「野宿者襲撃」と背景

釜ヶ崎キリスト教協友会 小柳伸顕

1983年から1995年/公園と野宿労働者/子どもたちと野宿労働者の出会い/行旅死亡について/釜ヶ崎の医療―大和中央病院/地域住民の目/今後の課題

黒田 ではどのようにして、野宿者襲撃は起こってくるのか、という,第二のテーマに入っていきたいと思います。

報告は、釜ヶ崎キリスト教協友会の小柳伸顕さんにお願いいたします。


1983年から1995年

小柳 今日は、本来は釜ヶ崎医療連の大谷隆夫さんに報告していただくはずだったんですが、用事ができまして、ピンチヒッターでわたしがいたすことになりました。

これから申しあげたいことの要点は、資料の2頁目のところに書いてあります。それに従って簡単に申しあげます。

先ほどビデオで藤本さんの事件が報告されました。

あの事件は非常に大きく取りあげられましたが、この種の事件は、これまでにも沢山起きています。起きているが、マスコミが無視した。あるいは取りあげなかったので、今回、突然起こったように思われていますが、決してそうではありません。

少し拾いあげてみますと、その主な事件は子どもたちが野宿する労働者を襲撃していることが特色です。

一番ショッキングな事件は、1983年、横浜の山下公園で起きた事件です。

公園で野宿していた労働者が、中高生に襲撃され、殺された事件です。少年たちが、労働者をカゴに入れ、蹴とばして殺してしまいました。

殺された労働者は、もと横浜寿町の日雇労働者でした。そこで寿にある日雇労働組合の労働者が、この事件の意味を知ってもらおうと近辺の中学校にビラを配布しました。

すると学校の教員たちが、校門のところに立ち、子どもたちにビラを受け取ることを拒否させ、すでに受け取った子どもには、それを用意したクズ篭にすてるよう指導しました。さらに配り続けると校長先生が、警察に連絡するという一場面もありました。

これが、13年前の野宿する労働者に対するマスコミも含めての社会の対応でした。

それから13年、中学校での実践報告を聞いて少しは変わったのかとも思いました。

そして今回の10月18日の藤本さんの事件です。

じゃあ、この間、この種の事件はなかったかと言えば、前に申しあげましたように続発していると言っても過言ではありません。とくに寄せ場とその周辺でしきりに起こっています。

何月何日、どことは一つ一つ申しあげませんが、子どもたちが、野宿する労働者を襲撃した事件は、枚挙にいとまがありません。東京・山谷ではどうか。中学生たちが、野宿する労働者の髪の毛にライターで火をつけた事件が、山谷のすぐ近くの浅草で起こっています。

名古屋では、中学生が野宿する労働者をバカにしました。怒った労働者が中学生を追いかけ怪我をさせました。すると怪我をさせた労働者が刑事犯として裁かれると言う事件も起きています。

釜ヶ崎ではどうでしようか。1983年の事件が起きたあとの1985年夏、釜ヶ崎はどうかと釜ヶ崎周辺で遊ぶ子どもたちの実態調査をしました。

実態調査をして大変びっくりしました。小・中学生が、釜ヶ崎の公園や路上で休んでいたり昼寝している労働者に、あるいは野宿する労働者にいろんな悪さをしていることがわかりました。

つばをかけた・ビンをぶつけた。バカヤローと言った。ケトばした。また日本橋の方では段ボールを集めて生活していた労働者が、夜寝ているときその段ボールに火をつけられ全身に火傷するという事件もありました。

新聞やテレビでも報道されましたが、1986年10月には、大阪の四天王寺境内で、3人の中学生が野宿する労働者をエアガンで至近距離からうつ事件も起きています。これについてはあとで少し詳しく申しあげます。

福岡でも起きています。1988年1月、やはり野宿生活をする人が、中学生グループから石をなげつけられ、抗議して中学生たちを怪我させるというものです。

とにかく寄せ場とその周辺で事件が続発しているのです。


公園と野宿労働者 (冒頭へ)

四天王寺境内の事件とは、

マスコミもとりあげましたが、遠い原因は、近くの天王寺公園で行われた1987年の「天王寺博覧会」にあります。

大阪市は、博覧会開催のために会場の天王寺公園で工事をはじめました。当然、公園を利用していた労働者や野宿を強いられていた労働者は公園を追い出され、近くの四天王寺境内に避難しました。多いときは一00人近くいました。

その労働者を中学生がエアガンで襲撃して、こううそぶいたのです。「抵抗しないから面白い」。

天王寺公園は、1903年内国勧業博覧会の跡地として出発しました。このときに、実は、釜ヶ崎が出来たのです。

会場の沿線に住むスラムの人々が、博覧会に行く天皇のめざわりだと強制的に今の釜ヶ崎に移住させられました。それから約80年、博覧会のために公園を利用していた労働者が排除されました。

天王寺公園を、日中は労働者が自由に使っていました。歌をうたったり、昼寝したりです。

博覧会のテーマは、「いのちいきいきー人・いきものの共存をめざしてー天王寺博」でした。

どうも大阪市の考え方では、釜ヶ崎の労働者のいのちは、対象外にみえます。

工事のために追い出され、さらに博覧会後は、グレイドの高い公園にするといってまた閉鎖されました。そして公園が再開されたときは、有料化されていました。

グレイドの高い公園にし、有料化しこれまで自由に出入りしていた釜ヶ崎の労働者の排除に成功しました。

そんな過程で実は、四天王寺境内のエアガン事件は起きたのです。

大人社会が、野宿する労働者を襲撃することを奨励しているとも言えます。だからこそ、事件後、子どもたちが「抵抗しないので面白い」などと言えるのです。

子どもたちが独立して事件を起こしているのではなく、今の大人社会がこの結果を生みだしていると見るべきです。くり返し、くり返し起こって来るのは、そのためです。抗議の声も小さくて、なかなか防ぐことが出来ません。


子どもたちと野宿労働者の出会い (冒頭へ

少々、手前味噌の話になりますが、1983年の横浜の事件のあと、子どもたちの実態調査をふまえて、少しでもいい方向に事柄が進むことを願って、子ども夜まわりを1986年の冬からはじめました。

夜まわりのねらいは、子どもたちが、釜ヶ崎労働者を全く知らない、知らないからさきに指摘したようなことが次々と起こると考えたからです。

子どもが、直接、野宿する労働者と出会い、知ることによって、それが防げないかと考えました。

子ども夜まわりは、労働者との出会いだけでなく、事前の学習会を通して、フィリピンの子どもやアイヌ民族の人々との出会いなども生まれました。

しかし、この間、子どもたちを取り巻く状況はあまり変わりませんでした。

たとえば、釜ヶ崎のすぐ近くの小学校ではビックリ箱事件という出来事がありました。

小学校の付近に廃品回収で生活している労働者が段ボウルハウスで寝起きしていました。学校へ行く途上、小学校の高学年が低学年生に命じました。段ボウル箱に石を投げなさいと。石を投げると中の労働者は、ビックリして飛び起き首を出します。それが丁度ビックリ箱ににていて面白い。

この事件は、労働者自身が学校に抗議することで明るみになりました。

実は、その小学校は、同和教育に熱心なんですが、日雇労働者や野宿する労働者の人権には、目がとどいていないことがわかりました。

これは、例外ではなく、一般の状況は、もっと悪い、差別的といえましよう。小学校の状況なども、やはりそこで働く教員たちの意識とも深く関係しています。


行旅死亡について (冒頭へ

さて、時間がなくなりましたので先を急ぎます。皆さんの手元にある小さな字で申しわけありませんが、表が2頁にわたっているので見てください。

天王寺区、浪速区、西成区の行旅死の記録をまとめたものです。この記録は、わたしたち、とくに子どもの里のスタッフが、西成区役所や官報を参照して作ったものです。

おわかりのように行旅死は、西成区だけでなく天王寺区、浪速区でもありますが、西成区がダントツに多いことは、一見してわかります。

表の中で、空白になっているには一応は行旅死亡扱いだったんですが、あとで身元がわかり引き取り人があったためです。その数を含めると三つの区で年間100人近くになります。

釜ヶ崎や浪速区の地理に詳しい人はお分かりと思いますが、死者の発見場所が、非常に人通りの多いところ、あるいは公園ということです。これはなにを意味するでしょうか。

人が路上で寝ていてもあるいは死んでいても人々は関心を示さないと言うことです。

西成労働福祉センター、大阪医療センターという病院の前でも亡くなっています。市立更生相談所という釜ヶ崎特有の福祉事務所の近くでも亡くなっています。

わたしたちは人知れずひっそり死んでいくと言いますが、釜ヶ崎ではそうではないのです。公の施設の周辺で死んでいきます。しかし、マスコミもこの大事件には注目しません。

最近も一人の人の死が新聞の一面で大きく取りあげられましたが、釜ヶ崎では何十人、何百人という行路死亡がでても話題にのぼりません。これは、一体なんだろうかと考えざるを得ません。

行路死亡と行旅死亡は、似ていますが法律上はちがいます。

行旅死亡は、法律用語で、かりに路上で死亡し、身元を引き取る人がいない場合を言います。

行路死亡は、一般に言う行倒れです。行路死亡人の中に何人かのこう旅死亡人がいるわけです。

その行旅死亡人は約100人ですが、行路死亡を入れるとそれこそ保健所などが示す数では年間五00人は越えています。

野宿していたままの死、野宿していて救急車で運ばれ病院で死ぬ、あるいはドヤで死ぬなど、形態はさまざまです。

この野宿した結果、死に至る人たちに共通するのは失業です。さらに病弱、障害、高齢がそれに加わります。

釜ヶ崎キリスト教協友会は、活動のはじめから、さきにあげた病弱、障害、高齢の労働者に目をむけて活動してきました。ですからはじめのうちは、元気な労働者から協友会は「もう少し元気なわしたちのことにも取りくめ」と言われて来ました。正直なところそこまで手がまわらないのも事実です。


釜ヶ崎の医療―大和中央病院 (冒頭へ

野宿や路上生活がなぜ死と結びつくかを1―2の例をあげてみます。

一つは医療のことです。

ここにあります「日雇労働者Mさんの死をムダにしないためにー釜ヶ崎の救急病院大和中央の実態」を紹介しながら、釜ヶ崎の医療の一端にふれてみます。このパンフについては、配られた「連絡会ニュース」にも大中闘争資料集ついに発刊と紹介されています。

読んでいただくとよく解ると思いますが、1989年4月、釜ヶ崎の労働者が救急車で大和中央病院に運ばれました。

診断は、肋間神経痛だとしてすぐ返されます。

しかし、また夜中から明け方にかけて激痛がはしり、再度救急車で大和中央へ運ばれます。

Mさんにつきそった住吉さんは、大中の実態を知っていますので、他の病院を主張したのですが、救急隊が、直近の所ということで大中病院行きとなります。

ようやく入院ということで住吉さんは、入院に必要なものを買って帰ってきたらMさんは死亡した、しかも狭心症で死亡したと病院側から知らされました。

この死に不信というか、殺されたと直感した友人の住吉さんは、裁判にもち込み、一審の大阪地裁は大中病院の過失を認めました。100%勝訴です。

この裁判を通して、釜ヶ崎の労働者が日常的にこの病院でどんな取り扱いをうけているかが明らかになりました。とにかく年間8,000人もの労働者が運ばれる病院で影響は大きいです。

資料の中に裁判で証拠として使ったカルテがのっています。カルテにこんな記述があります。34.6度Cです。これは体温を示すものです。この記述をめぐってこんな問答が、担当医師と弁護士(原告)との間でありました。

弁 カルテ2ページ目の、KT、34.6度Cと書かれていますね。

医 はい。

弁 それは体温を示すもので看護婦さんが書かれたということですが、この記載はだれがしたものですか。

医 これは看護婦さんがされました。

弁 あなたは当然、三四・六度Cというのを目を通されていますよね。

医 はい。

弁 現に見られたんですか、見られなかったんですか。

医 見ております。

弁 三四・六度Cと書かれていることに、気付いていたんですか、気付いていなかったんですか。

医 気付いておりませんでした。

弁 そうすると、よく見なかったということですね。

医 そうですね、気付いていなかったということです。

少々長い引用ですが、この問答の中に大中病院の医師の釜ヶ崎労働者への診療姿勢がよくでています。34.6度Cとは異常な体温なんですが、全然気にとめていません。それが結果的に死に結びつくのです。

これだけでも大変なことですが、さらにこの医師は、心臓病とくに狭心症には投薬してならない、ロキソニンという薬まで出し、狭心症を悪化させているのです。

こんなやりとりや証拠をみて、大阪地裁も問診をし、ニトログリセリンをあたえるか、あるいは一晩泊めて経過看察していたら狭心症での死は100%防ぐことが出来たと、判決で言っています。

ここに代表されるような治療をうけ、沢山の労働者が病気でないと外にほうり出され、結果はもっと悪化して最後を路上で迎えるのです。実際に大和中央に運ばれ、ズサンな診断の結果放り出され、大和中央病院前で死亡するというケースもあります。

もちろんこの裁判には弁護士の力も大きく働きました。Mさんの友人の住吉さんが、Mさんの家族を見つけ出し、裁判に持ち込んだことも大きな力です。大中病院では、この種のいわゆる殺人医療が行われていても、家族がいないために、ほとんどの場合、泣き寝入りです。

話が前後しますが、このMさんの死亡の場合も、西成署が、Mさんを検死しています。医師の前で死亡したのに検死。そして大学の医学部で行政解剖されています。これも法廷であきらかになったことですが、大和中央病院では、検死は度々あるそうです。

これからも大体、医療の実態を把握していただけると思います。

さらに行旅病死亡人の場合、その医療費は、福祉事務所が支払うので、ベラボウな額が請求されていることもあります。医療費では、末期の治療費が一番高いからです。

大和中央病院は、救急病院として、人の生命を救うのではなく、まさに金もうけの対象として労働者に接しているのです。これこそ差別の典型です。


地域住民の目 (冒頭へ

もう一つは地域の目です。

かって西成区の南津守にある建設会社が労働者宿舎を建設しようとしました。

そのときの地域の反応は大変なものです。

「ここを第二の釜ヶ崎にするな」と大キャンペーンが展開されました。

この時、住民集会が持たれました。この中には直接参加された方がおられるかも知れません。住民集会は、地域の社会福祉協議会の会長さんが音頭をとり、自民党から共産党までの市会、府会の議員が名をつらね、発言しました。

南津守のこの地区を自転車で通ったとき驚きました。町内のいたるところに、釜ヶ崎差別まる出しのビラがはられていました。

第二の釜ヶ崎にするなとは、子どもの結婚にさしさわる。あるいは女性がおそわれる。子どもたちが朝、飯場の車で危険といった反対スローガンです。釜ヶ崎の労働者が来たらこの地域でなにをするかわからんので反対というものです。

これと似たことが、釜ヶ崎の近くにある自彊館という社会福祉施設に対して起こりました。

自彊館の入所者のほとんどは、釜ヶ崎の労働者です。近年、釜ヶ崎労働者の高齢化と失業で入所希望者が増えています。しかし、施設が小さいので自彊館は拡大を計画しました。

となりに朝日住建が建てたマンションがありその購入を計画しましたが、地域の反対にあい国からの補助金もおりていたのに断念しなければなりませんでした。

地域の反対理由は、これ以上、釜ヶ崎の労働者が増えてもらっては困るというものです。自彊館と地域とのこれまでの関係にも問題が全くなかったとも言えないでしょう。つまり地域福祉をどう考えてきたかという点はあると思います。

これは、野宿労働者がバブル経済崩壊後、増大の一途をたどるだけに残念なことです。地域住民も野宿者がいなくなることには賛成だが、それが地域の施設を拡大してそこに入ることには反対と複雑です。

この地域の動きにみえるように野宿労働者の襲撃は、すでに述べたように単に子どもの問題ではありません。大人社会の意識が、より具体的には子どもを通して実現しているとみるのが自然ではないでしようか。

さらに見落としてならないのは制度です。

法的な裏付けとしては、憲法14条と生活保護法があります。

これらは、日本で生活する人々の最低生活を保障しているんですが、現実には、野宿を強いられている労働者は、ここからも排除されています。

法律のどこにも排除するとか、あるいは65歳以上など制限はないので、現実には、法の精神は生かされていません。

そんな中で、全国でも注目されているのがいま名古屋市を相手に係争中の林訴訟です。

林さんは、野宿を強いられていた失業中の日雇労働者でしたが、生保をうけることを名古屋市、愛知県、厚生省ともに拒否されました。

そこで生活保護法を盾に生活保障を求めて裁判を起こしました。今日、社会福祉活動やその弁護にあたる弁護士の中にもまだまだ野宿労働者は遠い存在なのです。

だからこそ、路上死亡人が、出るのです。


今後の課題 (冒頭へ

最後に今後の課題に少し触れて終わります。

その一つは、やはり社会一般の釜ヶ崎に対する認識をあらためてもらうことです。

とくに学校教育の中に入れたもらう必要があります。とくに寄せ場のある都市では重要課題です。人権教育とも言えます。

また野宿者は、単に寄せ場だけでなく、広く日本中に拡散しています。

だから、みんなの課題とも言えます。

具体的な一例は、川崎市教育委員会の指導の手引きあたりが参考になるでしよう。

「子どもたちの健やかな成長を願ってー野宿生活者への偏見や差別の克服にむけてー」(1995ねん10月刊)が、手短な手伝いになります。

それと、やはり釜ヶ崎に関心をもち、釜ヶ崎労働者と直接出会うことも重要です。そのとき、釜ヶ崎とわたしたちの距離はちぢまるのではないでしようか。


付表:行旅死亡人告示状況(1995年度)

  発見件数 官報掲載 身元判明 区告示
天王寺区 13
浪速区 20 14
西成区 58 29 26 32

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