まる食堂の定価表 飯は 大盛が5銭で中盛が4銭……
 お客は総て 此界隈でのホテルから飛び込むを筆頭に 車夫に旅人は二流であるそうな 実は ホテルから飛び入りのお客様なる身も 先ず 大盛をとの注文に 肴は豆腐と豆の混合物 一皿5厘の漬物も取寄せ □い食卓で舌鼓打つのは 何の因果で此真□と 心は少々情ない奴を グッと押えて先□□席のお客に劣らず サラサラと掻込む

 

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 大盛飯に 空腹の苦しみを忘れ 再び 以前のホテルに取って返す
 夫婦の放界屋屋に 話の続きを聞かせてもらいたいものと 探して見たが 早や出て行って居ない、少々落胆はしたものの 何は兔もあれ 社へ帰っての報告もあり 一先ずホテルを切り上げて 社へ帰り大略を報告に及んだ後は 第二の突撃 何れの方面と目的なしに 社を飛び出した其日の行動は 上福島三丁目へと目星を付けたが 少々心にかかる節あって 再び 昨日の場所へと足を向け ホテルの主人公を聊か取り調べ置くの必要あり
 午前11時過ぎの 降らず照らずの陰鬱な空を眺めながら 南森町までやって来ると 誰とは知らぬが後から 「オイ何所へ行く」と 大きな声にハッと振返れば 這は其も如何に 乞食にしては少々上等の人物 短かい破れた袷一枚に 尻端折ったは 忘れもせぬ昨夜の合客 荷車の後押し先生だ…………
 イヤハヤ 此奴 偉い所で御面会 人通りは元より盛んな時刻とて 場所もあろうに此所では 少々恐縮と思ったが 相手は其麼ことには一切無頓着 
 不思議そうに 羽織姿を見上げ見下して 「お前は 何うも偉い腕前えを持ってるなあ 早や此麼ものを稼いで来たな 何所で盗って来たのだい」と 大きな声でやられたには 実に穴へでも這入りたかったが 此麼所で立ち話は 元より此方の手落ち 人が聞こうが何うしようが ソレはお構いなしの後押し先生 如何なる事を云い出そうも知れずと 其所が機転の当意即妙 マア 来給えど 饂飩屋へ引張り込んで 狐饂飩二つの御馳走で 危く其場の危急を逃れたを幸い 一と足お先きへ失敬と 逸早く飛び出したままホテルの玄関へ真一文字
 主人公との談判 実は斯うだと身分を打明けての要求が 何うか ホテルの内幕として 所謂 夜の密会 若き男女の媾い曳きを 如何にしても見届けさせて呉れいとの問題提出
 無いと云っても 此ホテルとして 一夜に一組や二組の珍聞奇話がなくてはならぬと 目標を附けたは強ち僻目ではあるまいと 是非とも頼むと 無理無体に頼んで見たが 偖外の事とは異れるだけ 主人の胸の秘密の鍵は 頗ぶる要心堅固で 容易く手渡しそうにもない 儘よ 此爺吐かさねば吐かさぬで 此方にも思案ありと 決心しては見たものの 此所まで踏み込んで置きながら これを聞かざるは 宝の山に入りながら 手を空しうして帰るに異らず 何か好い分別はないものかと 思案に暮る折しもあれ 恰かも降り出して来た春雨に濡れて 見窄らしい姿を 恥ずかしげな17〜8の一人の女は 色の浅黒い 髪の赤い頗るは 以て不印のが 何うやら理由のありそうな挙動で這入って来たが 不思議なことには 此女 まだ初めてのホテル投宿らしい挙動にも似ず 這入ったままの足で 直と奥の室へ通って行く 主人も云わねば 女も語らず 無言のままとは少々怪しいと 早く見て取った記者の胸には 此時 初めて闇夜に一道の光明を認め得た心地……

 

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 怪しいと見たは僻目か 其まま 帳場へ坐り込んで 様子を窺う人ありとも 元より知ろう筈ない彼の女は 奥の一室で 此所の妻女と 何事か秘密の相談に余念が無い、覚られぬように耳を澄したが 其中に ドヤドヤと雨を衝て 表から帰って来た労働者連があったので 遺憾乍ら 其女の何者たるかを究めずして 予て見覚ある二階へ上る
 ここは 前夜のお馴染客 「困った天気だなあ」と 十年も交際したような言葉振で 忽ち 六畳の室へ 火鉢を囲んで車座となって 甲乙丙丁 互いに口から出任せ放題の雑談に耽る
 誰が云い出したともなく 話は其まま 彼の夫婦連れの 法界屋の身の上に及んだが
 先ず第一に 彼等二人の 比較的収入の多いことが 其主題であったらしい 話はそれからそれへとつづいて 他愛も無く笑い崩れる 而して 其話の様子が 如何にも悠長極まるので 聊か異様に感ぜなれる 尤も 雨が降れば 食わずに寝るのは 殆んど彼等の常習で 今日は雨が降るから 其常習を発揮して居るものが 無いでも無い 明日の仕事はと聞くと 「其麼 お前のように明日のことまで心配して居るようでは 此所等で 一日の生活も出来るものではない 行き当りばったりで 行ける所迄は 笑うて行かなきゃ 生きて居る甲斐がないじゃないか」とは 全く其真情を穿った言葉である 而して 此連中の内で 或は 一年以来の得意客もあるらしく 旅籠料も 随分貸越しとなって居るのもあるようだ 此労働者連中に限って 滅多に踏み倒して行くような 不実なことをする者はない 却って 一夜泊りの流浪客には 時々此災難に出逢う とは 其道の人の話し
 閑話休題 先きの女 は最う彼是出て来そうなものだがと 一寸 階下の様子を窺う 果せる哉 例の女が 若い男と差し向いで 何やら囁いて居る 益々怪しと見て取て 抜き足差し足 階下に降りて行くと 隣室の話は 手に取るよう 其断片々々の説を綜合すると 何うやら男は 或商店の店員で 女は同店の下女らしい 無論 夫婦者ではない 月に一度か二度の媾曳の楽みを ここ木賃ホテルの一室と定めて居るらしい 今晩一晩 ここに立ち明せば 尚面白い材料げ得られぬでも無かろうが この間からの活動で 大分疲労を覚えて来たから ここらで一段落と そこそこにして編輯局へ引上げる
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