「ドヤ街」としての釜ケ崎

 釜ケ崎は「寄せ場日雇労働者」の生活の拠点であり、日常生活の場である。

「寄せ場日雇労働者」は労働・就労形態だけでなく、日常生活においても独自のスタイルをもっており、このことが、「釜ケ崎」の街の性格を規定している。

逆に、街のありように適合して、労働者は独特の生活スタイルを持つことになるともいえる。

 釜ケ崎の労働者は、次のような社会的特性を持つ。
第一に、その大半が男の“単身者”であること、
第二に、“移動性”が非常に高いことである。

「ドヤ街」としての釜ケ崎は、このような社会的特性を持つ労働者の日常生活を支える様々な機能を備えている。


釜ケ崎の人口と住民構成 

 西成区全体の人口の推移を国政調査によってみると、戦後の人口のピークは1960年の21万4、654人であり、その後、減少に転じて、1990年では14万143人となっている。
30年間で7万4千余、約35パーセントの減少率ということになる。この推移は、大阪市全体の人口動態と符合している。

 それに対し、釜ケ崎(萩之茶屋地区・山王地区を合わせた広義の釜ケ崎)は、かなり異なった傾向を示している。

人口増加のピークが1960年(3万6、202人)であり、その後減少に転じていることは大阪市全体や西成区全体の傾向と同じであるが、1990年の地区人口は3万745人で、減少率は西成区全体の半分以下の15パーセントに留まっている。

さらに、地区人口の内で日雇労働者の占める比率の極めて高い狭義の釜ケ崎(萩之茶屋一・二・三丁目)に焦点を絞ってみれば、人口増大のピークは他よりも10年遅い1970年(約2、1万人)であり、
その後は1990年の国政調査まで約1,5万人台で推移しており、ほとんど数字的には変化がない。(その中身についていえば、女性は減少を続ける一方であるのに対し、男性は一時期を除き増大し続けている。)

 ちなみに、1970年は大阪の吹田で日本万国博覧会が開催された年であるが、その開催準備の為の道路・地下鉄工事・会場建設工事などが比較的短期間に集中的に行われることになったため、
「万博協会」・大阪府労働部は、労働力が不足して開会期日までに間に合わないのではないかと危惧して、全国の職安などに人寄せの協力を依頼した。

また、東京オリンピック(1964年)後、東京では仕事量が大きく減少していた。
そのため、大阪に西日本を中心として全国各地から労働者が集中し、釜ケ崎の人口も1965年から1975年にかけて一時的に急増したものと思われる。

「万博」関連工事終了後は、東京オリンピツク後の東京と同じように仕事量が大きく減少した。そして、多くの仕事無き労働者が残された。「万博棄民」などといわれたのも、この頃のことである。

 いずれにしても、国政調査によれば、現在の釜ケ崎(広義の)には約3万人強の人々が居住していて、そのうち約2万1千人が日雇労働者であると推定されている。

ただ、釜ケ崎の人口とりわけ釜ケ崎労働者の総数は、国政調査だけでは把えきれない部分がある。
それは日雇労働の性格から移動性が求められ、釜ケ崎に常時住んでいるわけではない労働者が相当数存在するからである。

たとえば、期間雇用を主とする労働者の中には、半月間飯場に入って稼ぎ、後の半月をその稼ぎを使って釜ケ崎で過ごすといった生活パターンを持つものもいるのである。
また、季節によって異なるけれども、野宿生活者も決して無視できる数値ではない。

さらに、釜ケ崎の居住者とはいえないが、ここに隣接する西成区の他地区・浪速区などから、あるいはより遠方から電車通勤で「寄り場」にやって来て、釜ケ崎から就労している者が6千人位はいると推定されており、
この人たちを釜ケ崎労働者に加えるとすれば、釜ケ崎労働者の総数は、先の2万1千人と合わせて約3万2千人に達するものと思われる。

 再び釜ケ崎地区人口について確認すれば、広義の釜ケ崎の住民は約3万人で、そのうち日雇労働者が三分の二の約2万1千人である。残りは一般世帯(約6千人)、自営業者(約3千人)と推測されている。

狭義の釜ケ崎である萩之茶屋地区に限れば、一般世帯は山王地区よりも少なく、労働者の比率は釜ケ崎の他地区よりも最も高い。

これらの数字から、釜ケ崎という街は、日雇労働者抜きでは成り立たない街であることが判る。


釜ケ崎労働者の単身性と街の構成 

 一世帯当たりの人員について検討すると、1990年の国政調査によれば、西成区全体の平均は一世帯当たり2・22人であり、釜ケ崎は1.32人である。

釜ケ崎地区は一世帯当たりの人員が、極端に少ないといえる。

さらに萩之茶屋地区についてみると、一世帯当たり1・16人であり、限りなく一人に近く、世帯のほとんどが単身世帯で占められているといってよい程である。

また、釜ケ崎人口の男女比を検討するに、男4に対し女1となっている。

萩之茶屋地区はさらに極端で、男1万4,230人に対し女1千70人と、男女比は14対1となる。

先に確認したように、釜ケ崎にも自営業者など単身世帯ではないと推定可能な世帯も居住するわけであるから、それを除いて考えれば、日雇労働者のほとんどが男性の単身者ということになる。

ちなみに、釜ケ崎労働者の平均年齢は50歳といわれている。

 この「単身性」ということが、釜ケ崎の労働者の生活パターンの基本的な規定要因となっている。

単身生活者としての釜ケ崎労働者は、衣食住や娯楽といった諸機能を、当然のことながらここ釜ケ崎を中心に満たしている。

しかし、その充足のされ方は、釜ケ崎労働者の平均年齢のかねあいでいえば、釜ケ崎外で生活するの50歳代の男性ー多数は「家族持ち」であろうーのそれとは異なる。

生活の基本である住と食についてみれば、「ドヤ暮らし」、外食あるいは持ち帰り弁当といった具合である。

「ドヤ」とは「宿屋・ヤドヤ」の逆さ言葉であり、簡易宿泊所のことである。
法的には旅館の一種であって、決して定住生活を営む空間としての機能を備えたものではない。
大部分の釜ケ崎労働者は、このようなドヤを定住生活の場として生活している。

逆に街の機能からいえば、釜ケ崎の街は全体として、社会の多数においては家族単位で満たされている生活の諸機能を、単身生活者が個々に満たすのに応えるような街の構成をとっているといえる。

 釜ケ崎は商住混合地区といってよい地域で、どちらかといえば、消費的地域である。

少し古い資料であるが、一般住宅を除く「事業所統計調査」(1981年)によれば、釜ケ崎地区の事業所総数2,729ケ所のうち卸・小売業65パーセント、サーヴィス業20パーセントが大半を占め、あとは不動産業6パーセント、製造業4パーセントが目立つ程度である。

釜ケ崎のうち萩之茶屋地区にかぎってみると、卸・小売業が57パーセントと減り、サーヴィス業が28パーセント、不動産業が約10パーセントと多くなっている。
他では金融業約4パーセントが目立つ。製造業初めとする他の産業部門は1〜2パーセント以下でほとんどないに等しい。

この事実から釜ケ崎は消費的生活の場であると同時に、萩之茶屋地区は山王地区に比べ商業的地区の色あいが薄く、より住機能中心的であることが判る。


「ドヤ」(簡易宿泊所)の現況 

 ここで釜ケ崎労働者の住環境について、やや詳しく見てみることにする。

現在の釜ケ崎には労働者の利用しえる宿泊施設として、次のようなものがある。

  軒 数  収容能力(1990年)
簡易宿泊所  197 約1万7千人
日払いアパート 48 約2千人
一般アパート 202 約5千人
マンション 26 約2千人
旅館 11 約3百人
484 約2万7千人強

 これらの宿泊施設のうち、ドヤは萩之茶屋地区・太子地区に圧倒的に多く、山王地区には極めて少ない。逆に一般アパートは山王地区が多くなっている。

収容能力の点からいって、地区別の日雇労働者居住数に対応しているといえる。

また、宿泊施設の種類と数を見れば明らかなように、釜ケ崎に生活の拠点を求める限り、多数の者はドヤ住まいとならざるをえないのである。

 収容能力で過半を占める簡易宿泊所(ドヤ)は、ここ5〜6年の間に建て替えが進み、約80パーセント弱が鉄筋又は鉄骨コンクリート建てとなり、残りが木造となっているが、ドヤは戦後三期の変遷を経てきたといわれる。

 第一期は、日本の敗戦直後からはじまる。「第二次世界大戦」末期の大阪大空襲で、山王地区は免れたが、萩之茶屋地区の大部分は焼失してしまった。
日本社会全体の復興とともに、釜ケ崎も復活した。この時期のドヤは、木造二階建て、大部屋中心で相部屋方式、いわゆる「追込み型」のドヤであった。

 第二期は、それらのかなりの部分が、1970年の「万国博」前後に鉄筋コンクリートに建て替えられ、個室型のドヤが登場した時期である。
この個室型に立て替えられたドヤの一つの特徴は、たとえば外観上三階のドヤであるとすれば、各階を二層に分け、全体としては三階六層の構造としているもののごとく、投下資金を早期に回収するために、建築基準法や消防法に違反してまでも収容能力が高められていることである。
通常の一階の高さを二層にするのであるから、当然、部屋の中では立つことができなく、幅も布団一枚が敷ける程度のもので非常に狭い居住空間でしかなかった。わずかにある窓は、壁の一面にしかなく、ほとんどの場合が金網で覆われていた。
しかし、「住居」についての選択の幅が限られている労働者にとっては、たとえ僅かで不完全なな空間であろうとも、追込み式のドヤとは違う個室は、私的空間の確保の意味合いで歓迎され、建て替えしない旧来の木造のドヤも、ベニヤ・板壁で仕切り個室化を図った。

 この時期のドヤは、構造的に単に居住環境として劣悪なばかりではなく、防災の面でも大きな問題を抱えていた。
1970年には宝ホテルの火災で4名の労働者が焼死し、その後も度々ドヤの火災で焼死者が出た。

ドヤ火災では必ず焼死者が出る、という言葉が釜ケ崎の定説となったのはこの時期のことである。

 第三期は80年代から現在までで、特に80年代後半からの建て替えラッシュは、「街の変貌」というに値するものである。
鉄骨・コンクリパネル建て中心にドヤの高層・大規模化が進み、一階を一階として使い、窓から金網が消え、各室冷暖房完備のものが増えた。

しかし、居住環境面ではあまり改善が進んでいるとはいえない。
一部屋当たりの面積は一畳のものもまだあり、三畳以下の部屋が全ドヤの部屋数の85パーセントを占めている。
約6割を占める三畳の部屋にしても、小さな踏み込みと洗面と湯沸かしができる程度の設備があれば上等の部類で、大抵は、共同トイレ・共同炊事場である。
ムキ出しのコンクリーの壁と低い天井は、居住者に圧迫感を与える。悪くいえば、刑務所の独居房といった感があり、決して健康的で快適とはいえないのが実情である。

 ドヤの変遷を簡単にたどってみたが、このような当然ともいえる「改善」・「高級化」は、宿泊費の高騰をもたらした。

80年代前半においては、一泊平均8百円から9百円であったが、現在では千7百円から2千円と倍増しとなっており、月額に直せば五万円を超え、釜ケ崎外のアパートやいわゆる文化住宅などの家賃と比較して、割高であることは否定できない。

 釜ケ崎労働者の中にも一月払いのアパートやマンションに住んでいる者もいるが、これは少数派であって、大半の労働者はドヤ住まいである。
あっちこっちのドヤを移り住む者もいれば、長期に渡って何年も同じドヤに居を構えている者もいる。

いずれにしても、ドヤ住まいは、本来的には一時宿泊の場・「ホテル」に過ぎない空間を、日々反復される日常生活の場として活用しているということである。

この居住形態は、本来の意味の居宅でないことの不自由の他に、社会的不利益を被る。ドヤ住まいは、社会的には「住所不定」と同様にみなされ、もし常雇で就職しようとしても、住居の一定しないものは信用性に不安があるとして不採用になりがちであるし、大阪市の民生行政においては、ドヤは住所地として認められておらず、生活保護のうちの居宅保護を受けることすらできないのである。

 釜ケ崎労働者の住環境について述べたついでに、食生活についても簡単に触れることにする。

いうまでもなく食生活は、肉体を維持し、生活を送る上での基本である。

日本において外食が成熟した産業となって久しいとはいっても、同居する家族のある世帯では、朝夕の食事については同居家族の誰かが食事の準備を分担し、共に食べるという食生活が中心的であり、外食は補助的な位置を占めているにすぎないといえるであろう。

そういった食生活を送る者が、今の日本では多数を占めているが、釜ケ崎の労働者は単身でドヤ住まいである点から、下宿生活を送る学生や単身赴任のサラリーマンなどと共に、食生活の上からいっても外食中心の少数派の位置にいる。

もちろん、自炊をおこなっている者もいなくはないが、多くは外食が中心で不規則になりがちである。

 現在釜ケ崎地区には、飲食店が602店(1990年現在)余りあり、うち飯屋・すし店・ホルモン店など食堂関係が214店、立ち呑み屋・酒屋などが192店、喫茶店127店、お好み焼き・一杯呑み屋などの屋台が50店。

これらが労働者の胃袋を満たしている。また、最近は釜ケ崎の中にもコンビニエンス・ストアーや弁当店(8店)が増え、持ち帰り弁当を買い、ドヤの個室でテレビを見ながら一人夕食をすませるといったケースも増えている。

いずれにしても、このような食生活は豊かなものといえず、体を資本とする労働に従事している労働者にとって大きな問題であると考えられる。