はじめに 

 釜ケ崎(行政やマス=コミでは1966年以降「あいりん地区」と呼ばれている)が、世間の注目をもっとも浴びたのは1961年8月に起きた第一次「暴動」のときであった。当時の新聞はつぎのように伝えている。

  『さる一日から無警察と化した大阪西成の”釜ケ崎暴動“は三日夜も五千人にのぼる暴徒が西成署を包囲したが、六千人に増員した警官隊は治安回復のため強い実力を行使することを決定、警棒をふるって投石する暴徒に突撃、流血騒ぎが各所でおこった。
この日大阪府警本部は 警察庁の指示によって”高姿勢“の方針に切りかえ、……、装甲車を先頭に暴徒の列に突入、 手あたりしだい、”武力制圧“を強行した。この高姿勢に対抗して暴徒の一部は警官隊に投石するだけでなく付近のアパートに放火するなど暴動は四日午前二時ごろまで続き、負傷者が続出、重体者が出た。』(読売新聞・四日・朝刊)

 この暴動は一人の日雇労働者が東田町(霞町)交差点付近で交通事故に遭い、生死不明のままムシロを掛けられただけで、放置されていたことに起因している。このような犬猫の死体の処理のごとき警官の非人間的取り扱いに対し、周りで見ていた労働者が怒って、抗議し、大「暴動」の発端となったのである。

 1961年というのは第一次安保闘争の終結した翌年であり、経済的には、池田首相が所得倍増計画を引っさげて登場し、本格的高度経済成長が緒についた頃であった。
当時の釜ケ崎は文字通りの青空労働市場であって、法や政治のほとんど及ばない自由と無秩序な労働市場であった。労働者はトラックの荷台に載せられて、労働現場に運ばれて行くといった有様であった。
高度経済成長がこの時代の光の部分であるとすれば、釜ケ崎は、噴出する公害問題や過疎・過密などとともに、影の部分を成していた。
このような状況下で暴動が起きたのである。それは、戦後ずっと政治や社会から放置され、無視されてきた釜ケ崎労働者の”人間宣言“であったのかも知れない。

 この「暴動」が全国の人々に釜ケ崎の存在を強く印象づけたことは間違いない。ただそのことを契機に釜ケ崎についての認識が深まり、正しい知識が生まれたかといえば、大いに疑問だ。むしろ固定したイメージ(ステロ・タイプ)を広げたとも考えられる。

 現在、釜ケ崎について、強い関心を持ち、良く知っている人はそう多いとはいえない。
地区外の人にとって釜ケ崎の存在は、日常生活にはあまり関係なく、「釜ケ崎」という名称ぐらいは知っていても、それがどういう街であるのかを知らない人がほとんどである。
たとえ知っていても、せいぜい「恐い所」「危ない街」「ゴミゴミした汚い街」といった知識でしかない。

このような認識状況の下で、釜ケ崎についての一般的イメージが作られる。そして、経済的節目節目つまり、不況、好況の時に、あるいは「暴動」とか他の特別の状況が生じると、それが時として新聞・テレビで報道され、その情報に触れて従前のイメージが強化、また、補強されるのである。
しかし、このようなイメージや知識は部分的・一面的であって、しばしば真相や本質からずれている場合が多いのである。この知識状況が偏見や差別を生む。

 いずれにしても、第一次の大「暴動」はスラムとしての釜ケ崎の名を全国に広めた。ただその後の日本経済の高度成長と繁栄・豊かさの中で、釜ケ崎の存在は忘れ去られ、無視されがちである。


「釜ケ崎」はどのような街か

 釜ケ崎はごく一般的にはスラムと呼ばれる地域である。ではスラムとは何か。教科書的規定の一例を上げれば、つぎのようになる。

 『主として大都市に凝離的に形成される、階層的・人種的少数者集団の過密集住地域を指す。
 スラムの一般的属性として、貧困・老朽的住居・過密・低階層住民の集中・社会保障人口の集中・犯罪・健康障害・家族解体・立退き問題・生活環境サーヴィスの欠如・騒乱・孤独と疎外・不潔・言語問題・いゆるスラム的雰囲気などがあげられる。』
(浜島明他編・社会学小辞典)

 要約すれば、この規定にはスラムの病理的諸現象が述べられている。しかし、そこには歴史的本質的規定が抜け落ちている。
さらに、この規定はあくまでも一般的・網羅的定義にすぎないのであって、個々具体的スラム地域にそのまま当てはまるものではない。各々のスラムは、その歴史的形成過程、社会的構成、存在条件などが異なっているからである。

 たとえばスラムの特徴の一つとして、よく”老朽的住居“、”不良住宅“といった点が数え上げられてきた。しかし、現在の釜ケ崎においては、この点が特徴的であるとはいえない。
通常の意味での住居なり、住宅は多くなく、簡易宿泊所(通称ドヤ)が多数を占めている。これは業態からいえば旅館・ホテル業であって、決して、住居ではない。釜ケ崎の労働者はドヤを住宅のように利用して生活している。
さらに街並も、

『「あぶさん」の漫画のなかでしか知らなかった通天閣を見て、天王寺動物園から西成派出所の前を通り、あいりんセンターに到着した。想像していたよりも町並みはきれいで、ビジネス ホテル風の簡易宿泊施設がいくつもある。
道端で中古のテレビから岩波文庫まで、種々雑多な ものが安く売られている。昼間はみな労働に出ているため、人影もまばらだ。』(第二次釜ケ崎現地実態報告・一九八六年三月)と、初めて釜ケ崎を訪れた人が書いている。

現在の釜ケ崎の街を歩いてみると、10数階前後の高層のビジネス・ホテル風のドヤがたくさん立ち並んでいる他は、他地域の下町と大きく違っているわけではなく、よくよく気を付けていないと、釜ケ崎と気付かずに通り過ぎてしまうくらいである。
つまり、少なくとも外観的には、老朽の、汚い木造家屋がゴミゴミと軒を連ねているといった古いスラムのイメージからは程遠い。

この一例をみても、先にあげたスラムの社会病理的特徴の一つとされる”老朽的住居“という点で、現在の釜ケ崎にはあてはまらない。
このように、スラムはそれが成立した歴史的条件、地域的特性によって異なっている。また同一地域であっても社会・経済的情勢の変化によって、その地域自身が一定の変遷をたどることも明白である。

だとすれば、スラムの認識において、その病理的諸特徴を数え上げるだけでは不十分である。いやむしろ有害とさえいえる。
なんとなれば、それらの病理現象がスラムにのみ固有な現象だとされるならば、スラムに対する誤解と偏見を生む危険があるからであり、またスラムと全体社会、他地域との諸関係の認識が途切れてしまう恐れがあるからである。
 問題は、スラム(近代都市下層社会)を知るために最も重要な点、つまりその本質とは何かという点であり、その上に立つて各地域の特性と諸矛盾が明らかにされなければならない。

 では、近代都市下層社会(スラム)の本質とは何か。

 『なるほど市民社会の基底たる資本主義生産の成立は、「自由なる労働者」の発生を伴い、その増大をうながした。
彼は、「自己」意志にもとづき、「平等」な人格的等価交換を通じて、自己の「所有」する労働力を、「私益」のために売ることができる。(中略)
この自由なる労働者は、博愛心に富んだ市民=資本家階級によって、ヘパイストゥスの楔につながれた「賃金奴隷」の運命を与えられ、「資本の蓄積に対応せる貧困」の自由を保証されてのである。しかも、貧困は単なる物質的貧困に止まらない。労働者はまた、「機械の附属物」ともなり「疎外 された労働」を通じて自己を喪失せしめられ、……(中略)
  このようにして、近代の産物たる社会問題が生ずる。それは、なによりもまず労働者階級の<貧困>問題として現れたのである。スラムの発生もまた、ここから同時に始まった。
そしてこうした物質的・精神的貧困の再生産を通じて、その階級的地位の閉鎖的固定を強いられ、それを世代的に継承する労働者は、事実上、新しい<差別>の対象となる。』(小関三平ー現代社会学ノート)

 以上、引用してきたように、スラム問題の根底には、近代資本主義が避けがたく生みだしてきた貧困層と差別の問題がある。
もちろん、生産力が上昇し、資本主義社会が発達するにつれて、労働者の生活水準は向上し、政治参加などの権利の獲得に前進があったことは間違いない。しかし、そのことで労働者が労働者であることを止めたわけでもないし、また下層階級が無くなったわけでもない。

近代資本主義は物質的に豊かな社会を造り出した反面、労働者・大衆の階層分化を進めた。
具体的には、失業あるいは半失業状態の労働者は言うにおよばず、臨時雇用者・社外工・零細な下請企業の労働者。形の上では中間層に属しながらも、その営業実態・生活実態において、下層労働者とあまり差異のない階層、いわゆる”名目的自営業層“。また、農村における余剰人口の存在などがそれである。
これらの下層大衆が厖大に存在することこそが、スラムの形成の一般的前提である。いうまでもなく、これらの階層の量と比率は、その時々の歴史的・社会経済的状況に規定され、変動する。

 しかしながら、この一般的条件の存在がただちに、スラムの形成を意味するものではない。
スラムは社会の底辺に位置するという階層的特徴を持つと同時に、一定の空間的、地域的な限定を持っている。
つまり、下層大衆が社会全域に万遍なく散在するのではなく、一定の地域に集住して、その周辺地域、あるいは一般地域から隔離(セレグレイト)された独自な地域社会を形成している。

 では、スラムが特定の地域に形成される要因は何か。
今のところ、この点を論理的・体系的に説明するめぼしい理論は見い出せないが、羅列的に列挙するならば、歴史的・地理的要因、下層大衆に対する差別的・文化的要因、さらに政策的・行政的要因などを上げることができよう。
したがって、先に記した一般的前提とこれらの諸要因との絡み合いの下で、都市スラムが形成されると理解される。ただここでは準備不足もあって、これ以上、立ち入らない。


「釜ケ崎」の現在 

 釜ケ崎は、大阪市の南西部にある西成区の北東の一角にある。
ミナミの繁華街からは、歩いても三〇分程の距離であり、大阪の南の玄関といわれる天王寺駅から西へ歩いて二〇分、地区内とその周辺にはJR環状線と南海電車の新今宮駅、南海本線の萩之茶屋駅、地下鉄動物園前駅・花園駅が在る交通至便の地である。
また、阪堺線は釜ケ崎の町中を南北に縦断しており、萩之茶屋南公園(通称三角公園)の近くに今池駅がある。

 面積的には、釜ケ崎はそう広い地域ではない。行政機関の線引きに従えば、面積は〇・六二平方キロで、西成区全体の約八・四%をしめているにすぎない。

 この狭い地域に、推定約四万人以上の人々が居住している。一平方キロに換算すれば六万人をはるかに超えることになる。こんなに人口密度の高い地域は、日本中捜しても他には見当たらない。
ただ、これはあくまでも推定であって、正確な数字ではない。というのは、釜ケ崎の住民の中には、住民票の移動手続きをしていない人がかなり多く、また、その時々の社会・経済情勢によって、人口の流入・流出が常に起こっているからである。
後で少し触れたいと思うが、五年ごとに実施される国政調査によっても正確に把えられているとはいえない。

 ところで、「釜ケ崎」という地名は、現在市販されている市街地地図や国土地理院発行の地図を捜しても見ることができない。
「あいりん地区」という名称も、地図に存在しない。
「釜ケ崎」「あいりん」、いずれもこの地域の通称であって、公式な地名でも、行政区名でもない。
しかし、「あいりん」の呼称はそうではないが、「釜ケ崎」の地名はかって実在していた。その名の由来は必ずしも明確ではないが、『西成区史』(一九六八年刊)は次のように記載している。

 『釜ケ崎の名称については、明治33(1900)年4月1日の町名変更で「同字水渡・同水渡り・同水渡釜ケ崎・同釜ケ崎の反別弐町八反壱畝八歩を区域として水崎町」と改称するとあり、釜ケ崎の町名は、この時から公に消滅している。しかもこの水崎町は関西線以北である から当時の南区であり、何故関西線以南の今宮村区域にこの釜ケ崎の俗称が残ったか、その理由は明らかではない。』

 釜ケ崎に触れる書物の多くはこの説を踏襲しているが、実は事実に反している。
『西成区史』が、釜ケ崎の地名が公に消滅したとする時よりも22年後の1922(大正11)年3月23日『大阪府公報』は、西成郡今宮町の町名変更について告示している。

 『西成郡今宮町左記大字子字ノ区域変更並其ノ名称改称ヲ為シ大正11年4月1日ヨリ施行ノ件許可シタリ
  西成郡今宮町大字今宮字釜ケ崎ノ内自七〇四ー一〜至七〇四ー六……右区域ヲ変更シ今宮町甲岸ト改称ス』

 詳細については触れないが、この年に釜ケ崎が甲岸・東入船・西入船と改称されて公には消滅したというのが歴史上の事実であり、また、甲岸・東入船・西入船の地名は、1973(昭和48)年の町名変更で現在の萩之茶屋一丁目あるいは二丁目となったのであるから、地域的にも関西線以南に釜ケ崎の地名が存在したというのも、これまた歴史上の事実である。

『西成区史』は、関西本線によって今宮村が二分されたことは承知していながら、具体的にどのように二分されたかは検討しなかったもののようである。関西本線が二分したのが、今宮村字釜ケ崎であり同水渡であったことを知っていれば、区史の記述も違ったものとなったはずである。

 さて、1922年の町名変更で行政上の「釜ケ崎」が消滅した後、今宮町は大阪市の第二次市域拡張(1925ー大正14)で、西成区の一部として大阪市に編入されたが、
それ以後も「釜ケ崎」の名はこの地域の通称として、それもスラムの代名詞として(大正期の大阪市による細民調査では、現在の「あいりん地区」とほぼ重なる地域を、「釜ケ崎地区」として調査対象にあげている)、戦後にいたるまで存続している。

 この「釜ケ崎」に「あいりん」の呼称が与えられたのは、1966年のことである。
それには、次のような経緯があった。
東京・山谷に引き続き釜ケ崎の地で1961(昭和36)年に第一次の大「暴動」が起こって、戦後はじめて世間の注目を浴び、深刻な社会問題として表面化した。

行政も重い腰を上げ、当時の国会や大阪府会、大阪市議会でも取り上げられ、問題点や改善策が不十分とはいえ検討された。

それに基づき、労働者の就労問題は国と大阪府が、医療・福祉については大阪市が分担するという形で、諸対策が実施されたが、目に見えた形では成果があがらず、その後も「暴動」は1963年に2回、1966年には三月に1回、そして五月に1回と続発した。

そこで、地域のイメージ・アップをはかり、警察としては断固取り締まりを強化するとの姿勢を示すために、1966年5月、大阪市・大阪府・大阪府警察本部が構成する釜ケ崎対策に関する「三者連絡協議会」において、「釜ケ崎」の統一呼称として「あいりん地区」を使用することが決められ、マス・コミに対しても協力要請がなされた。

 それ以後、行政やマス・コミではこの呼称が定着している。
しかし現実には、「釜ケ崎」や「西成」の呼称が広く使われている。とくに、地区の住民、とりわけて労働者には、「あいりん地区」の呼称を使う者は少ない。
この地区を「釜ケ崎」と呼ぶか、「あいりん」と呼ぶかは、釜ケ崎に対する立場・利害・思いなどによって異なっているように思える。いずれにしても、呼称の変更などで、釜ケ崎の抱える問題は何も解決しない。それは、「あいりん」が採用された1966年5月以降、同じ年の6月と8月にも「暴動」が起こっていることや、昨年10月の「暴動」が証明している。


「釜ヶ崎」の範囲と街の性格 

 では、具体的には釜ケ崎とは西成区のどこを指しているのであろうか。

さきの「三者連絡協議会」において大阪市民生局は、東四条一〜三丁目・東入船町・西入船町・甲岸・海道・東萩・曵船・東田・今池・東今船・山王一〜四丁目の一六町を示している。
これらの町名は1973(昭和48)年の町名変更で、そのほとんどが消えてしまったので現在の地図では確かめることができない。
西成労働福祉センター発行の事業報告(第20号)は、現在の町名で次の11町丁をあげている。
花園北一・二丁目(一部)、萩之茶屋一・二丁目・三丁目(一部)、太子一・二丁目、天下茶屋北一丁目(一部)、山王町一・二丁目・三丁目(一部)である。
これらは、旧町名の範囲とほぼ一致する。したがってこの地域が、行政当局によって想定されている「あいりん地区」ということになろう。

ただ行政の想定する「あいりん地区」に入っていない地域でも、「あいりん地区」と同様または類似している地域が、周辺には存在する。たとえばJR環状線をはさんだ北側にある浪速区の水崎町、馬渕町の一部は、「あいりん地区」の延長地区と考えてよい様相を呈している。

 ところで、先の「三者連絡協議会」において、大阪府警本部は「あいりん地区」を防犯対策上、次の三地域に区分していることを明らかにしている。

@暴力団や麻薬犯罪者の多い山王地区(山王一・二・三丁目)
A労務者(推定一万五千人)の多い萩之茶屋地区(東西入船・海道・甲岸・東萩・東四条各町(傍点引用者)
B両者の交流地区(東田・今池・曳船各町)
                           (朝日新聞一九七一年六月一六日)

 大阪府警の特徴づけは、府警自ら認識しているように、防犯上の観点からのもので、街の特徴を示す上では大いに問題がある。
とはいえ、「あいりん地区」と一括されている中でも、山王地区と萩之茶屋地区のように、その性格をかなり異にする地区が含まれている点には注目すべきであろう。

 山王地区はまた、二つの地区に分けることができる。
西端に南北に通る動物園前一番街(旧飛田本通)、二丁目と三丁目に南北に分けて東西に通る新開地商店街、東端に阿倍野区との境界でもある市大病院下の崖に囲まれた一・二丁目部分が戦災を免れているため、老朽の家屋が狭い範囲に密集している商・住混合地区となっている。
山王三丁目は、1958(昭和33)年4月1日の売春防止法実施の日(同法の成立・公布は1956年5月)までは公認の遊廓であった。
現在は料飲店が集中しており、いわゆる風俗営業地区となっている。しかし、高速道路が斜めに南北に走って街を分断する形となって以降、マンションなどの進出も目立つようになっている。

 萩之茶屋地区と比較して、ドヤや日払アパートなどは少なく、日雇労働者も少ない。
芸人村として有名な「てんのじ村」も、この山王地区の一角にあった。
一世帯あたりの人数も萩之茶屋地区に比べると多く、比較的に家族持ちが多いのが特徴である。
この意味では、山王地区は「あいりん地区」の中では旧スラム、つまりコミュニティスラムの概念があてはまる。

 これに対し、萩之茶屋地区は明らかに異なる。
とりわけ北にJR環状線、東に阪堺線、西に南海線そして南に萩之茶屋商店街で囲まれた一・二丁目はそうで、「寄せ場」を中心に、ドヤと食堂・飲み屋などが立ち並ぶ「ドヤ街」を形づくっている。
住民は日雇労働者が八割強を占めており、残りが飲食店などの自営業者とその家族、従業員などである。しかも、日雇労働者のほとんどが単身生活者である。
つまり、萩之茶屋地区は、男性の単身生活者である日雇労働者を中核とした「寄せ場」社会、「ドヤ街」社会であるといえる。

 このように同じ「あいりん地区」に含まれると言っても、「山王地区」と「萩之茶屋地区」とでは街の性格は大いに異なっている。
今まで「釜ケ崎問題」「スラム問題」の提示として起こって来た「事件」の多くは、「萩之茶屋地区」に係わる問題であったといえる。
行政の労働・福祉をめぐる諸施策も、日雇労働者に係わるものが中心である。
かくして、「釜ケ崎問題」の中核に日雇労働者を見据える時、その解決を探るための中心モデルは「萩之茶屋地区」に求められ、「対策」の中心も「萩之茶屋地区」に据えられことになる。

もっとも、他の「山王地区」などを放置しておいてよいということにはならないのは、いうまでもないことであろう。しかし、ここでは中心モデルである「萩之茶屋地区」に限定して問題点を詳細に検討することにする。


釜ケ崎の住民構成と社会的性格 

 一般に都市社会では、社会階層と居住地域との間に一定の相関関係が認められるのが通例である。
それは平易に言えば、高級住宅地であるとか、庶民の住む下町であるとかの表現に込められていることがらである。

つまり、そこに住んでいる人々の職業と階層あるいは営まれている業態などによって、その地域の性格や持つ機能が決まってくるのである。

 この観点から住民のほとんどを日雇労働者が占める釜ケ崎をみる時、彼らの持つ社会的機能また彼らの営む日常生活ありようによって、地域としての釜ケ崎の性格が決定づけられているといえる。
この意味では、釜ケ崎は二つの顔を持っている。一つは「寄せ場」のそれであり、他は「ドヤ街社会」としてのそれである。