地理学と社会的現実   「空間・社会・地理思想」1号 (1996年)

丹羽 弘一
 「もっとも重要なことは、われわれが使用している精巧な理論的・方法論的枠組と、周囲の出来事について真に意味のある発言をするわれわれの能力とのあいだに存在する明らかな不釣り合いである。われわれが、説明し、制御しようとするものと、現実のものとのあいだに、あまりに多くの異常が存在している。生態学的問題、都市問題、国際貿易問題などがあるが、われわれは、それらのどれについても何か深く掘り下げたことや、根本に触れることを発言することができないように思われる。」
 公民権運動やベトナム戦争に代表される1960年代の政治的激動のなかで、欧米における多くの科学者は、自らの政治的立場、自らの研究の社会的有効性を問われていった。その一人として、ハーヴェイは自らの理論的枠組のマルクス主義への移行を示す「革命的」な論稿ハーヴェイ(1973=1980))においてこのように自問している。同じ時期、後で述べるように多くの地理学者も、社会的不平等や不均等発展の空間的表現を扱った研究を通して、地理学のsocial relevanceのあり方を模索していった。このようないわゆるラディカル地理学運動をへて欧米の地理学は、社会的現実との関係にかかわる問題意識を、その後現在まで保ち続けているように思われる。

 しかるに日本の地理学はどうであろうか。日本の地理学においても戦後早い時期からマルクス主義的枠組の受容は行われ、経済地理学、特に地域構造論の分野などで確かに一定の理論的精緻化を遂げた。しかし欧米のように「肱掛け椅子の地理学者」としての自らの存在論までも問われるような社会的契機やアカデミアにおける論争を、日本の地理学は経験したであろうか。またこれらの業績が、むしろハーヴェイやマヅシー、ソジャといった欧米の「新しい」マルクス主義者による業績を受容することによって、自らの分析的枠組を定式化しようとする最近の若い研究者へ、批判的にであれ肯定的にであれ受け継がれていると言えるであろうか。
 そして何よりも被差別部落や在日韓国・朝鮮人の集住地区のように、社会的不平等が明らかな空間的表現のかたちをとっている場合でさえ、日本の地理学はこれを積極的に取上げてはこなかったのではなかったか。また欧米の地理学において、いまや最も中心的なテーマの一つとなっているジェンダーや、日本においても他の多くの人文・社会科学がこぞって取り上げつつある外国人労働者の問題においても、日本の地理学は他学科に比肩するような発言力を持っているだろうか。まさに阪神大震災の経験においても、地球物理学者や社会心理学者にくらべ、われわれの存在は影の薄いものではなかったか。
 二十数年も前にさかのぼるハーヴェイの指摘は、まさに現在の日本の地理学の状況においても、一定程度当てはまると私には思われるのである。本報告の目的は、このような現状の打開を試みるために、様々な角度から社会的現実と地理学との関係の問題、つまり地理学のsocial relevanceの問題を考察することである。
 この問題を考えるにあたって、まず私自身が研究者としてこのような問題に対処しようとした契機について回顧的に述べておく。なぜならそれは一地理学徒が実際に直面した「不釣り合い」を、具体的に提示することだからである。またそれは私が道徳的な関心あるいは判断によって、このようなテーマを選択したのではないということを示すためでもある。

なぜこのようなことを考えるのか

 私がこのようなテーマを選択した契機(それは私の研究者としての存在の契機でもあるのだが)として、ここでは以下の三つの現実の事態を説明しておく。これらに関する問題意識は、私の卒業論文題目の選択時にさかのぼるものである。これら三つの事態は、それぞれがそれぞれと密接に関連している。
まずはじめにあげるのは「横浜『浮浪者』殺傷事件」である(塩見(1984,ppl0l-117)、青木(1985)、赤坂(1991,pp.65-102))。この事件は1983年の冬に「事件」として「発見」された。
 つまり新聞報道によれば、これは次のような事態である。1983年の112日から210日までの問に横浜市中区の山下公園、松影公園、横浜スタジアム附近、マリナード地下街で、三人の「浮浪者」が殺され、十数人が重軽傷をおわされた。「犯行グループ」として同市南区、中区内に住む申学二、三年生、高校生、無職少年ら十人が逮捕された。しかしこの事態は一時的なものではなかった。「事件」の三ヵ月後には次のように報じられた。少年たちによる「浮浪者」襲撃はすくなくとも1975年ごろに始まり、「スリルがあっておもしろい」遊びとして続けられてきた(58日、以下の日付とも朝日新聞)。警察は襲撃に加わったと思われる少年百数十人を事情聴取し、六十人近くを検挙した。
 またこのような事態は横浜に限られたものでもなく、この「事件」がしばしば「非行」に還元されて語られたように少年たちのみの問題でもなかった。東京都足立区千住の公園では「浮浪者」が少年グループに襲われ、頭に重傷をおって入院した(1987122)。大阪でも198610月には四天王寺境内で、野宿者数人がエアガンを持った中高校生によって襲われた。さらに池袋西武百貨店前路上では、段ボールを敷き新聞にくるまって寝ている「浮浪者」に、二人組の男が「酔って面白半分に」ライターで火をつけた(19831130)
 以上のような事件と、殺す側と殺される側の立場が一見逆の事態もいくつか生じている。新宿区内の公園では、白昼、五才の男子が酒をのんだ「浮浪者」風の男に突然襲われた(1980104)。渋谷区代々木の歩道では中年の男が大声でわめきながら果物ナイフで母子連れに襲いかかった(1985121)。東京都新宿区の国鉄新宿駅西口のバスターミナルで発車待ちをしていたバスが放火され、約30人の乗客が死傷した1980年のいわゆる「京王帝都バス放火事件」の「犯人」丸山博文も新宿駅周辺を寝ぐらとする地方出身の日雇労働者であった。
 次にあげる事態はある種の施設の建設をめぐる、附近住民によるいくつかの反対運動である(赤坂(1991,pp,149-186))。埼玉県比企郡鳩山村の鳩山ニュータウンに隣接する国有林に建設が計画されていた、当時東日本初めてという自閉症者更生施設「けやきの郷ひかりヶ丘学園」は、一部住民による強い反対運動にあい、建設地を変更せざるをえなかった(19811221)。東京都世田谷区では、知恵遅れの若者たちの職業、生活訓練の場として福祉作業所をつくろうとしたところ、周辺住民の一部は反対同盟を結成した(1981724)。千葉県我孫子市では、全国初のあたらしい機能をもつといわれる精神科救急センターの建設計画が附近住民の反対によって宙に浮いた(1982721)1988年には大阪市西成区南津守の住宅街において、単身男性労働者の大型宿舎建設をめぐって反対運動が生じた。大規模な日雇労働者の労働市場であり集住地区である寄せ場、釜ヶ崎に近い周辺地域では、同様の事態が何度か起きている。これらの事態とは若干性格は異なるが、特に1980年代以降首都圏を中心としてしばしば見られるワンルーム・マンション建設に対する住民の反対運動もここにあげられるであろう。
 最後にあげるのは大阪天王寺公園がむかえた、1986年代後半から90年に至る一連の事態である。天王寺公園は1903年に開催された第五回内国勧業博覧会の跡地を利用して開園した。新世界などの庶民的な繁華街にも近く、老若男女親子連れ様々な人々で賑った。休日ともなればカラオケ大会も開かれ、大道芸人や竹とんぼ売りなどインフォーマル・セクターの露店も立ち並んだ。釜ヶ崎にも近く日雇労働者にとっても憩いの場であった。また多くの野宿者もこの公園で生活していた。
 しかし同公園における天王寺博覧会の開催が決定されると、野宿者とその生活は暴力的に排除され、公園は柵で囲まれた。草木は引き抜かれ、地下は駐車場となり、地面はコンクリートで固められた。世界各地から「珍獣」を狩り集め、87年には「いのちいきいき・人・いきものの共存をめざして一この世にいけとし生きるもののいのちの賛歌を高らかにうたいあげる」ことをテーマとした天王寺博覧会が開催された。90年には有料化再開園し、文字通りの意味で「公園」ではなくなってしまった。 この一連の事態は阿倍野最開発などとともに、関西新空港の開港による天王寺の玄関口化に応じたものである。しかしすべてが終わった後には、かつて織田作乃助や武田麟太郎の市井物に描かれたような庶民の街としての天王寺はもうそこにはなかった。

 私にはこれらの事態がとても不愉快で憤りを覚えるものに思われた。また同時にすぐれて「都市的」な事態であり、おそらくそれゆえに地理学の対象となりうると考えた。したがって私は「なぜこのような事態が起きるのか」という煩わしい疑問を、卒業論文の作成によって、自ら処理しようと考えた。しかしその作業を始めて、ほどなく私が理解したことは、特に日本のいわゆる「都市地理学」の業績のなかには、私が依拠したり参考にしたりする方法的枠組は、ほとんど見あたらないということであった。
 これらの事態は以下のように地理学的想像力を喚起させる。まず第一の事態においては殺した側と殺された側とを問わず、社会的な排除がすぐれて空間的に表現されている。
 「犯行グループ」の十人の少年の半数が中学卒業生であったが、そのうち四人は無職であり、残りの一人は定時制高校生である。当時の高校進学率がすでに90%であったことを考慮すれば、労働力の選別装置としての学校制度におけるかなり早い時点で、彼らはすでにエリートコースから排除されたいわゆる「落ちこぼれ」であったことが推測できる。また「無職」という状態にも、適切な社会的地位からの排除を読み取ることができる。少年たちは「遊び」として野宿者襲撃を行っていたことを自ら明らかにしたが、このことは都市における遊び場、つまり彼らの居場所がどのような状態にあるのかという問題にも関係する。事実彼らはゲームセンターやコインランドリーを溜まり場としていたが、そこからも彼らは追い出され「『浮浪者』をいじめてスッキリした気分になった」(1983215)のである。
 このことは丸山の、京王帝都バス放火の動機についても想起させる。丸山は地下階段で酒を飲んでいるときに通行人に「あっちへいけ」と邪魔者扱いされる。そして「通行人たちが続々バスに乗込んで行くのを見て『うちに帰れば幸せなんだろう。だが、俺はここに寝る身だ』と思い」、「幸福そうな通行人をアッと驚かせてやろうと思ってやった」のである(198097)
 一方殺された野宿者の一人須藤泰蔵も丸山と同様、横浜の寄せ場、寿を拠点とする日雇労働者であった。日本の野宿者は日雇労働市場の状況と密接に関係する。日雇労働者という生活様式自体、ほとんどの場合、構造的な不況あるいは競争原理における不平等による労働市場からの排除の結果である。だが保証の行き届かない現場における事故や不安定な生活によって体をこわしたり、歳をとって思うように働けなくなった人々は、不況のさいには寄せ場からも真っ先に排除され野宿をしいられる。須藤が殺された山下公園は多くの野宿者の生活の場となっていた、いわば社会的にも空間的にもある意味で寿の社会における「最終到達地点」であった。
 つまりこの横浜における事態はあらゆる意味で排除されている者同士の、不幸で悲劇的な出会いにほかならないのである。
 二つめの事態は、まず異なった階層や立場にある人々の間に生じた社会的コンフリクトの空間的表現である。しかしこれらの事態を、差別問題の視点からとらえることは重要である。
 施設の建設に反対する住民による「クレイム申し立て」では、たとえば自閉症者は「犬」にたとえられ、「犬は咬みつくものだ」ということが「動物の本性」として語られる。知恵遅れの若者たちは「常人より怒り方も激しく、性への関心も強い」とされる。これらのレトリックは住民たちによる自閉症ないし知恵遅れに関する無知とそこから生じる偏見をよく表している。
 しかし地理学的想像力にとってより重要なのはこれらのクレイム申し立てからそれに対するリアクションへと続く言語ゲームや建設阻止運動などの空間的実践を通して、問題となっている施設が物質的に実体化する以前に、ある「場所」として構築されてゆくことである。
 クレイム申し立ての中では、問題となっている施設が実際に建設されたときの状態が想定される。それはたとえば知恵遅れの若者と学童との「不測の争い」であり、女性との間での「トラブル」である。「労務者」は「泥酔して一般の人々に迷惑をかけ、女性または子供は安心して外出できなくな」り、「雨が続き仕事のない日が多い時金銭に困り自転車、植木等々盗難事件が多発することが予想され」る。「野宿」さえ「婦女子へのからみ、無銭飲食」などとともに、「環境」をおびやかす「犯罪行為」として数えられる(南津守連合地域振興会回覧速報19887)。これらの空間的な「状態のカテゴリー」には、住民たちの生活にとっていまだ実体を与えられていないその「場所」がもつ意味がよく表れている(丹羽、太田(1995))
 これらの反対運動が主に新興住宅地、ニュータウンで生じたことにも注目すべきである。例えば鳩山ニュータウンの例では、附近の旧村落の住民の反応はおおむね好意的か無関心であった。
 この理由としてつぎのようなニュータウンの性格があげられる。それは例えばニュータウンにおける、あらゆる意味で同質的な住民と、画一的な生活である。このことがニュータウンを構成する各建造物の均一性といった、物質的な条件に規定されていることはいうまでもない。同じ価格帯にあるほぼ同じ規模の物件には、ほぼ同じライフサイクルにある同様の家族構成の人々が入居するであろう。結果として「昼間は女と子供しかいない住宅地に、そのような患者にやってこられてはと、主婦たちがワーッと立ち上がった」(我孫子市の場合)のも事実である。しかしほぼ完全に商品化された都市居住の様式が、都市の本質的な性格であった差異の包容力を消滅させてしまっていることも指摘できる。
 そしてニュータウンというかたちで理想的に表現された、最近の諸都市において進行する規格化、美化はまさに天王寺公園における事態にも象徴的に表れている。公園や住みかとは本来「具体的、つまり機能的であると同時に、多機能的、超機能的」な、いわば空間の消費であった。しかし「都市計画的で、無意識のうちにもきわめて還元的な愚想」は、例えば「《人間存在》を、食べる、眠る、労働力を再生産する、という基本的行為に限定し、単純化された機能としての居住地を考案した」(ルフェーブル(1970=1974))。ニュータウンはこのような「居住地」の、まさにひとつの理想的な形態である。
 同様に都市における公園も、市場の要請に応えるかたちで、空間の消費というよりもむしろ消費の空間に変えられつつある。天王寺公園も、この「きわめて還元的な思想」にさらされる中で、「人がそこに住むことができる」という公園が持つ「超」機能を奪われてしまった。
 ところでこのことは空間の生産者にとっては、結果ではなく目的の一つであった。「野宿する人が増えて、公園利用者が減ってしまった。大阪の南の玄関口にふさわしい姿ではない。有料化すれば、野宿の人には遠慮してもらうことができる。」大阪市公園局は、なんら実証的な裏付けなしに、このように発言している(1987212日夕刊)
 ここでは何故野宿をする人々がいるのかという問題も、それに対してとられるべき対策もすべて政治的にエポケーされている。
 結果として住みかを奪われた人々がどうなったかは重要である。公園から排除された多くの人々はすぐ北の四天王寺の境内に移った。このような状況でこれらの人々は、少年たちにエアガンで撃たれたのである。
 以上のようにこれらの事態は、われわれのなせる仕事を提示している。現在なんらかの対処がなされるべき社会的現実について一つ一つ点検してゆくならば、仕事はいくらでも増えてゆくであろう。とにかくわれわれが少しその気になれば手を付けることができたであろう多くの仕事に対して、われわれは少し控え目すぎたのは何故であろうか。
 この疑問に応えるために、ここで社会的現実と地理学に関する欧米と日本の経験を、粗削りではあるが学史的に点検しておきたい。

社会的現実と地理学

地理学の「科学」化、ラディカル地理学運動から現在へー

欧米の経験

 欧米における最近の地理学史を概観すれば、そこに帯びている社会性を指摘してゆくことができる。それ以前の膨大ないわば素朴経験主義的業績の蓄積を経て、欧米の地理学は1950年代にはいわゆる「計量革命」を経験する。しかしこの「計量革命」も、しばしば説明されてきたような、純粋に科学的内容におけるパラダイム転換としてのみとらえるべきではない。それはコンピューターの普及などの技術面における進歩のみならず、地理学をとりまく様々な社会的・政治的状況にも規定されたものであった(杉浦(1987))
 そこには中学・高校においても決して充分な教育がなされておらず、地名暗記の学問としかみなされていなかった地理学に対する社会的評価の低さもあった。このことは例えば1958年のハーバード、1963年のペンシルバニアをはじめとする名門大学における地理学教室の閉鎖として具体化した。また政府による研究助成金の「特定有名大学の特定研究領域への集中」は、「研究費の支給を受ける研究者集団からなる科学のみが学問として生き残りうることを示唆」した。さらに「計量分析に関わる人文科学・社会科学に優先的に研究費を支給しているため、地理学における計量化は現実的な意味でも急務であった。」
 このような現実的な要請のもとに、地理学の「科学」化は進行し、空間分析的枠組による法則性の追求がさかんにおこなわれたのである。
 欧米の地理学におけるこの「計量革命」の経験は、概して非理論的であり、哲学的にも無自覚であったそれまでの地理学に対し、「科学」としての地理学を問い、理論的、また哲学的議論をおこなう土壌をもたらした。しかしこの地理学の「科学」化は、同時に「研究費の支給とそのみかえりとしての奉仕を媒介とする国家・産業・科学の一体化」という「地理学の体制化」でもあった。杉浦が指摘するようにこの「科学」化において「黒子的役割を果たし」たAckermanの動機は、戦略事務局地理部局員の経験にもとづく、地理学の有効性にかかわる反省にあった。後で説明する日本における地理学の経験と同様、合衆国においても地理学の社会的有効性に関する問題は、まず戦争との関係において提出されてきたのである。

 この「科学」という概念は、あくまで社会科学を自然科学のシノニムとしてのみ理解しようとする試みであった。あらゆる空間的問題は空間的原理によって説明可能という前提のもとに、空間は全く物理的それとして扱われ、実証主義的な認識論にもとづく地理的事象の規則性の発見が研究の主要な目的となった。しかし社会的な矛盾が都市地域や先進資本主義国と第三世界との関係の中で次第に表面化されてきたとき、この「科学的」方法も疑問視されてくる。
 いわゆるラディカル地理学運動は、公民権運動や反ベトナム戦争運動に代表される1960年代の一連の政治的事件を前にした、研究者の態度にかかわる問題提起として始まる。客観性、価値自由、政治的中立を主張しつつ、実際には現在の社会体制の維持に貢献してきた既存の地理学は疑問視された。現実に起こっている社会的な問題により関連し、それに対し有効性を持ちうるような研究が模索され始めた。
 結果として、都市地域に関しても黒人ゲットーの立地や広がりなど、社会的問題の空間的側面を取り扱う論文が現れ始める。バンギによるデトロイトの低所得階層地区における「地理的探検」(Bunge(1971))のように、地理学者がその経験と知識を、具体的なかたちで地域に貢献させてゆこうとする試みもあった。このような活動は、ラディカルな地理学の基本的理念を問う意味で、現在でもその意義を失ってはいない(丹羽(1993))。だがこの活動も、様々な障害によって、1970年代中期までにはその機能を失ってゆく。
 またラディカル地理学とよばれた他の多くの業績も、「・・・問題の表面のみを研究するにとどまり・・・社会的な問題により関連してはいるが、既存の権力関係の枠組みの範囲内で発展した科学哲学、一連の理論及び方法論にいまだ結び付いている」(Peet(1977))と反省された。社会的問題の空間的表現を明らかにするだけでは、問題の存在をあざやかに示すことはできても、それを根本的に解決する力にはならないことが認識されてきたのである。地理学者は、例えば低所得者のコミュニティーの中で、計画や組織に関する新たな知見や手腕を示すことができた。しかし、それらの活動の多くは短期的で対応的なものにとどまった。これらの経験は、初期のラディカル地理学が直面せざるをえなかった、それぞれの問題を示している。その一つは制度的制約に関わるものであり、もう一つは理論、方法論に関わるものであるが、ここでは特に後者について論を進める。

 「軽量革命」の担い手の一人でもあった、ハーヴェイの思考的転回が如実に表れた彼の著作(ハーヴェイ(19721980)は、脱計量主義としてラディカル地理学を考えるうえで象徴的に理解されている。つまり1970年代を通じて、多様なラディカル地理学はマルクス主義的枠組みへと、次第に収斂していったと一般的に考えられている。しかしむしろ当時の多様な思想的反省を考慮すれば、ラディカルな思考は様々な社会科学に基楚を置く議論を吸収しながら、「リベラルな人文主義的思想から構造主義的マルクス主義思想」に至る広範な構造主義的枠組(ジヤクソン・スミス(1984=1990))のもとに移行していったと理解すべきである。
 ここで構造主義的枠組とは、「観察しうる世界は、必ずしもそれをもたらしているメカニズムの世界を明らかにしない」という認識論、「実在は直接的にではなく、思考を通してのみ認知できる」ものであるという存在論、および「存在の直接的な根拠は得られないために正確度を試すことはできないが、認知された実在を説明する理論の構築」を含む方法論(Johnston(1983,PP,5-6))を指す。このような枠組に依拠する研究は、デュルケームの社会形態学や、レヴィ・ストロースの言語学的構造主義をはじめとした様々な社会科学における議論にそのルーツを持つ(Gregory(1978,pp.81-122))
 「ラディカル・アプローチ」と称される一連の研究は、科学と現実との関係性の認識に始まり、社会的問題の空間的表現の明示から、それを生み出す構造的内容の探求というかたちで展開してきた(Johnston(1993,pp.216-270))80年代以降この潮流は特に空間と社会、構造と担い手、あるいは理論と経験的研究との関係といった問題を巡って盛んに論じられた。これらの議論が依拠する、オーソドックスなマルクス主義から構造化理論や実在論にいたる様々な社会理論(野澤(1993))も、このような構造主義的枠組に基礎をおいているのである。さらに90年代以降は、ここ10年におけるラディカルな学問的文献における注目の経済から文化への移行という指摘(Sayer(1994))にあるように、この潮流はポストモダニズム、あるいは文化ラディカリズムの模索というかたちで受け継がれてきている。またその中でのジェンダー、セクシャリティ、身体に関わる言説の重要性の浮上は、今後の展開を考えるうえで指摘しておくべき点である。

 以上のような経過を経て欧米の地理学は、社会的現実との関係に関わる問題意識を現在まで保ち続けているように思われる。しかるに日本の地理学においては、この意識がいささか希薄であったと思われることは既に指摘してきた。次節ではいったん日本の地理学の揺藍期にまでたちかえり、このような傾向の根源の探求を試みる。

 「大東亜戦争」と地理学

学科制度としての日本の地理学は1907年の京都帝国大学史学科における学科設置、続いて1911年の東京帝国大学理科大学における講座設置によって成立する。学会としては1923年に京都において地球学団、一年後には東京において日本地理学会が結成され、それぞれ学会誌として「地球」、「地理学評論」が創刊される。
 また他の主要な地理学雑誌としては1924年に地理教育研究会から「地理教育」、1933年には古今書院から「地理学」が創刊されている。この時期は他の隣接諸科学、例えば地質学、歴史学などの場合と比べるとかなり後のことである。つまり日本帝国主義の展開の中で、大学や他の教育機関の成立というかたちで知の制度化が行われてゆくこの時期、地理学は遅れて出発するのである。
 このことは、次に確認する当時のーそして現在にも通じるー日本の地理学界のいくつかの性格に、少なからぬ影響を及ぼしていると考えられる。その一つは他学科に比し、いささか閉鎖的、権威主義的な傾向を持つと思われるアカデミズムの存在である。

 1929年に成文化された日本地理学会会則の「条文は・・・もっぱら(日本地理学会初代会長)山崎(直方)先生の考える『学会』であった。・・・特徴は会員資格を厳選して、いたずらに会貝数を増やさないこと、全員が他学会の特別会員にあたり、したがって会費が雑誌代(6)より高いことであった。」(石田(1975))このアカデミズムはその後、地理学と現実の事態との関係の問題にある枠組みを与えてゆく。
 例えばこのようなアカデミズムの主なる守護者たる日本地理学会は「純学術的機関として、支那事変以降も終始」し、「国際政治、対外事情、国内社会状勢はほとんど一言も地評誌上ではふれられ」ず、「理科的な『学問』の道をはなれず、・・・社会現象に関心を示さない自然科学的態度」をとり続ける。
 一方地理学のsocial relevanceに関する議論も、1930年代以降さかんになされるようになる。「政治地理などもその論述は実に堂々たるものがあるやうだ。しかし内容を吟味すると・・・独断、皮相の見解が多く、しかも政治現象の下部構造をなす経済への関心が少なく、上部構造たる政治の現象形態のみ多く問題としてゐるので、おそらく政治の実践に役立つものとは思われない。・・・政治地理学不振の原因」は「要するに、私は社会的に役に立たないからだと思ふ」(室井(1936))
 問題提起は日本地理学会に代表されるような「科学的態度」に対する批判としても現れてくる。「時事問題といふような活社會の突発的事象を取扱ふのは地理における邪道であるかの如く看倣してこれを避けやうとする如き、社会逃避のうちに弄ばれる地理は新興の地理ではなくて古い型の地理である・・・必要なことは現下の觸面から適時地理的に押し出すこと」(佐々木(1938))

 このように合衆国と同様日本においても地理学のsocial relevanceの問題は、戦争協力の問題として提出されてゆくことになるのである。そして「時局」の進展とともに、それに迎合し関わろうとする態度も増え、その象徴的な事態として日本における地政学の展開をみる。しかしこの地政学も、自らうたうような「皇国の理念及びその体制に結集すべき国防科学的体系の樹立」(日本地政学協会(1942))をどれほどなしえたかという点については疑わしい。
 そもそもGeopolitikが初めて日本に紹介されたのは政治学の分野(藤沢(1925))であり、当時の地理学者の多くも「地政学の観念は政治学に対する政治地理学的法制の適用であり、・・・その内容如何となると甚だ明瞭な説明を欠く」(飯本(1928))というように、その「科学性」に関して批判的な態度をとっている。
 日本地政学協会の創立も1941年、その機関誌である「地政学」の創刊も1942年とかなり後のことである。また「『日本地政学』徒が、『大東亜』のゲオポリティクを論ずるさいにも、現地で本格的な調査をすることもなければ、政府や軍当局によって、植民地や占領地の調査や行政に従事させられることもほとんどなかった」(竹内(1974))ことも指摘されている。
 このような地政学を含む戦前の地理学者による「戦争協力」に対する批判は、敗戦後ほとんどなされてはこなかった。「現在もなお日本地理学会の名誉会員に名を連ねる人たちのうちで四名もの人が、日本地政学協会の役員であったという事実をみせつけられると、地理学界においては歴史学界とは異なって、戦争責任に対する問いかけが、真剣になされなかったと考えざるをえない」(中川(1976))。「公職追放」というかたちで幾人かの研究者を切ることによって、地政学という用語もタブーとして葬られる。そしてよってたつ立場はどうあれ、戦前期には少なからず論じられていた、地理学の social relevance の問題も、ひとからげに無視されるに至ったのではなかろうか。結果として、どのようなかたちであれ、社会的現実に積極的に関わろうとしない「科学的態度」を尊ぶアカデミズムのみが、日本の地理学の伝統の中に存続したように思われるのである。(丹羽(1994)の一部に加筆・訂正)

 以上のような経験をへた日本の地理学の、現在に至る社会的現実との関係を説得力をもって説明するためには、さらに戦後の社会・経済地理学、村落・都市地理学をめぐる研究史を詳細に点検する必要がある。現在の私にその用意はまだない。しかし「ここ十年の成果も受け継ぐことができていない」という、しばしば最近の諸研究が受ける批判を考慮すれば、是非とも今後の課題とせねばならない。
 次節では特に都市地理学における空間の社会性に関する認識の不足を、シカゴ学派の受容のあり方と、その影響という点から説明するにとどまる。

都市地理学におけるシカゴ学派

 ほとんどの都市地理学の教科書は、シカゴ学派の代表的研究者の一人であるバージェスの同心円理論を、多様な都市内部地域構造論モデルの創始として紹介する。そこには生態学的に導き出されたモデルが提示され、いくつかの同心円によって描き出された空間的秩序に関する説明がなされている。しかし実質的にこのモデルを生み出した、1920年代に至るシカゴの都市的発展の状況や、社会的過程に関する記述はほとんどない。ましてやこの同心円理論に表れた空間的秩序の探求とならぶシカゴ学派の重要な遺産であり、欧米の人文主義的都市地理学に影響を与えた多くの民族誌的モノグラフについてはほとんど無視されている。
 「衝撃都市」とも称された当時の北米における都市的発展の状況の中で、民族誌的モノグラフと空間的秩序の探求は、シカゴ学派の業績の中で、結果的には相互補完的に関係していた。つまりこのようなかたちでシカゴ学派の業績は、パークによる社会的距離と物理的距離との関係の主張(Park(1926;1975))にも見られるように、社会構造と空間形態との相互関係に関する認識を保っていたのである。
 しかしこれはパークに影響を与えている新カント流の形式主義と北米のプラグマティズムという2つの哲学に根ざした、一見矛盾したものでもあった。(ジャクソン・スミス(1984=1991,pp79-117)

 地理学における都市内部地域研究は、このような二元論的状況を持つシカゴ学派の知見から、空間的秩序に関する像のみを、まさに剥ぎ取ってくることから出発したのである。シカゴ学派はその形式主義的側面のみを、過度に強調されたものとして影響力を持ってゆく。多くの地理学者はそれぞれの国の都市について、異なったモデルを作り上げることに励んだ。さらに都市地理学者の仕事は空間分析的な手法によって、これらのモデルに裏付けを与えることになった。
 むろんこれらの研究がなした業績ついては、一定の評価が為されるべきである。しかしその結果「都市地理学の教科書を読まされる学生たちは、モデルの背景の社会問題には、ついぞ関心を向けることなく、無味乾燥なパターンだけを眺めることになった」(内藤(1989,p.33))という批判も否めない。
 またシカゴ学派において空間的秩序は、競争という生態学的な原理によって規定され、構成されていくものと考えられた。社会的関係はこのような自然に形成された秩序から移行する道徳的秩序として理解された。ためにきわめて均衡論的性格を持つに至ったシカゴ学派的な理論枠組は、体制的な矛盾が表面化する1970年代以降のいわゆる「都市の危機urban crisis」を迎え説明力を失ってゆく(吉原(1993))
 このようなシカゴ学派の受容のされ方は、合衆国の都市地理学においてもしばしば指摘されている。しかしシカゴ学派の破産とシンクロしたラディカル地理学運動の影響は、合衆国のその後の都市地理学の流れを日本のそれとは異なるものにしたのはみてきたとおりである。

 以上のように現在の日本の地理学がもつ社会的現実に対する関心の希薄さについては、いくつかの要因を探ることができる。最後の章では、歴史的過程からはいったん離れ、私自身地理学と社会的現実との関係をどう考えてゆくかについて、いくつかのてがかりを述べてみる。


Social relevanceをどう考えるのか

 地理学と社会的現実との関係を考えるにあたって、われわれ自身、およびわれわれがなしている研究と、社会が実際どのような関係にあるかを、できる限りラディカルな視点から見直してみねばならない。これはいわば、social relevanceの問題に関わる存在論的発想である。
 まず「研究者」としてのわれわれは、この社会の中で一体何物なのであろうか。それを見据えるためには、われわれの来し方、つまり学校制度がこの社会の中でなしている役割を考え、われわれがどのようにこれと関係してきたのかを省みることが重要である。

 学校制度の最も基本的な機能は何であろうか。多くの人は教育と答えるであろう。この答えは間違ってはいないが、この教育の内実は問われねばならない。しかしここで問いたいのは教育が何を目的として行われているかであり、言い換えれば教育が学校制度の中で果たしている機能は何かということである。今日の大学生活のあり様をみるまでもない。現在の小・中・高等学校における教育が、大学受験という一つの選別機構を規範として機能していることは、ほんの少し自らの経験を振り返れば、ほとんどの人には理解できることであろう。つまり大学受験を中心としてこれら学校制変全体が、巨大な選別機構として機能しているのである。
 この選別機構の中であるものは蹴落とされあるものは選ばれ、現生産体制のなかに肉体的・精神的労働力として、人々は分配されてゆく。「われわれは、ある程度の力を持つ国の、少なくとも子供を大学に入れるだけの経済力を持つ家庭に生まれ」、この選別機構を巧くくぐりぬけ、大学教員、院生、学生として、研究者としてsocial relevanceし続けている。

 しかし先ほどみてきたようないくつかの現実の事態の中で、殺し殺される人々の場合はどうであろうか。少年たちにせよ、野宿者にせよ、「努力すれば誰でも報われる」という平等性と個人の能力という幻想に結びつけられたこの選別機構のなかでふるい落とされてきた人々ではなかったか。そして「被差別部落民であれ、定住外国人であれ、寄せ場労働者であれ、学校制度という構造のなかでは、われわれはこれらの人々を踏み台にしながらここまで来たのではなかったか。」

 Social relevance の追求の中でこれらの人々を「研究対象」とする行為を対象化してみることは、極端ではあるがあらゆる研究という行為が帯びている本質的な社会性を明らかにする。つまりそれは「今なお、これらの人々を『ねた』として論文とやらを書き、それを自らの『業績』として、おのれの社会的地位の向上をはかろうとする」ことではなかろうか。「われわれは大学教員になるため、さらには昇進し、給料を上げるため、多くの論文を書く。そのようなかたちでわれわれの『研究』は、その取り扱っている対象がどのようなものであれ、われわれ自身を養い、われわれに社会的な力をもたらす。しかしそのような仕組みこそ、われわれの『研究』が持っている最大の、そしてもしかしたら唯一の」social relevanceではないだろうか(丹羽(1993))。このような研究と研究者の存在論的内実をふまえてこそ、社会的現実に関わる地理学的研究の具体的方向の探求がなされねばならない。

 このいわば social relevanceの問題に関わる認識論的発想は、今述べてきたような「研究者と研究対象との矛盾的状況を『科学』と『社会』あるいは『科学的真理』と『日常的知』という制度化された分業体系のうちに解消することなく、そこから新たな知の形態を模索する試み」(中島(1995))である。ここでいう知の「制度化された分業体系」こそ、資本主義的生産体制の要請とともに成立し、現在われわれの研究を存在論的に規定しているところの「近代科学」であり近代知にほかならない。この規定を乗り越えた地理学のsocial relevanceの探求は、地理学における知の脱近代とでもいえるものの追求なのである。

 ここでいわゆるポストモダニズムが想起される。80年代後半以降、このポストモダニズムは、地理学的文献においてもさかんに論じられた。しかし90年代以降はこれも一つの商品化された「知の周期」として、脱植民地主義、あるいは文化ラディカリズムにとって代られたようではある(Mohan(1994))。しかしポストモダンは一時的な知の風潮に過ぎなかったのであろうか。私はそうは考えない。この十数年間のうちにポストモダン、あるいはポストモダニズムという言葉とともに語られた取りとめのない様々な事柄こそ、ハイパー・オルタナティブな脱近代の諸兆候ではなかったのだろうか。
 例えば建築においては、機能主義と結びついた近代様式を離れ、断片的な歴史的様式を用いた混成的様式の建造物が出現した。これらの建物としての機能を超えた作品性に、脱資本主義的な生産様式にみあった物質的形態を持つ「建造環境」を予感することができないだろうか。また建築とともにポストモダニズムの起源とされる文学においても、コラージュ、パスティーシュ、キッチュなどに代表される変則的な表現が生みだされた。これらも脱近代の知を構成する新たな文体を感じさせないだろうか。地理学的知の脱近代も、これらの様々な領域におけるrepresentationとシンクロしながら模索されていくべきであろう。
 ここで「我々が把握しておきたいのは、何よりも地理掌というディシプンを『モダン』なるものの産物として認識し、さらにこれまでそこから世界へと向けられていた<まなざし>の構制を問うことによって、このディシプリンを外へと開いていく<態度>を強調する必要のあることである」(大城ほか(1993))。

 以下ではこのような<態度>いくつかのありようを、社会学をはじめとした池のディシプリンにも求めてこの報告を終えることにしたい。

 まずはじめにあげるのは従来の社会学では「理論の外部へ落とされ分析の対象にならない現象」であるところの「残余カテゴリー」とみなされてきた「日常知」を対象化するエスノメソドロジーの発想である。ここでいう「日常知」は「一連の身近な知識、日常生活の自然的態度(社会的構造感)、日常的思考法」の三つの現象として分析される(ライター(1987))。これは「『科学的真理』と『日常的知』という制度化された分業体系」である近代知そのものを対象化する発想でもある。それゆえわれわれの〈態度〉そのもののあり方を、研究行為との関係において分析するさいに有効な枠組みとなるであろう。
 次にあげるのは「因果関係についての言明」それ自体を「社会科学者による社会的構築物」ととらえる、キッセ・スベクター(1977=1990)をはじめとした構築主義の発想である。彼らの発想は本来的には「社会問題論」の分野におけるものである。社会病理学の発想からラベリング論に至るまで従来「社会問題」は形式主義的に、つまり曖昧なかたちでしか定義されてこなかった。
 彼らは「社会問題」を「何等かの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」と定義し、その過程の説明をその研究課題とする。これは「研究対象」の存在を所与のものとして受け取る素朴経験主義的態度を乗り越え、例えば「場所」あるいは「社会空間」などの概念を社会的構築物ととらえるきわめてラディカルな態度である。
 このような認識論のもとで、もはや研究者も研究対象を「科学的」なまなざしでみつめる客観的存在ではありえない。研究者も研究行為を通じて、研究対象の構築に加担しているのである。
 これは研究対象を状態ではなく活動、つまり研究という所為自体を研究対象に関わる一つの出来事として考えることにほかならない。このような〈態度〉のもとに地理学的想像力を働かせることこそ、冒頭に提起されたような「異常」、研究と研究対象を乗り越える端緒となるであろう。
本稿を最初に脱稿してから現在迄に、前半でとりあげた三つの事態に対応する出来事が偶然にも相次いで生じ、「地理学者」として(Bunge(1979))の私の行動を駆り立てた。19951018日には大阪道頓堀戎橋で、台車の上に寝ていた野宿者が、二人の若者に川の中に投げ込まれ死亡した。同じく11月には富山市五福の精神科、福田病院跡地に予定されている「精神障害者の社会復帰モデル施設」の建設に対し付近住民による反対運動が生じた。住民によって配布されたビラには「精神病患者の完治はなかなか困難で、犯罪の温床になりやすい。まt、従来の精神病院であれば患者は出歩くこともほとんど無いが、通院施設であれば近隣とのトラブルが生じやすい」といったレトリックがみられる。また1996124日には東京都が、新宿西口と都庁を結ぶ地下通路から、ダンボールハウスに居住する約200名の野宿者を、「動く歩道」の建設を理由に機動隊を投入し強制排除した。
本稿は富山地学会ニュース第平74(1995)に発表したものを加筆・修正したものである。

文 献

青木悦、1985『やっと見えてきた子どもたちー横浜「浮浪者」殺人事件を追って』(あすなろ書房)
赤坂憲雄、1991『新編排除の現象学』(筑摩書房)
Bunge W, 1971 Fitsgerald: Geography of a Revolution (Schenkman)
Bunge W, 1979 "Perspective on theoretical geography", Annals of the Association of American Geographer 69,pp.169-174
藤沢親雄、1925、「ルドルフ、チェレーンの国家に関する学説」、国際法外交雑誌24155-175
Gregory D, 1978 Ideorogy, Science, and Human Geography (Hutchinson, London)
ハーヴェイ ダヴィド著、竹内啓一、松本正美訳、1980『都市と社会的不平等』(日本ブリタニカ) ; Harvey D, 1973 Social Justice and the City (Edward Arnold, London)
飯本信之、1928、「所謂地政学の概念」、地理学評論476-99
石田龍次郎、1975、「戦前回顧」、日本地理学会編『日本地理学会五十年史』、1-37(古今書院)
ジャクソンP、スミスS J著、浜谷正人訳、1991『社会地理学の探検』(大明堂);
Jackson P, Smith S J, 1984 Exploring Social Geography (George Allen and Unwin, London)
Johnston R J, 1983 Philosophy and Human Geography (Edward Arnold, London)
Johnston R J, 1991 Geography and Geographers: Angro-American Human Geography since 1945 (Edward Arnold, London)
Mohan G, 1994, "Destruction of the con: geography and the commodification of knowridge", Area 26,387-390
室井栄、1936、「地理学の社会性」、地理学4139814051631-1641
内藤正典、1989、「現代地理学の再検討―第三世界研究の視点から一(第一部)」、地域学研究221.36
中島弘二、1995、「富山大学人文学部地理学教室『わさびの会』への書簡911日付」
中川浩一、1976、「地理学雑誌の系譜()()()」、地理 21(9,10,11)
日本地政学協会、1942、「宣誓」、地政学1(1)
丹羽弘一、1993、「われわれは何を問われているのか? われわれは自由にそれが為せるのか?」、地理38(11)94-99
丹羽弘一、1994、「『大東亜戦争』と地理学」、『第8回日本寄せ場学会総会/シンポジウム〈労働支配の構造とその変遷〉パンフレット』
丹羽弘一、太田茂徳、1995、「『場所』の構築/あるいは『場所』の構築主義? 2-『環境を守る』住民運動をめぐってー」、1995年度人文地理学会研究発表要旨、8283
野澤秀樹、1993、「社会理論と地理学」、1993年度人文地理学会研究発表要旨、4-7
大城直樹、丹羽弘一、荒山正彦、長尾謙吉、「1980年代後半の人文地理学にみられるいくつかの傾向―イギリスの最近の教科書からー」、地理科学4891103
Park R E, 1926, "The urban community as a spatial pattern and amoral order", Reprinted in Urban Social Segregation ed Peach C, 1975,21-31 (Longman, London)
Peet R, 1977, "The development of radical geography in the United states", Progress in Human Geography1, 240.263
ライター K、高山眞知子訳、1987『エスノメソドロジーとは何か』(新曜社); Leiter K, 1980, A Primer on Ethnomethodology, (Oxford University Press)
ルフェーブル アンリ著、今井成美訳、1974『都市革命』(晶文社); Lefebvre H, 1970 La Revo]ution Urbaine (Editions Gallimard, Paris)
塩見鮮一郎、1984『都市社会と差別』(れんが書房新社)
佐々木清治、1938、「事変と地理」、地理学6(4)485499
Sayer A 1994, ``Editorial: Cultural studies and `the economy, studied"', Environment and Planning D: .Society and Space 12,635-780
杉浦芳夫、1987、「Ackermannとアメリカ地理学の『体制化』―計量革命に関する一考察―」、地理学評論60A323-346
竹内啓一、1974、「日本におけるゲオポリティクと地理学」、一橋論叢72(2)、169-191
吉原直樹、1993、「ロバート・E・パークとヒューマンエコロジー生成期の都市社会学思想―」、吉原直樹編著、『都市の思想―空間論の再構成にむけて』(青木書店)175191頁。

空間・社会・地理思想1  発行日/1996329

編集/文部省科学研究費総合研究(A) 「地理学における経済・社会理論と空間の思想」 代表者水内俊雄及び分担者  発行所/大阪市立大学文学部地理学教室
 編集にあたって
 本誌は、平成7年度から3ヶ年認められた文部省科学研究費総合研究(A)「地理学における経済・社会理論と空間の思想」(代表者:水内俊雄、課題番号:07308006)での活動を、すぐさま活字化し、なおかつup to dateな情報を記載してゆこうというもくろみのもとに編まれたものである。当初は、ニューズレター方式の気軽なものとして考えていだ。平成712月に催した研究集会において、研究活動期問の3年は出版費が保証され、20名というこの科研メンバーの量とグループの伝統及びその質の高さを鑑み、本格的にやったらどうか、3年後はこの雑誌での実績を積んでから改めて考えてみたらどうか、というような前向きの姿勢が打ち出された。結果として、長文の本格的な内容や、多くの翻訳などを含めた大部の雑誌となった。既に書かれたものの転載や加筆など、関係諸機関のご厚情にはここで感謝の意を表明させいただきたい。また残念ながら時間と予算の関係上、翻訳権を取っておらず、この点については今後の企画において改善を計ってゆきたいと思っている。今回は科研のメンバーを軸に院生などの協力を得た内容となったが、いずれはそうした垣根のない雑誌として企画したいとの夢を有している。多忙な中執筆していただいたこと、また編集についても大阪市立大学の院生諸氏から多くの協力を得たことを合わせお礼申し上げる次第である。水内俊雄 1996326
科研メンバー:竹内啓一(駒沢大)、野澤秀樹(九州大)、山野正彦(大阪市立大)、久武哲也(甲南大)、源昌久(淑徳大)、吉原直樹(東北大)、千葉立也(明治学院大)、成田龍一(日本女子大)、水岡不二雄(一橋大)、高木彰彦(茨城大)、神谷浩夫(金沢大)、水内俊雄(大阪市立大)、鹿松悟(明治大)、堤研二(島根大)、島津俊之(東京都立大)、遠城明雄(東北大)、中島弘二(大分大)、荒山正彦(大阪大)、丹羽弘一(富山大)、大城直樹(神戸大)、なお翻訳分担者については香川雄一(東京大・院)、岩瀬寛之(金沢大・院)、柴田紀子(金沢大・院)、佐藤真江(富山大・院)

あの頃のこと-「謎の人」の回願録- (地理学教室 50年記念誌)

丹羽 弘一
入学して、いきなり4年間のドロップアウト。これはもう大学なんてところは私には合ってない。さっさとけじめをつけてやめてしまおうと学生部に赴いたところが、あと一年ある(休学期間が一年あるため)からがんばってみなさいと説得される。
 私を説得してくださった事務官がどなたであるのか、それどころか女性であったのか男性であったのか、不義理な私はそれさえも覚えていない。ともあれ説得に応じてしまった私は2年分の語学の単位を1年間で修得せねばならなくなった。英語はともかくとして、第二外国語としてとったドイツ語については、グラマーをいちから教わりながらリーダーの授業も受けねばならない。小・中・高等学校を通じて、とても優等生といえるような学生ではなかったけれど、あれほどまでに劣等生気分を昧わったこともいままでになかったかと思う。
 しかし専門課程になんとかあがらなければという意識よりも、いま手にしている文章が読めないがゆえに教官からぶちぶちいわれる悔しさから、私はほぼ授業を無視しグラマーの学習を勝手に進めていった。しかし、成果というものは出るものなのである。はじめは火星語とでもしか思えなかったドイツ語が、どんどん読めるようになうてゆく。これは私にとってはまさに、「学ぶ」ということの楽しさを発見する過程であった。
 このような事情は、今から思えば専門の講義を受けるようになっても、とりわけ学門的な問題について、先生のいうことを聞かないという不埒かつ厄介な地理学徒となってしまった理由のひとつでもあると考えられる。いずれにせよかの1年間は、その後の私の進路を決定するにあたって決定的に重要な1年であった。なにはともあれ、かくして「謎の人」は地理学教室に姿をあらわすのである。

 その後の学部生としての2年間、以前は大学というものをなめきっていた私にとっては、様々なことが新鮮であった。各地への巡検や、校舎の屋上から眺めるPL教団の花火大会。特に今でも覚えているのは、たしか4回生のときの銀杏祭であったかと思うが、教室でラーメン屋を出店したときのことである。中華料理屋でバイトする学友が麺を仕入れ、生協を通じてどでかい寸胴なべを借り、自分の部屋でスープと焼き豚を作った。飼い猫から鳥ガラを死守するのに苦労し大変な作業ではあったが、なかなかの好評であり、銀杏祭の歴史に記されるべき模擬店ではなかったかと今でも自負している。
 またけったいにも迷感なことであったであろうことは、「先輩」たちとの関係である。私にとっては「先輩」は「先輩」である。しかしむこうにとってはかなり年上の「後輩」に対し、どういう態度でのぞんだものかさぞやもてあましたに違いない。学習面についても先生方にはどう思われていたか存じ上げないが、専門過程に上がる前の1年聞の勢いもあり、かなり懸命に勉強したと思う。
 地理学の何たるかなどまだわかってもいなかったが、ただ貪欲に本を読みあさった。しかし同時にそれは私にとっては、生意気にも日本の地理学の限界を感じさせられる過程でもあった。特に卒業論文を書くにあたって私が関心を寄せていた事態、たとえばホームレスに対する排除や都市における支配―監視surveillanceの問題(むろんそのころはそんなむずかしい言葉で考えてはいなかったが)について参考にすべき業績が、当時まだ日本の地理学界においてはほとんど見当たらなかった。
 学部時代の2年間で語学以外の教養および専門課程の単位をそろえ、おまけに卒論も書かねばならなかったために、就職活動などてんで頭になかったということが、私を大学院に進学しようと思わしめたことはたしかである。しかし学ぶことの楽しさに味をしめてしまったことと、それゆえに気にかかって仕方がない現実の事態を、地理学というものの見かたからどうしても読み解いていきたいという思いをもっていたこともまたその理由のひとつである。

 そういうわけで私は進学を志したのだが、稚拙でつたなく、とてもじゃないが地理学の論文とは思ってもらえないような卒論(アンリ・ルフェーブルの議論を地理学的諸問題に援用することを試みたものである。今でこそ彼の業績は、ハーヴェイ、ソジャらによる紹介によって、日本においても地理学者のみならず、多くの社会科学者によって再評価されるところのものとなったが、当時はまだ「過去の人」でしかなかった。そういう意味では、学部生の分際で彼に注目した私の「先見の明」については、私は傲慢にも自分で勝手に評価している)を書いた私をとっていただいた先生方の「教育的配慮」にはつくづく感謝せねはならない。
 かくして私は大学院に進学したわけだが、それ以降も私は様々に恵まれた研究環境におかれたことに感謝している。思い起こすことは多々あるが、なかんずくここに記しておきたいことは、同時に他大学から進学してきたふたりの優れた「先輩」、大城直樹氏(現在神戸大学)、吉田容子氏(現在摂南大学)の存在である。私が進学した当時、本教室の大学院には修士過程に私が一人、博士過程には彼/女らのみという、いわば新入生しかいないという状況であった。このふたりの「先輩」も私と同世代、正確にいえばひとつ年下であったわけだが、ほとんど最初からわけへだてなく授業もともに受け、タメロをきける関係であったように思う。研究者として育ってゆくなかで、彼/女らから受けた刺激は今までの自らの研究を省みても看過しえぬものである。またくちはばったい言い方を許していただけるならば、生涯を通じて切磋琢磨しあえるかけがえのない友人と出会えた幸運にひしひしと感謝している。現在でも大城氏とは科研における研究分担者として、吉田氏とはフェミニスト地理学にかかわる研究会を通じて交流を続けている。

 ともあれ、学部生・院生時代を通じて13年間も市大にお世話になったわけだが、こうして思い返してみるとつくづく幸せな学生生活に恵まれたものだと、地理学教室に対する感謝の気持ちにたえない。そして今こうして、一度は大学をやめようと試みたような輩が大学教官などという職に就いているのもけったいな話ではある。しかしドロップアウトしていたあの4年という時間がなければ、おそらく私はまた異なった人生を歩んでいたことであろう。それと私を無理やり説得していただいた事務官の方・・・。一度はお会いして、感謝の言葉を述べねばならないと思っている。
(平成元年卒業・平成3年修了) * 1995年金沢大学へ移動