●寄せ場に生きる人々

 

釜ケ崎・野宿者・死に追いやる差別

−寄せ場差別の情況を釜ケ崎中心に報告−     松繁逸夫

 

1「寄せ場・日雇」に対する差別の存在

 

釜ケ崎は大阪・西成区にある日本最大の日雇労働者の街である。円高不況の今日、労働者の人口が、1970年に開催された万国博覧会準備期間の5年間に5,000人急増したのを上回る勢いで増え続けている。日雇雇用保険被保険者手帳を持つものは、1983年3月末の15,000人から86年7月末の23,000人へと、わずか3年のうちに8,000人も増えた。

釜ケ崎の日雇労働者のほとんどが40歳半ばを越えている男の単身労働者であり、近畿圏を中心とし、全国いたるところの建設・土木の工事現場や工場内で肉体労働に従事している。まさに、自らの血と汗で稼いで生活を送っているのだが、釜ケ崎に来たことを、自嘲気味に「落ちて来た」と表現する労働者もいる。

釜ケ崎に対する差別が、労働者の上に影を落とし、捕われている側面である。

労働者をともすれば自暴自棄に落ち入らせる釜ケ崎に対する差別は、様々な事象となって現われる。

たとえば、釜ケ崎の日雇労働者を仕事現場に送り込む職安法違反の人夫出し『業者』が、飯場(最近は寄宿舎・寮などと呼ぶところもある)を新築しようとしたところ、周辺住民が、「町のスラム化につながる独身労務者専用宿舎建築反対」と運動を起こしている。

「釜ケ崎の『労務者』は、妻子という重しがなく、不安定な生活を送る人が多いので、その場その場の気分で行動する何をしでかすか判らない存在で、『前科者』も多い。そのような人が多勢住むようになったら、安心して生活ができなくなる」というのが、反対運動をおこなっている人達の言い分であった。

釜ケ崎に対する差別感の典型がここにある。そして、このような差別はまた、釜ケ崎だけではなく、山谷、寿など全国の寄せ場日雇いをも取り巻くものである。

「寄せ場」という言葉は、池波正太郎氏の小説『鬼平犯科帳』でよく知られている江戸幕府の火付盗賊改め役長谷川平蔵が始めた「人足寄場」から連なるものである。「人足寄場」は、時の為政者が人に足らざるものと判断した人々(無罪之無宿、入墨.敲き刑を受けた引渡遣すへき方無之無宿)を強制収容した授産場であるが、明治政府に受け継がれて石川島徒場となり、現在もヤクザなどが刑務所のことをヨセバと呼ぶもととなった。

それゆえに、「寄せ場」という言葉は、江戸から続く為政者のつくった無宿=住所不定者、人足=肉体労働者に対する偏見・差別をも引きずっているものであり、「人足寄場」のつくられたイメージが、今の釜ケ崎や山谷などの「寄せ場日雇い」の上に覆い被せられているのである。先の飯場建築反対運動をおこなっている人の言葉が、それを立証している。

「寄せ場日雇い」に対する差別は、生活・労働・医療・行政など多様な面で現われている。

しかし、今もっとも強く、生命をも奪うものとして現われているのは、野宿を余儀なくされている労働者に対するものである。

横浜・寿の日雇労働者襲撃事件のような野宿を余儀なくされている労働者への襲撃事件は、山谷においても、釜ケ崎においても起こっている。少年達による襲撃だけでなく、警察は「犯罪人」扱いし、野宿をしているだけで指紋採取したり(東京・新宿、大阪・南)、軽犯罪法や鉄道営業法をたてに逮捕したり(国鉄京都駅や京都・円山公園)、街ぐるみで追い立てようと策動(大阪・南区住所不定者問題対策連絡協議会、東京・墨中地区育成委員会主催隅田公園等環境対策会議など)している。

とりわけ山谷においては、佐藤満夫さんが刺殺され、山岡強一さんが射殺されながらも、天皇主義右翼=国粋会金町一家との熾烈な闘いが継続されており、寄せ場差別を動員しての警察、地元住民などの闘争つぶしも激化している。本来ならば、山谷の局面を中心にして報告がなされるぺきであるが、釜ケ崎にいる私が、間接的なかたちで報告することは差し控えたいと思う。

ここでは、釜ケ崎の野宿を余儀なくされている労働者を取り巻く情況を中心に報告するにとどめるが、大なり小なり、全国の各寄せ場に共通するものとして読み取っていただきたいと思う。

 

2 エアガンを持つ少年が襲う

 

1986年10月13日、釜ケ崎の近くにある四天王寺境内で野宿をしていた労働者が襲われた。新聞を読んでいたので、あらかじめ61歳であることは知っていたが、とてもそうは見受けられなかった。目の上やアゴのあたり、耳の後など、6〜7ヵ所にわたって3センチ四方のガーゼが貼り付けられていて、顔の半分近くが隠されていたせいかも知れない。目を細め頬を弛ませて口数少なく微笑んで座っている顔は、いって見れば恵比須様に似ていると思った。

ただ、両ピザをついて上半身を起こし、右腕で目をかばう姿勢をとり、「何をするんだ」と怒鳴ったんだと、エアガソで撃たれた時のことを再現してくれたその声は、太く、大きく、怒りが伝わってきた。

傍でYさんが、「その時、わしは、逃げろって叫んだんだ、ダンボールで身体を隠しながら。そしたら、わしの方にも2、3発撃ってきた。一人はこう、よく西部劇であるように、両腕を伸ばして構えて撃っていた。一人は腰のあたりに銃を持って撃っていた。もう一人いたが、ちょっと離れたところに立っているだけだったようだ」と、無口なSさんにかわって説明をしてくれた。

1986年10月13日夜、大阪・四天王寺境内の五重の塔を囲む回廊の軒下の石畳の上で野宿をしていた労働者数人が、エアガソを持つ中・高校生によって襲われた。Sさんはその時もっとも多く少年達によって撃たれ、YさんはSさんとの間に一人はさんだ隣に寝ていたのだった。

能弁なYさんの説明は続く。「あいつらは銃の威力をよく判っていてやったんやで、猫やなんかを撃ったことがあるにちがいない。顔ばかり狙って撃ってきたんやから。

Sさんの傍に寄って、手をついてのぞき込んだら、なんかヌルッとするんや、油かいなと思ってよく見ると、これが血やったんや」

少年たちが襲撃に使ったエアガソのうち一丁は、プラスチックの銃身を鉄のパイプに取り替え、口径も小さくして空気銃なみの威力があったと後に報道された。

その改造されたエアガンから発射されたプラスチックの弾は、Sさんの顔の皮膚を破り、肉にめり込んでいた。

そうなのだ。襲われてから三日後の今、真昼の天王寺公園入口の植え込みの中で相対して座っているSさんの顔からは血は滴っていず、外れかかった一つのガーゼの下からは血がこびり付いているくぼんだ傷しか見えないが、撃たれた時には、そのガーゼの下の一つひとつの傷から、真っ赤な血が流れ出ていたはずなのだ。

同様の事が、三ヵ月前の東京でも起こっている。中学生を含む少年達が、新宿の西戸山公園で野宿していた労働者を、二度にわたり、花火を打ちかけ、石を投げるなどして襲い、1人を失明させ、2人に重軽傷を負わせたのだ。

野宿を余儀なくされる労働者に対するこのような襲撃事件は、実際には警察が被害者からの届けを受け付け、マス・メディアが取り上げて社会の明るみに出るものの何百倍もの件数にのぼり、おびただしい労働者の血が、公園の土や歩道のコソクリートの上などで流されている。

四天王寺境内で襲撃されたYさんは言う。「わしらが寝ていたのとは反対の方で襲われた仲間が、わしらの方に様子を見にやってきて、どうすると聞いてきた。今までの皆の経験から、警察に行っても、どうにもならんだろうというのだ。だけどもわしは、腹にすえかねたから、境内の外にある公衆電話を使って警察に知らせたんや」

四天王寺境内での襲撃事件は、エアガソという“武器”の目新しさがあったためか、警察が取り上げ、マス・メディアにも大きくのることになった。しかし、襲撃された被害者たちが、警察に被害を届けることの有効性を相談しなければならない情況が日常的に存在していることも事実である。

 

3 多発していた襲撃事件

 

1983年2月に、横浜・寿町近辺の国鉄関内駅北口地下街通路や山下公園などで、野宿を余儀なくされていた日雇労働者が、少年たちの“風太郎(プータロウ)狩り”にさらされていたこと、その襲撃によって、2名が殴り殺され、多数が重軽傷を負わされていたことが明らかにされた。

釜ケ崎においては、その事を他所事として考えるのではなく、怒りを寿の日雇労働者と共有するとともに、釜ケ崎の日雇労働者の上にも襲いかかっているだろうことの一つの事例として受けとめられ、大阪における野宿者に対する襲撃事件を把握し対策を打ち出すために、釜ケ崎日雇労働組合(全国日雇労働組合協議会釜ケ崎支部)によって、野宿を余儀なくされている労働者からの聞き取り調査がおこなわれた。

83年3月9日の夜9時から11時までの2時間、天王寺公園周辺、ナソバ、ウメダなどの繁華街で、野宿を余儀なくされていた労働者58人からの聞き取りの結果、暴行を受けたことがあると答えたものが15人、友達から被害を聞いたことがあるもの7人が明らかになった。具体的には、「中学生ぐらいの4人グループが、こじき、こじきと言ってレソガや石をぶつける」「一ヵ月ぐらい前、中津の方で、自転車に乗ってきた中学生3人に殴られた」「日本橋にいた時に、中学生にミカンを投げられた。聞いた話では、友人らが7人位で寝ていたら、中学生が10人以上来て全員が殴られたそうだ。日本橋でやられた人は入院したと聞いている」などの被害が確認された。

この調査は、襲撃事件が多数潜在しており、警察の事件受け付け拒否やマス・メディアの「そんなことはニュースではない」とする姿勢(野宿者に対する差別視)によって、明るみに出なかったにすぎないことを立証したが、だからゆえに、四天王寺境内での被害者たちもまた警察に届けることの無駄を思い、ちゅうちょせざるを得なかったのである。

繁華街で野宿を余儀なくされている労働者からの聞き取り調査は、潜在していた襲撃事件を明るみに引き出しただけではなく、釜ケ崎の日雇労働者の運動にとって、新たな課題をつきつけるものともなった。

ウメダやナンバで聞き取りをした労働者たちは、労働災害の後遺症で働けなくなったり、仕事の減少期に持ち金がつきたあげくに野宿を始めたと、野宿の理由を語った。調査によって明らかになったのは、潜在していた襲撃事件だけではなく、繁華街で野宿を強いられている人々の大半が、実は高齢、病弱、あるいは就労難のために、釜ケ崎から選別・排除された釜ケ崎の労働者であることをも明らかにしたのである。もちろん、それは、釜ケ崎で生きる者にとっては周知のことではあった。しかし、一時期に、広範囲にわたって野宿を余儀なくされている労働者を把握したことは、個々別の野宿者としてではなく、層としての野宿労働者を認識させることになり、現役日雇労働者層との密接な関係を浮き出させ、もはや、地域として釜ケ崎の外のことであるとして放置し続けることができない課題として再獲得されることになったのである。

私自身について言えば、「仲間から一人の死者もだすな」を主要な獲得目標として闘われた72〜73年越冬闘争へ初めて参加して以後、そう積極的であったわけではないが、『労務者渡世』編集委員会への参加をとおして釜ケ崎との関わりを持ち始め、77年に長女が生まれたのを機に、釜ケ崎労働者生協の軒下を早朝だけ借りて、露店営業の「御握り屋」をするために釜ケ崎に移り住み、そして、今は日雇いの鉄筋工をしながら、毎週金曜日にビラを配って「夜間学校」を仲間たちと一緒に続けている。そういった生活を送る中で、テントの張られた公園で、あるいは夜間のパトロールで、また「御握り屋」の客として、「夜間学校」に参加する仲間として、野宿を余儀なくされる労働者と話をする機会が多くあった。釜ケ崎と野宿、現役日雇労働者層と野宿を余儀なくされる層とはまったく別な存在ではなく、野宿を余儀なくされている労働者も、仕事が増える時期になれば、再び現役層に復帰するものが多いことは、体験的によく知っていた。だが、83年の暴行被害調査に加わるまでは、ウメダ、ナソバなどで野宿をしている人達と直接話をしたことはなく、やや遠い存在と感じていた。

しかし、人通りの多い地下鉄西梅田駅周辺や国鉄大阪駅、ナソバの地下街などで「こんばんは」と声をかけて、ダンボールを敷いて寝ている人、あるいは座っている人の傍にしゃがみ込んで、「10年来、京都の飯場に居たが、仕事がなくなって若い者ですら三日に一度くらいしか仕事に行けない状態の時に、年をとってるから遠慮して出て来た」。あるいは「現場で足の上に鋼管を落としたが、たいしたことはないと届けずに帰ったところ、翌日から痛くて仕事に行けなくなり、青カンしている」といった話を聞き、ただ話を聞いただけなのに「有難う」「ご苦労様」とねぎらわれるという体験をしてからは、釜ケ崎が、ウメダやナンバにあると実感するようになった。

 

4 警察による人権侵害(指紋押捺強制)

 

83年の暴行被害調査はまた、聞き取りをした側だけではなく、聞き取りをされた側にも変化をもたらした。野宿を余儀なくされている労働者が、野宿をしていて抱える様々な問題について、釜日労の事務所まで相談にくるようになったのである。

野宿労働者に対する暴行事件の聞き取り調査をしてちょうど二ヵ月目の5月9日、一人の労働者が、昨晩、南区で寝ているところを起こされて指紋を採られたが納得できないので相談に来たと、釜日労事務所を訪れたのはその一つの例である。

80年代に入ってからの釜ヶ崎は、毎年、4月から7月にかけて、まったくといっていいほど仕事がないという事態が繰り返されている。簡単にいえば、73年のオイル・ショック以後の企業防衛のための国家予算づくりー法人に対する補助金、税制面での優遇措置、景気刺激のためのやみくもな公共投資などーのために、国家財政が硬直化し、建て直しが急務とされたが、法人・企業の負担増による建て直しは、自民党の支配する政府では成し得るところではなく、結局、軍事産業に関わる予算は増大させながら、生活関連公共事業の削減、福祉予算の切り捨てという大衆にシワ寄せするかたちで支出を抑える方法がとられたためである。公共事業量総体が少ないために、業者は落札しても工事を急がず、4月から7月にかけては、もっぱら社内でのデスクワークに集中し、釜ケ崎の日雇労働者が働く現場に仕事が降りてこないからだ。

83年5月も、釜ケ崎にはほとんど仕事がなく、私もまた仕事からアブレる毎日が続き、ヒマを持てあまして釜日労の事務所に居ることが多かった。そこへ、やはりアプレ続きで、やむなく野宿をしていたKさんが相談に来たのだった。

5月8日午前1時頃、ミナミの繁華街の東端を南北に走る堺筋と道頓堀川が交差する北西のビルの谷間で野宿していたKさんは、突然、5人の男達に起こされる。暗がりであったので、ガードマンか警察官かよく判らなかった。だが、本籍・氏名などを聞いてくるので職務質問だろうと思って答えたところ、それらを記入した用紙の一番下の欄に指印してくれと言われ、黒のスタソプ台に左手の人差し指を付け、指印させられた。それだけではなく、ワラ半紙を細長く二つに切ったものに、氏名、生年月日、整理上のものと思われる記号と番号を記入した上で、胸の前に持たされ、上半身の写真をとられた。

「夜中に突然のことでもあったので、相手の言いなりになってしまったが、後で考えると、なぜ、あんな目にあわされなければならないのかと腹が立ってきた。本当にあれは警官だったのだろうか。警官ならあんなことをしてもいいものだろうか。それを教えてもらいたくて来ました」

相談を受けたものの、深夜に警官がおこなったことであるとすれば、事実確認や、何を根拠にそのようなことをしたのかを知ることは、非常に困難なことであるように思えた。Kさんの話を聞いて、警官のおこなったことが、不法・不当なことであることは確からしく思えたので、警察に問い合わせても、警察はその出来事自体を否定するだろうとも考えた。

「警察も、青カンしているだけで犯罪者扱いするからな。本当はそんなこと出来ないはずなのに、ともかく追い散らそうとして嫌がらせしてるんやろ」と、答えるのが、その時は精一杯だった。Kさんはそれでは納得せず、仕事がある時には野宿をしたことがなかったこと、たまたま仕事につけない日が続き、仕方なしに野宿をしていたのに、犯罪人扱いされたことはどうしても納得できない。本当に警官がしたことかどうか確かめて欲しいと熱心に言った。よしんば罪を犯したものであっても、人権は尊重され、処遇されなければならないことは明らかだ。

Kさんの熱意に動かされて、無駄とは思いながら、南警察署へ電話することにした。

組合名と名前を名乗り、Kさんから聞いたことを伝えて事情を聞きたいと、防犯係へ受付けから電話を回してもらったのだが、防犯の担当ではなく警邏課の担当だということで再び電話を回してもらった。警邏課では二人ほど人がかわり、結局、警邏課長が出た。

「おっしゃるようなことはやっています。南署の管内には飲食店が多く、その残り物を食べに来る人も多い。中には行路病死し、身元の確認ができなくて無縁仏となる人もあるので、無縁仏となることがないように住所不定者の写真をとり、名簿をつくっている」

予想に反して、あまりにもあっさりと事実を認められ、しかも大規模におこなっていることまで告げられたので、二の句が告げない状態になったが、ようやく、「無縁仏にしたくないというのは判るが、死んだ後のことよりも、今、現に生きている人間の人権が優先されるべきだと思う。任意の形でされているのでしょうね」と突っ込んだ質問を思いついてしたところ、「一応、任意というかたちでやっているが、軽犯罪法もあり、できる限りしたくはないが、拒否されれば、署に来てもらわざるをえない」

単なる職務質問の延長としてではなく、軽犯罪法をたてにし、逮捕もありうるという答えが返ってくることもまた予想外のことであった。事態は私が“警察のイヤガラセ”と考えていたものより、もっと深刻な、保安処分的なものであったのだ。

とりあえず、野宿者も事情があって野宿を余儀なくされているのだから、犯罪者扱いすることは許されないと考える旨を伝えて電話を切った。Kさんはそのやり取りを聞いていて、やや胸のつかえが降りたようであったが、組合としては、電話だけで済ますわけにはいかない重大な問題としてとらえ、さらに多くの事例を集めることになった。

 

5 反撃と一つの成果

 

5月13日午後10時前より12時近くまで、主としてナンバ地下街虹の街や心斎橋で聞き取りをした結果、釜ケ崎で働き始めて8年、野宿10日目の人は「仕事の斡旋をするから写真をとらしてくれ」と、騙されていたり、「バタヤが集まって残パンを出さないと騒いだが、誰か知らんかと聞かれ、自分が疑われたと思った」Sさんのように、半ばおどされたりしている事例が確認された。また、心斎橋商店街ワシソトソ靴店前では、その場に寝ていた人だけでなく、周辺で寝ていた人達も狩り集められて、14〜5人が一度に指紋採取・写真撮影をされるという、どう考えても単なる任意でなしうることではないと判断せざるをえない事例も確認された。

18人からの聞き取りで、南署が野宿者に対しておこなった指紋採取・顔写真の撮影の実態が、不法なものであるばかりでなく、それでなくとも精神的・肉体的に苦痛の多い野宿を余儀なくされている労働者に対し、迫害ともいえる苦痛を加えるものであることを、誰にでも伝えられる形で把握した後、釜日労は、南署に対して抗議行動をおこなうと共に、大阪弁護士会人権擁護委員会に対して、人権侵害事件として申し立てをおこなった。

申し立ての翌年2月に、大阪弁護士会から、大阪府警察本部、大阪府公安委員会、そして南署に対して、次のような「警告書」が出された。

『1、当会の人権擁護委員会は釜ケ崎日雇労働組合からの申立てにより、南警察署が昭和58年5月8日から11日にかけて管内全域で行った「浮浪者」実態調査につき慎重に調査した結果、次の結論に達しました。

2、南警察署の調査は身元確認のため「浮浪者」に対し、本籍氏名を記載した紙を前に持たせた上半身の写真を撮影し、かつ左手一指の指紋採取をしておられます。

ところが、右の調査をするようになったいきさつは「浮浪者」による殺人事件を契機とする南区の住民の要求であったとも言っておられます。そうすると、右調査には「浮浪者」の保護、身元確認の目的だけではなく、予防検束的目的や「浮浪者」の南警察署管内からの追い出し目的があると考えられます。その場合何らの嫌疑や令状もなく、右調査によりその目的を達しようとすることは警察法第2条2項に違反する疑いがあり、「浮浪者」に対する人権侵害となると考えます。

3、又、南警察署は任意の調査であると言っておられます。

任意の承諾があったというためには、単に「浮浪者」が拒否しなかったというだけでなく、調査の趣旨目的を十分に説明し、かつ、「浮浪者」が十分その趣旨目的を理解した上で積極的に同意することが必要であります。

又、「浮浪者」にとって警察官は一人であっても威圧を感じる対象ですから、調査が深夜に亘ったり数名で取囲まれるという状況では、それのみで任意でないと推測されます。

南警察署の昭和58年5月8日から11日にかけて行われた実態調査は前項の点に配慮が欠け、説明も不十分であり、4名一組で「浮浪者」を取囲む、或は深夜午前5時ころ迄に亘るという事例が見受けられます。

当会では、積極的に拒否しないまでも右のような状況で行われた調査は「浮浪者」の任意の承諾を得たと言えず、人権侵害に該当すると判断致します。

4、したがいまして、当会はここに本件実態調査に関して南警察署の反省を促すと同時に今後このような人権侵害にわたる調査を行われないよう警告致します』

「警告書」は、南警察署が野宿労働者に対しておこなった行為を、予防検束的目的をもった不法性の強いものであり、人権侵害にあたると認めて、以後そのようなことをしないように警告している。この「警告書」出されることによって、野宿を余儀なくされる労働者の生活が、何等改善されたわけではない。警察や地域住民による追い立て、あるいは暴行事件に歯止めがかかったわけでもない。しかし、少なくとも南警察署管内においては、迫害の形態がいくぶん緩和されたことは事実である。また、「警告書」が出される過程において、多くの野宿労働者が、なるべくならひっそりと野宿の事態を乗り越えたいと願っているにもかかわらず、テレビカメラを引きつれての釜日労のこの件に関する二度目の実態調査や人擁護委員会の弁護士よる聞き取り調査に積極的に応じて、自分達の立場と南警察署のなした行為から受けた苦痛を述べたことは、野宿労働者も自らの意志を主張しうる存在であることを改めてテレビや新聞を通じて多くの人々に印象づけた。自らをさらしたくないと考えるに充分な理由を持つ人々の、身をさらしての訴えが、「警告書」に結びついたのである。

だがしかし、寿の襲撃事件後の写真誌『シャッター』が、「あえて非難をおそれずにいえば、“殺しちまえ”に、カタルシスを感じた方も少なくないのではないか(略)これでアイツラが駆逐されればと、密かな拍手をおくったむきがいるはずである」と、襲撃した少年たちを持ち上げ、“浮浪者”をマンガ化して広めることによって、さらなる差別をあおったように、南署に対する野宿労働者の当然の権利主張も、ムチ打たれることになる。

 

6 反撃に加えられた差別攻撃

 

南署による不当な野宿労働者への指紋押なつ強要.顔写真撮影の事例を釜日労がまとめ、それが人権侵害であると訴えていることを新聞が報じた後、釜日労事務所へ東京・台東区の女性から電話がかかってきた。

最初に電話を受けたものが、顔をしかめながら、ちょっと替わってくれと言うので、どんな用件なのかといぶかしがりながら受話器を受けとると「あなたたちは何を考えているのですか」と、居丈高な声が耳に飛び込んできた。続いて「今の繁栄する日本の中で、大の男が、自分の力で寝るところも確保できず、食べることもできないなんて、それは本人がよほどぐうたらで怠け者だからなんでしょう。そんな人達に人権なんかあるんですか。あなたたちは、どういうつもりで騒いでいるんですか」と、たたみかけられた。

『週刊新潮』は“東京情報”の欄で、釜日労の訴えを報じた朝日新聞の記事を「『報道』というより、悪意ある『威嚇』もしくは社会に対する『挑戦』ではないか」と書き、「『働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたものは』『拘留又は科料に処する』と軽犯罪法がハッキリ定めているのだから(注:なぜか冒頭の“生計の途なく”の語句が省略されている)、浮浪者というのは、その存在自体が犯罪なのだ。本来ならさっさと検束なりして排除すべき存在であるのに、日本の警察は、よくいえば紳士的な、悪くいえば手ぬるい方法を、えらんでいる」と警察を持ち上げ、もっとやれとけしかけている。そして結びでは「午前1時に歩道で寝ている人間に、どんな権利があるというのだ。権利というのは、義務を果たして、みんなと協調している人間に、はじめて生じるものなのだ」と、独善的に断定している。

電話の女性に対して「あなたは“浮浪者”といわれる人たちが、なぜ野宿をしており、どんな生活をしているか、知っていますか、知ろうとしたことがありますか」と聞いたところ、電話の女性は、「“浮浪者”に知り合いなんかいないし、口を聞いたこともない。また、知りたいとも思わない」と答えた。

「知りもしないのに、なぜ、ぐうたらで怠け者だと言えるんですか」という重ねての質問に、答えは返ってこなかった。

『週刊新潮』もまた「釜ケ崎日雇労働組合は『浮浪者を底辺労働者ととらえて』いるそうだ。そんな言葉に説得力があると思っているのだろうか」と書きながら、具体的な事実で反証するのではなく、抽象的な予断と極め付けの言葉で連ねて、「浮浪者というのは、そもそも勤労の義務も、納税の義務も果たしていない憲法違反者であって、底辺労働者などという言葉は絶対に妥当しない」と断定しているのみである。

電話の女性や『週刊新潮』の東京情報欄に共通しているのは、自分達が“浮浪者”と呼ぶ人々が何ものなのかを実態に即して知ってもいなければ知ろうとも努力しないで、“浮浪者”という言葉の持つイメージ−それは古代の律令制度から逃がれたものを浮浪人と呼び処罰の対象とするとされた時代から、江戸の無宿・野非人をへて今日までにいたる歴史の流れの中で、体制のワクの中に民衆を封じ込てめおこうとする支配者の側から注入され続けたもの−によって、一定の人々をグループ化し、“浮浪者”というレッテルを投げつけることによって、差別・排除をおこなう態度である。

“浮浪者”だから“浮浪者”なのだとする不合理な循環論に多くの人々がとらえられているのはいぶかしいことである。そのなぜかを究明することは、全ての差別問題と共通する課題であると考える。しかし、ここでは情況報告が求められている。最後に、野宿労働者に対する差別が強化される過程を簡単に報告して、終わりたいと思う。

 

7 差別強化の過程

 

ここで申し訳ないことながら、一つの統計数字を使うことを許していただきたい。それは、5年毎におこなわれる国勢調査の際に、同時におこなわれる「住所不定者」調査結果である。大阪市内の各区において野宿者の人員を調べたもので、大阪市内の野宿者の増減の傾向が把握されている。もとより私自身、国勢調査には白紙提出で対応しており、現状の調査制度下での数字を使うことの危うさは感じている。しかし、他によるべき数字がなく、この数字を使うことが、多少でも調査された野宿者に対する差別を打つことにつながると考えるのであえて使用する。

調査による数字は次のとおりである。1970年−341名、75年−727名、80年−570名、85年-1,175名。

75年に野宿者が70年と比べて倍増したのはなぜか。万国博景気が終わり、釜ケ崎の仕事が減りはじめたのに追い打ちをかけるようにオイルショックがおとずれ、釜ケ崎に仕事がまったくなくなったからである。

75年4月18日朝日新聞に次のような記事がある。

「暖かくなっても、『世間の目』は冷たい。大阪・キタやミナミの地下街に浮浪者の群れが現れてから五ヵ月。その数は減らない。寒い間は、同情していた地下街の商店関係者や利用者も、なにかあれば、すぐ警察官を呼ぶようになった。行き倒れた浮浪者を引き受ける病院も、ほとんどなくなった。『世間』は、浮浪者を無視することから積極的に追い出すようにかわってきた」

仕事がなくなったのは釜ケ崎だけではなく、山谷、寿でもそうだった。83年2月に明らかにされた横浜・寿の襲撃事件は、実はその8年も前、朝日新聞がこのように報じた時期から始まったものであると、襲撃に参加した少年たちがいっている。

それから10年、野宿を余儀なくされる労働者は倍近くになった。なぜか。80年代に釜ケ崎に定期的に仕事がなくなる時期があらわれたことは先に述べた。その毎年くりかえされる4月から7月にかけての“アプレ地獄”で野宿を余儀なくされ、体をこわし、ついに現役に復帰できなくなった人々の累積の結果である。

81年9月3日読売新聞に次のような記事がある。

「ミナミで商店街のアーケード下やビルのすき間などに住みつく浮浪者が増え続け、住民や通行人とのトラブルが目立っている。7月には、立ち小便を注意された男が殺人事件(注:殺されたのは、争いを止めに入った野宿仲間)を起こしており、対策に手を焼いた南署は2日午後、地元の各種民間団体、官公庁の出先機関の代表者ら約百人を集めた『住所不定者問題対策連絡協議会』を発足させ、本格的に浮浪者排除活動を始めた。あらゆる法令を適用して取り締まりを強化するとともに、飲食店の残飯、残酒を路上から一掃する“兵糧作戦”を申し合わせた」

仕事のなくなった日雇労働者が、露命をつなぐために繁華街に出かけ、不景気風に身を縮める“市民”の目にさらされる。そして、“市民生活”に邪魔なものとして、排除され、襲撃"抹殺されるという図式がここに見える。

失業がいよいよ日常化することが明らかになってきた今日、この図式がさらに強まると思われるが、抹殺の先になにがあらわれてくるのであろうか。