今宮警察署・西成警察署・庁舎変遷

現庁舎は1995
 大阪府警西成警察署の2025年1月現在建っている庁舎は、1995(平成7)年3月に地下1階地上8階の本体工事が完成し、同年731日に外構工事が完成した。
 その外観を見た人々は、「暴動に備えて、最初から警察が柵の中に避難している」と、語り合った。それというのも、1973年以来17年ぶりという警察官と暴力団との収賄事件に端を発した「西成署暴動」(19902月)と大阪市立更生相談所の「生活資金貸付打ち切り」に端を発した「暴動」(199210月)の記憶がまだ生々しく残っていたからだ。(参照:暴動年表暴動関連
 とりわけ、1990年の暴動は、現職西成署警察官と地元暴力団との汚職事件を切掛けに起きたものだけに、西成署庁舎周辺での抗議行動は激しく、北側駐車スペースへの出入り口引き戸が、多数にワッサワッサと揺すられ、倒れんばかりの様相であった。
 その記憶があって、「暴動に備えて、最初から警察が柵の中に避難している」という感想になったものと思われる。
 大阪府庁の『営繕年報Vol.31』には、「旧庁舎の老朽化・狭隘化に伴い立て替えたもの」と記されているが、前回の建て替えは1958年で37年前。鉄筋コンクリート三階建だった。1950年代後半からの街の人口増大からすれば「狭隘化」は妥当だとしても、「老朽化」はどうだろう。
 建て替え前に西成警察署庁舎を何度か訪れたことがあり、確かに「古い」感じはした。その「古い」という感覚は、現庁舎でも変わらない。現庁舎も既に築29年だから当然なのかも知れないが。
現庁舎が建つまでの間に合わせに、花園公園に仮庁舎が建設されたが、その工事に着手したのが1992718日。
1990年暴動から25ヵ月。「暴動-建て替え議論-設計-議会承認-入札-仮庁舎工事」の流れと見るか、それとも、建て替え議論は暴動前からあり、たまたま時期が接近しているだけと見るか。
建て替え議論は暴動に関係なく存在したが、暴動が建て替え時期を早める要因となったという見方もあるだろう。
今宮警察署 1919
現庁舎の建て替えと「暴動」との直接の因果関係があるかどうかは「要点検」だが、西成警察署の前身の「今宮警察署」も「米騒動」との因果関係が取り沙汰される。
今宮警察署が設けられたのは、今宮町釜ヶ崎から端を発した大阪版米騒動の翌年のことだ。住吉警察署から分離独立したのだが、その理由が、警察力の配置に問題があったとの反省に基づくと考えられる。(参考:『今宮町から始まった大騒乱』(米騒動) 浅井義弘 「図説 米騒動と民主主義の発展」 歴史教育者協議会編 2004年 民衆社
 米騒動の時は、今宮村は今宮町であったが、警察の管轄は1908(明治41)年に平野郷警察署住吉分署から独立した住吉警察署であった
 当時の住吉警察署の規模がわかる資料が幾つかある。『西成郡誌』に、米騒動の9年前の明治43年末今宮警察署員は43人とある。区域が東成・西成の両郡にまたがって広域である割には、そう多くないように思われる。内訳は、警部が1人、警部補1人、巡査部長2人、巡査39人。巡査39人。
西成郡内にあった派出所の一覧もある。
粉濱村巡査駐在所/勝間村巡査駐在所/津守村北島巡査駐在所/津守村下島巡査駐在所/今宮村巡査駐在所/今宮村巡査出張所/合同紡績住吉支店別途巡査派出所/尼崎紡績津守工場巡査派出所/大阪電光会社別途巡査派出所/住吉駅構内取締住吉巡査派出所
『粉濱村誌』(粉濱村誌編纂委員会 出版年 1927(昭和2)年)158頁)には「住吉警察署賞職員表」があり、明治10年以降の数字が見える。ここでは、大正38913年の数字を紹介する(いずれも4月現在)。大正84月分は「今宮警察署設置前の数字」と備考に明記されているので、8年と9年との差(58人)が概ね今宮警察署の数と見ることができるように思える。
大正3年 警部1人、警部補1人、巡査部長4人、巡査47人 書記1人  計54
大正8年 警部1人、警部補3人、巡査部長4人、巡査80人 書記1人  計89
大正9年 警部1人、警部補1人、巡査部長3人、巡査24人 書記2人  計31
大正13年 警部1人、警部補1人、巡査部長3人、巡査30人 書記2人  計37
 明治43年と大正8年の数字を見ると、署員は倍増しており、警察署の規模拡大は区域内の状況(人口増大・商工業施設の増大)に対応するものと考えられる。その増大した警察官の数を持ってしても、米騒動時に検挙者の釈放を求めて住吉警察署に押し寄せた民衆に対応できた警官の数は、多くて2030人と想像され、騒動後の反省として、騒動の初動と事後の対応の両面から、警察署配置の不備が浮かび上がって当然と思われる。
 上記の反省を踏まえて新設された今宮警察署は、『東成郡誌』によれば、住吉警察署の3倍の規模となっている。
 『東成郡誌』(1922/大正1112月発行・東成郡役所・114頁)
今宮警察署
 西成郡今宮町字海道畑680番地に在り。大正8421日の創設にかかる。住吉警察署の管轄地たる東成郡天王寺村・西成郡今宮町・玉手町・津守村を分割して本署の所轄とす。7月署長に警視を置く。同年4月及11月に於ける本署職員の配置左の如し。
今宮警察所属派出所・駐在所の名称・位置
中道巡査派出所(天王寺村中道)/常盤通巡査派出所(天王寺村阿倍野常磐通)/今池巡査派出所(天王寺村飛田遊廓)/天王寺村阿倍野巡査駐在所(天王寺村阿倍野)/天神森巡査派出所(天王寺村天下茶屋)/玉出巡査派出所(西成郡玉出町駅前)/東濱田巡査派出所(西成郡玉出町)/北天下茶屋巡査派出所(西成郡今宮町北天下茶屋)/警部補派出所(西成郡今宮町)/東道巡査派出所(西成郡今宮町東道)/釜ヶ崎巡査派出所(西成郡今宮町釜ヶ崎)/四条ヶ辻巡査派出所(西成郡木津村四条ヶ辻)/長橋巡査派出所(西成郡木津村長橋)/木津巡査派出所(西成郡木津村木津)/萩の茶屋巡査派出所(西成郡木津村萩の茶屋)/長崎橋巡査派出所(西成郡玉出町長崎橋東詰)/津守村北島巡査駐在所(西成郡津守村北島)/津守村下島巡査駐在所(西成郡津守村下島)/大日本紡績津守工場請願巡査派出所(西成郡津守村下島)
洋風の立派な外観だが、木造二階建。だから1945年空襲で焼失することになる。
▲1929年末の今宮警察署管内図。住吉区の山王・天下茶屋の一部も含まれている。
当時の町の規模を知るために「立国会図書館デジタルコレクション」から「今宮町全図」を入手し、裏面の統計表から作表したが、数字が判別できない箇所が多々あり、合計数字が合わない。おおよその数字として参考に供する。
 今宮警察署の名称は、大阪市域の第二次拡張後の西成区成立により、西成警察署と変わったが、庁舎は変わることはなかった。しかし、1945313日の空襲により、庁舎が焼失、萩之茶屋小学校へ移転することになった。
 萩之茶屋小学校の『創立50周年記念誌』(大阪市立萩之茶屋小学校・1967621日)に「「思い出を語る-徳谷キクヱ先生に聞く」があり、町の様子や警察との同居の状況が語られている。
・町のようすは
「そうそう、この辺はあちこちでヤミ市があり、なかなかふつうでは手に入らないいもや米、その他の食べものが売られていました。そのためかどうかはわかりませんが、子どもたちは家で何とか食べることはできていたようでした。むしろ先生の方が困っていたくらいで……。」
・西成警察と同居していたことは
「今の東側の校舎の一部を西成警察が21年の10月ごろまで使用していました。ちょうどヤミ市がさかんなときで、あちこちで売られている品物を公定価格で買いあげていたとか言つてました。そのため大ぜいの人がこの学校に出はいりしていました。だから学校の中ね、ごったがえしていましたね。」
 当時は、警察がヤミ市を取締り、押収した品物を公定価格で販売するといったことが行われており、萩之茶屋小学校でも行われていたことが語られている。
しかし、学校の教育に差し障りがあるからと早期の立ち退きが求められ、1946515日には新庁舎へ移転した。
 1955年に西成警察署の建替えを求める陳情書が大阪府に提出されているが、それには「地元民の斡旋によって、当時、区内木津川町浪速船渠会社が、戦時中、俘虜収容に使用していた古建築材の無償提供と西成緊急工作隊の労力奉仕等区民各層の熱誠な支援と御当局の努力とによって、昭和21515日、現庁舎、木造平屋建276坪が落成」(『陳情書  (陳情処理簿 昭和30年  B3/1999/323)』大阪府公文書館所蔵)と1946年の新庁舎建替えの経緯が述べられている。
 『区政誌』の写真は、俘虜収容所として利用されていた建物を移築されたものであると見なさざるを得ないが、『区政誌』には、西成警察署の庁舎として、「本館 木造平屋建 16425勺、別館 鉄筋混凝土三階建 延 6447勺」とあり、陳情書には書かれていない本館より立派な「別館」があったとされている。写真の奥に見える建物が「別館」であると思われる。
 戦災で失われた警察署庁舎の再建には、摩訶不思議なことが多かったようだ。
1947730日に開催された「定例 大阪府会警察部委員会 速記録」によれば、南警察署の南警察の建築復興予算が、385,392円、それに対して寄付金が10倍の3855,181円。結果として、時節柄いかがなものかと言われる豪壮な庁舎が建ち、165,800円で落成祝賀会をやり、数名の建築委員がこの寄付金の中から9,200円で、菊屋という料理屋で遊興して、府会議員に予算と寄付の割合を定めたらどうかという質問を受けている。
 西成警察署庁舎については、古建築材の無償提供と西成緊急工作隊の労力奉仕があったとされているが、金銭の寄付や別館については明らかにされていない。先の速記録で警察部長は、「矢張り、基礎が財源によって、最小限の完全な建物が立つように、協力を求めるという立て前」といいながら、「財源の逼迫状況によりましては、或いは予算でやれないが、やるとすれば三分の一の予算を組んでおいて、後を寄付に俟つ、物によつては、予算成立が困難であるという場合において、府民の方で、非常に有志の方が力を入れて、全額出してもやつたらよいじゃないか、ということが起こる」といっている如く、本館よりも立派な別館が寄付だけで建てられたということであったのかも知れない。そのようないきさつは、陳情書には盛り込めなかったであろう。
 「随所に修理箇所が増加し、雨漏り箇所や外壁の衰頽等、その腐朽甚だしいのみならず、署員の増加に伴う狭隘の窮状は、私達の常に目撃し、全く忍び得ないものを体験致しつつあるところでありまして、例えば、私共区民が訪問したり、或いは参考人として出頭しても、満足に腰掛ける場所さえなく、あるいは、係官が机上に寝具を敷き宿直する状況」が認められて、先の陳情書は警察委員会で採択され、新築される運びとなった。
 工事現場を調査した1958114日付けの復命書の資料では、どういうわけか「改築工事」となっている。
復命書
昭和33114日    技師  大津 敏晴
監査委員事務局長 殿
 西成警察署新築工事について
 本月9日 標記工事の施工状況を実地調査した結果を復命します。
工事現場監査資料    報告者  大阪府技師  山本正和
1.工事名称  西成警察署改築工事 1.位置   大阪市西成区海道町 1.工期 昭和3295日~昭和33228 1.総工事費  一金、2,6986,560円也
工事概要
  鉄筋コンクリート構造 三階建 屋上塔屋 改築工事
  旧館改造・補修工事・一般給排水工事
区分   構造      1階面積 2階面積 3階面積 4階面積  延面積
本館 鉄筋コンクリート造 125.709坪 117.528 117.528 6.823   367.588
旧館 鉄筋コンクリート造 119.03坪  114.214 56.33  1.604  291.304        合計 658.892
 現庁舎建替えに当たっては、花園公園に仮庁舎が設けられていたことが、『営繕年報Vol.31』で確認されるが、1958年時には仮庁舎の記述は見いだせなかった
『営繕年報Vol.7
西成警察署改築工事   竣工1958228
『営繕年報Vol.31
大阪府西成警察署仮庁舎新築工事 1992718日~1993226日 花園北1丁目925
大阪府西成警察署仮庁舎撤去工事 1995913日~19951215
大阪府西成警察署改築工事(撤去) 1993223日~1993331日 萩之茶屋2丁目4-2
大阪府西成警察署改築工事     19936月~19953
参考までに、警察署所在地周辺地図を並べておく