今宮保護所 その3 戦時体制下と今宮保護所

敗戦1年後の『大阪市社会事業要覧(昭和21年版)』では、今宮保護所も含まれる「宿泊施設」の変遷について以下のように概括されている。
「三 宿泊施設
本市在住の単身労務者に、清楚低廉で温い居住場所を供與するため、大正8年今宮、鶴町及び西野田の宿泊所を建設したのを初めとして、大正15年に九條、長柄両宿泊所を増設、昭和4年に海上労務者のため海員宿泊所を建設、昭和14年には九條宿泊所を廃止して新に湊屋宿泊所を新築した。
各宿泊所では宿泊施設のほか附帯事業として專ら宿泊者の思想向上と福利増進に努め月一回以上の講演會、座談会等を開催して宿泊者の文化的教養に努めて来たのであるが、
昭和156年以来の軍需生産増強によつて労務者の収入が増加して利用者は激減したので長柄、鶴町、湊屋及び海員の4宿泊所だけとしたが戦災に依り湊屋宿泊所は焼失し、鶴町宿泊所は疎開廃止し、海員宿泊所は修理模様替の上海員市民寮として厚生することとなり、
現在僅かに長柄宿泊所一ケ所だけとなつたが、現在の社会経済状勢下に於てはその必要性が増大しつつある。
尚無宿浮浪者の無料宿泊施設として今宮保護所を昭和4年以降開設して来たが、昨年9月初めその環境、衛生状態等に鑑み之を閉鎖した。」『大阪市社会事業要覧(昭和21年版)=社会部報告第4号』(大阪市役所・1947331日)
宿泊所は「昭和156年以来の軍需生産増強によつて労務者の収入が増加して利用者は激減した」とある。
『大阪市財政要覧(232425輯』や『大阪市市政要覧(昭和12年版)』、『社会部報告216号(大阪市設社会事業要覧)』などから詳細を探ると、
木津川宿泊所=1941年 木津川報国寮と改称。軍需労務者を収容。
関目宿泊所=193610月 労働訓練所へ仮転用、その後継続。
鶴橋保護所=利用者減少により1941年度で廃止、市民館に転用。
となっており、関目が少し早いが、木津川・鶴橋は昭和16年と時期が符合している。
今宮保護所や釜ヶ崎の戦時下の動向がいかなるなるものであったかを探る前に、少し、歴史の振り返り。(『日本史年表』歴史学研究会編・岩波書店・1966年第1刷・1980年第16刷)(補足:「昭和」の場合に限るが、西暦和暦換算は「25」がキー。195025=昭和25年、昭和5年+251930年)
1932128日 第一次上海事変おこる
   31日 満州国建国宣言
1933720日 政府、満州移民計画大綱を発表
19341229日 政府、ワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告
1935年 この年、綿布輸出最高(27億平方ヤード)
1936113日 ロンドン軍縮会議から脱退
   226日 226事件(青年将校クーデター)
   528日 思想犯保護観察法・米穀自治管理法・重要産業統制法改正公布
1937年 45日 防空法公布
    222日 軍需景気により、東京株式市場の取引高最高142万株
    77日 盧溝橋で日中両軍衝突(日中戦争始まる)
    1213日 南京を占領、大虐殺事件をおこす
1938年 117日 軍需工業動員法発動、一部工場を政府管理とする。
    41日 国家総動員法公布。(55日一部施行)
    627日 物資総動員計画基本原則発表
1939年 412日 米穀配給統制法公布
    78日 国民徴用令公布
    331日 従業員雇入制限令・賃金統制令
1940年 911日 内務省、部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要項を府県に通達
        (注:大阪ではこれ以前、
1938417日、自治制発布五十周年を記念し、
         国民精神総動員の実践母体として町内会が全市一斉に結成されている。)

    927日 日独伊三国同盟調印
1941年 31日 国民学校令公布(41日発足)
    41日 生活必需物資統制令公布。東京大阪両府で米の配給通帳制実施
    71日 全国の隣組、一斉に常会を開催
    830日 重要産業団体令公布(指定業種に統制会を設立)
    1122日 国民勤労報国協力令公布
    128日 対米英宣戦布告
戦時下の釜ヶ崎-保護所利用者の減と簡易宿の増加
「戦時下の釜ヶ崎細民街」という報告が『社会事業報告』(昭和141月号・報告者塩井文夫)にある。先の年表によれば、1937年「盧溝橋で日中両軍衝突(日中戦争始まる)」、19384月 国家総動員法の公布、同年6月 物資動員計画基本原則が発表という状況下の報告ということになる。それゆへ、書き出しは『戦時下の釜ヶ崎細民街が如何なる現状にあるか、又如何に指導されつつあるかを、極めて簡単に、率直にご報告』となっている。
念の為に確認しておくと、報告が1939年であるから、この場合の「戦時下」は日中戦争のことで、194112月の「対米英戦争」にはまだ至っていない。

最初に「人口移動状況」が報告されている。

『部落最近の人口は漸増の状況にあります。簡易宿等もつい最近迄は65軒だつたのが、今では67軒に増加し何れも殆ど滞員で繁昌してゐます。
尤も市立今宮保護所、私立精和寮等の無料宿泊所は、余程減じて居りますが、之は一般に労働者の収入が増加したために、木賃宿に転じたり又普通家屋に更生したりすることと、今一つは近時比較的ルンペンに転落する人の減つたこと、満州、支那等へ移動するものの相当あること等に起因するのではないかと思はれます。
簡易宿止宿者の増加するのは時局の関係で、此処迄の転落を余儀なくせしめられたものの相当数に上れるものの結果だと考えられます。』
引用冒頭に『部落最近の人口』とあるが、報告の題名が「戦時下の釜ヶ崎細民街」とあるので、此の場合の「部落」は「釜ヶ崎細民街」を指していると思われる。
報告者の「塩井文夫」は、飯田直樹著『近代大阪の福祉構造と展開-方面委員制度と警察社会事業』(202112月・部落問題研究所)の292頁に所載の「部落事務員変遷表」中昭和21年(1937)の欄に「塩井文夫 西成区東四條二丁目3今宮警察署釜ヶ崎出張所」とみえている。「部落事務員」であったようで、職務柄、「部落」「釜ヶ崎部落」という表現になるようだ。
『社会事業研究』19376月号所収『今宮釜ヶ崎の特異性』で塩井文夫は、部落事務員の職務について、説明しているが、それはまた自己の職務についての説明でもあったということになる。
『今宮署に於ては大正8年釜ケ崎部落に出張所を設けて特務員を置き、之を常駐せしめて今日に至つてゐる。部落特務員は、密集部落の保安維持に任じ、学校、方面委員、社会施設、其他地方有識階級等と密接なる連絡協調の下に、部落民の指導、遷善、生活向上に務め以て部民の康寧、地域の浄化改善の為に必要なる一切の事務に当るのである。』
これらのことから、塩井文夫は、地域事情の精通者と見做しうるが、地域の人口動向について、『最下級のルンペンに属するものは漸減しつつあり、』『簡易宿即ち木賃宿に足を踏込むものの漸増しつつある』と述べている。
「漸減」と「漸増」について、その理由らしきものが述べられているが、少し検討してみる。
『大阪市社会事業要覧(昭和21年版)』では、宿泊所は『昭和156年以来の軍需生産増強によつて労務者の収入が増加して利用者は激減した』とある。
塩井の報告は1939(昭和14)年であるが、宿所利用者減少の原因について、『一般に労働者の収入が増加したために、木賃宿に転じたり又普通家屋に更生したりすること』としている点では、『大阪市社会事業要覧(昭和21年版)』に符合しているが、その外に『今一つは近時比較的ルンペンに転落する人の減つたこと、満州、支那等へ移動するものの相当あること等』と、少し詳しくなっている。
無料宿泊所利用者の減少理由に『満州、支那等へ移動』が挙げられているが、そう見なせる根拠はなんなのであろうか
先の年表を見ると、満州国建国宣言は19323月。日本国政府が、満州移民計画大綱を発表したのは、1933720日のことである。
『満洲開拓民概要(満州開拓資料第二輯・昭和1611月)』(1941年拓務省拓北局・25頁)によれば、満州開拓移民は満鉄附属地及び関東州の限られた地域に1914(大正3)年より行われていたが、193210月の第一次武装移民を皮切りに三次からは集団農業開拓移民として送られた。1933(昭和8)年以降、拓務省の開拓民とは別に民間において団体を組織して入植するもの(自由移民)が漸次現れるに至った、とある。
さらに、1936(昭和11)年には、内地に開拓民の募集斡旋機関である満州移住協会が創立され、昭和12年度から16年度の第一期送出予定数は10万戸とされていた。
塩井の報告は、1939年で移住送出計画第一期の真ん中の時期に当たる。直接、塩井或いは保護所が募集斡旋に関与したという記述はないが、今宮共同宿泊所附属職業紹介所設立のもとが、北海道への労働者送り出しの奨励であったことを考えれば、送り先が満州に変わっただけで、同じ事が行われたであろう事は想像するに難くない。
今宮保護所の所長郡昇作は、『社会事業研究』1942(昭和17)年1月号所載の『宿泊所から国民生活指導所へ』の結びを
『顧みると宿泊所は過去の遺物である。宿泊所時代は既に過ぎ去つたのである。特に此の超非常時に於いては、戦時要員の充足、産業の振興等高度国防国家建設の目的に合致する様、止宿者、否、居住者の指導訓練がなされなければならない。特に公的宿泊施設に於いては、前述の如き新しき目的と希望の下に新発足がなされなければならない。』
とし、宿泊者の国策動員に注力する決意表明で終わっている。満州への移民も勧めたのではなかろうか。
もっとも、その2年前の『社会事業研究』19402月号所載『非常時とルンペン』では、
『事変発生以来の最も大きな現象の一は更生者が増加したことでありまして、これは一方に於て労務者の需用が増加したのと、他方に於てルンペン氏達に愛国の熱意が湧然として起り、ルンペン生活に甘んじてゐては国家に対し申訳がないと考へるに至つた爲であると思ひます。足腰の立つものは全部更生致しました。尚ルンペン減少の他の面は国民一般の異常な緊張がルンペンの転落を拒否したことにあると思ひます。即ち更生せしめる要素の発生による更生者増加と転落せしめる原因の減少に依る転落者の激減にあると思ひます。それで現在では何としても更生の出来難い人ばかりが残つて居ります。然しそうした人々にも、やはり、一般の人々に敗けない様な愛国心が沸上つて居るのであります。』
と、自発的な愛国心の芽ばえに重点を置いた報告をしている。
にもかかわらず、2年後に『指導訓練がなされなければならない』と書いたところを見ると、『国民一般の異常な緊張がルンペンの転落を拒否した』ことでの「転落の減少」と「更生の増加」で、「足腰の立たないものだけが残った」事態が、1940年と1942年の間に再び転換して、指導訓練によって更生に導かなければならないものが保護所に一定数増えたことを示しているのであろうか。塩井の無料宿泊所利用者の減少報告は、1939年であったが、保護所の利用者減少という点では、郡の1940年報告と合致していることになる。
塩井や郡の報告とは別に、新聞記事によって1940年の釜ヶ崎の様子を紹介する。
「さあ俺らも更生だ!/釜ヶ崎に描く力強い表情
スラムも新体制だ! いまその更生の表情を拾つてみると-「働かぬものは食うな!」という今宮署釜ヶ崎出張所主任金沢巡査部長の教へに従つて、西成区東西入船町6千人の勤労階級が起ち上がつた、飲酒、賭博、喧嘩の巷といはれた釜ヶ崎がその面貌を改めて、簡易宿止宿人たちが時局を認識し、進んで入会した両町会は円満に銃後の勤めに励み
先般の防空訓練にも同署管内のドン尻から一番の好成績に躍進、各町会員の毎月20銭、山本組の自由労働者30名の一日20銭貯金、西入船20、東入船22世帯の細君連が夫の留守中井戸端会議を玩具の手内職に変へてせつせと子たちの教育費稼ぎ、屋台店15名の更生を目ざす三年掛百円貯金、青少年340名の尚武館での武道練習
どこを見ても嬉しい逞しさだ。
市立徳風勤労学校では父兄の仲仕、衛生人夫、磨き砂売りや煙突掃除、散水夫など恵まれぬ人々30名が四年前から尊徳先生の遺訓「貧者は貧の費えより、荒地は荒地の力より」をモットーに今宮報徳社を創始、全国のトップを切て毎月7日、23日の両夜、常会を開きつづけてきたが、さらに一段と新体制目ざしてこのほどから下駄の鼻緒はボロで、足袋は法被の切れ端でといつた廃物利用日用品の奨励、ことしの秋期皇霊祭には全市のポストをバケツ片手に巡回、清洗することなどを決議
またルンペン君の塒今宮保護所では、120名の止宿人たちが毎夜食後、食堂を図書館にして各方面からの寄贈図書、新聞などを争つて耽読、燈火に親しみ勉学に努めてゐる。そのほか、自彊館では、120名の労働者たちが、毎月13日戊申詔書を中心に修養会を開き、赤誠ほとばしる愛国貯金は事変来すでに3千円を突破、浄土宗経営の四恩学園では、宿泊人266名の本年四月来の貯金総額2,559円、購入国、公債27枚、3百円に達してゐるなどの面目一新ぶりは、識者をして釜ヶ崎の悪名をなんとか改名せねばなるまいと感心させてゐる。」(『大阪朝日新聞』1940917日)
この新聞記事を紹介している『釜ケ崎変遷史-戦前編』(天平元一・197811月・夏の書房)148頁に「金沢巡査部長」の奥さんの昔語りある。
『昭和15年は日中戦争の真最中、翌16年には太平洋戦争へ突入する。
この頃、現在の今宮中学校東南角にあった、今宮警察署釜ケ崎出張所に駐在しておられた故金沢巡査部長の奥さんの話しによると、
「うちの主人は、ドヤ暮しの人や、地区内の無職の人を厚生さすのが主な仕事でした。うち(駐在所)へ呼んで色々話しをして、本人が納得したら、主人が手続きをとって、主に九州の炭鉱へ送り出していました」
この話しを裏づけるように「さあ俺らも更生だ!釜ケ崎に描く力強い表情」という見出しで、昭和15917日付朝日新聞に、次のような記事が出ている。』
この流れで、新聞記事が引用されているわけだ。
金沢の登場する新聞記事が1940年、社会事業研究の塩井の報告が1939年。それから判断すると、金沢巡査部長は塩井警部補の後任ということになる
(「今宮警察署釜ヶ崎出張所」の名称が出てくるが、『大阪府警察統計書』192419261929193319391943の各年を見た限りでは、「今宮町(専務員)出張所」「今宮警部補出張所」「今宮巡査部長出張所」の表記はあるが、「今宮警察署釜ヶ崎出張所」の表記はみあたらなかった。「釜ヶ崎巡査派出所」は1933年迄確認でき、1939年には「入舟町巡査派出所」と変わっている。変更時期は特定出来ないが、1934年から1938年のどこかであろう考えられる。なお「うち(駐在所)へ呼んで」とある中の括弧内の「駐在所」は、天平の挟んだ注記と思われる。
大阪市立中央図書館所蔵の警察官の住所録を点検した飯田直樹によれば、「釜ヶ崎警部補出張所」の名称は、「釜ヶ崎巡査派出所」と同時期にも使用されていたようである。「出張所」と「派出所」の違いがあり、同じ「釜ヶ崎」を冠していても紛らわしくないという認識であったのであろう。(飯田直樹著『近代大阪の福祉構造と展開-方面委員制度と警察社会事業』(202112月・部落問題研究所)の292頁に所載の第3表「部落事務員変遷表」))
この新聞記事引用の後、天平は、
「げに戦争とは恐ろしきものである。明治以来、さまざまな時の流れに背を向け、頑としてその姿勢を変えなかった釜ケ崎が、そのドヤのうす暗い隅々まで戦時色に塗りかえていく。こうなると釜ケ崎地区も、梅田地区も難波地区も同じだ。日本国中一色である。すべてが戦争のための体制となり、釜ケ崎の人々も炭鉱へ、軍需工場へ、はたまた戦場へと、それぞれの分野で過去の生活ときっぱり手を切り、総力戦の一員となる。
昭和20313日大阪大空襲-。
釜ケ崎地区はそのほとんどを焼失した。
しかし釜ケ崎の場合、それは単なる家屋の焼失ではなかった。明治31年よりの「スラム釜ケ崎」との決別であった。-おわり」と『釜ケ崎変遷史-戦前編』の稿を閉じている。
一挙に戦後までいってしまいそうだが、ここで踏みとどまって、塩井の報告のもう一つの側面、『簡易宿止宿者の増加するのは時局の関係で、此処迄の転落を余儀なくせしめられたものの相当数に上れるものの結果』と述べられている点について検討してみる。


企業統合・転失業問題と釜ヶ崎
保護所がらみでは、1940917日付朝日新聞に引き続き1941216日朝日新聞でも、保護所をめぐる変貌振りが伝えられているが、「簡易宿止宿者の増加」について具体的に触れた情報にはまだ巡り会えておらず、ここでは、無味乾燥な役所情報を中心にアレコレと詮索するしかない。
その前に、1941216日朝日新聞を紹介しておく。
『頼もしい釜ヶ崎変貌 生産陣へみな出払い
かつて大繁盛した無料宿泊所が 産業報告の声に 次第に宿泊者がなくなり、ここばかりは嬉しい転業や閉鎖、
これは全国的の現象だが 大阪でも市立鶴橋、木津川寮保護所が閉鎖し 残る無料宿泊所は今宮保護所一つだけ、これも利用者が漸減し 明るい光をなげかけている、
それと同時に「太陽のない街」として大阪の一隅に長年不名誉な存在をつづけてきた貧民街今宮釜ヶ崎の昔からの「名物」がつぎつぎと姿を消し「釜ヶ崎の変貌」が伝えられている。
例年2月は 一年中で保護所がいちばん繁盛する時だ、数年前今宮保護所だけでも 毎日のように500名を突破したものだが、今年は鶴橋、木津川の両保護所が閉鎖されたにもかかわらず 僅かに100余名という隔世的な数字、
しかも現在員は50歳以上のもの、病人と幼児が殆ど全部、働ける者はどんどん産業戦線に新生を見出して、同じ家を持たぬ者でも 金を払って泊まる簡易宿の方へ転向している、このため73軒の簡易宿は56千人で毎夜満員という盛況だ。
職業では 釜ヶ崎名物といわれたチンドン屋と屑拾いが全く消えた、屑拾いがなくなったのは 廃品の利用更生に目覚めた各家庭で 塵箱へ捨てるものが少なくなり、商売にならなくなったためもあるが「この時局柄 屑拾いでもあるまい」という自覚がたかまつてきたものだ、大多数の屑拾いが 工場労働者となっているのも素晴らしい飛躍である、
辻占売り、猿回し、尺八吹きなどの非生産的職業がなくなったのもうれしい、
それに現在西成区東入船町南北両町会および同西入船町会では1,800の貯金通帳があって 平均一日40円、一ヶ月1,200円を萩ノ茶屋郵便局へ貯金しているというから貯蓄報国ぶりも大したものである、
また露店商人49名は この元旦から一日20銭の資金更生貯金をはじめたが、現在すでに58440銭に達した、
そして 簡易宿も宿泊所も露天商も 打って一丸となって3町会90隣組を作り、今まで賭博検挙の行われていた簡易宿の部屋で 毎晩のように 組常会が開かれ 釜ヶ崎の変貌に異彩を添えている』
この記事でも、『同じ家を持たぬ者でも 金を払って泊まる簡易宿の方へ転向している、このため73軒の簡易宿は56千人で毎夜満員という盛況』と、無宿者が簡宿へ止まるようになったのが、『簡易宿即ち木賃宿に足を踏込むものの漸増しつつある』原因といわんばかりであるが、すこし、両者の間(保護所利用者の減少数と簡易宿利用者の増加数)に量的差があるように思われるので、やはり、無味乾燥な役所情報を中心にアレコレと詮索。
(補足:簡易宿の数だが、1941年のこの記事では73軒、1939年塩井報告では「最近まで65軒だったのが67軒に増加」だったので、3年間で6軒増えていることになる。1100人として600人の収容人数の増。保護所利用が500人から100人になり400人の減。他の無料宿泊所の廃止や他施策への転用で宿泊場所を失った人々が釜ヶ崎に移り住むとすれば、見合いの数字と言えなくもなさそうだが、今宮共同宿泊所火災の後、利用者の長柄への移動が進まなかった理由が働き場所の近くから動けないということだったように、生活圏を変えることはそう容易ではないと考えるのが妥当。また、簡易宿のそれまでの利用率が不明なので、満杯(56千人)までの収容余力がどの程度であったのかについて数字がなく、無料宿泊所利用者の簡易宿への移動だけで、釜ヶ崎の簡易宿が満杯状態になったとは断定することはできないと思われる。下宿・間貸しの増減も考慮される必要がある)
まず、『失業者数を時系列的に把握できるように作成された』『失業状況推定月報』を見る。『この統計は昭和49月からおよそ10年間作成された。』(『経済研究』20184.一橋大学経済研究所「戦前と戦後の失業に関する統計調査-標本の抽出と失業の把握に焦点を当てて」山口幸三。135頁)
『それ以降は、前述したとおりに戦時体制に向かい、失業問題が重要視されなくなり、失業統計調査を実施することはなくなった。』(同書137頁)
調査開始の1929年は、いわゆる「昭和恐慌」の始まりの年である。
『第一次世界大戦終結の直後に、日本は1920(大正9)年、反動的経済恐慌という大戦後初めての経済危機に見舞われた。その後、1923(大正12)年関東大地震からも非常な損害を被った。その後何年もたたず、日本がこの一連の深刻な打撃からまだ立ち直らない1929(昭和4)年、アメリカの経済危機によって引き起こされた世界資本主義の大危機が台風のように太平洋のかなたから無比の破壊力をもって日本列島を襲った。さらに、浜口内閣の財政デフレーション政策と、19301月の金解禁の実施は、あたかも火に油を注ぐように、金融恐慌から始まった日本の経済危機をいっそう深刻なものとした。その結果、1930年は、戦前日太資本主義が遭遇した最も深刻な危機の一年であった。』(『日本ファシズムの興亡』万 峰著・六興出版・19892月。東アジアの中の日本歴史第10巻、88頁)
かかる状況の中で、国勢調査時や単発的な失業調査では状況把握には不充分であるとの認識のもと、『失業状況推定月報』の取り組みが開始された。
ただし、この統計は非常に評判が悪く、
『『統計集誌』第585号では、「調査方法が不十分のため正確な失業統計と見ることはできないが、大体の失業状況の傾向は見ることは出来る。」と、また、『統計集誌』第588号では、「この社会局の統計が正確な失業者の実数を示すものではないことは社会局自身でも承認しているところである。」としている。』(『経済研究』一橋大学経済研究所69220184.「戦前と戦後の失業に関する統計調査-標本の抽出と失業の把握に焦点を当てて」山口幸三。135頁)
数字は、『労働行政史』第11277頁に掲載されている。数字自体では、使えないとのことなので、少し加工したもので傾向を見ることにする。
調査人口の中に占める「給料生活者」割合は、10年の間、少し減少したものの、大きな変化は無い。「日傭労働者」も、やや減少したものの、減少幅は、そう大きくない。この2つの減少分を吸収しているのが「その他の労働者」だと言える。軍需中心の経済活動の結果、工場労働者の占める割合が大きくなったということであろう。
失業者の中に占める割合については、「給料生活者」や「その他の労働者」で小さくなり、「日傭労働者」が大きくなっている。「日傭労働者」と「その他の労働者」とをくらべると、1932年までは、「日傭労働者」よりも「その他の労働者」の方が失業者の中に占める割合は大きかったたが、1933年からは、「日傭労働者」の方が大きくなっている。
戦場へ外地へと「人」が動員され、内地の稼働年齢層が減少する中、軍需中心の経済活動への再編の結果、工場労働者の占める割合が大きくなり、戦争が続くことで工場労働者の失業は少なくなった、と、単純に考えられるのかも知れない。
再度確認すると、『簡易宿止宿者の増加するのは時局の関係で、此処迄の転落を余儀なくせしめられたものの相当数に上れるものの結果だと考えられます。』という塩井の報告は19391月になされたものであった。各グループの失業者数を、1929年を100%として見ると、「給料生活者」「日傭労働者」「その他労働者」いずれも1939年には100%を割り、1929年より減少していることを示している。ただし、いつから割り込んでいるかというと、「その他労働者」は1934年からであり、「給料生活者」は前年の1938年からであるが、「日傭労働者」は前年まで100%を超えている状態であった。
各グループとも、失業者の延びが最も大きかったのは、1932年であるが、いち早く失業者の減少を示しているのが「その他の労働者」であり、ついで「給料生活者」であった事が見て取れる。
『日本社会事業年鑑 昭和9年版』(中央社会事業協会編・193411月・中央社会事業協会)は、「第6章失業保護事業第1節失業状況(138頁)」で
『昭和8年に於ける我国の失業者数を失業状況推定月報に依つて観察するに同年5月を除き月々例外なく減少の領向を示し、結局失業者総数は昭和77月の51万余を最高とし昭和812月には378,921人となるに至つた。之が原因は結局7年後半期以後引績き施行せらるる失業応急事業其他時局匡救事業と激増せる軍需品の注丈に基く軍需工業並為替安其値の原因に依る輸出工業の盛況が惹起せる修業者増加に在りと考え得る。従つて減少せる失業者の種類は特に日傭以外の一般労働考に多く、更に同年中の工場鉱山労働者異動調に依り之が状況を見るに次ぎの通り各々相当数の修業者数増加を見る。』と記録している。
この流れは、1939年まで続いたということになる。1940927日「日独伊3国同盟調印」だが、この年から、『それ以降は、前述したとおりに戦時体制に向かい、失業問題が重要視されなくなり、失業統計調査を実施することはなくなった。』ということになる。(前出『経済研究』20184137頁)
元々不安定な就労状態にある「日傭労働者」の中に、最も多くの失業者を抱える状態が長く続いたことが、『此処迄の転落を余儀なくせしめられたものの相当数に上れる』原因である、ということになりそうである
そして、その状態を導いた要因は「時局」であるということになるが、では、「時局」の具体的な内容は、どのような事柄であったのであろうか。
『過去の失業問題は自由主義経濟機構の下に於ける景気変動の過程に於て不景氣の産物として発生したのであるが、今次の休失業問題は戦争目的遂行に集中せられた国家的経済統制の結論であり、国策遂行の「犠牲」であることに於て全くその本質を異にする』と指摘している『戦時下の中小商工業 : 転廃業と国民更生金庫について』(和田太郎、福田喜東共著、朝日新聞社、19318月刊(1011頁))によって、知識を得ることにする。

 (つづく)