財団法人大阪自彊館20周年写真帖によると、1911(明治44年)1月に「私立大阪自彊館」創立事務開始、翌年2月に宿舎及び付属建物の建築に着手。同年6月25日宿泊保護及び職業紹介授産事業開始となっています。
 神戸大学付属図書館には、新聞記事文庫があり、デジタルアーカイブの一つとしてネット上で公開されています。
 そこに収められている1912年(明治45)年7月1日付大阪朝日新聞に、「新式安宿の男女/食物を持たぬみじめな客/同宿人の親切」と見出しの付いた記事があります。」

 それによると、当時の安宿(今宮飛田の木賃宿)は、「畳の上に寝るのは」上等の方で、押し入れを2段にも3段にも仕切って、それへゴロゴロ入って寝るのが普通。それらが満員となった後、夜更けに入ってくるのは、部屋に張り渡した紐に両腕をもたせかけて立ち寝する状況であったようです。
 
 この当時すでに、「今宮飛田の木賃宿」はよく知られ渡った存在であったようです。

 これでは社会上の大問題だというでできたのが、「萩の茶屋の自彊館」、「先月25日から店開きした」とあります。

 1951(昭和26)年に西成区が編集発行した「西成区政誌」によれば、1889(明治22)年4月町村制施行当時の今宮町は西成郡内の今宮村及び木津村の各独立した二村であったが、大阪市第一次市域拡張(明治30年4月)により両村は関西線以北の地域を失ったので、その残存部分を合して一村を設け、今宮村と名付けた。1917(大正6)年9月1日町制を実施して今宮町と改称したとあります。

 ですから、当時の自彊館に地名を就けて呼ぶとすれば、「今宮西今船の自彊館」とするのが、正しいような気がしますが、「萩の茶屋の自彊館」とあります。

 「西成区史」(昭和43年)の巻末年表によれば、1885(明治18)12月に「阪堺鉄道(現南海本線)」難波−大和川北岸間開通式が行われ、天下茶屋駅が設置されています。南海萩之茶屋駅の開設は1907(明治40)のことです。
 阪堺電気軌道(現南海阪堺線)恵美須町−市ノ町(現大小路)間が開業したのは1911(明治44)年12月1日、松田町駅は開業当時に開設しています(ウィキペディアを参照しました)。
 感じとしては、自彊館からは萩之茶屋駅より松田町駅の方がやや近いと思われるのですが、「萩の茶屋の自彊館」と形容されています。

 ちなみに、1889(明治22)年5月14日大阪鉄道(現関西本線)湊町−柏原間開通。1899年(明治32)年大阪鉄道今宮駅開設。環状線新今宮駅は1964(昭和39)年3月22日竣工。南海本線新今宮駅の完成は1966(昭和41)年(区史巻末年表による)。
                  (2011年3月26日記)

(承前)
大阪朝日新聞(1912年7月1日付)に見る開業当初の自彊館、続きです。

 日が浅いのと広告していないのとで、利用者は少ないが、その代わり、入った人は滅多に出ないと。
 その理由は・・・

 禁止事項と優遇策
  ・酒禁止
  ・貯金奨励のため十円の貯蓄をすれば二階の上等の室へ入れて貰える
  ・五十円となれば膳附の飯が喰える

どんな人たちが利用していたかというと・・・
 6月29日の泊まり客は14人で、女性3人、後は男性。
 女性3人は、すべて「草引き」で1日27銭稼ぐ。
 男性はというと、「手伝い」「荷車の先曳き」、50銭が稼ぎ頭で下は20銭ぐらい
 20銭というのは、電車の運転見習いとあります。ちなみに、区史年表によれば、最初の市電花園橋−築港間開通は1903(明治36)年9月12日、市電南北線梅田停車場前−今宮恵美須町間開通が1908(明治41)年8月1日。
 61歳になる「辻占売りのじいさん」は、田舎周りして、良い日は50銭、自彊館切っての金持ち
 某官庁の雇いは日給23銭、官吏には違いないが、やりくりできないので曲げて泊めてということで宿泊している。毎朝、萩之茶屋駅から梅田まで徒歩通勤と。

同宿人の親切
 然し是れ等は未だしも上の部、
 二十九日の晩遅く 二十歳余りの男が遣って来るなり受附けでバッタリ倒れて物も言わない、
何うした事かと聞くと 朝から米粒一ツ口にしない、手に後生大切と銅貨を八銭握って居るが 之を使っては明日から日乾しになると ホロホロ涙を流して泣く、
網主事は男が泣くという奴があるか 明日は明日で何んとかなるから 其の八銭で泊めて遣ろ、とあって五銭の宿泊料に三銭で大盛りと漬物、
然し風呂に先へ入ったらよかろうと言っても 飯を飯をと言い乍ら炊事場にノタクリ入ってヤッと命拾い、
それや気の毒だ 明日は僕が「土持ち」に連れて行って遣ろうと先客が兄顔して慰める、

それが終ると 今度は四歳計りの児を負うた三十近い女、何うぞ助けて下さい、子供は此の通り泣きますが昨日芋を二銭喰った切りで 私だけでも何うすることも出来ませうんと土間へ坐り込んで動かない、
是は真個の無一文なので、規則として只で泊めることは出来ず 去りとて突放しもならず 主事もホトホト困って居ると
先客連は 此奴は又一層気の毒だと 同病相憐れんで 俺も俺もと五厘一銭宛出し合って 漸っと助かった、翌日からは「別荘の草引」に入ることになった

斯んな風に悲惨な例は日に幾つとなく出て来るが 大抵は入れて遣るので 近所の安宿も大分考え出して来て 之を手本に改良すると言っているそうな

 「大阪自彊館の17年」(1928−昭和3年11月・財団法人大阪自彊館刊)によれば、会館当時の施設は
  ・2階建て宿舎2棟、付属建物に炊事場、手芸室、納屋、事務所、販売店、舎宅、便所等9棟合計11棟
  ・建坪340余坪
  ・定員限度−150人
  ・宿泊料−一泊布団と入浴付で5銭
  ・付設食堂−飯一盛り3銭5厘、副食物(魚肉野菜類)一皿2銭、味噌汁一椀1銭、漬け物一皿5厘

 紹介した新聞記事では、飯「大盛りが2銭5厘」となっていますが、半割が「1銭5厘」ともあります。1銭は10厘ですから、「1銭5厘」の倍は3銭、3銭5厘と2銭5厘の中間で、さて、どちらが正しいとも・・・・。しかし、自彊館の「正史」を、この場合は信じることにするしかない。

 また、記事末尾の「安宿」の反応について、「大阪自彊館の17年」に、以下の記述が見られます。

  「本館ができあがって、事業の精神もだんだん了解されることとなって、付近の木賃宿もこれにならって、追々その設備を改造して、勿論、社会事業と営利事業とは、内容は異なるが、少なくとも外観上は、年と共に面目を一新するに至ったことは、単にこれだけでも地方改良のために貢献し得たということができると信ずるのである」

 記事では、29日の宿泊者は14人であったとされています。定員限度は150人ですから、利用率は十分の一。
 「大阪自彊館の17年」によると、初年度の利用実人員は、752人 150人で割ると5.01。
 2年目が1,086人、150人で割ると7.24。3年目が504人、150人で割ると3.36。4年目が275人、150人で割ると1.83。
 年を経る毎に、定着率が高くなっていることがわかります。
 大阪自彊館の「宿泊者規約」第1条、第2条には、次のように書かれていました。

 第1条 当館を設けた趣旨は、種々の事情により 一時居所がなくて困らるる人々が 当分の間宿泊せらるる便利のために設けたところで 宿泊者は ここにいる間に 頭を上げる用意をされねばなりませぬ。
 それゆへ 宿泊料を始め食物などの対価はできるだけ安くし、かつ 清潔衛生等に 最も意を用いるのであります。
 しかしながら、ここは無料宿泊所ではなく 有料であります、それは 宿泊者の人格を重んじるからです。 
 第2条 当館に宿泊せらるる方は、右の次第をよく承知せられ、いうところの「勉強は幸福を生む母」であるということを堅く信じて、倦まず怠らず 一意専心に 職業に精勤して 一日も早く、立派に世を渡れるようになって、退館せらるることを 望みとするのであります。

   参考までに、当時の物価を紹介しておきます。「値段の明治大正昭和風俗史−週刊朝日編・昭和56年」より
  アンパン 明治38年 1銭  大正6年  2銭
  駅弁   明治45年 12銭  大正6年  15銭
  豆腐   明治41年 1銭  大正7年   2銭   大正8年  4銭
  たばこ(ゴールデンバット) 明治40年 5銭  大正6年  6銭
  そば(もり・かけ) 明治45年  3銭   大正6年  4銭
  入浴料(東京) 明治42年  2銭  大正1年  3銭  大正6年  4銭
  塩1キログラム 明治44年  5銭4厘  大正2年  5銭3厘
  白米(10キロ) 明治40年  1円56銭  大正1年 1円78銭  大正8年  3円86銭 昭和5年 2円30銭
  大工手間賃(一人1日)  明治40年 1円  大正元年  1円18銭
  コーヒー   明治40〜45年  3銭  大正2〜7年  5銭
  お茶(煎茶−中級100グラム) 明治36年  8銭3厘   大正6年  13銭3厘
  お茶(番茶−中級100グラム) 明治36年  4銭2厘   大正6年   6銭6厘
  家賃(東京板橋区仲宿における一戸建て、または長屋形式(6畳、4畳半、3畳、台所、洗面所)を対象
       明治32年  75銭   明治40年  2円80銭   大正3年  5円20銭  大正8年 9円50銭
  郵便料金(はがき)  明治32年4月  1銭5厘  昭和12年4月  2銭
  ビール(大1本)  明治34年 19銭  大正3年  22銭  大正6年  31銭
  都電乗車賃   明治44年  4銭  大正5年  5銭  大正9年  7銭
  味噌(上品質1キロ) 明治41年  11銭  大正7年 19銭
  天丼    明治45年  15銭  大正2年 18銭  大正5年  20銭
  巡査の初任給  明治39年  12円   大正元年  15円   大正7年  18円
  理髪料金  明治42年  10銭   大正3年  20銭   大正9年  30銭
  食パン(一斤=当時450グラム)  明治40〜大正1年  10銭   大正3年  12銭

 先の新聞記事冒頭に、「真黒になって一日中糞働きした報酬は 漸く半斤のパン、之を持って公園で水道の水を滝飲みしながら 喉に通し ヒョロヒョロして 夜更けに 安宿に倒れるようにして入って来る」とありました。上の食パン価格からすると、報酬は5銭前後であったであろうと想像することができます。しかし、安宿に倒れ込むように入ってきているのですから、宿泊料もその日の報酬からまかなえたとすれば、10銭以上とも考えられます。

 「17年史」には、「本館に宿泊する人は、月額7円50銭で立派に生活してゆける勘定であった」とあります。
 50銭の稼ぎ頭が、30日目一杯働くと15円の収入、20日平均とすれば10円になります。これは、巡査の初任給に近いといえます。
 20銭だと、30日で6円、20日で4円。平均を35銭と仮定すれば、30日で10円50銭、20日で7円の月収になります。35銭の稼ぎが25日あると8円75銭。

 明治45年の細民調査によれば、一ヶ月労働日数は
   荷車曳き  男性  東京23.4日 大阪25日  女性  東京15日  大阪20日
   掃除人及草取り  男性 (東京該当なし) 大阪  24.3日  女性  東京   24.3日  大阪 12.5日
   屑拾・屑撰   男性 (東京該当なし) 大阪  21.7日  女性  東京   24.5日  大阪 24.6日
   日雇及使い歩き  男性  東京20.1日 大阪21.7日  女性  東京18.9日  大阪20.9日
  
 明治45年の細民調査によれば、一ヶ月所帯主一人平均月収は
   荷車曳き  男性  東京13円85銭 大阪13円64銭     女性 該当なし
   掃除人及草取り  男性 東京12円5銭  大阪  12円46銭  女性  東京該当なし  大阪 3円
   屑拾・屑撰   男性 東京4円25銭 大阪13円12銭      女性  東京6円22銭  大阪6円29銭
   日雇及使い歩き  男性  東京11円22銭 大阪12円67銭  女性  東京7円20銭  大阪3円

  詳しく見ていませんが、細民調査対象は家族持ちが多そうで、単身が多い感じの自彊館利用者との単純比較はできないような気もしています。