釜ヶ崎総合年表 1940年代


1940(昭和15)年

1月26日
大阪自彊館 理事長 杉本 又三郎 死去
3月25日
大阪自彊館 中村 三徳 理事長就任
4月24日
米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖など10品目の切符制決まる
7月 「本市における密集地区調査」(大阪市社会部・社会部報告246号) 釜ヶ崎地区
斜線部分の中が密集住宅地で、釜ヶ崎地区と表記されています。・南海鉄道天王寺線に「だいもんどうり」「ひきふね」の駅名は見えますが「いまいけ」はありません。・今池町のとなり山王町は住吉区であったことが分かります。・「だいもんどうり」駅の左に今宮保護所があります。その上に東田町の表記の上にある字のつぶれた○は、派出所で、 年暴動の切っ掛けとなった交通事故の起こった場所です。・南海電車阪堺線「いまいけ」駅の左に、今宮消防署・今池劇場。消防署の南に今宮診療所がありますが、これは済生会今宮診療所ではなく、「邦寿会今宮診療所」です。済生会今宮診療所は大正 年以来浪速区貝柄町にあり、この地図の作成時は今宮病院となっています。邦寿会今宮診療所は昭和 年までは所在が確認できています。・三角公園は空き地としても確認されません。・今宮警察署の西に聖心セツルメント、その上に徳風勤労学校。今宮警察署の上にある「○派」は、釜ヶ崎派出所。・今宮第 尋常小学校(現萩之茶屋小学校)の上に、四恩学園、今宮労働紹介所(今宮住宅−昭和4 年創立−が見えないのが不思議です)があり、その東に清和寮とあります。・省線関西線と南海本線の交わった左上が浪速区貝柄町、成器商業学校とあり、その西が宮津町、今宮乳児院・今宮共同宿泊所とあります。 余談ながら、序言には、「本図集は昭和12年度小額給料生活者失業応急事業の一として実施したる本市に於ける不良住宅地区調査報告書の別冊である。」と記されています。
8月
大阪自彊館 創立30周年記念事業として本館増築工事(186坪)に着手
9月 大阪市 城東報国寮 設置
青年軍需労務者の心身鍛練と生産能率増進をはかるために建設されたもの。16年3月木津川報国寮、同5月北港報国寮、同8月千舟報国寮が開設された。木津川報国寮は木津川宿泊所を転用改築したもの。(民生事業40年史)(共同宿泊所は)昭和15年頃から軍需産業が異常な活況を呈し、労務者の収入も増加するとともに利用者も減ってきたので、今宮、西野田の両宿泊所を廃止して、長柄、鶴町、湊屋及び海員宿泊所の4つとしたが、その後湊屋宿泊所は焼失し、鶴町宿泊所は疎開廃止、海員宿泊所は大阪港振興会社に譲渡したので、終戦の際には長柄宿泊所を残すのみとなった。(民生事業40年史)
9月11日 部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)
第一 目的
一 隣保団結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ万民翼贊ノ本旨ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト二 国民ノ道徳的錬成ト精神的団結ヲ図ルノ基礎組織タラシムルコト
三 国策ヲ汎クく国民ニ透徹セシメ国政万般ノ円滑ナル運用ニ資セシムルコト
四 国民経済生活ノ地域的統制単位トシテ統制経済ノ運用ト国民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ発揮セシムルコト
第二 組織
一 部落会及町内会
(一)市町村ノ区域を分チ村落ニハ部落会、市街地ニハ町内会ヲ組織スルコト
(二)部落会及町内会ノ名称ハ適宜定ムルコト
(三)部落会及町内会ハ区域内全戸ヲ以テ組織スルコト
(四)部落会及町内会ハ部落又ハ町内住民ヲ基礎トスル地域的組織タルト共ニ市町村ノ補助的下部組織トスルコト

9月27日
日独伊三国同盟調印
9月30日
大阪自彊館 泉尾公益質屋を大阪市へ譲渡
10月12日
大政翼賛会発会式
10月 大阪府私設社会事業連盟規約・名簿(昭和15年10月31日発行) に見る
会長 成瀬 達(日本生命済生会 西区立売堀南通)/理事 浜田光雄(朝日新聞社会事業団 北区中之島3丁目)、林 文雄(四恩学園 西成区東入船町23)、冨田象吉(石井記念愛染園 天王寺区北日東町41)、小倉源二(大阪基督教青年会社会部 西区土佐堀通2丁目)、吉村敏男(大阪自彊館 西成区西今船5)、松尾純雄(大阪毎日新聞社会事業団 北区堂島2丁目)、森田潮應(四天王寺施薬療病院 天王寺区元町))
名称               事業種別   代表者       実務者         所在地         最寄り停留所
(財)石井記念愛染園   医療其の他   冨田象吉      冨田象吉     天王寺区北日東町41      日本橋筋5丁目
(個)生野セツルメント   保  育      八田勝三      八田豊子    東成区南生野町2丁目      市バス源ヶ橋
(財)博愛社         育児其の他   小橋カツエ     小橋カツエ    東淀川区元今里北通1丁目65 阪急十三
(会)累徳学園       隣  保      二条誓康      小出智貞     天王寺区大道5丁目41     省線寺田町河堀神社前
(財)大阪汎愛扶植会   育児其の他   岩本文助      岩本文助     東成区林寺町2丁目66     市バス生野中学校前
(財)大阪養老院     養  老       岩田民次郎    岩田民次郎    住吉区旭町3丁目24      南海阿倍野
(財)大阪婦人ホーム  婦人教化      林 歌子      田中恭子     北区中之島6丁目6        堂島大橋
(財)大阪仏教和衷会  司法保護      木下寂善     松岡良友     北区山崎町26           山崎町
(財)大阪自彊館     隣保其の他    中村三徳     吉村敏男     西成区西今船町5         南海曳舟
(会)大阪盲人会     盲人保護     中村三徳      坊農丑松     東成区鶴橋北之町2丁目131  鶴橋南約一丁
(個)八尾隣保館     隣   保     中村三徳      中村三徳     中河内郡八尾町大字成法寺  大軌八尾
(会)四貫島セツルメント 隣   保    賀川豊彦      吉田源治郎    此花区四貫島大通3丁目7   四貫島大通り3丁目
(財)四恩学園       隣保其の他   長谷川順孝    林 文雄      西成区東入船町23        霞町

1941(昭和16)年

   大阪市 市民館を 内職斡旋所へ
昭和16年ごろから政府の物資統制はますます強化され、一般民需の加工は減少したが、軍需加工品は厖大な量となり、他方一般家庭の内職普及を強化する必要から大正市民館ほか9市民館を内職斡旋所として生産増強と勤労精神昂揚を図った。(民生事業40年史)
2月 大阪府 住宅課新設
労務受給の適正配置上重要性を増した住宅供給事業の所管課として(民生事業40年史)

2月1日 職業紹介所官制改正により改称。(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)
    大阪職業紹介所天王寺出張所→改称→大阪国民職業指導所天王寺出張所

     西成労働紹介所→改称→大阪国民労働指導所西成出張所

2月16日 朝日新聞−頼もしい釜ヶ崎変貌 生産陣へみな出払い
 かつて大繁盛した無料宿泊所が 産業報告の声に 次第に宿泊者がなくなり、ここばかりは嬉しい転業や閉鎖、
これは全国的の現象だが 大阪でも市立鶴橋、木津川寮保護所が閉鎖し 残る無料宿泊所は今宮保護所一つだけ、これも利用者が漸減し 明るい光をなげかけている、
 それと同時に「太陽のない街」として大阪の一隅に長年不名誉な存在をつづけてきた貧民街今宮釜ヶ崎の昔からの「名物」がつぎつぎと姿を消し「釜ヶ崎の変貌」が伝えられている。
 例年2月は 一年中で保護所がいちばん繁盛する時だ、数年前今宮保護所だけでも 毎日のように500名を突破したものだが、今年は鶴橋、木津川の両保護所が閉鎖されたにもかかわらず 僅かに100余名という隔世的な数字、
 しかも現在員は50歳以上のもの、病人と幼児が殆ど全部、働ける者はどんどん産業戦線に新生を見出して、同じ家を持たぬ者でも 金を払って泊まる簡易宿の方へ転向している、このため73軒の簡易宿は5〜6千人で毎夜満員という盛況だ。
 職業では 釜ヶ崎名物といわれたチンドン屋と屑拾いが全く消えた、屑拾いがなくなったのは 廃品の利用更生に目覚めた各家庭で 塵箱へ捨てるものが少なくなり、商売にならなくなったためもあるが「この時局柄 屑拾いでもあるまい」という自覚がたかまつてきたものだ、大多数の屑拾いが 工場労働者となっているのも素晴らしい飛躍である、
 辻占売り、猿回し、尺八吹きなどの非生産的職業がなくなったのもうれしい、
 それに現在西成区東入船町南北両町会および同西入船町会では1,800の貯金通帳があって 平均一日40円、一ヶ月1,200円を萩ノ茶屋郵便局へ貯金しているというから貯蓄報国ぶりも大したものである、
 また露店商人49名は この元旦から一日20銭の資金更生貯金をはじめたが、現在すでに584円40銭に達した、
 そして 簡易宿も宿泊所も露天商も 打って一丸となって3町会90隣組を作り、今まで賭博検挙の行われていた簡易宿の部屋で 毎晩のように 組常会が開かれ 釜ヶ崎の変貌に異彩を添えている
7月 大阪府警察部健康保険課が警察部保険課となる。
8月   簡易宿 宿泊料金表(簡宿組合「20年の歩み」)
11月1日
大阪自彊館 創立30周年記念事業の本館木造2階建1棟増築竣成 (延182坪、110人定員)
入館者とみに少なく、中山製鋼所(羽広労務部長)との話し合いにより、修養道場として一部を提供 (修養期間6ヵ月、宿泊料1人15銭)

1942(昭和17)年

3月10日 厚生省告示第106号により国民職業指導所の名称変更(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)
     大阪国民職業指導所天王寺出張所→改称→阿倍野国民職業指導所
     大阪国民労働指導所西成出張所→改称→阿倍野国民職業指導所西成分室

5月 地下鉄 大国町−花園間開通
7月25日 戦時災害保護法公布 4月30日実施
?月 大阪市社会部 市民局に組織変更
10月10日
大阪自彊館 半島人移入労務者保護訓練所 開設 (収容200人)
11月 大阪府学務部社会課 再び 内務部社会課となる
大阪市方面委員取り扱い状況(民生事業40年史)
 年度   取り扱い件数   登録カード階級数  
第1種   第2種  計
 昭和15年   142,207  世帯   7,087  12,497  19,584
 人口  22,615  52,328  74,943
 16年   132,430   世帯  7,003  11,623  18,626
 人口  21,638  48,797  70,435
 17年   135,398   世帯  6,236  9,426  15,662
 人口  19,014  39,311  58,325

    (備考)第1種とは「公私の救助を受くるに非ざれば生活困難なるもの」
       第2種とは「辛うじて自活し得るもの」
       (数字は昭和大阪市史第6巻社会編による)

1942年 航空写真
▲中央やや左、白っぽく見えるのは徳風国民学校の校庭か?。その右上、広い空き地が見えるのは萩之茶屋小学校の校庭か?。霞町から南に延びる道路と白線の交点あたりが今宮保護所かと思われる。

1943(昭和18)年

11月4日 大阪市 戦時災害保護事務取扱規程 制定 
4月 大阪市 全面的分増区を実施、22区に改編。
12月 大阪市 臨時防空施設部を設ける
12月 大阪府内務部社会課を 厚生課と改称
同時に、警察部が警察局になり、社会保険関係は警察局警務部保険課となる。


1944(昭和19)年

3月1日 勅令980号により「職業指導所」が「勤労動員署」となり、内務省の所管となる。(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)
     阿倍野国民職業指導所→改称→阿倍野国民勤労動員署
    
阿倍野国民職業指導所西成分室→改称→阿倍野国民勤労動員署西成分室

5月 大阪市 臨時防空施設部を臨時疎開事業部と改める
4月 財団法人弘済会 大阪市に移管される
4月  長居公園供用開始
10月1日 大阪市保健局に防空救護課設置。区役所の庶務課を廃止し、防衛課を新設。
12月  大阪市 罹災者救援基本計画 を立てる。
(1)罹災者の救援は現に罹災のため住居を失い罹災者収容所に収容したものに限定。(2)上記罹災者最大限30万人を目標として各般の措置をとる。(3)防空実施の必要により立ち退きを命ぜられた者で縁故先を有しない者、または縁故先を有するも直ちに出向くことができないものについては、この計画に準じて救援する。
/災害が大規模で罹災者が多数発生した場合は、罹災者を市外に送り出すため大阪府の罹災者避難要綱による知事の避難命令が発動される。
「罹災者避難」の総合計画は市民局長が行い、実施は区長。区長は19年3月に実施した防空市民調査に基づき避難の円滑を期し得るよう計画準備する。計画目標は491,327人(78,000人を和歌山県、77,000人を奈良県、95,000人を滋賀県に送り出し、その他は府か市町村へ収容する)
基本計画による救援業務実施系統
大阪市防空本部(本部長市長)−区防空本部(本部長区長)−町会連合会救援本部(本部長町会連合会長)−町会各班(指揮者町会長)
3月13日第1回大空襲時 町会連合回数−271、町会数−3,152、隣組数−6万260
          終戦時  町会連合回数−179、町会数−1,710、隣組数−2万8,000(民生事業40年史)



1945(昭和20)年

1月3日 大阪初空襲(以後3月5日迄局所的空襲続く)
3月 大阪府内務部厚生課が 援護厚生課となる
4月に民生課を分離、8月に再び厚生課となり、21年2月に民生課を合併、22年8月に児童課を分離。
3月7日 大阪市教育局に学童疎開部を設置
3月13日〜14日 50万近い罹災者、焼失倒壊戸数 13万戸
3月13日〜14日未明にかけて大阪全体も空襲に遭い、釜ヶ崎一面も焼け野原と化し、環状線に沿って立ち並ぶ家屋や宿だけが残っていた。そんな中、裸一貫から簡易宿所を経営する人も居られた。(簡宿組合40年の歩み)
3月13日空襲で焼失した聖心セツルメント。現在の西成警察裏公園。不確かですが、環状線に沿って立ち並んだ家屋が焼け残って事、市営今宮住宅は残ったことを考え合わせると、南方向から北に臨んで撮影したものではないかと思われます。(写真は「大阪における愛徳姉妹会の社会福祉事業50年史」冨田一栄編・社会福祉法人愛徳姉妹会・1984年12月刊より)
 甲岸町12番地にあった「大阪市徳風国民学校(旧大阪市立徳風勤労学校)」も講堂を除いて焼失。1946年3月萩之茶屋小学校と合併、廃校となります。講堂は一時「進駐軍労務紹介所」として使われたと細見さんは書いています。「阿倍野公共職業安定所西成労働出張所」(1948年6月発足)が、甲岸町から東萩町に新築移転したのは1950年ですが、移転前の甲岸の場所が焼け残った講堂であったかどうかは未確認です。
  「阿倍野公共職業安定所西成労働出張所」は、1966年4月に「大阪港労働公共職業安定所西成出張所」(港湾労働法施行により)と名称変更され、1970年3月に廃所されています。同年4月からは、あらたに発足した「あいりん労働公共職業安定所」の仮庁舎として使用され、「あいりん労働公共職業安定所」が同年10月に「愛隣綜合センター」に移転した後は「あいりん労働公共職業安定所分庁舎」となりました。現在、釜ヶ崎支援機構お仕事支援部が使用している建物は、建設当時そのままです。
3月14日
大阪大空襲のあと大阪駅構内に 大阪市 「戦時相談所」設置。その後、8月15日市民案内所、11月1日梅田厚生館となる。
基本計画に従い、国民学校等165ヶ所を罹災者収容所として開設、被災者28万9,358名を収容(注:ちなみに1ヶ所当たり約1,753名となる)。区役所および各ターミナル駅には罹災者相談所を設け、罹災証明書の発行等応急援護にあたった。(民生事業40年史)応急収容所に収容した戦災者も8日目には無縁故者2,980名を残し全員退所した。無縁故者は府と協力して滋賀県へ1,892名、奈良県へ1,088名を集団疎開させた。
3月25日 大阪市戦災復興委員会設置。委員長は大阪市長。
3月27日 大阪市市民局に戦災救護部を設け企画・救護の両課を置く。
罹災者援護対策の企画・調査・研究・救護業務の統制、指導。収容施設の管理、運営、物資の調達、管理、配給、斡旋、戦時災害保護法による保護等にあたる。(民生事業40年史)
4月   弘済院長柄分院開設
大正15年2月25日長柄宿泊所創設(定員440人−戦時中一部を日本間に改造し、定員260人変更。)
昭和20年4月 弘済院長柄分院開設(病院・養老・育児事業)。21年10月養老事業廃止。23年1月育児事業廃止。40年4月分院の事業廃止。
昭和31年5月1日 3階日本間を改造し、生活保護法による宿所提供施設として長柄寮併設(定員220人−1〜2階は共同宿泊所)、大阪市民援護事業団に経営委託。42年4月1日 収容人員の減少に伴い、定員150人に変更。
昭和41年 中央更生相談所開設。付属病院を併設。
6月1日 空襲 罹災者 21万人 7日 罹災者 19万人 15日 17万人
20数回にわたる空襲 大阪市の罹災者総数−1,135,140人(死者10,388人、重軽傷者35,543人) 焼失倒壊戸数310,955戸(民生事業40年史)
8月  大阪自彊館 保育所を主とする隣保事業を廃止(取扱延人員40万人)共同宿泊施設を閉鎖
保育園は、昭和19年夏以降は付近の住民は疎開離散して20年3月の大空襲以後は自然閉鎖に形となって淋しい終焉を遂げた。(大阪自彊館だより・第6号・むかし話・吉村敏男)
8月
大阪市 「戦時相談所」を「市民相談所」と改称
8月15日
大阪自彊館 半島人移入労務者保護訓練所入所者帰国
9月  大阪市 外事課 創設
渉外事務を統括処理するとともに、市行政、事業各部門と占領軍当局との連絡機関として発足。(大阪市政年鑑昭和25年版)

9月26日 大阪への進駐軍 和歌山から上陸開始(1945.9.26。大阪朝日新聞)

10月 厚生省に社会局が復活
10月1日大阪自彊館 戦災浮浪者保護事業開始
進駐軍の命令により、大阪府・大阪市が大阪駅周辺で実施。成人男性200名保護(自彊館小史は、その当時の様子を次のように書き記しています。
『 昭和20年9月 17日、大阪府厚生課長の私信を持った課員が徒歩で駆けつけた。「こんど進駐軍の命令で大阪駅の戦災浮浪者を整理することになったが施設が焼けて手の施しようもない。とくに成人男子の措置に困るので奮起を願いたい。」 同月 24日府庁第一委員会室で「浮浪者保護打合会」が開かれ新井知事、内政、治安両部長のほか、府市関係官を含めた会議となり、成人男子二百名の収容を引き受けて 10月1日事業を開始、全国に魁けて戦災浮浪者の収容保護に先鞭をつけた。 曽根崎警察署に集結させられた人達を点検して、当館まで地下鉄のただ乗り輸送を許されて便益を得たが、やや落ちついた 11月の初旬に、収容者百余名を引率して大阪駅地下道の清掃作業に奉仕した。飾り窓の中まで糞尿の山であったがその山を崩すと死体が幾つも現れた。 健康診断には阪大医学部から「栄養失調」の研究を兼て非常な助力を戴いた。収容者の八割は病人であった。入館の手続き中に落命した不幸な老人は阿倍野墓地へ手厚く葬った。まずお棺の製造である。倉庫内の板切れを継ぎ合わせ、何とか格好をつけて、火葬用の割り木と共に荷車に積んで、巻きゲートル姿の職員と使丁が、称名念仏を唱え、秋雨にぬれながら飛田の坂道を東へ運んだ。翌日もまた死人である。五人が続けて死んだ。実は瀕死の人を収容したのである。お棺造りの板切れも欠乏したので長持三悼を潰してその材料としたが、少数の職員で葬儀つづきには皆泣かされた。 若者が急死した事件が起こった。新世界のゴミ箱からフグの腸を拾って缶詰の空き缶で炊き喰いをやったとの話。 』
10月5日  勅令560号により「勤労動員署」が「勤労署」となる。(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)
  阿倍野国民勤労動員署→改称→阿倍野勤労署
     阿倍野国民勤労動員署西成分室→改称→西成日傭勤労署(旭南通から甲岸町32に移転)
10月5日 大阪市戦災者調査(10月5日現在大阪市在住者)
戦災者=112,733世帯、349,135人(当時の人口の31.7%) うち、一応生計普通と認められる世帯82.4%、生計豊かな者8.6%、生計困難なもの9.0%(10,108世帯)。壕舎生活者は7,828世帯、25,960人。/区別では、西成区9,734世帯(総数の8.6%)が最高。人口では東淀川区の34,652人(総数の9.9%)が最高。西成は4位。浪速区は世帯846世帯(0.8%)、人口2,949人(0.8%)で共に最低。被害の比較的少ない周辺部に多く、中心部、臨港地帯等被害の多かった地区に少ないのは当然であろう。(民生事業40年史)丙世帯を一応救済の対象とした。現住戦災者数と生活程度丙と認定されたものとの比率を見ると浪速区の世帯35.7%、人口の33.1%が目立つ。
10月25日 連合軍「清掃」の命令/餓死者続出、不潔極る大阪駅(朝日新聞)
98師団ベスナー少佐は早速同所(大阪駅)を視察し 見かねた末24日曾根崎署を訪れ伝染病発生のおそれありとその善処かたを申し込んできた、それに対し山内曾根崎署長は語る
 ガード下の清掃は市と連絡済みで 明日にでもやりたいと思っているが 浮浪者の問題は困った問題である、現在収容所としては西成区で財団法人の自彊会があるだけで、これとても収容人員250名、しかも男だけである、今までは全部そこへ送っていたが同所も満員になっている始末、
 市の経営している収容所は長柄にある弘済院をはじめ若干あるが、これは私が巡査当時から行われている古い法律が適用され「行路病人」だけしか収容されないという始末である、結局、市がこれら浮浪者収容施設の増設に積極的に乗り出してもらうのが解決の一方法である。
11月 住宅緊急措置令(勅令641号) 公布
11月23日 朝日新聞 殖えゆく餓死者/大阪の浮浪者1万人
「瑞穂の国」日本は飢えつつある、暗澹たる「死の行進」が徐々にではあるが既に始まっているのだ。飢餓にたふれる人の数は日を逐うて増えつつある。以下東京、大阪をはじめ全国主要地の飢餓状況を報告する。
大阪/大阪警察局情報係最近の調査によると 本年8月以降の大阪市内における餓死者の状況は次の通りで次第に増加の一途を辿っている。
 8月60名、9月67名、10月69名で 男女別に分けると男150名、女46名で 男の餓死者が圧倒的に大多数を占めている、11月は完全な調査が行われていないが 15日現在における大阪駅付近だけでも既に42名の餓死者という驚くべき数字だ、
死亡原因を探求してみると悉くが絶食、食不足、粗悪食事、不規律、不衛生的摂食によるもので 文字通り栄養失調に起因した餓死者である。
 大阪駅前広場をはじめ天六、鶴橋駅、野田阪神、天王寺駅、飛田遊廓付近、難波駅から寺田町などの浮浪者群を総合するとざっと1万名になろう。しかもこれらの約半分は復員軍人であるという事実を凝視せねばならぬ。
 復員者達が口を揃えて語るところは 当初立派な体をもつて労働に就労する希望と意思とを持っていた、けれども工場で働く日給2円や3円ではどうしても生きていけない、
 彼らが帰還当初駅頭では小さな握り飯は2個が10円、真面目な会社働きでは到底食べていけない、彼らは闇市場に入って買い出しの仕事を受け持った、買い出し手当は大抵1日30円、だがこれだけでは1日の食にも足りない、1個15円のパン2個しか食べられないのだ。
大阪市駅とその周辺における死体処理件数(昭和20年8月〜21年8月)
昭和20年
8月 
 9月  10月  11月  12月  昭和21年
1月
 2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月
 46体  100体  64体  58体  53体  87体  85体  82体  26体  51体  26体  53体  11体

     ▲民生事業40年史(元資料は「大阪市社会保険事業要覧、昭和24年版」と)

11月30日 アベノの闇市整理(朝日新聞)
西成署では阿部野橋中心の闇市を整理のため 29日付近の顔役と協議の結果△露天を交通妨害にならない空き地にひっこめ、道路を清掃し 予定地として今池市場、霞町及び東田町周辺の三点に定め、△せり上げ市をおこなわない△主食糧は売らない△露天賭博をやめるなどを協定した
12月 大阪府内務部保険課 発足
警察局警務部保険課が衣替えしたもの。保険事務が警察の手を離れることとなる。
12月14日 総司令部覚書「救済並びに福祉計画の件」
翌年1月から6月までの臨時措置を指示したものに過ぎないが、先ず第一にその最初に記された「失業者及びその他貧困者」を対象とする字句により、戦前の救護立法が永く持ちつづけて来た労働力なき者乃至経済秩序外的対象という旧観念が破られ、第二に最低生活の維持および差別待遇の禁止という字句において、いわゆるレス・エリジビリティを廃止し、且つ生活困難に陥った原因により差別を設けることが強く禁止される民主的なものであった。(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊308頁)
12月15日 生活困窮者緊急生活援護要項、閣議決定(翌年4月1日から実施予定)
実物給与を主とする極めて応急的なもので、実施機関は「都道府県の計画に基づき市町村長をして当たらしめ」、「実施に当たりては其の徹底を期する等、特に全国方面委員を積極的に活動せしむるもの」と旧来の機構に頼っている。(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊308頁)
12月下旬 大阪市 方面委員制度の拡充
方面委員制度を町会組織に直結せしめることとし、方面委員には町会長または町会役員を充て、町会連合会長を主として地区委員長とし、更にその上に方面常務委員を置き、区長の行う諸般の援護事業の事務補助機関とした。「大阪市社会事業要覧昭和23年版」(民生事業40年史)
12月31日 厚生省 12月14日付総司令部覚書に回答
最低生活を保障することを目途として現行の救護法、軍事扶助法等の各種援護法令を全面的に廃止して「新に国民援護に関する総合的法令を制定し国民の生活保障を法律により確保する」こととし、「新に有力なる民間援護団体を設立す」ること、「援護は標準世帯(家族五人)に付月額200円を限度とすること」等を回答し、生活保護法と同胞援護会設立の準備をすすめることとした。(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊309頁)

1946(昭和21)年

1月 占領軍 「日本における公娼廃止に関する件」の覚書
1月 大阪駅市民案内所設置
(梅田厚生館前身)

2月 部落解放全国委員会 結成

2月 大阪市市民局廃止、社会部の名称に復帰
2月 大阪市 内職斡旋所 廃止、3施設を授産所に転用
22年3月には独立授産場6ヶ所(中央、衣料更生、西淀川、旭、東住吉、生野)、母子寮津設授産場1ヶ所(住吉)となる。23年2月独立授産場に保育部併設。24年4月より市民館付設授産場も復活。(民生事業40年史)/城東・福島・東成各内職斡旋所を市民館に戻す。
2月  恩給法の特例に関する件(勅令68号)
傷病恩給を除き、軍人、準軍人およびそれら遺族に対する恩給の停止。
2月27日 「連合国最高司令部SCAPIN755」覚書 12月厚生省回答を認めず
「政府としては、ここにその構想を根本的に練り直す必要に迫られたので、とりあえず緊急の必要に応ずるため先に決定した生活困窮者緊急生活援護要項を右の覚書の趣旨に適うように工夫を加えつつ四月一日から実施すると共に、・・・統一的公的扶助の基本法規としての生活保護法案を準備し得るに至ったので、これを第九十国会に提出(小山進次カ「生活保護法の解釈と運用」116頁、昭和25年)(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊309頁から孫引き)
3月 大阪市 生活困窮者緊急援護実施要領を定める。
20年12月 閣議決定された生活困窮者緊急生活援護要項に基づくもの。(民生事業40年史)
3月 大阪市徳風国民学校廃校
萩之茶屋小学校との合併による。
4月  阿倍野区未亡人白菊会 結成
以後各区に未亡人会が組織される。西成区未亡人会は 26年5月22日結成。(民生事業40年史)
4月 大阪市法令別救護人員(民生事業40年史)
法令の種別    昭和20年度1ヶ月平均 21年度4月
 実人員  %  実人員  %
 総   数  3,351,867  100.0  1,605,670  100.0
 救 護 法  93,327  2.8  60,442  3.8
 母子保護法  85,392  2.5  45,128  2.8
 医療保護法  193,586  5.8  7,713  0.5
 軍事扶助法  2,979,562  88.9  1,029,714  64.1
 戦時災害保護法  -  -  462,693  28.8
6月   大阪市 知識階級失業救済事業開始
復興、調査事務その他事務補助に就業。(民生事業40年史)
6月25日 大阪市、行路病人に救護法適用開始
行路病人として各施設に収容したが、行路病人取り扱い手続きに規定された金額では、食費にも足らないので、救護法の要救護者として取り扱うこととした。(「民生事務必携」大阪市労務局 1950年1月25日刊・103頁)
5月15日 大阪市 職業補導所開設
終戦後の社会情勢の激変にともない生じつつある転失業者、復員者その他の者に短期間の職業再教育を施して就業の機会を得させることは、失業問題の重要な解決策である−本市は、戦災による住宅復興に要する建築技術者の急速補充の要望に応えて、昭和21年3月15日より復興大工の短期養成を開始、多大の反響を呼んだので、市立職業補導所(24年4月浪速職業補導所と改称)を開設した。22年10月には、補導給与金支給制度、24年7月には関目職業補導所開設。−その後、これらの事業は大阪府に受け継がれることになり、本市の補導所および共同作業所は昭和27年3月末限りで廃止された。(民生事業40年史)
7月 政府 経済安定本部 「傾斜生産方式」採用決定
 石炭の増産に人・資金を集中して、鉄鋼増産に結びつける。増産した鉄鋼をも石炭増産に投入他産業の波及をはかることを決定しました。
 具体的には、炭坑で働く労働者や家族には食糧配給の増配、就職しようとするものの家族に対しては、門出の餞別に甘藷(サツマイモ)の特配などが決定され、鉄道・ガス・製鉄などの産業では、社員を“坑援隊”として組織し、炭坑へ送り込みました。さらに、“ボツダム宣言受諾に伴う労務充足に関する勅令”による国民強制徴用の強権発動実施が検討され、募集不良地区で実施するという決定までなされましたが、実施されるには至りませんでした。
「炭鉱は、御承知の通り戰爭中は殊に坑内におきまして熟練労働者がおりませんものだから俘虜や或いは半島の方や中國の方や沢山な素人の人が入つてそうして戰爭の目的に副うように努力して來たのであります。それが終戰になりまして、一時に坑内の労働者を失いまして、非常に炭鉱が困つたことも御承知の通り(昭和22年10月16日参- 鉱工業委員会 古河鉱業円城寺專務)」の状況で、日本経済再建のためには、炭鉱資源の増産は急務とされ
8月  罹災都市借地借家臨時処理法(法律13号) 公布
9月9日 旧生活保護法 法律第17号として公布(10月1日)から実施。
総司令部の示した基本原則を取り入れた統一的公的扶助法規として画期的なものであるが、その特徴は、総司令部の示した、(1)国家責任(国庫負担を八割とした点に明らかにされている。)(2)無差別平等(貧困乃至要保護性を社会的責任と認めたこと。)等が一応採り入れられたことである。しかしながら、−−総司令部の強い指示にも拘わらず民生委員を補助機関とし、更に二条、三条に絶対的欠陥条項を置き、それ故要保護者の保護は第一条に示した通り国の責任ではあるが、国民の側から云えば「請求権」のない「反射権」(反射的利益と云ってもよい)とした点等、極めて多くの、問題点を含む過渡的なものであった。(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊309-310頁)
9月 地代家賃統制令(勅令443号) 公布
9月 民生委員令
方面委員制度を民生委員制度に
9月 大阪市 高野山寮宿泊所 開設
戦後の極度の混乱と住宅難は、無宿単身日雇労務者を日々増加せしめ、低廉な私設宿泊所(木賃宿)の僅少がこれを助長して、ターミナルや高架下などに無宿者が群がり、風紀上、衛生上、まことに寒心すべき状況を呈し、浮浪者に転落するものが多くみられた。そこで、これらの者に簡易な宿所を提供して、転落を未然に防止するため、本市は、宿泊施設の増設をはかり、まず高野山寮宿泊所を開設した。(民生事業40年史)
9月 市立今宮保護所閉鎖
(占領軍から不衛生施設と指摘され)「その環境、衛生状態に鑑み、これを廃止した。(民生事業40年史)」
10月1日 大阪市、行路病人を生活保護法によって収容することに
従来行路病人として収容されていた者は、生活保護法施行に伴い収容医療保護によることとなる。以後、「行路病人及行旅死亡人取扱法」により救護すべき被保護者の殆どは生活保護法で収容されることとなった。(「民生事務必携」大阪市労務局 1950年1月25日刊・103頁)
10月29日 大阪市 生活保護事務取扱規程を制定
救護事務取扱に関する件、母子保護事務取扱規程、医療保護事務取扱規程、戦時災害保護事務取扱規定等を廃止。
生活保護事務取扱規程/生活保護を受けるには「本人又は親族その他の縁故者から口頭若しくは書面」をもって「民生委員または区長に申請させ」「区長が申請を受理した場合には直ちにこれを民生委員に移送するもの」と規定した。また民生委員は、申請または移送を受けた場合には、必要事項を調査し、民生委員会に諮ったうえ(急施を要するときは省略しうる)「保護の種類、程度、方法および予定期間についての意見を添えて区長に進達」し、区長はこの進達に基づいて保護の要否を決定し、保護開始等の措置を講ずるものとした。/民生委員はこのほか保護の廃止、停止、停止の解除および保護の種類、方法、程度、予定期間の変更等についても、民生委員会に諮ったうえで区長に意見を提出されるものとされ、また諸指令書・医療券・助産券等の交付、葬祭費の申請なども民生委員を通じて行われることが多かった。/区長は保護の進達または申請のない場合でもその必要を認めるときは、保護の開始、変更等をなしうるものとされた。/各町会には民生部が設けられ「生活困窮者その他の生活保護に関する事項。少年救護に関する事項。厚生娯楽に関する事項」を司るものとされた。(大阪市町会規則の一部改正規則・昭和21年市規則116号の4)(民生事業40年史)
12月  大阪市 労務者失業救済事業開始
労務者失業救済として簡易公共事業を復活、各種の清掃ならびに戦災地開墾整備などに使用した。(民生事業40年史)
12月 「一時保護所」設置
昭和21年10月旧生活保護法の施行に伴って。(大阪駅構内高架下に開設、市民案内所を発展解消。住所もしくは居所なく、本市内において浮浪する者を一時収容保護するところ。保護期間は入所の日から5日以内を原則とした。一時保護所を鑑別機関として、浮浪者をそれぞれ適当な保護施設、病院等へ送致)「大阪市立一時保護所規則・昭和21年市規則119号」

1947(昭和22)年

1月 「婦人に売淫させたもの等の処罰に関する勅令」公布
昭和21年1月 占領軍 「日本における公娼廃止に関する件」の覚書に基づく。公娼制度に終止符。
3月 婦人保護施設 設置開始
東京、大阪はじめ8都道府県に17ヶ所の婦人保護施設が設置され、婦人の転落防止とその更生保護に関する施策が一応スタートした。(民生事業40年史)
3月 今宮市民館開設
市立今宮保護所(昭4.2無宿者の保護収容施設として設置したが、昭21.11閉鎖)残存建物・北館を改修開設。改修費 468,000円。済生会今宮診療所及び保育施設を併設。所在地−西成区東田町74
大阪市民生事業40年史
3月末  大阪市 町会組織の解消
1947年5月3日ポツダム政令15号(町内会部落会又はその連合会等に関する解散、その他の行為の制限に関する件)公布。町内会、部落会、それらの連合会の禁止。従来の民生委員制度が存在理由を失ったので、民生委員の総改選が行われ信用整備がはかられた。
4月1日 大阪市収容保護委員会設置
「浮浪者の収容事業を適正円滑に遂行し、併せて収容保護事業の進展をはかるため」、収容施設の実務者、大阪市関係吏員その他を委員(委員長は社会部長)として設置。「(1)要保護者の鑑別及び収容所の決定に関する事項(2)被収容者の処遇の研究に関する事項(3)その他」について協議。(民生事業40年史)
4月  公選による大阪市長誕生
昭和21年10月改正市制により、直接市民により選挙された。(大阪市政年鑑昭和25年版)

4月8日 勅令118号により「勤労署」が「公共職業安定所」と改称、厚生省の所管となる。(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所
    阿倍野勤労署→改称→阿倍野公共職業安定所
    
西成日傭勤労署→改称→西成公共労働安定所

5月2日 外国人登録令 (勅令第207号) 公布 即日施行
「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」
6月 大阪市 塩草勤労宿泊所設置
9月には豊崎勤労宿泊所を、23年6月には今宮勤労宿泊所を設置。/無宿者を収容し、3ヶ月を1期間として生活指導を行い、勤労感の確立、高度労働への補導を加え、健全な社会人としての素養を啓培し、適切な職業をあっ旋して、自立し得る勤労者として再起せしむべく努力した。/昭和24年7月14日、塩草寮、豊崎寮、西成寮と改称された。(民生事業40年史)

6月12日 大阪自彊館 更生施設の認可(自彊寮の前身)

7月   大阪市 大阪駅前地下通路に 旅客宿泊所 開設
旅行者の宿所難にかんがみ、大阪駅前地下通路を一部改造して、旅客宿泊所を建設し、大阪市に来往する一般旅客に開放した。特別室10室、普通室80のベッド数を有するほか、休憩室、食堂を併設し、きわめて低廉で提供した。−社会の安定にともない、昭和27年3月末で廃止。(民生事業40年史)
民生事業40年史
7月22日 大阪市社会部、民生局に名称変更
救護課が民生課に。民生課は23年3月24日には保護課と改称。

9月1日 政令第180号により、職業安定所、労働省所管となる。(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)

12月 児童福祉法 公布
民生委員が児童委員兼任となる
12月21日 大阪府西成警察署 大阪市西成警察署となる
所在地:西成区海道町22番地。現在地に同じ。

1948(昭和23)年

1月1日 児童福祉法 施行
1月  新戸籍法 実施
戸籍はすべて夫婦または親子の単位で編制されることになったので、この件数は実施前の約3倍に急増した。(大阪市政年鑑・昭和25年版)
2月5日 大阪府西成消防署 阿倍野消防署から分離独立
3月7日 大阪市消防局設置にともない、従来大阪府警察部の下にあった消防業務を移管。大阪府西成消防署も大阪市西成消防署となった。所在地:西成区海道町10番地、現在の海道出張所)
3月7日 警察法の施行
従来の国家警察からその大部分は自治体警察と一部村落地域を管理する国家地方警察の2つに分かれ、また警察の管理主体が公安委員会に移る。大阪市は、個々の警察の執行組織そのものは依然として旧来の大陸式警察の例によっていたため、警察法の期待する「市民の生命・身体・財産の保護」が充分果たし得られない事情にあったので、これを英米式の警察の例にならって警ら重点主義の組織に改めた。(大阪市政年鑑・昭和25年版)
4月 浮浪児の収容は府の児童相談所が担当となる
(児童福祉法の施行により、浮浪児の収容は府の児童相談所がその衝に当たることになったが、なお、心中寸前の世帯や、夫に捨てられた母子世帯、家族の世話を受けない身体障害者等がぞくぞくと一時保護所につめかける状況であった。)
4月1日 市立の託児所が保育所と改称される
4月5日 大阪市消防局 日赤病院から救急車1台借り受け救急業務開始。
24年2月23日 最新鋭優秀車1台を新規購入、借り受けた車を返還。(大阪市政年鑑・昭和25年版)ちなみに昭和36年釜ヶ崎暴動当時の救急車数は6台であった。大阪市消防局の発足は昭和23年3月
5月27日 大阪自彊館 本館に司法保護団体「和衷寮」開設
大阪刑務所 刑余者対象。財団法人認可は昭和27年8月26日。

6月30日 西成公共労働安定所(甲岸町)→改称→阿倍野公共職業安定所西成労働出張所(『業務概況阿倍野−昭和38年版』阿倍野公共職業安定所)

6月30日 国民健康保険法の一部改正法 公布 7月1日から施行
国保は原則として市町村が行うこととされ、従来事業の経営主体とされた国民健康保険組合、または、営利を目的としない社団法人は、市町村が国民健康保険を実施しない場合に限り、これを行うことができるものとされた。(民生事業40年史)
7月29日 民生委員法 公布
7月 食糧確保臨時措置法
主要食糧の事前割当制と野菜類の主なもの10品目について生産増強策が講じられる。

8月 市立今宮市民館保育所設置

10月1日 消費生活協同組合法 施行
明治33年 産業組合法 廃止。
10月 大阪市 ボランティア協会 設立
11月 大阪市医療保護審査委員会設置
生活保護法による医療保護が次第に重要性を増していくのに鑑み、その適正をはかるため。(民生事業40年史)
12月 簡易宿 宿泊料金(簡宿組合「20年の歩み」)



昭和23年旅館業法が施行され、「簡易宿」が「簡易宿所」となった。経過措置で、旅館業法施行以前に営業許可を受けていたものは、新しい旅館業法の許可を受けているものと見なすという附則があり、上記証明は、そのためのものと思われる。なお、旅館業法に基づく府旅館業法施行規則条例には、営業地の指定はない。昭和23年以降は、簡宿の営業地は東西入舟町以外でも合法的に可能となった。
一時保護所(梅田厚生館)よりの施設送致数(昭和21年11月1日〜23年3月31日)
『左側の施設は児童収容施設。婦人施設は右側の朝光寮・成美寮であり、婦人厚生館・聖心隣保館・駒川ホーム・赤川ホームは母子寮である。老人施設悲田院に多数の児童が収容されているのは、異常な社会状態における福祉の柔軟な対応を示す例であろう。豊崎厚生寮・塩草勤労宿泊所・大阪自彊館・鴻和寮・青空の家は宿所提供施設であり、単身男性をそれぞれ多数収容している。弘済院は病院・老人施設・児童施設をもつ総合施設であり、長柄分院とあわせて 4,000人をこえる人々を収容している。浅香山病院・香里病院も多くの病人を収容している。ここに興味あるのは「北海道炭鉱」であり、当時エネルギー源であった石炭業に労務者が不足をつげており、大阪市では民生委員の代表をおくり、現地を視察し、その結果梅田厚生館からも 1,563人を送っているのである。』
1948年 航空写真
▲灰色くべったりとなっているところが焼け跡、細かく筋が見えるところは建物の屋根と路地と思われる。

1949(昭和24)年

1月 大阪市 全国に先駆け児童館創設
1月1日市立西淀川児童館、6月6日市立城東児童館、6月16日市立生野児童館(民生事業40年史)
1月14日 大阪市消防 自治体移管後初の消防出初め式
2月  浪速警察署のの竣工新設
元戎署から独立新発足した。(大阪市政年鑑・昭和25年)
4月  蔬菜の食料統制廃止。6月イモ類など代替食糧を主食から外し、米と麦中心の配給になる。8月肉類、たまご、缶詰なども自由販売となる。
4月  大阪市 市民館付設授産場 復活
5月1日 生活保護法厚生省令改正 不服申立制度の導入
保護請求権が過渡的に認められるかたちになる
5月10日 新制 大阪市立大学 創立初の入学式挙行
5月11日 シャープ使節団来日、8月26日まで滞在。日本の税制を調査。
5月20日 緊急失業対策法 制定施行
「多数の失業者の発生に対処し、失業対策事業および公共事業にできるだけ多数の失業者を吸収し、その生活の安定を図るとともに、経済の復興に寄与することを目的」として。従来の失業救済事業はすべて同法の「失業対策事業」として統一。(民生事業40年史)
5月20日 失業保険法改正(法律第87号)
第38条の6 失業の日の属する月の前二ヶ月間に、その者について、通算して32日分以上の保険料が納付されている時は、保険給付として、失業保険金を支給する/第38条の8 失業給付金の日額は、第1級140円、第2級90円とする。/第38条の9 失業給付金は、−その失業した日の属する月において、通算して13日分を支給し、−/第38条の11 保険料額は1日につき、第1級6円、第2級5円とし、日雇労働被保険者に支払われた賃金の日額が160円以上の場合は第1級、160円未満の場合は、第2級とする。 日雇労働被保険者の負担すべき保険料額は第1級については3円、第2級については2円とし、事業主の負担すべき保険料額は、第1級及び第2級につき各々3円とする。/附則 3 この法律施行の日から、昭和24年7月31日までは、第6条1項の規定にかかわらず、左の各号に掲げる事業を行う事業主に雇用される者は、失業保険の被保険者としない。(1 土木、建築その他工作物の建設、改造、保存、修理、変更破壊、解体又はその準備の事業(以下略)
6月  大阪市 民生委員の公職適否資格審査、民生委員協議会の役員改選、新民生委員の講習会 実施
6月1日 大阪市 市電等料金改定
市電・地下鉄8円、市バス1区10円
6月15日 阿倍野・天王寺両警察署管内の浮浪者収容保護
6月29日 西成・浪速・曾根崎署管内浮浪者の収容保護
7月1日 再開されたソ連地区引き揚げ者の大阪駅下車・通過(第1回)
ソ連地区引き揚げ者は、赤旗を林立させて扇動する一部の出迎者に呼応して、家族の出迎えに目もくれず、インターナショナルを高唱しつつ集団入党を呼号し駅頭において家族との間に争奪戦を演じ(大阪市政年鑑・昭和25年版)以後231回にわたる。7月以降は順調と。
7月7日 一時保護所を梅田厚生館と改称
▲大阪市民生事業史1978年3月
大阪市戦災復興史」大阪市ホームページ(上の写真よりも後、昭和31年移転前と思われる。上の写真に見える看板のローマ字表記が、下の写真では無くなっているように見える)
7月15日 大阪市“市政だより”創刊
タブロイド判、毎月1日と15日の2回発行。(大阪市政年鑑昭和25年版)
7月20日 大阪城天守閣有料公開開始
8月   厚生省通牒 授産事業整備要綱 実施
民間授産事業の経営が困難となり、公営授産事業の重要性が著しく増加、大阪市は25年3月授産場規則を改正して、授産施設の整備を図る。(民生事業40年史)
8月27日 天王寺署管内浮浪者一斉収容
9月15日 大阪市民生局 4課1室体制になる。
住宅事業の建築局移管。児童課復活。臨時失業対策委員会事務室設置。庶務・保護・福利・児童・臨時失業対策委員会事務室。/7月26日「失業対策事業および公共事業の適切な運営を図るため」大阪市失業対策委員会を設置(委員長−市長、副委員長-助役、委員−各局長)。9月15日 民生局に臨時失業対策委員会事務室を設ける。/公園、道路、整地、下水および清掃などの各種目にわたって政府認証の失業対策事業を実施した−ほかに、本市周辺の下水管の敷設、水路の改修などを行う本市独自の失業救済事業も実施した。/臨時失業対策委員会事務室は昭和29年民生局に失業対策課が新設され廃止。(民生事業40年史)
9月1日 大阪市警視廳設置等に関する条例 制定
昭和23年3月警察制度の改正により、自治体警察の誕生をみ、−警察機能とその運用の上に抜本的な改正を加えることとし、あらたに警視廳を設置する等この条例を制定した。(大阪市政年鑑・昭和25年版)
9月8日 在日本朝鮮人連盟、朝鮮民主青年同盟の解散指定期日
解散を指定された在日本朝鮮人連盟、朝鮮民主青年同盟の関係団体は一部過激派と同調し、解散反対の気勢を挙げ−解散に伴う財産の接収がおわる12月末まで、大阪市警察は警備にあたった。(大阪市政年鑑・昭和25年版)
9月13日 社会保障審議会「生活保護制度の改善強化に関する勧告」を内閣総理大臣へ提出
最低基準の引きあげ、保護請求権の確立、一定資格を有する二分の一国費負担の職員をして取り扱わしめ、民生委員は協力者とすること、積極的・防貧自立機能を発揮せしめ、第二種カードの復活も考慮すること、新たに教育扶助・住宅扶助を創設すること等(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊317頁)
10月 「公的保護事務取扱要領」社会局長・児童局長連名通知
民生員が有給吏員の協力機関であることが明確になる。
10月10〜27日 総司令部公衆衛生福祉部 「現代社会事業の基礎」講習会
総司令部公衆衛生福祉部をはじめ関係者が総動員で講師となり、日本社会事業専門学校において、都道府県民生部長及び係官の講習を行った。−その内容は−総司令部の意図する民主的社会福祉計画の制度・機構を全面的に明らかにした総決算的なもの」(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊314頁)
11月29日 総司令部「社会福祉行政における6ポイント」指示
1.厚生行政地区制度 2.市厚生行政の再組織 3.厚生省により行われる助言的措置及び実地事務 4.民間団体の公私分離 5.全社協組織 6.現任訓練計画(「日本の救貧制度」日本社会事業大学救貧制度研究会刊318頁)
11月12日 西成区三日路町で配水管破裂 附近百数十戸浸水
「午後10時頃西成区三日路町30番地、南海電鉄踏切東方約20米の地点で、城東幹線1,350粍配水管が破裂し、土砂を吹き上げ附近百数十戸に浸水した。/このため西成区の一部には断水地域を生じたので、13日には2台、14日には7台の給水自動車を運転して応急給水をおこな」った。(大阪市政年鑑・昭和25年版)
11月5日 大阪府知事の行政処分により府下41校の朝鮮人学校が閉鎖される。
大阪市では閉鎖学校の児童生徒を受け入れるに際し事務を円滑にするため朝鮮人学校代表者と懇談会を開催し就学通知書の発行など区事務と一体となり受け入れに当たったため、平成に事務を遂行することができ、その受入数は小学校4,149人、中学校681人に上り、全在籍児童生徒数にたいする在学朝鮮人の比率は3.5%となっている。/上記受け入れ朝鮮人児童生徒に対しては朝鮮語及び日本語科目の課外事業も実施し、貧困家庭の子弟に対しては学用品の支給をし就学奨励を図った。(大阪市政年鑑・昭和25年版)
12月 大阪市 児童福祉審議会 設置
当時は任意設置でまもなく廃止。昭和31年11月地方自治法改正で改めて設置されることとなる。(民生事業40年史)
12月26日 身体障害者福祉法 公布 25年4月1日施行
 西成区の状況
戦後皮革業者や天下茶屋一帯の洗剤卸売業者の激増は、当区復興に大きな役割を持っている。厚生施設としては、ボランティア運動の一環として24年4月竣工の長橋児童遊園・旭南通6丁目の青少年運動場に続いて、5月完成の津守児童遊園地があり、また、10月開設の橘九児童遊園地があるほか、大阪府認可の千本内職斡旋所の設立がある。(大阪市政年鑑・昭和25年版)/参考:大阪市では、大阪社会事業ボランティア協会と協力して、「こどもに遊び場を!」の運動を提唱したが、その結果、民間有志から土地の無償借り上げ、遊具の寄付等によって、民間設置の遊び場が次々に誕生し、その数213に及んでいるこれらの児童遊園地は、必ずしも児童福祉法による児童遊園ではないが、地元の運営委員会によって、これに準じた運営方法がとられ、大阪市も、遊具の設置補修等の助成を行っている。児童公園(公園部所管)は、現在220ヶ所ある。(民生事業概要・昭和36年度版)
大阪市の行旅死病人取り扱い状況(昭和20年〜24年)
  総 数   行旅死亡人   行旅病人
 総数  男  女  男  女  男 女 
昭和20年   1,515  979  436  574  183  405  253
 21年  1,890  1,488  402  832  188  656  214
 22年  686  433  253  217  103  216  150
 23年  478  307  171  174  101  133  70
 24年  231  164  64  164  64  -  -

    備考:行旅死人・病人を調査する法律は23年9月でなくなった。
        以来(生活保護法)によって調査されているのであるが、病人の方は種々の病人と一緒にあがっているため、
        これだけを抜くことは出来ぬ。(大阪市政年鑑・昭和25年版)