1.野宿者−追われるもの

 京都駅における“浮浪者狩り”
 

 国鉄京都駅前地下街“ポルタ“に、きらびやかなショーウィンドに囲まれた広場がある。広場の天井は高く、地下鉄京都駅に向かって左上に、広場に沿って長くベランダ風に突き出た中二階があり、広場から左右にある階段を昇って行くと、百人ほどがたたずめるぐらいの空間に出る。日中は団体客が行き交い、あるいは若い男女が足を止めて”ボルタ“の賑わいを見下ろしている。

 だが、夜10時過ぎともなると、通る人はほとんどなく、ただ風の吹き込まない空間があるだけだ。

 そこに厚手のカッターシャツを重ね着した上に背広を着た45、6歳の男の人が、一人ポツンと座って週刊誌を読んでいる。

 いつもこんな時にするように、「今晩は・・・・。」と声を掛けて側にしゃがむと、週刊誌からこちらに向け直された、おびえた表情の目を、まともにのぞき込むことになった。声を掛けて、おびえた表情を見せられたのは初めてだった。やはり京都は違うのだろうかと、一瞬ひるむ思いがよぎった。

 この日(1985年1月5日)、京都駅やその周辺の公園で青カン(野宿)を余儀なくされている人たちから、何度目かの聞き取り調査を行うという呼びかけに応じて、大阪から京都にやってきたのだが、これまで京都の野宿者からの聞き取り調査に参加したことがなく、また、京都のことは京都の人が主人公という気持ちもあって、積極的に話を聞いて回るつもりはなかった。

 しかし、京都駅北側部分を担当したグループの中で、その人に気付いている人が他にいないようだったので声を掛けたのだった。

 これまでに、大阪・ミナミの地下街“虹の町”や心斎橋のアーケードの下、あるいは大阪駅周辺で多くの野宿者に「今晩は」と声を掛けたが、大方はにっこり笑って「今晩は」と挨拶を返された後に、様々なことを語っていただけた。これほどまでにおびえを見せられたことはなかった。

 やはり、何度か京都駅で聞き取りをし、様子の呑み込めている人に任せるべきだったか、と後悔すると同時に、声を掛けたことで、その男の人に恐怖をもたらしたことを申し訳なく思った。また、思いがけない反応に出会い、動揺したので、男の人が大きな声で何か言っているにもかかわらず、何を言われているのかよく判らなかった。同じ内容のことを二度繰り返されて、ようやく理解できた。

「何も悪いことはしていない。つい最近、帰ってきたばかりや、ここにいるだけやで・・・。」

どうやら、鉄道公安員や警察官のように追い立てにきたものと思い違いしているらしかった。過去に相当ひどい追い立てられ方を経験したことがあるのだろう、とおびえの理由に思い至った。まず、懸命に弁解を続けようとするのを押し留めて、追い立てに来たのではないことを伝えなければならなかった。

「ちょっと待って下さい。実は、私は大阪から来たんです。釜ヶ崎って知ってますか、西成にある。」−釜ヶ崎(役所などは“あいりん地区”と呼ぶ)とは、地図にない地名だが、大阪市西成区、国鉄環状線新今宮駅の南側一帯にひろがる日雇労働者の街のことである。

西成、釜ヶ崎という言葉を聞いた途端、男の人の顔にほっとしたような表情が浮かんだ。そして、先程とうって変わってにこにこ笑いながら、「西成なら知ってる。働いたこともある。」と答えてくれた。更に、「それで何の用や・・・。」と促す表情になった。

声を掛けた理由を説明するために、防寒着のポケットから昨年(1984年)12月23日、朝日新聞(京都版)に掲載された記事のコピーを差し出した。

紙面の上半分のほとんどを占める大きな記事で、『国鉄京都駅は住みやすい/年の瀬・増える浮浪者』、『厳しい寒さを避けて/一斉取り締まりも限界』の見出しがある。

記事の中では、12月17日午前5時過ぎ、鉄道公安員や京都府警七条署員計25人によって、野宿者が駅構内の各所から2階団体待合室に連行され、取り調べの結果、4人が警告を受け2人が逮捕された経緯が詳しく報道されている。また、一斉取り締まりは84年中に5回あり、逮捕者延べ14人、警告者同63人、うち3人は二度逮捕されていることも明らかにされている。

ようするに、野宿者を『観光都市の玄関だけに放置できない』(七条署長)として、軽犯罪法違反をたてに、一斉取り締まり、追い立てが行われたというのだ。

野宿者を福祉行政の対象と見るのではなく、刑事罰を科せることによる“オドシ”で追い払うことによって、京都駅の“美観”を保とうとする京都駅や七条署の姿勢に疑問を持った人々が、より詳しい事情を当事者から聞き、何らかの対策を考えようということから、この日の聞き取り調査が持たれたのだった。

なぜ、野宿をする人々に刑事罰を科せることを不当と考え、即座に30名を超える人たちが集まって聞き取りを開始することができたのかについては、聞き取りが始められたそもそもの発端から辿らなければならない。


 
釜ヶ崎越冬支援を共通体験として

 

 京都における野宿者からの聞き取りは、1983年暮れから始められた。この年は、“浮浪者”と呼ばれる人々への加害事件の報告が相次いだ年でもある。

 横浜市中区にある日雇労働者の街、寿町周辺の山下公園や横浜スタジアムの下などで、野宿していた労働者が、中学生を含む少年たち10人に、“クサイ・邪魔者”として3人が殺され、13人が重軽傷を負わされていた事件。

 東京都豊島区西部線池袋駅入り口で、ダンボールや新聞紙を被って寝ていた人に、酔ったレストラン店員2人がライターで火をつけた事件。

 東京の台東・荒川両区にまたがっている日雇労働者の街、山谷にある区立石浜公園で、少年6、7人が公園内で寝ていた5人に殴りかかった事件。

 大阪、釜ヶ崎の近く、西成区中開の路上で野宿していた労働者5、6人が、バットや棒を持った少年6、7人に襲われた事件。

 京都、四条大橋の上から鴨川の河原にいる野宿者に、石が投げつけられた事件、などがそれだ。

 これらの事件の報道で、“浮浪者”と呼ばれる人たちが、何の理由もなく、少年たちや酔った人たちによって、殴られたり、蹴られたりしていることは明らかにされたが、なぜそのような目に遭わされるのか、その人達は、何故、どのような理由で街頭生活をしているのかは充分に伝えられなかった。

 そういったことを背景に、釜ヶ崎越冬支援京都実行委員会、東九条地域生活と人権を守る会、キリスト者有志、各大学学生有志などが、野宿者実態調査を始めた。

 始めた動機について、“「浮浪者」という名によって侵されている労働者の人権−京都駅における日雇労働者差別治安弾圧実態報告会”という長い名称の付けられた集会の準備の過程の中で、東九条地域生活と人権を守る会のYさんがまとめて話されたことがある。

 京都部落解放センター2階の相談室で開かれた事務局会議という性格の場のことなので、その場にいる人達は当然判っているだろうことは省略しての話だった。話の前提となっている釜ヶ崎越冬などの部分に、言葉を補うと次のようになる。

 「日々雇われ、日々解雇される日雇労働者は、その就労形態、あるいは強労働、低収入などのゆえに不安定な生活を余儀なくされているが、とりわけ年末年始には仕事がなく、多くの労働者が寒さの中、野宿せざるを得なくなる。そこで、野宿している仲間から一人の死者も出すな、をスローガンに、毎年、釜ヶ崎の労働組合の呼び掛けで、越冬闘争が行われている。

 京都においても、釜ヶ崎の越冬支援という形での運動が行われてきた。しかし、支援に留まっているだけで、日雇労働の問題に京都独自で取り組むということはなかった、という反省が一つにはあった。

 また、京都駅に隣接する在日韓国・朝鮮人集住地区である東九条では、日雇労働に従事する人が多いが、近年、不況と合理化のしわ寄せで、生活保護世帯の急増、老人の一人暮らしという事態を招いていることから、労働の問題をしっかりと把握する必要があると考えた。

 そこで、京都でも日雇労働の問題に取り組もうではないかと釜ヶ崎越冬支援京都実行委員会で提起し、先の反省と相まって、とっかかりとして野宿者の実態調査をやろうということになった。」

 Yさんの説明を、なるほどと聞いたが、同じく東九条にキリスト者のグループの一員として関わっているUさんは、「えぇ、本当」と驚きの声を上げた。

 Uさんによれば、釜ヶ崎越冬支援京都実行委員会でYさんが京都における野宿者調査を提起した頃に、キリスト者の間でも、釜ヶ崎に支援に出かけるのも大切だが、京都にも野宿している人達はいる、その人達を放置しておいていいのか、という声が出ており、“京都でも越冬を・・・”の気運が盛り上がっていたという。だから、UさんはYさんの話を聞く今の今まで、野宿者調査の発端はそこにあると信じていたのだった。

 Uさんの話を聞いて、今度はYさんが大きく目を見開くことになった。

 どうやら二人の驚きの原因は、親しい間柄によくありがちな、共によく判っていることだろうから、あえて細かく確認する必要がないとしてきたことが、一年以上も経って、やはりそれぞれの立場を反映して、それぞれの思いに違いがあることに気付いたところにあるらしかった。

 更にいえば、この食い違いは、改めて細かな確認が必要でないほど、京都の人々がそれぞれに釜ヶ崎越冬支援で得た体験を、京都での自分の生活に引きつけてとらえ直し、それぞれが身近なところで行動しようと真剣に考えていたことを示しているともいえる。

 京都の人々は、釜ヶ崎でどのような労働者と出会ったのであろうか。一つの例を、野宿を余儀なくされた労働者自身の記録によってみてみよう。


 余儀なき野宿体験の記録

 

 釜ヶ崎に“アンコのつくるアンコの雑誌”として、1974年12月に創刊された“労務者渡世”という雑誌がある。

 79年当時は、萩之茶屋南公園(通称三角公園)の近くにあった“御握り屋”が連絡先となっていた。そこに釜ヶ崎に来て4年になるというKさんが、現場の監督などから聞き込んだ話をもとにして、人夫出しのピンハネぶりを暴露した原稿などを届けに来ていた。

 大柄なKさんは、原稿を届けに来ると、オニギリを一つとメザシを何匹か食べながら、ウィスキーのポケット瓶を直接ラッパ飲みし、時々早口にしゃべる。しかし、こちらの返事はあまり必要ではない様子で。

 一ヶ月に一度は「渡世、もう出たか」と顔を見せていたKさんが、顔を見せない月があった。現金仕事専門だと言っていたが、飯場にでも行ったのだろうかと思っていた。二ヶ月ほど経ったある日、「ひどい目にあったよ」と言いながら、いつものように、広告の裏に書いた原稿を差し出した。それは“労務者渡世”30号に載っている。

 『今年になって二ヶ月の間に、二度の労災事故を体験してしまった。人夫生活4年で、小さなケガはちょこちょこやったが、40日余りも休まなければならなかったのは初めてである。ワシの場合、アブレ認定用の手帳をなくしたままほってあったので、たちまち生活に困った。

最初十日くらいで直ると思っていた傷が、実は骨折を伴っていて、40日余り就労不能であった。(略)

二回目の労災というのも、バラシ作業をやっていて2メートルほど墜落した際に、胸のあばら骨を板の角に強打した。その場は痛み止めに半時間ほど横になって寝ていて、仕事はできぬが帰ることはできるようになって帰った。翌日から、骨にひびが入ったのか痛くて身動きとれぬ。金はないわ、身動きならぬ、役所へ行けばケンもホロロに扱われるで、今のところ踏んだり蹴ったりというやつである。

労災事故というとオヤジは露骨にいやな顔をする。結局、雀の涙ほどの示談金でことを納めようとする。(略)

ルンペン、またの名を乞食というのを十日あまりやった。人間食えんとなったら何でもやるもんだ。盛場の残飯あさりから墓場のお供え物探し、酒はピンクキャバレーなどの残りビールの拝借など、ケガをして働けないにしても歩き回れれば食えることを発見した。寒い時期だったので野宿がこたえた。朝、起きると顔も唇も真っ白になっている。やはり野宿は体に良くない。

しばらく乞食をやっていると歌舞伎座や相撲をやっている体育館など、大量に良質のエサの出る穴場があることも判った。

しかし、なんともみじめである。(略)』

原稿を読み終わった後、なぜその時に一言声を掛けてくれなかったか、と詰問すると、Kさんはいつものようにウィスキーのポケット瓶を口に運びながら「困ってる時に来れるわけないやろ」とぶすっと言った。そして、これもいつもどうりに、今は労災の手続きも済んで金が入るから“渡世”の紙代にしてくれと2千円置いていった。

野宿を余儀なくされて年の翌年の正月、Kさんは急性アルコール中毒になり、ドヤ(簡易宿泊所)から救急車で病院に運ばれた。退院後は、2年間ほど、釜ヶ崎の近くにある社会福祉法人大阪自彊館で療養生活を送った。アルコール依存症から吹っ切れるための長い療養期間の後、また働けるようになったと嬉しそうな顔を見せたが、その次に、四六時中労働者が行き交い、飲み屋や食堂、喫茶店が軒を並べる萩之茶屋商店街で出会った時には、松葉杖をついていた。またもや労災事故に遭い、今度は左足に障害が残って杖が手放せなくなったという。なにかできることはないか、と聞くと、今、何とか職業訓練学校に入れてもらって、技術を身に付けようとしているところだ、一人でできる。いつもながらの返事だった。

その後、しばらく顔を見なかったが、今年の2月末、早朝の“あいりん総合センター”の一階で出会った。

“あいりん総合センター”は、国鉄環状線新今宮駅のすぐ南にある。労働者は、上に市営住宅があるこの大きな建物を“センター”と略して呼んでいるが、3階フロアーの北側には“あいりん労働公共職業安定所”が、南側には“西成労働福祉センター”がある。

“あいりん職安”は、職業安定所の名は付いているが職業の紹介はしていない。そのかわりに、Kさんが“アブレ認定用の手帳”と書いている“雇用保険・日雇労働被保険者手帳”(通称白手帳)を発行している。2ヶ月間に28日以上働いて、手帳に雇用保険印紙を28枚以上貼っている労働者に対して、3ヶ月目から、仕事に行けなかった日(アブレた日)に、日雇労働休職者給付金(昔の失業保険給付金、釜ヶ崎ではアブレ手当とも認定ともいう)を支給している。現在は1日6,200円で、貼ってある印紙の枚数により最低13日から17日までの間支給される。

“福祉センター”は、Kさんが労災で困った時に訪ねた役所(半官半民の財団法人)の一つで、労災手続きや賃金未払いなどの相談業務、労災の休業補償の立て替え払い、掲示による職業紹介などを行っている。

Kさんと久しぶりに出会った日のセンター1階フロアーは、早朝5時にシャッターが開くのを待ちかねて乗り入れた求人の車や、仕事に行こうとして出てきた労働者で一杯だった。

求人に来ている車には、現金求人(1日ごとの契約で、仕事が終わるとその日の賃金を現金で支払う)と飯場求人(職業安定法で、有料職業紹介は禁止されているにもかかわらず10日契約、15日契約などで労働者を宿舎に泊まり込ませ、人手のいる工事現場や工場に送って手数料を取る違法な人夫出し飯場の求人)があるが、通常、午前5時から7時頃までの時間は現金求人が多い。

そんな場所と雰囲気の中だったので、「やあ、久しぶり」と声を掛けた後、つい「仕事ですか」と続けて言いかけた。Kさんがその時、杖をついていなかったのも、気軽に仕事の話をしかかった原因の一つではある。

だがしかし、その問いは、Kさんの足が治るはずのないものであることがよみがえり、不自由な足で土方仕事をすることがいかに大変なことであるかを思い、それでもあえてやらなければならないらしいKさんの姿を前にして、簡単に問えることではなかった。聞けば、「オウ、まだ一人で頑張れるで」と笑いながら答えるのは確実であるにしても。

京都から釜ヶ崎に越冬の支援に来た人達もまた、Kさんのような労働者に出会ったことだろう。

釜ヶ崎の日雇労働者が、なぜ野宿を強いられるのかを知り、野宿生活の厳しさを身近なこととしてとらえる人々が、野宿者が逮捕され、追い立てられていることを知れば、やはり、その追い立てられる事情を詳しく知りたくなり、追い立てられる人々のために何ができるかを考え始めるのは、自然な流れであろう。


野宿者におびえをもたらすもの
 

 この日、野宿者からの聞き取りに集まった、釜ヶ崎の越冬に参加した体験を共有する30人ほどの人達は、是非とも取り締まりに出くわした人を捜し出し、直接事情を聞いて、今後の対策を具体化しなければならないと考えていたのだった。聞き取りを始めるにあたって確認された調査項目は、@氏名・年齢 A取り締まりに出会ったか B体の状態 Cどのようにして食べているか、などであった。

 だから、一人座っていた男の人に新聞のコピーを見せたのは、調査項目に従って、取り締まりに出会ったかどうかを確認するためであった。

 「この記事、読まれましたか」と差し出しながら聞くと、ざっと目を通した後、「いや読んでいない。あんまり他の人間としゃべらんから、一斉取り締まりについても知らない。」とのことだった。

 しかし、一斉取り締まりに出会いもせず、同じように京都駅やその周辺で野宿をしている人達からも取り締まりの話を聞いていないとすれば、声を掛けた時に見せられた、あのおびえの理由は何だったのだろうか。気になって更に言葉を重ねた。

 「大阪のミナミやキタで野宿している人達に話を聞くと、酔った人が側を通る時に蹴っていったり、少年達に消化器の泡を掛けられたりすることがあるそうなんですが、京都の方ではそんな話ありませんか。」

 「いや、そんなことされたこと無いな、始末書を書かされたり、捕まったことはあるけど。」

 話のつじつまが合わない。12月17日の一斉取り締まりについては全く知らないというのに、始末書を書かされたり、捕まったことがあるという。京都駅でのことではなく、別の場所での話なのだろうか。一体、何の件で捕まったのだろうか。疑問はわいてくるが、立ち入って聞くのにはためらいが感じられた。

 ためらいを、今度はこちらが話の続きを促していると思ったのか、男の人は自分から捕まった事情を話し始めた。

 「12月に入って、2回ほどパトロールの警官に駅構内の派出所に連れて行かれて、用もないのに駅に入ってすいません、今後立ち入りません、みたいな始末書を書かされたんや。2かいはそれで済んだんやけど、3回目に連れて行かれた時は、そのまま署の方へ連れて行かれた。翌日、検察庁に行って、それから拘置所へ送られた。処分保留で出てきたのは27日やったと思う。」

 話のとうりだとしたら、一斉取り締まりの当事者そのものなのではないか、あの記事によれば、最低6人が“取調室”に連れて行かれ、始末書を書かされたり、逮捕されたりしているのだから、当事者の一人であれば、一斉取り締まりに引っかかったのは当然判るはずなのに、知らないと言うのはなぜだろうか。

 困惑しながら「それが、17日の一斉取り締まりの日のことじゃないんですか」と念を押すと、いとも簡単に「いや、20日の晩やったと思う。」

 ようするに、京都駅における野宿者への取り締まりは、84年中に5回という一斉取り締まりの形のものだけでなく、一ヶ月に何回かパトロールしている警察官や鉄道公安員が、随時、目についた人を派出所や公安室に連れて行って、始末書を書かせたり、3回目の人を逮捕するという形の取り締まりもあるということだ。男の人は、一斉取り締まりにはあったことはないが、個別の取り締まりに引っかかったと言っているのだった。

 一斉取り締まりの他に、随時、取り締まりが行われていることを聞かされたのは驚きであったが、ようやく話の筋道が見えたことにほっとした気持ちの方が大きく、もっと詳しく聞くべきであったのにもかかわらず、「さっき、釜に居たことがあると言われましたが、いつ頃のことですか」と、話を転じてしまった。―後日、逮捕された経験者からの聞き取りはこの人からだけとわかり、聞き取りの不備が悔やまれた。―

 「いつ頃って、去年(正確には一昨年の冬)は“臨泊”に入れてもらったし、その後、8月に天王寺公園で手配師に声を掛けられて飯場に行ったけど、小さい頃、小児マヒにかかって左足が少し不自由なので、やっぱり仕事がきついからすぐに出た。それから京都に来たんや」

 “臨泊”というのは、大阪市が釜ヶ崎の越年対策事業として、年末年始に開設している“無料臨時宿泊所”のことで、71年暮れから始められた。ちなみに、釜ヶ崎の地において野宿を余儀なくされている仲間をほっとけないと考えた活動家・労働者が、野宿者の調査を開始し、行政に問題を突きつけたのが70年暮れ。おにぎり配布、テント仮宿泊所の設置などの形で本格的に越冬闘争を開始したのは、71年暮れからのことである。それ以降、越冬闘争、越年対策共に引き続き行われ、この冬で双方共に15回目を終えたことになる。

 釜ヶ崎の労働者を対象とした大阪市の越年対策があることを、“臨泊”入所という自分の体験からも十分承知している人が、“臨泊”を頼って釜ヶ崎へ帰ろうとせず、京都駅にいるだけで逮捕されるという目にあいながらも、なぜ京都駅に留まっているのかについては、改めて聞かなくても判りすぎるほど判る理由がある。


 釜ヶ崎―野宿事情
 

 臨時宿泊所の受付は、国鉄新今宮駅から東南の方角へ5〜6分歩いたところにある大阪市立更生相談所でおこなわれる。その周囲には越冬闘争実行委員会のメンバーが待機し、例年、受付を終わって出てくる労働者から、「どうでしたか」と、入所か却下かの結果を聞いているが、83年の受け付け時には問いかけに対して、目を潤ませて黙って首を振る人、あるいは目を真っ赤に充血させて、ああまでいわんでもええやろうが、と怒る人など、感情をあらわにした人が多かった。相談の様子を直接見ることができないので、はっきりとは言えないが、相当屈辱的な言葉を浴びせかけられたことがうかがわれた。

 多くの労働者が、二度と相談に行かない、野宿を続けて路上で死ぬようなことになろうとも、あんなに馬鹿にされるのはもう嫌だと語った。

 労働者の無念の涙をあざ笑うかのように、大阪市民生局の福祉課長は、テレビのインタビューで「物を与える福祉の時代は終わりました。これからは心の福祉の時代です。」とにこやかに話した。運良く臨時宿泊所に入所できた人達が手にした“臨時宿泊所のてびき”の末尾には『来年は臨時宿泊所を開設しないこともあります』と記されていた。

 ここ数年の臨時宿泊所入所者数を示すと次のようになる。

 80年の2,113人を最高として、行財政改革のための臨時調査会が発足した81年は1,973人、財政再建・行政改革推進を旗印とする中曽根政権が誕生した82年は1,377人、増税無き財政再建・超緊縮財政の堅持などの臨調答申の出た83年にはとうとう1,000人を割って888人と激減している。

 この減少が、臨時宿泊所への入所申込者の減少によるものではなく、入所申し込みをしたが却下された労働者の増大によるものであることは、却下数を年次別に追うと明らかである。

 80年―201人、81年―366人、82年―773人、83年―918人。

 83年には却下者数が、入所者数を上回るに至っている。却下された918人のうち、266名は、50歳以上の年齢の労働者だった。

 「去年の冬は臨泊に入れてもらった」と語った男の人が、“臨泊”の受付が始まる12月29日以前の27日に拘置所を出されていながら、釜ヶ崎に帰って“臨泊”入所を申し込まなかったかという理由を一言で言えば、“福祉切り捨ての時代”を身をもって知っていたからだといえる。

 “臨泊”のこと、天王寺公園から飯場へ行ったこと。話を聞きながら、本当にここは京都なのだろうかと思った。大阪の繁華街や京都で野宿を余儀なくされている日雇労働者から聞く話は、釜ヶ崎の三角公園や萩之茶屋商店街、あるいはセンター周辺の路上で青カンを余儀なくされている労働者の話と、なんら変わるところがない。

 大阪の繁華街における野宿者からの聞き取りについては、83年の3月と4月に、釜ヶ崎日雇労働組合が中心となって行ったものがある。

 3月に行われた調査の目的は、横浜・寿の野宿労働者襲撃事件のようなことが、大阪においても起こっていないかどうかを確かめることだった。地下鉄西梅田駅や国鉄大阪駅周辺、天王寺公園、ナンバ地下街“虹の町”などで61名の人から話を聞いた結果、15名が暴行を受けていたことが明らかになった。

 具体的に示せば、82年11月までは飯場専門で土方をしていた45歳くらいの男の人は、ゼンソクがひどくなって仕事ができず、野宿を続けているが、梅田から一駅北にある中津駅の近所で、自転車に乗ってきた中学生3人にいきなり殴られたり、国鉄野田駅の近くでは、小学校5〜6年生に、乞食が来た、乞食が来たといって石を投げつけられている。

 釜ヶ崎に来て10年、姫路の飯場に最近まで居たという沖縄出身の51歳の男の人は、道頓堀でダンボールを集め、梱包している時に、自転車で来た中学生3人に蹴飛ばされている、といった例がある。

 2回目は、釜ヶ崎の月間求人数が、労働福祉センター開設以来2番目の多さを記録した月の翌月、4月27日に行われた。3月の仕事の多さが嘘のように、4月に入ってからは全く仕事が無くなり、野宿を余儀なくされる労働者の姿が目立ってきたので、求人数と野宿の関係を明らかにするために行われたものだった。この日、釜ヶ崎地区内とその周辺で198人の野宿者が確認され、梅田・ナンバなどでは45人から話を聞いている。

 一つの飯場で25年間働き続けてきたが、最近、仕事が少なくなり、飯場の人間は交代で3日に一度くらいしか仕事に行けなくなったので、若く元気なものに悪いと思って飯場を出て野宿している熊本出身の男の人。

 4〜5年前に田舎から出てきて釜ヶ崎で日雇仕事を始めた65歳の男の人は、82年4〜7月にも仕事が無くなったので梅田で野宿をし、仕事が出た8月から釜に戻り、83年2月まではS工務店で働いていた。今度も、仕事が出れば釜に戻るという。釜を出てくる時に、市立更生相談所へ相談に行ったが、困っている人が沢山いると言って取り合ってくれなかった、と訴えていた。

 京都駅前地下街“ポルタ”の広場に突き出た中2階での話を聞き終わった後、大阪での体験を思い出し、やはり野宿労働者の問題は、大阪であろうと京都であろうと、すべて釜ヶ崎の問題から派生している事柄なのではないかと思った。

 しかし、後日(85年1月23日)、再び京都における聞き取りに参加してSさんに出会い、そういった側面が強いものの、京都における日雇労働の問題も視野に入れて考えなければならないと気が付いた。


 京都の日雇労働問題と野宿
 

Sさん(62歳)は、京都駅新幹線改札口の前にある椅子に、作業服などの入った紙袋二つを横に置いて腰を掛けていた。その姿は、どう見ても、センターなどでよく見かけるこれから飯場へ行こうとする労働者のそれであった。

前回の経験から、「今晩は」と声を掛けた後、梅田やナンバでそうしたように「釜ヶ崎日雇労働組合のものですが」と切り出すと、「ああ釜共さんですか、寒いところご苦労さんです。」、予想通りの挨拶が帰ってきた。(釜共というのは、暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議の略称であるが、今、この名称は使われていない。)

北海道出身のSさんは、関東を経由して釜ヶ崎に行く途中、浜松で出会った地下足袋をはいた人に、西成より京都の“内浜”の方がいいと勧められたので、予定を変えて京都に来たという。“内浜”で10年くらい日雇い仕事をした後、釜ヶ崎と京都を行ったり来たりする生活を送っている。

ここ数年は身体の調子が良くなく、一昨年の冬は“臨泊”自彊館に入れてもらい、医者に診てもらったところ入院が必要と診断されて、昨年4月まで療養生活をしていた。

病院を出た4月には釜ヶ崎に仕事が全くなく、住み慣れた京都へ戻った。仕事が出始めてからは、西大路にあるM建設などから、身体の様子を見ながら、時々仕事に行っていたが、昨年末は大阪の大正区にあるS興業から兵庫のY組に行き、暮れに3万8千円もらって帰ってきている。

しかし、働いて得たまとまった金を持って正月を迎えられることが嬉しくて、酒を飲み過ぎてしまい、また身体の調子が悪くなったそうだ。

下京福祉事務所へ相談に行くと、一週間に一度3百円をくれるだけで、よほど悪くない限り相手にしてくれず、自分で救急車を呼べと突き放されるという。

飯場で働いた話の時には、手帳を取り出して、12月21日、K建設コンクリ打ち、軍手・酒一本・タバコ一箱などと、その日の作業内容や飯場でとった諸式(軍手・酒など市価より割高になるが、精算日払いで買う)を記録した箇所を見せ、さも、よう働くだろうと誇らしげであった。

几帳面につけられたメモを見て、Sさんなら詳しいだろうと思い、京都での拾い集めたダンボールやアルミ缶の値段を聞いてみる気になった。

「今、どうやって食べてはります」と水を向けると、今まで笑っていた顔が暗く締まり、うつむきながら、「拾ってる」といわれた。

もっと正確に聞くべきであった。「ダンボールなどを集めて売ると、京都では幾らぐらいになりますか」と。結果として、不必要なことを聞いたことになり、互いに気まずい思いをした。だが、Sさんが、気を取り直すかのように、「今年は釜に仕事が早くから出てると言うから、明日あたり行ってみようと思ってる。」と、再び笑顔で言われたので、「じゃ、今度、事務所へ遊びに来て下さいよ。」と笑顔で誘って別れることができた。

Sさんに出会って、日本全国至る所に飯場があり、また、規模の大小はあるものの職安を中心として“寄り場”(日雇労働市場)が全国に散在し、日雇労働者が働いていることを、頭の中では判っているつもりだったが、残念ながら飯場を渡り歩く“タビ”を経験したことがない悲しさ、そのことを具体的な土地土地に結びつけて考えることができていなかったことに気付かされた。10年ほど京都の“寄り場”で仕事をしたというSさんとの出会いは、頭の中で判っていた事柄を、事実で改めて知り直す貴重なものだった。

同様に、京都の職安でも“アブレ”が支払われているという、頭の中で考えれば当たり前のことも、実際に体験することは、ある驚きを伴うものであった。

京都駅や鉄道公安室、京都府警七条署に抗議行動を行うと決められた2月20日は、京都駅に午後12時30分集合ということだった。“あいりん職安”では朝8時に“手帳”を職安窓口に出して、11時に“アブレ手当”の支給が開始される。それから京都に向かったのでは間に合わない。釜ヶ崎日雇労働組合からKさんやHさんも参加することになっていたので、「この日はアブレをもらっている時間がないな」と言うと、「いや、京都の伏見職安中書島出張所では10時までに手帳を出せば、すぐもらえるから、京都でもらうことにする。」という返事だった。

京阪電車宇治線中書島駅で下車し、北へ歩いていくと明治維新前夜に起きた“寺田屋騒動”で有名な寺田屋があるが、西へ向いて7〜8分歩いて行くと、伏見職安中書島出張所がある。そこへ“あいりん職安”発行の“手帳”を持っていき、簡単な“日雇労働求職票”を記入すれば、その日から中書島でも“アブレ手当”がもらえる、と聞かされた。当日、午前9時半に大阪から中書島出張所へ着いたのだが、その時はまだおばちゃん達12〜3人が長いベンチに腰掛けておしゃべりを楽しんでいるだけだった。

木造の、昔の小学校の講堂を思わせるような建物とおばちゃん達を見た印象は、古くからある“失業対策事業”を中心とした職安で、“民間”の仕事をしている人間はあまり多くないようだ、というものだった。

雨が降ったりして、予想よりも受給者が多くなると、支給する金が足りなくなり、職員が「ちょっと待ってて」というと、自転車で近くの銀行まで引き出しに走る、という話が、本当にあり得る雰囲気の職安だった。

それでも、10時前になると、40歳前後を中心とした5〜60人の男の労働者も集まりはじめ、一日平均3千人が受給する“あいりん職安”とは規模の上では比べものにならないが、似通った空気が流れているのを感じて嬉しくなった。

京都でアパート住まいをしながら、あるいは飯場に長く居着いて、釜ヶ崎の労働者と同じように日雇い仕事に従事している人達がおり、その中から高齢あるいは病気になって、Sさんのように野宿を余儀なくされる人もでる。

釜ヶ崎で長年、医療問題を軸に活動を続けている釜日労最年長のKさんは、次のようにまとめている。

『京都におけるアオカンの問題は、戦後京都の観光都市化政策(それもミヤコとして)による、地場産業軽視、下層地域・寄せ場解体の結果である。(略)

観光都市化そしてサービス部門・ソフト部門中心の都市の建設を進めていく為自体の、自前の労働力の基盤、地域・寄せ場を解体し、(略)@すみの方に追い込まれた最下層地域にのみ予備軍を求めるか A下層地域や僻地部に沢山の、本来違法の人夫出し(モグリを含め)を野放しし、散在させて Bその主力を釜ヶ崎労働力に依存し、 C僅かに3職安において失体事業方面主体の日雇い窓口を小規模に置いているにすぎない。

この結果、全く無管理のままに、駅手配の暴力・悪質飯場が横行し、それでなくとも不安定な日雇労働者をアオカンに追い込む。(略)』(85年3月9日、京都駅における日雇労働者治安弾圧実態報告会資料、“基調案にかえて”より)