釜ケ崎労働者の出身地域 

 釜ケ崎労働者の出身地は、北は北海道から南は沖縄まで全国各地にわたっている。

地方別に見たときに目立つのは、近畿と沖縄を含めた九州地方で、双壁をなしている。

1986年に釜ケ崎夜間学校が「あいりん職安」前のフロアーでおこなった調査によれば、近畿・九州の二地方の出身者がともに全回答者のほぼ3割を占めており、合わせて6割に達している。

ついで多いのは中国地方と四国を合わせたもので、2割を占めている。残りの2割は、その他の各地方であるが、その中では北海道出身者が比較的多い。

1983年の「釜ケ崎差別と闘う連絡会議」の現地調査においてもほぼ同様の傾向を示しており、ここに示した数値はかなり的確に実態を示しているといえる。

 釜ケ崎がその中に含まれている大阪はもとより、地理的に近接している奈良・兵庫といった近畿各府県の出身者が多いのは当然といえば当然だが、九州地方が近畿地方と肩を並べているのは注目に値する。
九州でも福岡と鹿児島が特に多い。この両県は産業・経済という点では非常に対照的である。
福岡県は北九州工業地帯の中心地であったのに対し、鹿児島県は代表的な農業県であるというように。

 日本の敗戦後の産業復興過程で、石炭産業・鉄鋼業を初めとする重工業は繁栄をきわめた。福岡はその中心であった。

ところが、石炭から石油へのエネルギー転換で、石炭産業は壊滅した。
そして、1973年のオイル・ショックを契機とする鉄鋼・造船といった重厚長大産業からのエレクトロニクス産業・情報産業への産業構造の転換の流れの中で、福岡の鉄鋼業を初めとする重工業部門も合理化・規模の縮小・倒産が相次ぎ、福岡の経済は停滞状況に陥いった。
80年代前半には、失業率で全国のトップにランクされるほどであった。

 他方、鹿児島は代表的農業県であって、もともと関西地方への季節的出稼ぎが多い県であった。
しかし、農業もまた経済高度成長の過程での一貫した農業切り捨て政策の下で、構造転換を迫られ、兼業化・農業離れが進み、農民は工業部門での労働力として、あるいは都市での労働力として農村からの移動をおこなったのである。

 日本経済は、全体的には歴史上例を見ないほどの急速な発展を遂げたけれども、その過程で生まれた矛盾を見逃すことがあってはならない。
福岡・鹿児島の例に見られる地域的不均衡もその一つである。釜ケ崎労働者のうちに、九州出身者が多数を占めている事実と、その事実が生じたのはなぜかを解明するとき、このような視点は重要である。

釜ケ崎労働者が釜ケ崎に来るに至った個々の事情の背景に、時々の経済政策による誘導があったことが浮かび上がってくるからである。


釜ヶ崎労働者と階層移動 

 前項でみた通り、釜ケ崎労働者は西日本を中心に全国各地の地域労働市場から、釜ケ崎の日雇労働市場に参入した人々であった。

これらの参入者を、他地域労働市場から釜ケ崎の日雇労働市場への参入という地域移動という視点だけでなく、別の視点から捉えることができる。
他産業あるいは他の職種の労働市場から移動してきた労働力として。つまり、労働力の階層的移動として把握することができる。

 「寄せ場」の日雇労働者の場合、最初に就いた職業が日雇いであった者は少数であるから、多くは他の階級・階層の出身者である。厳密な規定ではないが、仮に親(生家)の職業階層を本人の出身階層とすれば、1986〜87年の釜ケ崎労働者職歴調査(釜ケ崎夜間学校実施)では以下のようであった。

農林漁業  42人(31.1パーセント)
雇用者(事務系) 18人(13.3パーセント)
雇用者(現業系) 16人(11.9パーセント)
商工自営 26人(19.3パーセント)
不  明  33人(24.4パーセント)

  この調査結果では不明が相対的に多く、必ずしも正確とはいえないが、釜ケ崎労働者の出身階層の大体の傾向を知ることはできよう。

 なんといっても農家出身者が最大で、特に50〜60歳代の高齢者にはその比率が高い。

逆に釜ケ崎では若年層に属する40歳代以下では、雇用者(労働者)層出身者が比較的多い。

商工自営層出身者も相当数を占めているが、その経営規模はきわめて零細で、左官屋・大工・細工師・豆腐店・めし屋といった、ほとんどが個人経営といってよい階層の出身である。

 つぎに、社会階層の一つの指標となる学歴についてみておこう。

 まず目立つのは旧制・新制を含めて義務教育のみの者が67人(49.6パーセント)と、全体の半分を占めていることである。

ついで新制高校・旧制中学が合わせて46人(34.1パーセント)、旧制高校・新制大学12人(8.9パーセント)となっている。

さらにもう一つの特徴は、未就学・中途退学がかなり高率、135人中16人(11.9パーセント)となっていることである。
現在の高校進学率90パーセント余、大学進学率36パーセント(89年)との比較は無理として、回答者に戦中・戦後の混乱期に遭遇した世代が多いことを考慮にいれたとしても、釜ケ崎労働者の学歴は平均よりも低めであるといえるであろう。

この点、就職するにあたって学歴が重視される日本社会においては、釜ケ崎労働者のこれまでの人生の岐路で不利に作用したであろうことは想像に難くない。

 以上の釜ケ崎労働者の生家の職業階層と本人の学歴の考察からも判る通り、その出身階層は中・下層に集中、特に下層に傾斜していることが特徴であるといえる。

「自由競争の社会」の幻想とは別に、彼らが職業人として出発するにあたっての選択の幅が狭かったであろうことが読みとれる。


釜ケ崎への「流入」の類型 

 釜ケ崎の労働者が、他の労働市場や社会からの参入者であることは、さきに述べたところであるが、それをさらに細かく具体的にいうなら、彼らは釜ケ崎に来住する以前に職に就いており、回数の違いはあれ、初職以後、転職・転職場を経て釜ケ崎に来、「寄せ場」日雇労働者となったということである。

 さきの調査では、釜ケ崎労働者の初職はおよそ次のようになっている。

製造業 42人(31.1パーセント)
建設・土木 24人(17.8パーセント)
販売・サーヴィス 24人(17.8パーセント)

 が主なもので、以下、農業9人、交通・運輸業9人、炭坑3人、残りはその他と不明である。 

ここでまず気付くことは、生家の職業階層のいかんを問わず、雇用層への参入(約80パーセント)が圧倒的多数を占めていること、
また職種では現業部門が全体の73パーセントと多い点である。
雇用形態では64パーセントが常用であって、臨時・日雇は10パーセントとなっている。
就職先の企業規模は、大企業もあるがごく少数で、大部分は中小・零細企業である。

注目されるべき点は、生家が農業・商工自営である者が合わせて58人いたわけであるが、そのうち初職で家業に就いた者は13人にすぎず、ほとんどが雇用層へ移っている点である。

 以上から来釜に至る一つの典型ーこれが釜ケ崎労働者の主流を占めるーを、以下のように想定することができる。

(a)社会的には中・下層の出で、中小の製造業の現業部門に初就職し、なんらかの理由で転職を重ねた後、来釜するというケース。

 aとは少し違うもう一つのパターンがある。

(b)出身の社会階層はaと同じであるが、常用と出稼ぎ・日雇の違いはあれ、大工・左官・土工というように、初職から建設・土木関係に従事して、比較的直線的に来釜するケース

 後者は、調査では一三五人中二四人おり、釜ケ崎労働者の中で占める比率は決して低いものではない。

つまり、aとbのケースに大部分の労働者があてはまるということである。もちろん、これらのケースに属さない例外はある。


転職ー来釜の原因 

 最近でこそ“ヘッド=ハンター”などといって転職が「社会的地位」上昇の手段となる現象がみられるが、これまでの日本社会では、一般的に転職には良い評価が与えられてこなかった。

そして、日本の労働市場は終身雇用制を中核に、閉鎖的労働市場であるといわれてきた。

ただこれは大企業の上層労働市場について当てはまるのであって、中小企業の労働市場については、かっても今も、かなり流動的で開放的であった。

比較的に安定しており、雇用条件のがよいという意味あいでの上層労働市場が閉鎖的であり、不安定で雇用条件の劣る中下層の労働市場が開放的であるという条件下において、転職は決して「社会的上昇」ではなく「社会的落層」を意味することとなろう。

転職を繰り返せば、一層その傾向は強まるであろう。

釜ケ崎労働者はその大部分が、出身階層においても初職においても、中・下層に位置していた。その彼らが転職をするということは、より下層への移動、あるいは水平的移動となるであろうことは容易に考えられることである。

 ところで、転職といっても労働者自身の意志によってなされる自発的なものと、失業のような外からの要因で余儀なくされる非自発的なものとがあろう。また、転職の原因を個人的要因あるいは構造的要因に求めることもできよう。

ここでは、釜ケ崎労働者の転職の原因を、個人的要因あるいは構造的要因のいずれであるかに留意しながらみてみることにする。

 構造的要因とは経済的景気のうち不景気、あるいは産業構造転換期の不況・企業の合理化などによる失業者の創出を指している。

個人的要因には、新しい職への「上昇志向」もあるし、労働・賃金への不満、あるいは離婚といったような家族問題なども含まれる。

 釜ケ崎労働者の場合、来釜するまでに4〜5回位転職しているのが平均的である。

 さきの調査において、初職の退職理由で一番多かったのは個人的理由で59人(43.1パーセント)、ついで合理化・倒産による退職23人(17パーセント)が多く、残りはその他と不明である。

そして来釜する直前職では、個人的理由59人、構造的要因46人となっており、構造的要因による退職が倍増している。

この事実から、なにが読みとれるであろうか。さきに述べた転職についての一般論をまさに実証するかのように、転職を重ねるにしたがって益々不安定な職業へと追いやられたということである。

 日本の経済構造は、さまざまな点で二重構造となっているといわれ、それは大企業を先頭とする経済拡大優先主義にとっては強みであり、経済拡大を二次的に捉え広汎な市民の安定した経済生活を望む者にとっては弱点である。

いずれにしても、不景気などの経済矛盾は弱い所に、つまり二重構造のうちの中小企業などの下層部分に、過重にかかってくるのが常である。

釜ケ崎労働者の多くは、平等といわれる社会の中で、経済的不平等を固定・拡大する二重構造の、一方での極端な資本の蓄積と繁栄、他方での潜在的に常にある倒産の恐怖という矛盾のしわよせを、転職の過程で受けてきた人たちといえなくもない。

 戦後の日本経済はその規模をおおむね順調に拡大し、今日、経済大国となったといわれている。
しかし、規模拡大の過程では、何回もの景気変動・構造不況といった矛盾の露呈を経験してきた。

ざっと振り返っても、石炭不況・ナベ底景気・繊維不況・オイル=ショック・円高不況といった具合である。

そして、農業人口は一貫して減少してきた。

こういった事象は、釜ケ崎労働市場への参入者の予備軍としての失業者を、大量に造り出した。

そして、景気調整策として公共投資を重視する政策が戦後一貫してとられ、就労人口のうちに占める建設・土木産業従事者の比率は「経済先進国」としては類例のない高いものとなっており、それは明らかに失業者の釜ケ崎への誘因となった。

経済大国といわれる現在においても、基本的にはそのメカニズムは変わっていない。


 そのことを、釜ケ崎を軸に最近の例としてみてみよう。

1980年代は、70年代の二度のオイル・ショックの影響と「円高」が加わって、従来の産業構造の転換が迫られ、造船・鉄鋼を中心とするいわゆる重厚長大産業が不況に襲われた時期である。

経済全体としては大不況というほどではなかったが、不況産業と好況産業との産業間格差、それの地域経済への反映ー地場産業が造船であった場合は深刻な打撃をこうむったーとしての地域間格差が目立った。

さらに国家財政的には赤字国債の縮小が課題とされ、中曽根内閣のもと「行財政改革」の旗が振られて、国家支出増加の抑制を計るとの名目で予算作成の段階において前年度比延び率ゼロが目指された。

具体的には、国防費は増加し続けたが、福祉関連予算は固定あるいは縮小され、公共投資はマイナス・シーリングとされるなど国民生活に関わりのある分野へのシワ寄せが目立った。

 この時期の釜ケ崎への影響は、80年代前半に見られた公共事業の端境期(入札から実際に工事が始まるまでの期間)である4月から7月にかけての仕事の落ち込みと、それが原因となっての大量の野宿者の出現である。

もう一つは、釜ケ崎への新規参入者の増加である。

 86年調査では釜ケ崎に来て、いまだ短期間しか経ていないと思われる労働者を中心に聞き取りがおこなわれたのであるが、80年代前半に来釜した労働者(在釜5年以下の新規参入者)は75人(回答者の67.7パーセント)であった。

うち17人(22.6パーセント)が、当時、構造不況業種といわれた造船・鉄鋼・鉄工関係で、来釜直前まで働いていた。
その就労先も住金和歌山・新日鉄などの大手といわれる企業の名前があげられている。
ただし、その労働者たちは大手の本工ではなく、社外工・臨時工・日雇としての就労であった。

さきほどらい繰り返し述べているように、造船業界では合理化の嵐が吹き荒れ、鉄鋼業界でも合理化が押し進められた時である。その時期に、まずこの人たちが合理化・首切りの犠牲となって来釜する契機となったのである。

社会・経済の矛盾は、常に弱い立場にある者に重く押しかかる。

 釜ケ崎労働者の多くは初職の出発点からして、中小零細企業の労働者という不安定な立場にあり、その後も、さまざまな矛盾を引き受ける形で釜ケ崎労働市場に参入するに至ったのである。

釜ケ崎の日雇労働市場は、日本の経済を最下層から支えているけれども、このような人々によって構成されているのであり、社会的に中・下層の人々が水平的に階層移動することによって、全体の労働市場の中での下層部分が維持されてきたのである。ある意味で、下層社会の固定化である。

 近代社会は、開かれた社会、開かれた階級で構成された流動的社会といわれてきた。

したがって、個人の努力と好運に恵まれれば、大いに社会的上昇も可能であると…。

確かに、その社会が上昇的発展的過程にある時代に生きる個人であれば、幾莫かそのようなことも可能であろう。
しかし、日本社会のありようと釜ケ崎の現実をみると、社会が成熟し、爛熟期に入るとそのチャンスは減少して社会は固定化するといえる。

釜ケ崎を代表とする社会的下層には、その固定化の社会的・構造的圧力が重く掛かっていることは否定できない。


おわりに 

 これまで「釜ケ崎」の真の姿は、十分に認識されてこなかった。

釜ケ崎は「スラム」として知られてきたが、スラムという概念自体があいまいである。

そこでこの小論では、スラムとしての釜ケ崎を日雇労働者の街として把える試み、そして、この街の現状の一端の記述、釜ケ崎労働者の析出の問題を論じてきた。

もちろん、これで十分ではなく、付け足すべき点は多い。

「一般社会」と釜ケ崎の関係、釜ケ崎労働者自身の労働生活・人間関係・日常生活などの実態の解明などである。

この点は今後の課題としたいが、いずれにしてもこの拙稿が釜ケ崎理解の一助となれば幸いである。

 (附言ー稿中「国政調査」の数字を使用したが、国政調査については、その調査項目や調査方法など、個人のプライバシーとの関係で問題点があると考えており、現状の国政調査を肯定した立場で数字を使用しているのではない。

また、西成警察署発行の「あいりん白書」(1990年版)の数字も使用したが、「あいりん白書」そのものは釜ケ崎労働者を治安対象としてのみ捉える立場から作成されているものであり、その立場は同意しがたいが、現実を把握するための事実を示す数字は、立場を超えて同一のものもありえるので、その点に留意しながらの使用であることを附言しておく。)