大阪市内におけるホームレス支援の活動
日独シンポジウム報告
 

1)私がお話しできる範囲について
 

 松繁と申します。報告をさせていただく機会を与えられたことにお礼を申し上げます。ありがとうございます。与えられた機会を充分に生かせるよう努めたいと考えていますが、能力及ばず、不充分な点があろうかと思います。後ほど、皆さんとの話の中で補っていただければ幸いです。よろしくお願い致します。

 最初に、私が報告する内容について、幾つかの限界があることをお伝えしておきたいと思います。

第1に、ホームレス全般についてはお話しできないこと

第2に、大阪市内といっても西成区内の極僅かな地域のことしかお話しできないこと

第3に、私という個人の知見を通してしかお話しできないこと です。
 

*ホームレス全般についてはお話しできないことについて
 

釜ヶ崎支援機構の設立は、1999年です。法人の目的は、定款に「野宿生活者と野宿に至るおそれのある人々の社会的処遇の改善活動及びその自立支援が図られるような地域の形成に関する事業を行うことにより、もって社会福祉の向上を図ることを目的とする。」と書かれています。

今日、報告が求められているのは「ホームレス支援の活動」についてです。定款に書かれている、「野宿生活者と野宿に至るおそれのある人々」の両者を含んだものが「ホームレス」ということになろうかと思いますが、釜ヶ崎支援機構の活動の中心は、段ボールの囲いやあるいは敷物だけで商店街のアーケード下や公園などで野宿する人、公園や路上にブルーシートのテントや仮小屋をこしらえて生活する人々、また、一泊を過ごせるだけのあいりん臨時緊急夜間避難所や簡易宿泊所を利用する人々を対象としたもので、民間の賃貸住宅や市営住宅などに住み、家賃滞納を理由に居所を失いかけている人々についは、今のところ少数の事例を除いて関わることができていません。したがって、ホームレスのごく一部の人々、類型に関してしか報告することができません。そのことをはっきりさせるために言葉としても、ホームレスでなく、野宿生活者を使うことにさせていただきます。
 

大阪市内といっても西成区内の極僅かな地域のことしかお話しできないことについて
 

 大阪市の面積は221.96平方キロメートルであり、人口は2006年1月1日推計で2,629,634人(男1,280,462人、女1,349,172人)、世帯数が1,245,068世帯、人口密度は11,847人/平方キロメートルです。

釜ヶ崎支援機構が活動の拠点としているのは、西成区内にあるあいりん地区(釜ヶ崎)です。

西成区の面積は7.35平方キロメートル、大阪市面積の3.3%であり、人口は2005年10月国勢調査の速報値によれば132,762人(男78,026人、女54,736人)、世帯数が78,948世帯、人口密度は18,063人/平方キロメートルです。大阪市全体の人口に占める割合は、総人口で5%、男性では6.1%、女性では4.1%となっています。

釜ヶ崎(あいりん地区)の面積は0.62平方キロメートル、西成区面積の8.4%です。人口は推定で24,000人(男22,000人、女2,000人)、人口密度は、38,700人/平方キロメートルとなります。西成区全体の人口に占める割合は、総人口で18.1%、男性では28.2%、女性では3.7%となっています。

野宿生活者の数字は、2005年10月国勢調査の基づくものが最新で、まだ公表されていませんが、大阪市内で3,540人、西成区内で1,113人と伝え聞いています。実際より1,000人程度少ないのではないかと思いますが、その数字を男性の人口で比較しますと、大阪市全体では、男性千人の内2.8人が、西成区内では西成区内男性の千人の内14.3人が野宿していることになります。釜ヶ崎(あいりん地区)の野宿生活者を800人とすれば、千人に対して36.4人ということになります。男性人口でのみ比較したのは、これまでの各種調査で、女性の野宿生活者が3%未満であることが判っているからです。

 数字を紹介しましたが、釜ヶ崎という地区が、人口密度が高く、男性に偏った人口構成を持ち、野宿生活者も多いという特徴を持っていることは理解していただけたと思います。そのような地域の中で活動する釜ヶ崎支援機構は、事業を通じて市内各所や路上で野宿を余儀なくされている人々を含め、2千人近くの野宿生活者と何らかの関わりをもっていますが、テントのある公園や夜間の路上、そういった現地での活動をおこなっていませんので、その分野の報告はできないことになります。
 

*私という個人の知見を通してしかお話しできないことについて
 

 当たり前のことですが、報告は私の口を通してなされます。報告の内容は、私の目や耳をとして脳に蓄えられた情報に基づいておこないます。従って、この会場におられる「ホームレス支援活動」をなさっておられる多くの人々、公園や路上の現場で、あるいは行政マンとして関わっておられる人々の考えや、持っておられる情報、思いを代弁することはできません。あらかじめ、限界を持つものであること、あるいは独善的なものであるかも知れないことをお断りしておきたいと思います。
 

2)「野宿生活者」という言葉の定着過程について
 

 前置きが長くなっていますが、大阪において現在行われている野宿生活者への支援活動についてお話しする前に、もう一つ、前置きとして、野宿生活者という言葉がどうして使われるようになったか、その言葉が使われる以前は、路上で寝ざるを得ない人々はどのように呼ばれていたかをお話しさせていただきたいと思います。そのことが、野宿生活者と呼ばれる人々が増大した背景の理解に、また、社会的対応策を考える上で必要であると考えるからです。

 路上で生活することを余儀なくさる人々は、「青カンをする仲間」、「野宿労働者」、そして、「野宿生活者」、「ホームレス」と呼ばれるようになりました。新聞やテレビなどでは「浮浪者」と、差別的に呼ばれた時期もあります。

 私が最初に野宿生活者の支援活動に関わったのは、1971年暮れのことでした。テントが張られ、たき火を囲んで暖をとり、炊き出しも行われていた公園でのことです。当時は野宿生活者という言葉は使っておらず、野宿を「アオカン」、野宿している人を「アオカンする仲間」と表現していました。

 「青カン」とは、「青空簡易宿泊所」の略といわれています。また、テキ屋(露天商)の仲間言葉で、寝ることを「カンタンする」ということから、青空の下で寝ることを「青カン」というようになったともいわれています。

 余談ですが、寝ることを「カンタン」というのは中国の故事から来ています。―昔、盧生(ロセイ)という青年が、邯鄲の旅館で、道士呂翁(リョオウ)から借りた枕をあてがってうたたねをしたところ、栄華を極めた一生のことを夢に見たが、目がさめてみると、それは宿の主人が黄粱(コウリョウ)の飯をたいている短い間の夢であったという故事【枕中記】チンチュウキ―。旅館などで旅客の寝ている間に、その金品を盗む人、枕さがしのことを、邯鄲師といいますが、これも、「邯鄲夢の枕」にちなんでそういわれるようになったとされています。

 釜ヶ崎は、日本最大の日雇労働者の街で、街の大きな面積は日払いの簡易宿泊所で占められています。日雇労働者は日々雇われ、日々解雇される不安定就労を余儀なくされる人たちですから、仕事量の季節による変動や景気の変動、あるいは自身の病気やけがによって働くことができず、収入を得られなくなる状況に陥ることがままありました。簡易宿泊所に泊まることができず、「青カン」することになるわけです。しかし、日本の経済高度成長期から1970年代初頭にかけて、「青カン」は、季節が変わり、あるいは景気がよくなって、仕事が出るまでの一時的なことにとどまっていました。支援の活動も、年末年始の短い間に限られていました。

 1983年、横浜・寿町で野宿を余儀なくされていた人々が少年たちによって襲撃され、一人は命を奪われていたことが「浮浪者襲撃事件」としてひろく伝えられました。「浮浪者」というのは「浮浪罪」という規定が戦前の日本にあったことに示されているように、屋外で寝ざるを得ない人を犯罪者扱いにする言葉です。それに対して、私たちは、「野宿労働者」という言葉を対置させました。彼らは、仕事がなく野宿を余儀なくされている日雇労働者である。また、彼らは段ボールや雑誌などを集め、売って、僅かであれ収入を得ている。労働している存在である、そういうことを、「野宿労働者」という言葉に込めていたのです。しかし、その言葉は、社会からは受け入れられませんでした。一方、社会的に流通していた「浮浪者」も徐々に使われなくなり、「野宿者」「路上生活者」などが一般的に使われるようになりました。

 釜ヶ崎でも、その年の暮れ、毎年繰り返される医療センター軒下の布団敷きを利用する人は777人を数え、過去最高を記録しました。野宿の通年化も目立つようになりました。毎年、4月から6月まで、極端に仕事量が落ち込む「梅雨のアブレ地獄」が繰り返され、高齢者を中心に仕事量が回復しても日雇労働者として現役復帰できない人たちが目につくようになったのです。労働市場の構造上の問題をとりあえず横に置いていうと、「青カン」が日雇労働者個々人の、一時的な不遇の問題としてあった時代から、日雇労働者全体を襲う周期的な「アブレ地獄」が現れることによって、日雇い労働層の野宿問題として広がった時代ということができます。この現象は、「バブル経済期」でも消えることはありませんでした。大阪だけでなく、大きな日雇い労働市場の存在する都市では共通して現れたことです。

 「バブル経済」崩壊後、釜ヶ崎の日雇い労働市場の規模が大きく縮小し、多くの日雇労働者が路上に押し出されました。高齢を理由に日雇い労働市場から押し出されていた人々の上に、加わったわけです。そして、野宿生活は、1ヶ月、2ヶ月という短期的なものではなく、2年、3年と長期にわたるものとなりました。路上や公園で生活することが定着した。「野宿者」が「野宿生活者」になったのです。

 日雇い労働市場の縮小は、失業の受け皿として機能していた日雇い労働市場が、もはや、失業の受け皿として機能しなくなったということです。たとえば、1980年代中頃、「重厚長大産業」からはじき出された失業者は、釜ヶ崎で長年働いてきた高齢労働者を路上にはじき出すことによって釜ヶ崎の日雇労働者として生きることができました。しかし、失業の受け皿がなくなった現在は、多くの失業者は日雇い労働市場を経ることなく、直接、路上生活者となるしかありません。

 多くの野宿生活者の野宿する直前の仕事は、日雇いを中心とした土木・建設産業でのものでした。バブル崩壊後は、雇用保険の受給期間が切れた元事務員や工場労働者、少額の年金しか受けられない零細自営業者、年金の受給年齢までの生活が支えきれない人、比較的に若い、期間契約で働くフリーターやアルバイターといわれる人々の割合が高まっています。

 そのことの反映と大きな日雇い労働市場が存在しない地方都市にも野宿生活者が目立ち始めるという野宿生活者の存在地域の全国化から、2000年前後からは、「ホームレス」と呼ばれることが一般的になってきました。大阪の野宿生活者の数は、1998年の8,660人、2003年の6,603人、2005年の3,540人と、数字上は減少したことになっています。
 

3)行政機関の分担について
 

路上や公園で野宿生活、仮小屋生活を余儀なくされる人々を指し示す言葉の変化は、そう呼ばれる人々の量的変化や属性の変化に伴うものであったということをお話ししました。

さてようやく、本題に入る準備が整いましたが、その前に、ホームレス支援の活動で大きな役割を果たしているものはなんといっても行政機関です。ですから、本題に入るもう一つの準備として、行政機関の仕組みについて説明しておく必要があると思います。

 国で関わりが深い機関といえば、厚生労働省がということになります。労働・雇用問題は職業安定局、福祉関連は社会援護局。社会援護局をさらに分ければ、自立支援センターの運営基準などについては地域福祉課、生活保護については保護課ということになります。

 大阪府は、大阪市域をのぞく府下のホームレス対策を統括する健康福祉部と、過去に、近畿や日本経済の活性化のために釜ヶ崎に労働力を吸引することに多大の貢献をなした商工労働部雇用対策推進室が、歴史的経緯を踏まえ、釜ヶ崎対策を行っています。

 大阪市では、健康福祉局の中のホームレス自立支援課とゆとりとみどり振興局、そして、保護課が関わっています。 保護課は、大本の業務は生活保護法の運用に関することですが、釜ヶ崎地域の日雇労働者の不安定就労故に生じる福祉課題に対応する部署としても位置づけられています。現地機関として、大阪市立更生相談所があります。ホームレス自立支援課は、釜ヶ崎地域をのぞく大阪市内のホームレス対策を担当しています。巡回相談や自立支援センター、公園仮設避難所の設置などの事業を推進しています。ゆとりとみどり振興局は、快適な公園を維持するために、公園内のテントや仮小屋の撤去をおこない、野宿生活者を追い立てる役割を担っています。
 

4)釜ヶ崎支援機構が関わる活動について
 

さて、本題に入る前に、私が冒頭で申し上げました、私が報告する上での3つの制限があるといったことを思い出していただきたいと思います。第1に、ホームレス全般についてはお話しできないこと、第2に、大阪市内といっても西成区内の極僅かな地域のことしかお話しできないこと、第3に、私という個人の知見を通してしかお話しできないことでした。これから、お話しすることは釜ヶ崎支援機構の活動を中心としたものになります。大阪市内では多くの方が、多様な方法で、支援活動あるいは当事者活動の支援をおこなわれています。それらには触れ得ないことを改めてお断り申し上げると共に、それらの活動の報告をなしえないのは、私の能力不足のせいであり、決してそれらの活動を無視している故ではないことを、お断り申しておきます。
 

*就労機会提供事業について
 

 釜ヶ崎支援機構で、「就労機会提供事業」と呼んでいるものがあります。大阪府雇用対策推進室と大阪市保護課が直接の担当部署で、釜ヶ崎支援機構が事業の委託を受けて実施しています。先ほどご説明したようにこの事業を担当する部署はあいりん地区対策を行うところであり、野宿生活者対策を行うところではありません。従って、事業目的は、野宿生活者の自立支援ではなく、加齢等の要因で就労機会が減少しがちなあいりん地区高齢日雇労働者等に就労機会を提供し、稼働能力の維持、福祉的支援を行うというところにあるとされています。実際には、「高齢日雇労働者等」の「等」の中には、元釜ヶ崎日雇労働者で市内において野宿を余儀なくされているものを含むと理解され、市内の野宿生活者も事業を利用しています。年齢は、55歳以上が対象となっています。現在登録している人たちの年齢構成は、55歳以下(障害者手帳を持っている人)0.6%、55〜59歳43.6%、60〜64歳43.4%、65〜69歳9.8%、70歳以上2.7%。

 2004年5月に就労した人々1,884人に対して調査をした結果によれば、寝場所は次のようでした。
 

@夜間宿所(シェルター) 917人(夜間宿所のみ回答600人)

Aドヤ(簡宿)      428人(簡宿のみ回答222人)

B寮           22人(寮のみ回答5人)

Cケアセンター      89人(ケアセンターのみ回答4人)

Dアパート・マンション  125人(アパート・マンションのみ回答118人)

Eテント・仮小屋     252人(テント・仮小屋のみ回答206人)

Fアーケード・軒下    331人(アーケード・軒下のみ回答191人)
 

 テント・仮小屋の場所は、西成区では、萩之茶屋・花園公園・西成公園・津守公園など55人、北区では、扇町・中之島など44人、天王寺区26人、浪速区24人、中央区13人、阿倍野区11人、西区9人、等となっています。

今年度の登録者は、2,874人ですが、1ヶ月平均の実際の稼働人数は1,800人程度です。1日205人が就労でき、1日5,700円(昼の弁当代400円を引くと5,300円)の賃金が支払われます。月平均一人あたり3日就労で、月に15,900円の収入となります。

 2004年5月調査で把握した、4月の平均月収は、25,812円。食事の状況は、毎日三度三度食べられている人が、27.8%に留まり、多数(60.6%)は、かろうじて一日一食、当たっているにすぎません。一週間の内一食も食べられなかった日が一日でもあった人は212人にのぼります。

釜ヶ崎支援機構の基本的な考え方は、野宿生活者は働く機会を失い、収入の道が確保できなくて居所を失い、野宿状態に陥っているのであるから、何よりも先に、仕事を与え、生活できるだけの収入を与えれば、野宿問題は解決するというものです。就労機会提供事業に、とりあえず野宿生活者に参加してもらい、そこから得られる収入で、とりあえず簡易宿泊所などを利用して生活してもらう、その上で、職業相談、講習・訓練事業などに参加してもらって、他の職域に移行してもらうという構想です。年齢・体力的に就労が困難な人は、福祉制度の活用を勧める。そして、就労機会提供事業を可能な限り縮小していく。

しかし、あいりん地区対策は、あくまでも一時しのぎ的な、日雇労働者として現役復帰することが前提で考えられていますから、最低月3回の就労機会の提供でよいと行政の側は考えているようです。その判断が、現実にあっていないことはわかっていても、施策の位置づけとしてそうせざるを得ないということのようです。

国・厚生労働省も、ホームレス対策は雇用機会の確保が重要としながら、具体的な就労機会提供事業については否定的なように思われます。旧労働省の意見は、かつての緊急失業対策事業は緊急一時的な事業であったにもかかわらず30年も継続し、「失対労働」という仕事づくりになってしまった。施策としては失敗であった。だから、同じようなものはつくらない、ということのようです。結局、就労機会提供事業は、野宿生活の苦難を緩和する役割は果たしていますが、直接的な経済的自立支援策とはいえません。

 この事業は、野宿生活者の強い要望と要求行動の積み重ねによって、そして、行政の側の理解と努力によって作り出され、継続されているものであり、野宿生活者が生きる大きな支えとなっているものです。しかし、1ヶ月当たりの就労機会の拡大がないまま、6年間が経過した現在は、非常に身も蓋もない言い方になりますが、生活保護水準以下の生活に、野宿生活者を滞留させるものとなっていると評価せざるを得ません。

野宿生活者自身がそれを望んでいる側面は確かにあります。たとえ僅かな収入であれ、自分で稼ぎ、生活したい、生活保護の利用は成るべく避けたい、今の生活でも、どうにか生きていける。彼らの多くは、そういいます。だからといって、現状のままでいいのでしょうか。現時点での私の考えは、高齢者対策と中年・若年対策とで、明確な区分を設ける事が必要だということです。中年対策であることをはっきりするために、登録年齢を45−55歳あるいは60歳までとし、事業参加者にきめ細かな職業相談、講習・訓練軒会を提供して、釜ヶ崎への滞留、路上や公園での滞留を可能な限り減少させていく。登録年齢以上については、高齢者対策として生活保護法の居宅保護を適用し、生活保護運用上の自立支援プログラムによって、稼働能力の活用を促進する、社会参加を促す、そのことによって、彼らも誇りを満足させることができます。
 

*寝場所提供事業について
 

 釜ヶ崎には、寝場所を失った人々が利用するための無料の宿泊施設が、2ヶ所、大阪市により設置されています。運営は、釜ヶ崎支援機構が委託されておこなっています。「あいりん臨時緊急夜間避難所」といいますが、2段ベッドで、2000年開設の今宮宿所は600人、2004年開設の萩之茶屋宿所は440人、合計1,40人が利用可能です。シャワー、給湯器が備え付けられており、補食として乾パンが支給されます。4月から5月にかけては900人を越える利用がありますが、平均では700人程度の利用となっています。夏は扇風機が動きますが、冬の暖房設備はありません。

 これもあいりん対策としておこなわれているものです。ですから、基本的な考え方やはり、継続利用は想定されていません。早朝、センター周辺で仕事を探し、仕事にありつければ、その日の夜は、簡易宿泊所に泊まり、仕事にありつけなければ、列に並んで、整理券を得て、夜間宿所を利用してもらう、ということになります。利用時間は、午後5時30分から翌朝の5時までです。

 2004年5月に、夜間宿所で実施した利用者アンケートの回答者は869人でした。年齢は、30歳以下が0.5%、30歳代が4.3%、40歳代が12.1%、50歳代が53.5%、60歳代が28.5%、70歳以上が1.2%でした。野宿が続くようになってからの平均期間は2年。夜間宿所を利用するようになった期間は、@「今日が初めて」1.5%、A?日前が12.4%、平均値10.9日前、B?ヶ月前が、29%、平均値3.2ヶ月前、C?年前が、57.1%、平均値2.7年前、でした。利用頻度は、「ほとんど毎日」が、64.5%でした。

 夜間宿所は、公園や路上にテントや仮小屋を建てて住まうことを心よしとしない人々にとって必要なものです。3年前、天王寺区内の公園で寝ていた2人が、ガソリンをかけられ、火をつけられて、重傷を負わされました。蹴飛ばされ、物を投げつけられることもあります。安心して寝られる場所を求める人にとっても、必要な施設です。しかし、2年間も、ほとんど毎日利用するために作られた施設ではありません。そのような目的で使用するには、不適切といわざるを得ません。

 現時点の私の考えでは、宿所を利用する60歳以上について、生活保護法による居宅保護への誘導を強め、少なくとも600人分の今宮宿所は、廃止すべきです。一時やむなき利用に対応するには、400人規模で十分であると考えています。
 

*福祉相談事業について
 

野宿生活者は、死に近い存在です。死から遠ざかるため、収入の確保のためには、体の調子のことをかまってはおられません。1日に5,00円、まとまって手に入る就労の機会は、逃すことができません。その結果、就労にきて、休憩時間に亡くなる人がいます。就労現場から、救急車で運ばれて亡くなる人がいます。受付の段階で、救急車で運ばれる人がいます。釜ヶ崎支援機構には、野宿生活者を死から遠ざけるために、福祉相談部門があります。就労事業に登録し、就労に来る人々の様子をみ、働いているときの様子を聞きながら、病院へ行くことをすすめたり、生活保護法による保護、生活保護施設への入所や居宅保護申請をすすめ、行政手続きがすみやかに進行するよう手助けしています。噂を聞いて、輪番登録していない人たちも相談にきます。2004年度の新規相談者数は、886人、延べ相談者数は、13,939人でした。居宅保護に移行した人は、295人です。この6年間で、おおよそ1,000人の野宿生活者および野宿に至るおそれのある人々に対して、少し安定した生活へと移行することのお手伝いをしたことになります。

 福祉相談事業には、大きく分けて4つの分野があります。@医療相談A生活保護(施設入所含む)の手続き支援B生活支援、居宅訪問C病院訪問、の4つです。

 医療相談は身体の調子が悪い野宿生活者から相談を受け、病院での受診を手助けし、成るべく安心して治療できる環境を整えられるようにすることです。医者や看護士が相談にのるわけではありません。

 釜ヶ崎の中に、「大阪社会医療センター付属病院」が、あります。大阪市が監督している病院ですが、お金を持たない人は、借用書を書くことによって、とりあえず、無料で医療を受けることができます。大阪市内には他にも「無料低額診療所」がありますが、実態として無料で受診できるのはここだけです。入院患者用のベッドが100あり、1日の外来患者数は400人を超えているといいます。最近は、かかっている医療費を認識してもらうために、医療費の明細を記入した請求書を手渡すようになったので、気兼ねした患者が受診を控えるようになる傾向を示しています。

 医療センターを利用するためには、「診察依頼書」が必要です。継続して受診するためには、一ヶ月に1度、提出しなければ成りません。釜ヶ崎支援機構が発行する「診察依頼書」は、いわばまがい物で、当日1日しか有効ではありません。2回目に受診するときは、正規の「診察依頼書」、一ヶ月有効のものを提出する必要があります。正規の

「診察依頼書」を発行する大本は、「大阪市立更生相談所」ですが、市更相から認められた西成労働福祉センターとNPO法人釜ヶ崎医療連絡会議も発行しています。

 医療センターには、相談室があり、医療ケースワーカーが居ます。受診した患者のカルテを見ながら、患者の話を聞き、要入院、療養が必要、要治療・通院など必要な処置を記入した市更相宛の「紹介書」を発行します。

 大阪市立更生相談所は、大阪市内24区の福祉受付窓口が、福祉事務所と呼ばれていた時代には、25番目の福祉事務所といわれていました。市内24区に、生活保護法上の措置権を持つ福祉事務所があり、区単位を管轄していました。現在は、各区とも保健福祉センター支援運営課という名称になっていますが、中身はそう変わっていません。西成区にも福祉事務所があるにも関わらず、もう一つの福祉事務所として市更相があるわけです。その2つの福祉事務所の違いは、地域と相談対象者、そして措置内容にありました。

 市更相の管轄と対象者は、釜ヶ崎地区であり、地区内簡易宿泊所に宿泊する単身日雇労働者並びに地区内で野宿する人です。野宿場所が、釜ヶ崎地区外の西成区内であれば、その野宿生活者が相談にいく窓口は西成区役所の支援運営課ということになります。措置内容は、以前はもっぱら、医療保護と施設保護、そして法外援護でしたが、最近は、限定つきながら居宅保護も行っています。市更相における、2005年度の野宿生活者が居所確保に必要な敷金支給の件数は、窓口が256件、病院や施設を通じてのものが410件だったそうです。

 市更相以外の各区の福祉事務所、支援運営課は、野宿生活者支援団体からの付き添いがなければ、ほとんどの場合、身体の調子が悪ければ外へ出て救急車を呼びなさい、というような対応しかしません。野宿生活者が生活保護申請すると、入院を必要としない場合でも、とりあえず入院して下さいとお願いされることは、ありますが・・・。

そのような事情で、大阪市内で野宿している人々は、身体の調子が悪くなれば、我慢して自然に良くなるのを待つか、救急車を呼ぶか、釜ヶ崎で野宿していることにして市更相経由で医療センターを利用せざるをえないことになっています。以上のことについての担当は、大阪市の保護課です。

ホームレス自立支援課は、社会福祉法人大阪自彊館に委託して「野宿生活者巡回相談事業」を実施していますが、その業務内容の一つに、「高齢・病弱者等福祉的援護が必要と判断される野宿生活者の当該野宿生活地を所管区域とする保健福祉センター、医療関係機関はじめ各関係機関と連絡・相談・調整・及び対応に関すること」があるとされています。医療の関しては、無料低額診療所の診察券の活用や健康政策局が担当する巡回健康相談事業、心の健康センターが担当する精神保健相談事業などと連携して対応されているようです。巡回相談事業が開始されて6年以上経過していますが、その間の受診及び施設入所等の支援は、4,206件であるとされています。

現地での、医療面における支援活動として、国境なき医師団や医療従事者によるボランティア活動などがありますが、行政は今のところ、私の知る限り、何の支援もしていません。行旅病人の発生、ようするに救急搬送の延べ人数は、2001年度の17,458人から2004年度の9,736人と大きく減少していますが、まだまだ現地での、医療面における支援活動は必要です。

ちなみに、2005年度末での行旅病人の病院在籍数は約3,000人だったといわれています。生活保護施設の在籍数は、約1,700人だったといわれています。これらも「ホームレス」として勘定して、国勢調査の3,500人を足すと、8,200人となります。

生活保護(施設入所含む)の手続き支援は、聞き取りから始まります。生活現況・生活歴・職歴・既往症など役所の窓口で聞かれることの事前確認をおこなうと共に、債務やアルコール依存の問題を抱え込んでいないかどうかを確認し、生活保護受給後も安定した生活を維持するための対策を事前に考えるためにです。職歴から年金受給の可能性があると判断されれば、その手続きを優先させますし、戸籍上死んでいることになっていれば、復活の手続きを手伝います。戸籍・住民票探しもあります。

生活保護法の原則は、本人からの申請によって、困窮の事実に基づいて、無差別平等に、保護の適用の要否判定がおこなわれるというものですが、運用上は、「他方他施策優先」、「全ての能力を使い果たした後」という前提が課題に重視されて、生活困窮者が、生活保護の制度を活用する道を狭めています。大阪市は、簡易宿泊所を安定した居所と認めず、簡易宿所を居所とした生保申請を認めていません。また、野宿したままでの生保申請も認めていませんでした。

全国的に、65歳以上になれば、稼働能力、働く能力の有無は問われず、困窮の事実に基づいて、生活保護の適用を受けることができます。ただし、居所を確保していることが前提となります。野宿している65歳以上の人は、2000年まで、生活保護を活用しようとすれば、入院するか施設にはいるか以外の選択肢はほとんどありませんでした。

2000年から、宿泊客である日雇労働者が野宿へと移行したため、経営困難に陥った簡易宿泊所が、アパートへの転業を始めます。転業にあたって、日雇労働者は昼間働き、夜寝に帰ってくるだけだから、3畳一間の箱で良かったかも知れないが、生活保護受給者は24時間その部屋で生活することになるので、3畳一間では狭い、現状の2部屋を1部屋に改装して転業してほしい、共同炊事場を拡大してほしい、便器の半分は座式にしてほしい、2階に一つ共同の居間を設けてほしい、高齢者が多くなるので、様々なことを相談できる人を配置してほしい、といった要望を経営者に伝えたのですが、経営難で転業するのだから、部屋数を減らすことはできないということで、ほぼ現状のままでの転業となりました。その後、一定の配慮をして改装したものがサポーティブ・ハウスとなり、何の配慮もしないで看板だけ書き換えて転業したものは、福祉アパート・マンションと呼ばれるようになっています。転業は50軒を超えていますが、サポーティブ・ハウスは10軒程度です。

不充分な居住環境ですが、敷金なし、家賃後払い、布団・小型テレビ・小型冷蔵庫つきのアパートが出現したことで、65歳以上の野宿生活者の生活保護利用が大きく促進されました。現在、釜ヶ崎地区内の生保世帯は5,000人を超えています。

2003年、「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」の施行と同時に、厚生労働省が通達を出しました。「ホームレスといえども当然保護の要件を満たすものではなく、稼働能力ありといえども、居所無きといえども、保護の要件に欠けるものではない事に留意して、保護の運用にあたられたい。」、「事情により、居所確保に必要な敷金・権利金などを経費として認めてもよい」。

 この通達を受けて、釜ヶ崎支援機構は、市内1,000軒の不動産業者に情報提供を求めました。大阪市が認める敷金額以内の敷金、大阪市の家賃基準額以内の家賃、そして、保証人のいらない物件の情報提供です。40件近くの物件情報が集まり、それへの入居を目指して、沢山の野宿生活者が、職業安定所へ通い始めました。何のためかというと、稼働能力を使い果たそうと努力していることを証明するためにです。

 大阪労働局からは苦情がきました。野宿生活者を差別することはなく、職業相談に応じているが、安定した居所確保が先ではないか、いくら求人先を紹介しても、野宿のままでは就職が決まる可能性はきわめて少ない。職安職員が多忙となり、野宿状態にある人よりも就職可能性の高い人の就職相談に支障を来すことになるだけだ。

 大阪市保護課は、生活保護の運用結果は国の監査対象となる。確たる判断資料がなく保護適用すると、乱給、いたずらに給付を増やしたと指摘される。稼働能力の活用についての努力を証明するものとして、公的機関が発行する書類が必要であると言いました。

 結局、生活保護申請に際して、職安通いを省略することはできませんでした。しかし、60歳代については、5回職安通いすることによって、敷金支給されて居所確保ができ、居宅保護を受けられるようになりました。50歳代以下については、まだまだ、困難な状況にあります。

 2000年以降、西成区の生活保護世帯は急増しました。現在は、西成区全世帯の23%、約1万8千世帯が被保護世帯です。生保世帯の60%強、約1万1千世帯が60歳代以上の世帯です。60歳代以上世帯の6割強、約7千世帯が、元釜ヶ崎労働者です。釜ヶ崎で10年、20年と働いて、高齢のため働きにくくなって、生活保護を受けています。西成区の、大阪市の保護率が高いのは、日本全体の高齢者対策の未成熟な結果です。釜ヶ崎の、野宿生活者の問題ではありません。

生活支援・居宅訪問は、野宿生活者が路上や公園からアパート生活に移行して以後の支援です。アパート生活に移行する人の8割は、大きな問題なく生活を続けます。2割が、再び、野宿生活に戻る危険を抱えています。アルコール依存やギャンブル依存で家賃まで使い果たし、居所を失う人、認知症や脳梗塞の後遺症などで買い物などに不自由する人、家族や周辺に知り合いのいない高齢単身者は、関わりを持った釜ヶ崎支援機構が、日常生活の支援を続けざるを得ません。日常的な金銭管理、多くの病名を持つ人の薬の管理などを行っています。また、週1回、グランドゴルフを楽しむ会もおこなっています。

釜ヶ崎支援機構福祉相談部門が行っていることは、市内各所で活動する支援団体の多くが行っていることでもあります。
 

*お仕事支援部無料職業紹介所の事業について
 

お仕事支援部では、国から事業委託を受けている大阪ホームレス就業支援センター運営協議会から委託を受けて、就職相談や就労支援、求人紹介などをおこなっています。また、大阪市に、ニート・高齢・野宿生活者複合型就労支援モデル事業を提案し、認められて事業委託を受け、取り組んでいます。

昨年7月から本年1月末までに、555人から相談を受けています。無料職業紹介所といっても、まだ求人登録は少なく、大阪府外の人材派遣会社や警備会社、建設会社からのものが、数件あるにとどまっています。相談者の年齢は20歳代から70歳代まで、幅広い構成となっていますが、50歳代が6割を占め、それ以下の年齢層が2割です。寝場所も、アパートや簡易宿泊所、夜間宿所、野宿とわかれていますが、多いのは夜間宿所で、4割近くを占めています。野宿は2割です。生活の糧を求める求職は切実なものですが、生活保護受給者が生き甲斐を求めての仕事探しも、切実なものであるということを、相談の中から感じました。

昨年7月から本年1月末までに、常用就職したもの5名、期間雇用で就労したもの5名、パートの仕事についたもの18名、釜ヶ崎支援機構が短期の就労を提供したもの65名、という結果に留まっています。

パソコンでの求人情報の検索の仕方や民間求人雑誌の活用の仕方、面接の受け方、履歴書の書き方、履歴書用写真の撮影、面接用意類の貸し出し、連絡用の携帯電話の貸し出し、就職が決まれば、事情により交通費や生活費の貸し付け、必要に応じて、就職活動に必要なありとあらゆる支援をおこなっています。

しかし、現実はなかなか厳しく、パートで清掃の仕事についたものの、野宿から通勤していることを雇用側が知り、解雇された例もあります。安定した居所を欠いたまま、月給日までの生活費も事欠いての求職活動は、なかなか実ることはありませんし、実った後がまた大変です。多くの人が、住み込みの仕事を探すことになります。工場派遣の仕事は住み込みが多いのですが、45歳までの年齢制限があります。

事業主としての釜ヶ崎支援機構が、草刈りやペンキ仕事などの仕事を請負、相談に来た人を短期間雇用して働く機会を提供することも、そう多くはありませんが、おこなっています。また、アルミ缶集めぐらいの収入になるにすぎませんが、内職仕事の提供も行っています。

4月からは大阪府の指定管理業者として、大阪市内にある2つの大阪府の公園を民間業者と共同で管理することになっています。少人数ですが、野宿生活者の雇用が確保されることになります。また、就労訓練の場としても、活用することにしています。

今ある労働市場に再参入することを支援するだけでなく、新しい競争原理によらない労働市場を作り出し、雇用の場を確保することも、重要な課題として取り組んでいます。

50代前半までの相談者には、自立支援センター入所を勧めます。2段ベッドの6人部屋、8人部屋で居住環境が悪く、それが元で途中退所する人がいること、多めに評価して就職率5割、後の半分は野宿に戻る、相談者の1割が自立支援センター利用経験者です。そのことを承知の上でなお、入所を進めています。なぜなら、野宿の状態での職探しよりも、まだ成果が上がる可能性が高くなるからです。釜ヶ崎支援機構には、寝場所・食事を一定期間提供し、求職活動に専念してもらうという支援ができないからです。もっとも、それができるようになったからといって、現在の雇用環境のままで、今ある自立支援センターで努力しておられる人々以上の成績を上げられるという自信は、毛の先ほどもありませんが・・・。自立支援センターの運用面で変化があります。個室の付属施設が、昨年12月、自立支援センター大淀付属の10室を皮切りに、設置され始めています。
 

5)大阪城公園・靱公園における行政代執行について
 

 3月1日に、各家庭に配付された「大阪市政だより」に、「大阪城公園・靱公園における行政代執行について」と題された記事が掲載されています。記事は2つの部分に分かれており、ゆとりとみどり振興局は、大阪城公園・靱公園における行政代執行の経緯を説明すると共に、「今後も、市民の皆さんが安心して憩える公園づくりに努めていきます。」と締めくくっています。

ホームレス自立支援課は、巡回相談、自立支援センター、大阪ホームレス就業支援センターの各事業について紹介し、今後も大阪市では、就労機会はじめ、安定した居住の場所や保健・医療の確保に取り組むとともに、生活に関する相談指導等を実施するなど、総合的に自立支援策を推進します。」と締めくくっています。

両者の言い分は、多くの市民が共有すべき空間を、私的占有しており、公園整備にも邪魔になるから立ち退いてもらった、事前に自立支援のための提案はおこなった、ということだろうと思います。

私は、野宿生活者の公園や道路での定着を肯定することはできません。しかし、先程からご報告しているように、自立支援策とはいいにくい、就労機会提供事業や寝場所提供事業に関わることによって、野宿生活者の公園や道路での定着を支えることになっていることも、一面の事実として認めざるを得ません。それゆえに、事業の見直しが必要な時期となっていることを、先程の報告の中で申し上げました。

公園からの追い立てに反対した人たちも、立ち退きを拒否した野宿生活者も、未来永劫、その場所に住み続ける権利を主張しているわけではないと、私は考えています。行政が指し示す支援策が、不充分であり、一時的な野宿からの移行にすぎず、結局はまた野宿に戻らざるを得ないだろうという不安がぬぐえないから、それならこのままここで生活し続けたいということになったのだろうと思います。自立支援センターを活用しても、少なく見積もって半数は野宿に戻っている。居宅保護を受けても、年齢によっては、就労指導の強化によって3〜4ヶ月で打ち切られて再び野宿になる。

新しくできた自立支援センター舞洲に、就労と福祉を振り分ける機能が付加され、現在での雇用環境でも労働市場に再参入可能な人に絞って自立支援センターに振り分けるという方式が確立し、生活保護適用が法の原則に則って運用されるようになれば、今回のような対立は回避されます。そのために、行政は、現地で支援活動をおこなう諸個人諸団体と意見交換を行う場を設け、自立支援に有効な具体的な事業を行政と民間との共同事業として、立ち上げる努力をすべきですし、支援団体側も、過度の行政不信から少しは抜け出す歩み寄りが必要だと思います。 ご静聴ありがとうございました。