華頂短期大学研究紀要第十七号(一九七三年四月)印刷
「大阪貧民市の研究T」釋智徳
研究の視点
大阪のスラム研究を始めた動機は、筆者自身が昭和36年(1961)の第一次釜ヶ崎事件以来、同地で仕事に従事した事による。そこで失業と貧困と差別が最も集中的に、しかも露骨な現象的存在である事を、身をもって確認した。地域・職場・世間で差別され、疎外されている「アンコ(日雇労働者)」達〜このアンコこそが、大阪の高層ビル現場、地下鉄工事、大阪港の岸壁で、船艙で、危険な、しかも汚れる重 労働に従事し、大阪の繁栄を、日本のGNPを下支えしているのである。こうした中での貧困・差別・矛盾を告発していかなければ、常に支配者側の一方的データーのみで処理されてしまう。このような考えから筆者は日本社会福祉学会で、研究紀要紙上で、実態報告を続けてきたつもりである。
さて釜ヶ崎地区について見ると、ここには戦前から数千人の極貧者達が生活しており、スラム的様相が強かった。それが昭和26年(1951)より30年(1955)までの高度経済成長に伴う急速な都市化現象で、大きく変化してくる。即ちスラムの比重が相対的に減少し、むしろ下層労働者の住む所「ドヤ街」へと移行していく。
釜ヶ崎地区は停滞し沈殿したスラムではなく、流動性に富んだ下層労働者群の極めて重要な「労働市場」と変身している。約二万人と推定される単身労働者群の八割は近
畿を中心にした大阪以西の人間である。これらの労働者を送り出し労働市場を成立させているのは都市化現象である。その中には一時的な出稼ぎ人も、たま蒸発人間も含まれる。ともあれ時代の要請により都会へ移動した人々の群である事は間違いない。
従って現在の釜ヶ崎は、様々な要因を包括した「重層構造スラム」として把握するのが、より実体に肉迫すると考えられる。この点病理現象を社会経済的なものに見て、労働者が働き易いように現実的に考える大阪府・市の諸対策は理解出来る。たしかに11年の歳月は釜ヶ崎を外見的・内容的に変貌させてはいる。しかし単身労働者の人間的疎外状況、手配師による搾取等をはじめ娯楽設備もなく、索漠たるドヤに居住し高すぎる宿泊費の支出を余儀無くされている。この現象は依然としてパニックとモップ発生の可能性を持っている事もであり、筆者がスラム史研究のトップに「事件史年表」(東京・山谷も含めて)を出したのもこの点にある。今後、山谷・釜ヶ崎に於け
る事件の分析、更に大阪スラム街発生の要因、分布、推移へと展開を進めてみたい。
あとがき
この年表作製に当り、筆者に取って幸福な事には多くの機関、多くの人々の暖かく力強いご援助ご協力に恵まれた事である。この御協力に報いる為に今後一層努力し、完備したものに仕上げていきたい。それに御忌憚のない御意見を御教示願えれば幸福である。
特に御協力を願った関係諸機関としては、大阪府警本部、同総務課沿革誌編集室・大阪府西成警察署、同防犯相談コーナー・大阪府労働部職業業務課・同職業対策課・あいりん公共
職業安定所・大阪市民生局・労働福祉センター・大阪社会医療センター・横浜市スラム対策 研究会・東京都山谷福祉センター・東京都城北福祉センター・東京都民生局山谷対策室・東京都労働局職業安定部・大阪市立愛隣会館・大阪市社会福祉協議会・朝日新聞社大阪厚生文化事業団であり、ここに改めて感謝の意を表するものである。