釜ケ崎の労働現場から「出稼ぎ」を考える 

                                   松繁逸夫

「出稼ぎ労働者」との出会い 

 1979年1月10日に、大阪のあいりん公共職業安定所で雇用保険日雇労働被保険者手帳をこしらえてもう13年になる。13年という期間は、釜ケ崎にいる労働者の平均釜ケ崎滞在年数とほぼ同じである。だからといって、それ以外にとりわけて意味のある年数ではないのだが、建設現場には「出稼ぎ労働者」が多いと話に聞く割りには、その年数の間に「出稼ぎ労働者」と現場で出会った記憶がほとんどない。それは多分、私が「現金」専門で、「飯場」に入って働いたことがないためかも知れない。それでも、まったくないわけではない。

 「手帳」をこしらえる前の年の3月、「あいりん総合センター」の一階フロアーから尼崎のM組の車に乗って、京都・桃山の下水処理場の新設現場に行った時のことである。

 下水処理場の新設現場は、比較的に大きな現場であったので、土工も複数の組から入っていた。その日の私の仕事は、他の組から来ていた60歳前後の人と二人で、現場内の廃材を集めて燃やすというものであった。

 10時の休憩時間に、二人並んで火にあたって休憩していると、その人が「あんた、どこから来たかね。」と声をかけてきた。それで「M組から来た」と答えると、なにやら予想と離れた返答を聞いてとまどっているような表情になったので、こちらから補足するつもりで「現金で来たんだけど」と言うと、益々判らないという表情になった。私としては、相手も釜ケ崎の労働者で、「現金」あるいは「契約」で働いているという前提で答えたのだが、それが見当違いであったようだ。それで、今度はこちらから、「どちらから」と訪ねると、「私は九州から来た」とのことであった。最初の質問は、出身地を聞いたものであることが、その時判った。

 その人が続けて語ったところによると、九州に田畑があるが一人身になったので、働けるうちは田舎にいるよりは都会で働いたほうが面白いと思って、今年の春、地元の職安から大阪の建設会社を紹介されて出て来た。もっと年をとったら、田舎に帰って百姓をやるつもりだ。しかし、今いるところは、最初の話と違って賃金は安いし待遇もあまりよくない。その日の私の日給は、5,000円であったが、その人の日当は4,700円で、飯代1,000円、

その他モロモロを差し引かれ、手元に残るのは2,500円から3,000円の間。そこから服を買ったり、酒を飲んだりするとほとんど残らないとのことであった。

 釜ケ崎のことなど全く知らないことが判ったので、ドヤのことやセンターでの就労方法、そして釜ケ崎までの交通手段について話をしたが、その人がその後、釜ケ崎に来たか、それとも田舎に帰ったのか、私には判らない。

 この人自身の口から「出稼ぎ」という言葉が出たかどうかについての記憶は、定かではない。私の「出稼ぎ労働者」像は、農業のあいまに賃仕事をする人というものであったが、この人の場合は、農業のあいまに働きに来ているわけではなさそうなので、「出稼ぎ労働者」との出会いの例に上げるのは、不適当なのかも知れない。

 

野宿と「出稼ぎ労働者」 

 労働現場を離れてのことであれば、「出稼ぎ労働者手帳」を持っているという人に出会った事は、二度ある。

 その二度というのは、1983年の6月と12月のことである。偶然のことなのか、それとも「出稼ぎ労働者手帳」を持って大阪へ働きに来る人にとっては常識的なことなのか、私には判断がつかないが、二人とも泉州(大阪府の南部)方面の繊維会社で働いていたとのことであった。

 1983年は、2月に横浜・寿町での少年たちによる野宿労働者襲撃・殺傷事件が社会的に明らかにされたことで記憶に残る年であるが、6月には大阪でも同様の野宿者に対する襲撃事件があるのではないかと、梅田やナンバ、釜ケ崎周辺などで野宿者からの被害状況の聞き取りがおこなわれた。その時の聞き取り調査で、大阪駅の南に面している阪神百貨店東の歩道上にある植え込みの縁石に腰掛けていた40代後半とみられる男の人と出会った。その人自身は被害にあってはいなかったが、野宿している理由を聞くと、「出稼ぎ労働者手帳」を持っており、最近まで泉州の繊維会社で働いていたが、季節物の端境期で今は仕事がない。もう少しすると、冬物が始まるので、それまで待っている所だということであった。私には良く判らないことであったが、化学繊維の製造過程では、ノズルから繊維を吹き出すのに、上から吹き出すものと下から吹き出すものとがあるらしく、「ワシは下から吹き出す方が得意だ」となつかしそうに、また誇らしそうにいわれた印象が忘れられない。

 もう一人、「出稼ぎ労働者手帳」を持つている人と出会ったのは、その年の12月29日か30日のことであった。釜ケ崎では毎年、12月25日から1月10日前後まで、野宿を余儀なくされる労働者の中から一人の死者も出すまいとして、「越冬闘争」がおこなわれる。様々な活動がその期間中におこなわれるのだが、その中の一つに、不十分ながら少しでも暖かく寝られるようにと、建物の軒下に布団を敷いてヤドに困っているに提供するという活動がある。場所はJR環状線・新今宮駅のすぐ南、「あいりん総合センター」東部分にあたる「医療センター」の軒下である。ここに布団を敷く時間になると、毎日100人から200人の労働者が集まって来て、列をこしらえる。ここで寝るのはほとんど釜ケ崎の労働者であるが、時としてそうでない人もいる。私が声を掛けたのも、釜ケ崎の事情にそう詳しくなさそうに見えた、例外的な人であったからだ。事情を聞くと、年末ギリギリまで泉州の繊維会社で働いていたので、「出稼ぎ労働者手帳」の手続きをすることができなかった、田舎に帰ってまた出直すのも大変なので、大阪で年を越そうと思い、この辺には安く泊まれるところが多いと聞いて来たのだが、何軒訪ねても満室だと断られるので困っている、ということであった。

 釜ケ崎のドヤ(簡易宿泊所)は原則として日払いである。しかし、年末になるとほとんどのドヤが、12月25日あたりから1月10日までの宿泊費の前払いを求める予約制となる。だから、釜ケ崎の労働者でも、年末遅くまで飯場に入って仕事をしていた場合は、釜ケ崎に帰って来て寝場所が確保できないことがある。この人は、そういう事情までは聞いてこなかったようだった。年末、遅くなって釜ケ崎に帰って来る釜ケ崎の労働者でも、ウッカリしていつも泊まるドヤに電話を入れるのを忘れていると、たとえ何十万円持っていようと野宿を余儀なくされる。そんな場合、24時間営業のサウナや映画館などで2ー3日泊まって、時間をかけて泊まる所を探すことになる。この人にも、たとえ布団があるにしても吹きっさらしの中での野宿を続けることは、やはり体に良くないので、お金の心配がないのならそうするようにと勧めた。

 この二人の内、梅田で話をした人は、「出稼ぎ手帳」を持つてはいるものの、出稼ぎ先の仕事が途切れても田舎に帰らず、梅田で野宿して次の仕事が始まるまで待機している姿から、「出稼ぎ労働者」とするのには戸惑いがある。また、「医療センター」軒下で出会った人は、「出稼ぎ労働者」と断定してよさそうであるが、たまたま通過の途中に暫く立ち話をしただけのことであり、「出稼ぎ労働者」と出会ったという実感は薄い。

 

釜ケ崎の中の「出稼ぎ労働者」

 釜ケ崎の労働現場から「出稼ぎ」を考える、と題したにも関わらず、中々それに結びついた話にならないが、どうも、私自身の実感を軸にすると、表題の付けかたを誤ったということになりそうだ。

 実は、典型的な「出稼ぎ労働者」と言ってよさそうな人と、ここ2ー3年、よく現場で一緒になる。岡山の奥の方に田畑を持つKさんがその人で、20年前に大阪に出て来て最初はタクシーの運転手をしていたが、6ー7年前から釜ケ崎で働いている。田植え時と稲刈り時そして、盆と正月にはそれぞれ一週間ほど、田舎に帰っている。しかし、「あいりん職安」の手帳は持つているが、「出稼ぎ手帳」は持つていない。だから、私としては、同じ釜ケ崎の労働者という感じが強い。同じタイプに、自ら「漁師」というTさんがいるが、琵琶湖で鮎の養殖をやっているものの、ほとんど釜ケ崎暮らしで、やはり「あいりん職安」の手帳を持つている。Tさんの場合も、同じ釜ケ崎の労働者という感じしか受けない。

 いたって、本来的には「出稼ぎ」の範疇に入らない立場の人に、「出稼ぎ性」ーやや問題のある表現であるがーを感じることがある。どんな人たちなのかというと、大阪市内や隣接の市から交通機関を使って釜ケ崎に通って来ている人たちのなかで、頑なに「あいりん職安」の手帳を持つことを拒んでいる人たちである。彼らは、住んでいる周辺に釜ケ崎で日雇いをしていることを知られるのが恥ずかしいと思っているし、「あいりん職安」の手帳を持つと釜ケ崎の労働者と同じように見られる、あるいは、同じになってしまうと思っている。ようするに、釜ケ崎の労働者と実質的にはそう立場に違いはないのに、なんとか違うものであり続けたい、そのように振る舞いたいと思っているのだ。そういう人とは、何度、現場で一緒に働いても、なじめないし、そういう人が「出稼ぎ労働者」のように

、私には思える。

 ここでは先に、私自身の「出稼ぎ労働者」像として、農業のあいまに働きに来ている人と述べたのとは、違うことを言っていることになる。さらに違う見方を言えば、実は釜ケ崎労働者のすべてが、「出稼ぎ労働者」ではないかと考えることもある。10年を越える釜ケ崎の生活の中で、「出張」仕事に出掛けたことは一度、それもたった一週間という短いものであったから、自分自身の体験した実感とは言えないが、度々「出張」に出掛けている人の話を聞くと、やはり釜ケ崎から遠く離れて仕事をしに行くのは気が重いものらしく、それはやはり「出稼ぎ」に行く感覚ではないかと思う。

 「出稼ぎ労働者」像に対するこんなこだわりは、なんの意味もなく、ただ「出稼ぎ労働者」に色々なタイプがあると言っているだけに過ぎないのかも知れないが、もう少しこだわって考えてみたい。

 

「外国人出稼ぎ労働者」 

 最近ーといっても、もう随分と前からだがー、「外国人出稼ぎ労働者」の言葉をよく耳にするし、実際、現場でも一緒になることも増えて来た。一口に「外国人出稼ぎ労働者」といっても、当然のことながら、一人一人話をすれば、様々な個性に出会う。

 釜ケ崎で出会う「外国人出稼ぎ労働者」は、韓国人が多い。韓国人が多いについては、地理的、交通手段的に近いというだけではなく、歴史的背景が大きな要因となっている。

 このことは、改めて取り上げる必要を認められないほど周知のことであると思われるが、簡単に説明すれば、日本が李氏朝鮮を侵略して朝鮮半島を領土に加え、朝鮮半島住民を強制的に日本国籍とした。そして、土地の所有関係について「近代的」明確さが存在しなかったことに着目し、「土地調査事業」の名目で、多くの土地を収奪した。その結果、農民が日本に「出稼ぎ」に出ることになり、日本列島への定住が量的に拡大した。勿論、労働力としての強制移動もあった。日本の敗戦により、200万人と言われる人々が日本国のなんの援助もなく自主帰国したが、約60万人はなんらかの事情により日本に留まった。

そして現在に至るまで、「在日韓国人」、「在日朝鮮人」として日本で生活している。大阪には、生野区の「猪飼野」に代表されるように、戦前・戦後を通じて在日韓国・朝鮮人が多く住んでいる。韓国では、1987年9月まで観光ビザは60歳以上でなければ発行されなかったが、親族訪問が目的であれば年齢制限はなかった。だから、日本への「出稼ぎ」の方法としては、「親族訪問」あるいは「語学留学」、または「密入国」という、あまり一般的とは言えないものしかなかつたので、数の問題はともかく、働く場所が同胞を頼るものに限られ、あまり日本社会の表面に見えることはなかった。しかし、その後、制限年齢が段々と引き下げられたことから、「観光ビザ」で日本に働きにくる30歳代の男性が目立ち始めた。

 今、言ったことを、解説風でなく生活上のこととして述べると、例えば、60歳は越えているだろうと思われた、日本語の上手な人に、どうしてそんなに上手なのかと聞くと、小学校は大阪だったという返事を受けた体験があるし、生野の親戚を頼って働きに来ている人もいた。また、ベトナム戦争に行ったことがあるという人は、日本で働いているうちに「在日二世」と結婚して、正規の在留資格を得ていると言っていた。

 30歳前半の釜山近くの島で漁業にたずさわっていたという人は、知人の借金の連帯保証人になったことが禍して、夫婦で日本に働きに来ている。日本語学校にも通っているが、昼はほとんど仕事をしている。日本語もかなり達者で、「手配師」から頼まれるのと、本国の親戚や知人から頼られるのとがうまく一致して、「窓口」のようなこともしている。彼は、円高だから日本で働く値打ちがある、一ドル140円近くになれば、日本で働くメリットがなくなると言っていた。

 もう一人の30歳前半の人は、韓国にもフィリピンやバングラデッシュから「出稼ぎ」に来ているし、韓国に建設や土木の仕事がないわけではない、しかし、韓国ではそんな仕事は随分下に見られている。だから、国では恥ずかしくて働けない、日本へは小さな商社を始めるつもりで、多少のお金も持ってきたが、うまくいかなかった、仕事も言葉もよくわからないが、今はお金を貯めるのが大切だから、なんと言われても毎日働きに出るようにしている、と言っていた。

 もっと沢山の人と働いたのだが、私が韓国語がほとんどできないのと、相手が日本語がほとんどできないのとで、会った半分以上の人とは、うまく会話を成り立たせることができなかった。しかし、彼らの多くは、釜ケ崎の労働者と同じ様にドヤや日払いマンションあるいは「飯場」に泊まって、釜ケ崎の労働者と一緒に働いている。その限りでは、「出稼ぎ」とは言いがたい気がする。

 韓国以外では、フィリピンから働きに来ている人と話をしたことがある。一人は30歳前半の人で、フィリピンでは公務員として働いていたが、給料が安く、子どもが生まれて生活が苦しくなったので働きに来たそうだ。目標は、2年あるいは3年間で200万円貯めて帰国すること。もう、一人は20歳前後で、フィリピンには母親がいる。彼の場合は、国では仕事を見付けることができないので、帰る考えは全くないと言っていた。ちなみに、学歴は前者が大学卒で、後者は高校卒であると言っていた。

 この場合、二人とも「出稼ぎ労働者」としてひとまとめにまとめて捉えることができるであろうか。

 『広辞苑ー第3版』によると、「出稼ぎ」とは「故郷を離れて一定の期間他郷に出向いて働くこと。」となっている。この定義に従えば、一番最初に京都の下水処理場で出会った人は、何年先のことになるか定かではないが、故郷に帰ることが前提で都市で働いているのだから、「出稼ぎ労働者」ということになるだろうし、釜ケ崎の労働者が期間を区切って「出張」仕事にいくのも、釜ケ崎に帰ってくるのが前提となっているから、やはり「出稼ぎ」と言ってもいいだろう。釜ケ崎の周辺から交通機関を使って釜ケ崎に働きに来ている人についても、距離的遠近でなく、精神的距離あるいは所属意識に注目して、釜ケ崎から居住地域に日々帰ることを前提に働きに来ていると解釈すれば、やはり、「出稼ぎ労働者」といえなくもないだろう。

 では、帰ることを前提としてしていないフィリピンから来た若者は、「出稼ぎ労働者」と言えるのだろうか。日本国政府の「外国人労働者」に対する方針は、今のところ特定の職種についてのみ国内での就労を認めているだけだが、近い将来、1年か2年の期間を定め、その期間の経過後は帰国することを前提として、職種制限を大幅に緩和していく方向にあるように見える。この方式は、日本に働きに来る人それぞれの考えや生活設計などを認めず、一律的に「出稼ぎ労働者」の立場を押し付けるものであるといえる。もっとも、この押し付けは、現在の日本国内における外国人労働者の動き、生活を見るとき、必ず破綻するであろうと思われる。

 

「仕事を奪う出稼ぎ」の疑問 

 「出稼ぎ労働者」についてこれまでも、考えたことがないわけではないが、今、改めて考えるについては、一つ切っ掛けがあった。1991年12月中旬に、高槻市立中学校の社会科の先生たちの研修会で、釜ケ崎のことを話させてもらう機会があったのだが、その時に出た質問に、「外国人労働者が増えると、高齢の釜ケ崎労働者の仕事が奪われることになりはしないか。また、米の自由化が言われているが、もし、そうなればやはり農家からの出稼ぎが増えて、釜ケ崎労働者の仕事が減るのではないか。」というものがあった。釜ケ崎のできごとに関心を持ち、釜ケ崎の労働者の生活について心配してくださっての質問だと思う。しかも、この質問の内容は、将来に対する心配ではなく、もはや、現実のことであるらしい。

 1991年12月29日毎日新聞朝刊(大阪)の短期連載記事「じぱんぐ・91冬」の最終回の書き出しと結びは、次のようであつた。

 『「外国人をおいだせ」。日本最大の労働者の町・大阪市西成区のあいりん地区で、こんな落書が目立ち始めた。ー略ー昭和40年ごろは20歳代だったあいりん地区の労働者の平均年齢は今や、52〜3歳(今年11月)。若い外国人労働者と高齢の日本人のどちらが有利か。「両者の間で、衝突が起きないか心配です」と同福祉センター(注・西成労働福祉センター)の田中耕一紹介係長。心ない落書は、その心配を象徴する。』

 また、同じ日にテレビでは、横浜・寿町で「外国人出稼ぎ労働者」によって仕事を奪われた高齢の労働者が、野宿をしていることが報道されたという。私は見ていないが、新聞のテレビ欄によると、ABCテレビの「サンデープロジェクト・追跡、死の恐怖日雇い労働者の街24時」というのが、それに該当する番組のようだ。

 しかし、質問に対する私の答えは、全く別の考え、「外国人労働者に仕事を奪われることはない」、というものであった。毎日新聞やABCテレビの報道が事実だとすれば、私は釜ケ崎の事実、釜ケ崎の労働者と「出稼ぎ労働者」との関係についての事実を知らない、あるいはそれらに基づいての考察が足りないということになろう。

 もちろん、先に紹介したように、私の体験は限られたものである。だが、答えが間違っていたとは、今でも思っていない。なぜなら、釜ケ崎の高齢者や病弱者・「障害」者が仕事に就きにくく、野宿を余儀なくされ、路上や公園での死を強制されるのは、昨日今日始まったことではないからである。釜ケ崎では、大阪府労働部に対して、随分以前から、高齢・病弱・「障害」者の仕事を保障すべきだ、軽作業の紹介をするべきだと求めている。その要求は、「外国人労働者」が目立つ前から出され続けているが、行政はなんら対策を打ち出さず今日に至っている。釜ケ崎の就労方式(相対方式)では、朝、求人の車に乗るときに、いくら手配師が軽作業だからと約束しても、実際に現場でする仕事が軽作業であるという保障はない。現場に着いて、強労働で高所作業のような危険の伴う作業であることが判ったとき、自分には不向きだからと帰る自由は労働者にはない。公式的には、条件違反だからと言って日当を請求することができるが、それを実際に実行することは非常に困難である。そこで、無理して働くことになる。労災が近畿圏で多発し続ける理由の一つであると考える。高齢・病弱・「障害」者には、確実に軽作業が保障される就労方式が別途に設けられるべきである。あるいは、民生行政による対応がなされるべきである。それで人手が足りないというのであれば、国籍を問わず働きたいと希望する、より若く元気な人達に働いてもらえばいいのである。

 ようするに、これまで釜ケ崎の高齢・病弱・「障害」者から仕事を「奪って」きたのは、それらの人よりも若く、元気な労働者全てであり、その事実を指摘されながら放置し続けてきた行政である。現状においても、「外国人労働者」の増加の問題は二次的な事柄にすぎない。にも関わらず、そういった事を視野に入れることなく、現在の話題性にのみ目を奪われて、短絡的に「外国人労働者」に仕事を奪われていると結びつけるのは、煽情的な報道とされるべきである。

 毎日新聞の記事から半月以前のことだが、ある建設現場で働いていると、他の組から来ていた労働者が、「外国まで来てケガしたらつまらんから、ちょっとのいとき」というのが聞こえた。彼らは鉄筋工であったが、その時点で釜ケ崎では鉄筋工の仕事が激減しており、多分、この人たちも毎日続けて仕事に就ける状態ではなかったはずである。そんな状況のなかで、現場では、「外国人労働者」に向けて排撃の言葉が浴びせられるのではなく、相手を思いやる言葉が掛けられている。毎日新聞の記事の中でも、韓国人労働者が紹介されている。

 『あいりんセンターノ前で求人のマイクロバスを待っていた韓国人男性(28)。2月前に観光ビザで来日し、大阪市内の友人宅に身を寄せながら働いている。むろん不法就労だ。「今年は仕事少ないね。あぶれることもある。でも大阪はまだまし。東京は入管(職員)や警察がうろうろしているから」』

 この人は、あぶれることもある、と言っている。逆に言えば、仕事に行ける日もあるということだ。釜ケ崎の仕事の状況からいえば、半数以上の釜ケ崎の労働者と同様の体験をしていることを伺わせる。そして、官権の心配はしているが、労働者の排撃が高まっていることを心配している様子はなさそうだ。毎日新聞の記者は、このような事実に出会っているのだから、落書があるにも関わらず、なぜ就労できているのかを考えることが可能であったはずだと思う。残念ながら、話題性、問題の定式化に足をすくわれて、思考を停止してしまったようだ。

 米の自由化の及ぼす影響については、十分な知識と考察を加えたことがなかったので、はっきりと答えることはできなかった。感じとして、これまでに「出稼ぎ」に出れる人はすでに出ているはずだし、そう急激な変化はないだろう、というのが精一杯であった。

 もし、米の自由化で日本の農家が成り立たなくなり、多くの人が他産業への転職を余儀なくされたとしても、全ての人が建設・土木産業の労働者として新規参入するわけではあるまい。また、建設・土木産業に新規参入したとしても、そのことは決して目新しいことではない。農業からだけでなく、その時々の不況産業からの新規参入はこれまでもあったことである。それらの新規参入者は、釜ケ崎の労働者の仕事を「奪った」のではなく、釜ケ崎内部で、就労機会を巡っての競争を激化させたにすぎない。このように言うことは、単に言葉を言い換えたにすぎないと、受け取られるであろうか。

 

「出稼ぎ」の意味 

 「外国人出稼ぎ労働者」の本国への送金は、本国の経済発展に役立つものではないと言われている。なぜなら、その送金は、専ら個人消費にまわされ、産業資本として蓄積されないからであり、個人消費も自国製品よりも輸入製品に向けられる傾向が強いことから、自国産業の育成に結びつかないからだという。これは当然のことだと思われる。「出稼ぎ」をするのは、自国や他国の都市的生活をマス・コミを通して知り、自分の生活もそれに近づけるために収入を得たいが、自国では可能性が低いので、より高いそして即時的な可能性を求めて、他国に働きに出るということであるのだから。

 日本の「農家出稼ぎ」もこのようなものではなかったか、といえば叱責を受けるであろうか。先にくどくどしく現場で会う様々な労働者について紹介し、それらの事例について「出稼ぎ」性を見、そして、「出稼ぎ」を考慮せず、釜ケ崎の労働者の一人とも述べた。誰しもが、与えられた体制の枠の中で、自己の生活を維持するための努力をつくしてきたという側面で捉えれば、差異はない。

 外国への「出稼ぎ」は、送り出し国の良質な労働力の流出を意味し、送り出し国の経済発展をさまたげるものである。外国に「出稼ぎ」に出るのでなく、自国内で努力すべきである。このような論もある。日本国内でいえば、これまでの「農家出稼ぎ」が日本の農業を破壊する原因の一つとなったのであり、農業就業者は「出稼ぎ」するのではなく、農業だけで生活できることを目指して闘うべきであった、ということになろうか。しかし、これはあまりにも単純にすぎる論であろう。

 ただ、以上の二点から考えるべきことが浮かびあがってくる。それはなにかというと、「出稼ぎ」が生活の維持と拡大を目的とするところから、その時々の政治や経済体制を問うことでなく、いたってその中での「生活水準」の向上を目指す努力でしかありえないということである。生活意識としては「常民」的であるとも言えよう。そのことは労働現場を離れて生活の場に戻った時に、一般的に存在する「農家出稼ぎ」対「釜ケ崎労働者」、「外国人労働者」対「日本人労働者」という二項対立の図式に、現場の感覚を離れて意識が汚染される余地が大きいことを示していると考える。釜ケ崎の「外国人をおいだせ」の落書は、その下地に民族差別があると考えられ、その危険を実際に示したものと捉えられる。

 釜ケ崎は仕事の減少期に入り、この減少期は比較的長期に渡りそうである。このような時期には、マス・コミも煽情的な報道をなしがちであり、労働者も現場の感覚から離れて二項対立の図式に足をすくわれ、分断される恐れもある。今、深く考えられなければならないのは、「出稼ぎ」の意味ではなかろうか。