はじめに    松繁逸夫

 

Yさん、ようやく、20年も抱き続けてきた私の夢が実現することになりました。

その夢とはなにか。それは今、Yさんが手にされている本のことです。

「なあんだ、たわいもないことを」と笑っている顔が目に浮かぶような気がしますが、それは本当に長い間の夢でした。

もちろん、これまでにも釜ヶ崎にふれた本はたくさん出版されています。私が目を通すことができたものだけを数え上げても、30冊は超えることと思います。そして、それぞれの本について、多くの人に読まれて欲しいものだという感想を持ちました。にもかかわらず、私が持っていた釜ヶ崎を知りたいことへの飢えは、満たされることがありませんでした。

釜ヶ崎の中に住み、日雇労働者として働いているから、文章として書き表されたものに満足できなかったのではないか、Yさんはそうおっしゃるかも知れません。でも、自分自身のことでありながらいささか頼りない言い方ですが、そうとは言い切れないような気もします。

  Yさん、Yさんは、釜ヶ崎の労働者の多数が、釜ヶ崎で生まれ、育ち、日雇労働者として現在にいたっているわけではないことを、言うまでもないこととしてすでにご承知のことと思います。そして、私もその中の一人であるわけです。私が初めて釜ヶ崎を訪れたのは1972年6月のことでした。当時、私は釜ヶ崎に住んでいたわけではなく、日雇労働者でもありませんでした。新聞やテレビで釜ヶ崎の「暴動」のことを知って、勤めの帰りに西成警察署の前まで「暴動」見物にでかけたのが、釜ヶ崎に足を踏み入れた初体験というわけです。

その「暴動」見物をきっかけに釜ヶ崎との関わりが一気に深まったと言えれば、それはまことにもっともらしいのですが、そうではなくて、西成署の前の歩道や車道に集まっていた労働者たちをやや離れた所からながめていたところ、同じようにながめていた周囲の労働者たちから「私服ではないか」といわんばかりの視線をあびせられ、すごすごと逃げ帰ったにすぎません。

二度目の釜ヶ崎訪問は、同じ年の8月、夏祭りがおこなわれているという三角公園でした。すでに暗くなった三角公園に入ると人だかりがあり、その中では相撲がおこなわれているようでした。人だかりの外から中の様子が見えないものかと背伸びをしていると、一人の労働者が声をかけてきました。「なにかやってんのか」、「よく見えないけど、相撲やってるようです」「そうか、ニィチャン、一杯呑みにいかへんか」、「いえ、もうちょっと見てます」「ええやないか、見えへんのやろ、ええことしにいこうや」、「え!」驚いて顔を見ると、「オンナばっかりがノウやないで」とお尻をフンニャリとなでられた。「また今度」といって、公園を離れざるをえませんでした。

Yさん、私の釜ヶ崎デビュー(?)は、かくもだらしないものでありましたが、この時期の釜ヶ崎は、激動期と言っていいものだったと思います。

Yさんは「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」のできるきっかけとなった「鈴木組闘争」というのをご存じでしたか。1972年5月、鈴木組の組員が労働者をセンターから事務所へ連れて行き、暴行を加えたことについて、朝のセンターで追及したところ、社長自らが木刀を持って殴りかかった、が、逆に周囲の労働者多数に叩き伏せられた。鈴木組の親分が手配師・人夫出しの親睦団体の会長であったので、このことを契機に、センターでは労働者有志の集団が一つの勢力としてその存在を認められることになった。それが「鈴木組闘争」のあらましと意義ですが、警察は暴力事件と見て6月になって労働者6名を逮捕、それに対する抗議行動が「暴動」になったのでした。私が「見学」にでかけたのはその時のことになります。

また、私がお尻をなでられた夏祭りも無事に開かれたわけではありませんでした。夏祭りの準備をしている人たちに暴力団員や右翼団体員が襲いかかってきたのです。この時も、多くの労働者が夏祭りをおこなおうとする人たちに加勢したので、撃退することができました。これにより、センターだけでなく、釜ヶ崎の中で、労働者有志の団体は一つの勢力として認められることになったのです。

Yさん、この二つの事件を評論家的にいえば「新左翼勢力の釜ヶ崎への浸透期から定着期への転換点となった事件」ということになるでしょうか。

しかし、私自身は、たんなる「やじうま」として釜ヶ崎を訪れたにすぎません。その姿勢は、その年の暮れに「釜ヶ崎越年対策実行委員会」が公園に設置した「テント村」を訪れた時も変わりませんでした。友人が「日刊えつとう」の発行に関わっていたので、それを手伝うという名目をもうけて「テント村」の見学におもむいたのでした。

Yさん、そこ、「テント村」は、とても面白い世界でした。ある夜、寒さをしのぐためのたき火の側で口論がおこりました。私には二人とも釜ヶ崎の労働者ではなく、「テント村」を手伝いに来ている人のように見えましたが、より若い方が相手を突いた時、事態は思いがけぬ方向にむかったのです。「学生が労働者に手を出した」「学生は出ていけ」、周辺で見ていた労働者たちが口々にいいはじめ、それが「テント村」中にひろがりはじめました。混乱です。しかし、混乱は収められます。はっきりと労働者と判る人がハンド・マイクで呼び掛けました。「テント村にいる者はみんな仲間やないか、今、説明させるからちょっと待ってくれ」そして「立て飢えたる者よ−」とインタ−を歌い始めたのです。「テント村」はインタ−の合唱会になりました。それが終わったところで、若者が釈明をおこないました。内容は残念ながら忘れてしまいましたが、釈明の後、若者がテントの陰にまわって泣いていたのは、覚えています。

Yさんは人の生き死にに直結する、現在の言い方でいえば「越冬闘争」の現場を、「面白い世界」と表現することに、眉をひそめられているかも知れませんね。でも、「高度経済成長」がおわり、「新しい価値観の創造」が声高にいわれ、「確実」なものが見失われたという時代相の中で、寝る場所も食べ物も奪われている人々の間に、自分たちの共通の立場を基盤とした明瞭な価値観と主張があり、機会があれば即座に現実化する力が存在することとの出会い。また、書物から得たものを現実になじませようと涙してまで努める若者との出会い。それらとの出会いがあった世界は、「社会の中でウソなく働いて生計を立てられる職業はありうるか」と悩み、転職を重ねていた私にとって、「面白い世界」、言い換えれば「実のある世界」と受け取られたのでした。

その体験がもとで、釜ヶ崎を知りたいという欲求を抱くようになったのです。そして、釜ヶ崎に関する本を探し、読み始めたのですが、十分な満足感を得ることはできませんでした。それはなぜが。一口に言えば、釜ヶ崎で素敵な人たちと出会い、彼らから釜ヶ崎のことを知ることが、本を読む満足を常に上回っていたからです。

私が「労務者渡世編集委員会」に参加して以来、釜ヶ崎の歴史から現在の状況までをよく知っているよき解説者として常に教えを受けてきたのが、この本にも書いている水野阿修羅でした。キリ入ト者として釜ヶ崎で長年社会活動を続けてこられた小柳伸顕さんからは、「釜ヶ崎差別と闘う連給会議」やさまざまな行動を共にする中で、ご自身の体験から得たものを、分かち与えていただきました。「釜ヶ崎資料センター」の仲間たちは、それぞれの個性に応じて様々なことを知らせてくれました。例えば、本間啓一郎は歴史と取り組み、アメリカ占領軍が留置場として使ったこともあるという大阪府庁の地下倉庫をかきまわして古い大阪府公報を発見、釜ヶ崎の地名がなくなった日付を確定し、通説を覆しました。牛草英晴は、釜ヶ崎で何度かおこなった聞き取り調査のまとめに取り組んで、調査結果を分かりやすく伝えてくれました。平川茂からは、差別について多く教えられました。地理学を専門とする丹羽弘一は、目新しい観点を提示してくれました。

Yさん、この本を手にする人たちは本当に幸せな人たちだと思いませんか。私がこう言うと「ひいきの引き倒し」になるかも知れませんが、10年、20年かけなくても、この本を読む時間だけで、釜ヶ崎の基礎知識を知り得た満足を感じられるのですから。釜ヶ崎の歴史のイメージを膨ませてくださったありむら潜さん、そして広く世に伝わることに尽力くださった三一書房編集部の野崎雄三さんに、おおいなる感謝を……。

最後に、Yさん、この本が釜ヶ崎の現実そのものでなく、書物化された「入門」という限界を持つものであること、そして、「オール日本釜ヶ崎」の状況下にあることを頭の片隅にでもおいて読み進んでいただくことを、この本の成立にいささかなりとも関わったものとして希望しておきたいと思います。

Yさん、感想をお待ちしています。では、また。

 

追伸

Yさん、余談ながら、「金丸信脱税事件」に関連して大阪の建設業者も仕事を得るために金を届けていたことが報道された日、工事現場の朝礼でかわされた会話を紹介します。

ある職長が現場の主任監督に「あんたとこの名前、出てなかったな」、主任監督は苦笑しながら、「だからうちは仕事が少ないんや、ごめんなさい」……。仕事が少なくて苦労している一同、それを聞いて冗談として笑い飛ばすことができませんでした。

しかし、よく考えれば、仕事の全体の量が金を出したところで増えるわけではなく、いたって大手建設会社が金を競争して出して仕事をとっても、結局、金丸=自民党にわたった金額分だけ余計に下請けにシワ寄せがきつくなるだけのことですから、実際に現場で働く人間はたまったものではありません。合理化・強労働で人件費の圧縮がはかられ、仕事に就ける人間は減るし労災は増える。一番の被害者は、最末端にいる日雇労働者かも知れません。

あの「ヤミ献金」をひねり出すために、幾人の日雇労働者が路上死させられたことでしょう。

「政治の腐敗」を、他人事としてでなく考えさせられた会話でした。

 

釜ヶ崎 歴史と現在 目次

 

はじめに(松繁逸夫)

 

イラスト釜ヶ崎今昔(ありむら潜)11

江戸時代の釜ヶ崎風景/江戸・明治前半期の釜ヶ崎風景/明治時代後半の釜ヶ崎風景/大正・昭和初期の釜ヶ崎風景/1945年、敗戦直前の釜ヶ崎/1950年代、"バラック時代"の釜ヶ崎/1960年代前半の釜ヶ崎銀座通り/1960年代前半の釜ヶ崎・寄せ場風景/1960年代後半の寄せ場/1970年代の釜ヶ崎銀座通り/1970年代の釜ヶ崎・寄せ場風景・活況期/バブル景気時代の釜ヶ崎銀座通り/バブル崩壊(1991〜)による大不況期の釜ヶ崎

 

釜ヶ崎小史試論(本間啓一郎)

はじめに/おおまかな素描/近代までの釜ヶ崎/近世大坂における都市下層/長町期(1886〜96年)/形成期(1896〜1910年頃)/確立期(1910〜30年頃)/戦時期(1930〜45年)/戦後復興期(1945〜60年)/高度経済成長期(1961〜73年)/現在(74年以降)

 

労働と生活(小柳伸顕)

朝の釜ヶ崎/「契約」が増える季節/春闘/「アブレ」の季節/矛盾の激化/追われ行く日雇労働者

 

釜ヶ崎-人と街(牛草英晴)

はじめに/「釜ヶ崎」はどのような街か/釜ヶ崎の現在/「釜ヶ崎」の範囲と街の性格/釜ヶ崎の住民構成と社会的性格/「寄せ場」としての釜ヶ崎/釜ヶ崎労働者と「人夫出し飯場」/「人夫出し飯場」/「飯場」の生活と就労/「ドヤ街」としての釜ヶ崎/釜ヶ崎の人ロと住民構成/釜ヶ崎労働者の単身性と街の構成/「ドヤ(簡易宿泊所)」の現況/釜ヶ崎労働者の収入/労働市場としての釜ヶ崎の特質/釜ヶ崎労働者の出身地域/釜ヶ崎労働者と階層移動/釜ヶ崎への「流入」の類型/転職−来釜の原因/おわりに

 

寄せ場差別の実態(平川茂)

横浜での事件/80年代の寄せ場差別事件/寄せ場差別を正当化する意識/業績をめぐる競争/寄せ場労働者の苦境/「自業自得意識」の批判に向けて

 

釜ヶ崎−暴動の景観(丹羽弘一)

戦後釜ヶ崎原景観/暴動の誕生/暴動の変質/暴動とは何か

 

寄せ場(釜ヶ崎)と男と家族(水野阿修羅)

単身者/ホームレスと家族/一家心中/単身赴任/ストリート・チルドレン/結婚/買春/父子家庭/まとめとして