『釜ヶ崎の底が抜け落ちて

社会的労働参加を求める野営闘争は続く』

 

 3月2日の夕刻、大阪市役所南玄関で、50歳前後と思われる女性が不安そうに、「ここは市役所の玄関ですよね」と守衛に聞いていた。

 大阪市役所には、東西南北に四つの玄関があるが、もっとも多く人が出入りするのは、女性が不安そうに確認を求めていた、土佐堀川に面する南玄関である。

 その日、南玄関に入る階段の中程には10人近くの守衛が並んでいたし、階段の上、入り口の自動ドアまでの空間には20人以上の市職員がたたずんでいた。

 そのなんとはなしの物々しさが、初めて市役所を訪れたのであろう女性に、そこが市役所かどうかを疑わせたのかも知れない。

 それとも淀屋橋から南玄関に至るまでに目にした光景が、疑問を生じさせたのかも知れない。

 地下鉄淀屋橋駅から地上にでて淀屋橋を渡り、右に折れて三車線幅ほどの遊歩道にはいると、右端にブルーシートが敷かれ、その上に毛布を被って頭を土佐堀川に、足を市役所に向けて寝ころんでいる2〜30人の男が目にとまる。その先には並木の間にロープを渡しブルーシートを結びつけて屋根としたテントが、中央公会堂までの150メートル延々と続いている。屋根の下には男たちが座ったり、横になったりしている姿が見える。

 総数約600名。

 市役所周辺の光景を当然と受け取った人もいる。60歳前後の夫婦と思われる二人連れの女性がテントを見ながら何かを言ったのに、男性が「市で集めて泊まらしているんだろう」と答えたのが耳にはいったことから、そう考えられる。

 

『大阪市内一万人野宿者の中心部分としての釜ヶ崎』

 

 市庁舎周辺には相応しくない光景、あっても不思議ではないこと、と相反する受け止められ方をされた男たちのテント生活は、昨年春過ぎから多くの人が大阪市内の公園や河川敷・路上などで目にするようになった光景の凝縮されたものである。

大阪市立大学の教員・学生が中心となり、大阪府立大学教員・学生、連合大阪傘下労組員などの応援を得て実施された、昨年夏の「大阪市内野宿者調査」によれば、公園や路上で確認されたテント・小屋掛け・段ボールハウスなどは2,253。段ボウルや新聞紙を敷いただけのもの・何も敷いていないものを含めた総人数は8,660名であったという。磯村大阪市長は昨年末から「一万人を越えたと思われる」と発言し続けている。

 大阪市内各所に点在する野宿者の生活を凝縮して大阪市庁舎南側で野営を続ける、推定平均年齢56歳=釜ヶ崎反失業連絡会と大阪市民生局との交渉の結果、昨年2回(8月17日〜9月30日・10月26日〜11月27日)開設された「臨時生活ケアセンター」(二泊三日三食付・一回受入れ45五名)の利用者平均年齢=の男たちは、釜ヶ崎からきた。

 日本最大の日雇労働者の街・釜ヶ崎(あいりん地区)は大阪市西成区の北東部にある。

 釜ヶ崎の日雇労働者が職を求めて集まる中心は、愛隣総合センター一階フロアーとその周辺路上であるが、市庁前で野営する男たちは、その愛隣総合センター一階フロアーから、釜ヶ崎日雇労働組合所有のバス「勝利号」に乗って、あるいは自転車で、徒歩で、やってきたのだ。

 では、彼らは日雇労働者なのか。

 毎日早朝、愛隣総合センター一階フロアーとその周辺路上で現金求人状況(現金=一日毎の雇用と解雇・賃金の支払いは当日現金払いという就労システム)を調べ、集計して発表している西成労働福祉センターの数字によれば、最大であった1989年の一日平均8,000人の現金求人数から、現在は一日平均2〜3,000人の求人へと減激している。

 この数字からだけ単純に推論すれば、釜ヶ崎の労働者の三分の一は日雇い仕事でかろうじて生活を維持しているが、残り三分の二は仕事にあり就けず、アパートや簡易宿泊所での生活を維持できない状態に陥っていることになる。市庁周辺で野営を続ける男たちの多くは、後者に属し、半年あるいは一年以上にわたって就労の機会に恵まれていない。

 前者を「現役日雇労働者」と呼ぶとすれば、後者は「野宿労働者=野宿を余儀なくされている労働者」と表現することができるであろう。

 

『労働者でも人でもなく』

 

 「横浜・寿野宿労働者殺傷事件(83年)」当時、マス・コミでは「浮浪者」が使用されていた。それに代わる表現としての「野宿労働者」について、ある新聞記者は、「使いにくい。事実として彼らは労働していないし、そういう使い方をすると労働者という言葉が摩耗・変質する」と考えを述べた。廃品回収するなどの労働をして幾ばくかの収入を得ていると指摘しても、考えを変えることはで

きなかった。

 一般的には、次のように考えられているかのごとくである。

 労働者とは、自己の労働の対価として賃金を得、その賃金を使用して食事をし、一定の住居空間を維持している存在である。自己の労働力を労働市場に投入し換金することによってしか、自己の肉体・精神を維持するための環境を獲得・整えるすべを持たない存在が、労働市場から排除・解放されたとき得るものは、19世紀的に言えば、自由と死である。

 人は労働市場に参入することによって労働者となり、労働市場から排除され、あるいは離脱することによって人に還る。今日の日本の法体系では、人には生存権がある。憲法25条にうたわれ、生活保護法で実定的に保障されているところである。

 2月10日午後7時過、私の住処から西へ七メートルばかり離れた、自動車道が左右に分かれる所の歩道の縁石に右腕でもたれかかり、その上に頭を預けた形で横座りになって路上死している男を見た。その横には、段ボウルやアルミ缶を積んだ手押し車があった。

 私の見た男は、すでに「人」からも排除・解放された「物体」であったというべきか。

 「釜ヶ崎労働者の生活と仕事を勝ち取る会」の炊き出し(一日三食・一食一椀の丼飯一杯。炊き出しはキリスト者を中心とする多くの市民のカンパに支えられている)を食べ、社会的労働参加を求める男たちの野営は続く。二割近くの釜ヶ崎での労働体験を持たない男と幾人かの女性も含めて。(3月14日記)