新聞記事文庫 救済および公益事業(1-017) 神戸大学附属図書館

大阪毎日新聞 1912.6.24-1912.7.1(明治45)

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 昨今の貧民窟 (一〜七)
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 () 広田町の夕

 米価騰貴の影響が各方面に表るる折柄記者は南区の貧民窟を尋ねて見た、惨鼻の極みと思わるる光景に出逢わすかと思うと案外また影響の表れて居ない有様にもぶつかる、で昨今の貧民窟を有の儘に書いて見る、
 日本橋筋五丁目で電車を降りて南に行くと名呉橋の巡査巡査派出所がある、ココ一歩西に入るとこれが名うての貧民窟広田町で俗に云う片原である、
 記者が訪ねたのは午後の六時頃で 折柄雨上がりを太陽は残んの光を未だ充分に乾かぬ泥道に投げて 破家の両側に軒をならべた狭い道は一層蒸暑い、
 二つ三つ肩も触れ触れの路次を抜けるとソコは屑物会社の裏で 一種異様な臭がコノ周囲に罩めて居る、と見れば軒に小便桶があるかと思えばソノ隣に石油鑵の内部に泥を塗って作った竃が置かれ ソノ上に色のあせた腰巻や褌がブラ下って居って 一寸見た所では入口か裏口か分らないコンナ家が両側に軒続きになって居る、
 記者は試みにソノ一軒に飛び入って見た、
 古い腰巻か何かで作った様な暖簾があって 直ぐソノ突当りが居間になって居る、
 ソノ居間には畳とては無く 目の潰れるまで塵に染った莚だけ敷いてあって ソコにゴチャゴチャと家内の者等が居ったが 今しコノ家では 丸谷為造
(三十八)と云うコノ家の主人なる門附の浪花節屋は 内縁の女房との間に出来たふくえと云う十六になる女の子を頭に 留吉(十四)鶴吉(十三)春吉(八つ)小三郎(六つ)きみ(五つ)こすえ(三つ)及びこたみ(二つ)と云う八人の子供とともに形許りのチャブ台を取囲んで夕飯の真最中であった、
 が誰一人として衣を着けて居るものはない、皆揃いも揃うた赤裸で唯だ僅かに女房が汚れた腰巻を着けて居るのみであった、
 ソレとても前はハタけて 両方の乳房に御飯粒を着けて立膝をして中腰になって食って居るのだから マルでどこかの土人ソノ儘で見られた風では無い、
 傍にバケツがあったから何んだろうかと覗いて見れば コハ如何にソノ中には大根菜の漬けたのを入れてあって 盛る小皿も無い所から空いて居るのを幸い洗濯用のバケツを利用して居るので、十人の家内がソレを唯一の菜として箸を突合って居るのである、
 土釜の残飯を飯杓でかきながら 頬の殺げた見るから陰鬱な主人為造は 一向平気で これでも旦那 娘や子供がマッチ会社へ行って働いて呉れますので 兵隊米
(残飯の事)を喰って居るのですと 未だ芋は食わない丈けましだと云わぬばかり 残飯を食て居るのを誇って居る、
 と近所では記者と知らないものだから 二人三人と赤裸の子供や娘がバラバラやって来て 何でも市役所が何処からか来て銭でも呉れるのかと思うてか 記者の周囲を取巻く其臭気といったら堪ったものではない
 記者はソコソコに此家を立退いて
今宮恵美須神社東手の道へ出て更にソコを西に進み徳風学校(貧民学校)の横手に出た、
 二三の子供等は何やら遊んで居たが、是等は貧民学校とは云わないで難渋学校難渋学校と呼んで居る 総てコノ辺の人間は野獣のような鋭い眼を光らせて顔の蒼黒い、髪のおどろに長い、見るから餓鬼か厄病神かと思われるような一種物すごい男のみで、何んだか、通る記者を総ての男が睨むが如くにうしろ影を見送って居る、
 これが同じ大阪市民であるかと思えば記者は俄に胸が迫るような、身の毛の戦慄つような、何とも云えぬ一種の不安不快の念を生じて覚えず顔を反けて過ぎたのであった。

  

() 残飯の香籠る路次

 今宮の踏切即ち俗に云う下道の踏切を越すと直ぐソコは木津北島町三丁目で 踏切を越す間も無く 記者は左に折れて矢張り広田町に劣らぬ路次へと入った、
 ソノ突当りに表札の文字も未だ新しく竹田岩松と書いてある、一体ココ二三年前までは 貧民窟の如きは半年許り近所の派出所に務めて居る巡査でも 誰が此家に住んで居るのか彼家は誰の家だか、顔を見てから、ウン彼の男か、彼れは彼の家に住んで居るのだなと首肯く位しか判らなかったものであったのが、昨今ではソンな事は決して無く、警察の戸口調査が非常に厳重になって 何んな間口半間の畳一枚しか無い荒家でも 人が住む家であるからには ソノ家の主人の名を書いてある表札を軒口に貼附ける事となって居て ソレが又た近来彼等の誇りとなり 己れは立派に警察の帳面に載って居る人間だ、とコレ見よがしに表札をはり附ける様になったのである、
 コノ竹田岩松もソレで、犬殺しであったのが 今は軒に自分の表札を出すようになったのである、
 コノ岩松数日前より平素は獰猛な男でも風邪に罹って 形許りの煎餅蒲団一枚敷いてソノ上に哀れに寝て居たが 記者の来意を聞いて、頭をもたげ起き直らんとするのを手真似で制し 彼れの談を聞く
 「いや難有う御座ります、米の高いのは尤もですが、私等は米の値などはどうでもいい、仕事のないのが一番困りますよ、幸い今年は御蔭で清国行の仕事がありますので 近所の娘や子供等は喜んで仕事に出懸て居ります、多い子供になると未だ十五六で二十五六銭も稼いで来ますから、コノ節の様に米が二十七八銭になっても、困る事は困りますが、なァに私等手合は実際高い白米を食べると云うでは無し、皆残飯を食べて居るのですから 左程の苦痛でも無いですが、ソレでも仕事が無いわ、ソレに残飯が払底だわとなると ソレはソレは白米が三十銭になったよりか惨憺なものですよ、コノ仕事が私等の米ですから…」と
 成程コノ岩松の云う通りで 惰民は別として彼等は仕事の無いのが 米の高いのよりも一層ツライのである、世の中には残飯も買え無く腹が空って眼が眩んで、もう打倒れると云う九死一生の場に ツイ物の道理も差別も無くなって 他人の物を只奪ッて喰う事になり ツイ悪いと思いながらも窃盗罪を犯すものがあるが それは畢竟こんな場合に起る事であると思えば 実に可哀想である、
 記者は暫時感に打れて居ると 折柄梅干の様な顔をした婆さんが 腰をかがめながら重箱の様なものを片手で提ながら、「今日は魚いらんかな」と 今し岩松の宅へ売りに来た、見ると重箱の中には 何かの魚の頭やアラの煮たのが入れてあって 一つ二銭一銭五厘と区別がしてあって 岩松はソノ中の一つを女房に買わせたが、これを岩松は 病中唯一の御馳走として咽喉を鳴らすのであろう、
 戸外に出ると 早や夕暮れに近く コノ辺り狭い路次は 各戸の軒に焚く竈の煙路次内に渦巻きて 残飯を蒸す臭四辺を罩め 中には亭主の帰りの遅きを待ち兼ねて、隣の残飲蒸す臭を嗅ぎ指を咥えて 子供のせがむを賺し居る哀れな女房も見受けた、併し何れも忙しく裳の短い襤褸のような弊衣を着けた女房連の口 八釜敷 貧民とは云え 甲斐々々しく働いて居る様 ココ貧民窟を通る記者に


 () 戸板の下の親子

 蜂の巣と云えば誰も知る貧民部落、興隣社裏の長屋を中心とするのであるが、
 記者は 瓦斯灯とては絶えて無きコノ辺の路次を 星明りに便ってやって来ると 路次の角に薄暗い三分心の吊ランプを灯した飴湯屋の屋台が ションボリと置かれてある フト近寄り見れば思いがけなくも嘗て多大なる読者の同情に依て漸く生命を拾いし 例の「戸板の下の親子」伊達源吉が 店を出して居るのであった、
 紺色もはげて薄鼠色になったパッチを穿き 上には袖無の白木綿の晒で作った単衣の肌脱ぎ襦袢を着けて 甲斐々々しく頭髪もクルリ五分刈にし 顔色も良く身体も見かわす許りに肥って居る源吉は 今し近所から買いに来た小娘に 飴湯を酌んで居たが 記者の顔を見るや手を合さん許りに打喜び
 「旦那皆様の御蔭でコンナに店を出して居るのですが 実は一度娘を連れて御社に御礼に参ろうかと思うて居たのでしたが、難波の署長さんも イヤ未だ未だ御礼に行くのは早い、もっとシッカリ働いて立派に娘を養育してから行く事にして 今の内はお前は既に死んで居た所を救い上げられた身であるから 骨を粉にして夜の目も寝ずに稼がなければならんと御注意をして下さるので 実は雨の日丈けは休んで ソノ他は毎夜十二時近くまでコノ路次角で店を出して居るのですが 幸い御蔭で米が高うてもならし一円位の売高がありますから、何うか斯うか親子二人は暮して行けますので ホントに嬉しい事で御座ります」と涙を潤ませて 四辺を見廻し手を揉みながら腰掛を差出されて 記者も思わず嬉涙に咽んだが、
 ソノ腰掛を借りて暫時煙草を喫うて居ると、一人遣って来二人遣って来して 暫時の間に十幾抔と売れる、
 コップで立飲みをやる者もあれば ビール瓶を持って買に来る者もあると云う風で なかなかの大繁盛、
 総て貧民窟と云うものは 昼は家を空にして外に働きに出て居る者が多いから静かなものであるが、日が暮れると 外の者等がボツボツと帰宅する、トコロが彼等は 寄席へ行くと云う有り余った金とては無いから 労れた身体をソノ儘 湯に行くでは無し、壁一重の隣へと談に行くか、暗い家の内に寝ころんだまま浪花節でも親子諸共語り合うと云う手合のみであるから 却って夜になると コンナ部落は何と無くザワ附いて賑かなものである 間も無く 源吉に別れた記者は コノ長屋を出ようとすると 郵便配達夫が手提げ瓦斯灯を持ってやって来るのに出会った、
 一枚の葉書は葉書だから 受信人が貧民だからとて別に差別は無い、矢張り配達夫は「郵便」と声高からに投入して行く、が配達夫の語るには ココ三四年前までは コノ部落などへ手紙等を配達すると云う事は極稀であったのだが、近来は配達せぬ日とては無いと云う、
 軈て配達夫の姿も何時しか見え無くなり 記者は旧来し道をたどり 今宮の踏切を越えて西浜の中通へと出た、ソコには錦亭と云う寄席がある、眩い電灯も灯され木戸口の盛塩も清く打水などしてあって客足も繁々しい、表看板はと見れば文字黒々と千日前は法善寺金沢亭に毎夜出演る面々等の連名がズウト七八枚も掲げられて見るから景気よくココ貧民部落に近き中通とは何しても思われない

() 茶の前の日盛り

 木津北島町二丁目の貧民学校即ち有隣学校の周囲も又蜂の巣に劣らぬ俗に茶の前と云う約八十軒許の部落であるが、
 そこのトある路次に入った記者は 周囲を見廻す記者の様子の普通の人で無く 或は警察の人であるが如くに思うてか 乳房をたぶたぶと、たぶつかせて黒い肌をムキ出した女房連、急に軒内にコソコソと逃入って 破れ障子の間から顔丈け出して 赤裸の子供等の附き纏うを叱り附けて居る、
 肩も触れ触れの狭い路次を 家数十軒許り行くと 二坪許りの塵捨場同様の広場がある、ソコには六十歳許りの梅干婆さんが 夏蜜柑の店を出して居たが 記者の顔を見るや、これまた刑事が偵邏が鑑札でも調べに来たものと早合点したらしく 旦那此頃はサッパリ一文菓子は売れませんが 夏蜜柑が良く売れますと 口をもぐつかせながら 密と之見よがしに竹中某と記された鑑札を前に出すなどは一寸滑稽だった

 記者は 広場を左に折れ 更に右に回って 先きと同じ様な路次を抜ようとすると 軒下に二人の若者が懸命に将棋をやって居る、
 と思うと向いの家では 形許りの簀を垂れたソノ奥で、何やら油汗を流して夫婦諸共は働いて居る、
 その隣の家では 店の軒先きの縁に乳児の添乳をしたまま 母子諸共肌もあらわにグッスリ眠入って居る 傍に 犬が矢張り人間並に子供の足を枕にして寝て居たなどは コノ部落でなければ見られない図だ、
 コノ路次を抜けると 通りになって ソコにコノ部落としては一寸珍らしい 人造石で築いた土塀構えの大黒湯と云う湯屋がある、聞けば二三年前までは コノ辺には五厘風呂とて 軒下に鉄炮風呂を焚いて近所の人に五厘で浴れたものであったのが 警察から火の要心が悪いとて禁められたのだそうだ、
 ソコを半丁許り行くとモト来た今宮の踏切に出戻るが俗に云う昼店は ソコにあるコノ辺の貧民等の需要に応ずる着類の露店のある所だ、
 古ヅックや葦簀や莚張りの蔽いをして莚の上へ商品を並べたまでの古着屋が二三十軒、軒―否莚を並べて 紺絣の反物を売って居るかと思えば バッチや足袋或は腰巻、褌の古いのまで売って居る、
 記者がソコを歩いて居ると 古い茶碗や小皿ソノ他一銭にもならぬ小道具を乱雑に陳べた店があって 暇と見え四十位の厚司を着た藤原と云うコノ店の主人が 店もソコ除けに四周かまわずグウグウと寝て居たところを 先ず写真機に収めた後
(写真参照) 要心が悪いじゃないかと揺り起すと、件の藤原と云うのが 旦那難有う ツイ暇なものですから ウトウトとする内に眠って終ったのですと 目をこすりながら時間を聞き 店の出し料として 毎日莚一枚につき二銭五厘 ソレが二枚借りて居るから五銭 ソノ上に水撒賃として一銭取られて 都合六銭の家賃を払って居りながら 午後の四時半と云うに未だ十九銭許りしか売れませぬとコボして居た

 () 豚屋裏の女

市電日本橋筋五丁目の電車停留場を降りて直ぐ西へ少し行くと東関屋町で貧民窟蜂の巣とは程遠からぬ所
 ソコのとある南へ折れた路次へ入ると 東側に古林文次郎と云う残飯屋がある、
 今し残飯屋では 頻りとチャラチャラ奥の間で銭を数えて居る様子に ツト記者は入って見ると 数えて居る銭と云うのは 皆穴のあいた一厘銭であった、
 ココ数年前から 何時の間にやら見失った一厘銭が 何百枚バラリと畳の上に拡げ散らして有るのを 一々●にさして居るのを見た記者は 不審を懐き 何故一厘銭がコンナに沢山有るのかと聞いて見ると 何所かで買って来たのでも何んでも無く ソレは貧民等が残飯を一貫百目とか二百目とか、丁度家内がキッチリと喰う丈けを買いに来るから 従って端銭が出来るのを ソコは貧民等の何処からか 端銭を得て来るか貰って来るかするからである、
 成程コノ残飯屋の店の間の壁を見ると 百目一銭五厘 一貫百目十四銭四厘と云う様な 端銭をこしらえた残飯の値段表が貼ってある、
 コレは軈ては 商人が買いに来て 天王寺の西門前等で銅貨とくずす所謂お賽銭となるので 中には古金屋の手に渡って潰となるのもある、
 残飯屋を立ち出た記者は 東に戻り 電車道を横切って 俗に云う之れ又貧民窟なる豚屋裏に行こうとする途中 五十位の老爺がスタスタとやって来て 来合す一人の男を捕え、提げて居る古靴を見せて「持って行くんだ」と質使の話をして居るを聞きながら 三ツ目位の路次を南に折れ東に曲り更に南に折れる
 ソコが即ち日本橋筋東二丁目で去る十三日夜警察本部の籠田刑事が強盗嫌疑者を逮捕せんとして頭を割られた豚屋裏である、一体コノ豚屋裏は 貧民窟とは云え警察署の「要視察人」の多い所 即ちわるものの多い所で 概して云うと貧民と云うよりか、寧ろ明日食う米代が無くっても金の無くなるまでは、遊んで食うと云う惰民の巣窟である、
 路次を通って居ると 婀娜ッぽい白粉臭い女も表れて来れば、三味の音も そこここに聞えて 家並こそ貧民の住居であるが 浅草の十二階裏の様な感じがする、
 軒下に乾す腰巻や肌衣の色も蜂の巣の古びたるとは違って 朱に紫に嬌めかしい、折柄 声高に白粉、鬢附、櫛、油と行商の化粧屋が 午後の蒸暑い路次を流し、居ぎたなく昼寝の夢を貪って居る女房や娘の目を醒しながら 幾つも抽斗の附いた箱を肩にかけてやって来る、と見ると 何処からともなく浴衣を引懸た 細帯なりのしどけない三四人の女が寄集まって来て 五銭十銭と買求める、ここ豚屋裏では米高の影響などは格別認められない
 

[写真(紙屑買の銭勘定(豚屋裏附近にて))あり 省略]

() 夕陽丘に唱歌の声

 豚屋裏の東手を流るる 黝い腐れ水の動くとも無く淀んで居る高津入堀川の 潮引時今日今頃の真昼間の 泥溝臭い臭気と云ったら堪ったものでない ソコに架した愛染橋を渡り北に折れると 直ぐ襤褸や紙屑を山と積んだ 摂津屑物会社の寄場に出る ソノ北手の裏が 俗に云う八十軒長屋で これ又知られた貧民窟である、
 狭いトある石兵と云う石屋の角を曲った記者は 余りの狭い路次になる上に その中央を流るる溝板のまくれて ジルジルと腐れ水のジメつくに堪えかねて 裾を尻端折り飛び伝いに行くと 
 ソコには皺苦茶の婆さんが 顔じゅう汗を流して バケツの中で何か洗って居る、
 傍に四十位のデップリと肥った女房が 三四人の鼻垂れ子供を相手に うどん屋か何処かで貰って来た未た ヌルヌル濡れて居るダシガラ昆布を チギって配けて居たには一寸哀れを催した、
 路次を曲ると ソコには雨にされされ 柱はゆがみ屋根傾き 扉を叩けば中から幾千匹の蚊でもブンブン飛び出しそうな お稲荷さんが地蔵さんの間中許りの 小さいお社殿が祀ってあるのは 即ち之れがコノ部落の守護神であろうか、なに一つ供えて居るでは無く 幾十日前か供えてあったなりの草花の枯れて居るのが 乾らびて残ってあった、
 折柄 紙屑でつまった破れ籠に荒縄を括りつけたのを 肩に引掛け 竹の柄の先に鉤をつけたのを持った薄汚い男が コノ狭苦しい路次からひょっくりと来るに出会した、
 記者は近頃は商売は何うだねと聞くと
 「之から屑屋に持って行くんだが、子ッから駄目だい」と返事もソコソコに 素気無くスタスタと通って行く、
 次いで 頬被りもせず 前髪から髱から髷の上一面に 薄白くニコぼこりを積らして居る 四十位の女が 肩に乳児を脊負いながら ソコの路次口まで 今し屑物屋からの帰りと見えて 丁稚車よりか未だ小さい車を引きながら 「あかんあかん」とがっかりした高い声で 近所へ聞えよがしに 当日の拾いの悪かった事を喞って居るのを耳にしながら
 記者は路次を出で園坪橋の詰までやって来たが ソコから東の方を見上ると 夕陽ヶ丘女学校の高台が手に取る如く程近く見え 緑滴る森蔭の中に 白堊の校舎キラキラと日に映じ窓影には そこに立つ女学生のリボンの色まで見え 華やかな唱歌の声が楽園の春を歌うように聞えて来る、
 同じ人間に生れながら、かくまで差の生じて行く現世相の恐ろしさに、記者は一種異様の感に打たれ 覚えずソコに佇んで居た、
 軈てソコを立ち出でし記者は 更に橋を渡って日本橋筋東二丁目新宅の交番所より東に二軒目なるコノ周囲の貧民部落に出入する花松と云う葬儀屋を訪れた コノ家の主人は記者に向い「旦那近頃はサッパリと葬儀が出ませんなー、なんだか斯う云うと死ぬ人を待って居るようですが 昨年の今時と比べると葬儀の数は町中も場外れも 概して三分の一位で それはそれはひどい不漁です、丁度今日で五日仕事をしませんよ 昔から米高の時には葬式が出ないと云いますが 全くの事です、それというも稼ぐだけは米の方に取られるので 到底も無駄喰、無茶喰が出来ぬから 従って病人も出来ないという訳でしょうな、」と道理を附けて話したが 更にソノ新宅の交番所の巡査に聞くと 同所部内で 今春から太田医師の設立にかかる徳風施療院と云うのが出来、コノ近所の貧民に対し 無料で施療する事になって居るが 同院の施療券がまだ六枚しか出ない 今年ほど この貧民部落で病人の少ない事はないと語って居た

 () 飛田の関所

 巍然たるエッフェル塔雲に聳ゆる天王寺新世界と公園の南裏手旧関西線のガードを越すと直ぐソコに 七八十軒の貧民部落がある、これ即ち飛田村で今宮村に属して居るのだ、
 阪堺電鉄電車車庫の西手の道を南に取り 関西線の鉄橋をぬけた記者は 住吉街道にと出た、
 と見る両側には 昼尚お煤ぼけた行灯の軒下に懸られて居る 二十軒許り軒を並べた木賃宿には空室ありと貼紙してある家も三四軒あった、
 ココ二十軒許りの木賃宿には人夫、土方と云う手合が多く止宿して居るのだが 河内屋という木賃宿の主人は 此ごろは木賃のお客よりも 木賃商売のものの方が 露命を繋ぎ兼ぬる昨今の有様だと云って青い息を吐いた、
 お客らしい汚い老人が出て来たが 何でも葬式の山菓子を貰うのを 商売にして居るものであるらしい、その話に 従来この商売には団体があって 腕のあるものは 菓子券十枚位は楽に稼ぐ、併し こんな筋の悪い稼業をやって居るから 警察からも睨まれ 葬式の供頭にも顔は知られているが もともと葬いの供養とて大方は見遁してくれる、所が 斯う米が高くなると 菓子貰いの秘密団体以外に 続々出掛ける者があって 何時見顕わされるかも知れぬから 本職にしている者は 却て気がひけて稼げないとのこと、それに葬式は 今年はとんと出ないので 一向商売にならぬと呟いて居た、
 ここを四五軒行くと西側の牛乳検査所の板塀に 数本の幟が景気良く風に翻って居て ソノ横の路次には浪花節の小屋があり 毎夜大入を占めて居ると云うのは貧民部落らしくない、
 ココを過ぎて 東に折れ阪堺の電車道を越えると飛田の墓場跡に出る ソコには 写真にもある通り 七八人の子供等が 米高をソッチ除けに 汗を流して腹へらしの相撲を取って居る 傍には 子供に乳を飲ましながら ソノ子供の母と云うが懸命に相撲を見て居る マルで豊年時の百姓村の有様である
 ソノ傍に十数軒軒を並べた市役所の掃除人夫等の住んで居る長屋では 
 今し女房連が夕餉の仕度に忙しく 未だ亭主は帰えらぬのかと記者が聞くと、旦那はまだ役所から帰えらぬと云う 貧民とは云え 矢張り官吏並に役所と云い旦那と云う所が 頗る異様に聞えて面白く感じた、
 記者は更に南に出でて旧来し道に出でんと鉄道鉄橋の下にと行くと 先刻来し時に見た氷屋と関東煮の露店には 例の役所帰りの十数人の薄汚い旦那が 寄ってたかって立喰いをして居た、中には夕餉の御馳走にと関東煮を竹の皮包にして買ってかえる者もある、
 暫らくソコの広場に立って居ると ゾロゾロと何やら喋りながら 引きりなしにココ飛田村にと種々の労働者が帰えって来るのである、
 物もらいの乞食もあれば、躄もあって、ココ飛田の鉄橋は彼等の関所になって居る、コノ関所を一刻でも早く越して家内を安心させようと 雨が降ても鎗が降ても 此下を一日二度は必ず往来するのである
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[写真あり 省略]   

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データ作成:2009.12 神戸大学附属図書館