3.“繁栄する日本”の名のもとに−追い、追われ
 

野宿者に人権なんて・・・の声

 

「今の繁栄する日本で、大の男が、アパートにも住めず、食べるのにも困っているというのは、本人がよほどグウタラでナマケモノだからなんでしょう。そんな人達に、人権なんかあるんですか。あなた達はどういうつもりで騒いでいるんですか。」さも憤慨に堪えないといった調子の声は、東京・山谷の近くのマンションに住むという女性のものだった。

83年5月に、大阪府警南署が、南の繁華街で様々な理由から(主要には釜ヶ崎に仕事がなく)野宿を余儀なくされている労働者に対し、“美観と治安維持のため”に軽犯罪法を盾にして、写真撮影・指紋採取への協力を強制したことが、釜ヶ崎日雇労働組合への、労働者からの訴えによって明らかになった。釜日労では、これを人権侵害事件としてとらえ、南署に抗議することを決めたが、このことを報じた朝日新聞の記事を読んで、一言いいたくなって電話を手にしたもののようだった。

「なぜ野宿しているか、ご存じですか」と聞くと、「私は“浮浪者”に知り合いはいないし、関心もない。そんなこと、知りたくもない。」との返事だった。

野宿者がなぜ野宿をしているのか、知りもしないし関心もない人が、“繁栄する日本”の名によって、野宿者を“グウタラ”で“ナマケモノ”と決めつけ、“浮浪者”にもその人達と同じように人権があるとする主張には関心を持ち、積極的に反対の意思表示をおこなう。なぜ、このような判断が成り立つのだろうか。

また、釜日労がN弁護士の協力を得て、大阪弁護士会の人権擁護委員会へ、人権侵害事件として申し立てるにあたっての資料を作成するために、ミナミの“虹の町”で聞き取り調査をおこなったときには、ニュース報道のためのテレビカメラ三台も同行したが、それを見た酔ったサラリーマンは、「“浮浪者”が英雄づらしてテレビに出てる。」と憎々しげに声を投げつけた。直接の利害関係がないはずの、通りすがりのサラリーマンは、野宿者がテレビに出ることに、なぜ許せない気持ちを抱くのだろうか。

野宿者の人権を主張することに対する反発は、電話の女性や酔ったサラリーマンだけのものではなかった。

週刊新潮の“東京情報”欄には、次のように書かれていた。

朝日新聞の記事は、『これはもう「報道」というより、悪意ある「威嚇」もしくは社会に対する「挑戦」ではないか。』『市民の苦情のタネになって』おり、『このままではミナミの繁華街にまともなお客が寄りつかなくなるし、治安上も大問題だということで、住民が立ち上がって』いるし、『浮浪者というのは、その存在自体が犯罪なのだ』から、『さっさと検束なり検挙なりして排除すべき存在である。』『午前一時に歩道で寝ている人間に、どんな権利があるというのだ。権利というのは、義務を果たして、みんなと協調している人間に、はじめて生じるものなのだ。』(83年5月26日号)

誠にもっともらしく書かれているが、なにごとにも原因があって結果があることが忘れられており、野宿者がなぜ野宿せざるをえないのかは一考だにされていない。それは“繁栄する日本”の名によって野宿者を断罪する人々とも、共通していることだと思える。

“日本の繁栄”の結果の一つとして、“中流意識”が主流の“市民社会”があるならば、野宿を余儀なくされる人達の生活もまた、“日本の繁栄”の一つの結果として存在している、と考えることはできないことなのだろうか。


日本の繁栄と追われるもの

 

アーケードに覆われた南北に延びる心斎橋筋の商店街の中にあるワシントン靴店の前は、ウィンドーショッピングを楽しむお客が立ち止まれるようにとの配慮からか、歩行者の行き交う道よりも1メートル引っ込んだところにショウウィンドーがあり、幅1メートルほどの入り口は更に1メートル奥まっている。店が閉じた後は、その空間が野宿者の溜まり場として利用されていたが、83年5月9日午前1時頃、南署の制服警官4人が訪れ、付近で野宿していた人達もそこへ集められて、14〜5人が一度に“C−18”というような記号と整理番号、氏名、生年月日を記入した、わら半紙半分の大きさの紙を棟の前に持たされて写真を撮られると共に、警官の持つ記録用紙に、指紋を採られている。

釜日労が事実調査をおこなった5月13日にも、やはりその場に2〜3人の人がおられたが、その中の一人、いかにも気の良いおじいさんという感じの男の人は、“C−18”の整理番号と生年月日、氏名の記されているわら半紙を示しながら、「もう一度来たらこれを見せろ、落としたらあかんと言われた。他の人で、なんで写真をとるんや、と言っているのがいたが、私は後ろの方で、みんなとられているから仕方ないと思って応じた。」と、その晩のことを説明した後で、野宿にいたるまでの半生を語ってくれた。

大阪市大淀に生まれたおじいさんの半生は、16歳の時に森ノ宮の砲兵工廠に勤めはじめたのを振り出しに、敗戦後は、炭坑、港湾、そして釜ヶ崎へと移るという、日本の繁栄を支えた釜ヶ崎労働者の代表といえるものだった。“日本の繁栄のもう一つの結果としての野宿”をあきらかにするために、少し詳細に追ってみたい。

敗戦後の日本は軍復員7百50万人をはじめ、1千3百万人にものぼる失業者−この中に若き日の、ワシントン靴店前で野宿しているおじいさんもいる−をかかえこんでいたが、その多くは一時、血縁などを頼りに、農村部へ入っていった。政府は大規模な緊急開拓計画を立て、失業の社会問題化を防ぐ方策とした。

その一方で、産業を立て直すために必要なエネルギーである石炭の増産や鉄・肥料などの工業に力を注ぐ傾斜生産方式が採用され、まず、人と物、資金が炭坑に集中された。

石炭の不足は、戦時中に炭坑の“先山”として坑内で働かされていた朝鮮人労働者が、日本の敗戦により大挙帰国したことによる労働力不足が主な原因であったので、人を集めることが最優先とされ、炭坑で働く労働者や家族には食糧配給の増配、就職しようとするものの家族に対しては、門出の餞別に甘藷(サツマイモ)の特配などが決定された。また、石炭不足で操業危機におちいっていた鉄道・ガス・製鉄などの産業では、社員を“坑援隊”として組織し、炭坑へ送り込んだ。

それでも労働力不足が急速に解消しないことから、“ボツダム宣言受諾に伴う労務充足に関する勅令”による国民強制徴用の強権発動実施が検討され、募集不良地区で実施するという決定までなされた。

そういったことを背景に、“美談”が生まれる。

『徳島市Yさん(45)は、陸海軍に奉公の子息たちの復員を幸ひ、一家をあげて一生採炭報国に挺身を決意。九州へ向けて出発前に、「新日本建設のためには徴用令を待つまでもありません。永々に働きます」と固い決意を語った。』(朝日新聞昭和20年12月6日)

ワシントン靴店の前でワンカップを傾けながら話をしてくれたおじいさんも、鉄砲の次は石炭で、“滅私奉公”のやり直しを、と考えて炭坑におもむいたのかも知れない。

しかし、炭坑で待ち受けていたものは、戦前と変わらぬ、安全を無視した採炭の強制、力を背景とした労務管理という石炭資本の貪欲さであった。

1947年には労働者の経営全面参加、国家の生産指揮をめざす炭坑管理法案が国家で論議されたが、企業側の反対、議員買収の疑獄事件(田中角栄など13人が起訴される)の結果、骨抜きの“臨時石炭鉱業管理法”として3年間期限付きでようやく成立するという体たらくで、労働者にとっては何の改善ともならなかった。それどころか、49年にはドッジ・ライン(収支均衡を基本とする予算編成、軽罪復興金融債の中止など)の実施による“金詰まり”で、三井・三菱などの大ヤマを別として、小さいヤマでは賃金の支払い遅延が相次いだ。また、世の中が一定の落ち着きを取り戻し、石炭生産体制が軌道に乗り始めるや、戦後、鳴り物入りで募集して都市からの労働者を、能率が悪いと追い出し、戦前のように近在の貧農地帯にいる安く使える労働者との入れかえも始められた。

1953年には石油の進出が本格化し、閉山・合理化による首切りが始まる。

徳島のYさんや、ワシントン靴店の前で話をしてくれたおじいさんのように、“日本復興”の熱い思いを抱いた人達が、その思いとは裏腹に、ヤマを離れざるを得なくなるのには、そう長い年月を要しなかったのである。

おじいさんにヤマを離れるきっかけを与えたのは、1950年6月に始まった朝鮮戦争であった。

朝鮮戦争において日本は、ベトナム戦争でもそうであったように、一方に荷担する兵站部門を担うことによって、自らは傷つくことなく、“特需ブーム”で戦後経済復興に大きな弾みをつけた。

朝鮮休戦協定が結ばれた53年7月以後も軍需特需は続き、55年までの5年間に、兵器・石炭・自動車・綿布・建物建設・荷役倉庫・電信電話などを中心に、ありとあらゆる産業にひろがり、総額17億ドル(6千余億円)に達したと言われている。

朝鮮の戦場へ向けての物資の輸送の増大や輸出の増加は、人力に頼ることの多かった港湾荷役を活気あるものとした。当時の神戸港の様子について、“六大港統一情報”の座談会の中で、全港湾神戸支部弁天浜分会のH副分会長は次のように話している。

『朝鮮動乱の時に好景気になった。今まで港湾の実態として働いていた人が、人がたらんようになった。それ九州やそれ四国や田舎やいうことで寄せ集めてきた。その影響で港湾に行ったら金儲けできるということで人がどんどん集まってくる。

その中に生まれてきたのが会社の手配師、要するに力の強い暴力団が、片方、好景気でもうけた会社が大きくなってくる。これに目をつけた、やはり山口組なり組関係が、業に手をのばしていく。』

港湾荷役の活況を聞き、九州の炭坑を離れたおじいさんは、当時、体力にも自信があったので、大阪に帰ることなく、神戸港で港湾労働者(仲仕)として働くことにした。

艀を中心とした人海戦術による当時の日本の港湾荷役方式は、日本経済の高度成長を繁栄する港湾取扱貨物量の激増に対応しきれず、61年には、労働力不足から、横浜・神戸など六大港では一ヶ月に三千隻がが滞船し、二ヶ月も接岸できないという極端なケースもでるという異常船混み現象が発生、日本経済の由々しき問題とされた。それは、港湾労働者にとっては、一度沖へ出れば、いつ帰れるかわからぬ過酷な労働を強いられることを結果する。

炭鉱から港湾へと移動し、肉体労働を続けたおじいさんは、61年の異常船混み現象を体験したあと、体力の衰えを感じ、交通事故にあった労働者に対する警察官の人を人として扱わぬ対応への怒りを原因とする第一次釜ヶ崎暴動の翌年、1962年に、釜ヶ崎へと身を移した。

62年には、“全国総合開発計画”が決定されている。この計画は、四大工業地帯を結ぶ太平洋ベルト地帯を中心として、全国のいくつかの拠点地域に、鉄工・石油・石油化学・エネルーギー産業を組み合わせたコンビナートを建設しようというもので、このために、道路・港湾・用地・用水などの産業基盤整備に膨大な公共投資がおこなわれた。また、阪神高速道路公団が発足した年でもある。

その3年後の65年には“日本万国博覧会”の大阪開催が正式に決まり、翌年から70年にかけての4年間で、大阪市の地下鉄網が整備され、大阪府の中央環状線など十大放射三環状道路の建設が促進された。その事業費は、総額9千億円であったといわれている。

万国博協会は、会場建設に最盛期2万人の労働者が必要と算定し、出稼ぎの多い東北地方、中国地方や沖縄まで協会職員が協力を求めに出かけていったのだった。

炭鉱・港湾そして道路工事やビル建設などで働き続けてきたあげく、ワシントン靴店の前で、“浮浪者”として南署の警察官に顔写真を撮影され、指紋を採られたおじいさんは、まさに“繁栄する日本”を形成する現場の最先端に身を置いてきたといえるのではないか。年老いて働けなくなり、野宿をせざるを得なくなったこのおじいさんを、犯罪人扱いし、グウタラだからああなったんでしょう、とムチ打つことは不当なことで、食う心配、住む心配のない生活を保障することが“繁栄する日本”の当然の債務である、と考えることは、社会に対して甘え過ぎになることなのだろうか。

繰り返しになるが、故人の例としてではなく、釜ヶ崎日雇労働者が総体として果たしている社会的役割を、更に明らかにするために、西成労働福祉センターの事業報告(82年20周年特集号)を引用したいと思う。

『就労数の推移をみると、経済活動の好況、不況、産業構造の変化、政府の景気対策などにより、年度又は産業別に大きな変動がある。

昭和30年代後半、所得倍増計画以降から建設業における産業基盤の設備投資ブームに乗り、就労数は年々増加している。

ベトナム特需や貿易の活発化による、輸出入物資の増加は港湾・沿岸荷役の就労数を激増させ、東京オリンピックが開催された昭和39年は全就労数の45%を占め、昭和30年代のピークを形成した。

昭和40年代にはいると昭和41年の港湾労働法の施行で、港湾荷役の合理化、近代化が進み港湾荷役への日雇労働者の比率は年々低下した。(略)

しかし、一方、堺泉北臨海工業地帯の造成がすすむ中で、鉄鋼・化学・造船等の製造業における就労数が増え、昭和45年には全就労数の40.2%を占めるまでになった。

民間の大型設備投資ブームや万博関連工事等で昭和44年の就労数は40年代前半のピークとなった。』

この時期までは、世間の人々の野宿者に対する目も、そう冷たいものではなかった。多少の景気の変動があったものの、野宿を長期にわたって余儀なくされる労働者もそう多くなかったし、世間の人々も、自分の“生活向上”にのみ目を奪われていたからかも知れぬ。

では、行楽のために駅を利用する人々が、野宿者を邪魔者とみ、繁華街の商店主が追い立てを考え始め、国鉄や警察、民生行政までもが、その市民たちに後押しされ、また、野宿者をスケープゴートに仕立て上げることに意味を見いだして、積極的に取り締まり、追い立て始めるのはいつ頃からであろうか。

83年2月に明らかになった、少年らによる“浮浪者狩り”は、明らかになったときよりも8年さかのぼる、1975年からおこなわれていたものであると、かつて“浮浪者狩り”に参加したことのある少年たちが証言したというが。


繁栄の停滞と野宿

 

先に引用したセンター事業報告は次のように続いている。

『昭和48年11月におこった、第1次石油危機と、それ以後の総需要抑制策による設備投資の急減、生産活動の低下、物価高騰などによる戦後最大の不況は地区にも大きな影響を与え、昭和50年にはセンター発足以来、最も少ない就労数となった。

その後、政府の不況対策がとられ、公共投資の大幅増、金利の引き下げなどの影響で、昭和51年から次第に回復し、昭和54年は列島改造景気などに次ぐ就労数のピークをなし、一方建設業への就労は89.4%までになった。』

1975年の釜ヶ崎の情況がどのようなものであったか、二つのグラフを見れば、さらに明らかになる。グラフのTは労働福祉センターの先の引用文に付けられている、釜ヶ崎の仕事量の推移を示したものである。グラフUは、国勢調査にもとづいて作成した釜ヶ崎の人口推移を示すものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

センターのグラフを見れば、72年には78万7千人の求人があったが、75年にはその半分の30万3千人の求人しかなく、するどく落ち込んでいることが判る。年間78万7千人の求人に応じて仕事をこなすことができるだけの日雇労働者がいる釜ヶ崎に、30万3千人の求人しかないということは、どういうことになるか、誰が考えても明らかであろう。大量のアブレ(失業)が生じたのである。グラフの谷の深さは、釜ヶ崎の労働者の、アブレ続きの困難な生活の苦しみの深さに対応している、といえまいか。

 

人口推移のグラフの中の男・A、女・Aはともに国勢調査により、今池・東萩・東田・甲岸・海道・東入船・西入船・曳舟の各町の男あるいは女の人数を合計したものであり、男・B、女・Bは、73年町名変更後の旧町名に対応する萩之茶屋1〜3丁目、太子1・2丁目、花園北1・2丁目、天下茶屋北2丁目の男女のそれぞれの合計を示すものである。(山王地区は除外している。)

これを見ると、1965年、オリンピック準備のために必要な労働者の基地としての山谷の人口が最高に達した時期を除けば、一貫して釜ヶ崎の労働者は増え続けていることが判る。この上昇は、池田内閣の所得倍増計画(60年、閣議決定)が、農村を破壊して農民を都市労働者として配置がえすることによって安価な労働力を企業に提供し、日本の経済を“繁栄”させようとするものであることから引き起こされた、人口の都市集中と軌を一にするものであった。

人口推移の男Aと男Bを見ると、70年から75年にかけて、約3千人、急減していることが示されているが、これは、町名変更によって生じた集計上の現象であろうか。

そうでないことは、“センター”のグラフに照らして考えれば、簡単に想像がつくことだろう。釜ヶ崎に仕事がなくなり、ドヤ代も食事代も確保できなくなって、釜ヶ崎を離れざるを得なくなった労働者の存在をはっきり示している。

釜ヶ崎を離れざるを得なくなった労働者は、どこで、どのような生活を送ったのだろうか。当時の朝日新聞には、次のような報告がある。

『大阪・キタやミナミの地下街に浮浪者が現れて5ヶ月。その数は減らない。(略)

今年はじめ、浮浪者を見る目はまだ温かかった。少々のことがあっても、見て見ぬふりが多かった。警察を呼ぶことがほとんどなかった。ところが、3月に入った頃から様子は一変した。

曾根崎署の梅田地下街警備派出所、大阪駅警備派出所の警察官の“出動”ががぜん多い。3月中だけで計131回。泥酔保護50件(地下街12件、大阪駅38件)をはじめ、無銭飲食8件、けんか口論7件、たき火7件、迷惑行為5件、通行客とのトラブル5件・・・。「小便をして汚い」「通行人にちょっかいを出す」「物ごいをされて困る」。最近ではなにかにつけて、警察官を呼んで追っ払おうという傾向だ。

国鉄大阪駅でも3月にはいってから、鉄道公安員の巡回がしょっちゅう行われるようになった。30分置きに回って追い立てることもある。駅の正面入り口付近に並んでいたベンチは「浮浪者が占拠して、不潔だ」と撤去された。(略)』

10年前のこの記事には、野宿者を襲撃する少年たちの姿こそ見えないものの、これまでに登場した京都駅の助役、鉄道公安員、警察官、そして寿の地下街の商店主など、野宿者を追い立てる人々の姿が見える。

野宿者が目立ちはじめた当初は、同情の目で見ていた人々が、長期化するにしたがい、徐々に野宿者を邪魔者扱いするようになり、警察・権力を頼んで追い立てにかかる。しかし、先に詳しく述べたように、野宿者も好きで野宿をしているわけではなく、野宿せざるを得ない理由があってのことだから、京都駅と同様にいたちごっこに終わり、京都駅の鉄道公安員が抱いたのと同様の、“憎しみ”芽生え始める。そういった過程もみてとれる。

だが、この“憎しみ”はおかどちがいのもので、責任を追及されるべきは野宿を続けている人々ではないはずである。責任の所在を明らかにするために、当時の越冬闘争の経過を見てみよう。

1974年12月25日から開始された第5回越冬闘争は、“センター”から南海本線を西に越えた今宮中学校の南にある四条ヶ辻公園(現・花園公園)で、公園の中にテントを張り、炊き出しをおこなう従来通りの形で開始されたが、年が明けても例年のように仕事が出ず、野宿を余儀なくされる労働者が減らないことから、それまでテント村を撤収するメドとなっていた1月10日以降も続けられ、行政に対しては“仕事よこせ”の要求が突きつけられた。しかし、行政はその要求に答えることなく、75年2月26日、千百人の機動隊員を導入して、テント村の強制撤去をおこなったのだった。

75年12月10日から始まった第6回越冬闘争は、その年の10月に結成された“釜ヶ崎仕事保障期成同盟”が中心となっておこなわれ、大阪府労働部に対して『特別公共事業を出せ』と押しかけたが、この時も行政は何の対応もせず、越冬闘争は通年化の様相を呈した。そして、6月、行政から野宿を余儀なくされている釜ヶ崎の労働者への対策として打ち出されたのは、花園公園改造の名目で、公園を鉄板で囲い、完全封鎖することだった。野宿労働者に対してとられたこの処置が、京都駅や大阪駅でとられたものと同じものである、と指摘することに誰も反対できまい。更に、大阪市民生局が、野宿者は力で追い払え、という好見本を率先して、駅や警察・“市民”に示したのだと断定しても、反論はおこるまいと思える。

今、振り返って考えれば、釜ヶ崎の−同じ日雇労働者の街、山谷・寿なども含めて−日雇労働者が出した、腹の底から絞り出すような“仕事よこせ”の要求を、行政は無視することを当然と思い、多くの人々も、それをやむをえないものとする“時代の風”が吹いていたかのごとくである。(他事ながら、当時“労務者渡世”は、越冬闘争や仕事よこせの闘争とは別に、“時代の風”の中で、労働者ではなく、“労務者”として誇りうる何ものかを打ちださんとして発行し続けられていた。)

野宿に追いつめられ、呻吟している日雇労働者を切り捨て、差別・排除の対象とした“時代の風”とはどのようなものだったか、それを探るのに、別の“時代の風”と対比することによって特徴を浮かびあがらせ、はっきりとさせたいと思う。


繁栄の停滞と追うもの

 

時代を1975年から、炭坑で合理化・首切りの嵐が吹き荒れ、それに抗する労働者の闘いが組まれた1959年にさかのぼる。

1959年は、繊維や化学などの大幅操短による一時帰休や造船などの臨時工整理、零細な下請け企業などの人員整理がおこなわれた一年あまりにわたる景気低迷(なべ底不況といわれた)から、ようやく脱し、“岩戸景気”と呼ばれる好況を迎えた年であるが、炭坑で働く労働者にとっては、厳しい闘いの幕開けの年であった。

敗戦後、炭鉱労働者が日本経済を支えるものとして、もてはやされたことはワシントン靴店前で話を聞いたおじいさんに関連して述べたが、53年に石油の進出本格化と同時に、大規模な企業整備がおこなわれ、指名解雇や希望退職募集によって、全国で2万4千人が首を切られている。さらに、57年、スエズ動乱が終わると共に、石油の日本市場進出は一層急テンポとなり、石炭資本は何とか利潤を確保せんものと、59年以降5ヶ年間に炭鉱労働者11万人の首切り、石炭生産コストをトン当り千3百円引き下げる合理化計画を立案し、“石炭斜陽化”キャンペーンによって、炭鉱労働者に、彼らの労働がもはや社会的に有用な労働ではないと思いこませた上で、失業か賃下げかの選択を迫ったのであった。

1945年の日本敗戦からわずか14年、日本経済の最重要産業に働く“産業戦士”から、一転、“斜陽産業の持て余し者”とその評価をかえられて、首切り、労働条件の切り下げという資本の攻撃にさらされた炭鉱労働者の姿に、“日本の繁栄”を支える産業基盤整備事業や景気刺激策ととしての公共投資事業に黙々と働いてきたあげく、公共投資による景気への波及効果は以前ほど、ではなくなった、財政を圧迫し、議員や業者の食い物にされるだけであると、公共投資の値打ちが下がった1975年に使い捨てにさらされた日雇労働者の姿を重ね合わせてみることは、あながち思い入れ過剰とは言い切れないものがあるだろう。

炭坑における首切りの嵐に対して、世の人々はどのように対したであろうか。石炭はあまり重要でなくなったのだからやむを得ない、として、現在、野宿者に対してとっているような見捨てる態度をとったのだろうか。

そうではなかったようである。炭坑の首切りの嵐には、労働者の側に連帯する動きがあつたのだった。

一つは、三池闘争で示された労働者間の連帯である。

三井鉱山が三池労組の職場活動家の排除を重点にすえる人員整理を中心とした合理化案を発表(59年8月26日)したことに対して、三池労組は282日に及ぶ長期のストライキで、炭労・総評は全国から延べ30万人のオルグを現地派遣して、闘ったのだった。この闘いは、三池労組が53年の首切り、指名解雇を“英雄なき113日のたたかい”によって取り消させた唯一の労組であったことから、59年の合理化攻勢の帰趨を占うものと見なされ、総資本対総労働の対決という様相を呈していた。

いま一つは、“黒い羽根”募金運動で示された市民レベルでの連帯である。

“黒い羽根”募金運動とは、今でもおこなわれている“赤い羽根”募金運動の赤い羽根を、石炭が黒いことから黒い羽根に置き換えて、炭坑合理化で整理される労働者を救いたいと、福岡県の婦人有志が発起した助け合い運動であるが、炭坑の合理化・首切り問題が、炭労・母親大会などを通じて社会に広く知られるにつれて全国的な運動となり、小学校などでも赤い羽根募金同様に募金がおこなわれた。

炭鉱労働者に対する連帯の動きと野宿を余儀なくされる労働者に対する差別・排除の動き、この二つの動きの大きな隔たりは、どのようにして生じたのであろうか。炭坑には組織があり闘いがあった、釜ヶ崎には、野宿を余儀なくされる労働者には、それがなかったからだ、とするのはあたらない。量や質において差異はあるとしても、釜ヶ崎にも組織や闘いはあるのだから。

だとすれば、隔たりを生んだものは何か。そこに、“時代の風”の違いを感じるのである。

1959年当時の“時代の風”については、多言を要さないであろう。

57年には“勤評反対闘争”−教員を管理体制の中に取り込み、教員組合の破壊を目的とする教員に対する勤務評定の実施に反対して、全国各地で教員組合を中心に、労働組合や民主団体による地域共闘が結成され、幅広い人達の参加のもとに闘争が進められた−があり、58年には、独断に基づく所持品検査など、個々の警察官の権限を拡張する方向での“警察官職務執行法”「改正」の動きに対する反対闘争があった。そして、59年、日米軍事同盟の強化をめざす安保条約改定に反対する“安保改定阻止国民会議”が結成され、全国各地でも“安保共闘”が組織されて、安保改定阻止に向けた統一行動が繰り広げられた。同年11月27日の第8次統一行動では、政府発表でさえ全国の集会参加者は24万人をこえ、東京の中央集会からのデモ隊の一部(2万人)が、国会構内になだれ込んでいる。

59年4月には皇太子の結婚式があり、前年11月の婚約発表以来、“ミッチーブーム”と呼ばれるものがあったが、敗戦後、“民主日本”の建設をめざし一定の民主化政策がとられた後、日ソ冷戦の深まりの中で、“逆コース”政策が目立ち始め、そのことに“民主主義と平和”の危機を感じ取った、広範な人々の“逆コース”への反対運動を吹き消すにはいたらなかった。

敗戦後の焼け跡から出発して14年、“高度成長”のとば口に立っていたものの、多くの人々はいまだ戦争を、貧乏を忘れていず、“時代の風”は、確実に“平和と民主主義”を求め、あらゆる人々を連帯させるものとして吹いていたのだった。

かかる1959年当時の“時代の風”とくらべ“高度成長期”をすぎ、“豊かな生活”を現実のものとしたとされる時代、1975年の“時代の風”は、なんとみすぼらしいものであったろうか。

1975年は、日本が近代に入っての4度目(前3回は明治維新、西南戦争後、第2次大戦後)の体験とされる25%を超すインフレをもたらした“オイル・ショック”に起因する戦後最大の不況がようやく底をつき、回復の兆しが見え始めた年であるが、当時の三木首相が初の施政方針演説で『高度成長から安定成長へ』、『量的拡大から質的充実』への転換を説いた後『物的生活は簡素に、精神的生活は豊かさを』と、新しい時代に対応する心構えを訴えざるを得なかったように、転換と混乱の年でもあった。

転換と混乱をもたらした原因は、それまで『企業の繁栄=日本の繁栄=個人の豊かな生活』と疑いなく受け取られていたことが、実はそうではなく、企業が消費者を食い物にする犯罪者に他ならないことが露呈し、“GNP信仰”が崩れたにもかかわらず、多くの人々が共感を持って受け入れられる社会生活上の理念が獲得されなかったことにある。

“高度成長期”には企業活動の膨張と個人生活の物質的向上とは、公害や非生産能率部門の切り捨てなどがあったものの、一定、手をたずさえて歩む側面があった。

しかし、70年代に入る以前に、日本経済は行き詰まりを見せ始めており、資本は新たな設備投資目標を見いだすことができないままに、土地や株式、あるいは商社を中心として物の買い占め、転売などによって利潤をあげ続けようとした。それは、71年の“ドル・ショック”−米国の金・ドル交換の一時停止、主要各国の平価切り上げ要請など−の時に、ヨーロッパ各国の外国為替市場が閉鎖されたにもかかわらず、東京外国為替市場ではドルを買い支え続け、10日余りの間に、1兆8千億もの円を国内市場にはき出したことで生じた“過剰流動性”によって強化され、72年から73年にかけての物価上昇は、“狂乱物価”と名付けられるほどになった。

そして73年の第1次“石油ショック”−原油価格の大幅引き上げ、中東における石油の生産削減と供給制限の発表−。企業は『千載一遇のチャンス』として、『石油が24%も減れば、電力はもちろん全産業に大変な減産・物不足が起きる』と危機感をあおり、陰では豊富な資金を使って“物隠し、売り惜しみ”をおこない、異常ともいえる儲けをあげたのであった。

例えば、三井製糖は、あおられた物不足の危機感から買いだめによる消費の増大につけ込み、上白糖の含有水分を高めるという、文字通り水増しした商品を販売することによって、10年間の累積赤字約20億円を脱却し、わずか半年間で38億円の暴利をむさぼっていた。

石油会社は出荷を押さえることによって物不足を演出し、原油値上がり以上の便乗値上げをおこなっていたし、値上がり原油の到着以前に値上げの先取りすらおこなった。業界との癒着が取沙汰されていた通産省の試算によってすら、石油価格の妥当な値上がり率は30%程度であるのに業界は71%も値上げし、関連製品についても、合成樹脂は7.6%が妥当なのに65%、合成繊維は9.4%に対して52%、セメントは10%を32%という便乗値上げをしていたと指摘せざるを得ないほどの異常なものであった。

このような企業犯罪は洗剤・紙・石油製品・電気製品・建築資材などあらゆる生活必需物資にわたって展開されていたのであった。

物不足の声にあおられて買い溜めに奔走した人々は、“巨大な嘘”に踊らされていたことに気が付かされたのである。この“巨大な嘘”は、10年後に“神風”と総括される。

『高度成長が行き着くところまで行き着いたときに、石油ショックが起きた。生産技術体系を一斉に転換する必要が生まれた。一言でいえば、重厚長大から軽薄短小への移行−。エネルギー多消費型の成長は限界に来ていたが、石油ショックでその切り替えが早まった。結果的にみれば、ショックは日本経済にとって神風だった。』−赤羽隆夫経企庁物価局長・83年10月4日・毎日新聞−

財界は、技術体系転換に必要な資金を、消費者を物不足でおどし、高ければ買わない自由はあるはず、と開き直る強盗的手段で手に入れることができ、重厚長大から軽薄短小への移行を成し遂げることができたゆえに、“神風”と総括されているのである。

多くの人々が、一方的になされるがままであった、というわけではなかった。“石油メーカーに灯油を安くはき出させる会”を結成し、堺のゼネラル石油精油所に灯油缶を打ち鳴らしながら押しかけた大阪・千里ニュータウンの人々や、姫路市にある播州地方の最大の問屋の社長を、洗剤隠しで追求した人々のように、全国各地で抗議と物を出させる直接行動の闘いがあったのだった。だが、『資本主義社会であるのに、儲けることがなぜ悪い。』という企業論理を打ち破るにはいたらなかった。

『企業への貢献』は『社会への貢献』に直結するという思いこみが無惨にも打ち砕かれ、“社会正義”修復のための最低限度の手続きとしての企業犯罪追求も、企業経営者を断罪することはできなかったし、上がった物価はもとの水準に戻ることなく、ただただ現状の追認、消費者としてのみの社会参加が強いられ、東アジア反日武装戦線の逮捕を頂点とする“過激派キャンペーン”の中、人々はかっての1959年のように、一つの社会目標を設定して、大きく連帯することはなかった。

連帯しようにも、それぞれが何らかの形で−社員として、商店主として、消費者として−“巨大な嘘”に荷担している後ろめたさと相互不信が存在しているのであった。

結局は、働き、消費するという日常生活の持続の中で『資本主義の世の中で金を儲けることがなぜ悪い』の論理に屈服するしかなく、それを個人の中に、激しいインフレに目減りする所得に不安を感じながらも『資本主義の世の中だから、自分の金を好きに使って生きる』と翻案して取り込み、社会生活の意義をレジャーに求めることによって空虚さを埋める他はなかった。

個人を中心とした世界に閉じこもり、少ない金でより大きな楽しみを求める人々にとって、“浮浪者”はせっかくの楽しみの場に、不安な日常生活を思い起こさせる“邪魔”な存在でしかない。また、消費の喚起を、きらびやかな舞台装置のもとでおこなおうとする商店主や企業にとっても、“浮浪者”存在は楽屋裏をさらけ出す“邪魔”な存在でしかない。かくして、“不快”を思い起こさせる“浮浪者”を追い立てることは、商店主、企業と消費者、一体となった願望となる。さらに、行政は“浮浪者”放置し、さらし者とすることによって、スケープゴートとしての役割をも付け加える。

1975年の“時代の風”、連帯でなく、差別・選別・排除を呼び起こすものとして冷たく吹き渡ったのだった。