釜ヶ崎にすんで
 

 釜ヶ崎(行政・マスコミ関係では『あいりん地区』と呼ぶ)は、大阪・西成区にあり、0.62平方キロに4万人以上の人間が住み、そのうち1万7千人から2万人が日雇労働者である。

 今、現に住んでいる街、そして、日雇いを生業としている私にとっては、 “釜に住んで……”ということで書くことは難しい。

 それよりも、わずか二年半足らずだが、毎週月曜日に通った猪飼野のことが頭に浮かぶ。桃谷商店街と疎開道路の交差点に制服警官や盾を持った機動隊員が立っていることがある。その先、東へ2〜30メートルの所に交番があり、その前に制服警官が道をふさぐように立っていることがある。交番の前に立っているのはそう珍らしくないが、交差点と交番の両方に警官が立っていることはそう度々はない。それは特別な日なのだ。天皇や皇太子が京阪神地区に来ている日。警察の考えでは、猪飼野に警戒体制をとらなければならない特別な日ということだ。

 最近、びわこ国体にくる皇太子への警備上の必要という理由で、警察が精神障害者の名簿を町役場や保健所から入手しようとし、そのいきすぎが問題となったが、在日朝鮮入に対して外人登録で住所どころか指紋まで押さえ、なお、その上に威圧的な立ち番をおこなう警察・日本国家のあり方に対しては充分に糾明されているとは思えない。

 天皇・皇太子の来阪について言えば、釜ヶ崎も猪飼野と同じような警戒体制下にある。労働者に対する日常的な監視体制(一例をあげれば、街頭テレビカメラが釜ヶ崎の中に14ヶ所にすえつけられ、西成署に映像を送っている)がより一層強化され、労働者の中でより動きの目立っ人達については、現場まで私服の尾行がつく。

 天皇をシンボルとした秩序社会をつくり上げ、維持しようとしている今の日本国家(戦前もそうだったが)から見れば、在曰朝鮮人の密集地である猪飼野と日本最大の日雇労働市場といわれる釜ヶ崎は、今の日本国家の秩序を破壊しかねない人達が住む敵地に見えるようだ。

 在日朝鮮人の存在も日雇労働者の存在も、日本国家が生みだしたものなのだが。
 

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 朝鮮人が経営者である飯場での体験を、岩田秀一が下条かおるの名前で『自由連合』に書いている。

 朝から小雨になり、現場で仕事待ちという気の重くなる状況での話。

 『そこでの対話は、例にたがわずはんばの悪口であり、少々割引いて聞かねばならないそれぞれの自慢話であった。メシのことから、賃金のこと、ひいてはオカミさんがブスであるか否かが煙草の火をつけるのももどかしい程に出てくる。しかし一時気まずい雰囲気がうす暗い物置きを支配した。それは<はんばのオヤジ(経営者)が朝鮮人である>ことに端を発している。

 「ここのオヤジはチョーセンや、金ナントカ言うんや。そやから金田組なんてもっともらしい日本名使うとんのや」

「ホー、やっぱりそうか、まだ若いけどナァー」

 そう控え目に口をはさんだのはTさんだった。そしてしばらくするとTさんは初めて自分が韓国人であることを明らかにした。しかし決して自分のことを表現するのに“韓国”という言葉を使わなかった。「むこうの国」と呼び、自分のことを「むこうの人間」と言った。そして「ワシはこっちで生まれたから、むこうのことは全然知らんけどな」と言い、暗に自分がほぼ日本入であることを主張していた。

 それは同国入のオヤジに与えられた“チョーセン”という蔑称が自分にも与えられはしまいか、ということの危惧であったのだろう。「オヤジはチョーセン」と言ったのは、このはんばに来て三日とたたないSさんだった。そしてその言葉は誰の□からも出ることはなかった。

 その後話は、めずらしくも共産主義のことへと移っていった。それは半島−共産主義という単純な回路を通してであり、“チョーセン”の話とすげ代える意味合いを含んでいた。−略−「むこうの人間」ということで、Tさんは共産主義に関してよく質問を受けていたようだ。しかしTさんと他のアンコとの間には全くミゾはなかった、と言える。

 “チョーセン”という差別用語は、半ダコ(タコ部屋よりはマシ)はんばのオヤジヘの反感・憎悪を合理化するために使われた。そしてピンハネする者への憎悪を感覚的に正当化できるものとしてでもあった。しかしそんな言葉はアンコという同じ世界の住人の間にあっては禁句であったようだ。

 そのことを保障するのは“もうどこへも転びようのない”人間同志のなぐさめであり、同じ釜のメシを食う仲間世界を分裂させることへの危惧だろうか。

 ただ感じたことは、確かに、彼らは目に見えぬ糸で結ばれ、より共同体的心情の内に生きている、ということだった。』−自由連合、第31号・1971・フーテンアンコ行状記・六−

 後日、満期になり賃金の支払いを請求すると、もうしばらく働いてくれ、という引きのばしのやりとりがあり、ねばって精算してもらった後のこと。

 『金をもらい出てくるTさんの顔はきわめて渋いものだった。僕が手にした金は一万二千円。Tさんのそれはわずか五千円であった。

 大の男が十日間働き、夜にビールと酒をとっただけで五千円とは驚いたものだ。その明細もノートに走り書きしただけのものであり、不明瞭であった。ねじ込む気力を、二人はもう持ち合わせていなかった。』−自由連合・32号−

 

 寺島玉雄にやはりオヤジが朝鮮人である飯場にいたときの詩がある。

 

 ×川×雄こと、という男

 

−わしの言葉に朝鮮なまりがあるか?

 

麻雀の最中だった。

×川×雄は自摸切りの手を戻しながらいった。

 

もちろん否定を望んでいることや。

帰化反対の彼の妻、弟や。

日本籍でないといい仕事が廻ってこない下請土建屋の立場や。

時に酔いどれて、わいはチョウセンやぁ とわめく彼の声や。

×川×雄こと鄭なにがしの四十年余りの歴史と現実のようなもの……

瞬時にしては長い空白のなかで夜の更ける音がして

間のびしたポン(石並)をおれがやった。

 

−しょうもないこというたなあ

×川×雄は少しし笑い

−ごめんやっしゃ

と また自摸切りだった。
 

 −わがテロル考・1976・VAN書房−
 

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 日本の植民統治下の朝鮮から”移入された朝鮮米は日本内の市場に於て殆んど格差の無い同一商品として現われて、「内地米」の価格高騰を押さえひいては産業労働者の賃金水準を抑圧するという所期の役割を十二分に果したのであるが、これと全く同様な意味に於て産米増殖計画の今一つの産物である浮遊朝鮮農民も「朝鮮労務者」として日本に移入されたのである。−略−一九三〇年に於て朝鮮人労働者が日本の近代産業労働で占めた比重を朝鮮人労働力が集中された産業小分類について見ると、土方の351%、採炭夫の115%、土石採出夫の319%が朝鮮人労働者でもって占められている。更に1940年度の同分類従業朝鮮人労働者数で以て仮りに1930年のそれと対比するとするならば、日本内採炭夫の42%、土工の50%、ガラス成型加工工の41%が朝鮮人労働者でもって占められることになる。”−在日朝鮮人に関する総合調査研究・1979年再版・朴在一薯・新紀元社−

 

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 1981815日、第10回釜ヶ崎夏祭りの会場である三角公園に立てられたやぐらの上、四つのスピーカーから韓国のひばりといわれる李美子の歌声が流れる。真夏の昼さがり、白っぽく光る公園には人影まぱら。

 酔いと歌声に身をまかせた労働者が、ゆらりゆらりとやぐらに近づき、ごろりと横になる。うたたねしているかにみえる彼は、ねえさん、ごめんなあ……、オッパー…と歌声に応じるごとく、ひとりごとをいう。

 やぐらのまわり、公園の中に、一つ、二つ、五・六人の子供達の群れが。

 発音を聞いてこいよ、と公園に連れてこられた彼らの中の兄貴株は、何か手伝うことないか、と申し出てくれたが、彼らは昨年の夏祭りにも来ていただろうか。

 昨年の夏祭りでは、光州蜂起のパネルが展示され、闘いの片鱗を伝えるフィルムが上映された。千人近くの労働者が熱い視線を注ぎ、大きな拍手でひとまずとじた熱気こもる刻を、彼らも共に過ごしただろうか。朝鮮人強制連行の歴史を掘りおこした『受難の記録』を、彼らもみただろうか。

 

松繁逸夫1981年・記・喚声・第?号