釜ヶ崎・野宿生活者と医療についての歴史的点描
 

(1)スラムとコルネット帽

『 カツテ、幾人カノ外来者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奥深ク迷ヒ込ミ、ソノママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク――このやうに、ある大阪地誌に下手な文章で結論されてゐる釜ヶ崎は「ガード下」の通称があるやうに、恵美須町市電車庫の南、関西線のガードを起点としてゐるのであるが、さすがその表通は、紀州街道に沿つてゐて皮肉にも住吉堺あたりの物持が自動車で往き来するので、幅広く整理され、今はアスファルトさへ敷かれてゐる。それでも矢張り他の町通と区別されるのは五十何軒もある木賃宿が、その間に煮込屋、安酒場、めし屋、古道具屋、紹介屋なぞを織込んで、陰欝に立列んでゐるのと、一帯に強烈な臭気が――人間の臓物が腐敗して行く臭気が流れてゐることであらう。』

 これは、1932年の冬、母の死の三日後に、感傷に駆られた男が、12歳まで住んでいた町、釜ヶ崎を訪れた時の一夜の物語を描いた、武田麟太郎の小説の書き出しである。(注1

 その中には『「兄貴、酒おごらんか、は云へます、そやけと、云へまつか、めし一ぱい頼むとは」と彼が云へば、夜更けの酔払ひたちは口々に、「さうは云へん、云へんもんぢや」と、首を振るのであつた。』という、現在でもまま目にする光景も描かれている。

 昭和恐慌のさなか、釜ヶ崎へは農村で生活を維持できなくなった人や、都市失業者・困窮家族が移住し(注2)、労働による継続的収入を確保する仕事が少ないことから、武田麟太郎の描く世界が繰り広げられていた。

 釜ヶ崎(注3)の原イメージを伝える小説として、「釜ヶ崎」は有名であるが、その発表の同じ年に、コルネット帽をかぶった愛徳姉妹会のシスター達が、釜ヶ崎で社会事業を始められたことは、あまり知られていない。

 小説「釜ヶ崎」の初出は、1933(昭和8)年3月の『中央公論』、シスター達が西成区東萩町30番地に、木造2階建洋館風の建物とこれに隣接する木造平屋を借り受けて「聖心セッツルメント」を開設したのが、同年111日。(注4)聖心会院長マザーマイヤが、裕福な聖心学院の学生や父兄達と、貧しい人々との間に愛の関係を結びたいと望み、釜ヶ崎での事業開始を願って、フランスから愛徳姉妹会を招いたのが端緒である。

 東萩町30番地は、現在の萩之茶屋南公園(通称三角公園)の西南角付近にあたる。シスター達は、熱心に貧しい人々や病人を訪問したらしいが、「事情をよく知らないので、どんな地域にでも出かけていったので忠告を受け、その後は誰かにつれて行ってもらうことにした。」というから、武田麟太郎の主人公が住んでいたという、今の新今宮駅から西成警察署までの紀州街道沿いの路地裏と、東萩町では、町の様相がやや異なっていたようである。

 洋館風の2階建ては、方面委員の紹介を受けたものを対象とする診療所(内科・外科・小児科)として使用され、週3日、午後のみ開いていた。隣接する木造平屋の建物では、子ども会が運営されていた。

 活動を開始した初年度(1934年)半年間の活動実績は、次のようであった。

欠食児童給食 5,027/衣類給与  布団 40、着物 680、古着 250/診療所  診療 2,476、施薬 10,333/患者訪問  童貞見舞 740、医師往診 44

 「童貞見舞」というのは、シスター達の患者訪問のことで、「子ども達も私たちをよく見ようとして、泣いていたのをやめてしまいます。殆ど知覚を失っている病人でも、コルネット(カモメが翼を広げたような帽子)が自分の上に傾くのを見て、嬉しそうに微笑する」と、当時のことが語り継がれている。

 小説「釜ヶ崎」とは異なった釜ヶ崎−確かに、自由労働者や廃品回収者、アオカン(野宿)を余儀なくされるものも多かったであろうが、女性も子どももまた町の中でたくさん生きていたことを知ることができる。

 聖心セッツルメントは、1936(昭和11)年7月に、海道町36番地(今の萩之茶屋中公園―通称炊き出し公園−北西角あたり)へと活動の拠点を移し、1945(昭和20)年313日の空襲で焼失。戦後も、愛徳姉妹会は、現在地萩之茶屋3丁目で活動を続けているが、聖心セッツルメントは再開されなかった。
 

(2)戦後処理の終焉と釜ヶ崎

 戦後の大阪市の福祉行政について、大阪市のホームページに簡潔な記述がある。(注5

『終戦直後のわが国には、戦災者、戦災孤児、引揚げ者、失業者といった生活困窮者が溢れていましたが、彼らに対する当時の福祉事業とは、ともかく応急対策をしていただけで、いわば戦災の救済事業の延長でした。

これを一刻も早く回避するため、GHQは終戦から4か月後の1214日、「救済ならびに福祉計画の件」と題する覚書を日本政府に提出しました。これは第1に社会福祉が国家の責任において行われるべきこと、第2に事由のいかんを問わず最低生活を保障すること、第3に無差別平等に救済が行われることの3点を含んだ詳細かつ包括的な計画を、1230日までにGHQに提出することを要求しました。これに対し政府は翌15日に「生活困窮者緊急生活援護要綱」を閣議決定し、昭和21(1946)4月より実施することとしました。

大阪市の活動もこの要綱により軌道に乗りはじめました。例えば、大阪駅周辺の罹災者、戦災孤児、引揚者などを保護するために駅構内に設けられていた市民相談所は、昭和2111月その設備を拡充し梅田厚生館として発足しました。同館ではこれらの人々を一時保護し、健康診断や身上調査、適性検査などを行い、それぞれに適する施設へ送致する役割を果たしました。また帰郷する者には、鉄道公安室を通して帰郷させました。昭和2011月から23年3月までの間に同館に収容され、病院や他の施設に収容された者の合計は19,649人でした。

梅田厚生館とともに終戦後の大阪の民生事業に携わった施設に弘済院があります。昭和2011月から2112月の間に梅田厚生館から他の施設へ送致された件数は7,739件、内約40%を弘済院各施設が引き受けていました。そして昭和40(1965)梅田厚生館と弘済院長柄分院は、市立中央更生相談所に統合されました。

勤労宿泊所建設綴[含今宮勤労宿泊所増設一件](昭和22)−写真説明

戦後、駅周辺や広場に集まり、野宿する人々(当時は浮浪者と呼んだ)への救済事業として、塩草、今宮、豊崎などの勤労宿泊所に収容し、自力更正させようとしました。』

 「大阪市民生事業史」(1978.3 大阪市民政局)によれば、敗戦の年(1945年)8月から12月末までの大阪駅周辺屍体処理件数は、321件、翌年は1月から12月で421件であったとされている。(292頁)
 

表1.梅田厚生館における相談及び送致取扱件数の推移(大阪市民性事業史332頁。男性%は著者が付加したもの)
  20年 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年 合計
送致 392 5,716 6,731 3,497 2,745 3,252 2,824 3,129 3,997 7,298 4,392 43,973
128 2,041 2,516 1,482 1,084 1,026 787 604 875 994 594 12,131
520 7,757 9,247 4,797 3,829 4,278 3,611 3,733 4,872 8,292 4,986 56,104
送致男性% 75.4% 73.7% 72.8% 72.9% 71.7% 76.0% 78.2% 83.8% 82.0% 88.0% 88.1% 78.4%
相談 569 6,314 7,407 4,631 6,191 6,760 5,136 4,316 7,644 11,224 6,030 66,222
235 2,347 2,704 2,442 2,079 2,347 982 1,130 1,307 1,544 597 17,714
804 8,661 10,111 7,073 8,270 9,107 6,118 5,446 8,951 12,768 6,627 83,931
相談男性% 70.8% 72.9% 73.3% 65.5% 74.9% 74.2% 83.9% 79.3% 85.4% 87.9% 91.0% 78.9%

 

 表1は、梅田厚生館の送致と相談の年度ごとの件数をまとめたものであるが、それによれば、『送致は2122年に多く両年度で17,004人となっており、23年度からは半数となっている。これは引揚者、復員者、戦災者の問題は表面上ある程度解決したと理解できることをしめすものであろう。25年からはじまった朝鮮戦争によってこの数はさらに減ずるのであるが、戦争終結とともに不況時代に入って29年度には激増し、8,000人を超えている。

相談件数では2122年ごろは送致件数をやや上まわっている程度であるが、25年度と29年度では、収容保護以外の相談が多くなり、送致を行ったケースは23年ごろから少なくなって、29年度に多くなっている。このことは23年ごろから一応の戦災処理がなくなったことをしめすと考えられ、29年の送致の増加は不況によるものと推測される』(331頁)
 

  表2 梅田厚生館より施設送致調べ(民生事業史333頁)            
内訳 送致累計(昭和20.11.1〜23.3.31) 内訳 送致累計(昭和20.11.1〜23.3.31)
  15歳以上 8〜14歳 7歳以下   15歳以上 8〜14歳 7歳以下
施設名 施設名
助松学園     8       8 朝光寮   41         41
助松寮 1   1       2 成美寮   28   1     29
長谷川学園     2 2     4 婦人厚生館   8   2 7 15 32
博愛社 16 2 233 81 72 43 447 聖心隣保館 45 268 99 62 99 80 653
東光学園 18 22 191 43 15 11 300 邦寿会(駒川ホーム) 40 131 63 29 44 48 355
水上隣保館 28 8 96 32 4 6 174 邦寿会(赤川ホーム) 7 12 5 2 5 5 36
高志学園     3 1 3 2 9 悲田院 28 427 75 70 115 118 833
健康ノ里 12 5 99 24     140 豊崎厚生寮 524           524
奈佐原療 2 5 46 7     60 塩草勤労宿泊所 105           105
若楠学園 12   24 3 1   40 大阪自彊館 699 1 2       702
愛育社     1 1 6 4 12 鴻和寮 616 8         624
白鳥学園     40 13     53 青空の家 89           89
四恩学園   2 2 3 16 18 41 北海道炭礦 1,563 3   1 1 1 1,569
桃花塾 21 6 41 15 5   88 弘済院 1,835 651 138 68 118 83 2,893
修徳学院 2 1 49 4     56 長柄分院 623 286 158 48 67 49 1,231
初島学園 35           35 柏原療養所 836 121 195 23 6 2 1,183
大阪幼少年保護所 58 2 157 15     232 浅香山病院 1,425 265 110 15 6 32 1,853
公徳学園 17 6 61 2     86 香里病院 2,005 112 34 9 12 17 2,189
生駒学園 48 5 103 1 1   158 小坂病院 532 737 41 32 36 29 1,407
彌栄学園 36   35       71 刀根山病院 44 2         46
若江学園 13 1 38 16     68 天王寺病院 75 39 16 12 3 5 150
月ノ輪療     44 8     52 大阪養老院 5 5         10
武田塾 1   40 7 1   49 その他 552 244 67 22 12 13 910
小計 320 65 1,314 278 124 84 2,185 小計 11,648 3,389 1,003 396 531 497 17,464
                総 計 11,968 3,454 2,317 674 655 581 19,649

 

 表2は、昭和2011月から233月までの間に梅田厚生館が送致した施設名と年齢別人員であるが、15歳以上男女について柏原療養所以下天王寺病院までを集計すると6,193人となる。これは、小計15,037人の41.2%にあたる。弘済院と長柄分院にも病人が含まれているはずであるから、15歳以上男女で入院したものの割合はもっと高くなると考えられ、梅田厚生館の利用が、病気を原因とするものが多かったと推測される。

 送致先施設は、『左側の施設は児童収容施設。婦人施設は右側の朝光寮・成美寮であり、婦人厚生館・聖心隣保館・駒川ホーム・赤川ホームは母子寮である。老人施設悲田院に多数の児童が収容されているのは、異常な社会状態における福祉の柔軟な対応を示す例であろう。豊崎厚生寮・塩草勤労宿泊所・大阪自彊館・鴻和寮・青空の家は宿所提供施設であり、単身男性をそれぞれ多数収容している。弘済院は病院・老人施設・児童施設をもつ総合施設であり、長柄分院とあわせて4,000人をこえる人々を収容している。浅香山病院・香里病院も多くの病人を収容している。ここに興味あるのは「北海道炭鉱」であり、当時エネルギー源であった石炭業に労務者が不足をつげており、大阪市では民生委員の代表をおくり、現地を視察し、その結果梅田厚生館からも1,563人を送っているのである。』(332頁)

 戦後の混乱が落ち着きはじめると、梅田厚生館の相談内容にも変化が現れた。『再保護ケース(2度以上保護を受けた人)は、昭和33年の9%が37年には38%、40年末では50%をこえているのである。30年代における量的な安定と、30年代後半における再保護ケースの増加は、日常的な状況における大阪市を中心とした社会が生み出す脱落者層の実態を示すものであろう。』(336)30年代になると大阪市の「浮浪者」はしだいに「釜ガ崎」に集中し、戦後いちはやく建てられた簡易旅館とこの周辺地区に建てられたかり小屋の居住者とともに、「スラム地区」を形成し、北の大阪駅周辺の整備とともに「浮浪者」対策の中心はこの南の「釜ガ崎」に移った。』(337頁)

 国勢調査の数字を信じるならば、「大阪市民生事業史」にいう「浮浪者の釜ヶ崎集中傾向」は憶測に過ぎない。1955年国勢調査では、西成区は175人で9.5%を占めているに過ぎない。浪速区も5.7%にすぎない。1960年についても、西成区は4.6%にすぎない。ただし、浪速区は25.3%と5倍にもなっている。「釜ヶ崎」の範囲を大阪府警本部防犯部の「実態調査」で言うそれに合わせると、「集中傾向」といえるかも知れない。

 

15.浮浪者数 この表は昭和35年国勢調査の際、10月1日午前0時を期して実施された浮浪者特別調査班によって調査された浮浪者の数を調査場所別に掲げたものである。子供は昭和21年以後に生まれたものを再掲したものである。
1)臨時国勢調査(10月1日)2)常住人口調査(8月1日現在)3)〜4)国勢調査(10月1日現在)。
大阪市統計書・第49回・昭和36年版・昭和37年3月10日発行・大阪市行政統計局
  21.浮浪者数 本表は昭和30年国勢調査の際、10月1日午前0時を期して実施された浮浪者特別調査班によって調査された浮浪者の数を調査場所別に掲げたものである。子供は昭和17年以後に生まれたものを再掲したものである。
1)臨時国勢調査(10月1日現在)2)常住人口調査(8月1日現在)3)国勢調査(10月1日現在)「大阪市統計書・第44回・昭和31年版・昭和32年5月20日発行・大阪市行政局統計課
 
調査場所 総数 子供(再掲) % 調査場所 総数 子供(再掲) %
1)昭和22年 427 339 88     1)昭和22年 427 339 88    
2)23年 380 286 94     2)昭和23年 380 286 94    
3)25年 528 445 83     2)昭和25年 528 445 83    
4)30年 1,839 1,699 140 71              
35年 862 807 55 27   30年 1,839 1,699 140 71  
浪速区 218 208 10 2 25.3% 浪速区 105 95 10 3 5.7%
新世界一帯 101 99 2     新世界映画館グラソド前 52 44 8    
南海高架線下 27 24 3     新世界映画館世界座前 13 13      
堺筋(日本橋3丁目〜戎橋筋) 34 31 3 1   新世界映画館国際劇場前 18 16 2 3  
日東町方面 56 54 2 1   新世界映画館敷島劇場前 15 15      
            新世界映画館公楽座前 7 7      
北区 201 189 12 7 23.3% 北区 506 486 20 5 27.5%
大阪駅付近一帯 127 119 8 4   大阪駅付近一帯 341 329 12 2  
阪急ビル周辺 3 3       阪神ビル裏側付近 25 25      
扇町公園 52 48 4 3   阪急デパート裏付近 16 15 1    
阪神新阪神ビルー帯 13 13       扇町公園 51 49 2    
中之島公園 6 6       市立工業研究所付近 25 25   2  
            水道局庁舎付近 22 22      
            中之島公園 26 21 5 1  
天王寺区 147 133 14 7 17.1% 天王寺区 503 453 50 21 27.4%
天王寺公園.内 135 123 12 7   天王寺公園一帯 458 412 46 19  
天王寺駅前一帯 12 10 2     四天王寺境内 20 17 3 2  
            夕陽丘町泰聖寺裏 3 3      
            東平野町5丁目夕陽丘児童園前 1 1      
            生玉神社境内 16 15 1    
            上六公園 5 5      
南区 81 76 5 2 9.4% 南区 165 158 7 2 9.0%
高島屋デパート周辺 40 39 1 1   高島屋デパート周辺 39 38 1    
御堂筋大丸デパート周辺 9 9       南街劇場 19 19      
中橋川畔 1 1       千日前 14 14      
末吉橋 11 10 1     八幡町御堂筋勧銀前 1 1      
板屋橋 1 1       御堂筋大丸デパート前 35 35      
湊町木綿橋 2 2       御堂筋十合デパート前 10 10      
千日前・千日前デパート周辺 10 8 2     久左衛門町大黒橋及び浪芳橋 11 8 3    
瓦屋町公園 5 4 1 1   鰻谷西之町旧文楽座裏 17 15 2 1  
難波スバル座前 2 2       塩町4丁目心斎橋筋 6 5 1    
            問屋町東横堀川畔 3 3      
            長堀橋筋1丁目長堀川畔 5 5      
            西賑町高津原橋 3 3   1  
            日本橋北詰 2 2      
阿倍野区 60 57 3 1 7.0% 阿倍野区 222 214 8 2 12.1%
近鉄デパート周辺 39 37 2 1   近鉄百貨店及び地下鉄附近 143 138 5 1  
アベノ筋1丁目近鉄前 21 20 1     天王寺駅小荷物置場附近 70 67 3 1  
            阿倍野橋南詰地下鉄西口階段 9 9      
西成区 40 38 2 4 4.6% 西成区 175 170 5 3 9.5%
南海本線ガード下 33 31 2 4   山王町1丁目(176調査区) 10 10      
動物園前地下鉄付近 7 7       山王町1丁目(177調査区) 20 18 2    
            山王町1丁目(178調査区) 13 13      
            山王町1丁目(179調査区) 17 17      
            東田町(157調査区) 10 10   2  
            東田町(158調査区) 18 18      
            東四条3丁目(129調査区) 4 4      
            西入舟町(133調査区) 4 3 1    
            西入舟町(134調査区) 6 6      
            東入舟町(136調査区) 3 3      
            甲岸町(153調査区) 5 5   1  
            甲岸町(154調査区) 3 3      
            東萩町(312調査区) 12 11 1    
            東萩町(313調査区) 17 17      
            東萩町(316調査区) 18 17 1    
            東萩町(317調査区) 15 15      
東.区 32 28 4   3.7% 東区 73 54 19 18 4.0%
京橋2丁目楠公碑前 5 3 2     農人橋1丁目都市計画道路上 60 42 18 18  
国立病院西北角 1 1       両替町2丁目 7 7      
南新町2丁目中大江小学校東 3 3       大手通2丁目 2 2      
南大江小学校北側 2 2       石町1丁目公園下 3 2 1    
両替町2丁目新道路緑地 6 5 1     北久宝寺町1丁目川筋 1 1      
南久宝寺町1丁目 1 1                  
南久宝寺町3丁目 1 1                  
御堂筋一円(東区) 6 5 1                
大手前広場 1 1                  
大阪城内 6 6                  
東成区 31 31     3.6% 東成区 9 9     0.5%
八王寺神社境内 10 10       北中本町1丁目八王寺神社境内 9 9      
城東職業安定所 21 21                  
西区 28 24 4 14 3.2% 西区 59 39 20 17 3.2%
上繋橋橋下 3 3       南堀江通1丁目西横堀川畔 18 11 7 6  
筋違橋橋下 1 1       北堀江通1丁目西横堀川畔 16 11 5 3  
阿波座小公園 2 1 1     阿波座下1丁目西横堀川畔 7 4 3 3  
阿波座緑地帯 13 11 2     阿波座小公園 3 3      
靱公園 1 1       立売堀南1丁目助右衛門橋北詰 1   1    
雑喉場橋橋下 8 7 1     江戸堀南1丁目筋違橋下 1 1   1  
            京町堀5丁目ザコバ橋上 2 2      
            靫南通5丁目茂左衛門橋下 1 1      
            本田町2丁目昭和通空地 8 4 4 4  
            南安治川通2丁目安治川トンネル 1 1      
            北境川町臨港鉄道鉄橋下 1 1      
福島区 18 18   8 2.1% 福島区 1 1     0.1%
中津川運河淀川大橋堤防 3 3       中江町新橋筋街頭 1 1      
中央市場内 3 3                  
下福島公園内 5 5                  
中野天神跡 3 3                  
中江.町路上 1 1                  
市電穴門内 1 1                  
江成町路上 1 1                  
対込町路上 1 1                  
此花区 6 5 1 4 0.7% 此花区 9 9     0.5%
朝日橋の下 3 3   2   四貫島笹原町正蓮寺橋高架道 9 9      
正蓮寺橋下 3 2 1 2              
          都島区 5 4 1   0.3%
          桜宮公園神社下川畔 5 4 1    
          西淀川区 5 5     0.3%
          淀川大橋西詰橋裏 5 5      
          生野区 2 2     0.1%
          新今里町3丁目新今里公園 2 2      

 いずれにしても、梅田厚生館の取扱件数の中で、釜ヶ崎を中心に生活する人々の占める割合が多くなっていたことは事実であろう。朝日新聞(大阪)によれば、19611231日には、アブレ労働者50名を梅田厚生館が収容しているし、翌年には延べ363名の「青カン(野宿)労働者」を梅田厚生館、なにわ寮、自彊館へ収容している。釜ヶ崎から自分の判断で相談しに行くものもあったであろうが、済生会今宮診療所に本田良寛医師が着任してからは、今宮診療所からの依頼も増えたことであろう。(注6)

 かくして、大阪市立梅田厚生館は、1965年、弘済院長柄分院へ移転、弘済院長柄分院と更正施設豊崎寮と統合され、「大阪市立中央更生相談所」となって、市内全体の住居のない要保護者の福祉に関する措置をおこなうことなったが、1968年には釜ヶ崎地区内愛隣会館の相談事業を所管するようになり、1971年には愛隣会館と統合されて、旧施設は「一時保護所」となり、本体は釜ヶ崎内に移転して、「大阪市立更生相談所」となった。

 『これによって梅田厚生館以来、北部大阪駅周辺を中心として活動してきた浮浪者対策事業は、南部の愛隣地区の貧困者地区を対象とする事業に変ぼうしたのである。』(「大阪市民生事業史」338339頁)
 

【付記】「大阪市民生事業史」には、浮浪者、「浮浪者」、無宿者、母子浮浪者、父子浮浪者、労務者という言葉が使われている。同事業史には、愛隣地区有志が集まって発行している同人誌「裸」85号(44.3)の地区労働者の座談会「労働者の望む愛隣対策」を引用しているが(452453頁)、そこには「労働者をまるで浮浪者の求職のように扱う姿勢の改善。」があげられている。本田良寛「にっぽん釜ヶ崎診療所」にも、似たような記述がある。労働災害でありながら、業者のせいで労災扱いとならない「入院や安静を要するけが人の場合でやむを得ず行旅病人として病院へ入れたり、浮浪者的な扱いをして梅田厚生館に収容を依頼したりしている。まともな労働者を、行旅病人や浮浪者並みに扱わねばならないのは何とも心苦しいが、他に方法がない。」(170頁)

 ともに言わんとしていることはわかるが、引き合いに出された「浮浪者」はどうなるのだろうか。「浮浪者」は「浮浪者」として扱われて当然とされる人々がもしいるとすれば、我々とどのように異なる扱いを受けることが当然なのであろうか。

「浮浪者」という言葉は、何者をも意味せず、ただ「人」を人扱いにしたくないときに使われる。戦前は「浮浪罪」があり、現在の軽犯罪法にも似たような記述がある。「浮浪者」は、人として劣ったものであり、世の役に立たないもので、犯罪者か犯罪者予備軍であるとの見方は、個々の野宿している人に即して言えば、どれほど妥当性があるのであろうか。「浮浪者」は、切り捨ての言葉であり、使われるべきではないと考える。

また、「労務者」も、ただ肉体労働をするものをさして使われるよりも、もっぱら山谷や釜ヶ崎の日雇労働者を特定して使われることが多い。労働者よりも劣った存在、そんな意味を付与されて使われている。国鉄の線路工夫は労働者らしい労働者で、四天王寺境内でエアガンによって撃たれたのは、野宿していた労務者、という言葉に使い分けに、どのような必然があるだろうか。不用意な使いかたは避けられるべきである。

 

(3)暴動後の対策に欠けていた医療

 『住民登録がなければ、福祉の援助は受けられない。学校にも保育所にもいれてもらえない。失業対策の紹介対象者帳も交付されない。制度はここ(釜ヶ崎)では通じない。形式には市民も国民もここに存在しないかも知れないが、人間が個人が存在する。/バラバラな諸政策・諸制度ではなく、抜本的な綜合的な政策がここには必要なのである。368月の「釜ガ崎」暴動は抑圧された人びとの怒りの爆発である。どうしようもない憤りがそのエネルギーであったと思う。』(注7)

 第一次釜ヶ崎暴動といわれる19618月の暴動は、交通事故処理について、警察と消防で明確なルールがなかったことが一つの原因であったと考えられる。

 81日午後915分、派出所の巡査から、119通報で「東田町交差点において交通事故のため死者が出たが運んでくれ」と要請。消防は「すでに死んでいるのであれば、救出車では運搬できない」と回答。結局、20数分後に警察車両が現場に到着した。

 医者でない警官が、「死んでいる」あるいは死んでいるらしいと判断して通報した誤りと、医者でないものの判断を鵜呑みにして出動しなかった消防の誤り、消防、警察ともに救急業務に対する理解が足りなかったといわざるをえない。当時、大阪には救出車(現在の救急車)は6台しかなく、数少ない救出車を無駄に出動させたくないという意識が、消防にあったのかも知れない。

 ともかく、交通事故の被害者に対する対応の遅延から、81日の夜半には交番の焼き打ち、一般通行中の自動車に対する放火、さらに西成署本署の襲撃へと発展、3日から4日にかけて、国電、市電、南海電鉄等に対する襲撃、町の中では、猟銃や日本刀を持った暴力団が横行闊歩、映画に出てくる西部劇のような状態が釜ヶ崎の地帯に発生した。最終的には、他府県からの応援を求め、6,000名の警棒の嵐によって鎮圧されるにいたる。(注8)

 暴動後、様々な「対策」がとられる。西成警察には防犯コーナーが設けられ、警官がアベックで巡回する。大阪府労働部は、分室を設置し、職業紹介のまねごとをはじめる。愛隣子ども会作られ、愛隣学園ができる。しかし、その中で抜け落ちたものがあった。それは、医療問題である。その原因は、暴動以前になされた研究や現場報告の中に見られる「スラム問題」把握に偏りがあったからであると考えられる。

 暴動より3ヶ月前の5月に発行された「都市問題研究」は、「スラム問題」の特集であった。そこに当時の民生局長松本幸三郎が、「大阪市のスラム対策」と題して一文を発表している。

『私は民生局長に就任してから、早く、手をつけたい、どうしても、やらねばならないと、たえず気がかりな重苦しい課題があった。それは(釜ヶ崎)、馬淵町(浪速区)のスラム対策であった。/戦前にも増してめざましい躍進発展を遂げつつある大阪市の復興ぶりに、恰も背を向けるかのごとく、転落悪化の一途を辿っている両スラム―私は目前に画期的な国民健康保険制度の実施という重大かつ困難な事業を控えながら、もうこれ以上、スラム対策を見送ることが出来なかったのである。』

かくしてスタートしたスラム対策の第一歩としてあげられているのは、『347月、地元各種団体と関係機関の協力の下に「西成愛隣会」が生まれ、続いて同年10月、予備費から釜ヶ崎対策の拠点「愛隣会館」建設費約500万円の支出が決定し、朝日厚生事業団からは前記寄付金の寄贈があった。・・・・・36年度市会本会議および民生委員会においてスラム対策に関する熱心な質疑応答が繰りかえされ、予算面において、西成愛隣会館運営費100万円・・・・が可決された次第である。』というものであった。

暴動前に、意気軒昂、スラム対策を打ち上げた松本幸三郎が、同文の中で、高く評価しているのが、大阪社会学研究会の「大阪市西成区福祉地区実態調査報告書」(3528日)と朝日新聞大阪本社の柴田俊治による「大阪のどん底・釜ヶ崎に住んでみて」(3529日から20日までの12回連載)である。

 「大阪市西成区福祉地区実態調査報告書」は未見であるが、松本幸三郎の文と同じ号の「都市問題研究」に、大阪社会学研究会が、「釜ヶ崎の実態(上)」を、その次の号に「釜ヶ崎の実態(下)」を発表している。これは、前記報告書を要約・まとめて発表したものと考えられる。

 「都市問題研究」や柴田俊治の連載記事は、大阪市立図書館で目にすることが出来る。

 共通していえることは、釜ヶ崎の人びとが、病気となったときどのような手立てがあるか、あるいはなすすべがないのかについて、ふれられていないことである。(注9)国民健康保険制度実施前のことで、病を得ると、釜ヶ崎の地以外においても、多くの人が釜ヶ崎の住民同様なすすべがなかった状況であったということなのであろうか。だから、あえてふれる必要がなかったと。

 196314日、済生会今宮診療所の所長となって、初診察を行った本田良寛が、着任にあたって済生会から聞いていたのは、『釜ヶ崎では今宮診療所が唯一の公的な診療所であり、釜ヶ崎の医療面で夜間診療を命ぜられている。だから法による社会福祉法人の範囲内で貧しい人びとの医療をおこなってくれという』ことであった。

 着任して地区内の施設や役所を回った本田が知ったのは、今宮診療所が、『単に夜間診療の開始のみを命ぜられただけで、釜ヶ崎対策のラチ外に置かれている』ことであった。『昭和36年の騒動後にはなばなしくスタートした“釜ヶ崎対策”には、なんと医療を責任をもって行う施設がなかった』のである。

 着任早々の本田は、一日が待てない患者と出会うことになる。

『そのレントゲン像は、ひどい混合型の侵潤で、大きな空洞がいくつもある。当然入院しなければならないケースだ。保健所か警察か市へ頼んで、なんとか入院させようと思い、そのむねをしたためた依頼の手紙を書いて本人に渡し、「あしたの朝、入院させてくれと頼みなさい。頼んだらなんとかいけると思うから、かならず入院するんやど。そうでないと死ぬぞ」といった。本人が「金がないから入院できない」としぶるのを「そんなことはない。金がなくても行旅病という収容方法がある。あんたは入院しなければ倒れてしまう。これさえ持っていけば何とかなるし、もし、何ともならなければここへ電話してもらうように頼みなさい。ぼくが頼んであげる。それでもあかんかったときは、わしが出向いてあげる」と励まして帰した。

翌日、役所へ行ってもう入院したのだろうと思っていたら、天王寺警察から、突然、電話がかかってきた。

「先生とこから役所あての手紙を持っていた年よりが、天王寺公園で死んでいましたよ。手紙のなかを見たら結核やと書いてましたが、そんなに悪うおましたんか。ほかに病気はおまへんでしたか。ほな、行き倒れだんな」

私は愕然とした。一日が待てない人がいる。一晩が待てない人がいて、路傍で死んでいく。これは何とかしなければならない。従来のやり方ではなんともならない。いままでの方法を打ち破り、道で人が死ななくてもすむ方法を作りあげようと、私は強く決心した。』

『そこで、西成保健所長の田辺所長と連絡を取り、どういうふうにすればよいかを話合った。市の民生の係員、愛隣会館の館長、保健所の職員、それに市大の堀内教授、文学部の大藪助教授をまじえて自由な話合いをしたが、患者の処理がそれまでまったくてんでばらばらであったのがよくわかった。

では、これから先、患者をどう処理していくかを検討の結果、一般の疾患で入院を要する人は、行旅病人として警察にお願いする、結核は結核予防法に該当させて保健所が引き受ける、そういう線が打出された。

この線にそい、5月末に西成区長と西成保健所長の連名で愛隣地区対策連絡会を開き、患者の処理方法を統一したのである。一般の病気の患者、結核の患者、性病の患者、精神障害の患者と、区分けをして、この患者はこういうふうに扱おう、あの患者はああいうふうに処理しようと手はずを決めた。(注10

この問題と並んで急を要するのは、医療費に困る患者に対する対策である。これについて、患者が医療費に困る場合(金がなくて、民生保護法の適用も受けられない場合)は、愛隣会館、労働福祉センター、西成警察、そのほか役所関係の施設や民生委員が、“診療依頼券”なるモノを発行することにした。「この人は診察を必要とするから一度見てくれ」という依頼の紹介状で、法的な裏づけはなく、ほかの診療所や官公立病院では通用しない。この券を、私の診療所で受取って診療する仕組みである。

さて、医療費に困って依頼券で今宮診療所をたずねてくる患者を、どう扱ったものか。患者にとって医療費は重大問題である。・・・・

かといって、ただで物事をほどこすことほど、相手をバカにした話はない。相手を乞食扱いにするものである。・・・・

そこで私は考えた。医療費に困っている患者には、あなたを信用してお貸しします、ということにしたのである。』

 1970年愛隣総合センターができ、今宮診療所は、大阪社会医療センターとして再出発したが、「診療依頼券」、「借用書」の方式は、今日まで引き継がれて、多くの人の健康・命を守り続けている。

 

(4)「釜ヶ崎越冬対策」の中の医療

 1971年『11月中旬、「越冬対策実行委員会」結成。一年前、全港湾建設支部西成分会を中心として行われた「越冬対策」は、ヘゲモニーが組合上層部に移るにつれて縮小され、当初最大の眼目であった<テント設営−共同生活>は握りつぶされた。前回の轍を踏まぬように、一つのことが確認された―「俺たちの正月を、俺たちで作ろう!』(注11

 1970年暮れ、大阪万博関連工事も終わり、その年10月に稼働し始めた巨大「より場―あいりん総合センター」周辺には、アオカンが目立ち始めた。それを踏まえての「越冬対策実行委員会」結成であったが、「慈善事業」「ライオンズクラブのものまね」という批判もあったようである。それに対し、「越冬対策」を担った一人、岩田秀一は、次のように問いかける。

『しかし、「越冬対策」の中心を担ってきた部分は、組合活動家であった。現実に労働者と接触し、その中で組合活動を発展させようとしている者にとって、「現実に倒れていく労働者を放置しておくことはできない」という実行委の結束点は(労働運動という枠組み)と矛盾するものではない。むしろ、このような釜ヶ崎の問題を直截に表現した、具体的な場の設定こそが、今までの運動に欠如していたのではないか。(略)

釜ヶ崎における運動の市民権は、何によって生み出しうるのか。釜ヶ崎労働者と活動家個々との新たな関係をどのようにして獲得できるのか。批判者―西成分会執行部―たちは、釜ヶ崎の実情を、労働者を、あまりにも知らなさすぎる。』

『日刊えっとう』は呼びかける(71.12.31)。

『俺たちは弱いもんや。弱いけど助け合うことぐらいはできる。10円の金を5円づつにしてもしのぐことができるんや。俺たちは、仕事がのうても楽しい正月を過ごすことができる。

テントも借りた。市場へ買い物も行ってきた。遊び道具も少ないけど集めてきた。はんば用のフトンも借りてきた。場所もある。

みんなで楽しい俺たちの正月を作れるようになった。俺たちのほとんどはどっか体を悪うしてる、いうて、お医者さんも来てくれよった。

金なんか問題ちゃう。あるモンもないモンも四条ヶ辻公園(今宮中学南・ガード外)に来てくれ。』

テントは、40名収容の大テント1張りと、キャンプ用テントが10張り。下に段ボールを敷き、その上にムシロ、布団が敷かれた。しかし、2日目には満員となり、「体の弱いモンを優先させよう、交代で休もう」と呼びかけられ、残りは一晩中、たき火を囲んで夜を過ごす状態であった。使用した米280キロ。作ったおにぎり900個。卵10キロ。集められた資金カンパ24万余円。

「釜ヶ崎の問題を直截に表現した、具体的な場の設定」の現実化は、厳しい現実の中で厳しい問いかけを受けることになる。

『公衆便所の中で濡れたフトンにくるまっていた老人を連れていこうとした時である。(側にいた)仲間が「どこにつれて行くんや」と止めにはいった。その老人は、過去何度も入院し、その都度逃げ帰って来ているという。汚れたまま病院へ送ったところで、冷たくあしらわれることはわかりきっている。労働者が耐えきれずに逃げ出すことで、病院はベッドを回転させているのである。

「あんたらどこまで面倒みてくれるんや」という老人の仲間の問いは、パトロールの限界の問題であった。』

31日、テントから100メートルほどのところで、一人の労働者が死んだ。10名ほどでたき火を囲み、毛布にくるまったまま青カンしていた中の一人だった。凍死ではない。(略)1名死亡! 実行委のメンバーは自分たちの限界を思い知らされた。死んだのは、おにぎりを必ず手渡し、「気をつけて」と声をかけていた一人だったのだ。「一人の死亡者も出さない」という決意も、この現実の前にゆるいだ。』

しかし、たき火の材料集めやたき火を共に囲む中で、『最初は少しあった全共闘学生(?)に対する反感も、いつしか民謡と手拍子の中に消えてい』き、『立案した者ですら、場がもたなければさっさと引き上げるつもりでいた』三角公園での「飛び入りのど自慢大会」は、600名が集まり、『エノケンやったおっさんは役者や。炭坑節や、俺たちの釜ヶ崎人情を歌ったおっさんもいたな。女の子たちも、圭子の夢は夜開くをうたったんやで、みんなで100人ほどののどを競ったんやで』という盛況を見せ、今宮中学校校庭で八チームのトーナメントで行われたソフトボール大会は、看護婦さんが投手として活躍した西成ジャイアンツは2回戦まで進んだが、実行委員会メンバーが5人もはいっていたチームは完封コールド負けを喫して、運動神経の鈍さを示したものの、『釜ヶ崎における運動の市民権は、何によって生み出しうるのか』の問いには、答えが示されたといえる。

テント村の各種行事(もちつき・すもう大会・バトミントン・とびいりのど自慢大会等)の成功を「日刊えっとう」(1972.1.4)は、次のように総括している。

『ソフトボール大会が成功裡に終わり、釜ヶ崎の仲間は喜びを感じています。というのは、越冬実の主催で開かれた各種の催しが、これまで一方的に決めつけられていた釜ヶ崎労働者に対する偏見を反古にするものとなったからです。数多く集まった釜ヶ崎労働者は、群衆ではなく、秩序を持った行動する人民であることを示したのです。』

そのテント村で、「無料健康診断を受けよう」と呼びかけられる。

『健康診断いうても、普通の病院でやるような堅苦しいモンやない。それでも、血圧測定や尿検査なんかもやってくれる。治療の受け方、健康保険の取り方も教えてくれる。体だ、体。大事にしようや。』

『四条ヶ辻公園で行われていた健康診断は、最終日の一時に開かれた。診断を受けに来た仲間は、過去に何度も入院したものが多く、それぞれ医療行政に対する不満といきどおりを持っており、診断はそれをぶちまける場ともなった。

釜ヶ崎の仲間が病院に行くと、応対からつっけんどんでおうへいなものであり、入院すると常時そのような状態に置かれる。それに耐えきれず飲むと、口実ができたとばかり追い出されるのだ。

これを、酒を飲んだ飲まないで考えると解決することができないでしょう。医療をおこなうもの、受けるものが共に病を治そうと努力するのが医療の姿ではないでしょうか。釜ヶ崎の仲間と医療の問題は、長期に渡る努力の過程で解決されねばなりません。その一段階として昨日の診断があったと思えます。

血圧・体重・尿検査・問診を58人の仲間が受け、体を治そうとしたのです。体を痛めているのを知りながら、病院に行かない仲間を放置しておくことはできないでしょう。釜ヶ崎労働者に対する差別を粉砕し、医療にたずさわる労働者と結びつき、医療の姿勢を問い直すなかで、労働者の健康管理を健康診断ではかろうではありませんか。』

釜ヶ崎にとっての医療問題は、単に健康を守るということではないことが示されている。それは、「恨みをはらす」という言葉で表される。

『ウラミハラサデオクベキカ・集中医療相談受付中/私たち医療を考える会は、集中的に「医療相談」をうけつけます。/これ以上殺られつづけないために、俺たちの命は俺たちで守ろう!そのためには、仲間みんなの知恵と力を結晶させることが必要なのだ。体のことや病院へ行ったときに、困ったこと・くやしかったこと・腹の立つことを教えてください。共に考え、共に解決していこう!(釜ヶ崎医療を考える会)』(日刊えつとう・1972.12.25

釜ヶ崎労働者の恨みのつもる医療の現場を、岩田秀一は、次のように報告する。(12)

『「救急病院が少ない。特にここの労働者をみてくれる病院が少ない。いつも何回も何回も頭を下げて断られ、また次に行き、頼み断られる。先日は病院まわりで4時間ぐらいかかった」

そういうのは、釜ヶ崎の中心部から南にはずれた所にある西成消防署海道救急隊の隊員である。ここの出動回数は大阪市内のどの救急隊よりも多い。年間で4千回は軽く超えるというから、一日に最低10回は出動せねばならない。・・・・

患者の発見場所で最も多いのは路上で、全体の三分の一にものぼる。そして以下ドヤ、警察関係(犯罪)、飲食店(立ち飲み酒屋も含む)・・・と続く。・・・・・路上発見といっても内科の患者が圧倒的多数をしめ、自損、ケンカ等による外傷がその次に続く。交通事故で出動することは、めずらしい部類に入るのだ。

なぜ内科系の救急が多く路上で発見されねばならないか。そこにトータルな意味で、釜ヶ崎労働者にとっての医療というものが存在している。

釜ヶ崎労働者ゆえに路上で倒れるというよりも、釜ヶ崎労働者ゆえに、路上で倒れることがもっとも確実に医療保護の“恩恵”に浴せる現実が路上発見の多さの意味なのだ。

・・・・・彼らが何回も頭を下げて断られる病院というのは、いつも引き受けてくれるはずの病院が満床で断られた場合、とくに頼み込む病院ということだ。

時には泥にまみれた風体の労働者を、いつでも引き受けられる病院はそれなりの病室を用意してある。悲しい話かも知れぬが、病院側の断る口実は「適当な病室、労働者にピッタリの病室はございません」ということなのだ。

46年度の大阪市内の救急受け付け数を病院別でみてみると、1位H病院(3,754件)、2D病院(3,974件)、3S病院(1,769件)。

H病院の)薄暗い病室は、かろうじて物が判断できる程度の小電球に照らされて不気味であった。おそらく白いはずのシーツやカーテン、壁が茶色に見える。狭い間隔で並べられたベッドの間を通って、目的のベッドについた時、ここが本当に病院なのだろうかと思った。・・・・・・

見舞いに持ってきた菓子を入れるため、ベッドのそばの小物入れの引き出しを開けるとゴキブリが飛び出したのにまず仰天。よく見ると引き出しは長く使っていないようで何か虫の糞のようなものがこびりついていた。

「医者は?」と聞けば、(救急搬送されたその日の受診以外、45日たつが)「まだ一度も」という。ただ看護婦が一日に一度点滴を打ちに来るだけらしい。

部屋は20人近く収容できる大部屋であって、壁は床に近づくほど黒く汚れ、採光も悪い。20人近い患者の顔は、どっかで見たような釜ヶ崎労働者の顔だった。この病棟は行旅扱い、あるいは生活保護患者専用病棟であるのだ。とどのつまり、それは釜ヶ崎労働者専用病棟ということである。・・・・・

重体患者は一般入院患者より優遇されるというのが常識だろう。しかしこの病院ではそれが通用しない。

・・・・・71年梅雨期のことである。

ある港湾業者の起こした就労上の問題をきっかけに暴動が起こり、そのさなか一人の労働者Oさんは重体の憂き目にあい、H病院に運ばれた。

彼が入れられたのは普通の病棟でなく、病棟と病棟の間に造られたプレハブであった。20人は収容できるそこに入っていたのは、Oさん以下いずれも重体の患者である。普通の病院でいう「安静室」とも言うべき所で、45日に一人、多い時では一日に2、3人が死に、死んでは新しい患者が入り、そしてまた死んでいくという。・・・・・

府下泉南郡にある病院に肝硬変で入院していた・・・Sさんの証言・・・

様態の悪い患者ほどトンコ(逃亡)する。しかも死なせるために入院させるとしか思えない所があって、1月から2月の間だけでも30人は死んだ。送られてくる患者は、H病院からの結核患者と、更生相談所経由の労働者だ。患者を狩り集める手配師がいるようで、精神病院でもないのに、アル中や分裂症患者としか思えない者まで混じっている。

悪徳の噂の高い事務の係長は、三文バンを多く持っていて、生活保護患者に支給される小遣いをネコババする。

法令により措置入院の定められている結核の場合はさらに複雑なものがある。肝臓疾患は感染することがなく、労働者個人の問題で済むが、もう一つの釜ヶ崎病と言われる結核はそうもいかない。

・・・・結核患者の労働者Tさんに付き添い更生相談所に行った時のことだ。

職員は病床が空いてないと言い、「これあげるから、23日したらまたおいで」と300円を出そうとした。

他人事ながら僕は腹が立った。「馬鹿にするな、乞食じゃないぞ」とも思った。「働けないし、それに結核ですよ。病室が空いてないのも仕方のないことでしょう。それならなおさら、2、3日もの間を300円で過ごせというのはどういうことですか」・・・・しかし結局は金を500円にあげさせるだけで何の解決も得られず、その労働者をドヤに休ませるしかなかった。

開放性(感染性)かどうか聞いたところで何の役にも立たないし、他の泊まり客に感染することも覚悟のうえだ。そうでもなければ取れる処置はないのだから。』

結核については、大阪市会でも問題とされている。

保健所等で結核患者を発見し、喀血しているので救急車を呼んだが、受け入れ病院がなく、救急車に一晩泊めてそのままにしている。あるいは、これは結核の喀血だから救急車で連れて行ってもどうにもならないので収容しなかった。そういった事例が挙げられ、新しくできた「大阪社会医療センター」で受け入れることができないのかという議論。(注13

また、アルコール依存症、精神病患者についても、地域内に受け皿がないことが指摘されている。(注14

大阪市の答弁者も認めるそのような状況が、医療でなく収容を主とするかのごとき病院を跋扈させることになり、医療や病院に対する患者の不信をつのらせ、ますます症状を悪くすることにつながっていく。

「越冬闘争」は、その後も毎年続けられ、「医療班」の活動も引き継がれてきた。釜ヶ崎の状況変化にみあう活動を模索しながら。

1982年には、テントを張る新しい形のアオカンが目立ち始め、釜ヶ崎労働者の高齢化が問題して取り上げ始められた。(注15

越冬医療班は、第12回越冬闘争に引き続き、1982年春の医療週間、秋の医療週間を実施し、第13回越冬闘争の目標スローガンの中に「日常的通年的医療運動の確立」を掲げたのは、冬期だけにとどまらない通年野宿の増大に対応しようとしたものである。

1983年、「釜ヶ崎医療連絡会議」が結成され、釜ヶ崎地区内だけでなく、アブレで市内各所に拡散させられた「仲間」をも対象とした、医療相談活動が開始されるようになる。(注16

「バブル経済」の最中においても、釜ヶ崎の「春のアブレ地獄」は繰り返され、高齢者を中心とした通年野宿が定着していたが、「バブル経済」崩壊後は、簡易宿泊所から公園・路上への野宿へと大量の釜ヶ崎日雇労働者が押し出されていった。釜ヶ崎という失業の受け皿が機能しなくなったことにより、一般アパートやマンションから、直接野宿という事例も増加した。

 1960年の国勢調査による市内野宿者の年齢構成と、現在の野宿生活者の年齢構成を見比べると、著しい高齢化に、改めて驚きを覚える。

そして、野宿状態が長期に続いていることを考えるとき、医療体制の充実が急務であると考えるのである。

 

表4 年齢階級別(1960年国勢調査「浮浪者」分)      
区名 総数 満15歳未満 15〜19 20〜29 30〜39 40〜49 50〜59 60才以上
総数 862 27 9 122 247 208 160 89
浪速 218 2 2 36 69 53 30 26
201 7 4 20 54 48 49 19
天王寺 147 7 2 48 37 26 19 8
81 2   6 20 21 19 13
阿倍野 60 1   6 22 10 11 10
西成 40 4 1 3 10 11 6 5
32     2 12 11 5 2
東成 31     1 14 9 6 1
西 28       7 10 7 4
福島 18       2 7 8 1
此花 6 4       2    
  3.1% 1.0% 14.2% 28.7% 24.1% 18.6% 10.3%
表5  年別年齢構成と平均年齢(大阪市内野宿生活者巡回相談事業相談者)
年齢区分 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年
-19 0 0 0 0 0 0.3 0.2 0.5
20-29 0.5 0.3 0.7 1.3 2 1.9 2.1 3.3
30-39 2.9 4.6 4.3 6.7 8.2 10 9.5 7.9
40-49 19.2 17.7 18.9 18.8 18.1 16.5 19.8 19.6
50-59 39.6 44 43.8 42.6 45.1 46.1 43.6 44.2
60-69 31.6 28.8 28 26.7 23.1 22.5 20.4 19.6
70- 6.2 4.6 4.3 3.9 3.5 2.7 4.4 4.9
  100 100 100 100 100 100 100 100
               
平均年齢 56.2歳 55.5歳 55.0歳 54.2歳 53.3歳 52.9歳 52.8歳 52.8歳

(注1「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」筑摩書房 1967(昭和42)年、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で読むことができる。初出=『中央公論』(昭和8年3月/1933年3月)

(注21993.6.本間啓一郎「釜ヶ崎小史試論」52頁。(釜ヶ崎資料センター編・釜ヶ崎-歴史と現在所収。三一書房)

(注3)「釜ヶ崎」という地名は、現在、存在しない。「西成区史」(1968年)には、以下のように書かれている。

『釜ヶ崎の名称については、明治33年(1900年)41日の町名改称で「同字水渡・同水渡り・同水渡釜ヶ崎・同釜ヶ崎の反別弐町八反一畝八歩を区域として水崎町』と改称するとあり、釜ヶ崎の町名は、この時から公に消滅している。しかもこの水崎町は関西線以北であるから当時の南区であり、何故関西線以南の今宮村区域にこの釜ヶ崎の俗称が残ったか、その理由は明らかではない。』

 しかし、これは事実誤認であり、関西本線が2分したのは「釜ヶ崎」であるともいえ、南部の今宮には、1922(大正11)年まで小字名として残っていたのである。このことは、1985年に釜ヶ崎資料センターの本間啓一郎が、大阪府庁本館地下の、かつて「進駐軍」が留置所として使ったという倉庫にあった未整理資料の中から「大阪府広報第919号」を発見することによって確認された。また、同時期に、1911(明治44)年の「大阪地籍地図」(吉江集畫堂)を、中之島図書館郷土資料室において見ることによって、地理上の位置を確認した。現在町名との比較を一覧で示す。

1922(大正11)年
区域・名称変更
新名称 旧名称・区域
  西成郡今宮町大字今宮
今宮町東萩 字花園の内 541の2・・・・472
字三日路の内 639の1・・・・・677の甲
今宮町海道 字海道畑の内 678・・・・・689の4
字今池の内 1041の1・・・・・・1046の1
今宮町甲岸 字甲岸の内 436の1・・・・・・450
釜ヶ崎の内 704の1・・・・・・705の6
今宮町東入船 釜ヶ崎の内 691の1・・・・・・702の5
字水渡の内 691の1・・・・・・702の5
字東道の内 1010の1・・・・・・1108の3
字八田の内 1094の1・・・・・・・1095の3
今宮町西入船 釜ヶ崎の内 706の2・・・・・・715の4
字甲岸の内 444
字水渡の内 721の2・・・・・・744の甲
今宮町東田 字八田の内 978の1・・・・・・・1095の2
字東道の内 1006の2・・・・・・1133
大阪府広報第919号大正11年3月23日
 
1973年町名変更
旧町名 新町名
東・西入舟町 萩之茶屋1丁目
甲岸町・海道町 萩之茶屋2丁目
東萩町・海道町 萩之茶屋3丁目
東田町 太子1丁目
今池町 太子2丁目
山王町1・2丁目 山王町1丁目
山王町3丁目 山王町2丁目
山王町4丁目 山王町3丁目
東四条町1〜3丁目 北花園町

 

 前掲 本間啓一郎「釜ヶ崎小史試論」2728頁。及び1986.2。小柳伸顕『なぜ「釜ヶ崎」は残されたか』釜ヶ崎資料・創刊号所収。

 手元の抜き書きによると、郡昇作「日本の玄関 釜ヶ崎(1969.4.15)」92頁に「釜ヶ崎は西成郡今宮村大字釜ヶ崎字釜ヶ崎であったが、大正691日に今宮村が今宮町となるに及んで、西成郡今宮町大字釜ヶ崎には萩之茶屋、甲岸、花園の三つの字が出来た。ところが大正1441日に市域に編入されるに及んで、「今宮町大字釜ヶ崎」がなくなり、大阪市西成区甲岸町、花園町、曳舟町の如くになり」と書かれているが、「大阪府広報第919号」では「大字今宮字花園」となっており、「大字釜ヶ崎」ではない。原典資料が「大阪府広報第919号」しか手元にないので、郡説は参考にとどまる。

 なお、「西成区史」に記述は、大阪府警察本部防犯部がまとめた「釜ヶ崎の実態」(19616月)に基づいたものであると考えられる。そこには、『明治304月、大阪市が隣接町村を合併したとき、今宮村の一部である字水渡、字水渡釜ヶ崎、字釜ヶ崎が同市南区に編入され、344月に、これらを合わせて水崎町と改称された。/従って本来釜ヶ崎と呼ばれていたところは、現在の浪速区水崎町の一部となり、正式に釜ヶ崎という地名はなくなったのである。ところがその後、南海電鉄阪堺線、国鉄関西本線、南海電鉄本線、同天王寺線で囲まれた今宮町の北端、東入船、西入船、甲岸などの地域が再び「釜ヶ崎」と俗称されるようになった。』

 しかしながら、同「釜ヶ崎の実態」では、水崎町を含んで「釜ヶ崎」と総称するとしている。その事情は次のように書かれている。

『この問題地域の実態を解明するにあたり、どこまでを釜ヶ崎地域とすべきかについては種々の議論がある。それは次項「釜ヶ崎の沿革」でもわかるとおり、現在はすでに「釜ヶ崎」という地名や町名はなくなっており、俗称としての「釜ヶ崎」についても人によってそれぞれ概念を異にしているからである。/そこで本調査では、別添地図のとおり多分に各種の事情を同じくする、西成区山王町、123丁目、東田町、今池町、東入船町、西入船町、海道町、甲岸町、曳舟町、東萩町、東四条1、2、3丁目の10町を釜ヶ崎地区とし、この地区に隣接し、しかも同じような条件下にある、浪速区水崎町、馬淵町、霞町2丁目を水崎地区とし、この両地区を合わせて「釜ヶ崎」と総称することとした。』

 「釜ヶ崎の実態」の2ヶ月後に発行された「都市問題研究(通巻125号)」は特集としてスラム問題を取り上げているが、当時の民生局長松本幸三郎は、「大阪市のスラム対策」の中で、釜ヶ崎、馬淵町のスラム対策としており、二つをまとめて「釜ヶ崎」とはしていない。大阪社会学研究会の「釜ヶ崎の実態(上)」では、「旧釜ヶ崎地区と飛田地区を含む14ヵ町を対象地点とした。」とされている。大阪府警察本部防犯部のいう総称「釜ヶ崎」に、山王4丁目を加えると14ヵ町となるが、本文中では、「旧釜ヶ崎」を総称「釜ヶ崎」より狭い範囲をさして使用していると判断される箇所もあり、14ヵ町の町名の列挙がないので、必ずしも一致しているかどうか確定できない。

(注41984.12.冨田一栄編「大阪における愛徳姉妹会の社会福祉事業50年史」。社会福祉法人愛徳姉妹会。なお、同書には、大阪市社会部報告第218号「大阪市に於ける隣保事業」1937(昭和12)年刊の一部(聖心セッツルメント関係)が紹介されている。

1.隣保事業の概況 所在地、西成区海道町/地域該当方面、今宮第一方面/地域居住世帯 15,126世帯 人口65,870人/カード者数 1,542世帯 人口 6,043人  地域居住世帯に対してカード世帯の占める割合10.19%  (注)世帯人口は昭和1010月の国勢調査による。カード世帯数は昭和10年末現在数による。労働者(自由)拾い屋等が多い。

2.職員  医師無給3(薬剤師を含む)/小使い、雑役、給仕−有給2/その他 無給7/合計 有給2、無給10 計12

  (注)シスターカッタンの記憶によれば、医師1人有給、薬剤師1人有給、門番1人有給、雑役1人有給で、看護婦はシスターで無給、事務受付等は聖心学院の卒業生や信者の娘さん達が無給で奉仕してくださっていたとのことである。

3.事業  児童保護事業 子ども会、食糧補給/保健給療事業 診療/物品給与

4.保健給療施設  診療、内科、外科、小児科

5.食料補給  事業主体 自営/給食品目 給米券、牛乳、ミルク、昼食/人員種別 極貧者、母乳なき乳児、栄養不良の乳児、欠食児童

(注5デジタルギャラリー(画像で見る歴史史料)−12 福祉行政の進展http://www.city.osaka.jp/soumu/facility/center/gallery/ 最終更新日:2006 8 23

(注6)1966.7.10.本田良寛「にっぽん釜ヶ崎診療所」50頁。「38年の末に大阪市と梅田厚生館との話合いで道がついた。結核患者を含めて、いわゆる入院までいかないが安静を要する患者を梅田厚生館が引き受けてくれることになった。」

(注7)1973.3.大阪市民政局「大阪市民生事業史」338

(注8)1961.10.18.「第39回国会衆議院地方行政委員会議録第8号」14.15.20

 釜ヶ崎の暴動については、,寺島珠雄編『労務者渡世 釜ヶ崎通信』風媒社刊(七八年八月)に、岩田秀一による新聞等に基づいた詳細な記録があり、前出「釜ヶ崎−歴史と現在」には、丹羽弘一の「釜ヶ崎−暴動の景観」がある。

(注9)「釜ヶ崎の実態」の見出しは以下の通り「1.序−調査の概要 2.人口 3.住居−“ドヤ”を中心にして− 4.犯罪とその周辺−飛田・釜ヶ崎地区の犯罪 5.犯罪−飛田・釜ヶ崎地区の売春−6.未就学・不就学・長欠児童生徒の実態 7.労働 8.密集仮設住宅地区 9.職安横町」

柴田の連載記事11回目に、歩行中骨折し、パトカーで病院に運ばれ入院した人の話が出ているが、医療問題の視点での取り上げではない。“ガード下”小屋住まいの夫婦の話で、入院した夫の入院費は医療扶助、妻は生計扶助を受けたが、夫退院後不当に生計扶助が減額された事例として取り上げられている。

なお、柴田の連載記事の一部は、平凡社ライブラリー「日本残酷物語 第5巻 近代の暗黒」所収の「大阪の最底辺」によっても読むことが出来る。

(注10)1970.3.「大阪市西成区環境改善地区の社会医学的調査−愛隣地区に於ける医療及び医療実態調査について−」(大阪市民生局)に「今宮診療所来院患者の入院、保護及び通院処置図表(住民登録未登録者について)」を参考のため紹介しておく。

 本文でも警察による「行旅入院」が書かれているが、この図表においても、西成署が各所に出てくる。現在の感覚では、馴染みにくいが、当時は「行旅病人」は警察の担当という理解が一般的であったのであろう。根拠は、警察官職務執行法3条『(保護)警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して左の各号の一に該当することが明らかであり、且つ、応急の救護を要すると信ずるに足りる相当な理由のある者を発見したときは、とりあえず警察署、病院、精神病者収容施設、救護施設等の適当な場所において、これを保護しなければならない。/1.精神錯乱又はでい酔のため、自己又は他人の生命、身体又は財産に危害を及ぼす虞のある者。/2.迷い子、病人、負傷者等で適当な保護者を伴わず、応急の救護を要すると認められる者(本人がこれを拒んだ場合を除く。)や保護取扱規程(1960.11.19.警察本部訓令第17号)『第5条(保護の場所についての支持等) 5 病人又は負傷者 最寄りの病院その他の医療施設/第13条(関係機関への引継) 2 被保護者が病人、負傷者等である場合には、生活保護法・・・・の規定による保護の実施機関たる県知事もしくは市町村長又はその委託を受けたものに引き継ぐこと。』に置かれていたものと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注111972.1。岩田秀一「閉ざされた状況の中で−釜ヶ崎越冬対策の記録」(自由連合第35号所収)

(注121973.7.13。岩田秀一「釜ヶ崎」の現場から(4)医療の最底辺で。(朝日ジャーナル所収)。引用にあたり、30年以上の時間経過を考えて、病院名は伏せた。

(注13大阪市会昭和46年度決算特別委員会(19721011月―06号)109110

(注14大阪市会昭和47年定例会常任委員会(民生保健-318日−05号)252

(注151982.7.22.「夜間学校ニュース」『最近、マスコミなどでも騒いでいるように、仕事の回復に見切りをつけた一部の“仲間”は、グループを作ってテントを張り、ちがった形での“青カン”をはじめている。』

 大阪市会昭和59年定例会常任委員会(民生保健)(1984312日−02号)40頁『愛隣公共職業安定所の調べによりますと・・・・平均年齢は・・・・昭和386月には32.7歳でございましたが、54年で44.7歳、58年には46.4歳となっており、この20年間で13.7歳、平均年齢がはねあがっておるわけで、現実に高齢化現象が見られるわけでございます。』ちなみに、1993(平成5)年では、52.5歳。

(注16「第13回越冬実医療班総括!」、19683.4.8.3回釜ヶ崎医療連絡会議「春の医療生活週間資料」