釜ヶ崎と野宿生活者
大阪市内の野宿生活全体に占める釜ヶ崎日雇労働者の比重について、昨年8月の市内野宿者概数調査に関わった大阪市立大学島助教授は、『現代日本の野宿生活者』(学文社刊・
1999)で次のように推論しています。「実際に私は、北区の中之島公園でテントを張って野宿生活をしている2人の「元」釜ヶ崎の日雇労働者から話を聞いたことがあるし、都島区や福島区では、釜ヶ崎のすぐ近くに存在している資源回収業者(寄せ屋)のリヤーカーを引いて、ダンボウル回収の仕事をしている何人かの釜ヶ崎の日雇労働者に出会って話を聞いたこともある。これらをも考慮に入れて、大阪市内全域で野宿している釜ヶ崎の「現役」および「元」日雇労働者の数を見積もるならば、それはどんなに少なくとも、5,000を下回ることはないはずである。
どうして、野宿生活者の中には釜ヶ崎の「現・元」日雇労働者が多いのでしょうか。大阪市も、先に紹介した文で「従来から野宿生活者の多かったあいりん地域」と書いていました。なぜ、従来から多かったのでしょうか。また、従来から多かったのなら、なぜ、このような事態になるまでに対処できなかったのでしょうか。
(1)建設産業の不振と野宿生活者
釜ヶ崎は、日雇労働者の街、単身男性の多い簡易宿泊所街として知られています。そして、地区労働者の働く現場は、主として建設産業です。萩之茶屋地区人口
7989人のうち、就業産業が建設業であるものが6969人だったという、1995年の国勢調査結果によっても明らかです。近年の建設業界の不振はよく知られているところですが、その影響をもろに受けたのが釜ヶ崎日雇労働者です。そのことは、国勢調査の数字を比較することによって、はっきりと知ることができます。先に紹介した国勢調査の5年前、
1990年国勢調査結果は、萩之茶屋地区の建設産業就労者が10149人であったとしています。5年間で3180人減少していることになります。太子・山王地区などを含めると4667人の減少となります。現在の減少数は、伝えられる簡易宿泊所の宿泊率(平均50%台前半)を考えれば、もっと大きなものとして計算されるべきだろうと推察されます。もちろん、すべての減少が野宿生活者の増加に直結していると言い切ることはできませんが、かなりの部分がそうであることは、これまでの調査や私たちの日常の体験で裏付けることができます。
(2)阪神淡路大震災と野宿生活者
国勢調査結果の比較により、釜ヶ崎建設産業日雇労働者の減少傾向は明らかになりました。西成区全体でも、建設産業雇用者(男)は、
90年19,668人から95年15,516人へと、4,152人減少しています。しかし、大阪市全体の建設産業雇用者(男)は、90年86,743人から95年88,528人へと、減少どころか1,785人増加しています。この解釈として、釜ヶ崎労働者は他区へ移動したに過ぎず、建設産業の不振はなかった、というのはどう考えても現実と合わない解釈です。
実際は、不況の中、阪神淡路大震災後の復興工事で一時的に仕事が増えた建設業へ他産業の失業者が新規参入したための増加であり、その後の仕事減少期には、新規参入者がとどまり、釜ヶ崎労働者が失業し続ける現象となったことを、数字の上で示しているのです。この新規参入者と、釜ヶ崎労働者の入れ替わり現象は、仕事の多さで緩和されていましたが、バブル期から始まっていました。
85年から90年に西成区の建設産業雇用者(男)は、5,873人増加していますが、大阪市全体では、11,450人増加していたのです。この時期に新規参入した人たちも、現在の野宿生活者の中にいます。
(3)高齢化と野宿生活者
1995年国勢調査結果に、大阪市の高齢単身者(60歳以上)をまとめたものがあります。それによると、市内高齢単身者の総数は85,228人、もっとも多いのは西成区8,048人(9.4%)、2位生野区5,784人、3位住吉区5,652人は5千人台ですから、他区と比べて頭一つ飛び抜けた部分、約2千人は他区にない西成区の特色、釜ヶ崎の存在が反映されていると考えるのが妥当だと思われます。調査の時点で、西成区高齢単身者8,048人の内3,023人は何らかの形で働いており、703人が完全失業とされています。残る4,322人は非労働力人口で、生活保護を受給しているか扶養親族からの援助を受けていると推定されます。
一昨年の大阪市の越年対策(南港の臨時宿泊所)利用者は
2,421人、その内60歳以上は879人でした。高齢者の野宿生活者は今以上に増えるものと考えられます。(4)大量失業時代と野宿生活者
建設産業を失業の一時的受け皿とさえする事のできなかった人、釜ヶ崎を滞留の場となしえず、直接、野宿生活者となる人も今日では多くなっています。