1章 釜ヶ崎の歴史

 第1節 釜ヶ崎変遷史

 §1 釜ヶ崎近況

 大阪市の名物通天閣がそびえる歓楽街の新世界から、林芙美子の「めし」に書かれたジャンジャン横町を抜けると、阿部野橋のターミナルから今宮へ通ずる舗装道路に出る。ここをまっすぐ南へ下るともとの飛田遊郭。すでにこのあたりは大阪でももっとも庶民のにおいのする盛り場だが、この舗装道路をすこし西のほうへ、南海阪堺線の踏切をわたると、町はぐっと特異なにおいを発散させる。

 鼻をつくのは軒なみに並ぶホルモン鍋からただよう異臭だ。昼でも夜でも、人間がごろごろしている。ゴミ箱のかげで酔いつぶれて寝ている男、ウドンの玉を新聞紙に包んで立ったまま食べている女、ズボンやシャツを一、二枚腕にかけて町角で売りつける立ちんぼの古着屋。――南海本線のガードまで、一キロたらずの四方にひろがる、スラム街釜ヶ崎の顔である。(昭和37年当時)

“百科事典によると”

釜ヶ崎・・・大阪市西成区東入船町・西入船町から浪速区水崎町一帯にわたるスラム街区。東京山谷(現東浅草、清川、日本堤)のスラム街区と並称される。新世界歓楽街の南西にあたり、大正時代から浮浪者が居住しはじめ、第二次世界大戦後現在地に集団化した。簡易宿泊所(ドヤ)約175軒、約13,000人の日雇労働者や失業者が居住し、社会不安の温床となっている。1960年(昭和35年)=ママ=8月の釜ヶ崎騒動を契機に、福祉厚生対策がたてられ、1966年(昭和41年)以来、愛隣地区と公称するにいたった。(ジャポニカより)

愛隣地区・・・大阪市西成区の北東部、もと釜ヶ崎の改称。釜ヶ崎は、東京の山谷と並称される大阪のスラム街で、その環境浄化の目的で1960年(昭和39年)9月西成愛隣会が結成された。翌年8月に発生した釜ヶ崎事件を契機として、さらに地区民の福祉厚生対策が積極的に樹立され、地区名も1966年(昭和41年)6月から愛隣地区と公称するようになった。(ジャポニカより)

 

§2 釜ヶ崎とは  (川知 圭介 釜ヶ崎変遷史より)

 大都会のド真中に、なぜ、このような街ができたのだろうか?

 天王寺に接する西方一帯の低地を今宮といって、往古は海浜の漁場であった。大内の御厨子所(ごづししょ=ママ=みずしどころ)へ、日毎供御の料を調進したところと伝えられ、徳川時代は今宮の「鯛献上」と称し、例年正月鮮大鯛を御所に奉ったのも、この旧例によるものといわれ、村民の誇りであった。

 これが釜ヶ崎の昔の姿である。

 大正6年秋までは、この辺り一帯を「今宮村」と呼んだことは、衆知の事柄だが、その昔、海浜の漁場であった頃、この辺の地名は「津江の庄」と称した。そして目の前の海は「名呉の浜」「那呉の浦」あるいは「名児の海」などといった。今の日本橋から住吉辺りにかけてである。時代は平安期から江戸時代にわたっている。菅原道真公が、ざん言のため九州太宰府に流される時、いまの安居神社(天王寺区逢坂之町)の場所で休息して、すぐ近く(夕陽ヶ丘辺り)から出帆したという伝えがあるから、当時の海岸線というものも、一応想像できるわけだ。

 ○ なごの江に 妻喚文し 鳴く田鶴の

    声うらかなし さ夜や更けぬる (宗導親王)

 ○なこの浦に とまりをすれば

    しきたえの 枕に高き 沖つ白波 (後二条院)

 いづれを見ても、藻塩焼く蜑(アマ)の小屋から立つ煙さびしく、沖つ白波をわけて帰る釣船の心細い漁村に過ぎなかったことが思いやられる。(今宮町志)

 今宮村の広田神社と戎神社のあるところは、古の名児の海の入江になったところで、この入江の岸が船の発着場であった。そしてこの発着場の南側が釜ヶ崎であった。釜ヶ崎は、日本の海上交通の拠点に“なにわ”があり、四国、九州はもちろん、遠く中国までも船は“なにわ”から出帆し、そして帰港したその港の一角にあった。

「釜ヶ崎」という地名の起源は

1)貧民窟ができてからの地名でなく、さらに古くからあった。

 「塩焼のあるみさき」である=釜ヶ崎

 今宮町志・・・いづれを見ても、藻塩焼く蜑(海人の意)の小屋から立つ煙さびしく・・・この入江南端に穿きでた岬では、塩焼釜が並べられ終日煙がたなびいていたのであろう。遠くからやってくる船も、土地の漁師たちの船も、入江に近づくと「浜に立つ煙」を目印に船を進めたものと思う。「塩焼釜のあるみさき」それがいつしか「釜ヶ崎」と呼びならわされ、ついに地名となったと考えられる。

2)俗説として、次のようなものがある。もちろんあやまりだが。

 「貧民窟の人たちは、飯を炊こうにも釜がない。まず釜からさんだんしないと炊事もできない。だからカマガサキ(先)という地名ができた。」

 誤りの根拠――釜ヶ崎に貧しい人々が集まるようになったのは、せいぜい明治時代の後期からである。それ以前は大阪市の南に遠く離れた田園で、スラムはおろか、人家もあまりない今宮村の一部である。

 長町が内国博覧会の開催のため、道路整備のためつぶされ、第二の長町が、釜ヶ崎となった。

 海浜の釜ヶ崎が陸地となったのは、いつの頃かわからないが、海面との関係は自然の力により次第にうすくなり、漁村という昔の夢は消えて、残るは醇朴な農村の手によりて耕作される麦や棉の栽培地となった。(今宮町志)漁村当時、日々皇室の御用を勤めていたが、徳川時代に入ると、正月のみの鯛献上となっているから、それ以前に陸地と化したものと思われる。このように一転して農村となった釜ヶ崎は、ほとんど人家の見当たらぬ耕作地として明治の御代までつづくのである。

 

@ 長町スラムの発生

 広々とした田園風景に変じた釜ヶ崎に、人々が居住するに至までには、長い歳月の流れがあるわけだが、その間を我々は、南大阪のスラムの発生と、その発展、そして移動の歴史に目を向けなければならない。

 1615年(元和元年)大阪夏の陣により豊臣家が滅亡し、徳川が天下の権をにぎった時、最初の大阪城代に封ぜられたのが松平忠明である。

 夏の陣によって当時の大阪市中は、全域が戦禍を受けたといっていいだろう。――元和年間の大阪の人口がどれだけあったか分からないが、それから50年後の寛文5年頃には、約26万8千7百人の人口があり(佐々木茂八「大阪の町人史」)とあるから、元和の頃は十数万人ぐらいではなかったろうか。その多くが戦乱のために家屋敷を失い、田畑を荒らされて、周辺の村落や縁故をたよって他国へ逃避したであろうから、大阪市中は人影もまばらな有様だったろう――だから、松平忠明の最初の仕事は新しい町づくりである。

 そのためには何をさて置いても人がいる。そこで地方から人集めをはじめた。

――先ず伏見(京都)の町人廿三丁が率先して移住し(中略)この伏見移住者の町を伏見組といって、その町名が概ね伏見の旧名を称しているのはこれがためである(大阪の町人史)。

 つまり現在の東区伏見町である。同じように河内国久宝寺村から移住したのが、今の東区久宝寺町である。

 このようにして、徳川治世における大阪復興の第一歩を踏みだしたわけだが、新しい町づくりとなると、集まってくる人間の身分、職業は種々雑多、商人、職人、出稼労働者、旅芸人から無宿者とさまざまの人間が年々増えていくわけである。きびしい身分制度を定めていく徳川幕府が、これを放置するわけはない。

 大阪夏の陣から5年目の元和5年、時の大阪東町奉行久見因幡守正俊によって、旅籠(はたご)屋の設置が認められるのである。

 南大阪ではそれが長町に許された。長町とは、現在の日本橋筋である。

――長町は堺筋より髭の如く大阪三郷よりのびた狭長の町として発達したが(町名の由来もこの点にあると思われる)、これはこの地が住吉海道の入口として往来がはげしいところから漸次街道町となった(浪速区史)。これには――里俗長町といい伝えしも、名呉(なご)町の誤りなりぞ(朝日新聞明治36.4.20)という説もあるが、普通長町と呼ばれていたことには、間違いない。

 下って寛文三年、この時の東町奉行石丸石見守によって、長町に木賃宿(30株)が許された。

――諸国より大阪に出稼ぎにくる力役者(米搗人、油絞人、酒造人等)が追々増えるため、これらの人たちのために長町に木賃宿を許し、大阪に来る諸力役者の宿泊せしめる特権を与えると共に、これらの力役者は、この木賃宿以外の家にて宿泊することは許さなかった(浪速区史)。

 なぜ、長町に木賃宿を許したか。その理由として(大阪市史第2巻)――長町六、七、八、九丁目(現日本橋筋三、四、五丁目)に木賃宿を許したのは、独り旅人のみならず、身分を分散して無宿袖乞となり、或いは日々市に出でて日雇となり、荷物持ちとなり、米搗屋・酒造屋・油絞屋の働人足となれる者等をして、些少の金銭を出し容易に雨露を凌がさん為なり。而して是等無宿者中には盗賊悪党もあらんも知るべからざるを以て木賃宿は一方に其の取締に任ぜしに、市中並びに端々町続在領旅籠屋・奉公人口入・煮売屋渡世の者・又は旅籠屋仲間に加わらざる小宿に於いて、無宿者を宿泊せしむるもの出でしかば、安政6年令して之を禁じ、向後犯す者あらば厳重の処分に及ぶべしといえり(後略)

 以上のようなわけだが、要するに市中治安取締まりの名目で、うさん臭い連中の場末への追放である。このようにして長町は低い身分の物たちによって繁昌したわけだが、この長町にすら住むことのできぬ極貧者、つまり非人乞食などの類も多数ふえて、長町の裏にあたる合邦が辻(現浪速区逢坂下の町)あたりはこれらの連中の野宿場となり、食うに困ると商家の店頭に立ちて米銭を強要し、果ては強盗を働く者もでる有様だったという。

 当時の長町の無法を物語るものとして、ある年の暮れに、主としていつも長町で商っていた若い親孝行者の魚行商人が、裏路で何者かに撲殺され、死体を吹きだまりの雪の中に埋められて、翌年の春に自然に雪が解けるまで、その死体が発見されなかったという話がある。

 このようにして南大阪のスラム街の歴史のスタートが切られたわけだが、この長町が、実は釜ヶ崎と同じように、当時今宮村に属していたのである。古地図を見てもらえばわかるが、当時の今宮村は今の恵美須あたりから、棒を突出したような恰好で、日本橋3丁目あたりまでのびている。

 今宮町志に嘉永元年(1838年)5月に作られた、今宮村の小入用帳という当時の村費(1年分)の小費用の出納状態を知る上に、貴重な帳付けが詳細に出ているが、その中に次のような記述がある。

 1030

 1 銀190目 9分 3厘 字長町に行倒死有之御検使奉願上候所 御奉行所へ相成死骸取付 番賃諸入用

 つまり、路上の変死者の取り片付け費用の明細だが、これによっても長町が今宮村であったことが証明できるわけだ。この他、同小入用帳には、字神宮寺(現浪速区広田町)、字町裏(現浪速区東関谷町)、字墓の前(現不明)といった場所での変死体取片付けの記述がある。それに、かなり多くみられるのは、見馴し非人壱人あるいは弐人の死骸取片付け費用といった項である。いかに行倒死が多かったかが想像できるわけだが、字釜ヶ崎と書かれた個所が全然見当たらないのは、依然として野良仕事の農民しか往来しない耕作地だったのだろう。

 ○木賃宿=薪(マキ)代、すなわち旅宿に旅人自ら米を携え、炊くべき薪の代価を払って宿泊すること(広辞苑)

 

A 幕末から明治へ

 過去の日本歴史は、ほとんどが為政者の歴史であり支配階級の歴史である。すくなくとも明治時代に入るまでの庶民の生活史の記録というものは、各地方で断片的に残っているにすぎない。まして貧民階級の生態史などというものは、皆無に近い状態である。長町もまた然りである。

 明治の初頭、置県廃藩の時期まで、大阪は北組、南組、天満組(現在の○○区にあたる)と分けられ、これを総称して「大阪三郷」と呼ばれていた。その南端が道頓堀である。

 いまでこそ、大阪の中心地の様相を呈しているが、当時は道頓堀の芝居小屋の表までが市街地であり、芝居裏はすぐに法善寺、竹林寺、そして千日墓所とつづく陰湿の地であった。周辺の地は「難波村」であり、これが明治の中頃まで、長町につづく貧民層の多集地帯だった。船場から道頓堀までは色々な形の資料が多数残されているが、一歩これを離れると、もう文字とは縁の遠い存在となる。

 このようなわけで、その後、明治時代までの長町スラムの生態を知る資料として、文人の上田秋成のものとして

――今宮村を北に横折れて来れば、長町の南頭なり。むつかしげなる家ども、ひしひしと立並び(中略)此の辺に宿り取るとて浅ましげなる者ども立続きて帰り来るを見れば、老さらばえる盲目の竹杖の片手には112なる童に引かせて、行く行く打倒るべく歩み来る。膝行法師の髪鬚おどろに、あい延びて、ボロの肩のひまより氷れる肌の現れたるが、独言しつついざり行くは、今日の寒さをかこつなるべし。辻君56人、髪はぬれぬれとあげて、北様にあゆみゆく、あはれの操や――(癇癖談)とある。盲目、いざり、売春婦、スラムのぷんぷんと鼻をつく文章である。

 こういった極貧者に対しての幕府の失業対策はというと、もっぱら土木工事をこれに当てていた。御承知のように、当時、土木機械といったものは皆無であるから、すべての工事は人力で完成させていた。江戸時代「天下の財、ことごとく大坂に集まる」といわれたほどの物産集合地であったから、その運搬の便利のため、また治水の上から水路開発は盛んに行われたようである。有名なものに道頓堀川、十三軒堀川、高津入堀川、桜川、難波入堀川などがある。

――天保4年から7年はいわゆる全国的な「天保の飢饉」の時期である。4年(1833年)の凶作で米価が上がり、庶民の生活に圧迫がかけられたところへ、7年(1836年)に大凶作となった飢饉は全国的となった。作柄は畿内、東山道、東海道で45分、関東で4割、奥州で28分、羽州で4割、北海道でも54分、山陰道で32分、山陽、南海道も55分という。農民は妻や娘を女郎に売ったり乞食になった。野外には多くの死体がころがり、それを食うという地獄図をみせた(幕末の素顔)より――

 天保8年(1837年)には大塩平八郎が乱を起こす。

 かくして、巷に溢れるものは、流浪の群である。文久2年(1862年)さらに長町には、木賃宿30棟が許可された。

 ○天保14年当時の長町付近図(大阪市史)

 























B 明治時代

 天保の飢饉あたりから、政情不安と社会混乱は、次第にその勢いを増しつつ明治までつづくわけだが、そのシワ寄せは弱い者に最も強くひびいている。

 慶応4110日、新政府は大阪にて「市民慰撫の令」というのを出しているが、これには「制度法令等一切是迄の通相定候事」とある。つまり「木賃宿ノ儀ハ長町四丁ニ限ル」という旧来の策をそのままついでいる。明治に改元しても、その3年に再び同じ通達を出している。為政者が交替した、というだけで何ら変化がないわけだが、その限りにおいては、“今宮村字釜ヶ崎”は平穏無事がつづくわけである。明治初期の釜ヶ崎は依然として田園地帯で、南大阪のスラムは引きつづき、長町であった。

 明治5年、長い間の呼称であった「長町」の名は「日本橋筋」と改名された。現在の3丁目、5丁目が昔の長町にあたる。だが、一般には「名護町」の呼び名が通用するようになる。現在の「あいりん地区」がそうであるように、名称がどう変わろうと、その中味が変化することはない。

 江戸時代と違い、明治に入ると、この底辺の地にも色々と記録が残っているが、その中の一つで、当時(明治18年から)船場で紙問屋を営んでおられた浮田高太さんが書き残した「大阪昔がたり」から、当時の底辺をのぞいてみよう。

――市の南端は則ち日本橋筋なり、旧名を長町と呼ぶ。其名の如く、長く南方にのび5丁目に至る。ここは全市中において貧民窟の代表地にして、裏長屋の多きこと市内第1位なり。曰く蜂の巣、かんてき裏赤裏、裸裏、百軒長屋等、何れも名称に就て、夫々いわれあり。中にも六道の辻には地獄、餓鬼畜生、密接集合して、昼夜修羅騒ぎの絶え間なし。 この辺を船場内の車が通ると、路次の中から不意に餓鬼、小倅共が大勢飛び出して無理に怪我をする。忽ち、長屋中総出で車の梶棒を捉まえて是が非でも膏薬代をせしめる。上手に怪我をした子供は親がほめる。怪我の功名とは此事なり。如何なる雲助も、此手には降参して、少々の廻り道してでもこの筋は通らぬようにする――。

 海を失って以来何百年間、ひっそり眠りつづけた「釜ヶ崎」に、時代の波がひたひたと寄せてきたのは、明治18年から22年である。

 明治181229日、現在の南海電鉄の前身、阪堺鉄道が、難波−堺間で営業を開始した。明治2241日、大阪市政実施。明治22514日。現在の国鉄関西線の前身である大阪鉄道が、湊町−柏原間に開通した。

 両鉄道共「釜ヶ崎」を横切った。

 明治7年  大阪−神戸間鉄道開通

 明治12年  1回大阪府会開会

 明治15年  日本銀行大阪支店開業

 日進月歩の勢いで、諸制度、諸様式が近代化されていく明治時代、当然市街地の整備も重視され、元和5年以来260余年の歴史をきざんだ長町スラムの移転が、はじめて公の席で議題となった。すなわち、明治18年の連合村会で「名護町移転」が論じられたのである。しかし名護町の家主たちの強い反対で、結局否決されてしまった。

「名護町の家主は其数140余人、何れも貧民にその破れ家屋を貸し貧民の質を取り、貧民に高利を貸し、貧民に物品を売り以て生活し居るが故に、貧民はその商売上の福神なることを知ると同時に、貧民にあらざれば、かくの如き長屋、かくの如き高金利及び物品を借り又は買わざるものたることおも亦之明知せり。仍てもし貧民に全く立退かれてはとの恐懼心、常に胸裏に浮かび居れ」るが故の反対であった(大阪百年史より)

 明治23年に日本新聞の桜田文吾記者が、行商の飴屋に化けて名護町に潜入した時の記録(貧天地飢寒窟探検記)によると、

――広さ4畳半ほどの室の入口には、

 @245ばかりの男がふんどし一つで泥足のままねそべっている。

この家のせがれで、定職はなく、市中の便所掃除やコレラ死体のかつぎ人夫になる。部屋のうす暗い方には、

 A70くらいの婆さんが、マッチの箱貼りをしている。たまたま側にいる

 B4才くらいの孫がそれによだれをたらす。婆さんは怒って、孫をつかみ、かさ(瘡)だらけの頭をげんこつで2つ3つたたく。それでなくても痛む頭をなぐられたので、孫は手足をふるわせて泣き叫ぶ。そのそばには、

Cこの家の主婦が長患いのため何もできないまま、敷物もない破れ畳の上に壁に向かってねている。しかも、その腕には

D当歳の乳呑児がだかれている。流し口の方には、

E15ほどの姉娘と

F12ほどの妹娘がこしかけている。姉はたもとの上に三味線をおき、妹はやぶれ扇を手にして柱にもたれている。姉は難波新地へ行くといい、妹は島之内に限るといって、しきりに行き先を争っている。さても多人数だとおどろくと、まだまだいるのだという

G父親は紙くず拾いだが早朝から出かけている

H祖父は乞食で、彼岸をあてこんで天王寺に行き今はルス、その他にも同居人の12人は絶えないという。と

I同居人の一人が帰ってくる。石炭酸のにおいをぷんぷんさせている。こんどは路地の入口から管竹の音をさせて

Jいま一人の飴売りの同居人が帰ってきた

正に驚くべき光景というべきだろう。四畳半に11人、まるで江戸時代の牢獄なみだが、都市の近代化の歩みと逆行する貧民窟の拡がりと、貧民層の増加は、いよいよ放置できぬ問題となってくるわけである。

○明治21年時事新報社記者鈴木梅四郎

 「大阪名護町貧民窟視察記」都市下層社会より

1)名護町貧民の戸口表
町名 戸数 人員
名護町3丁目 709 2,531 1,324 1,207
4丁目 732 3,127 1,528 1,599
5丁目 813 2,874 1,455 1,419
2,254 8,532 4,307 4,225

2)名護町貧民の職業
職業名 15年未満の男 同左女 15年以上の男 同左女 男女計
普通商 80 66 169 162 477
質古物 21 15 87 49 172
79 68 271 175 593
菓 物 6 26 56 58 146
飲 食 7 14 37 34 92
貸 物 12 11 39 28 90
工 業 26 25 226 115 392
輓 夫 0 0 330 0 330
3 0 39 63 105
マッチ 122 257 51 211 641
被 雇 143 102 374 203 822
遊 藝 10 18 64 43 135
屑 拾 234 261 164 433 1,092
無 業 556 709 67 384 1,716
雑 業 72 54 628 352 1,106
学 生 88 54 0 0 142
乞 食 159 123 87 112 481
1,618 1,803 2,689 2,422 8,532

 明治10年代末期あたりから、人が住みはじめたものと思われる。明らかにスラムは、大阪市から今宮村、木津村へと南下している。

 いよいよ釜ヶ崎地区へのスラムの移動を見るわけだが、明治20年代は、まだ名護町がスラムの主地域であった。

 明治3041日、大阪市の第1回市域拡張が行われた。これによって、従来の南端であった高津入堀川から、関西電鉄(現国鉄環状線)まで市域が拡がった。つまり、今宮村の(処々に貧民長屋ができている)地域は、そっくり大阪市に編入されたわけである。

 そのまま、何の布令もなく年月を過ごしていくならば、スラムは遅々とした歩みで鉄道を越えて、周辺の市街地に浸透したであろうけれど、時代の要求が名護町スラムに、ピリオドを打つこととなった。

 明治31426日、大阪府令36号、大阪府宿屋営業取締規則(第37条)で「木賃宿は大阪市、堺市(並松町を除く)に於いて営業を許さず」と規定された。元和5年、時の東町奉行が名護町(長町)に木賃宿設置を許してから、実に280年目に当たる。

 市域拡張で、今宮村の北の部分が大阪市に編入されたわけだが、地名はしばらくの間そのままにおかれて、明治3341日になって、はじめて町名改称がなされたのである。いいかえると「明治3341日」で「釜ヶ崎」という名は永久に消滅した。(ママ:釜ヶ崎地名の消滅についてはQ&Aを参照して下さい)

 

「釜ヶ崎」の地域を推定するに次の説がある

@西成区史(川端直正説)

 釜ヶ崎の地名については、明治3341日の町名改称で、字水渡、同水渡、同水渡釜ヶ崎、同釜ヶ崎の反別弐町八反壱畝八歩を区画として水崎町」と改称するとあり、釜ヶ崎の町名は、この時から公には消滅している。しかもこの水崎町は関西線以北であるから当時の南区であり、何故に関西線以南の今宮村区域(現西成区)にこの釜ヶ崎の俗称が残ったのか、その理由は明らかでない。〜現在のあいりん地区と昔の釜ヶ崎とは何ら関係がない〜

A釜ヶ崎(郡 昇作説)

 自書の中で「現あいりん地区(全部ではない)が釜ヶ崎であった」という古人の言葉を引用している。釜ヶ崎の南端が鉄道線(つまり一直線)とは考えられない。おそらく、現在の東西入舟町にまたがっていたと考えられる。

B川知圭介説(会誌「裸」による)

 郡説を正しいと考え、追論している。

 今宮町志(p299)に、当時(大正8年)現在の東西入舟町即ち釜ヶ崎は40余軒の木賃宿−云々という字句が見えるし、同じく社会事業の中の家庭訪問及部落改善事業の項に“旧釜ヶ崎一円”という文字が見える。それに、大正年間から現在に至るまで、この地で暮らしてこられた古老の話をきくに、現在、釜ヶ崎銀座とよばれる、西成警察署前の通りの、入船温泉近くに、「釜ヶ崎巡査派出所」があったという。また、今宮村時代の部落名を調べても入船という字名はでてこない。これは今宮村再編成の時か、あるいは大正年間に町制が布かれた時に、新たに命名されたものと考える。〜旧釜ヶ崎は、現在の浪速区水崎町の西成区寄りの部分と現在の西成区東・西入船町であったと推定する〜

 

「釜ヶ崎」がスラムになった説

@

 明治3631日から731日に至る5ヶ月間、現在の新世界を中心に第5回内国勧業博覧会が開催された。千里丘陵の竹林が万博会場となったように、当時人里離れた幽境であったこの辺りが、外国からも出品参加する博覧会場に変わるというのだから、機械力の発達した現代とちがい、大変な工事だったろう。万博の時にも万博道路といわれた道路網が急ぎ整備完成されたが、この時にも日本橋筋が市内から会場へのメーン・ストリートと決められた。これがため、日本橋筋の表通りからは、見苦しい建物は除かれ、貧民たちは立退かされた。この立退きが釜ヶ崎にスラムができた主原因であるという説がある。

A川知圭介説(「裸」)外

 名護町スラム移転は明治10年代からの懸案であり、明治31年には、市内での木賃営業を禁じている。それに明治10年から19年に至る間、大阪市内で毎年コレラの大流行があった。その患者の多数が名護町、長柄地区といったスラムから発生している。色んなことでスラムの人たちは立退かねばならぬ事態に追いつめられていた時に、たまたま博覧会開催となったのである。この時も釜ヶ崎への移住より、むしろ、現在の浪速区広田町、高岸町の方へ多く移住している。

 横山源之助著「日本之下層社会」によると

 ――名護町の面目以前に比して一変せりというも、名護町的貧民が大阪の社会に消滅せりというにあらずして、其の半ば場所を変じて今日は天王寺村、今宮村、難波村の各所に移り第二の名護町を作りつつあり――つまり、明治30年代に入った時から、すでに各所への第二の名護町を作るような移動がはじまっていたわけである。

 

 明治40年代に入ると、釜ヶ崎は名実共に「第二の名護町」と呼ぶにふさわしいスラムができ上がっていた。主として現在の東入船町とその周辺の土地だが、名護町のあの悲惨な状態がここに再現されたのである。しかし、江戸時代とちがって、年々社会機構が近代化されて行く時に、またスラムが社会問題として取り上げられはじめた時に、為政者が手をこまねいて、これを傍観することは許されなかった。現在のように、民生、福祉といった部門のなかった時代に、まず手をつけたのは、警察である。自彊館創立者の中村三徳は「生い立ちの記」によると

――忘れもせぬ明治44年の春のことである。ある日、内務省その他から社会事業関係の一行が視察にこられて、池上警察部長も同行された。当時保安課長であった私は、その案内役を仰せつかって、現在の今宮釜ヶ崎方面を戸別訪問したのであるが、大きい宿には100人以上も宿泊していた。その木賃宿を450軒も出たり入ったりしたが、中には暗室のように暗くて、昼でも人がいるのかいないのかわからぬ部屋が多かった。便所が1ヵ所で屎尿が溢れ出ている。通路は田のように泥濘(ぬかるみ)である。一行は顔をしかめながら「とてもヒドイ、なんとか出来ぬものか」という語が何処からか出た。このなんとか出来ぬものかという一語が、大阪自彊館の生まれる動機となった。−(中略)−曽根崎、難波両警察署の払下げ古材などを合わせて、いよいよ施設の建設に着手したが、毎夜暴徒が出没して工事場を荒らし投石などして、完成の暁は焼打だと豪語する。調べてもらうと、こんな近所に無料やど屋を建てられては「釜ヶ崎の喰いあげだ」と誰かの煽動と判明した――。

 明治18年に、連合村会が名護町移転を取り上げた時、時の家主がこぞって反対したのと、その肚は同一だということだ。いつの時代にも利害の対立はあるものだが、とにかく有志の協力によって私立大阪自彊館は落成し、釜ヶ崎の社会福祉の歴史の第1頁を飾ったのである。時に明治45925日。かくして時代は明治から大正へと進み、今宮村は今宮町と発展し、釜ヶ崎は貧しき人々の群れに、年ごとにふくれ上がるのである。