定点観測 釜ヶ崎

 『定点観測 釜ヶ崎』は1999年に葉文館出版から出版されたものと、2018年に東方出版から発行されたものがあります。
 葉文館出版は、『定点観測 釜ヶ崎』を刊行して2~3ヶ月で倒産したため、葉文館出版の『定点観測 釜ヶ崎』は数百冊しか店頭に並ばなかったといわれています。図書館(大阪市立中央図書館・大阪府立中之島図書館にはあるようです。)
 東方出版の『定点観測 釜ヶ崎』は、<増補版>とされていますが、紹介されている撮影ポイントは10地点減っています。<増補版>のゆえんは、全ての撮影ポイントに解説が付されていること2017年の写真が増えていることであると思われます。解説や年表等も変わっているかも知れませんが、詳しくは比較点検していません。
 今回は、<増補版>ではなく、葉文館出版の解説を元に紹介し、一部、写真も紹介しました(引用以外では和暦は使用されていませんでしたが、紹介者が足したところがあります。念のため申し添えておきます)。写真集ですし、増補版は大判の本ですから、実物の方が遙かに質の良い写真を見ることができます。
 

定点観測 釜ヶ崎-定点撮影が明らかにする街の変貌  1999724日 初版第一刷 定点観測・「釜ヶ崎」刊行会
                                         葉文館出版株式会社  203ページ 21.4 ×15 ×2 cm

旧版目次
1)定点撮影定点撮影ポイント地図  2)定点観測・解説
31968年頃の釜ヶ崎-子どものいる風景 小柳伸顕
4)野宿禁止の看板やイヤガラセのいろいろ  5)「野宿者」の排除が進む地区内・地区周辺
6)資料編 7)釜ヶ崎年表 水野阿修羅8)編集後記 水野阿修羅/中島 敏
定点観測・釜ヶ崎<増補版> 2018220日 第1版第1刷発行 編者:中島 敏

                         東方出版(株) 286ページ 26.6 × 19 × 2.8 cm (7000円+税)

中島 敏(なかじま さとし/本名・敏幸)
 1947年香川県小豆島生まれ。日本写真専門学校卒。作品に『ドヤ街釜ヶ崎』(1986年、晩聲社)、『単身生活者』(1990年、海風社)、『定点観測釜ヶ崎』(共著、1999年、葉文館出版)
小柳伸顕(こやなぎ のぶあき)
 1937年北海道生まれ。大学では神学と教育学を学ぶ。大阪市教育委員会嘱託ケースワーカーとして、あいりん小中学校で働く。寄せ場学会会員。著書『教育以前』(1978年、田畑書店)、共編著『釜ヶ崎歴史と現在』(釜ヶ崎資料センター編、1993年、三一書房)、「釜ヶ崎の風』(釜ヶ崎キリスト教協友会編、風媒社)
水野阿修羅(みずの あしゅら)
 1949年生まれ。寄せ場学会会員。著書『その日暮らしはパラダイス』(1997年、ビレッジプレス)、『労務者渡世』(共著、1976年、風媒社)、『釜ヶ崎歴史と現在』(釜ヶ崎資料センター編、1993年、三一書房)、『釜ヶ崎のススメ』(2011年、洛北出版)他。
増補版目次
撮影ポイント地図/監視カメラポイント地図
序文 定点観測・釜ヶ崎(寄せ場)のいま 水野阿修羅
定点観測 写真と解説
資料編
 資料1 釜ヶ崎の古地図、石碑他 資料2 無縁者合葬と墓籍簿 資料3 飛田の屏
 資料4 ドヤ(簡易宿泊所)の変遷 資料5 労働現場と飯場 資料6 1960年代の街並みと人びと
 資料7 バブル崩壊と野宿者
「野宿者」の排除が進む地区内・地区周辺 小柳伸顕
撮影ノート 中島 敏  参考文献
釜ヶ崎年表 水野阿修羅編

2)定点観測・解説(旧版番号)増補版-番号

定点写真番号(1)増補版-1
場所:大阪府西成郡今宮町(現在、大阪市西成区萩之茶屋1
撮影年代:左・1925年、右・19941月 
撮影者・提供者:左『今宮町誌』、右・中島敏、
 現存する釜ヶ崎最古の貴重な写真。光線の状態から、釜ヶ崎を南北に通る紀州街道(住吉街道)を南から北に向かって撮られたことがわかる。写真左側に、当時、高価だったろうビールを出す食堂があるのには、正直いって驚いた。(1917年=大正6年、この街道には、木賃宿16軒、飲食店80軒、はり屋1軒、床屋1軒、風呂屋1軒、質屋1軒があった。)
 「今宮町志」は、1925年(大正14)の第2次市域拡張にともない、消滅することになった今宮町が大阪市編入を記念して編まれた。これによって4区制が13区制になり、西成区が誕生する。
定点写真番号(2)増補版-2
場所:大阪府西成郡今宮町(現在、大阪市西成区萩之茶屋112。推定地)
撮影年代:左・1925年、右19944月、増補・2017
撮影者・提供者:左『今宮町誌』、右・中島敏、増補・中島敏
「やど」とあるのが、ドヤ(木賃宿)のことで、この当時、釜ヶ崎に49軒あったと記録にある。内部は、1階には23畳間に仕切った部屋を、夫婦者に住まわせ、2階には大広間を作って、独身者向けの雑居部屋にしていた。宿泊人は、1軒あたり100人前後いた。大きいドヤになると、175人というのがある。宿料は、独身者810銭、夫婦者1720銭である。l926年木賃宿の名称が、簡易宿泊所となる。
定点写真番号(3)増補版-3
場所:大阪市西成区東入船町(現在、大阪市西成区萩之茶屋19
撮影年代:左・不明、右19955月、増補・2017
撮影者・提供者:左『大阪都市協会』、右・中島敏、増補・中島敏
 ここに使用した大阪市立「労働紹介所」の写真については、場所と撮影時期の特定がいずれも難航し、最後まで特定することができなかった。しかし、ここではあくまで、西成区入船町にあった「今宮労働紹介所」として、あえて使用した。
 大阪市は、1919(大正8)年9月 今宮労働紹介所を、現在の浪速区宮津町に開設する。ついで同10月京橋労働紹介所を設置し、さらに19209月築港労働紹介所を、19241月には、安治川労働紹介所をそれぞれ開設している。(1930年以降にも増設して、1935年には6ヶ所の紹介所があった。)
 しかし、浪速区に開設された今宮労働紹介所は、1926年一時廃止され、1928年に日雇労働紹介を専門として、西成区東入船で再開されている。したがって名称も撮影時期も明示されていないこの写真が、1928年に開設された「今宮労働紹介所」である可能性も全くない訳ではない。
 その後、この場所に市営今宮住宅が建設され、’70万博の頃にはスラム化した姿を見せていた。この住宅もあいりん総合センター内に市営住宅が完成後はこわされ、しばらく更地のまま放置されていた,ところが、西隣に新今宮小中学校独立校舎が1973年完成し、この場所は運動場として使用される。しかし、それも1984年に廃校になり、いまは地区の老人達が、そこでゲートボールに興じていた。
定点写真番号(4)増補版-4
場所:大阪市西成区東入船町19(現在、大阪市西成区萩之茶屋1914
撮影年代:左・1934年頃、右19953月、増補・2017
撮影者・提供者:左『四恩学園』、右・中島敏、増補・中島敏
 この地鎮祭の写真は、祉会福祉法人「四恩学園」が、1934(昭和9)年に完成させた園舎(主に無料宿泊所として使用)建設時のものと思われる。当時、釜ヶ崎では珍しい洋風3階建の尖塔を持つ、どこかイスラム教のモスクを思わせる建物だった。1945年の空襲にもこの建物のみ残り、戦後、孤児収容に活用された。
  1次暴動後、府の要請によって「四恩学園」がこの建物、土地の一切を譲渡した。1970年に西成労働福祉センターも入った「あいりん総合センター」が完成し、西成労働福祉センターがそちらへ移転するまで、この建物が西成労働福祉センターの一部として使用されていた。また4代理事長、故・林文雄氏は、西成労働福祉センターの理事も歴任された。
 「四恩学園」創設のイキサツは、「願わくば衆生と共に」によると、こう記されている。『大正49月、大阪市在住の宗教大学出身の浄土宗仏教徒によって大阪四恩報答会が設立され、市内7ヶ所で子供会活動が始められた。大正78月に米騒動があり、大阪の米騒動の発生が「釜ヶ崎」であり、この地区を管轄する警察署である今宮署と四恩報答会の会員によって、「釜ヶ崎」の児童を指導する子供会が生まれた。この事業は発展して、大正94月四恩学園が創設された。』
 創設時の主な事業をみると、不就学児童の教育、子供会、敬老会などの活動の他、内職斡施所、助産相談所などを設けている。戦前は、消費組合組織自由労働者の宿泊所、乳児託児所などを設けている。戦後は、園舎を再建し乳児院と診療所を開設。ララ衣料ステイション並びに、ミルクステイションを設置するなどさまざまな活動を行なっている。
 「あいりん総合センター」内に、西成労働福祉センターが移転した後、この場所は“あいりん小中学校”が開校するも、生徒減少により廃校になった。現在、社会福祉法人「自彊館」三徳寮になっている。右写真は、その三徳寮の会議室である。なお、「四恩学園」は1963年住吉区へ移転した。
定点写真番号(5)増補版-5
場所:大阪市西成区東萩町30(現在、大阪市西成区萩之茶屋366
撮影年代:左・
19331945年、右19951月、増補・2017

撮影者・提供者:左『社会福祉法人愛徳姉妹会』、右・中島敏、増補・中島敏
 「聖心セットルメント」と大きな看板のある家は、フランス聖ビンセンシオ愛徳姉妹会の3人のシスター達によって、1933年に釜ヶ崎の地で隣保事業を行なった最初の建物。
 「愛徳姉妹会50年史」によると、そのさまざまな活動の内、まず「欠食児童への給食を緊急なものと採り上げ、昭和81113日から始めた。(中略)給食を始めて見ると給食を受ける子供が少なかったことや、母親が子供と一緒に給食を受けに来る等のことがあったので小時で打切った。」とある。また診療事業は、「昭和922日から開始することができた。診療所は2階建で2階を診療室に、1階を待合室に使用した。診療は週3日(月水土)の午後で診療科日は、内科、外科、小児科であった。」とある。
 ちなみに、193311月から19348月までの活動記録は、<欠食児童給食>5027、<衣類給与>布団40、着物680、古着250、<診療所>診察2476、施薬10333、<患者訪問>童貞見舞740、医師往診44、となっている。
 しかし、19453月の大空襲により、聖心セットルメントは焼失し、その後、復興することはなかった。焼失後、本部を大阪市住吉区山坂町5-26に移し、ここでは以前からあった聖母病院(19401968廃院)に、釜ヶ崎の結核患者や貧困な病人を収用する一方、1947年聖母託児園、1945年聖家族の家、1969年聖母整肢園等を設立する。
 愛徳姉妹会が去ったあと、この場所にマンションが建つ。バブル最盛期の頃だった。以前は木造平屋の呑み屋があった。
定点写真番号(6)増補版-6
場所:大阪市西成区海道町361(現在、大阪市西成区萩之茶屋24
撮影年代:左・
19361945年、右19946月、増補・2017

撮影者・提供者:左『社会福祉法人愛徳姉妹会』、右・中島敏、増補・中島敏
 西成区東萩町30番地に開設した聖心セットルメントにつづいて、1936年に開設された新しいセットルメント。場所は、現在の萩ノ茶屋中公園の一部である。
 この場所はいま、多勢の野宿労働者によって占拠されている。バプル崩壊後は100人近い高齢の労働者が野宿を余儀なくされていた。それ等の労働者に、ここで釜ヶ崎地域合同労組によって、1974年から現在まで12(越冬期間中等は13)の“炊き出し”が行なわれている。
 かつてこの場所で、聖心セットルメントによって、児童保護、医療事業等の他、極貧者、母乳なき乳児、栄養不良の乳児、欠食児童に対して、給米券、牛乳、ミルク、昼食をほどこしたと「愛徳姉妹会50年史」に記されている。それから60年後、やはり民間の団体によって“炊き出し”が維持されているのをみると、全く同じことがいまも繰返されていると思わざるを得ない。
 写真右に、公園が金網フェンスでおおわれているのが見える。これは1976年から、市当局によって、地区内の萩ノ茶屋北公園、同中公園、花園公園、山王公園が封鎖されていった。ただ、この中公園に限って2ヶ所の入口を開放している。
定点写真番号(7)増補版-7
場所:大阪市西成区今池町36・山王町3丁目(現在、大阪市西成区太子2413
撮影年代:左・1956年、右19954月、増補・2017
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏、増補・中島敏
定点写真番号(8)増補版-8
場所:大阪市西成区山王町49(現在、大阪市西成区山王32
撮影年代:左・不明、右19954月、増補・2017
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏、増補・中島敏
左写真の中心部に店名「中市」と、かすかに読める料亭は、そこにはもうなかったが、中市工務店として現存していた。(旧版では7番の解説となっているが8番の誤植)
定点写真番号(9)増補版-9
場所:大阪市西成区東田町8(現在、大阪市西成区太子12
撮影年代:左・19533月、右19941月、増補・2017
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏、増補・中島敏
定点写真番号(10)増補版-10
場所:大阪市西成区東入船町10(現在、大阪市西成区萩之茶屋114
撮影年代:左・1956年、右19954月、増補・2017
撮影者・提供者:左・読売新聞社、右・中島敏、増補・中島敏
定点写真番号(11)増補版-11
場所:大阪市西成区海道町(現在、大阪市西成区萩之茶屋26
撮影年代:左・1956年、右19944月、増補・2017
撮影者・提供者:左・読売新聞社、右・中島敏、増補・中島敏
 左写真の「古着残品五十市場」はすでに地区内にはない。ここで古着のセリをやっていたところらしいが、いまでも周辺に中古のロッカーとか、家具のセリをやっているところはある。
定点写真番号(12)増補版-12
場所:大阪市西成区東四条町19(現在、大阪市西成区花園北198
撮影年代:左・19587月、右19957
撮影者・提供者:左・読売新聞社、右・中島敏
 この「ヨセヤ」はいまも営業している。45年前に、鉄筋6階建のビルに新築し、下が仕事場、上はマンションになっている。
 左写真の右側に見えるのが南海線高架で、この時代ここから南海線ぞいに、府道、尼崎平野線まで、道路予定地にバラックが密集していた。
定点写真番号(13)増補版-13
場所:大阪市西成区東入船町・西入船町(現在、大阪市西成区萩之茶屋1
撮影年代:左・19591月、右19944
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 釜ヶ崎の中心部を北から南に向かって撮ったもので、中央の白い建物は西成署、右端の白い尖塔を持つ建物が四恩学園、手前の線路はJR関西線である。それにしても木造の2階ないし3階のドヤがあるばかりで、まだ高層ドヤなどどこにもない。
 ドヤ(街)が高層化して来るのは、1960年代の中頃からで、まず、外から見れば3階建だが、内部は6階建というタイプが出現する。その後、高景気に沸いた’70万博前後にさらに加速し、中休みのオイルショックをはさみ、再び、1980年頃からバブル期にかけて、ビジネスホテルタイブのものが雨後の竹の子のように建った。
 しかし、安いドヤや古いアパートがこわされたことで、ドヤ代の高い高級ドヤばかりになってしまった結果、高齢者には住みづらい街になりつつある。
 写真手前はJR新今宮駅で、1964年開設される。環状線開通は19614月。
定点写真番号(14)増補版-14
場所:大阪市西成区東萩町(現在、大阪市西成区萩之茶屋3612
撮影年代:左・19595月、右19942
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 1962年に当職安の有効手帳保持者が4896人を数えていたのが、32年後の’942月には、わずか27人に激減している。その間、名称も大阪港労働公共職安西成出張所から、阿倍野公共職安西成出張所となり、現在はあいりん労働公共職安分庁舎へと、めまぐるしく変わっている。それにしてもあれだけ多勢の労働者は、一体どこへ行ってしまったのだろうか?
 撮影当日、求職におとずれた労働者は10人程で、その内の半数は女性労働者だった。ちなみにその日は2件の求人しかなく、賃金・求人数も8900円、1人、6670円、2人というものだった。もはや機能的には停止しているといわざるを得ない。
 かつて当職安から、大阪港“沖仲仕”(船内荷役)として、多勢の労働者が従事していた。ところが船内荷役等が、’70年万博の頃から次第に機械化・合理化されてきて、以前のように人間を必要としなくなってきたことがある。19664月に、当職安の労働行政の管轄が大阪港職安から阿倍野職安に移行しているのが、その間の事情を物語っている。また“失対事業”へも沢山の労働者が従事していたのが、こちらも縮小やら、定年制の導人によって、全国で35万人いた失対労働者が、いまは3000人に減っているという。そしていよいよ’95年末で廃止になるという。労働者がいなくなってしまった理由として、こういった要因の外に、写真をよく見ていただければお解りになると思うが、撮影当時(1959年)すでに高齢化が始まっていたのか、若い労働者の姿はない。
定点写真番号(15)増補版-なし
場所:大阪市西成区東入船町(現在、大阪市西成区萩之茶屋1
撮影年代:左・1959年、右199410
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 一見、どこにでもありそうな踏切の光景に見える。ところが、この阪堺線軌道内には、まず他に例のないことが1つある。
 左右の写真の線路上をよく見てもらいたい。そうすれば右の写真に、砕石(当時は丸石)がアスファルトで覆われているのが解るだろう。(やや不鮮明だが)
 写真から第1次暴動(1961年)以後に、そうされたことが解る。第1次暴動の時には、線路上の石が「バケツ1杯いくらで」売られていたという話も残っているから、これは「暴動対策」の一環として着手されたのは間違いない。
 踏切のすぐ上側が阪堺線霞町駅で、アスファルトで覆われている区間はこの駅の構内も含め、南へ500メートル離れた今池駅間で、ほぼ釜ヶ崎の中心部にあたる。撮影当日、この間を歩いてみた。アスファルトで覆われた部分が残っているのは全体の15位だろうか。いたるところ保線作業で新しい砕石が入っていたし、長い年月の問にアスファルトも風化が進んでいた。
定点写真番与(16)増補版-15
場所:大阪市西成区海道町・今池町(現在、大阪市西成区萩之茶屋2・太子2
撮影年代:左・1959年、右19942
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 街のどこからでも見えた通天閣が、いつの間にか見えなくなった。南海電鉄阪堺線、今池駅にて。
(この今池の地名の起りは、阪堺線が南海天王寺支線をまたぐ区間を、土手で盛り上げる際、すぐ近くから土を運んだため、そこがやがて池になり、今池となった。)
定点写真番号(17)増補版-16
場所:浪速区水崎町・西成区西入船町(現在、浪速区恵美須西3・西成区萩之茶屋1
撮影年代:左・1960年、右19945
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 左写真は、南海電車本線(高架部分)とJR環状線が交差する現在のJR新今宮駅と南海新今宮駅付近。当時、写真のようにまだ駅はない。
 左写真の右、つまり浪速区側にバラック街が見えるが、JR環状線新今宮駅と南海新今宮駅の開設や道路用地の為、この写真が撮られた数年後に撤去させられる。かつてこのバラックが建っていたところから、手前の中山太陽堂まで農業用の大きな池が2つあった。この池から、当時の西入船町と東人船町の境界に沿って4m程の水路が南へ流れていた。
定点写真番号(18)増補版-17
所:浪速区恵美須町3156(現在、浪速区恵美須西213
撮影年代:左・19605月、右19945
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 バラック街にあった“さんぱつ屋”。
 2600坪の大阪市公園予定地(1957年開園予定)に建つ、200戸以上のバラック密集地から、197011月、火災が発生する。報道によると、こうである。(朝日)
 22日午前310分ごろ、木造簡易住宅が密集している大阪市浪速区恵美須3丁目の日雇労働者、森本隆男さん(45)方付近から出火、周辺の木造トタン住宅、町工場の作業場など計30棟、約1300平方メートルを焼き、同350分ごろ消えた。大阪市消防局の調べでは、45世帯、126人が焼け出され、(中略)身元不明の男の焼死体が見つかった」
 この火災を口実に、市当局は、被災しなかったバラックも取り除き、公園整備をすすめる。
 この“さんぱつ屋”の当時の場所を、近所でいろいろ聞き込みをした結果、テニスコート(現在の)の横にあったことが判明した。そして、追い出されたあとその“さんぱつ屋”は、少し東の場所でいまも営業していることも解った。行ってみると、オヤジさんはすでに亡くなり、息子さんが後をついでいた。
定点写真番号(19)増補版-18
場所:西成区東萩町57(現在、西成区萩之茶屋35
撮影年代:左・19606月、右19947
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 地区に残っていた最後のバラック街。10年程前まで、まだ残っていた。後方に見える南海本線に沿って、三角形をした200坪程の一角だった。
 そこには、ヤクザの経営するスナック兼事務所(賭場もあった)とか、在日朝鮮人の経営するバラックのドヤ、畳屋、食堂、古道具屋、散髪屋、古着屋、握りめし屋、木工所、それに“大韓民団”という看板のある建物もあった。この狭い一角に、これだけの建物がひしめき、人々は暮らしていた。
 ところが、関西国際空港一期工事が着工の運びになるや、空港への鉄道アクセスとして、南海本線萩ノ茶屋以南が高架化されることになった。それにともない仮設のバイパスを通す為に、この一角が立ち退きになった。(工事完了後は天下茶屋に至る道路になる)
 ここにバラック街が形成されたのはいつのことだろうか。手許の1953年に撮られた航空写真を見ると、この時期には、まだ大半は空地のように見える。(むしろこの時期は、現在の花園北1丁目の南海線西側にたくさんのバラックが見える。また、新今宮北側と恵美小学校西側<定点写真番号(18)参照>にも大規模なものが見える)つぎに1957年の住宅地図を見ても、酒屋、食堂、置場以外は、まだ空地が多い。つぎに1970年のそれを見ると、ほぼビッシリとバラックで埋まっている。多少のズレはあるだろうけど、この時期にバラックがピークを迎えたのが解る
 写真に見えるように、開港前には大阪府・市・財界こぞって歓迎ムードで塗りつぶされ、人通りも多くないこんなところにまで「祝関西国際空港開港」の横断幕が張られていた。
 空港建設工事には、'93年の最盛期には関連工事も含めて、地区から毎日1000人前後の労働者が就労していた。
定点写真番号(20)増補版-19
場所:西成区東萩町58(現在、西成区萩之茶屋37
撮影年代:左・19607月、右19956
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 労働者達のくつろぎの場である公園(通称三角公園)に、突然、監視カメラが出現する。地区内に、大阪府警によって1966年に、まず2台が設置され、1983年までに15台が設置される。右、写真手前の塀は“南海天王寺支線”が廃線となった時に設置された。
定点写真番号(21)増補版-20
場所:西成区東田町76(現在、西成区太子1・太子2
撮影年代:左・19608月、右19944
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 この時代の写真を見ると、現在と違って、女性、子供がたくさん写っている。地区内にパーマ屋も予想以上にあった。そして、まだこの頃はドヤにも夫婦者が泊れた。
定点写真番号(22)増補版-21
場所:西成区海道町1(現在、西成区萩之茶屋2120
撮影年代:左・19608月、右19948
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 「カレー、焼めし30円」(傍点引用者)と大書された看板が、まず目に飛び込む。これだけの看板を出しているところをみると、当店自慢の一品だったに違いない。またその看板から、労働者の人気もあったことがうかがえる。もちろん、いま「麦めし」を食わせる店など、どこにもない。
 さて、この「麦カレー、麦焼きめし」’70万博の少し前あたりまで、あったように記憶している。万博で地区も好景気に沸いたが、その頃は焼酎よりビールがよく売れたというから、「麦カレー、麦焼めし」も好景気がわざわいして消えて行ったのかも知れない。
 メニューを見ていると、その多彩な品目もさることながら「うどん一玉15円、二玉20円、三玉25円」(傍点同)とあることに、オヤッと思わざるを得ない。いまでも二玉入りのうどんを食べる人は、まれにいるが、それを三玉も食べる人はもういない。
 いま労働現場では、かつて人間が行なっていた苛酷な重労働は建設機械にとって代わり、機械が主役で人間はその手元、というのが多くなった。労働現場が機械化され重労働が減ってきた分、労働者の食欲の方も少食になっているようだ。飯場の賄い婦に聞くと、昔の労働者は朝からてんこ盛りの大めしを食べる人がたくさんいたらしい。そうしなければ体が持たなかったのだろう。
 参考までに、「値段の今昔、一覧表」を作ってみた。左列1960年、右列1995年。(省略)
点写真番号(23)増補版-22
場所:西成区西入船町(現在、西成区萩之茶屋13
撮影年代:左・1960年、右19944
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
 ここからも、通天閣は見えなくなった。右写真手前の建物は、あいりん総合センター。西成労働福祉センターもこの建物の中に入っている。上の部分は市営住宅。
点写真番号(24)増補版-なし
場所:西成区東萩町(現在、西成区萩之茶屋368
撮影年代:左・1960年、右19951
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
 
定点写真番号(25)増補版-23
場所:浪速区馬渕町28(現在、浪速区恵比須西3
撮影年代:左・19609月、右19949
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 ここは浪速区の南端で、JR環状線をはさんで釜ヶ崎地区と接している。そのため、ドヤや日払いアパート、古着店などがかなりあった。
 しかし、1964年にJR新今宮駅が、1966年に南海新今宮駅が開設されたことで、駅周辺から変わって来た。立地条件のよさからドヤやアパートをこわして、シャバ向けのマンションにするところが増えて来た。定点写真番号(18)のバラック街や、JR、南海線ぞいにあったバラックも撤去させられたように、この界隈から釜ヶ崎的な面影はなくなりつつある。
定点写真番号(26)増補版-24
場所:西成区東入船町27(現在、西成区萩之茶屋1930
撮影年代:左・196011月、右199411
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
定点写真番号(27)増補版-25
場所:阿倍野区旭町3(現在、阿倍野区旭町3
撮影年代:左・19615月、右19965
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
 
 ここは“トビタ遊廓”が阿倍野区と接する東端である。道路の左側に見えているコンクリートの壁が「トビタの塀」で、かつては逃亡防止等の目的で遊廓をグルリと囲っていた。ところが、1956年売春防止法が制定され、1970年には「大阪万博」が開催されることになり、前年には府道から見える東南側、南側を人権的配慮から撤去し、金網のフェンスに変えていた。残っていた東側も、阿倍野再開発のため’93に撤去させられ、いまも民家の奥などで見えない「塀」を除けば、表面上はこれで全部なくなった。
 “トビタ”の象徴である「塀」が、どんどん撤去されてゆくのに歩調を合わせるかのように、「塀」の中はすさまじく様変わりしつつある。「料亭」が酒の配送センターになっていたり、場違いと思えるコンビニが開店していたり、これも場違いな“飯場”が進出して来たりといった具合なのである。これだけにとどまらず少し歩いてみると、おびただしいマンション(ほとんどワンルーム)の群にビックリさせられる。歯抜けのようになった更地とモータープールの多さも目につく。
 こういった変化は、“トビタ大門通り”を含めた南側で多く見られる。“大門通り”北側には店を新装しているところも数軒あって、そんなさびれた感じはしない。
 隣接の阿倍野地区が、南大阪の玄関口として再開発の進むいま、「トビタ」は大きな転換期にさしかかっているように思える。
 ちなみに「塀」の写真の下にあるのは、“スタンド”で塀をくり抜き、3畳間程の空間にわずか34席の小さな店だった。夜になると“流し”も出て、独特の雰囲気があった。
紹介者の付け足し 2枚 1971年と1977年
 
定点写真番号(28)増補版-26
場所:西成区東入船町(現在、西成区萩之茶屋1
撮影年代:左・不明、右19941
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
 新今宮駅から、釜ヶ崎のメイン通りである紀州街道を望む。昔は“歩行者天国”のような趣きだが、今は車が増えた。この通りにも監視カメラが3台設置されている。
定点写真番号(29)増補版-27
場所:西成区東田町(現在、西成区太子173
撮影年代:左・不明、右19947
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
定点写真番号(30)増補版-28
場所:西成区甲岸町(現在、西成区萩之茶屋211・推定)
撮影年代:左・不明、右19951
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
定点写真番号(31)増補版-29
場所:西成区西入船町11(現在、西成区萩之茶屋1416
撮影年代:左・19618月、右19941
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
定点写真番号(32)増補版-30
場所:西成区東田町21(現在、西成区太子1320
撮影年代:左・19618月、右19948
撮影者・提供者:左・朝日新聞社、右・中島敏
 第1次暴動(196181日)で襲撃された東田派出所。暴動の発端となった交通事故現場はすぐ近く。
 この暴動は、初めて「釜ヶ崎」の名を全国に知らしめると同時に、さまざまな問題を社会に突きつけた。不法な手配師、人夫出しの問題をはじめとするヤクザによる寄せ場支配の実態。劣悪なドヤの居住問題、不就学児のことなど……。
定点写真番号(33)増補版-31
場所:西成区東田町・山王町1(現在、西成区太子1・山王1
撮影年代:左・不明、右19951
撮影者・提供者:左・井上青龍、右・中島敏
 この写真が撮られたのは、おそらく“第1次暴動”のすぐあとではないか。すさまじかった暴動の余韻が「暴力団員よ正業につけ! 君たちの暗躍時代はすぎた」の言葉に現われている。この暴動では、「暴力団が先頭に立ち、労働者を巧妙に煽動していたらしい…。」という憶測も流れていた。騒動の鉾先を、自らに向かわせないためと、日頃の反警察感情もあったのだろう。
 同じ場所にいま、平和的な「安心のえがおは防火の努力から」が掲げられている。だが決して暴力団が正業につき、いなくなった訳でもない。
定点写真番号(34)増補版-32
場所:浪速区戎本町・水崎町(現在、浪速区戎本町2・恵比須西3
撮影年代:左・19619月、右19949
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 かつて、この辺りの道路上にあったバラックは、現在さすがにないものの、いまでもこの南海線高架下は野宿を強いられている労働者が多い。
 しかし、写真左と右を比べるまでもなく、労働者らが住んでいる「わが家」は、昔と今でどうしてこうも違うのか。バラック時代には、トタンや廃材を拾ってきて一応ちゃんとしたわが家に作っている。そこには洗濯物を干している女性の姿もあり、何といってもこの時代は、家族がいる。つつましさの中に、明るささえ感じさせる。
 ところが、いま野宿を強いられている労働者の「わが家」(といえるかどうかは別にして)を見ると、リヤカーの中が家がわりだったり、ダンボールで家を作ったり、道路に布団を並べるだけだったりと簡単なものが多い。ここでは時間が逆に進行しているのかと錯覚する。そして、いまはほとんどの者が独りでもある。
定点写真番号(35)増補版-33
場所:西成区東入船町2(現在、西成区萩之茶屋1716
撮影年代:左・19619月、右19949
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
定点写真番号(36)増補版-34
場所:西成区西四條町350(現在、西成区花園北11
撮影年代:左・19619月、右19949
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 第1次釜ヶ崎暴動によって、あぶり出されたことの一つに手配師・ヤミ求人の問題がある。事件後、マスコミ等によって無法な実態が曝露されるに及び、重い腰を上げざるを得なくなった府労働部は、急遽「西成分室」を19619月に開設し、手配師・ヤミ求人の排除を始める。
 その頃、街角に貼られたステッカーにはこう記されていた。
 『お知らせ、このたび大阪府ならびに大阪府警察本部ではこの地域暴力と手配師の徹底的な取締りを実施します。
 これにともない、91日を期して東四條町三丁目に府労働部の「西成分室」を開設いたしましたから、労働者の皆さんも、求人者の皆さんも、暴力を恐れず不法な手配に頼らず、親切、公平そして手軽に無料で皆さん方に仕事のお世話や職業相談、生活相談をするこの「西成分室」を御利用下さい。皆さん方の勇気のある協力によって明るく平和な町を建設しましょう。』大阪府・大阪府警察本部。
 この後、西成分室は四恩学園から譲渡を受けた土地に、西成労働福祉センターと成って196210月に開設される。
 西成分室・西成労働福祉センターの設置によって、はたして手配師・ヤミ求人の問題は一掃されただろうか? 西成労働福祉センター開設後、ヤミ求人に関しては、業者を登録させ求人票の提示を義務付けていたから、ほぼ問題ない。(といってもその業者の内、大半は職安法に違反した“人夫出し業者”であることに変わりはない。職安法・労基法に違反した者をまさか正規の職安が紹介する訳にいかず、財団法人の西成労働福祉センターにやらせているのが実情なのだ)一方、手配師の方は減っているとはいえ、いまも、したたかに活動している。
定点写真番号(37)増補版-35
場所:西成区海道町24(現在、西成区萩之茶屋254
撮影年代:左・196111月、右19941
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 この食堂は、’75年頃まであったように思う。1度だけ入ったことがあるが、このカレー昔の黄色いルーの中に野菜は入ってなくて、スジ肉が1コ入っていた。
 グルメブームの影響もあってか、食堂も高級化、多様化している。
定点写真番号(38)増補版-36
場所:西成区海道町7(現在、西成区萩之茶屋2217
撮影年代:左・19622月、右19952
撮影者・提供者:左・大阪市教育センター、右・中島敏
 “あいりん学園”分校の入学式。“あいりん学園”は、第1次暴動でクローズアップされた地区内の不就学児を救うために設立された。この日、さまざまな理由で(親が籍に入ってないとか、経済的事情等)学校に行けなかった児童51人が登校した。西成署前の広場にプレハブの仮設校舎としてスタートする。
 このたったいま始まった入学式に参加せず、後方の煙突の前から見ている児童がいるのが気になるが、画面からは何も解らない・・・・・・。
定点写真番号(39)増補版-なし
場所:西成区東田町15(現在、西成区太子1325
撮影年代:左・19623月、右19944
撮影者・提供者:左・桝井啓智、右・中島敏
 
定点写真番号(40)増補版-37
場所:西成区甲岸町8(現在、西成区萩之茶屋111
撮影年代:左・19634月、右19944
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
 こちらの小学校は、大阪市立萩ノ茶屋小学校。“あいりん学園”分校開設時には、本校と分校の関係にあり、後に分校が独立するものの、給食もここから分校に運んだ。行政のいうところの「あいりん地区」を校区に持つところから、釜ヶ崎労働者の単身化が進んだり、ドヤ経営者、商店主の子弟が近郊に移転してしまったり、それに全国的な少子化もあって、児童数は大幅に減っている。
定点写真番号(41)増補版-38
場所:西成区東四条町3(現在、西成区花園北1
撮影年代:左・19644月、右19941
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
 旧「寄せ場」(古い労働者は寄り場と呼ぶ)の全景。
 1970年に愛隣総合センターが開設されるまでは、府道、尼崎平野線ぞいにこうして求人の車が集まり、労働者は車の前に貼られた西成労働福祉センター発行の求人票を見て仕事に行った。求人側と求職側が相対して交渉するところから、これは相対方式と呼ばれ、いまも変わっていない。
 中央の大型バスが西成労働福祉センターのバスで、ここまで出張して求人側の受付等をしていた。止っている車にもそれぞれ場所があって、写真手前から港湾、製造、建設土木と並んでいた。まだこの頃は、いまのように建設土木一辺倒ではなく、港湾荷役とか製造業の仕事がたくさんあった。
 歩道には天幕を張った屋台の食堂が並び、魚を焼くニオイの中、活気のある言葉がとび交っていた。“青空労働市場”といっていい景観だった。
 写真後方は南海電車本線で、この時期、まだ新今宮駅は開設されていない。(1966年開設)
定点写真番号(42)増補版-39
場所:西成区西入船町13(現在、西成区萩之茶屋15
撮影年代:左・19649月、右19948
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
定点写真番号(43)増補版-40
場所:西成区西入船町3(現在、西成区萩之茶屋1344
撮影年代:左・19641966年、右19945
撮影者・提供者:左・珍々堂製菓(株)、右・中島敏
定点写真番号(44)増補版-なし
場所:西成区西入船町16(現在、西成区萩之茶屋13
撮影年代:左・19641966年、右19954
撮影者・提供者:左・珍々堂製菓(株)、右・中島敏
 
 左写真は珍々堂製菓を南から撮ったもので、後方はJR新今宮駅。ここに“あいりん総合センター)が’70年に開設される。それにともない、「寄せ場」が旧「寄せ場」から、総合センター1階の新しい「寄せ場」へと移動させられる。写真右は、現在の朝の「寄せ場」の就労光景。
定点写真番号(45)増補版-なし
場所:西成区東四条町3(現在、西成区花園北1
撮影年代:左・19653月、右19953
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
 
定点写真番号(46)増補版-41
場所:西成区海道町25(現在、西成区萩之茶屋242
撮影年代:左・19651966年、右19955
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
 
 建設中の建物は西成警察新庁舎。1919年、西成署の前身、今宮警察が住吉署より分離、曳船に仮庁舎を設置。その後、現在の海道町(萩ノ茶屋2丁目)に移転。1946年先代の庁舎落成。
 この新庁舎、少し異様なのは完成後判明したことに、監視用カメラが入口に2台、外回りに3台、設置されているのが確認されたことだ。他に前例があるだろうか。
 手前の行列は、庁舎裏の公園で行なわれている“炊き出し”に並ぶ高齢労働者。ここにも高齢化社会に突入した地区のぬきさしならぬ姿がある。
定点写真番号(47)増補版-42
場所:西成区東入船町28、西成労働福祉センター屋上よりパノラマ撮影(現在、西成区萩之茶屋1914
撮影年代:上・19658月、下19957
撮影者・提供者:上・上畑惠宣、下・中島敏
定点写真番号(48)増補版-43
場所:西成区東田町17(現在、西成区太子1120
撮影年代:左・19651月、右・199511
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
 ‘70年に“あいりん総合センター”が出来るまでは、旧、東四條町と、この霞町交差点の2ヶ所に「寄せ場」があった。こちらの方は歴史も古くて、1924年の市の調査で当時、100人の労働者が集っていたとある。あいりん総合センター開設後は、このような光景は見られなくなった。後方に建設中の建物は“新世界フェスティバルゲート”といって、大阪市が進める娯楽集客施設。'97年完成。
定点写真番号(49)増補版-44
場所:西成区西入船町(現在、西成区萩之茶屋13
撮影年代:左・1965年、右・19945
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
 197010月に、あいりん労働公共職業安定所・西成労働福祉センター・大阪医療センターからなる“あいりん総合センター”(写真、左の建物)が開設される。これによって従来からあった西成労働福祉センターに“職安”を併設し、失業保険制度が導入された。
 “職安”設置後20数年がたつにもかかわらず、その“職安”のある建物の軒下で、皮肉なことに、いまも野宿を余儀なくされている労働者達がいる。バブル崩壊後などは、この大きな建物の軒下を野宿労働者がスキ問なくとり囲んでいた。彼等には“職安”も失業保険制度も無縁でしかない。
  '70年代後半から顕在化してきた野宿労働者の問題は、地区の労働者の高齢化が年々すすんで来ているにもかかわらず、高齢労働者の仕事はないという現実にある。ますます深刻化するなか、高齢労働者のための仕事を斡旋する「高齢者事業団」のような施設が待たれる。
定点写真番号(50)増補版-45
場所:西成区東四条町1(現在、西成区花園北19
撮影年代:左・19651966年、右・19943
撮影者・提供者:左・不明(増補:西成区役所)、右・中島敏
 
 1965年前後、ここにも(市の公園予定地。現在の花園公園)まだバラックがこうしてスキ間なく建っていた。初めて足を踏み入れた'69年には、西側に10軒程残すのみで、東側部分はすでに公園になっていた。この公園部分で越冬闘争が闘われたこと、そしてその後、フェンスで封鎖されたことは定点写真番号(6)で触れておいた。いま、西成警察新庁舎が工事中のため、ここに仮設の西成署が設置されている。
定点写真番号(51)増補版-46
場所:西成区東入船町28(現在、西成区萩之茶屋191
撮影年代:左・不明、右・19941
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
 紀州街道に面した通りに、戦後建てられ、いまでは珍しい木造2階のドヤが3軒並んでいる。撮影時期は不明だが、ドヤ代等から'70万博の少し前あたりと推定される。当時とすれば高級な部類のドヤといえる。
 写真中央に「お泊り一人様80円より、一室180円より、若松」とある。(傍点引用者)これは3畳の部屋を1人で泊まれば180円、2人で泊れば180円ということである。かつて左端の「やど、てんぐ」に知人が泊まっているのを、尋ねて行ったことがあるが、やはり友人と2人で住んでいた。
 3軒のドヤの内、右端の「ちとせ」こちらのドヤ代は「御一人様80円」となっている。これは資料編188ページを参考にしていただければよく解るように、まず1階を上と下に仕切って、2階にし、それを1畳の個室になるようにベニヤで壁を作ったものである。当然、天井は低い。だからこちらは、個室で80円ということである。ちなみに現在の「ちとせ」のドヤ代は、A1500B1600Cl700である。
 バブル期に3軒そろって、ビジネスホテルタイプの3畳半のスペースに新築した。左端の「オーシャンホテル」は、12800円の部屋もつくり、豪華さをセールスポイントにしていたのだが、バブル崩壊を期にドヤ経営をやめ、数年前から「アパートメントオーシャン」として営業を始めた。
 地区内ではドヤに何年住んでいても、行政は住居と認めず、したがって生活保護の対象にはならない。しかしアパートであれば生活保護の対象になることから、高齢化の進む地区の特殊性もあって、高齢労働者で部屋はよくふさがっているという。ドヤのアパート化は、すでに先行例もあり、今後、増えてくるだろう。
定点写真番号(52)増補版-47
場所:西成区海道町(現在、西成区萩之茶屋25
撮影年代:左・1965年頃、右・19941
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
 この写真が撮られた1965年頃から、数年後、右から3番目のアパートに住んでいたことがあった。3階の屋根裏の4畳半の部屋だった。ドヤを点々としている内に荷物も増え、ころがり込んだのがここだった。部屋には小さな天窓と、タテ15cm、ヨコ1m位の窓しかなく夏の暑さは殺人的だった。
 アパートの周囲はほとんどが木造2階建のドヤだったが、突き当りの紀州街道に面したドヤは、すでに6階建だった。この頃は、大阪万博前の「第2次ドヤ新築ブーム」に当たる。この頃から、釜ヶ崎のドヤは高層化して来る訳だが、この写真の範囲内で、この時期にドヤを新築していたのは、先程のドヤと、やはり紀州街道に面した写真左側奥のドヤだけだった。だが、1980年後半から始まった「バブル景気」が、この界隈の姿を一変させた。
 戦後建てられた木造のドヤ、古いタイプのドヤがこわされ、まるで競うように、新しいタイプの高層ドヤが建設されだした。写真右に見える古びた倉庫のような建物、これは大阪に多い昆布加工の小さな工場だった。それがいまは、地区でも有数の高級ドヤになっている。はたして経営者が以前と同一人なのかどうか? それは解らない。この時期、地区外からの「資本」も相当入ったようである:]
定点写真番号(53)増補版-48
場所:西成区東四条町3(現在、西成区花園北1
撮影年代:左・19653月、右・19953
撮影者・提供者:左・上畑惠宣、右・中島敏
 この頃、あちこちにあった“バラック”のうちの南海電車高架下にあった“バラック”。南海電鉄の敷地にあったことから、それをもじって南海ホテルと呼ばれていた。
定点写真番号(54)増補版-49
場所:西成区東入船町(現在、西成区萩之茶屋12
撮影年代:左・19655月、右・19944
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
 1966528日。左、写真中央に見える、この「ニコニコクラブ」から出火した火事が元で、第3次暴動が発生する。新聞によれば、「消防車の出動が遅く、そのうえ燃えていない建物にも水をかけたとして、消防署員と労働者とのやりとりがきっかけになった」とある。暴動は3日つづいた。
 この暴動を契機に大阪市、大阪府、大阪府警の3者の話し合いによって、釜ヶ崎の名称を「あいりん地区」と改称するほか、監視カメラの設置、投石騒ぎに利用された南海阪堺線とJR環状線の線路の石を取り除いてアスファルトとするよう、南海電鉄やJRに申し入れることを決めている。(定点写真番号(15)を参照下さい)
 この年は3月、5月、6月と暴動が多発した年でもある。
 こうしたイキサツの後、ニコニコクラブのあったこの場所はバブル期に地上げされ、更地になったままだ。いま地区内に、バブルのつめ跡といえるこのような更地が15ヶ所程残っている。
定点写真番号(55)増補版-50
場所:西成区東田町(現在、西成区太子11517
撮影年代:左・1966年頃、右・19946
撮影者・提供者:左・不明(増補:西成区役所)、右・中島敏
定点写真番号(56)増補版-51
場所:西成区東田町25(現在、西成区太子13
撮影年代:左・1966年頃、右・19948
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
定点写真番号(57)増補版-52
場所:西成区海道町24(現在、西成区萩之茶屋2513
撮影年代:左・1966年頃、右・19949
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
定点写真番号(58)増補版-53
場所:西成区甲岸町(現在、西成区萩之茶屋27
撮影年代:左・1966年頃、右・19949
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
定点写真番号(59)増補版-なし
場所:西成区東萩町28(現在、西成区萩之茶屋36
撮影年代:左・1966年頃、右・19952
撮影者・提供者:左・不明、右・中島敏
 
 死語となった「労務者」といまも生きつづける「労務」
 この写真の理容所は、あべの職安西成労働出張所(いわゆる日雇労働紹介所)の敷地内にあった。1970年代初め頃までは、日雇労働者を「労務者」と表現するメディアが多かったが、労働者から「差別用語」として批判され、関西では70年後半から死語となったが、関東では80年代中頃まで、新聞にも使われていた。
 明治時代中頃に日本にも労働組合が出来始めた時、当時の日本政府が、「労働」という言葉を嫌って「労務」という表現にしたといわれる。昭和10年代には「労働者」という表現自体が禁止され、全てが「労務者」に統一される。今も残る「労務管理」ということばもこの頃、さかんに使われた。事務労働は「職員」と表現し、肉体労働を「労務」と表現した。「職員」という言葉は教員労組や役所の労組で今も使っているところがある。自分たちは「肉体労働者」とは違うんだと無意識に差別化しているのだろう。
 職安登録日雇労働者の組合は、自分たちのことを「自由労働者」と呼んでいた
定点写真番号(60)増補版-54
場所:西成区海道町28(現在、西成区萩之茶屋252
撮影年代:左・19693月、右・19943
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
定点写真番号(61)増補版-55
場所:西成区東萩町44(現在、西成区萩之茶屋36
撮影年代:左・19703月、右・199412
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 左写真の「ホテル富士」は、'60年代後半のドヤ高層化の先導役となったドヤの一つだったが、個室とはいえ、部屋の狭さ(1畳)がネックになり、いま主流の“ビジネスホテル”タイプ(3畳)に新しく建て替えられている。
 建設中の鉄骨のすぐ左に、小さく「TAT」と見えるのは“バブル”時代にすでに建設されたウィークリマンションで、その名の由来は、アタットから来た「TAT」なのである。この一角は「TAT」系のドヤ・マンションが多い。
 なお、右写真の左隅のテントは「釜ヶ崎高齢労働者の仕事と生活を勝ちとる会」がバブル崩壊後、このテントで“炊き出し”を行なっている。
定点写真番号(62)増補版-56
場所:西成区東萩町46(現在、西成区萩之茶屋3828
撮影年代:左・1972年、右・19951
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
定点写真番号(63)増補版-なし
場所:西成区萩之茶屋25(現在、西成区萩之茶屋25
撮影年代:左・1973年、右・19955
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 
定点写真番号(64)増補版-57
場所:西成区萩之茶屋237(現在、西成区萩之茶屋237
撮影年代:左・1973年、右・19944
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 「出し店、堅くお断り」の看板の前で堂々と店を出しているのは、地区内では有名だった辻説法師のAさん。クレヨンで描いた絵を売ったり、手相を見たりして生活していた。「太陽はおシャカさまです。信心すればお星さまになって、極楽へ行けます」天国、極楽と書かれた絵を持ち、独特の調子で語っていた。そんなAさんを見かけなくなって、(10年程前から)Aさんを生き仏と信じている近所のおばさんに尋ねると、泉大津の方でバタ屋をやっていると教えられた。
 Aさんを見かけなくなってから、しばらくして喫茶店がオープンした。Aさんには、それっきり会っていない,
定点写真番号(65)増補版-58
場所:西成区萩之茶屋1122(現在、西成区萩之茶屋1122
撮影年代:左・1974年、右・19944
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
定点写真番号(66)増補版-59
場所:西成区萩之茶屋1122(現在、西成区萩之茶屋1122
撮影年代:左・1974年、右・19944
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 196070年代に、地区内にたくさんあった喫茶店、料金も通常のものより少し安かった。まだドヤにテレビが普及していなかった時代に、大型テレビを2台入れ、1台はナイターを、もう1台は時代劇といったように別々に放映して、労働者の支持を得た。店の前にその日の番組を書いた黒板を出していた。単身で生活する者には、そこが応接間の役割を果たし、孤独を忘れさせた。写真に「カラーテレビ映像中」とあるが、この時期まだカラーテレビは珍しかったのだろうか。
 '80年代に入って、テレビがドヤに普及したことで少なくなり、現在2店残っているだけだ。
定点写真番号(67)増補版-なし
場所:西成区太子1216(現在、西成区太子1216
撮影年代:左・1978年、右・19941
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 
定点写真番号(68)増補版-なし
場所:西成区萩之茶屋11417(現在、西成区萩之茶屋11417
撮影年代:左・1978年、右・19941
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 
 右写真にお持ち帰り専門“セロン”とあるのは、'80年代から増えてきた弁当屋。
 エアコン完備の自分の部屋で、テレビを見ながら食事をする労働者のライフスタイルに合ったのか、地区内でまたたく間にふえた。やはり部屋が広く、キレイになり、テレビも各ドヤに行き渡ったのが理由だろう。(昔の安いドヤにはなかった)
定点写真番号(69)増補版-60
場所:西成区太子2119(現在、西成区2119
撮影年代:左・1978年、右・19941
撮影者・提供者:左・中島敏、右・中島敏
 左写真手前の線路は、南海天王寺支線で933月に廃線になった。塀の後方には、新設のパチンコ屋が進出して来た。狭い地区内にパチンコ屋がこれで5軒増え、13店になった。
  この写真で変わっていないのは、アジアコーヒーの1軒だけで、背後のドヤもそれぞれ高層化している。(大衆酒場は閉店して、古物雑貨店になっている)
定点写真番号(70)増補版-なし
場所:西成区萩之茶屋2618(現在、西成区萩之茶屋2618
撮影年代:上・1978年、下・199411
撮影者・提供者:上・中島敏、下・中島敏
 写真左のこの場所は、1956年発行の「住宅地図」によると、画面左から下図のようになる。(省略)
 こうしてみると、萩ノ茶屋2丁目のこの場所の、1956年から1994年まで、約40年間の町の変貌が浮かび上がってくる。その中で最大の変化は、この場所には最初、ドヤは2軒しかなかったものが、1994年には7軒になっていることである。鉄工所とか加工所、畳屋などにドヤが混在していた街並が、'90年代に入って、高層ドヤの林立する光景になってゆく様は異様ですらある。
 地区の古老に「戦前には、現在の萩ノ茶屋2丁目、3丁目にドヤはなかった。」と聞いたことがある。写真では手前のタバコ屋が1丁目、ビジネスホテル日の丸があるのが2丁目である。とすれば、古老のこの話を下図(狭い範囲であるが)が裏付けているように、釜ヶ崎(ドヤ街)は、南へ南へと南下をつづけて来たと、少なくともいえるのではないかと思う。
定点写真番号(71)増補版-61
場所:西成区花園北28(現在、西成区花園北28
撮影年代:①19983月、②19988月、③19981229
撮影者・提供者:13 中島敏
 
 写真は、地区内の市立今宮中学校の南側にあたり、校舎新築工事にともない塀、歩道もこの3月に新しく完成した。ところが、この塀に「散水器」の配管がはりめぐらされ、歩道の野宿労働者に水をかけるようになっていることが発覚した。(左、写真は散水しているところ)
 元々、ここには労働現場から締め出され、野宿を余儀なくされている労働者の姿が見られた。そこに戦後最悪の大不況が襲い、仕事が急激に減る端境期の4月頃から、この場所での野宿労働者の数は増加の一途をたどっていた。('98現在、周辺地域も含めると野宿労働者の数は8000人前後と思われる。)
 朝、通学前になると、教師数人が野宿労働者を追いたて、散水器から水を出しながら掃除をしている光景が見られた。
 ながびく不況の中、野宿労働者の数が増えつづけるのに比例して、地区をとりまく周辺地域の学校・商店街・公園などでこうしたイビツなイヤガラセがあらわになって来ている。学校といえば地区の真ん中にある萩ノ茶屋小学校と、こちらは周辺に位置する今宮小学校にも同じ頃「散水器」が設置されている。
 この春に“釜ヶ崎炊き出しの会”の稲垣浩が市教育委員会、今宮中学校に抗議文を提出してからはイヤガラセは止む。いまそこは、2枚目の写真・中のように、行き場のない労働者達がビニールシートやダンボールなどで作った平成の“バラック村”と化している。
 ところが19981228臼。大阪市は「付近住民やPTAからの要望があった。」との口実のもと、30余りのテントを抜本的な対策も取らぬまま、強制撤去した。そして翌29日には、撤去した場所に「フラワーボット」を置きテントを張れないようにした。(3枚目の写真)