雑事百話

第2話 西成市民館-1955年発足の時の建物は新築か、改築か?

2023年10月現在,、萩之茶屋2丁目に建っている「西成市民館」は、1972年に建てられたものです。
大阪市会  昭和46年2・3月定例会常任委員会(民生保健・通常予算)  0306日-05に、桜井民生局主管の答弁が記録されていますが、それには、「今度計画しております計画の中では、西成市民館を全部根底から整地をいたしますので、その中に保育所の運動場も含めまして、一貫した保育所にやりたい、こう計画しております。」とあり、元の建物を取り壊した上での新築である事が確認できます。
念の為に大阪市のホームページで確認すると以下のようですが、「昭和47年10月建替え」とあります。
西成市民館の概要について
1 施設概要
・施設種別 隣保事業施設
・所 在 地 大阪市西成区萩之茶屋2-9-1
・設置年月日 昭和 30 4 月(昭和 47 10 月建替え)
・敷地,建築面積 敷地:636.36 ㎡、建築:318.94
・延床面積 759.88 ㎡(うち、市民館部分 416.18 ㎡)
・建物構造 鉄筋コンクリート造 3 階建 (わかくさ保育園併設)
・利用定員 110 名(講堂 80 名、集会室 A 20 名、集会室 B 10 名)
・利用時間 午前 9 時から午後 9 時まで
・休 館 日 日曜日・月曜日及び国民の祝日に関する法律に規定する
休日並びに 12 29 日から翌年 1 3 日まで
・指定管理者 社会福祉法人石井記念愛染園
・指定管理期間 令和3年4月1日~令和8年 3 31 日(5年間)
建て替え前の西成市民館はどんな建物だったのか
1972年に建て替えが完了する前の建物の姿は、いくつかの写真で目にすることが出来ます。
西成区史に掲載されている写真ですが、手前の四角い建物が愛隣会館、奥の半円形の外観を持つ建物が建て替え前の西成市民館です。
「萩之茶屋周辺まちづくり合同会社」が発行している「萩まちだより」では、写真や地図を多用して地域の歴史などを紹介していますが、西成市民館についても紹介しています。(ともかく写真です-目次 の頁で見ることが出来ます。)
それによると、「徳風勤労学校の講堂が、1955年に改修されて西成市民館として使用されるようになった」とされています。また、1945年3月、戦災で火が入って以降、1955年までの10年間は使われていなかったとしています。
「萩まちだより」の歴史物は、非常に良いお仕事で、個人的にも大好きな企画なのですが、市民館の建物の推移の説明については、チョット頂けないと思っていました。
それは何故かというと、焼け残った徳風小学校の講堂が、進駐軍労務供給の場として使われていたという、「伝承」を信じて、長年、根拠となる資料を探し続けていたからで、そんなに簡単に、「1955年まで使われていなかった」と決めつけないで、という思いでした。
放置するのもモヤモヤするので、大阪歴史博物館のホームページで公開されている「昔の大阪」写真ライブラリーで見つけた西成市民館の写真に、「新庁舎外観」という説明があったのを持ち出して、「転用でなく、新築ではないか、訂正が必要」と公開フェイスブックで伝えて見ました。
「萩まちだより」の歴史物はよく出来たお仕事だけれども、市民館については少し訂正が必要と思います。
市民館は、徳風勤労学校の焼け残りを転用したのではなく、「大阪歴史博物館 コレクション 『昔の大阪』写真ライブラリー」によれば、1955年新築とあります。
また、1945年から1955年まで放置されていたのではなく、194510月からは西成日傭勤労署として、19474月からは西成公共労働安定所として、19505月に東萩町28番地に移転するまで進駐軍への労務供給の拠点として活用されていました。
西成公共労働安定所職場青年部の機関誌(19476月-12月まで4号分)が確認されたので、史実として主張しても苦情は出ないと思われます。
これに対して、大変ありがたく、嬉しいことに反応がありました。(一部修正して紹介)
(1)  徳風国民(勤労)学校の「講堂」の「転用」としたのは、
①それまでの空中写真や地図からほぼ同じ形状と推察される建物(旧講堂)が、1963年撮影(小島宗治撮影)の空中写真に写っていること、
②市会会議録で、同「講堂」を「4042,942円」かけて「改修」したと記録されていること、でした。
(2)  わたしもご指摘の大阪歴博の写真ライブラリーで確認しましたが、当該写真には「新庁舎」とはあるものの「新築」とはありません。ゆえに、旧「講堂」を改修して、新たに「西成市民館」として開館した(撮影は少し後の5月?)、と結論付けました。
そこで、あらためてご質問なのですか、
 (1)「新築」といわれる記述はどこにありますでしょうか。
  (2)仮に「新築」である場合、その建物は1963年空撮のどの建物にあたりますでしょうか。
なお、この点-進駐軍への労務供給の拠点として活用されていましたは、「萩まちだより」編集の時点では「不明」でしたので、新たな知見として大変勉強になりました。
1955年西成市民館開所の前(1942年)と後(1957年)の航空写真を見比べてみると、確かに似たような輪郭の建物が、同じ場所に建っていると確認されます。
普通に考えれば、改修して使ったということに落ち着くはずですが、私なりの解釈は、「周辺に他の用途の建物が建てられていたので、建て替えるにしても建物の向きを変えたりすることが出来ず(建物の道路に対する角度。戦災復興で復興で道路が付け替えられているのですが、その工事が終わっているとしての話。)、旧講堂を取り壊したその場所に建てることにした。事のついでに、建物の外観も先にあった講堂のデザインを踏襲した。」というものでした。
上の「萩之茶屋工区・従前図」は、分かりにくいですが、徳風学校の右に見えている線が無くなった道路です。色の付いている部分が区画整理で新しく整備された道路。新しい道路に対して徳風学校の敷地そのものが斜めになっていることが分かります。その敷地内に建てられていた講堂も、新しい道路には斜めに接する事になったわけです。講堂の改修時期と道路の付け替え工事の時期との前後関係は確認していませんが、ライブラリーの写真を見る限り、同時あるいは道路がやや先行のように思えます。
新築説に傾いたについては、顕彰史跡の説明に使われた写真と写真ライブラリーの写真があまりのも違いすぎたと言う事もあります。ただし、建物を撮影した角度が異なることについて、もう少し注意を払えば、ひょっとして同じ建物か、という疑問を持てたかも知れません。
「新築」という記述はどこにあるかという問いに答えるべく、改めて探査してみました。
現在は西成区役所保健福祉センター分館となっている建物には、大阪市立更生相談所(2014年3月閉鎖)がありましたが、そこの事業概要(平成8年版)に所収されている参考資料:年表には、
「昭和30年4月 市立今宮市民館 新設移転し、市立西成市民館と改称」
と、ありますが、これも「新設=新らしく設けた」であって、「新築」とは明記されていません。「新築説」は最早これまでかと思われましたが、ズバリ「新築」と書いた資料がありました。
戦後の社会情勢は急速にその再建を要請するものがあり、本市では、先ず昭和21年2月に城東、福島、東成各内職あっ旋所を再び市民館に復せしめ、次いで翌22年3月には今宮市民館を増設し、隣保地域の教化と福祉増進をはかった。-中略-
昭和30年4月、今宮市民館を新築移転するとともに、西成市民館と名称変更し、ついで6月、浪速市民館を開設した。

(「大阪市民生事業40年史」1962年1月、大阪市民生局庶務課 168頁)
この資料は、20年くらい前に大阪市立中央図書館で見つけて読んだはずなのですが、市民館が新築か改築かなどには関心がなかったようで、記憶に留まっていませんでした。今回再発見したのは、国立国会図書館デジタル資料のお陰です。
「新築」という記述、見つけましたと伝えたところ、西成区史には「改修移転」と書いてあるとの指摘がありました。
市立西成市民館(甲岸町21)
戦前当区内には玉出(辰巳通1丁目)今宮(旭南通)の両市民館があったが、戦災のためいずれも不幸焼失した。しかし戦後混乱の中隣保事業施設の再設置が強く要望され、昭和22年3月旧今宮保護所(東田町所在)北館を改装して今宮市民館として発足した。そして、その後地元の機能拡充の要望に応え、30年4月現在地のもと徳風小学校の残存建物を改築の上、西成市民館と改称し再発足した。なお旧館は付設保育所として現在に至っている。
(「西成区史」1968年10月 西成区市域編入40周年記念事業委員会 240頁)
「西成区史」については、35頁の「あいりん地区の呼称」の記述に誤りがあり、個人的には丸呑みできない感が強いのですが、それはいってみれば「民生40年史」についても言えることで、さて、どちらが「史実」か更に探究が必要ということになります。
航空写真以外にも、1955年の前と後の建物の外観を比較できる資料があります。
上の「平面図」は1938年、釜ヶ崎の新校舎とされています。それによると、講堂の南部分が半円の外観を持っていたことがわかります。下の1964年の市街地地図は、西成市民館が四角の建物として表現されていますが、道路に対して斜めになっている事は読み取れます。1955年の写真と照らし合わせれば、南側が上の平面図と同じように半円として表現されるべきであったことが判ります。市街地図では建物の外観が四角に表現されており、平面図には周辺の道路が見えないので、戦後の道路に対する傾きが想像できなにくい、そんなことから、航空写真の比較程には建物の同一性を読み取ることが少し難しいのですが、航空写真を参照すれば建物の同一性を認めることが出来ると思います。
ここまで来ると「新築説」に分がないのは明らかですが、ダメ押しを一つ。
更生相談所の職員であった細見正さんが「あいりん地区に於けるスラム対策の現状と問題点」で紹介されている資料の一つに「施設の概要・昭和44年4月現在」があります。その中で「西成市民館」も取り上げられています。
隣保館 西成市民館 甲岸町21 鉄筋コンクリート階建
旧徳風小学校を改築 4,042,942円  
竣工期日 昭和30年4月25日  事業開始 昭和30年4月25日
1階 事務室・宿直室・倉庫・大阪府済生会今宮診療所
2階 講堂・和室・小会議室
職員6人 昭和46年10月1日閉館
ここには、改修の根拠としてあげられていた(市会会議録で、同「講堂」を「4042,942円」かけて「改修」したと記録されている)金額と同じ額が示されています。
金額も一致しているし、「改築説」で確定、とすれば良いのですが、割合としつこい性格なので、ここまで来たら、市会議事録も確認しなければ「画竜点睛を欠く」だわな、と、図書館へ。
先ず見つけたのが、「昭和30年度通常予算に関する大阪市常任委員会記録」の3月31日分。そこには「市民館という名前であっても 、あるいは児童館という名前が付いても、みな保育部がございます。そして相当の児童がこれの恩恵を受け保育されておる・・・」との、民生局長の答弁も記録されていて、戦後ベビーブーム(通常1947~1949年)があったので、1955年当時は、保育所を増設することに力を入れていたことが判ります。
その説明の流れで「市民館につきましては一昨年の予算で今宮市民館を非常に狭わいな所でありますが、現在29年度事業として建築中であります。」と述べられています。
記録では「建築中」で、「改築・移転」かどうかも不明、金額も不明、更に探査必要ありということで、年度を27年迄さかのぼって厚生委員会記録に目を通してみましたが、求める情報には辿り着けませんでした。
かなわぬ時の専門家頼み、府立図書館eレファレンス回答の成功体験の下に、大阪市会図書室調査担当にメールで相談。目下回答待ち状態です。
昭和30331日 大阪市会厚生委員会記録(第2回) 311
〇北神民生局長 児童館は現在市内に三ヵ所ございまして、非常に喜ばれていることは事実であります。地元の非常な御援助の賜と威謝しております。これの増設につきましては私どもも希望しておりますが、実は市民館という名前であつても、あるいは児童館という名前がついても、みな保育部がございます。そして相当の児童がこれの恩恵を受け保育されておるのでありまして、名前は児童館あるいは市民館でありましても、使い様によつてはあまり変りないわけでございます。そういう事情で市民館と児童館と合わせて総合的に考えておるわけでございます。
市民館につきましては一昨年の予算で今宮市民館を非常に狭わいな所ではありますが、現在二十九年度事業として建築中であります。
なお二十九年度としては浪速区に市民館をやつております。今回の予算では此花警察署跡を利用して市民館を計画しておりますが、これは土地の関係もありまして、児童館とすると非常に広い所がないと意味がないので、市民館としたのでございます。殊に西淀川のように非常に広い所がありますと、特に便利なんであります。生野児童館も、城東市民児童館も相当広い所を持つております。児童館となりますと広大な地域をもつていないと、児童館という口幅広いことはいえない事情もある
現状では、府立図書館eレファレンスに教えていただいた写真を見れば、建て替えで出なく、改修である事は一目瞭然、市会議事録云々が確認されなくても、改修で確定と致します。お騒がせいたしました。「萩まちだより」歴史物担当の関係者の皆様には、不確かな認識により異論を差し挟みましたことをお詫び申し上げます。

附録:今宮市民館

「大阪市民生事業40年史」所収の表53「市民館一覧」の中に、西成区史でも西成市民館の項で取り上げられていた玉出と今宮の二つの市民館が見えます。
玉出市民館 昭和4年12月創立 敷地134坪 木造2階建て 20年3月14日罹災焼失
今宮市民館 昭和15年3月創立 敷地270坪 木造2階建て 20年6月15日罹災焼失
戦争が苛烈になると共に国民生活苦が深まり、10市民館を内職あっ旋所に転用、北・港・東・今宮の4市民館だけが残った。戦災で北市民館のみが残った。
戦災で焼けた今宮市民館は、旭南通にありました。1947年に開設された今宮市民館は東田町にありました。
西成区史では、今宮保護所の北館を改修して今宮市民館としたとあります。
事のついでに少し説明を付け加えると、今宮保護所分館(北館)は、大阪救護会が、1932年1月に今宮簡易宿泊所(定員300名)として開設したものですが、救護会が1934年7月に解散したので、大阪市に寄附された建物です。これにより、今宮保護所の収容定員は490名となりました。
戦災を逃れた今宮保護所は、戦争の影響で家や職業を失った人たちの増加で、満杯状態の筈なのに、なぜ、今宮市民館に転用されたのかというと、占領軍から「保護所は不衛生施設である」と指摘されたので、「その環境、衛生状態に鑑み、これを廃止した。(略)民生事業40年史)」という事情がありました。

戦前に「西成市民館」は存在したのか

戦前に、玉出と今宮の二つの市民館があるのは確かですが、「西成市民館」はどうだったのでしょうか。
大阪市社会部が編集し、1929年に発行された「大阪市社会事業概要」の「隣保事業」の項に、「尚近く-略-西成区辰見通2丁目に西成市民館を新設することになっている」と書かれています。
「西成市民館」を開設する計画はあったが、事情は不明だけど、「玉出市民館」に変わったということのようです。昭和15年の「今宮市民館」開設の時に、「西成市民館」としても良さそうな気がしますが、先に同一区内の市民館を玉出市民館と命名した手前、区名を冠するわけにはいかないという判断があったのかも知れません。
裏取りなしの、感だけでいえば、「玉出住民」は、「西成」より「住吉」あるいは「玉出」そのものに愛着心が強く、「西成市民館」という名称を受け入れなかったという事情があったとも考えられます。逆に、今宮側から、「あんな南にあるのに、なんで西成を代表する市民館なんだ。もう一つ設置せよ」という要求があって、将来もう一つ建てるという含みで「玉出」になったのかも知れません。
この話、裏、とれるのでしょうか?????
1947年に今宮保護所の北館を改修して市民館としたときに、名称を西成市民館としないで今宮市民館としたのは、今宮保護所の跡だったからでしょうか。移転したときに、西成市民館となった経緯も不明ですが、「1区1館」の見込みでそうなったのかも知れません。これも、裏付け資料を探すのは難しそうです。

2023年10月6日公開