ホームレスの人権 松繁 逸夫
ホームレス自立支援法の制定
「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(以下「ホームレス自立支援法」)が、2002年8月7日に制定されました。その目的は、@ホームレスの自立の支援、ホームレスとなることを防止するための生活上の支援等に関し、国等の果たすべき責務を明らかにする、Aホームレスの人権に配慮し、かつ、地域社会の理解と協力を得つつ、必要な施策を講ずることにより、ホームレスに関する問題の解決を図ること、ということです。
この法律においてホームレスとは「都市公園、河川、道路、駅舎、その他の施設をゆえなく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者をいう」とされています。
このホームレスの概念は、日本独得の概念です。通常、欧米諸国でいわれているホームレスとは、路上で生活している人は勿論ですが、その他に施設生活者であるとか、単身で家庭を持たない簡易宿泊所の生活者という人も含まれています。日本の場合はホームレスの概念を狭くとらえ、路上で生活している人、野宿生活者だけをホームレスといっております。「ホームレス」の数でなく、路上生活者の数で欧米諸国と比較すると日本が最大といわれています。
この施策の目標は、安定した雇用の場の確保、職業能力開発による就業機会の確保、住宅への入居の支援等による安定した居住の場所の確保、並びに健康指導、医療の提供……です。これが、うまくできたら問題は解決するという内容が盛り込まれています。
その「特措法」を根拠に、2003年の7月末に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法に基づく国の基本方針」が発表されました。たいへんわかりやすい基本方針ですが、基本的なところが欠けています。
野宿生活者は仕事=収入がなくて、居所を失い野宿しています。その人たちに、求人開拓し求人情報を与えて、問題が解決するのか。職業相談を実施しトライアル雇用や技能講習をやって野宿生活者がアパート生活をできるようになるのか。それはならないわけです。直接に収入をもたらす就業の機会を提供することが絶対に必要なのだと要求していましたが、その部分は今回の基本方針の中には入っていません。そこに、大きな問題があります。また、基本方針の中には「ホームレスの人権擁護に関する事項」があります。そこには「基本的人権の尊重は、日本国憲法の柱であり、民主主義社会の基本でもある、ホームレスの人権の擁護については、ホームレス及び近隣住民の双方の人権に配慮しつつ、次の取組により推進することが必要である」とあります。
なぜ「ホームレスの人権擁護については、ホームレス及び近隣住民の双方の人権に配慮しつつ」となるのか。問題提起をしておきたいと思います。
野宿生活者が社会にいかに多くなってきたか
ホームレス自立支援法では、全国の調査の後、基本方針を出すことになっていました。全国の野宿者の概数調査は、2003年の1月から2月にかけて行われました。
その調査で、現在全国に野宿生活者が2万5,296人いると公式に確定されました。この数字は低めに出ていると思います。例えば大阪市の場合は6,603人ですが、1998年8月に大阪市立大学を中心とした大阪都市環境問題研究会がほとんどしらみつぶしに調査した結果では8,660人でした。この間、行政施策もないわけではありませんでしたが、野宿生活者の減少に大きな貢献をしたかというと、はっきりした根拠がないのです。たぶん、実際には8,660人を少し上回るほどの数字が正しいのだろうと私は、思っています。いずれにしても、東京23区で5,927人、名古屋市、1,788人、横浜市、470人で、大阪市が1位です。人口1,000人あたりでみても、東京都で0.70人、大阪市は2.52人、全国で一番高いのです。
野宿生活者がどのように生活をしているかというと、1998年の大阪都市環境問題研究会の数字では「テント、小屋掛け、ダンボールハウス、その他の形態」2,253人、「囲い、ダンボール、布団、ベッド、その他」607人、「敷物、ベンチ」4,358人、「何もなし」874人、「移動者」568人です。区ごとでは西成区がもっとも多く1,910人、ついで浪速区の1,585人、中央区1,117人、天王寺区1,084人と続きます。
なぜ、野宿生活者は、今の社会に多いのか
日本は、農村部の労働力を都市へ安価な労働力として供給することによって、高度経済成長を遂げました。戦後日本の、産業別就業者数の経年変化を示すグラフを見ればよくわかります。製造業の就業者が増加を示している同時期に、農林水産業は落ちていきます。上昇する線と下降する線の交わっているここが、農業国から工業国へ変わったポイントです。ところが、「バブル経済」がはじけた以後、産業構造が変わり、製造・建設業がガクッと落ち、サービス業だけがのびていっています。
戦後、建設産業の就業者数は、製造業と同じような形で上ってきていました。それは、農業出稼ぎの受け皿として、製造業から失業した人びとの受け皿として、建設産業が利用されてきたからです。失業率をみると、失業率が跳ね上がっているポイントがあります。製造・建設業からの失業者がたくさん出た時期です。これはバブルがはじけた時期と重なります。いつもなら失業の受け皿として機能する建設業が、このときから機能しなくなったことを示しています。野宿生活者が増えたのは、この時期、1997、1998年からなのです。このような大きな流れの中で、野宿生活者が増えてきたのです。
1998年、大阪市立大学が野宿生活者の職歴をたずねた調査があります。学校を卒業して就いた職業で、もっとも多かったのは製造業、40パーセントを超えています。ついで建設業です。しかし、野宿にいたる直前職では建設業で75パーセントを超えています。全国的な産業就労者数の変動で説明したことは、野宿者自身の経歴として確認することができます。すなわち、失業の受け皿である建設業にいったん入って、そこから野宿になっている事実が、個々別の聞き取り調査からも明らかになっています。全国でいろんな団体が統計を出していますが、野宿労働者の平均年齢は、55.7歳ぐらいです。
大阪市の事情に即して話してみます。西成区には、あいりん労働センターがあります。ここの一階は「寄り場」といい、日雇労働者が毎日仕事を探しにくる場所になっています。業者はここに人を探しにきます。その釜ヶ崎の、現金求人(日々雇い)の年度別推移を示すグラフがあります。それを見ると、1970年に一つの山があります。この山は「釜ヶ崎」形成上、大きな契機となったものです。1970年の万国博覧会は1965年から準備に入りました。そのとき「一日一万人からの労働力がいる、突貫工事をしなければいけない」となりました。大阪府労働部が全国の出稼ぎ県に対して「大阪に人を送ってください」と依頼をしました。そして5年間で、5,000人の人口が西成区萩之茶屋周辺で増えました。
しかし、その後、オイルショック、ドルショックがあり、現金求人が減りました。梅田や難波周辺に1,000人、2,000人の野宿者があふれました。その後、日本列島改造などがあり一番の山はバブルの頂点でした。その頃には、一年間で190万人の求人に対応する規模まで、釜ヶ崎を中心に働く労働者の数は大きくなっていました。しかし、バブルがはじけ、100万人の求人がなくなりました。その後、阪神淡路大震災の復興に関わる仕事もありましたが、失われた求人100万人の仕事を補うものは何もないのです。今なお多くの労働者が、失業状態におかれています。
現在、中ノ島公園には、500人近くの人が寝泊りし、平均720人が毎日三食の炊き出しに列をなしています。ここにきている人たちにアンケートをとりました。直前職が日雇いの人で、当時は135,421円の月々の収入があったと言います。現在の収入平均は、15,861円です。直前職が正社員の場合は、当時は211,955円、現在は16,922円。直前職がパートの場合、当時は15,417円、現在が14,875円。直前職が自営業の場合は、当時平均は475,000円、現在21,500円。野宿している人の収入は、直前職で得ていた収入の一割程度ということになります。収入源の主なものは、アルミ缶を集め売ることです。平均年齢は、男性平均53歳、女性も少しいます。前職が正社員、アルバイト、派遣の人たちの平均年齢が若いので、平均年齢を引き下げています。中ノ島公園の野宿生活者は、釜ヶ崎とはちがって建設業を経由しないで野宿している人たちがいて、彼らが結構若いことがわかりました。
失業保険の受給者を調べました。直前職日雇いのなかで、14人の人が日雇いとなる前に、常用の雇用保険給付金を受給していたことがわかりました。一番遅い時期の人で、平成12年に失業保険をもらい切って日雇いになった、そして野宿しているということです。「バブル」がはじけた後でも、なお釜ヶ崎の日雇い労働は失業の受け皿として機能している部分もあることがわかります。前職が正社員で、23人が雇用保険をもらっています。この人たちは、ここ2〜3年の間にリストラされ雇用保険をもらい切った人たちです。雇用保険をもらったが、再就職できず蓄えもつきて、アパートを追い出され野宿している人たちがいるということです。
もっとも大きかった日雇い労働者市場
「釜ヶ崎」というのは俗称で行政地名ではありません。「あいりん地区」というのも俗称ですが、行政が決めた名称です。1961年8月1日、50何歳かの日雇労働者が霞町の交差点で交通事故にあった、警官がムシロをかけたまま放置していた、「ポリ公、まだ生きているのに、なんで、はよ救急車呼ばんのや」と石が投げられたのが西成集団暴動事件、いわゆる「第一次暴動」の始まりです。この事件は通称「釜ヶ崎」と呼ばれる地域に発生しました。その後も、「暴動」が頻発し、1968年6月に、大阪府、大阪市、警察の三者協議で、地名を改めることを決定しました。要するに暴動が続いていて、イメージが暗いから「『釜ヶ崎』から『あいりん』に通称を変更したい、マスコミ等は今後この名前を使ってください」とお願いしたのです。
求人減がはっきりし、多くの野宿者がいる釜ヶ崎に、なぜ、今も人が集まってくるのか。それは釜ヶ崎の中に、不安定就労層に対応する福祉施策があるからだと言えないこともありません。相次ぐ「暴動」に、「日雇労働者対策を何とかしなければいけない」と大阪市が作った、釜ヶ崎地区内の単身日雇労働者専門の福祉窓口があります。
相談者がくると、大阪市立更生相談所で受け付け面談をし、施設に入れなければならない者は一時施設に入れ、そこから救護施設に入れる。大阪市では、社会福祉法人大阪自彊館がもっとも有名なところです。これで生活保護にかかるわけです。大阪市保健所分室は、精神と結核の判定をおこなうところです。社会医療センターとは、無料定額診療所です。これは、暴動の後、設立された「今宮診療所」の歴史を引き継いでいます。無料で医者に診てもらって、薬をもらうことができる医療機関です。今、体の調子がおかしい野宿生活者は、梅田や扇町、長居で野宿していようと、救急以外は、ここまで歩いてきて医療にかかることになっています。日雇労働者に対する福祉施策が、野宿生活者にも適応できているのです。こうした機能が残っているのは、全国で日雇労働市場が残ったところ、山谷とか川崎市、名古屋市、大阪市にしかないわけです。広島市や神戸市には、一時宿泊所がありますが。
敗戦後はバラックで暮らす人たちもいたけれど、日本が高度成長を遂げる中で路上生活者がいなくなった。しかも社会保障の考え方が契約の概念になり、健康保険や失業保険で対応することになり、全国の市町村から路上生活者や不安定生活者の受付け窓口が消えてなくなったのです。だから、今、野宿者が全国に出たときに、どうやって対応したらいいかわからない自治体の方が多いのです。「これは福祉の窓口の問題ではない、福祉窓口というのは、管轄内に居所があって初めて対応するところや」としか思っていないのです。しかし、本当は、そんなことはないわけです。路上生活者や不安定生活者の受付け窓口を、相当の規模でもっている大阪市は、目立つ存在であるといえるでしょう。
野宿生活者は気楽か
2000年に、路上生活者の死因や死んだ場所等を監察医の方達が調べました。大阪市内ほとんどのところで路上死があります。死亡時の推定年齢は、50から59歳に山があります。餓死及び凍死では発見時推定年齢、60から69歳です。標準死亡比をくらべると、アパート生活、マンション生活をしている人より野宿している人の方が3.56倍死亡率が高いとことになっています。結核での死亡率は、44.42倍です。自殺は6倍です。それぐらいストレスの高い生活を送っているということです。このことを多くの人に知っていただきたいのです。
ここに、1983年5月3日付の朝日新聞記事のコピーがあります。これは、横浜市寿町周辺で少年たちが野宿している人たちを公園のごみ箱の中にぶち込んで引きずり回して打撲傷を追わせ殺す事件が起こったときの記事です。同様の野宿者に対する襲撃事件は大阪市でもありました。寿町の記事では、8年前、1975年から野宿者への襲撃があったと新聞に載っています。1975年とは、建設業の求人がガタッと落ち、野宿者が街中にあふれ出た時期です。この時期に、行政は労働施策もしなかったし福祉施策もしなかったのです。この時期から、少年少女たちが野宿生活者を襲うようになっています。寿町で少年少女が警察に「野宿生活者は、社会ののけ者や、あんな者いびってなぐっても警察ざたには絶対ならん」と言っていたそうです。これは問題に正しく対応する労働施策などが1975年の時点でなかった、労働者を路上に放置していた結果、そういうことが起きた事を示しています。同様の傾向は、現在でも続いています。
一般的な野宿生活者に対する浮浪者観が、事態をこじらせているもとになっていると私は思います。それは、「浮浪者」「乞食」という人たちは生得的に怠惰で、ただ飯を食わせるだけではダメで、ビシビシ刑罰的に労働させなければいけないという見方です。それは洋の東西を問わずにあります。流浪の民は認めないのです。しかも近代社会においては「流浪の民」は社会的原因によって作られたにも関わらず、そのことを問わないのです。見た目が汚い、怠け者で働いていない者はどうしようもないということで見解は一致しています。そういった背景が、国が法律を作って施策をやろうといっても施策が進まない一因でもあります。そういう偏見、差別を何とか是正しなければならないのです。
「ホームレス」と人権
冒頭に問題提起をした、なぜ「ホームレスの人権擁護については、ホームレス及び近隣住民の双方の人権に配慮しつつ」となるのか、ということについて述べます。
もっとも一般的な例は、釜ヶ崎支援機構の事務所にかかってくる苦情の電話、「子どもが公園で遊びたいと言うけれど、こわいおっちゃんが公園で寝ているから遊べない、あんたら野宿者の権利と言うけれど、私らの子どもが公園で遊ぶ権利はどうしてくれるねん」「花見のときぐらい、中ノ島公園の浮浪者をどうにかしてくれ」、などで示すことができます。
都市の中の公園は、みんなで使って楽しむものですから、公園を私的占有してはいけないというのは、もっともな意見です。それでは、野宿者が公園を使う人の権利を侵害しているのか。直接的に、そこに生活しているのは野宿者ですから、確かにそう見えます。だから、「近隣住民の双方の人権に配慮しつつ」と書かれているのだと思います。、
しかし、私のこれまでの説明が正しいとするならば、彼らが野宿しているのは、今の段階で仕事が社会的に保障されない結果なのです。労働によって生活を安定させることができないなら、国は生活保護法によってその人の生活を安定させるというのが日本の法律の仕組み、日本の社会の最低限度の合意事項なのです。この合意事項が、野宿者に対しては守られてない、生存権が保障されていない、つまり、その権利が侵害されているので、彼らは公園で寝るのです。そこから派生して、公園を利用する者への権利侵害が起こるのです。
とすれば、公園を使う権利を阻害しているのは、国家ではないか、行政ではないか。一番最初に「野宿者をつくる」という人権侵害を犯した国家、行政の責任ではないか。それを、もっと多くの人たちに理解していただければ、自分が公園を気持ちよく使いたかったら、国家、行政に対策を要求すべきだということを理解していただけると思います。
「ホームレス問題」の人権啓発が一番難しいと思うのは、野宿生活から経済的自立を果たした人たちの扱いがどうなるかということです。今、野宿生活者は差別され、「人間的に敗者である、普通に生活している人たちよりも劣った者である」という意識が強いのです。そういう意識があるので、自立支援センターから普通に就職をしても、元野宿していたことを隠して就職しているのです。野宿生活というのは住居がないから野宿している状態です。そこから抜けたら、普通のアパート生活者、普通のサラリーマンじゃないですか。そうはならないのです。そこには一つの差別の新しいパターンができているのです。それは野宿の状態に至った者に対する、一等下に見る価値観があるからです。それをどうにかしない限り、現状の対策も変わらないし、野宿から普通のアパート生活になったとしても問題解決に、つながらないのです。みなさんには、そこのところをよく考えていただきたいのです。そして、機会がありましたら、そういう人権啓発をしていただきたいと思います。