放置される高齢・病弱者

野宿を余儀なくされている労働者が、夜露をしのぐ頼りとしていた商店などの軒先から追い立てられていると報道された(9月20日付)。それには、大阪府、市の担当課のコメントが付けられていた。両者のコメントでは、野宿者を「怠け者」扱いしていることが共通しており、互いに責任を転嫁しようとしていることでも一致していた。事実で問題の存在を示し、府、市のコメントを付けることで行政の野宿者に対する差別的なとらえ方が、問題の解決を遅らせていることを明らかにした、すぐれた報道であると思った。

だが、その記事を読んだ2、3の人に感想を聞いたところ、「府、市のコメントが一番後ろに置かれているため、それが結論のように受け取られる。読んだ人の中には、行政の言い分がもっともであり、あらためて野宿者を「怠け者」でどうしようもない存在と感じた人もいるのではないか」という声があった。思わぬ受け取り方もあるものだと驚いたが、最近でも野宿者への襲撃やイヤガラセが絶えないことを考えると、あながち杞憂(きゆう)であるとも言い切れないような気がした。

そのような心配は、翌日夕刊の素粒子「あいりんの野宿者は怠け者と役所は言いたげ。仮寝で働く意欲と体力を保てるとお考えか」を読んで吹き飛んでしまった。その上でなお、あの記事を読まれた方に、もっと理解を深めていただくために、府、市のコメントに反論を加えたいと思う。

大阪府労働部は、一年の中で割合に仕事の多い現在のあいりん地区の状態を前提にしてコメントしているが、野宿者の存在は仕事が全くといていいほど無くなる4月から7月にかけて、労働部聯なんの対策もとっていないことに原因がある。自慢げに言っている「仕事にあぶれたときの手当」というのも、2カ月間に28日働いて、3カ月目から支給されるもので、仕事の減少が2カ月、3カ月と続くと、その手当をもらえない労働者が多くなる。仕事がなく、あぶれ手当がないから野宿をする。野宿が長期花すれば、仕事が出ても働くことができない体となる。野宿者が現役復帰するために軽作業の仕事を紹介せよとの要求にも府は答えていない。

市は、市内各区の野宿者に各区福祉事務所でも生活相談が受けられることを知らせるべきだとの要求が出された時に、それは周知の事実であり、ことさらに知らせる必要はないと拒否している。実際には、野宿者の多くが福祉事務所のことを知らず、釜ヶ崎医療連や木曜夜回まわりの会がビラを配布して知らせて、ようやく相談者がふえ始めたところである。多くの高齢、病弱者がいまだに放置され続けている。

府、市に強く望みたい。あいりん地区の現地諸団体の要求を真剣に受けとめるべきだと。

大阪市 松繁、逸夫 (日雇・鉄筋工37歳)  1987年10月10日朝日新聞(大阪)手紙欄

 

「釜ヶ崎」と「あいりん」

「放置される高齢・病弱者」の見出しで、この欄に手紙を紹介していただいた(10月10日付)。その手紙の申で、素粒子の引用部分以外に、2カ所も「あいりん地区」の名称が使われていた。しかし私は、私の住む日雇い労働者の街のことを言い表すのに「あいりん地区」を使うべきではなく、「釜ヶ崎」を使うべぎだと言い続けている。

たぶん係の方が、拙文を少しでも読みよいものにしようとの善意で、「あいりん地区」に統一されたものと思う。だが、名称の使い方一つにしても、使うものの立場をあらわすものである。朝日新聞連続襲撃事件以来、関心の高まっている「言論の自由」は、それぞれの立場の尊重があってのことだと思う。画一的な用語の統一は、それを損なうものではあるまいか。

そもそも「あいりん地区」という名称は、1966年(昭和41年)6月15日、大阪府公安委員会と西成対策三者速絡会議(府、、市、府警)が、同時に「釜ヶ崎」を「あいりん」と呼び変えることを決議したのを受けて、マスコミでも使われるようになったものである。きっかけはその年の5月におきた、61年(昭和36年)8月以降5度目とされる「暴動」である。

それまで「暴動」のたびに対策が検討、立案された。5度目の「暴動」の後も、それまで同様に対策が取りさたされたが、国・府・市が抜本的対策をとらないことが改めて明確になったにすぎなかった。それゆえに、釜ヶ崎の諸問題を治安問題に切り縮め、「暴動」を警察の力で抑え込むことが即座に実行できる唯一の対策として浮かび上がることとなった。警察の力で「問題」を抑え込む決意を示すために、名称の変更が持ち出されたのである。この経緯からして、「あいりん地区」というのは、差別・抑圧の名称ということができると思う。

一方「釜ヶ崎」というのは、今のJR新今宮駅の南北に存在した今宮村の字名の一つであった。今宮村の関西線北側は、大阪市の市域拡張で南区に編入され、釜ヶ崎の北部分も、1900年(明治33年)、水渡りの地名と併さって水崎町と改称された。今宮村に残った釜ヶ崎の南部分は、今宮村が今宮町となった後、1922年(大正11年)に、甲岸・東入船、西入船と分割・改称され、この時から「釜ヶ崎」は「地図にない街」となった。だが、「釜ヶ崎」は、「あいりん地区」のように意図的につくられたものではなく、実在した地名であることは確かだ。

「釜ヶ崎」も差別名称であるとする意見もある。確かに釜ヶ崎の労働者に対する差別は存在する。その差別は、単に名称を改めることでなくなるものではなく、差別される側の諸問題が解決し、差別する側が変わってこそなくなるものである。「あいりん地区」との対比でいえば、その実現の日まで「釜ヶ崎」は使われ続けるべきだと考える。

大阪市 松繁、逸夫 (日雇・鉄筋工37歳)  1987年10月28日朝日新聞(大阪)手紙欄