雑事百話

第1話 釜ヶ崎と占領軍労務供給-西成日傭勤労署、知っていますか?

 1945年9月26日の大阪朝日新聞に、占領軍上陸のことが書かれています。
 占領軍上陸は、「人」だけのことではありません。「物」の移動も伴います。通常占領軍の食料などは、可能な限り現地調達が原則のようですが、米軍は、日本進駐に当たって、日本側の抵抗を最大に見積もっていたので現地調達に自信が持てず、大量の食料等を持ち込むことになったので、その運搬について、悩みがあったようです。

上陸の前日、9月25日朝日新聞に、米軍と和歌山市との間であった、作業員提供のやりとりが載っています。
米軍へ勤労奉仕
和歌山市に先遣駐在している上陸施設本部の労力局から終戦連絡事務局を通じて24日和歌山市へ、資材揚陸のため26日より1010日の15日にわたり常時二千人一昼夜三交代として延べ九万人の作業員提供の申し入れがあったので、市では早速連合町内会長会議を開催、結局満十八歳から五十五歳までの元気な男子をそれぞれ町内会で選定、勤労奉仕することになった。1945(昭和20)年925日 大阪朝日新聞
大阪府 和歌山県 合計
要求数 供出数 要求数 供出数 要求数 供出数
1945 9 2,097 2,085 1,400 1,306 3,497 3,391
10 111,214 110,743 14,100 13,316 125,314 124,059
11 173,333 172,537 8,500 7,786 181,833 180,323
12 218,449 216,126 0 0 218,449 216,126
1946 1 154,951 152,661 0 0 154,951 152,661
660,044 654,152 24,000 22,408 684,044 676,560
供出部隊数 121ヶ所
常傭労務者数 1,460名
 上の表は、1946年1月29日、大阪府知事が新居善太郞から松井春生に交代した時の勤労課からの説明資料。大阪湾の機雷を避けての和歌山からの上陸は、11月までであったようです。
 上記表で示された期間は、 「占領軍調達史-占領軍調達の基調」の「あとがき」で示された時期区分では「第1期占領初期の調達の混乱期」に含まれています。
 その期の特徴は、以下の如く説明されています。
昭和20年8月終戦から昭和21年3月末までのほぼ8ヵ月です。本土進駐に際し、一般指令第二号によって連合国最高司令官は現地調達の基本方針を指示し、また各軍は作戦命令等それぞれ現地調達手続きを部内に指令していたのですが、進駐当初のことであり、現地部隊は緊急に設営を完了するために調達は強権的な色彩を帯びその要求形式も核設営地で無統一に行われ、一方日本側の受入体制も必ずしも整備せず、各地で混乱がおきた時期であります。
混乱の一端を「国立公文書館アジア歴史資料センター」の公開資料(8・労務者募集に関する件)から紹介しましょう。
昭和20年11月15日   亀山厚生次官殿(宛先)      終戦連絡中央事務局 次長 松嶋鹿夫(発信人)
労働者募集に関し各地勤労署協力方の件
厚木航空隊基地における労働者の需要は大体毎日1,700~1,800人見当にして、これが労働者は厚木勤労署監督下に労働供給業者よりなる協力会の手を通じ、厚木航空隊基地附近並びに小田急沿線地帯より募集し基地内に送り込みおるところ、一般に労働者の素質低下し、能率挙がらざるため、進駐軍当局としては、労務者員数の増加によりこれが補充を講じおる関係上、上記の如く1,700~1,800人程度を要する次第なるが

目下農繁期なると交通機関の便充分ならざる外、労働者募集に関する種々なる隘路等のため募集は思わしからず、過去に於いては毎日5~600人不足来たりしたり。右に関し、厚木終戦連絡委員会及び協力会よりは進駐軍関係当局に対し事情を具陳し、本月中、毎日、送り込み労働者人員を1,200に程度にて間に合わせ貰うこと了解を取り付けたるも、実際は毎日1,300人以上を要求し来たりたり。

これに対し附近町村より一時的に勤労奉仕隊を出さしめ補充を図りつつあるも前記1,200人を充たし得ざる現状なり。

本委員会に対しては必要数労働者の供給方厳命し居る関係もあり、事態此の儘推移するするときは、進駐軍当局は直接行動に出づるにあらずやとの懸念あり。就いては、此の際、労働者募集に関する一切の各地方的隘路を除去し、全面的に厚木連絡委員会に協力し、是非とも必要数の労働者獲得に盡力する様、藤沢・平塚・松田・相模・大野各地勤労署に対し、至急訓令方御手配相煩わしたく、御依頼申進す。
ちなみに、この件に対する返信は、「神奈川県警察部長に直接申入れられたく」というものでした。当時は、「労働」も「警察」の担当であったことが分かります。
厚木連絡委員会 井上委員長宛   終連第四部長発    昭和20年11月21日
第2号 (労働者募集に関し各地勤労署協力方の件)
11月15日附普厚第三五号貴信に関し
本件は神奈川県警察部長に直接申し入れられたく 尚 厚生省に対しては右趣旨当方より連絡せり
「進駐軍労務供出」が最優先課題であった事を示す「指令」も紹介しておきます。
進駐軍関係労務者充足に関し厚生省より地方長官宛 左の通り指令せり  昭和20年12月1日
労務充足の現状は必ずしも良好ならざるを以て、食料・嗜好品・作業用品の特配、雨天に際する賃銀歩増し等により絶対確保を期し
要すれば厚生省令第41号による所属命令発動等の強制措置によること
尚 進駐軍の要求による報告・資料の提出は必ず期日厳守すべし。遅延のため罷免等の処罰を受けたるものあり。
大阪における事情
大阪では、役所内の職務分担で多少のごたつきはあるものの、進駐軍労務供出に関しては一部職種を除き、「極めて順調なる成績を収めつつある」と昭和21年1月の「知事引継書」で自己評価しています。
当該部分を紹介しておきます。
1.勤労課の事務分掌並びに事務分担に関する事項
勤労課に於いては従来勤労署の監督に関する事項、国民動員の実施に関する事項、其の他労務供給事業、労利(?)職業紹介及労務者募集に関する事項などを管掌し来り、主として国民動員の企画に関する事項は企画課に於いて所管し来たれるも終戦後に於いては国民動員の実施に関する事項については、之に代わるに復員軍人、在外引き揚げ邦人の就職斡旋、其の他一般の就職斡旋等国民職業の再配置に関する事項を中心に事務を分掌しつつあり(目下人事課に於いて事務分掌の改正立案中の趣)
尚各別事務分担並びに課職員の定員、現員表は別紙第一号表の通りにして
目下の所進駐軍関係労務の充足を第一義として別紙第二号表の通り、臨時に係を編成し、之に対処し居れり。
1.勤労署に関する事項
国民就職の再配置を目途とし失業救済の第一線機関として活躍せる勤労署は府下に十六ヶ所を設置せられ、内大阪市内は七ヶ所、堺、布施、其の他の郡部は九ヶ所なり。その名称、所在地、管轄区域は別紙第三号表の通りにして之が職員定数及び現在人員は別紙第四号表の通りにして克く少数職員を以て現下緊要事たる進駐軍関係労務の供出、石炭山労務者の充足等、優秀なる成績を収めつつあり、
尚右一般の勤労賞の外に進駐軍関係労務、失業救済事業所関係労務等の斡旋を主たる目的とする日傭勤労署を大阪市及び堺市に七ヶ所を近く設置せらるる見込みなり。
1.進駐軍関係労務者の供出に関する事項
第一軍団及び九八師団関係の管下に於ける所要労務の充足については可及的管内に於ける自主的調整を目途に関係機関を督励努力中なるも、
既に客年九月下旬以降一月下旬に至る約四ヵ月間に於いて別紙第五号表の通り其の要求延員数680,000人に対し670,000人(充足率99%)の充足を見、極めて順調なる充足成績を収めつつあり、目下労務供出先関係各部隊数(現場数)府下を通し118ヶ所にして一日平均6,000人の労務充足を見つつあり其の内約1,000人の接遇及び特殊技能関係の常傭労務者を除きては他は殆ど大半が臨時労務者なり。
尚之等の臨時労務者の確保に付いては飽くまで指導勧奨を建前とせるも昨今労報の解散等に依り大工、左官、電気工等一部の職種に付いては甚だしく供出困難を極めつつあるに因り今後の推移如何によりては「従業命令」の発動に依る強制措置をも考慮中なり
なお、「勤労署に関する事項」にある別紙三号表「国民勤労動員署名称所在地管轄区域一覧(昭和21年1月7日現在)」には、「西成国民勤労動員署」は見当たらず、西成区は阿倍野・住吉・東住吉等の各区と共に「阿倍野国民勤労動員署」の管轄に含まれています。
「勤労課の職務分担」に関連して付言すれば、敗戦に伴う大阪府の労働行政組織の変遷について、「大阪府労働行政10年資料」(編集発行者 大阪府労働部次長 森本 繁:昭和33年2月1日発行)は、次のように概括しています。第一編序論第二節戦後の労働行政
労務動員強化のために設置された厚生省勤労局は廃止され、労政局、勤労局(後に職業安定局と名称)の二局が新設された。労政局においては、賃金、其の他の労働条件、労務管理に関する事項を、勤労局においては、復員に伴う職業対策、職業紹介、職業指導及び職業訓練に関する事項をそれぞれ所管することになった。
地方に於いても労働行政は、警察部の所管から内務部又は教育民生部の所管となり、国民勤労動員署も勤労署に改められた。
大阪府においては昭和20年12月に、勤労部労政課は内政部労政課に、勤労部動員課は内政部勤労課と改められた。
-略-
大阪府においては昭和21年12月労働部が新設され、民生部にあつた労政課及び職業課がそれぞれ労働部に属することになった。
昭和22年4月、国民勤労署は廃止され、公共職業安定所が設置され、同年5月、職業課は職業安定課となった。
具体的には、何処が対応したのか
神奈川県の場合は、「国立公文書館アジア歴史資料センター」の公開資料の中に、進駐軍労務供給についての情報がありましたが、残念ながら、大阪府に関しては今のところ探し当たっていません。
先に紹介した引継書の中に「一般の勤労賞の外に進駐軍関係労務、失業救済事業所関係労務等の斡旋を主たる目的とする日傭勤労署を大阪市及び堺市に七ヶ所を近く設置せらるる見込みなり。」とありますが、具体的名称は書かれていませんでした。

少し後の時期になりますが、「知識階級失業応急救済事業」によって、進駐軍の労務賃金を支払う補助要員として、勤労署に配置される人員の計画書が作成されます。
1946年9月「失業対策資料・第2輯・公共事業特輯」厚生省勤労局
それにより大阪の配置状況を見ると、20人配置される日傭勤労署は、西成・天六・十三。10人配置される日傭勤労署は、今里。5人配置される日傭勤労署は、堺・野田。一般勤労署では、岸和田の20人が計上されています。
「西成」は見えていますが、「阿倍野」は見えません。阿倍野では、進駐軍労務提供は取り扱っていなかったようです。

「天六」については、『占領期生活世相誌資料Ⅰ-敗戦と暮らし』
(永井良和編・2014年8月新曜社)に「大阪の自由労働者-天六の日傭勤労署素描」(『ダイヤモンド』第34号21号、1946年7月)が収録されており、天六日傭勤労署の実務の一端が紹介されています。一部与太話に類する内容も含まれていますが。
西成日傭勤労署
ここまでのところ、阿倍野国民勤労動員署の管轄に西成区が含まれていたことは、「引継書」で分かりましたが、西成日傭勤労署については、進駐軍へ人を紹介し、それ故に賃金支払い要員が必要となるので、「知識階級失業応急救済事業」によって20人が配置されたことが分かっているだけで、どこにあったのかすら、はっきりしていません。

1973年3月に細見正さん(愛隣会館・更生相談所勤務)によって、手書き私家版でまとめられた「あいりん地区に於けるスラム対策の現状と問題点 」では、徳風勤労学校の項で、徳風勤労学校が1938年に浪速区から西成区甲岸町12番地に移転し、空襲により講堂を除く全校舎が焼失。焼け残った講堂は「一時進駐軍労務紹介所となり」と記されています。

また、職安の項では、沿革の中で「昭和20年10月5日西成日傭勤労署」のとありますが、「進駐軍労務紹介所」と「西成日傭勤労署」が同じものなのか、違う場所に存在したものかは、明示されていません。

ところが一冊の小冊子によって、二つの機関の関係が明らかになりました。

その冊子は、『業務概況 阿倍野 昭和38年版 阿倍野公共職業安定所刊』で、文字通り、阿倍野公共職業安定所の業務概況をまとめたものです。その中に、本所と出張所の沿革が紹介されています。
本所沿革
昭和10年2月4日  天王寺区下寺町4丁目31の2 大阪市天王寺職業紹介所として開設
昭和13年7月1日  大阪職業紹介所天王寺出張所
              職業紹介法改正法律施行により国営に移管。改称し厚生省所管になる。
昭和16年2月1日  大阪国民職業指導所天王寺出張所
              職業紹介所官制改正により改称
昭和17年3月10日 阿倍野国民職業指導所
              厚生省告示106号による改称
昭和19年3月1日  阿倍野国民勤労動員署
              勅令第980号により改称、内務省の所管となる
昭和20年10月5日 阿倍野勤労署
              勅令第560号により改称
昭和22年4月8日  阿倍野公共職業安定所
              勅令第118号により改称、厚生省の所管となる
昭和22年9月1日  政令第180号により労働省所管となる
出張所沿革
昭和13年7月1日  西成労働紹介所
               西成区旭南通5-3に発足
昭和16年2月1日  大阪国民労働指導所西成出張所
昭和17年3月10日 阿倍野国民職業指導所西成分室
昭和19年3月1日  阿倍野国民勤労動員署西成分室
昭和20年10月5日 西成日傭勤労署
                旭南通から甲岸町32に移転
昭和22年4月8日  西成公共労働安定所
昭和23年6月30日 阿倍野公共職業安定所西成労働出張所
昭和25年5月11日      甲岸町から東萩町に新築移転
昭和36年12月26日     同地に新庁舎竣工
細見さんの言う「進駐軍労務紹介所」は、徳風勤労学校の所在地-甲岸町12ですが、阿倍野職安業務概況に言う「西成日傭勤労署」は-甲岸町32。地番が違いますが、同じ町内であることは確かなようです。
先に紹介した阿倍野職安の「業務概況」によれば、「西成日傭勤労署」が存在したのは1945年10月から僅か16ヵ月間で、1947年4月には「西成公共労働安定所」と変わっています。ただし、場所が変わったのは1950年5月のこととされていますから、名称は変わっても、場所は甲岸町から変わっていないことになります。
西成日傭勤労署についての情報は乏しいのですが、西成公共労働安定所については、少しだけ情報があります。
一つは『昭和22年版 大阪商工名録』です。この中の「官公衙」一覧の中に西成公共労働安定所が含まれており、「西成区甲岸町 徳風勤労学校跡」と記載されています。
ここまで明確に書かれていれば、戦災を免れた徳風勤労学校の講堂が、進駐軍労務紹介所=西成日傭勤労署として利用されていたという説は、事実であったと断定して良いように思えます。
様々な情報から確定する
この「大阪市顕彰史跡第192号」のプレートは日本橋2-8 広田保育園南側の壁に取り付けられています。徳風勤労学校跡地の表示なのに、写真が移転後の建物であるのはなんとなく違和感がありますが、使える写真が他になかったと言うことなのでしょう。
1940(昭和15)年の地図に「徳風勤労学校」の位置を見ることができます。地図に先だって紹介した平面図を見ると、講堂は聖心セツルメントに近い南東角にあったと判断されます。
1945年3月の空襲で釜ヶ崎の多くの面積が焼失したようです。ただ、聖心セツルメントは焼け落ちたのに、コンクリート造りの徳風勤労学校の講堂は、残ったようです。上の航空写真に「今宮住宅」とありますが、コンクリート造りの市営住宅で、空襲で建物内部に火が回りましたが、建物は倒壊しなかったので、内装工事をして速やかに住宅として使用を再開したということです。講堂もそういうことであったと思われます。
1950年国勢調査に先立って、調査区割りを確認する地図が作成されましたが、それには、「西成公共職業安定所」が見えています。その位置は、1940年の地図で確信した徳風勤労学校と同じ場所、取り分けて講堂の場所と同じであると思われます。
西成公共職業安定所青年部機関誌「いづみ」
進駐軍労務斡旋を目的として西成日傭勤労署が甲岸町に設置され、西成公共労働安定所と名称が変わったことは分かりましたが、先に紹介した天六日傭勤労署について書かれたほど具体的な情報には中々巡り会うことができませんでした。
唯一の手がかりは、西成公共職業安定所職員組合青年部機関誌「いづみ」でした。これは、国立国会図書館所蔵:雑誌/プランゲ文庫にありました。
「いづみ」第2号の表紙に描かれた「西成公共労働安定所」の建物の外観は、「西成区に移転した徳風学校」の写真を手書きしたものと言っても否定されることはないと思われます。
機関誌は、1947年6月から12月にかけての発行分4号がプランゲ文庫で確認されますが、それ以後については、発行されたのかどうか不明です。
さて、その内容ですが、総べてを複写請求して見たわけではありませんが、残念ながら、職務内容について、具体的なことは書かれていないようです。
僅かに進駐軍労務供給との関係を示す箇所を紹介しておきます。
13
『進駐軍要員についての一考察』 藤澤文範
進駐軍要員の労務者の完き供出は、占領下にある日本政府の重大なる責務であり、その責務の末端をけがしているのが我々である。我々は全知全能を挙げてその任にあたって来たのであるが、過れる封建的官僚的気風に育成せられて来た我々は、民主主義の旋風に不思議な感情のまま、今日までとに角、汗を流して来たのである。
その間米軍の叱咤を受け、又、民主を口にせる労務者群の非難を受けた事幾度か。その度毎に、我々は互いに励まし合ひ、上司に慰められ、其の労務者の完全充足、其の事務の円滑を計って来たのである。
今日或いはその事務のスムーズでないのを非難される方もあろうけれど、初期の暗澹たる状態を体験して来た我々は、ほっと一息ついた所である。
-略-
進駐軍への労務者の供出は、敗戦日本に負わされたる戦勝国への奉仕であり、又、昏迷せる失業者の精神的(就中、勤労精神)経済的救済となるのである。
我々はここに於いて其の目的を達成するのである。新日本は躍進するのである。(完)
2号17頁
『所内風景“音頭”』 作詞(和田省柴・島村博・三浦康男・土井健三)
1. 西成名物 数ある中で
   俺いら若人 勢ぞろい
 
 若い所長の 陣頭指揮で
  花も咲きます 青年部
2. 西成街道 俺らの町だ
   走るトラック 右腕一つ
   粋な長靴で
 たんかをきれば
  男度胸の 西成だ
11. 千をかぞえる 労務者さばき
   腕と胸とは 鉄より固い
   労務供給と 公共事業

  俺いらの畑に 花が咲く
14. 役所役所と けなすな役所
   おいらの役所は 素敵な役所
   ハロー ハローの渉外係

  モダンボーイも 居てござる
2号7頁
『西成公共労働安定所と-別離の感慨』 前業務課長 奥野吉之丞
住みにくい世の中であるが「いづみ」がコンコンと湧き輝かしいご発展をされるを願うや切である。
時に速くも終戦満二年愈々悪性インフレが前進、しかも絶対量不足である物資面に凡そ縁遠い階級である給料生活者の賃銀が戦前の40倍になったが、物価の飛躍が約100倍乃至400倍の現状である。
これで生活の安定が望める筈がない。職業や労働の安定も無理である。世相が深刻に暗いのも無理である。
この暗い敗戦日本の何処の職場よりも明るいし盛夏の青空のやうに少しの暗さもない西成安定所に短期間であったが勤めることが出来たのは幸福であった。感謝しなければならない。

-総力を挙げて(3字読めず)に協力、労務の供出、簡易公共事業一般日雇労務の需要を充足して平和日本を再建する活気に溢れた雰囲気がある。-
いくら米軍の検閲が前提だとしても、あまりに見も具体的事実が見えなさすぎると思う。書き手の問題かあるいは組織の問題なのかも知れない。人も組織もなかなか変わるものではない、にしても、天六の報告ぐらいのものはあっても良さそうに思うのですが・・・。まだまだ探究が足りないと言うことかもしれません。(現在、大阪府立図書館e-レファレンスに相談中、回答待ち状態)
直接関係有ることではありませんが、講堂は1955年に建て替えられています。(2023.9.28訂正。建て替えでなく、改築あるいは改装が正しい。)

2023年9月22日第1回送信

2023年9月28日以下追加。

参考資料他地区の日傭勤労署の情報です。
札幌中央図書館/札幌市史デジタルアーカイブ   新札幌市史 第5https://adeac.jp/sapporo-lib/texthtml/d100050/mp000050-100050/ht013670
目次 / 第九編 大都市への成長 / 第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開 / 第二節 戦後の社会問題 / 二 進駐軍と市民生活
進駐軍労務傭員当該部分pdfファイル
大阪の自由労務者-天六の日傭勤労署素描(pdf)
占領期生活世相誌資料 敗戦と暮らし 2014815

大阪府立図書館からe-レファレンス回答が届きました。非常に丁寧なもので、感謝、お礼申し上げます。

大阪府立図書館です。e-レファレンス回答(9月26日着信)
お問い合わせの件について回答いたします。
表題】西成日傭勤労署の占領軍に対する労務調達業務実績を知りたい
 【質問・相談などの内容】
 西成(釜ヶ崎)と占領軍労務調達のことを調べているが、具体的な「事実」を示す資料に巡り会えないでいる。ご教示いただきたい。
【回答】
※【】は大阪府立図書館の請求記号です。
結論から申し上げますと西成における占領軍の労務調達について「具体的な「事実」を示す資料」は見つかりませんでした。
 仁連秀雄「駐留軍労務の概要と管理」(『自治大阪 79号』(大阪府総務部市町村課 編 大阪府市町村振興協会 1956)p.60-66所収) 国立国会図書館デジタルコレクション国立国会図書館内/図書館・個人送信限定です。https://dl.ndl.go.jp/pid/2712028/
制度全般の説明が中心で西成についての記載はありません。
『大阪府労働行政十年資料』(大阪府労働部/編集 大阪府労働部 1958)518/727/#
p.226-227「第二章 職業紹介関係業務」>「第一節 一般職業紹介業務」>「七 駐留軍関係離職者の職業紹介」があり、昭和23-32年の駐留軍関係労務者増減状況の表がありますが、大阪府全体での駐留軍関係離職者についての記述で、西成についての記載はありません。
また、章末のp.232に「()連合国軍老無償の職業紹介」の項目があり昭和24-26年の常用/臨時及び日雇の求人数の数値なども掲載されていますが、西成に特化した記載はありません。
『防衛施設庁史 第1巻』(防衛施設庁史編さん委員会/編集 防衛施設庁総務部総務課 1973)433.1/195/#
p.239-462「第2編 占領軍のための労務調達」
『防衛施設庁史 第2[2] 各論編第2部 駐留軍への労務提供』(防衛施設庁史編さん委員会/編集 防衛施設庁総務部総務課 1983.3)433.1/195/#
精読しているわけではありませんが、目次などを見た限り西成に特化した記載はありません。
GHQ日本占領史 3 物資と労務の調達』(竹前栄治/監修 日本図書センター 1996.2)210.76/83N/3
GHQが作成した日本占領期の記録の翻訳です。
p.51-71「労務」に労務調達の概要について記載がありますが、大阪や西成に特化した記述はありません。
p.132「付録1 統計表」>F. 19459月から195111月における占領軍従業員」の数値がありますが、全国の数値になっています。
 中島寧綱「職業安定行政と私(48) 連合国軍労務の充足(1)(『職業安定広報 45(19)(1205)(雇用問題研究会 1994.7)p.18)366.2/1568N
中島寧綱「職業安定行政と私(49) 連合国軍労務の充足(2)」『職業安定広報 45(21)(1207)(雇用問題研究会 1994.9)p.13)366.2/1568N
国立国会図書館デジタルコレクション国立国会図書館内/図書館・個人送信限定資料です。https://dl.ndl.go.jp/pid/2733975/
https://dl.ndl.go.jp/pid/2733977/
占領軍の労務調達について職業安定行政側からの記載がありますが、西成に特化した記載はありません((49)に西成日雇勤労所の写真はありますが、本文中では言及されていません)

 

『大阪における内職と日雇の実態』(大阪市立大学経済研究所 1954)518.7/5/#
p.162-167「第二部 大阪における日雇労働者の実態」>「第二章 大阪における日雇労働者の実態」>「第二節 各職安における日雇い労働者の実態」>B 西成出張所」
西成における労働者と職安の実態について記載がありますが、占領軍の労務調達についての記載はありません。
その他以下の資料を見ましたが記載はありませんでした。
『大阪府労働行政20年資料集』(大阪府労働部 1967.3)366.1/295N】
『大阪府労働行政35年資料集』(大阪府労働部/編集 大阪府労働部 1983)518/1645/#
『職務辞典 1(大阪府労働部職業安定課/編 大阪府労働部職業安定課 1950)518.3/203/#
『職務辞典 2(大阪府労働部職業安定課/編 大阪府労働部職業安定課 1951)518.3/203/#
『大阪府地方労働委員会五年誌』(大阪府地方労働委員会事務局編 大阪労働協会 1953)518.5/195/#
『大阪府地方勞働委員会十年誌』(大阪府地方勞働委員会事務局∥編 大阪府地方労仂委員会創設十周年記念行事実行委員会 1956.3)366.6/1076N】
『昭和二十六年の労働情勢』(大阪府労働部労政課 1952.1)366/542N】
『大阪地方労働運動史年表』(大阪地方労働運動史年表編纂会/編纂 大阪地方労働運動史年表編纂会 1957)518.4/311/#
『大阪市立労働会館15年のあゆみ』([大阪市立労働会館/] 大阪市立労働会館 1966.10)366.3/156NX
『市労連20年の歩み・年表』(市労連/[] 大阪市労働組合連合会 1967)366.6/332N
『カメラで見る失業対策事業20年のあゆみ』(大阪市民生局失業対策課 1970)518.3/461/#
遅くなりましたうえお役に立てず申し訳ありません。
以上です。
[担当:大阪府立中之島図書館大阪資料・古典籍室]
【参考資料】自治大阪 大阪府総務部市町村課 大阪府市町村振興協会  7(1-12)
【参考資料】GHQ日本占領史 3 竹前/栄治∥監修 日本図書センター 1996.2
【参考資料】防衛施設庁史 第1巻 防衛施設庁史編さん委員会∥編集 防衛施設庁総務部総務課 1973
【参考資料】防衛施設庁史 第2[2] 防衛施設庁史編さん委員会∥編集 防衛施設庁総務部総務課 1983.3
【参考資料】大阪府労働行政十年資料 大阪府労働部∥編集 大阪府労働部 1958
【参考資料】大阪府労働行政20年資料集 大阪府労働部 1967.3
【参考資料】大阪府労働行政35年資料集 大阪府労働部∥編集 大阪府労働部 1983
【参考資料】職務辞典 1 大阪府労働部職業安定課∥編 大阪府労働部職業安定課 1950
【参考資料】職務辞典 2 大阪府労働部職業安定課∥編 大阪府労働部職業安定課 1951
【参考資料】大阪府地方労働委員会五年誌 大阪府地方労働委員会事務局編 大阪労働協会 1953
【参考資料】大阪府地方勞働委員会十年誌 大阪府地方勞働委員会事務局∥編 大阪府地方労仂委員会創設十周年記念行事実行委員会 1956.3
【参考資料】昭和二十六年の労働情勢 大阪府労働部労政課 1952.1
【参考資料】大阪地方労働運動史年表 大阪地方労働運動史年表編纂会∥編纂 大阪地方労働運動史年表編纂会 1957
【参考資料】大阪市立労働会館15年のあゆみ [大阪市立労働会館] 大阪市立労働会館 1966.10
【参考資料】市労連20年の歩み・年表 市労連∥[] 大阪市労働組合連合会 1967
【参考資料】カメラで見る失業対策事業20年のあゆみ 大阪市民生局失業対策課 1970
【参考資料】大阪における内職と日雇の実態 大阪市立大学経済研究所 1954
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