一、山谷・釜ヶ崎事件史年表ーその7)1972〜1973
(□印は東京・山谷事件関係を示す)
年・月・日 事件内容・対策・その他 参考
1972年(昭47) 1972年1月 ヤミ手配師に賃銀を取られ、ドヤ 不況。 代もなく幼児死亡。 1972年1月12日 西成地区職員事務連絡会。 四次防(六兆円)。 1972年1月19日 第一九回大阪社会医療センター研 ニクソン訪中。 究会。 (於医療センター)。 1972年2月9日 西成地区職員事務連絡会。 田中内閣。 1972年2月14日 三角公園近くに「赤軍ラーメン屋 田中総理訪中。 (勝浦飲食店)開店」。 ミューヘン・オリ (大菩薩峠事件の保釈幹部が経 ンピック。 営)。 1972年2月16日 第二十回大阪社会医療センター研 エリザベート・ス 究会。 トローム著「釜ケ (於医療センター)。 崎はワタシの故郷」 出版。 1972年2月17日 愛隣地区現地対策懇談会。 1972年3月6日 労働センター誉田専務理事蒸発。 1972年3月8日 (大阪府労働部長、専務理事を兼 任)。 西成地区職員事務連絡会。 1972年3月9日 労働センター労働組合臨時大会。 (誉田専務理事蒸発事件で声明文 を発表)。 1972年3月15日 第二一回大阪社会医療センター研 広瀬久也著「わが 究会。 愛する街釜ケ崎へ (於医療センター)。 の提言」出版。 1972年3月23日 全国建設労組総連合会(二五万) あいりん学園生六 「大工・左官・板金・塗装一日五、 三名。 二〇〇円」(七大都市)と発表。 1972年4月 労働センター求人業者に親睦会、 親睦会〜建設関係。 相互組合、協力会の三団体発足。 相互組合〜製造・ 運輸関係。 協力会〜飯場関係。 1972年4月12日 西成地区職員事務連絡会。 1972年4月19日 第二三回大阪社会医療センター研 究会。 (於医療センター)。 1972年4月20日 愛隣地区現地対策懇談会。 1972年4月30日 釜ケ崎の過激派九〇名。 (大阪府警本部確認)。 1972年5月1日 釜ケ崎第三回メーデー。 共産同赤軍派残党、 釜ケ崎メーデーで三名逮捕。 京都大学C戦線、 三角公園で「西成分会・赤軍派合 大阪西南地区反戦 同集会」その外の参加団体は下段 同盟、桃山大学連 を参照。 合戦線、日中友好 協会正統本部、 ML派、毛沢東派、 蜂起の会、山谷反 戦青年委員会、山 谷現場闘争委員会。 1972年5月1日17時0分 ★第十六次釜ケ崎集団暴力事件。 1972年5月1日18時20分 参議院議員(社)佐々木静子、メ ーデー逮捕者に関し西成署へ抗議。 1972年5月1日18時40分 西成署前八○○名。 爆竹。 1972年5月1日19時0分 西成署へ一五〇名乱入。 1972年5月1日19時30分 釜ケ崎銀座へ二、〇〇○名。 1972年5月1日19時40分 国道二六号線へ五〇〇名。 1972年5月1日19時45分 飛田商店街へ投石、乱暴。 1972年5月1日20時0分 天王寺線、阪堺線運休。 1972年5月1日20時30分 フタバ質店襲撃、品物を強奪。 1972年5月1日20時40分 西成署に警備本部。 1972年5月1日21時0分 国道二六号線を交通遮断。 1972年5月1日21時0分 群集二、五〇〇名。 以後二三時まで投石、放火が続く。 1972年5月1日23時0分 実力行使。 1972年5月1日23時50分 平穏。 1972年5月10日 第二三回大阪社会医療センター研 究会。 (於医療センター)。 1972年5月18日 愛隣地区現地対策懇談会。 1972年5月20日 釜ケ崎解放委員会・西成分会の過 ※野鳥の会ー釜ケ 激分子が分裂、「野鳥の会」※を 崎地区内の過激派 結成。 労働者で組織(一 五〇名程度)。 1972年5月26日 1972年5月27日 再度「野鳥の会」を襲撃。 何れも不在。 1972年5月28日 ★第十七次釜ケ崎集団暴力事件。 1972年5月28日6時10分 早朝、三度目の襲撃に失敗した 郡昇作著「釜ケ崎 「暴力団淡熊会系天海会の鈴木建 無宿」出版。 設興業」の組員、就労現場で新左 翼系労働者と木刀で乱闘。 1972年5月28日6時25分 労働者は同興業の求人車輌に放火、 西成署調査。 全焼。 質屋〜二二、古物 組長を袋たたき。 商〜三五一、金属 二、〇〇○名。 クズ行商〜六九、 パチンコ〜一一、 マージャン〜二一、 立ち呑み屋〜一六 四、酒の小売〜二 八、食堂〜一六一、 ホルモン屋〜二二、 喫茶店〜九〇、お 好み焼〜三四、寿 し屋〜三三、移動 飲食店〜四一。 酒類自動販売機、 日本酒〜二七台、 ビール〜二七台、 ウイスキー〜五台。 東京山谷地区には 自動販売機なし。 1972年5月28日6時40分 西成署、交通を遮断し、実力行使。 1972年5月28日8時0分 国鉄大阪駅地下街で「暴力手配師 排除」のビラまく。 1972年5月28日10時0分 一応平穏。 夕方より再発。 1972年5月28日19時50分 西成署前へ一、〇〇○名。 1972年5月28日20時0分 旧紀州街道を交通遮断。 二〇時より約一時間「ニセ一一〇 番」八○件で府警通信司令室大混 乱。 1972年5月28日20時30分 西成署へ投石、一、〇〇〇名。 1972年5月28日20時50分 トラック全焼、萩之茶屋商店街へ 投石、放火。 1972年5月28日21時10分 天王寺線、阪堺線運休。 1972年5月28日21時30分 実力行使。 以後小グループで釜ケ崎をかけぬ ける。 1972年5月28日21時50分 乗用車二台全焼。 ゲリラ化した小集団が走り、無法 の街かと思われる。 深夜に至り、自然解散で平穏。 1972年5月29日 早朝就労は平穏。 。 1972年5月29日18時30分 西成署正面八○○名、商店街はシ ャッター下す。 1972年5月29日19時0分 ライトバンに放火一、八○○名。 1972年5月29日19時30分 西成署、釜ケ崎全域を通行禁止。 1972年5月29日20時0分 天王寺線・阪堺線運休。 1972年5月29日21時0分 霞町交差点二、〇〇○名。 近鉄アベノ駅へ移動し投石。 1972年5月29日21時10分 サンエス時計店を襲撃、破壊し、 品物を強奪。 1972年5月29日21時30分 国鉄大阪駅地下街で「釜ケ崎騒動 支援」のビラ。 1972年5月29日21時40分 より二三時までゲリラ化した小集 団で投石。 1972年5月29日23時0分 実力行使後、平穏。 釜ケ崎で発行され る機関紙ー大阪城、 急進派、忍者、査 証、人民通信、釜 ケ崎通信、長征、 えっとうその他。 1972年5月30日 二三時頃一部投石があった程度で 平穏。 警察官一、二六〇名で厳戒体制。 1972年6月1日 大阪府警本部「五月事件は赤軍派 西成署防犯相談コ 学生が原因」と発表。 ーナー機関紙「コ 釜ケ崎の新左翼学生「暴力手配師 ーナーだより」創 追放釜ケ崎共闘会議」結成。 刊号。 (以下釜共闘と略す)。 夜も警察官六〇〇名で警戒。 1972年6月2日 警察官五〇〇名で警戒。 1972年6月4日 大阪府警、釜共闘の拠点を「大阪 大学鴻池寮」と断定。 1972年6月14日 西成地区職員事務連絡会。 1972年6月15日 京都円山公園「六・一五集会に釜 共闘三〇名」参加。 愛隣地区現地対策懇談会。 1972年6月16日 釜共闘主催「暴力手配師追放集会」 大谷民郎著「地図 に五〇〇名参加。 にない街・釜ケ崎」 出版。 1972年6月20日 釜ケ崎解放戦線・釜ケ崎映画の会 等結成。 1972年6月21日 第二四回大阪社会医療センター研 究会。 (於医療センター)。 1972年6月22日 大阪市社会福祉審議会「低所得者 階層対策に関する答申」。 1972年6月23日 反安保デーに釜共闘参加。 1972年6月26日 西成署「鈴木建設興業を捜索」組 員三名逮捕。 1972年6月28日 ★第十八次釜ケ崎集団暴力事件。 早朝、西成署「釜共闘本拠外九ケ 所を捜索」六名逮捕。 1972年6月28日18時10分 西成署へ「野島の会」等六〇名抗 議デモ。 1972年6月28日19時0分 一般労働者が同調、一、〇〇○名。 1972年6月28日20時0分 理容店へ投石、放火。 1972年6月28日20時30分 西成署へ投石、八○○名。 1972年6月28日21時0分 オートバイ、乗用車全焼。 1972年6月28日21時20分 実力行使の後、さみだれ的に減少、 二三時過に平穏。 釜共闘爆竹で群集を扇動。 1972年6月29日 夕方より西成署前へ蝟集。 五〇〇名。 1972年6月29日19時0分 西成署前八○○名がデモ。 1972年6月29日20時0分 釜ケ崎銀座で一、〇〇○名が投石、 乗用車に放火。 1972年6月29日20時20分 阪堺線霞町駅へ乱入。 天王寺線、平野線運休。 1972年6月29日20時30分 西成署、全面交通遮断。 二二時まで機動隊と群集は対峙、 膠着状態。 1972年6月29日22時10分 突然小グループで奇声をあげて走 りつつ投石をくり返す。 1972年6月29日22時30分 浪速区水崎町方面へ進出し投石。 大阪駅で「暴力手配師追放」のカ ンパ活動。 1972年6月29日23時0分 警備本部「新左翼派へ一対一の警 備」を指示。 二四時過ぎて平穏。 1972年6月30日 一部投石騒ぎはあったが、警察官 五〇〇名で厳戒体制。 1972年7月1日 大阪府警本部「愛隣地区における 警察庁調査〜全国 極左暴力集団の実態解明の合同デ 暴力団、三、○八 スクを、警備部・刑事部・西成署 四団体〜一二六、 の三者で西成署内に設置」する事 九一五名。 を発表。 七月一日〜大阪社 会医療センター 「財団法人」より 「社会福祉法人」 へ改組。 1972年7月1日20時0分 釜ケ崎銀座五〇〇名投石。 1972年7月1日21時0分 投石で阪堺線運休。 1972年7月1日21時40分 霞町交差点八○○名投石。 1972年7月1日22時0分 実力行使の後、二三時半頃平穏。 1972年7月2日 夕方より釜共闘メンバー、さかん にアジ演説。 1972年7月2日20時0分 釜共闘を先頭に三〇〇名がデモ中、 暴力団員と乱闘。 1972年7月2日21時0分 釜ケ崎銀座一、〇〇○名投石、放 火。 1972年7月2日22時0分 五〇〇名に減少。 1972年7月2日23時30分 平穏。 1972年7月3日 夜に入り八○○名投石、二二時半 大阪浪速区・新世 頃平穏。 界の通天閣六○周 年。 1972年7月4日 釜ケ崎、騒ぎづかれで平穏。 機動隊八○○名で厳戒体制。 1972年7月6日 □山谷玉姫公園労働者の夕。 1972年7月8日 大阪府警本部「釜共闘拠点捜査」 四名逮捕。 「国立大阪大学鴻池寮捜査」。 1972年7月11日 滋賀県朽木村の「山村復興隊 DIC〜「破壊こ (DIC)」中学校へ乱入。 そ建設」を主張し、 毛思想で武装する 事を綱領とする一 派。 1972年7月12日 西成地区職員事務連絡会。 1972年7月13日 □東京山谷玉姫公園で労働者慰安 の夕。 1972年7月19日 第二五回大阪社会医療センター研 究会。 (於医療センター)。 1972年7月20日 □山谷玉姫公園労働者の夕。 1972年7月24日 大阪府警は先に逮捕した、鈴木建 設興業を「職安法第四四条・労基 法第六条」違反で再捜査。 1972年7月27日 □山谷玉姫公園労働者の夕。 1972年8月1日 労働センター松村新専務理事・米 大阪府労働部「日 沢新事務局長・末吉新総務部長就 雇労働者対象に、 任。 特殊車の無料講習 会」に踏切る。 (受講中、一日一、 〇〇○円を支給)。 1972年8月3日 □玉姫公園、労働者演芸会。 1972年8月8日 全日自労機関紙「じかびた」八八 七号。 1972年8月9日 西成地区職員事務連絡会。 釜ケ崎の労働力を 西成分会機関紙「大阪城」六六三 評価すると、一日 号。 平均二、五〇〇円 で二、五〇〇円× 一五、○○○人 一日――三、七五 〇万円 一ヶ月― ―十一億円 一年 ――一三五億円と 推定される。 1972年8月10日 □玉姫公園、労働者音楽のタ。 1972年8月12日 釜共闘「フジタ工業弾圧」のビラ を配布。 1972年8月13日 ★第十九次釜ケ崎集団暴力事件。 本日より三日間、釜ケ崎赤軍派主 催「夏祭り」。 1972年8月13日18時0分 祭開幕直前に、西成分会が手を引 く。 八○○名集まり。 1972年8月13日19時0分 映画。 1972年8月13日20時0分 ドラム缶みこしが暴ばれ、投石、 放火一、〇〇○名。 1972年8月13日21時0分 過激みこし商店街を破損する。 1972年8月13日22時0分 三角公園でアジ演説の後、一応平 穏。 1972年8月14日0時25分 右翼団体「大日本正義団」乗用車 二台で、釜共闘へなぐりこむ。 木刀と鉄パイプで乱闘。 警察官実力行使。 1972年8月14日1時30分 平穏。 1972年8月15日 一四日夜は警察官の厳戒体制下で 不穏事案なし。 1972年8月15日20時30分 夏祭りフィナーレ・デモで、。 1972年8月15日21時30分 高校生一名逮捕。 1972年8月15日23時40分 逮捕に抗議で一、〇〇○名西成署 正面、投石。 平穏。 1972年8月16日 釜ケ崎、里帰りの労働者で釜ケ崎 山谷地区が変身 銀座は終日満員。 「人口激減、貯蓄 京都大学「パレスチナ人民・イン ブーム」山谷人口 ドシナ人民連帯・日本二戦士追悼 八、七九六名。 国際集会」に釜共闘参加。 城北貯蓄組合預金 釜ケ崎を日本の革命拠点にとアジ 総額四千万円。 演説。 1972年8月17日 警察官五〇〇名で警備。 西成署調査。 二〇時頃、大阪駅で「釜共闘がカ 日雇労働者年令二 ンパ」活動。 九才まで〜一四%、 □山谷玉姫公園で、労働者慰安演 三〇〜三九才まで 芸会。 〜三九・六%、四 〇〜四九才まで〜 二八・三%、五〇 〜五九才まで二二・ 三%、六〇才以上 〜四・五%。 1972年8月20日 □浅草署山谷地区派出所小見所長 「女子供が安心して歩ける街にな った」発表。 1972年8月22日 □東京都山谷対策室井上室長「山 谷労働者九、○○○名で需給のバ ランス」良いと発表。 1972年8月23日 □東京都城北福祉センター山口所 長「旧館娯楽室の利用者が増加」 したと発表。 1972年8月26日 釜共闘「加藤組」弾圧のビラを配 ドヤの形式〜追い 布。 込み式、階層式、 かいこ柵式、個室 式。 1972年8月27日 あいりん地区で「免許証買った男」 が交通事故起す。 1972年8月28日 大阪府警備部「愛隣地区情報専従 瑳」発足。 (まぼろしの過激派DICが地下 軍団結成の動き。 警備部確認九〇名、推定二〇〇 名)。 1972年8月30日 □警視庁、山谷地区の新左翼を 「山谷反戦青年委員会、全港湾山 谷支部、共産主義青年団」等四団 体一九名を確認発表。 1972年8月31日 □山谷玉姫公園労働者の夕。 ドヤの畳の大きさ 労働センター、八月中の就労六、 は、大型順に@京 三三七件〜六六、三二七名。 間A江戸間B団地 サイズC釜ケ崎サ イズとなる。 1972年9月1日 大阪社会医療センターに「労働組 合」誕生。 1972年9月4日 早朝三、三〇分浪速区水崎町巡査 部長派出所で「時限爆弾爆発」。 (三十六年当時、放火、全焼し た)。 1972年9月7日 水崎町爆発事件で「一キロ先の草 むらから材料発見」。 1972年9月8日 大阪府警、水崎町事件で「赤軍派 ヤミ手配師の斡旋 幹部、若宮正則の指紋」を検出。 料〜一人三、〇〇 (釜ケ崎潜入の疑い)。 ○〜五、○○○円。 1972年9月11日 釜共闘四〇名「大成プレハブ関西 民家二五戸、車八 支社へ、下請の責任問題」で抗議 台破損。 デモ。 新世界のパチンコで、釜共闘中心 に五〇〇名騒ぐ。 1972年9月12日 新世界で、二晩続きの騒ぎ。 私服パトの署長襲われる。 1972年9月13日 西成地区職員事務連絡会。 1972年9月15日 過激派指揮で「都市ゲリラ演習」 機動隊一、二〇〇 と称し、釜共闘中心に五〇〇名暴 名で警戒。 れる。 1972年9月17日 一九時、労働者同志のトラブルで 三〇〇名騒ぐ。 1972年9月20日 第二七回大阪社会医療センター研 究会。 (於医療センター)。 1972年9月24日 釜ケ崎合同慰霊祭。 (西成愛隣会主催)。 1972年9月27日 深夜の西成で、日雇労働者刺され 重傷。 1972年9月28日 大阪府議会で、黒田知事「あいり ん行政のおくれを認め、前向きに やる」と発言。 1972年9月30日 労働センターの労災立替金「上半 梅田・天王寺駅に 期で七千万円」。 四〇名の手配。 日給三〜五〇〇円 をピン八ネ。 1972年10月2日 大阪府警少年課「家出少年をタコ 部屋に送り込む手配師」を検挙。 1972年10月3日 社会医療センターに投石、後西成 署へ投石、車に乱暴〜三〇〇名。 1972年10月4日 朝九時、大阪社会医療センターに 正面ガラス破損。 「釜共闘三〇名が抗議」。 阪堺線一時ストッ 二一時、旧住吉街道で四〇〇名騒 プ。 ぐ。 西成署調査ー簡易 □東京地裁「赤軍派幹部、若宮正 宿泊所〜二二三、 則」の保釈取り消しを決定。 日払いアパート〜 四六、一般アパー ト〜二八六、その 他〜二七。 1972年10月8日 大阪府議会総務・文教両委員会で 「あいりん対策」について質疑。 1972年10月10日 ★第二十次釜ケ崎集団暴力事件。 1972年10月10日6時30分 早朝就労現場で、アシビラ原因で 八○○名騒ぐ。 1972年10月10日9時30分 東区の竹中工務店へ投石。 1972年10月10日13時30分 釜ケ崎の手配師組織「協力会」が 飯場手配師の親睦 木刀で労働者と乱闘。 団体で八○名が加 入。 1972年10月10日17時45分 釜共闘一〇〇名が「協力会幹部宅」 を襲撃。 1972年10月10日20時0分 七グループに分散、投石。 1972年10月10日23時30分 激しい雨で自然解散。 警察庁調査〜広域 暴力団山口組四五 〇団体一〇、五〇 〇名。 関東稲川組六〇団 体四、七〇〇名。 1972年10月11日 小雨と騒動の影響で、求人数半減。 釜共闘のアジビラで再び手配師と 小ぜり合い。 1972年10月11日20時0分 お好み焼屋へ投石、八○○名。 1972年10月11日20時40分 ライト・バンに放火。 1972年10月11日21時50分 釜ケ崎銀座で五〇〇名が、無差別 投石。 1972年10月11日22時30分 西成署へ投石、三五〇名。 1972年10月11日23時40分 自然解散。 1972年10月11日 西成地区職員事務連絡会。 1972年10月13日 大阪府警「西成赤軍派拠点七ケ所」 あいりん貯蓄組合 を一斉捜索。 発足十周年〜貯金 残高一億六千万円。 1972年10月15日 大阪府警「一〇・二一爆弾闘争」 に厳戒体制。 釜共闘「協力会よりの治療費で、 清酒八○本を購入」振るまい酒に 酔って五〇〇名騒ぐ。 1972年10月18日 第二八回大阪社会医療センター研 究会。 1972年10月19日 一〇・二一前段闘争で「新左翼」 赤軍派のA・共産 が街頭デモ。 同関西派のB・京 釜共闘は、京大C戦線と共闘する 大C戦線のC・共 目的で京大熊野寮に「釜共闘京都 産主義青年団のD。 出張所を開設」ABCD連合戦線 としての結束を固める。 1972年10月21日 国際反戦デー。 暴力団の広域化〜 関西の山口組と関 東の稲川組が「縁 組み」。 山口組は日本一の 暴力団になる。 1972年10月23日 大阪府警、水崎町交番爆破で「釜 ケ崎赤軍、前田洋子を逮捕、若宮 正則を指名手配」する。 1972年10月24日 釜ケ崎赤軍「若宮正則、京都に潜 入の疑い」。 花園大学近くで爆弾材料を押収。 1972年10月26日 あいりん地区のアルコール中毒患 者施設(大阪市立弘済院救護第二 ホーム)で一七名が更生、社会復 帰。 1972年10月27日 釜ケ崎赤軍の「爆弾使用情報」で 労働センター十月 京都・大阪両府警本部六、〇〇○ 中の斡旋数〜七、 名で厳重警戒。 五五三件〜七四、 九九六名。 1972年11月8日 西成地区職員事務連絡会。 霞町交叉点周辺に 「女手配師」(主 として飯場)が出 現(三〇数名)。 1972年11月15日 第二九回大阪社会医療センター研 釜ケ崎地区外のド 究会。 ヤ。 釜共闘「メシ代よこせと、社長を 浪速署管内―六軒 つるし上げる」。 〜五六七人。 大阪府警は三三名全員を恐かつ未 阿倍野署管内―九 遂で逮捕。 軒〜六四〇人、西 二〇時、釜共闘「一斉検挙に抗議」 成区内―三一軒〜 し、三〇〇名騒ぐ。 七二六人。 1972年11月16日 大阪府警「あいりんのガタクル (押しかけ就労)」に強硬手段で のぞむ事を決定。 1972年11月17日 大阪社会医療センター・大阪市大 医学部公衆衛生学教室は、共同の 栄養調査結果を発表。 1972年11月18日 大阪府警極左暴力警戒取締本部 「赤軍派幹部、西浦隆男」を釜ケ 崎で逮捕。 1972年11月26日 日雇労働者(五二才)が「行倒れ、 釜共闘「ゴタゴタ ひき逃げされ、死体を野犬に食荒 十ケ条」を作り配 らされる」。 布する。 1972年11月28日 釜共闘は西成の飲食店、簡易宿泊 所の内約二〇〇軒に「警察の捜査 に協力するか等一〇項目のアンケ ート(二回)」を行う。 1972年11月29日 釜ケ崎合同慰霊祭。 昭和二〇年から四 (西成愛隣会主催)。 七年三月末まで、 五、七四〇柱の霊 を慰めた。 1972年11月30日 暴力手配師排除をスローガンに 「反権力釜ケ崎解放労働者自治会」 が結成される。 1972年12月4日 三角公園のノミ行為で、山口組々 員を逮捕。 (一日売上げ一、五〇〇万円)。 1972年12月5日 国鉄新今宮駅ガード下で、日雇労 本田良寛著「釜ケ 働者酔つぶれ凍死。 崎がて明日がある」 出版。 1972年12月6日 釜共闘は五〇〇万円の年末資金を 要求して「大阪府労働部職業対策 課特別対策室長」と団交。 1972年12月7日 □警視庁公安部は、山谷「山の会」 ※へ潜入中の釜ケ崎赤軍派幹部を 逮捕。 ※山の会〜悪質業者追放現場委員 会。 1972年12月13日 西成地区職員事務連絡会。 1972年12月15日 大阪府警捜査四課は「ノミ行為」 で山口組系佐々木組事務所を捜索。 (三角公園で年間七億円の売上 げ)。 1972年12月18日 愛隣地区野鳥の会、六被告「大阪 「釜ケ崎医療を考 地裁で大合唱」、初公判流れる。 える会」〜特定病 院名(五)をあげ て告発。 1972年12月21日 あいりん学校地鎮祭。 釜ケ崎越冬対策実 愛隣地区現地対策懇談会。 行委員会の機関紙 「日刊えっとう」 創刊号。 1972年12月25日 〜一月四日「釜ケ崎越冬対策実行 広島の過激派グル 委員会」(釜共闘、野鳥の会)主 ープ(三〜六名) 催のテント村。 西成へ進出。 (於四条ケ辻公園)。 新世界防犯支部・新世界連合会・ 浪速警察署の連名で「釜共闘の寄 付、アンケート」は直ちに一一〇 番へとビラを配布。 1972年12月26日 住吉区杉本町駅前派出所で「時限 爆弾」爆発。 1972年12月26日14時15分 釜ケ崎赤軍リーダー「若宮正則」 土工賃金の最高〜 を逮捕。 四、五〇〇円。 最低〜一、九七〇 円。 1972年12月26日19時40分 愛隣総合センターで「電池仕掛け 時限爆弾」爆発。 1972年12月26日20時0分 大阪府警「警察官五、○○○名」 西成署調査 泥酔 を動員。 保護―二、四九六、 府下五五署に厳戒体制を指令。 行旅病人―三八六、 家出人―一八○、 変死人―八二。 1972年12月28日 〜一月三日まで映画会・のど自慢 大会・相撲大会・もちつき・野球 をやると「釜ケ崎越冬対策実行委 員会」のビラ。 1972年12月29日 大阪府公安委員長(谷村博蔵)三 一月一日〜三日は 角公園、海道公園に「大型カラー 天六の北市民館で。 テレビ」を贈る。 〜一月三日「救世軍テント村」 (一、〇〇○名収容)。 「大阪市民生局法外対策実施」 (於愛隣会館)。 1972年12月30日 〜一月三日「年末年始医療対策」 西成署防犯相談コ (於医療センター)。 ーナー――相談受 □第十六次山谷騒動。 理数ー七、九一六 朝八時十分、山谷労働センターに 人、年間蝟集事案 投石、放火。 ――一二九。 (三日にも放火・投石)。 大阪府警本部は、愛隣総合センタ ーの爆弾を「消火器爆弾」と断定。 1972年12月31日 釜ケ崎越冬対策実行委員会主催の 西成署調査。 「のど自慢大会」に五〇〇名集ま 博徒九〜四三三、 る。 的屋二〜七六、グ 一六、〇〇頃労働センター求人業 レン隊六〜三一五、 者(東組・森田組)は、広場で 手配師七〇〇、麻 「四斗樽四、ビール六〇〇本を労 薬三五〇、売春二 働者に振う」。 一〇。 労働センター年間就労斡旋数六四、 七三八件〜七二一、三七七名。 労災立替金約九千万円。 愛隣銀行貯金約二億円。 1973年(昭48) 1973年1月3日 深夜大阪社会医療センターを中心 一般会計予算一四 として、周辺の自動車及電話ボッ 兆三千億円。 クス等が「角材・投石」で破壊さ れる。 1973年1月4日 朝八時半、釜ケ崎越冬対策実行委 日刊「えっとう」 員会を中心に一〇〇名が「大阪市 休刊号。 庁舎ヘデモ・座り込み」。 コーナーだより 午後四條ケ辻公園テント(大三、 「十六号」。 小六)村を解体。 1973年1月4日18時30分 釜共闘を中心に二○○名が「無届 デモ」し、警官二○○名で警戒。 1973年1月5日 地元住民より大阪府警へ「マンモ ス交番建設」の申請。 1973年1月7日 大阪府警々備部は、若宮正則を殺 大阪城「七七一 人未遂外七つの容疑で「再逮捕」。 号」。 1973年1月16日 夜釜共闘所属の二労働者、「暴力 団に暴行」を受ける。 1973年1月17日 早朝釜共闘、三角公園で抗議集会。 朝日放送「空から (二〇〇名)、夜釜共闘「西成市 今日は」で大谷民 民館」で決起大会。 郎氏、東淵修氏釜 第三一回大阪社会医療センター研 ケ崎を語る。 究会。 1973年1月19日 大阪府警捜査四課「山口組集中取 鈴木二郎著「浪花 締本部」設置。 巷談」出版。 1973年1月20日 市立今宮中学校に「爆弾」しかけ たとの電話。 大阪城「七七七号」。 1973年1月27日 ベトナム和平協定調印。