5. 釜ヶ崎日雇労働者と関空工事 ( 松繁逸夫)

[1] 「万国博」・「関西空港」と釜ヶ崎

 日本最大の日雇労働市場といわれる釜ヶ崎に、関西新空港工事は就労機会の増大をもたらし、街が活気づくだろうと予測されていた。その予測は1970年に千里中央で開催された「万国博」の記憶に基づいて立てられたものである。

  「万国博」の準備期間中(1965〜1970年)にドヤ(簡易宿泊所)は建て替えられ、釜ヶ崎の人口は1965年から1970年の5年間の間に5千人増加した。関空工事(1987〜1994年)にあたっても、それに近い事態が期待されていたのである。確かに、期待はドヤの建て替えとなって現実化したが、街に活況をもたらすことはなかった。

  1992年12月4日付朝日新聞・(大阪・夕刊)の連載記事「釜ヶ崎―8」では、次のように伝えられている。

『「期間雇用の契約はたまに入るが、1日単位の求人はないに等しい。長期で雇う方が管理しやすいからでしょう」と西成労働福祉センター。「昔万博、いま関空」といわれる。しかし、万博から20年余り、機械化が進み、雇用の方法も変わった。「新空港はあてがはずれた」との声も聞こえてくる。』

 図1は西成労働福祉センターが集計している釜ヶ崎の「年度別・産業別・日雇(現金)就労斡旋状況」のグラフであるが、一見してわかるように、1965〜1970年よりも1990〜1995年のほうが釜ヶ崎の仕事は多い。1970年10月、現在の場所に「あいりん総合センター」が開設され求人動向が把握されやすくなった事情はあるが、仕事量の多さをを否定するほどの要因ではなさそうである。

 あいりん地区の人口(男性)は1970年と1990年を比べれば2千人多くなっているが(図2参照)、人口の増加(約2割増)よりも仕事の増加(約3倍)のほうが増加規模は桁違いに大きい。であるにも関わらず、『「新空港はあてがはずれた」との声』がでる状況となったのはなぜであろうか。果たして、『機械化』や『雇用方法』の変化で説明できるのであろうか。

 西成労働福祉センターの『事業の報告―第29号』は、『1990(平2)年度の概況』の中で次のように述べていた。

『本年度は、近畿地区における関西国際空港・前島埋立の本格実施、「関西文化学術研究都市」の建設推進など、公共投資のビッグプロジェクトの実施に加え、内需拡大などによる民間経済活動の活発化により、建設投資も増大し、日雇現金で1,853,900人、期間雇用で延べ1,837,031人の就労数を記録した。しかしー略ー日雇労働力の需要は引き続き好調に推移しているものの、供給は限界に達しているといえる。』  

 『日雇労働力のー略ー供給は限界に達している』という90年の判断から、92年の『新空港はあてがはずれた』までの落差は大きい。

 関西国際空港工事は1987年から開始されているが、91年までは護岸や埋立て、そして連絡橋の工事などの海上工事であり、釜ヶ崎の求人増につながると期待された管制塔やターミナルビルの建設工事は1991年から1994年にかけておこなわれた。しかし、釜ヶ崎の求人はちょうどその期間、『経済不況の影響により平成3(1991)年10月以降32ヶ月の長期間に渡ってー略ー減少し続けた』のである。(西成労働福祉センター1994年度事業報告)

 そして、あいりん地区に野宿を余儀なくされる労働者が増え続けた。1994年7月16日朝日新聞は次のように伝えている。

『大阪市西成区のあいりん地区(釜ヶ崎一帯)に暮らす労働者の生活が、長引く不況にさらされている。一泊5百円からある宿泊料が払えず、簡易宿泊所からでていく労働者が相次ぎ、地区には野宿する人が増えている。ー略ー約180軒の簡易宿泊所でつくる大阪府簡易宿泊所環境衛生同業組合によると、ここ2年ほど、全体の半分の部屋が空室状態だ。ー略ー大阪市保護課が毎年8、9月に行う調査では、同地区の一晩の野宿者数は90年が125人、91年が181人だったのに、92年には422人に急増。昨年は320人だった。釜ヶ崎日雇労働組合などでつくる「釜ヶ崎反失業連絡会」は現在、(夜間開放され毎夜600名が寝ている)同センターを含め、地区内の野宿者は千人近くにのぼると推定している。』

 前述の地区人口の増加と仕事量の増加の比較からいえば、「釜ヶ崎に仕事はあるのに、釜ヶ崎の労働者が野宿している状態」といえよう。再び問う。この状態の出現の原因を『機械化』や『雇用方法』の変化で説明できるのであろうか。

 先に紹介した西成労働福祉センター1994年度事業報告では次の文につながっている。

『長引く不況と地区労働者の高齢化に伴い、高齢者の就労環境が悪化していることから、大阪府・市における緊急措置として11月から2月にかけて1日50人の特別清掃事業が実施され、その紹介を行った。ー略ー阪神・淡路大震災が発生した直後から、災害復旧工事等に伴う求人が急増した。ー略ーしかしながら、求人の増加以降も高齢者にとっては、危険な作業の多い災害復旧工事に就労することは困難であり、求人の増加が即、高齢者の雇用の改善には結びつきにくいものとなっている。』

 確かに高齢化は進んでいる。あいりん職安有効手帳所持者の平均年齢は1985年3月31日現在46.78歳だったが、1996年3月31日現在53.5歳となった。『機械化』や『雇用方法』の変化の他に地区労働者の高齢化も、地区労働者が就労しにくくなっていることの原因の一つであるかもしれない。。しかし、それでも仕事量と人口から考えれば、万博準備期には運輸関係の仕事が半数程度あり、現在は建設業に集中していることを考慮に入れてもなお地区労働者が大量にアブレ(失業)れる原因を説明するものとは得心しづらい。

 逆に考えて、では、誰が釜ヶ崎に集まる求人に応じて仕事に就いているのであろうか。あいりん地区の人口の増加を大きく上回る求人増に応じた人たちはどのような人たちだったのであろうか。

 1989年5月29日朝日新聞の記事は、この疑問に一つの解答を示してくれる。

『日雇い労働者のまち、大阪市西成区のあいりん地区で、外国人労働者の姿が増えてきた。関西新空港などの大プロジェクトに労働力を取られ、その余波で人手不足に悩む小さな工事現場がアジアからの出稼ぎ者を引き寄せているためだ。観光、就学などの査証(ビザ)だけで日本に入国し、「不法就労者」とされる彼らは、摘発の目を逃れて、勢いあいりん地区に集まる。ー略ー当初は首都圏に集中していたが、取り締まりの強化を背景に、新空港景気の風が吹き出した関西への移動が去年あたりから活発になった。関西で単純労働に携わる外国人は、数千人と見られる。』

 外国人労働者が求人増に対応したことも事実であろう。しかし、それでもなお十分な説明ではないと思える。

 あいりん労働公共職業安定所の管轄は6区と浪速区の一部(恵比須西)となっているが、有効求職者(日雇雇用保険手帳所持者)を地域別で集計すれば、もっとも多いのは西成区であり、しかもあいりん地区とそれ以外でさらに分ければ、あいりん地区以外の方が多いという結果となっている(表1)。これは1997年3月末現在の数字であるので、関空工事当時の状況にそのまま当てはめるわけにはいかないが、先ほどからこだわっている人口の増加と仕事量の増加のアンバランスを説明するには、その当時からあいりん地区外に釜ヶ崎から就労する労働者が増えていたと考えるのが妥当であると思われるし、そう判断する根拠としては十分なものであると考える。

 ようするに、「あいりん総合センター」は1970年にあいりん地区(釜ヶ崎)の日雇労働者の「就労正常化」を理由に開設されたのであるが、もともとセンター一階「寄り場」及びその周辺路上での求人に応じて就労するについては、何の資格制限も、住居地による利用制限もなく、働く意志さえあればよいのであるから、あいりん地区居住以外の日雇労働者が多くても何ら不思議ではないということである。

 しかし、この傾向が強まったのはやはり近年10年ほどのことであろうと考えられる。現在でも古くから釜ヶ崎に住み、各地で働く労働者は居住地を釜ヶ崎とはっきり言うことに精神的抵抗を持ち、「西成」ということが多く、「西成=釜ヶ崎」の認識も広まっている。このことは講談社の『別冊フレンド』「西成差別事件」がよく示しているが、そのことの背景には、釜ヶ崎の日雇労働者が「立ちん坊・アンコ」と蔑まれ、社会的に低く評価されてきた歴史がある。それゆえ、釜ヶ崎から日雇い労働者として就労することには、一般的に精神的障壁が高かったと考えられるが、第二次オイルショック・円高不況で職を失った多くの中高年齢者にとっては、そのような精神的障壁に囚われている余裕などなく、「バブル経済」下で仕事の増え続ける釜ヶ崎を選択せざるを得なかったのである。(釜ヶ崎資料センター87年調査参照)

 念のために付け加えれば、この時期の新規来入者がすべてあいりん地区周辺に居住したといっているわけではない。ドヤ(簡易宿泊所)住まいの労働者が仕事の増加と引き続く就労の安定を背景に周辺のアパートに移り住んだ結果でもあるであろう。それでもあいりん地区の人口は2千人の増加をみているのであるから、新規来入者で補充されたとみるのが妥当であろう。

  人口増を上回る仕事の増加に対応したのは元から釜ヶ崎にいた労働者であり、外国人労働者やあいりん地区やその周辺に新規来入した労働者であることを見てきた。 しかし、それ以外にも考慮すべき要素がある。(図3)は国勢調査結果から作成した大阪市内に居住し建設業で働く男を示すものである。簡単に検討を加えれば、西成区の変動幅の大きいのがが目立ち、80年代以降は大阪市全体で建設産業従事者が増加傾向にあることである。先程述べた80年代以降の傾向ー精神的障壁を乗り越えさす要因の増大ーはここで示される増加部分にも適用される。

  これまで、関空工事が釜ヶ崎に与えた影響が期待はずれといわれた原因を探ろうとしてきた。その結果明らかになったことは、あいりん地区内でアブレが強まったのは地区外の労働者が地区内の労働者の代わりに釜ヶ崎から就労しているからであり、そのことを持って関空工事の仕事が釜ヶ崎に多くはこなかったとは言えないということである。

 ターミナル工事への釜ヶ崎からの就労が極端に少なく、本稿の目的をたてることがまったく無意味であったという結果がでた場合、どう考えるべきか、についてもあらかじめ方針を立てておく。

  1989年10月11日毎日新聞(夕刊)は次のように報じていた。

『大阪・泉州沖の関西国際空港の建設で、大阪府労働部は12日開かれた府議会文化労働常任委員会で「ピーク時には1万4千人の作業員が必要だが、労働力の確保は大きな問題になる」と懸念を表明。労働省に働きかけ全国から優先的に労働力を提供してもらう意向を明らかにした。同空港建設に建設業界の人手不足問題が新たな壁として浮上した格好だ。』

 大阪府労働部の動きは万博の時と同じである。万博当時と違う点は、万博の時は全国の出稼ぎ県に協力を要請したのであるが、農村から出稼ぎにでる層の高齢化が進み、出稼ぎ労働者をあてにすることができない時代であるということである。もし釜ヶ崎からの就労が極端に少なかった場合、この府労働部の動きの影響(農村出稼ぎ以外からの労働力移動はどのようなものであったか)をターミナル工事の中で明らかにすることが必要となるであろう。

 そして、これは今回の課題とは離れるのであるが、労働力集中を呼びかけた後の行政の対策も検証されなければならないだろう。

  なぜなら、万博準備のために労働力の集中を呼びかけた結果釜ヶ崎が膨張したのであるが、万博開催と同時に釜ヶ崎の仕事は激減し、ドルショック・オイルショックの影響で景気が後退したこともあって、多くの労働者が野宿を余儀なくされるままに放置された過去の教訓があるにもかかわらず、関空工事においても、労働力集中を呼びかけ、その呼びかけが効をそうしたであろう時期の直後に「バブル景気」が崩壊して景気が後退、またもや多くの労働者が野宿を余儀なくされるままに放置されているからである。

[2]新規入場者アンケートと釜ヶ崎

 関西国際空港ターミナルビル工事に就労した労働者が記入した「新規入場者アンケート」を基に釜ヶ崎日雇労働者の関西国際空港ターミナルビル工事における就労状況・そして下請け構造の末端を探ろうとするのが、本稿の目的である。それに先だって、関西国際空港ターミナルビル工事当時の釜ヶ崎の事情を検討してきたのであるが、先に検討したことを図式化すれば(図4)のようになると思われる。(実線の矢印は人の流れを示し、二重線の矢印は求人の流れを示す。)

 あいりん地区も「人材派遣会社」も下請末端施工業者も、労働力の供給源として周辺地区を持ち、他府県や外国からの労働力も受け入れる。ただし、あいりん地区のみ独自の求人発信行為はない。(西成労働福祉センターの職業紹介業務は文字通り「人材派遣会社」や下請末端施工業者の求人の紹介にすぎない。)

 あいりん地区には「人材派遣会社」(いわゆる人夫出し業者。人材派遣業法で建設業は認められていないにも関わらず、人材派遣業法施行以前から存在している。)や下請の末端施工業者からの求人が集まる。その求人に応じるのは、あいりん地区やその周辺の労働者あるいは大阪市内やその近隣の市町村からあいりん地区へ「通勤」してくる労働者である。(日本各地あるいはアジア各地からの移住者を含む)。

 このことを再度確認し、「アンケート」の検討に入ることにしよう。

 ターミナルビル建設工事は南北の2工区に分けられ、南工区は竹中工務店を代表とする共同企業体が、北工区は大林組を代表とする共同企業体が施工した。双方の工区で、現住所地としてであれ連絡先としてであれ大阪市内の地名を記入した者の数、並びに各区毎の内訳を示すと(表4)のようになる。

 なお、「同一」とあるのは現住所も連絡先も同じものであり、「共通」というのは現住所、連絡先が共に大阪市内であるが、区名その他が現住所、連絡先で異なるものである。「現住所」は現住所が大阪市内であるが連絡先は大阪市外の記載があるもの、「連絡先」は連絡先が大阪市内であるが現住所は大阪市外の記載があるものである。(区名の並びは総計の大きい順になっているので、竹中と大林では異なっている。)

 一見して分かることは、西成区を現住所・連絡先としている労働者が多いことである。特に、「同一」に多いことは注目される。
 しかし、このことで大阪市内の中では西成区在住の労働者の工事に対する貢献度が高いとは断言できない。新規入場者アンケートは最初に工事現場に入ったときにだけ記入するのが原則であり、例えば、阿倍野区の労働者一人が100日現場に入っても、新規入場者アンケートによる阿倍野区の出現数は1にすぎないが、西成区の労働者30人が30日の間毎日入れ替わって入れば、新規入場者アンケートによる西成区の出現数は30となるからである。新規入場者アンケートによる出現数の多さは、日雇労働者の多さに結びつくものかもしれない。

 ともあれ、当初の目的に従い、最初に「同一」の中の西成区について検討をすることとする。
 ちなみに、「同一」としてまとめたのは、現住所と連絡先が同一の票であった。そして、国勢調査は現住所地において行われるものであるから、「同一」の区毎の数値と国勢調査による建設業雇用者男の区毎の数値との間には高い相関関係にあることが予想されるところ、1990年国勢調査結果との比較は(表6・図5)に見られるごとくである。全体としてかなりの相関関係が成り立っていると評価されるが、一部の区(大正・住之江・港など)に乱れがある。これらの区は、「人夫出し飯場」(建設業寄宿舎)が多く存在していることが知られており、そのこととの関連の検討も本稿の目的(釜ヶ崎労働者の就労状況の把握)内となるであろうと考えられる。

参考:1991年3月31日現在における西成労働福祉センターへの登録業者のうち大阪市内に所在地のあるものは860業者であり、上位5区は次の通り。
1位西成区―130、2位大正区―87、3位港区―80、4位西淀川区―73、5位住之江区―67。ただし、すべてが「人夫出し飯場」というわけではなく、末端施工業者も含まれていることを念頭に置いておかなければならない。

 さて、「同一」の内西成区の票をさらに細かく集計すると(表7)のごとくになる。表の下にあるのは、西成区全体の中に占めるあいりん地区の割合である。先に紹介したあいりん職安手帳所持者の内西成区を住所とするものは14,019人で、そのうち6,419人があいりん地区と分類されているので、あいりん職安手帳所持者のなかであいりん地区を住所地とするものの割合は45.8%である。それとの比較でいえば、ずいぶんと低い数字といえるが、この段階では「同一」にグループ分けした票のみを対象としているので(他にグループ分けした票の中にも西成区のものが含まれている)、工事全体での判断はできない。

 何度もいうように「同一」に分類したのは現住所と連絡先が同一の票であった。これまでに町名までの分類集計を行ったのであるが、この下の地番にいたるまで同一の票が複数存在するとすればどのように解されるべきであろうか。

 常識的には同居親族の存在であり、あいりん地区で考えれば同一簡易宿泊所の利用者の存在であろう。あいりん地区外では、同一アパート、マンションの居住者が考えられる。そして、建設業宿舎に住み、連絡先を宿舎以外に設定することのできない日雇労働者の存在も想定される。

 実際に、地番まで同一の票は、竹中で11グル−プ、大林で7グループの計18グループあり、そのうち名前などから同居親族と推定できるものは6グループである。特異なグル−プは、旭の6人、南開の4人、山王の4人などであり、建設業宿舎の存在が推定される。幸いにして、山王同一住所の4票の内1票には「ATM組」の記載があり、現実に同所に寄宿舎が存在することも確認されているので、とりあえずこのグループを取り上げて、日雇労働者の工事への就労経路をの一端を明らかにしようと試みることとする。

 4票のうち3票は、所属会社「NGS組」、一次協力会社「SKO組」で職種は「鳶工」である。1票は所属会社、一次協力会社共に「DRI工業」で職種は「鉄筋工」である。

 ここで確実に言えることは、3人の労働者が「ATM組」の寄宿舎(寮かも知れないが平たくいえば飯場)に「契約」で住み込み、ターミナル工事現場に通勤していた、ということである。

 「同一」の中から、「NGS組」―「DRI工業」の組み合わせを選び、町名毎に集計したものが「内訳1」である。山王の鳶工3人は、「ATM組」から就労していることは確認した(表8)。

 「内訳1」をもとに、推定を付け加えれば、「内訳1」で示されている32人の労働者のうちかなりの部分が、早朝、「ATM組」の飯場に直接いくか、あいりん総合センターで「ATM組」の車両に乗り込むかして、「現金」でターミナル工事現場に就労していたと考えることができるということである。

 「ATM組」を通してターミナル建設工事現場に就労した釜ヶ崎の労働者は、「内訳1」に示される32人を上限とするものであろうか。

 「SKO組―NGS組」の組み合わせの票は、竹中の票の内に713票ある。その中に、西成区を現住所とするもので連絡先を大阪市以外とするものが63票(内訳2B参照)、西成区を連絡先とし、現住所を大阪市以外とするものが9票(内訳3参照)ある。釜ヶ崎労働者と推定することのできるそれらの票について、「ATM組」との関係の検討を続けることにする。

 なお、「内訳2」は、「SKO組―NGS組」の組み合わせのうち現住所または連絡先に大阪市の記載があるもので、現住所が大阪市(149票)以外のもの(28票)は、連絡先が大阪市内である(内訳3参照)。

 「内訳2B」の内西成区の63票について町名毎に集計したものが「内訳2B1」である。「内訳計1」よりもさらにあいりん地区の比重が高くなっている。「内訳2B1」のグループは、現住所を西成区においているものの、連絡先は大阪市外にしているもので、その連絡先の分布は、次ページの表に見られるごとく1都1道2府26県にわたっている。

 「内訳2B1」の票で地番まで集計した結果が「内訳2B2」であるが、「ATM組」の20票が注目されるとともに、簡易宿泊所や日払いマンションの名前が見られる。

 「内訳計2」は、「内訳1」と「内訳2B1」の合計で、重複感はあるが、先に示した模式図の確かな根拠として示した。ただし、あいりん地区内に人材派遣会社が含まれるという変則的な形ではあるが…。

 これまでグループ分けして検討してきたが、それを今まとめて結果を示すぐらいなら最初から一グループで検討した方が、煩雑を避けられてよかったのではないかと思われるが、もう一つの目的のためにはグループ分けが必要であった。もう一つの目的とは、釜ヶ崎に来る仕事に釜ヶ崎以外の地域の労働者が就労していることを証明することである。

 「バブル経済」下、釜ヶ崎の求人数急増に応じてあいりん地区以外からの、釜ヶ崎を通っての就労が増えており、「バブル崩壊」後もそれらの労働者は引き続き釜ヶ崎を通って就労を続けていると先に指摘したことを、事実で確かめるためには、細かなグループ分けが必要であったのである。

 「バブル期」に急増したと推定するに足る根拠を「アンケート」項目の何に求めるかといえば、「現場経験年数」である。下の「現場経験年数分布」は、見込みが正当であったことを示すに十分なものであると考える。

 「内訳1」と「内訳2B1」については、これまでに紹介してきた。「内訳2B」についても先に紹介したところである。一見して分かることは、「内訳2B」の西成区域外が一番平均年数が低く(8.2年)、5年未満のものが半数を超えている(73票中44票)ことである。

 大阪市内の西成区域外に現住所を置き、大阪市以外に連絡先をもうける層が、もっとも経験年数が低く、しかも5年未満が多いことは、「底辺労働者」といわれる釜ヶ崎労働者の上に、新たな不安定就労層が形成されていることを示すものであり、釜ヶ崎労働者はさらに底部に追いやられ、野宿を余儀なくされる層が増大している現実を、仕事量の変動以外の要素で説明するものであると考える。

3.おわりに

「関西国際空港建設労働調査研究会」の代表である八木 正は、日本労働社会学会年報第2号(1991年)で次のように提起している。

『〈縁辺労働力〉というふうに概念化されてしまっている労働者たちが、歴史的にずっと抱え続けてきた差別と迫害の苦しみに迫りうるような、新しい分析パラダイムを確立しなくてはならない。そのためには当然まず、大企業中心的ないし行政的な上からのアプローチを克服・逆転して、いわば下から執拗に這い上がるような研究観点を自分のものとしなくてはならない、―略―このような考えのもとに、とりあえず研究パラダイムの転換に資すると思われる産業労働事例として、日本の建設業に即しながら、その労務機構と労働状況について次に考察を試みてみよう。』(〈縁辺労働力〉概念と労働者間差別の問題・32頁)

 八木はこう提起する前段で、次のことを確認している。

『日本の経済社会は、いわば大企業を中心ないしは頂点として下請けの諸事業所が疑似家族的な重層関係のタテ系列で編成されている(前述の円錐状の構造)ところから、産業・労働問題の研究者の目はどうしても産業の根本をなす大企業の側に向きがちであること、そうすると意識的にか無意識的にか大企業中心の発想パラダイムにとらわれてしまう可能性が大になるということである。』(同31頁)

「関空労働力調査」は、八木の提起を受けるものであると考える。

  「バブル崩壊」後、の野宿者が増大した釜ヶ崎の状況から、関西国際空港建設工事に就労した釜ヶ崎の労働者は、ほとんどいないかのように思われている。しかし、いかなる状況であれ、建設業界の重層下請け構造と末端労働力の日常的な使い捨てが変わらない限り、やはり日雇労働者に依存せざるを得ないのである。この忘れられがちなことを、本稿では具体的な事実としてごく一部ではあるが明らかにしえたと思う。具体例として竹中のアンケートを活用し、鳶工・土工について釜ヶ崎労働者の就労経路と就労数の推定をおこなったが、大林についても具体的に示せる。例えば、大林の中にアンケートの中に、港区のM町を住所地とするものが58票ある。職種は「鍛治工」であり、一次会社と所属会社の組み合わせは「S工業―H工業」である。港区のM町には「H工業」があり、隣接して寮代わりに使用されていると思われる「O荘」がある。人材派遣会社はまだ確定していないが、「S工業―H工業」系列の中の票に萩之茶屋を住所地としているものが確認されるし、M町を住所地とするものの中にも連絡先として萩之茶屋を記入しているものが確認されている。釜ヶ崎労働者の動員される職種は、単純肉体労働だけに限られているわけではないのである。

 本稿では、釜ヶ崎労働者の「上」に新たな層が形成されていることも示し得たと思う。

 八木は、前述論文の結論部分で次のように述べている。

『こういう産業労働の差別構造が社会的に厳存するようなところでは、比較的安定した市民的な産業労働者もまた、差別から自由ではあり得ない。社会的なレベルにおいて、身分的な「労働者間差別」の現象があると見る所以は、まさにここにある』(前述54頁)

 釜ヶ崎においては、1980年初頭から「春闘」が開始され、日本国内の日雇労働市場としては高めの賃金水準を維持している。また、1970年代初頭から「悪質人夫出し業者」との闘いが開始され、「人夫出し業者」の質が均質化するにいたった。このような大阪の日雇労働市場の状況は、不況産業の企業から企業防衛のために「はじき出された」労働者にとって、選択の余地ある就労先となったのである。

 かかる社会的事実があるにもかかわらず、釜ヶ崎労働者への差別が、事実を認識する目をふさぎ、野宿を余儀なくされる状態だけに注目して、「市民」(新た日雇い労働市場に参入した労働者を含め)はさらに差別を深めるのである。

  大企業(大手ゼネコン)に取ってかかる事態は何の問題性も感じられず、大手企業・大工事の推進だけに囚われ、「人間」を労働力としてのみ評価する大阪府労働部は、大手企業・大工事の推進のために労働力の集中をはかり、その結果生じた釜ヶ崎労働者の苦難には、差別を持って釜ヶ崎労働者の無能力のせいとして、有効な対策を施そうとしていない。

 本稿が示し得たのは、まことに小さな事実であるが、大きな現実を見るに欠かせない事実であると自負している。釜ヶ崎労働者の抱える困難の軽減に役立つことを期待し、調査研究報告としては不十分なものではあるけれども、提示するものである。