趣味のA研資料室 戦後機関紙の部屋
小松隆二さんの著作に「日本アナキズム運動史」(「本の杜」に紹介あり)がある。
1972年出版された本であるが、「はじめに」で、
『最近、アナキズムの復権が口にされるにつれ、アナキズム思想史や運動史にかんする研究がいくつか公けにされている。それらは、一面で独特のすぐれた側面をもっていながら、他面で必ずしもすべてに行きわたった構成・叙述をなしたものともいえない。いろいろの角度からの視点があるのは当然であり、一つ一つ積み重ねていく努力が必要であることもいうまでもない。そこにまた、私なりにうけとめるアナキズム史を公けにする意味もあるように思った。
ことに、近年多くのアナキズム文献が公けにされつつあるとはいえ、全般的にはその思想も、足跡も、すでにとりたてて意味のないものとして、片隅においやられているのが実状である。』
と、書かれている。
で、『一つ一つ積み重ねていく努力』の一つとして、戦後の「機関紙・誌」の資料を集めてみようと思った。
集めると言っても、「今更」の感があるので、本当は、手持ちのものをpdf化して、探し出しやすくする作業ということなのだが・・・。
手元に、向井孝さんからもらった「週間平民新聞」・「クロハタ」・「自由連合」の総目録があるので、それをpdf化した。また、ごく僅か現物がある「「クロハタ」・「自由連合」については、順次pdf化する。姫路版自由連合については、手持ちについて目録を作成、すべてpdf化した。
本当に少部数の機関紙についても、機関紙各種としてまとめる。(今のところ、無政府主義運動54号・労働運動(神戸)創刊号・労働と解放(神戸)1~7号(3欠))
サテどうなるやら。
手順として、予習-1。
『「日本アナキズム運動史」-むすびにかえて』から引用
『1946(昭和21)年5月12日、全国から200名余の参加をえて、東京・芝の日赤講堂で、「日本アナキスト連盟」(全国委員長・岩佐作太郎)の結成大会が開かれた。アナキズム陣営もおくればせながら運動再開ののろしをあげたのであった。機関紙として『平民新聞』が幸徳時代、大杉時代についで三たび発刊された(46年6月15日創刊、週刊、のち旬刊)。『平民新聞』の題字の横には、「自由なくして平等なく、平等なくして自由なし」と「国家の名によろうと民衆の名によろうとワレラは一切の強権に戦ひを宣す」という二つのスローガンがかかげられていた。
ところが、そこに結集したもののうち、多くは、戦前に活動の経験をもったアナキストたちであった。戦前に活動の経験をもたぬ青年層もかなり参加してはいたものの、そのうち職場に足場をもつ労働者は必ずしも多くはなかった。ましてや、戦後日本資本主義の基幹産業となる分野からは、組合としての参加はなく、せいぜい個人的に、あるいは有志として参加するにとどまった。それでも、翌47年5月の連盟第二大会ころから、青年労働者の参加もめだちはじめた。しかし、その伸びはその後も順調につづくというのではなかった。労働組合との結びつきも思いどおりにははかどらず、永続的な運動として一つの流れを形成するまでに回復・発展するというものでもなかった。むしろ、対立と分裂をくりかえしたり、自陣営からの離脱者を生みだしたりして、恒常的な少数派に沈澱していくのであった。
戦後の対立・分裂は、連盟創立直後の1946年10月にはやくもはじまった。「アナーキズムへの懐疑から出発し、そしてアナーキズムの修正を意図」(『平民新聞』10・11合併号、46年12月25日)する一部のものが、「共産党との共同闘争と暴力闘争方法放棄」を訴えて、連盟を脱退し、「日本自治同盟」を結成したのが、その最初であった。その後も、戦前昭和期の自連と自協、純正アナキズム派とアナルコ・サンジカリズム派の対立を再現するかのように、1950(昭和25)年10月には、連盟はその二派に分裂した。アナルコ・サンジカリズム派は51年6月、「アナキスト連盟」を結成(55年に「日木アナキスト連盟」に改称)、アナキズム派は51年7月、「アナキスト・クラブ」を結成した。それを機に、連盟(68年11月解散)、クラブともに、再興への努力にうちこむが、その機会をつかめず、一時的な活気をのぞいて後退の道をつきすすんだ。しかも、その後も、それらは離合集散をくりかえした。ほかにも多くの小集団、あるいは活動が生起しては消え、消えては生起した。
そのあとには、アナキズムかアナルコ・サンジカリズムかといった伝統的な対立軸のほかに、資本主義の高度化がすすむなかで、アナキズムが体制内において権力や権威の骨抜きをはかる個人主義的な個の自立の思想としての道をえらぶのか、それともそれをこえて強力な反体制理論としての道をえらぶのか、あるいはその双方を結びつけた反逆と反体制の理論としてすすむのか、といった戦後アナキズムの中心的な流れを構成したいくつかの視点も未解決の問題としてのこされたままである。
そのような戦後の流れは、マルクシズムのそれにくらべて、きわめて極端な対照を示している。マルクシズムは、戦後着実にその勢力を拡大した。両者の差は、時とともに顕著になった。マルクシズムの発展にたいし、アナキズムは、その後労働組合には個人的なつながりをもつ以外、ほとんど影響力をもちえなくなっていく。しかも影響力や勢力を失うだけでなく、戦前にアナキズムがまいた個の自立や自由連合の精神さえ、ある時期には労働運動や社会運動の領域からことごとく払拭されてしまいそうな状況であった。』
「山鹿泰治年譜-付 関連アナキズム運動年表 発行:戦争抵抗者インター日本部」より抜き書き
1946年5月21日 「日本アナキスト連盟」結成大会
6月15日 週間「平民新聞」(東京)発行
1947年5月10~11日 日本アナキスト連盟第2回大会
2月10日 「無政府主義会議」創刊
1948年5月15~16日 日本アナキスト連盟第3回大会
11月 「リベルテ」(中国文化改題)発刊
11月6~7日 日本アナキスト連盟全国委員会
1949年5月7~8日 日本アナキスト連盟第4回大会
8月22日 「平民新聞」(東京)129号で廃刊
9月25日 広島「平民新聞」51号
10月15~16日 第4回日本アナキスト連盟全国委員会
12月10日 旬刊「平民新聞」岡山より続刊
1950年5月20~21日 日本アナキスト連盟第5回大会
10月 日本アナキスト連盟事実上解体
1951年3月 半月刊「平民新聞」大阪より続刊
5月「平民新聞」(大阪)通巻154号で廃刊
6月「アナキスト連盟」結成大会
7月「アナキスト・クラブ」結成
7月15日「自由共産新聞」(東京)発行 アナキスト連盟
9月1日「アナキスト・クラブ」1号 日本アナキスト倶楽部
9月10日 「自由共産新聞」九州版1号
10月14日 アナキスト連盟第1回代表者会議
12月15日 旬刊「平民新聞」(九州自共改題)飯塚にて発行
1952年3月「自由共産新聞」(東京)8号で廃刊。
4月3~4日 第2回大会アナキスト連盟
10月 アナキスト連盟第2回代表者会議
12月1日 アナキスト連盟理論機関誌「アナキズム」発行(東京)
1953年5月「平民新聞」(飯塚)49号で廃刊
5月23~24日 第3回大会アナキスト連盟
10月11日 アナキスト連盟第3回代表者会議
12月 「アナキズム」7号より大阪発行
1954年4月10~12日 第4回大会アナキスト連盟
10月26日アナキスト連盟、戦争抵抗者インターナショナル(WRI)に正式加盟
1955年4月17~18日全国アナキスト大会 アナ連・クラブ合同問題について懇談
7月 「アナキズム」(大阪)24号で廃刊
9月24~25日 第5回大会アナキスト連盟「日本アナキスト連盟」と改称
12月「ひろば」1号(神戸)発行
1956年3月18日旬刊「クロハタ」創刊(福岡)
10月6~7日 第6回大会日本アナキスト連盟
1957年7月1日「ヒロバ」(ひろば改題)6号
10月19~20日 第7回大会日本アナキスト連盟
1958年11月2~3日 第8回大会日本アナキスト連盟
1959年11月7~8日 第9回大会日本アナキスト連盟
11月「ヒロバ」(14号より「無政府共産」と改題)
1960年8月7~8日 第10回大会日本アナキスト連盟
1961年4月29~30日 日本アナキスト連盟臨時大会
5月1日「アナキズム」18号(「無政府研究」が改題。発行所が「PBKの会」より「日本アナキスト連盟」へ移る)
11月3~4日 第11回大会日本アナキスト連盟
1962年8月4~5日 第12回大会日本アナキスト連盟
8月「アナキズム」20号で廃刊
9月1日「自由連合」79号(日本アナキスト連盟機関紙「クロハタ」が改題)
1963年11月23~24日 第13回大会日本アナキスト連盟
1964年11月1~2日 第14回大会日本アナキスト連盟
1965年11月21~22日 第15回大会日本アナキスト連盟
1966年11月19~20日 第16回大会日本アナキスト連盟
1967年11月18~19日 第17回大会日本アナキスト連盟
1968年11月23~24日 第18回大会日本アナキスト連盟 全員一致で解散決議
1969年1月1日 「自由連合」149号(終刊号)
3月「自由連合」(姫路)発行
1972年10月「自由連合」(姫路)40号の4で廃刊