明治期社会事業と警察


 「どんぞこのこども−釜ヶ崎の徳風学校記」(碓井隆次著・教育タイムス社刊・1966年6月13日初版発行・今回紹介は1968年3月1日発行の4版=普及版による)
 良書であるが、その47頁に、明治44年に東京、大阪で実施された「細民調査」(注参照)にふれて、次のように書かれている。

(注:細民調査統計表(合冊) 解説−津田真澂 によれば、明治44年の内務省地方局の調査は「細民調査統計表」として刊行されているが、大阪は調査範囲に入っていない。明治45年7月の調査は「細民調査統計表摘要」として刊行されているが、調査範囲は、「東京は前回以外の「貧民窟」、大阪市は難波警察署管内の難波以下4町の1,681世帯」とされている「どんぞこのこども」46頁〜47頁では、明治44年7月29日大阪朝日新聞記事を紹介しているが、「済生会の事業に参考すべく、先般来警察署及び区役所に於いて、大阪市内(今宮、浦江、大仁等の接続町村を含む)在住の貧民状態取調」を、内務省の細民調査と混同したものと思われる。) 

参考:細民調査統計表 内務省 1912(明治45)年3月 刊
 pdf1(凡例・目次・細民戸別調査第10表まで)/pdf2(第17表まで)/pdf3(第24表まで)/pdf4(第37表まで)/pdf5(第41表まで)/pdf6(第44表まで)/pdf7(第45表まで)/pdf8(第50表まで)/pdf9(細民長屋・木賃宿戸別調・細民金融機関調)/pdf10(職業紹介所・職工家庭調査第16表まで)/pdf11
大正元年調査 細民調査統計表摘要 内務省地方局 1914(大正3)年3月刊 pdf1(凡例・人口・世帯)/pdf2(職業)/pdf3(労働日数)/pdf4(収入額)/pdf5(家屋の構造・家賃・主食物)/pdf6(調査票・記入心得)

 「大阪府警察史 第1巻」(1970年11月20日 大阪府警察史編集委員会 発行:大阪府警察本部)の416頁「貧民学校の設立と難波警察署長」の項 冒頭に
「(明治)44年7月、内務省では都市社会事業の資料として、東京大阪の細民実態調査を区役所および警察に行わせたが、(内務省45年3月28日細民調査統計表)この調査に警察を起用したことは、警察の末端組織が整備され、派出所・駐在所には管内事情に精通した警察官が配置されていることと、貧民対策はときの治安情勢上、看過できない問題であったためと思われる。難波警察署は管内に一大貧民窟を有しただけに、その対策は署の重要施策の一つで、この細民調査には署長が先頭に立ち調査隊をくり出したといわれている。」
と書かれている。
 「どんぞこのこども」初版が1966年、普及版が1968年であり、「府警史」に先行していることからすると、「府警史」が「どんぞこのこども」を参照した可能性は否定できない。
 2011年12月10日に青土社刊の「通天閣−新日本資本主義発達史」(酒井隆史著)は、非常な労作である。しかし、枝葉末節で労作に傷をつけるものではないが、この時期の調査について、「大阪府警察史 第1巻」当該部分を参照したためか、内務省調査と難波署調査の混同がある(616頁=カギ括弧で括って警察史の引用がある。前掲警察史416頁引用紹介部分の「この調査に」以下途中省略があるが末尾まで。しかし、警察史にある、その前の「内務省云々」以下もそのまま受け入れて調査の説明として記述している)

 「どんぞこのこども」46頁「警察の貧民調査隊」の項で調査関係の記述は以下。
「明治44年−この年には、東京、大阪には大がかりな「細民調査」が行なわれた」「明治44年7月29日の大阪朝日新聞には、その集計の結果、−記事をかかげている」「記事に明らかなように、この調査は済生会の事業に参考にするのが主な目的−明治30年に市に編入された旧今宮村の北半は勿論であるが、まだ編入されていなかった南の今宮村まで入っている」48頁「ドン底の父子」の項では、「この調査はもちろん南の貧民窟にもなされた。−明治44年6月18日の大阪朝日新聞には「病める貧者」と題した記事がある。難波警察署長は、「部内の一名物に数えられる」貧困者の生活状態を明らかにするために「調査隊」をくりだし、極貧者を調べたところが、近頃次のような例を発見して救済方を協議中であるとしている。」(事例の住所は、難波久保吉町と今宮広田町であり、関西線以北。碓井自身も52頁に「難波署は、ほぼ今の浪速区をふくむ広大な新地域を管下にもっている」と書き、関西線以南は管轄外の認識を明らかにしている)
 「どんぞこのこども」はまた、細民調査統計表(合冊)で解説を書いた津田が、明治44年調査に軽くふれているとしてあげた著作の一つ、賀川豊彦の「貧民心理之研究」を参照して、警察と区役所の結果に食い違いがあり、警察の方が数字が大きく、区役所より貧民者社会にふかく入り込み、より奥底までつかんでいるようである、としている(47頁)。残念ながら、賀川豊彦の「貧民心理之研究」を点検していないので、この部分が明治44年内務省細民調査に関連する部分なのか、また、別の調査にふれたものか、今の時点で明らかにすることができない。ひょっとすると、混乱の元は、「貧民心理之研究」であるのかもしれない。だとすれば、津田が解説でそれに触れていないのが不思議と云うことになるが・・・。

 (「貧民心理の研究」初版大正4年11月15日・3版大正7年9月20日の91頁に碓井が参照した表がある。表の説明に「市役所の統計によると1万4,555人あることになって居る。(明治44年9月調)」とある。別の箇所では「内務省の調べによると」と記してある場合もあるが、この調査結果には、そうした説明はない。表は、区役所の取り調べ(戸数・人員)、警察署調査(戸数・人員)、区役所調査による市外(戸数・人員)と大きく3段に分けられているが、賀川が挙げた数字は、警察署調査の人員である。ちなみに、区役所調査の人員計は、市内9,294人、市外3,893人、計13,187人。市外を合わせても警察調べよりも1,368人少ない。戸数では415戸少ない。警察調査の範囲がもう一つ明確に把握されていないのが不安だが、市内だけだと、差は戸数で5,261戸、人員で1,529人にも上る。

 (「貧民心理之研究」該当部分紹介表のエクセル版。なお、東京との比較で「東京のような大きな密集部落はな無い。昔は名護町と云う様なものがあつたらしい―曰く「蜂の巣」「六道ノ辻」と云う昔の貧民窟の名所は今でも残って居る。然しそれも今は幸に美しい家になつて居る。だから、大阪は貧民窟を研究するものには少しも面白くない。勿論難波(原文は灘波と)貧民窟と云うものが無いではない。南区東関谷町、勘助町、北島町、日本橋東一、二丁目、西関谷町などを指して云ふのであるが、建築物から云へば少しも貧民窟らしくない。今日 飛田の二百軒あたりは少し貧民窟臭いが、それでもまだ東京とは比較にならない。大阪は幸な処である」と書かれてある。)

 一戸当たり人員は、区役所市内が約4.0人、区役所市外約3.5人、警察が3.8人、区市内分戸数・人員と警察の戸数・人員の差分(警察調査市外分と仮定)では約3.4人となる。区役所市外分一戸当たり人員にほぼ見合う。それを考えると、警察調査も区役所調査地域に合わせて、隣接を含んでいると見なしていいように思える。いずれにしても、区役所数字が警察把握の数字を下回っていることは、碓井の指摘通りといえる。
 それらを斟酌すると、内務省指示で参考調査が行われ、統計表には加えられなかっただけという可能性もあるが、今のところ、津田の解説や明治44年調査、45年調査の凡例、7月29日大阪朝日新聞などにより、別調査と判断されるべきと思われる。

 ちなみに「大阪府警察史 第1巻」417頁によれば、天野署長は43年に難波署長に就任、44年6月私立有隣尋常小学校、44年7月私立徳風尋常小学校開設とある。調査は44年7月であるので、「貧民学校」設立との因果関係はまずないと考えられる。
 「どんぞこのこども」49頁に「明治44年は、徳風、有隣の二校の開校された年である。−両校は済生会発足のための「細民調査」と時を同じくしているわけである。両校の開校には、このような社会的背景があったことを注意しておく。」とある。異論はない。異論はないが内務省細民調査の方は、どうなった? 説明がくどくなるから、省いただけか?
「いま一つ注意すべきことは、この調査に区役所と並んで警察も参加していることである。民生部、警察部などと仕事に区分のある今日のあたまで考えればまことにおかしい感じである。しかし、当時は福祉事務所などもないし、民生委員も、もちろんない。それに貧民窟といえば、ふつうの人では近づきがたい別天地である。警察が加わらなければ調査などできない事情もあったのであろう。このことは当時の警察のあり方に、今日とはちがった面があったことを示すものである−」

 この一文は、単に、「貧民窟−ふつうのの人ではちかづきがたい」から警察が加わったと読見過ごしにするのではなく、「警察のあり方に、今日とはちがった面があったこと」という点に重点を置いて読まれ、どう今日と違っていたのかについて検討が加えられる端緒とされるべき箇所であると思われる。

  「どんぞこのこども」が刊行されたと同じ年に、「にっぽん釜ヶ崎診療所」(本田良寛著・1966年7月1日・朝日新聞社)が刊行されている。時代は明治でなく、昭和の話であるが、「警察のあり方に、今日とはちがった面があった」と思わせる記述が、同書49頁にある。

「この問題と並んで急を要するのは、医療費に困る患者に対する対策である。これについて、患者が医療費に困る場合(金がなくて、民生保護法の適用も受けられない場合)は、愛隣会館、労働福祉センター、西成警察、そのほか役所関係の施設や民生委員が、『診療依頼券』なるモノを発行することにした。−はじめの間は警察関係が三分の一、西成労働福祉センターが三分の一、その他大阪市民生局関係が三分の一の割合で発行されていた−/入院を要する患者は、警察の保安係および防犯相談コーナーを通じて行旅病人の形で入院できるようになったが、この形式でいけるのは、単身の労務者、単身の婦人についてである。世帯持ちの場合はそう簡単にはいかない。その時には福祉事務所にお願いすることにした。」

 また、225頁には以下のように記されている。

「この保安係は、行旅病人の処置と酔払いの保護とでてんてこまいだ。診療所が閉じている時刻には、かけこんで来る病人の処置も引き受けている。私の所で診断した患者さんをお願いすると、保安係は行旅病人として収容して下さる。」

 「にっぽん釜ヶ崎診療所」に書いてある西成警察署の活動は、釜ヶ崎故の特例といえばそうかも知れないが、制度的裏付けがなければ、警察官が動ける道理がないと思われる。それは、明治・大正と引き継がれてきたなにものかの残滓であるかも知れない。

補注:「民生事業概要 昭和36年度−民生局報告第106号−1961.9.1」25頁「行旅病人の取扱については、行旅病人及死亡人取扱法によって、歩行に堪えざる行旅中の病人にして療養の途を有せずかつ救護者なき者を所在地市町村長が救護することが規定されている。本市の場合は主として警職法第3条第1項により、職権でパトロールカーにより病院に入院措置され、事後、区長に身柄を引き渡しているが、法上の措置費がないため、生活保護法による医療扶助に肩がわりされている現状で、法律は死文化同様になっている。」西成署の対応は、これの拡大版といえるであろう。警職法と生活保護法の医療保護との合わせ技で成り立っている。
 また、昭和25年1月25日大阪市労務局発行の「民生事務必携」102頁には、行路病人の取り扱いに変遷について以下のように記している。
 「昭和21年12月より翌年1〜2月頃は深刻な世相の内に食糧事情等の為に市内各所の数百人の浮浪者は殆ど栄養失調の為に行旅病人として各施設に収容したのであるが、インフレ昂進の時期であり従来の行旅病人の費用では到底病者の食費にも不足し 之が為昭和21年6月25日以後これ等の対象者は救護法の要救護者として 同年10月1日よりは 生活保護法の収容医療保護によって収容されるようになったのである。」
 具体的な「救護手続」きは、「警察官署より行旅病人の身柄引渡の通知を受けた場合は直ちに行旅病人輸送係(若しくは警察電話で天満派出所を呼び出し病人移送用救急車依頼)に連絡し、現場に至急来車を依頼して置き、行旅病人調書、送致書(3通)、身柄引取書を持参し、現場へ急行の上警察官立会にて引取る。 」というもので、「米穀通帳等所持しない者については、住所不定者轄出証明書を収容施設宛に警察署に発行を依頼し、送致書と共に輸送扱者に交付」することになっていた。

 話を明治に戻し、警察と社会事業の関わりについて考えて見る。

 「どんぞこのこども−釜ヶ崎の徳風学校記」から、長い引用を行う。(87頁-「警察の熱心」の項)

さて、有隣、徳風の二校は、このようにして歩みだしたのであるが、なぜ署長がはたけちがいの教育などに手をつけたかという疑問にもどろう。
いずれも、署長が発案し富豪が金を出したものであるが、ただ署長だけではない。署からは貧民調査隊がくり出され、貧民窟の路地の奥まで入り込んでいる。石を投げられた署長が独断で学校を考えたのでなく、山下高等部長に相談し、その意見を聞いている。教育には署員やその妻まで奉仕している。開校式には、大阪府警務長池上四郎(後の大阪市長)が来賓として参列している。
 すなわち、過分に「警察の学校」であり、それを支持する特別な気風が警察にあることがわかる。これについて、法学博士小河滋次郎は、「大阪の救済事業」という文の中で、次のように述べている。氏は大正2年3月に大阪府にまねかれ、以後、大阪の社会事業、特に方面委員制度などに大きな足跡を残したことは有名である。この文は大阪招へい後まもない頃のものと思われるが、大阪の救済事業の特色として数ヵ条あげている第三番目には、こう述べている。
 第三に述べたいのは警察方面の熱心である。現在大阪に於ける救済事業の一特色として警察官が熱心に救済事業に尽力しつつあることである。市内に警察本部を始め数個の警察署があるが、何れもが救済事業の中心の様になって居って、何か仕事を遣らねばならぬと云う風に競争的に働いているのは何よりの事である。
 こう書き出して、次のような具体例をあげている。
 ○自彊館という労働者の宿泊施設も、表面は一個人の経営になっているが、実際は警察本部のしている事業である。
 ○曽根崎警察署、地区改善、昼間幼児保育場
 〇九条警察署、盲人保護協会、盲人のための学校、浮浪者失業者に旅費を与えて帰国させる事業
 ○南区の警察署、慈善夜学校(生徒約六0人)
 ○難波警察箸、地区及び小額所得者の改善、徳風小学校、有隣小学校はともに救療を兼ね、入浴設傭があり、父兄も人浴できる。
 ここには、事例として徳風、有隣の両校があげられているが、南区の署内にも別の学校があげられている。また、ここでは有隣学校も救療を兼ねているとあるが、あとからできたのであろうか。
 各署の競争の救済事業、その気風の内に二つの学校は生まれたのである。だが、なぜ讐察にこのような、今はない、また、当時も他にはない、救済の気風ができたのであろうか。
 大阪の救済事業 小河滋次郎著作撰集 収録 1943(昭和18)年 日本評論社刊 同文は「弓は折れず−中村三徳と大阪の社会事業」(大阪社会事業研究会・1985(昭和60)年で、「大正2年、大阪に招かれた直後、府下の実情を視察した小河滋次郎は、目に映った救済事業の特徴についての小文を、東京の新聞に寄稿、次のように紹介している。」(142〜146ページ)として、全文を掲載している。また、「大阪の社会福祉を開いた人たち」(大阪の民間社会事業の先輩に感謝する会発行 1997(平成9)年)も、同文を掲載しているが(19〜23頁)、こちらは、著作撰集原文の後半11行が省略されている。なお、著作撰集においては、掲載紙・掲載年月日は不明で、スクラップブックに貼られていたと記されている。巻末付録の出典一覧では、「講演筆記・大正3年初頭 慈善?」と記されている。小河との関係は不明だが、1913(大正2)年6月6日「国民新聞」に「大阪支局報」として、「大阪の救済事業」という記事が掲載されており、内容は、小河の原稿の概略となっている。中央慈善協会の「慈善」第4巻4号(大正2年5月)には「本会評議員法学博士小河滋次郎氏は、今回大阪府嘱託として招聘せられ、去る4月上旬、赴任せられたり」の記事がある。

 碓井は、疑問に対する答えを求めて、「天野署長の後任として、難波署長となり、のち前記小河滋次郎の記述に見られる自彊館の経営にあたり、以後長く八尾隣保館長をつとめた中村三徳氏の意見をきいてみた。」という。
 それに対し、中村三徳は、警察官の職務内容(戸口調査)から自ずとそうなったと答えている。

当時、民生委員などのない時代に、貧困者の家々を訪ねるのは警察官だったといってよい。警察官の戸口調査というのは単に取締りというのではなく、規則にも明らかなように、各戸につき、職業をきき、家族の事情をきき、失業して困ってはいないか、一家心中のおそれはないか・・・などを第六惑を働かしてつかみ、事故を防ぐことにあった。派出所の立番でも、窮迫を訴えられ、時には自分のふくらみのよくない財布から金を与えるようなこともあった。貧困者一般に、じかに接するのは警官で、今の民生委員の役をしていたともいえる。貧困者への接近から救済の思想が生まれる。
 参考:警察官の職務範囲について(「大阪府警察史第1巻 1970年11月20日 発行:大阪府警察本部」による)
 1874(明治7)年1月内務省が発足し、司法省警保寮が内務省に移る。警察が司法と離れ、行政作用の一つとなったことを示す。
 1875(明治8)年3月、行政警察規則制定。警察権の範囲・目的および行政機関の警察機能等規定したもの。
 第3章第3条 その職務を大別して4件とす/第1 人民の妨害を防御する事/第2 健康を看護する事/第3 放蕩淫逸を制止する事/国法を犯さんとする者を隠密中に探索警防する事
 第4条 行政警察予防の力及ばずして法律に背く者ある時 その犯人を探索逮捕するは司法警察の職務とす−
 第2章第2条 持区内の居民並道路行人より困難出来して救護を乞う時は何時にても乞に応じ 或は救護を乞はざるも見聞次第力を尽くして防御すべし 但街路其外にて人命に係る危難有之節は瞬速救護し最寄の医を頼み治療の手続懇切取計ふべし

 第5条 
持区内の戸口男女老幼及其職業平素の人となりに至迄を注意し無産体之者集合するか又は怪しき者と認る時は常に注目して其挙動を察すべし
 大阪府、1882(明治15)年7月 戸口調査規則ならびに心得を定める。同時に、1879(明治12)年の戸口調査条例を取り消す。
 戸口調査心得 第1条 戸口調査の要旨は、悪漢をして潜匿するを得ざらしめ、良民をして安居せしむるにあり故に毎戸人々の挙動良否如何を知得するを肝要とする
 第6条 左の各項に記載したる箇所最も不断精密注意するを要す/1 常識なき居留人/1 車夫及び之を雇役営業する者/1 裏長屋等に住する処の貧民/1 貸席又は船宿/1 古着古道具商
 1886(明治19)年12月 戸口調査規則改正
 改正心得第1条 戸口調査の要旨は、警察上緩急変通の便を図るに在り、故に管内住民の挙動良否および生計の方法等を詳知するを要す
 第5条(調査事項の拡張−分担者・警部補への申報事項) 1 孝子貞婦又は義僕者/1 無頼無産の徒を同居せしむるもの/1 頓に貧困に陥りまた暴富に至りたるもの/1 頓死負傷其他家内に異常あるもの/1 伝染病者/1 無鑑札にて諸営業をなすもの/1 成規の期限内に転居若くは居留届をなさざるもの/1 種痘未済の幼稚者
 第6条(平素精密注意を要する事項) 1 政治に注意するもの/1 無免許代言人/1 常識なく又は常識あるも其挙動怪しき者/1 営業停止者及被監視人/1 禁錮以上の刑に処せられたるもの/1 賭博の処分を受け又は賭博の嫌疑あるもの/1 売淫及び媒合容止の処分を受け又は売淫及び媒合容止の嫌疑ある者/1 悪漢と指称せらるる者/1 貧民/1 警察規則に依り工商の業をなす者
1886(明治19)年7月 地方官官制(勅令54号)
 明治18年12月 太政官廃止、内閣制となったのに伴い、地方の官制が変更された。府知事県令の名称区別がなくなり、知事に一本化。知事は内務大臣の指揮監督に属す。警部長は知事の指揮監督を受ける事になる。
 1905(明治38)年4月 大阪府、知事官房と4部組織となる。4部は旧警察部で、高等・警務・保安・衛生及び巡査教習所。保安と衛生の事務分掌は以下の通り。2年後の明治40年には警察部に戻り、課制も復活。
 保安=街路に関する事項/人力馬車及荷車に関する事項/諸製造場及職工募集に関する事項/自転車に関する事項/湯屋に関する事項/電気に関する事項/代書人に関する事項/慈善団体に関する事項/水路及堤防に関する事項/劇場寄席観物場遊覧所及遊技場に関する事項/他の主担に属せざる事項/勧商場に関する事項/貸座敷娼妓貸席待合茶屋及相撲外6営業に関する事項/棄児迷子失踪者及行旅病人に関する事項/遺失物埋蔵物及漂流に関する事項/諸制札建碑に関する事項/監視仮免に関する事項/寄付金募集に関する事項/鉄道事故に関する事項/古物商質屋に関する事項/船舶に関する事項/宿屋取締に関する事項紹介営業に関する事項精神病者に関する事項/案内営業に関する事項/祭典葬儀徽章に関する事項/狩猟に関する事項/司法事件に関する事項/行政手当に関する事項
 衛生=医師薬剤師産婆看護婦に関する事項/公私立病院に関する事項/医会衛生会に関する事項/売薬雑薬及薬品監視に関する事項/阿片に関する事項/乳肉に関する事項/飲食物防腐剤に関する事項/有害性着色料及人工甘味質に関する事項/難波病院娼妓健康診断所に関す売る事項/検疫官検疫員に関する事項/伝染病予防費補助に関する事項/市町村防疫設備検査に関する事項/労働者及貧民衛生に関する事項/飲料水及雑用水の水質改良に関する事項/劇場寄席観物場旅店割烹店貸座席及湯屋等の衛生事項/上水道下水道及公共溝渠に関する事項/鍼灸術、入歯、歯抜、接骨、水蛭、吸角営業に関する事項/伝染病及地方病に関する事項/清潔方法消毒方法に関する事項/伝染病院隔離病舎隔離病所消毒所に関する事項/衛生に関する記録統計及製表に関する事項/肺結核予防に関する事項/公園転地療養場鉱泉場及海水浴場に関する事項/(以下略)


 中村三徳の説明を、碓井は、「なるほど」と受け止める。しかし、それだけでは十分説明できないとする。

 たしかに、このような要囚はあったと考えられる。また、当時の貧民窟は一般人には近よれない別天地で、その奥深く入りこみ得るのは警官だけであったろう。
 しかし、ただこれだけなら、大阪の警察が特に救済に熱心であったことの説明としては不足である。その原因はいろいろ複合していると思われるが、その一つは警察首脳の考え方であったと思う。

 警察首脳の考え方の事例として、天野時三郎や中村三徳の事例を持ち出している。

 まず、天野時三郎署長は純警察育ちであって、二つの学校を設立してから、九条署長に転じている。難波署管内は、南の問題地.区であるが、九条署管内は西の問題地区である。前記の小河氏の記述にも九条署管内の救済事業が見られる。これらに天野署長がどれだけ腕をふるったか不明だが、その捉進に力を注いだことは推定に難くない。そして後に大阪市社会部長になってからは、その行政は全国の注目を集めるに至った。また、後任の中村三徳難波署長が、社会事業界に重きをなしたのは上記のとおりである。

 碓井の説明を受け入れるには、事例にあげられた、天野や中村の個人的資質によって、慈善事業の育成に熱心であったのか、中村のいうように、警察官の職務上からそうしたのかが、先ず、検討されなければならないと思える。
 天野は難波署長となる前に、衛生課長・保安課長を歴任している。中村も同じである。碓井は、純警察育ちであるから、細民への関心は治安対策上の狭いものであって当然であり、救済に熱心であったのは、個人の資質・考え方によるものであるといいたいようである。
 しかしながら、当時の警察の業務は、現在我々の見聞する範囲とは違い相当広範囲にわたることは、大阪府警史第1巻に示されている戸口調査規則と戸口調査心得や保安課・衛生課の職掌範囲を見れば明らかである。行政警察規則には、職務として、「健康を看護する事、放蕩淫逸を制止する事」があげられており、純警察育ちで職務に熱心であろうとすれば、トラホーム予防や貧民の教育に取り組まざるを得なかったといえる。
 中村は、戸口調査を単なる取り締まりではないといっている。事故を未然に防ぐことに重点があったといっている。この考え方、視点が、個人のものでなく、組織として共有されていたことの例証として、巡閲報告書をあげることが出来る。

 警察の巡閲(監査)制度
 1886(明治19)年12月 大阪府 検閲内規施行=警察業務が適正、能率的に執行されているか、勤務規律が守られているか、さらに物品調度が十分管理されているか等を検査する大阪府警察の巡閲制度
 1887(明治20)年6月 内務省が全国各府県警察に巡閲制度について訓令(警察巡閲規則)を出す。20項目にわたる巡閲項目が定められ、巡閲が終われば、巡閲中の日誌を添付して知事に復命し、それにより知事は、巡閲の概況を内務大臣に報告しなければならなかった。
明治30年度 巡閲内務大臣宛概況報告案より第9項、第18項を紹介
第9 戸口調査監視人の取扱
 戸口調査及び監視人の視察は、各受持巡査を定め、毎月期日を指定し、調査又は視察せしむるの規定にして、敢えて不可とする所あらず。然れども市街周辺に蝟集し出入り及び生計の状態変更常なき貧民部落に於て警察上最も注意査察を要すべきものに対し、稍々戸口調査の活用せざるやの感ありたれば将来の注意を与えたり。
第18 衛生警察
 大阪市に完備の常設避病院あり、又郡部各村殆んど之を完成せり。為めに患者の収容を忌避するの念漸く減じ、且つ予防消毒の執行其の宜しきを得ざる点なし。然れども伝染病患者のある部落に於て死亡数比較的多きものあり。之が原因一にあらざれども、医療そのものの如何は大に関係を有せり。故に将来相応の医師を置き、患者を速に発見し、治療の遅滞せざるの方策を講ずべきことに注意を与えたり。
 大阪市所在各警察署には、衛生思想及び技芸を有する巡査を配置し、牛乳の検査其他飲食物の取締に任じ殆んど遺憾あらず。
明治19年末から翌年初めにかけての警官練習所ドイツ人講師ヘーン大尉の内務大臣に対する巡回復命書より長町の項紹介
 小官は又大阪府の長町を視察したり。長町は府内最も貧困なる者の住居する所なりと言ふ。何ぞ其状の悲惨にして卑陋汚穢なるや又何ぞ房屋の人の健康に適せざるの甚だしきや、一見慄然として膚に粟を生じ複た見るを欲せざりき、

 巡閲の報告は、個人の感想であるが、警察業務の点検の視点で内容が選ばれており、警察として取り組むべき改善点があげられているはずである。「将来相応の医師を置き、患者を速に発見し、治療の遅滞せざるの方策を講ずべきこと」と注意を与えられた署長は、どう対処したであろうか。また、長町の状況を指摘された、大阪府警察本部は、警察業務の中でどう取り組んだであろうか。それらを具体的に検討する必要があるが、とりあえずは、警察行政が、慈善事業に手を出さざるを得ない要因として働いたとしてもさしたる異論は出ないと思われる。