@反失業闘争と我々の未来93〜94年越冬)
 

 もう多くの仲間が知っているように、釜ケ崎では「反失業闘争」が、大阪府・市を相手に粘り強く続けられている。仕事がなく、多くの仲間が野宿を強いられ、路上での死に追いやられている現状から、必然的になされるべくしてなされている闘争であることは、みんなに確認するまでもなく、よく理解されていることと思う。

 しかし、中には、「そんなことしても無駄だ」とアキラメたり、「ワシは今の仕事に就けてるから」と他人ごとのように考えている仲間もいる。

 確かに、労働者の街に仕事が不足しているから、仕事を出せという、しごく当然の要求でありながら、要求が受け入れられる日が中々見えないもどかしさはあるだろう。事実、先が見えたとは断言できない。

 だが、闘争を、やめる、わけにはいかない。

 なぜなら、我々(全釜ケ崎日雇労働者)の現在の生活だけでなく、10年後、20年後の未来がかかっているからである。

 仲間たち、アナタは、5年後、10年後、20年後の大晦日をどのように迎えるか、想像できるだろうか。
 

A反失業闘争は誰のものか

 

 仲間たち、アナタは、5年後、10年後、20年後の大晦日をどのように迎えるか、想像できるだろうか。

 「田舎に帰ってる」、「息子(娘)のとこへ行く」と言えるのは、極々少数で、「そんな心配は無用、ワシャもう死ンどる」、とか「青カンしてるやろな」という声の方が多いのが、釜ケ崎の現実ではなかろうか。

 正月を前に、暗い話だが、人は誰しも歳をとる。10年たてば、50歳は60歳になっているわけだ。

 反失業闘争は、「高齢者」の仕事確保を第一獲得目標としている。この課題は、今、現に高齢である仲間だけのものではなく、いまは「高齢」ではない仲間の、明日の課題を先取りしているものでもあるわけだ。

 1963年から1965年にかけてのセンター登録労働者の平均年令は33.9歳だったという。1979年のモチ代受給者の平均年令は44.7歳。1989年あいりん職安の白手帳持ちの平均年令は46.4歳。1993年1月の白手帳持ちの平均年齢は52.8歳。

 個々人の話でなく、釜ケ崎日雇労働者全体の層としての話としても、「高齢化」は切実な問題である。

 

B反失業闘争と建設労働の動向

 

 総務庁「労働力調査」によると、1992年(昨年)平均の建設業就業者は619万人で前年より15万人増加し、年平均で過去最高となった。その形態別内訳は自営業主91万人、自営業主の家族従業者31万人、雇用者497万人であった。雇用者の内訳では常雇が441万人(前年に比べ21万人増)、臨時・日雇が55万人(前年に比べ4万人減)であった。この結果、雇用者に占める臨時・日雇の比率は11.1パーセント(前年に比べ1.2ポイント減)と過去最低記録を記録した。――建設白書平成5年版――

 どうも読みとりにくい数字ではあるが、全体としての建設業で働く人間は増えたが、臨時・日雇で働く人間と自営業主及びその家族従業者は減少したということのようだ。「建設活動の動向」では、「公共工事は経済対策もあり堅調に推移し、住宅建設も回復傾向にあったが、事務所等民間設備投資に関係する工事が低迷したことから、全体として低迷した。」と記されている。

 業界の動向に関係なく、日雇労働者が切り捨てられる時代になった、とは言えるのではないか。

 

C反失業闘争と労働権

 

 労働の能力あり、その意志をも有しながら、いささかも労働の機会を見出し得ざるものが労働の機会を要求する所の社会的権利を言う。――略――

 19世紀の末葉に至ってドイツの宰相ビスマルクは帝国議会における演説中、「労働者壮健なる限りこれに労働を与えよ。その病む時は療養を確保せよ。その老いたる時は給養を確保せよ。」と主張し、これらの要求は近世国家の根本主義として認むべき所であると説いた。

 壮健なる労働者が働かんと欲して仕事を見出し得ないといふ場合、これに労働の機会を与えるのは、現代経済組織の欠陥を補う一手段として、かかる経済組織を維持存続せしめんとする近世国家の当然の任務であろう。――1928(昭和3)年春秋社発行・大思想エンサイクロペヂア・第30巻・社会辞典――

 資本主義社会は必然的に失業者を産みだすという欠陥を持っている。にも関わらず、国家・国民が資本主義社会を選択し続けるのであれば、失業者に職に就く機会を与えるのは当然、という考え方は、実に古くからある。反失業闘争の正当性は、社会的に保障されたものである

 

D反失業闘争と「雇用・失業対策」

 

 労働力流動化政策 炭鉱離職者・駐留軍労務者に対してはじめられた広域職業紹介は、さらに若年労働力不足を基調として、大企業の新規学卒者に対する求人開拓を生み、さらに失業保険の運営をきびしくしたり、制度改正を行ったりして、出稼ぎ労働者や結婚退職の女子に対する失業保険給付をせばめていった。他方、雇用促進事業団の業務拡充や職業訓練法の改正を通して、広域職業紹介を受けたり、職業訓練を受けたりする者に対し、就職支度金や職業訓練手当その他の失業保険等の諸給付が支給されることになり、港湾労働法による日雇労働者対策を経て、1965年の雇用対策法によって、ようやく、雇用対策の法体系を形式的にととのえた。

 しかし、それらが、労働需要側の要請を考慮した労働力流動化政策を基調としたものであったことは、万博工事終了後の阪神日雇労働者の失業増大を皮切りに、ドル・ショック以降の不況ムードの経済情勢下の雇用・失業対策を深刻にさせ、1974年12月には雇用保険法が制定された。(社会保障法第3版・有斐閣双書・初版は1972年、版を重ねているがこの部分に手入れ無し?

 

E反失業闘争と釜ヶ崎の「制度化」

 

 釜ヶ崎を労働市場としての「制度化」に導いた行政制度は、労働行政でも建設行政でも、その後の20年間は細かな改善の裏で進む全般の空洞化の一途であった。港湾労働法に倣って要求されていた「建設労働法」は、全く骨抜きにされた内容で76年「建設労働者の雇用の改善に関する法律」として施行される。センター求人業者がほぼ雇用保険に加入した頃合を見計らって、「就労申告書」制度が廃止されたが、その後雇用保険印紙を持たない新しい業者が増えてきている。雇用保険手帳を持てない、失業給付の資格が取れない労働者が釜ヶ崎労働者の半数を超えてきている。「一時金制度」も業界が負担し他の労働者と比較しうる一時金の実現にむかうよりも、行政担当者の議論は、生活保護世帯への夏冬の「見舞金」に比する色合いが強く感じられるようになっている

 実質的には休業手当ても一時金も退職金も無く、被用者年金からは制度的に排除されているのが、釜ケ崎日雇労働者の「制度化」された待遇である。(片田幹雄「高度成長期の釜ケ崎―労働市場としての『制度化』の視点から・社会評論第93号94年1月1日」

 

F反失業闘争と大阪市の職業紹介事業

 

 職業紹介事業は、古来桂庵又は口入業の名の下に民間の営利事業として行われたが、大阪市はつとにこの種の弊を除くと共に労務の需給を調節し、且つ雇用条件を改善する目的を以て職業紹介の公営を企画しつつあった。時あたかも世界大戦の余波はわが国をも襲い、大阪市にはいちぢるしい失業者を出すに至ったので、大正8年2月西区九条に職業紹介所を創設した。

 引き続き同年中に中央職業紹介所の外9ヶ所の簡易な紹介所を開設したが、大正10年職業紹介法の公布にともない、紹介所の組織に改善を加えると共に、配置を整備し且つその取り扱い範囲を専門化した。――略――

 なほ各職業紹介所においては、せっかく求人者を得ても、身元保証人たるべき知人のないため、就職し得ない求職者があるので、そのため保証人に代わるべき信用共済施設を起し、更に就職者の失業および疾病に備えるために、失業保険及び健康共済施設を行うなど、もっぱら求職者および就職者の福利増進を期している。――大阪市政・昭和11年・発行大阪市役所――

 

G反失業闘争と大阪市労働紹介所

 

 日雇労働者の紹介が、その性質上職業紹介所においてなし難い事情にあるので、特に分離して労働者の紹介を専門化した。これがため大正8年9月今宮紹介所、同年10月京橋紹介所を、翌9年9月築港紹介所を設置した。その後地方農村の疲弊にともない、農村労働者および朝鮮人労働者の来往が増加し、益々本施設の需要性を高めるにいたったので、昭和5年以来ざんじこれが増設を行い、現在は6ヶ所となった。

 なほ各労働紹介所においては、就労者のために労銀を立替えて中間利得者の介在を防止し、且つ傷害共済施設を講じて福利増進を期しつつある。

労働紹介所

今宮 西成区東入舟町

    昭和10年実績

         求職者数  498,409人

         求人数   478,970人

         紹介数   473,134人

*ちなみにセンター把握の1992年度現金求人数は、1,034,036人であった。

 

H反失業闘争と日雇労働者失業応急事業

 

 不況の激甚なる社会情勢が、労働紹介所の総動員とその大活躍とを以てしても、到底簇生(そうせい)する失業労働者を消化し得ないため、これらの失業群を救済する目的を以て、大正14年政府の奨励により、6大都市及び大阪府の7団体が、国庫より労力費の半額補助を受けて諸種の土木工事を起工して、日雇労働者の失業救済を始めた。その後施行時期、施行地域、救済の対象、事業範囲等の拡張等が行われて、今日の失業応急事業となつたのである。大阪市においても政府の方針にそうべく、国庫より補助を受けて、大正14年第1回失業救済土木事業の起工以来、道路修築、街路舗装、河川改修、橋梁改築、公園建設、水路浚渫(しゅんせつ)等の工事施行に回を重ねること19回に及んだ。又昭和4年度以降実施した第一次及び第二次高速鉄道建設、葬儀所設置及び整理、都市計画下水処理及び都市計画第3期下水道の五事業については、国庫より失業救済事業としての補助は受けないが、その執行にあたっては努めて失業者を使役して救済に資した。――略――昭和10年中に於いては、12万2千600余人に就労の機会を与えている。

 

I反失業闘争とナベ底不況 @

 

 (昭和)32年5月頃を境としていわゆる神武景気から一転デフレ基調に転じたわが国の経済が、33年の半ばを過ぎた現在なお「ナベ底不況」と呼ばれる停滞の渦中にある――略――このため一般労働市場でも失業保険受給者の激増、求人・求職状況の悪化、とくに明年度新規学卒者に対する求人の手控え、日雇労働者の増加、民間求人の減少などの傾向がさらに強まるものとみている。――略――デフレの風当たりが最も強く、デフレ長期化に伴ってはっきり減少傾向を強めているのは臨時日雇雇用である。――略――

 以上のことは、神武景気の過程で、急速な拡大をみせた臨時的雇用が、デフレへの転換に伴って、まず整理の対象となったこと、そしてそれが、33年に入っていっそう激しくなり、いまや常用雇用減少の段階に入ってきつつあることを示すものであろう。――略――わが国には、経済の好不況にかかわらず構造的に存在し、労働市場に重圧を加えつつある膨大な層――未就業・既就業を含めた不完全就業者ないし潜在失業者群があり、雇用政策或は社会保障政策のうえで重要な問題となっている。

 

J反失業闘争とナベ底不況 A

 

 (昭和)32年11月雇用審議会の答申中の当面の施策は、経済政策の遂行に当たり、道路、住宅建設等の公共事業による雇用機会の造出に可及的な努力を払うとともに、次の諸施策を強力に進めることが必要と述べている。

 @失業発生の防止――イ・超過労働時間の短縮、ロ・中小企業の下請代金支払遅延防止。

 A失業対策――イ・4人以下の事業場に対する失業保険制度の適用、ロ・失業対策諸事業の改善、ハ・駐留軍離職者対策。

 B職業安定機関の強化――イ・機能の向上、ロ・機構の再検討。

 Cその他の措置――イ・職業訓練制度、ロ、最低賃金制度、ハ・海外移住など。

 失業対策事業の改善については、失業者が建設的な技能労働に従事できるよう特別失対事業の吸収量を増加させる従来の方策を踏襲するほか、事業の管理組織の確立による知識層の吸収を挙げている。――昭和三四年版・労働年鑑・桂労働関係研究所編――

 

K反失業闘争とナベ底不況 B

 

 失業対策事業は緊急失業対策法に基づいて労働省の失業対策部が主管し、職業紹介、職業訓練、失業保険などの間接的失業対策に対し、公共事業とともに直接的雇用失業対策と名付けられるもので、――略――特に日雇労働市場に占める比重の大きさは7年間で通算して65.6パーセントで、現在は70パーセント以上に及んでいる。――略――33年度は今後予想される失業情勢に即応して予算が増額され、一般失対が2万5千増の21万2千人、特別失対で前年通りとなっている。

 この外、臨時就労対策事業費として建設省所管の下に前年通りの74億円(吸収人員2万)が計上、実施されている。さらに、31年度から呉、築豊両地区に始まった失業者多発地域対策は、32年度には16地域に拡大され、公共事業等の建設的事業に重点的に実施し、これにより一日平均1万300名の失業者を吸収している。――昭和三四年版・労働年鑑・桂労働関係研究所編――

 失業は社会生活を維持するために、一国の経済を維持するために、その解消がはかられる。高齢化社会に向けて、質の違う就労対策が要請されているのだ。

 

学習会・差別と闘う 

本日、夜6時半から市民館で

 仲間たち、釜ヶ崎の反失業闘争、就労・生活保障制度を実現させるための闘いが、年を超えて継続されている。しかし、この闘いはそんなに目新しいものではない。10年、20年前から求め続けられていたものである。にも関わらず、幾らかの成果はこれまでにもあったものの、根本的解決にはいたっていない。その原因は一つではないが、原因として考えられるものの中に、釜ヶ崎に対する差別がある。大阪府や大阪市の役人、議員そして多くの市民の中に、「釜ヶ崎の労働者はどうしょうもない もので、自分勝手だから、対策を本腰入れて考えなくてもよい。路上死は自業自得だ」とする偏見・差別がある。反失業の闘いは、反差別の闘いでもある。

 であるにもかかわらず、釜ヶ崎労働者の中にも、他に対する差別意識がある。そのことが、釜ヶ崎の闘いを弱めることになっている。今日は「部落差別」について共に考え、「部落解放闘争」から学ぼう。

 差別者が反差別闘争の側面を持つ反失業闘争を闘い、勝ち抜くことはできない。学習会に参加を!

 

L反失業闘争と「あいりん職安南分庁舎」

 

 「あいりん職安南分庁舎」は、当初大正8年9月浪速区宮津町(現戎本町)今宮共同宿泊所内に施設今宮労働紹介所として設置されたのにはじまり、ついで同11年4月今宮職業紹介所と合併し、その労働紹介部として昭和3年4月より東入舟町で日雇労働を専門に取り扱っていた。

 そして昭和11年12月旭南通5丁目に移転、西成労働紹介所と改称したが、昭和13年7月1日職業紹介は国営に移管されることとなった。その後名称はしばしば変わったが、20年10月には甲岸町、25年現在位置の東萩町に移転、阿倍野職業安定所西成労働出張所となり、さらに41年4月1日から大阪港労働公共職業安定所西成出張所となっている。     ――1968年・西成区史・発行西成区役所――