医療の最低辺で   「釜ヶ崎」の現場から <4> 岩田秀一

 

「救急病院が少ない。とくにここの労働者をみてくれる病院が少ない。いつも何回も何回も頭を下げて断られ、また次に行き、頼み断られる。先日は病院まわりで4時間ぐらいかかった」

そういうのは、釜ケ崎の中心部から南にはずれた所にある西成消防署海道救急隊の隊員である。ここの出動回数は大阪市内のどの救急隊よりも多い。年間で4千回は軽く超えるというから、1日に最低10回は出動せねぱならない。

そして彼らは激しい労働に耐えながらこうも言うのである。

「俺たちは文句を言われるのが一番腹が立つ。俺たちを攻撃するより、病院の問題をどうにかすべきだ。救急車をもう一台増やしてほしいと上に言っているが、全然通らないで逆ににらまれる始末だ。ここでは法律に定められたことだけでは出来ない。俺たちがどうにかしないとここの労働者は救えない」

ここに情が移ってしまったとさえ言う彼らの生きがいは、労働者によくなってもらうことだという。

よほどの忍従と労働者に対する理解なしに釜ケ崎での救急業務が勤まらないのも事実なのだ。

だれも好きこのんで、釜ケ崎専門救急隊と呼ばれてしかるべきここに来たりはしない。それに他区の救急隊がすべて新型車に切り替えられた時でさえ、海道救急隊だけは旧型車を使わされていたという差別待遇を彼らは受けるのである。

そういう他とは違った彼らの業務内容も、また当然違ったものとなっている。

たとえぱ患者の発見場所で最も多いのは路上で、全体の3分の1にものぼる。そして以下ドヤ、警察関係(犯罪)、飲食店(立ち飲み酒屋も含む)・・・・と続く。

普通ならば、ドヤに相当する屋内、そして路上と続くはずである。しかもこの場合の路上というのは交通事故がほとんどであるはずだ。むしろ車が遠慮して通る釜ケ崎の場合、路上発見といっても内科の患者が圧倒的多数をしめ、自損、ケンカ等による外傷がその次に続く。交通事故で出動することは、めずらしい部類に入るのだ。

 

◇ピッタリの病室はなく

なぜ内科系の急患が多く路上で発見されねばならないか。そこにトータルな意味で、釜ケ崎労働者にとっての医療というものが存在している。

釜ケ崎労働者ゆえに路上で倒れるというよりも、釜ケ崎労働者ゆえに、路上で倒れることが最も確実に医療保護の“恩恵”に浴せる現実が路上発見の多さの意味なのだ。

時には雨でズブ濡れになり、あるいは糞尿垂れ流しといったような風体の労働者を、釜ケ崎専用救急隊は運ぶ。それが彼らの業務なのだから、評価の対象にすること自体おかしいかもしれぬ。ただ運悪く彼らが出払っていて、他区の救急車が来たりすると、その扱い方は言わずと知れたことになる。

「病院をなんとかすべきだ」と彼らは言った。その数の少なさはもちろんのこと、その質こそなんとかすべきだと彼らは言いたかったのかもしれない。彼らが何回も頭を下げて断られる病院というのは、いつも引き受けてくれるはずの病院が満床で断られた場合、とくに頼み込む病院ということだ。

時には泥にまみれた風体の労働者を、いつでも引き受けられる病院はそれなりの病室を用意してある。悲しい話かもしれぬが、病院側の断る口実は「適当な病室、労働者にピッタリの病室はございません」ということなのだ。

46年度の大阪市内の救急受け付け数を病院別でみてみると、1位阪和病院(3,754件)、2位大和中央病院(3,74件)、3位斎藤病院(1,769件)となっている。

斎藤病院といえば、その名を思い出す人がいるだろう。46年12月にニセ医者問題が発覚し、その悪辣な医療の名を借りた金もうけが摘発された病院である。

ニセ医者のいたのが、たまたま斎藤病院であったのではない。ニセ医者が医者として通り得たところに、救急病院の体質そのものがのぞいているというべきだろう。

2位大和中央と、3位の斎藤との間には大きな受け付け回数の隔たりがある。つまりここの労働者が斎藤病院に送られることがなかったからだ。1位、2位こそが労働者が送られる先であり、その数字に表れた過重さは、同時に医療の“薄さ”に通じているのである。

 

◇いぶかしげな視線

あびこ阪和病院は住吉区の国鉄阪和線我孫子町駅から歩いてすぐの所にある。見かけは随分立派で、労働者の間で「ハンワ」の名を知らぬ者はまずいないと言ってもよい有名な病院でもある。

いつ行っても重苦しい思いを抱かなかったことはない。

初めて阪和へ行ったのは、確か2年前の夏の夜のことであった。

釜ケ崎の街中を歩いていると、顔見知りの労働者が路端に座り込んでいる。「どないしたんや」と声を掛けると、「歩かれへんのや、気分が悪い」と言う。「病院行くか」と聞けば「うん」とだけ頼りのない返事であった。

そんなわけで、救急車を呼び、付き添って行った先が阪和だった。ここは釜ケ崎から15分から20分程度で着く。

建物も新しく、この病院のどこがそんなに悪いと噂されるのか最初は疑問さえ持った。まず彼は診察室に運ばれた。「名前は?」「本籍は?」と看護婦は彼に聞くが、「住所は?」というのはついでであった。

そして「払うお金ある?」と続くが、「そんなもんない」という彼の愛想のない返事があっても看護婦は何も言わない。ボサッと突っ立っていただけの僕は、その看護婦のいぶかしげな視線に会い、結局診察が終わるまで表で待つことになった。

診察が終わると、おぼつかない足どりで出てきた彼は「入院やそうな。まあしばらく養生してみるわ。たぶん肝硬変やという話やから」と言う。

出てきた看護婦は「病室に案内しますからついてきて」とつっけんどんに言う。看護婦のうしろについて行くと、一体どこへ行くのかと思うような、迷宮ふうな通路に出た。

そこには救急受付、あるいは診察室にあった清潔で近代的なイメージはすでにない。点滴の空びんが捨てられた大きな段ボール箱や、酸素ボンベなどが無造作に置いてある間を通の抜け薄暗い階段を上って行く。1階、2階……。聞いてみれば、「4階ですから」と言う。「エレベーターはないんですか」と聞けば、「歩けるでしょう」とやや高調子の返事しか戻ってこない。

 

◇まる1週間の放置

薄暗い病室は、かろうじて物が判断できる程度の小電球に照らされて不気味であった。おそらく白いはずのシーツやカーテン、壁が茶色に見える。狭い間隔で並べられたベッドの間を通って、目的のベッドについた時、ここが本当に病院なのだろうかと思った。

実際収容所的であることは、その四、五日後に同じ労働者に面会に行った時にわかった。

見舞いに持ってきた菓子を入れるため、ベッドのそぱの小物入れの引き出しを開けるとゴキブリが飛び出したのにまず仰天。よく見ると引き出しは長く使っていないようで何か虫の糞のようなものがこびりついていた。

「医者は?」と聞けば、「まだ一度も」と言う。ただ看護婦が一日に一度点滴を打ちに来るだけらしい。

部屋は20人近く収容できる大部屋であって、壁は床に近づくほど黒く汚れ、採光も悪い。20人近い患者の顔は、どこかで見たような釜ケ崎労働者の顔だった。この病棟は、行旅扱い、あるいは生活保護患者専用病棟であるのだ。とどのつまり、それは釜ヶ崎労働者専用病棟ということである。

主治医の回診は週に一度日が決まっていて、その次の日に入院しようものなら、よほどのことがないかぎり一週間放置される。そしておおよその病名別にセットされた薬袋を渡されることが治療ということになる。

それに耐え得て、いささかでも健康体を取り戻せたとすれば、それは治療によってではなく、ふだんより規則的な食事と生活によってというべきではないか。

重体患者は一般入院患者より優遇されるというのが常識だろう。しかしこの病院ではそれが通用しない。その恐るべき実態を直接見聞した僕の友人Nはこう伝えてくれた。71年梅雨期のことである。

ある港湾業者の起こした就労上の問題をきっかけに暴動が起こり、そのさなか一人の労働者0さんは重体の憂き目にあい、阪和病院に運ばれた。

彼が入れられたのは普通の病棟でなく、病棟と病棟の間に造られたプレハブであった。20人は収容できるそこに入っていたのは、0さん以下いずれも重体の患者である。普通の病院でいう「安静室」とも言うべき所で、4、5日に一人、多い時では一日に2、3入が死に、死んでは新しい患者が入り、そしてまた死んでいくという。

「気持ちが悪いというより、いたたまれん気持ちでいっぱいですわ。体もいうこときかんし、何か言ったら余計悪い所へ移されそうな気がしてね。それに皆同じ労働者やし」とはOさんの言い分だ。

同病院における47年度の行旅病人死亡人数は71人という数字が西成区役所の統計から割り出せる(45年4月〜47年4月では236人)。しかし阪和よりは良心的と言われ、一般患者も行旅・生保の患者も同病棟に収容する大和中央病院とその死亡率を比較すると、0さんの話を否定する根拠すら失ってしまう。

 

◇行政では解決できぬ

救急病院はまだよい方だ、という声もある。救急指定を受けるためには一定の資格が必要だという点を考えれば、うなずけることだ。救急指定を受けた以上は、行旅病人であろうと、交通事故患者であろうと基本的にぱ差別待遇ができない建前があるのだから。

とすれば、行旅あるいは生活保護患者専門の病院はどうであろうか。

Sさんは府下泉南郡にある病院に肝硬変で入院していたが、今年の2月、そのひどさに耐えかねて友人と自主退院した。

その後新しい勤め先を見つけたものの、そこは月給制であったため、当面の生活費を何とかするため更生相談所へ足を運んだ。

更生相談所は36年のいわゆる第一次暴動の事後対策として建てられたあいりん会館の中にあり、市民生局の出先機関である。そこでは、労働者を対象とした医療保護中心の生活保護業務が主となっている。むろんSさんも入院したのはここを通してである。

応対にでた職員はSさんにこう言った。「お前は飲酒、暴力で強制退院になっているので、当分は生活保護は適用できない」と。

あんまりだ、とSさんは思った。酒を飲んだ覚えも、ましてや暴力をふるったこともない。いつのまにか自主退院が規則違反による強制退院にすりかえられ、更生相談所に報告されていたのである。しかしSさんには思い当たることが山ほどあった。

Sさんの証言は次の通りであった。

―容体の悪い患者ほどトンコ(逃亡)する。しかも、死なせるために入院させるとしか思えないところがあって、1月から2月の問だけでも30人は死んだ。送られてくる患者は、阪和病院からの結核患者と、更生相談所経由の労働者だ。患者を狩り集める手配師がいるようで、精神病院でもないのに、アル中や分裂病患者としか思えない者まで混じっている。

院長は、昨年多額の脱税で挙げられ、ゴルフが趣味だ。病院の隣に院長のやっているゴルフ場があり、遊んでいる時に急患が出てもほったらかしだった。それにそのゴルフ場に患者が一歩でも足を入れると、それだけで強制退院になってしまう。そのゴルフ場の隣には大工の小屋があって、時々カンオケをつくっているのが病室から見えて気持ちが悪い。

病院の見かけは上等だが、病室はボロ。外から見える所にタオルでも干そうものならそれも強制退院。

悪徳の噂の高い事務の係長は、三文バンを多く持っていて、生活保護患者に支給される小遣いをネコババする。手口はその支給日(毎月6〜9日)の直前にケンカを売ってきたり、近くの酒屋の前で見張っていて、患者がこっそり酒を飲みにくると「そらやった」とばかりに強制退院させる。むろん役所の方には、退院の前日に金を渡したことにし、自分のフトコロに入れるのだ。

Sさんは今も入院の道を閉ざされ、日雇い労働を余儀なくされている。

ガードマンによる暴力的な強制退院、相次ぐ阪和病院にしろ、このH病院にしても、患者の身なりなど一切問わず入院させる病院に違いはない。疾患の明白化におびえ、なかなか医者にかかろうとはしない労働者のことを前提にしてもなお、その無条件での入院が高い死亡率につながっているとしたら恐ろしい話ではないか。

釜ケ崎専門救急隊員は「法に定められたことだけではできない」と言った。それは、誠意ある解決を求めようとすれば、どうしても法律との板ばさみになることを意味している。

しかし、法律を逆手にとることによって病院の経営がより成り立ち、いきおいその利潤の追求のみで終わるならば医療とは殺傷の道具になり果てるのである。

更生相談所の前には、今も毎日一度はHと阪和の車がやって来て、何人かの労働者を運んで行く。2万人はいるといわれている労働者に、その健康体を自慢できるものがいるとすれば少数に違いない。しかも日雇い健保を持っていることがまだまだ例外的な状況下で医療を受けるとすれば、更生相談所を通すか路上で倒れるしかない。阪和やHなどの病院にしてみれば、釜ケ崎は最も好都合で手間のかからぬ利潤の対象がごろごろ転がっている所なのだろう。

昨年8月、それまで大淀区にあった更生相談所が現在の場所に新しい釜ケ崎対策として全面移転してきたことは確かに一つの進歩であった。しかし割れナベに閉じブタが相互して、一部の病院の悪質さをかえって促進させたと言っても間違いではない。そして行政レベルで解決でき得ぬ、労働者自身の問題はつねにとり残されたままなのである。

 

◇拘置所の方がええ

強制退院がすべて病院側の責任であるといえば決してそうではない。その場合の最大の原因は酒だ。労働者5人に一人といわれる強制退院の8割までがこれによっているのだ。

そして最も入院例の多いのが、酒の過飲の影響を無視できない肝硬変を主とした肝臓疾患なのである。長期の療養と健康な生活によって治癒すべき肝臓疾患は、労働者ゆえに多発し、労働者ゆえになおらず、ついには死に至る。

釜ケ崎の街中を腹水で臨月の婦人のような腹をかかえてうろつく労働者を時折見かけることがある。そんな労働者に限って死ぬまで、物乞いをしてでも酒を飲みつづけるのである。

自殺行為と呼ぶしかなくとも、それをあくまで保障・強要し続けるのが、出口のない釜ケ崎システムであるともいえる。そう言いきって、それですましてしまえば万事簡単なことだ。そして同時に、治療という現実の健康回復への努力と、それを継続し得るなにがしかの労働者の立場に立ったやり方=制度の困難さに気づくのである。更生相談所は労働者が酒を飲んで相談に来た時は、入院の相談であっても「飲酒却下」といってこれを受けつけない。

その建前は建前として十分理解できるが、時々建前とは全く矛盾した本音を労働者の前に吐露することがある。今年の4月には職員の暴行事件が起こったが、労働者もやり返したのでウヤムヤになったことなど、その端的な例だ。

法令により措置入院の決められている結核の場合はさらに複雑なものがある。肝臓疾患は感染することがなく、労働者個人の問題で済むが、もう一つの釜ケ崎病といわれる結核はそうもいかない。

未決で出所したばかりという結核患者の労働者Tさんに付き添い更生相談所に行った時のことだ。

職員は病床が空いてないと言い、「これあげるから、二、三日したらまたおいで」と300円を出そうとした。他人事ながら僕は腹が立った。「馬鹿にするな、乞食じゃないぞ」とも思った。「働けないし、それに結核ですよ。病室が空いてないのも仕方のないことでしょう。それならなおさら、二、三日もの問を300円で過ごせというのはどういうことですか」

すると職員はこう言ったものだ。

「これは法外保護といって出さなくともよい金なんですよ。それにこの人は何度も病院で酒を飲んで問題を起こしているし・・・・・」

その労働者はしおらしく二人のケンカじみたやりとりを聞いているだけであった。しかし結局は金を500円に上げさせるだけで何の解決も得られず、その労働者をドヤに休ませるしかなかった。

開放性(感染性)かどうか聞いたところで何の役にも立たないし、他の泊まり客に感染することも覚悟のうえだ。そうでなければ取れる処置はないのだから。

46年の西成保健所管内登録結核患者1,520人のうち、狭義の釜ケ崎地区内に住む者は802人。職業別だと日雇い労働者(いわゆる常用も含む)は827人にものぼる。労働者を2万とおさえれば、25人に1人という高比率がでるが、これに関する労働者の責任はむしろ軽い。

「旅館(ドヤ)の冷暖房施設は外気との換気がなく、内部の空気だけが循環する方式。……開放性患者がいれば、旅館の住人全部が患者と寝ているのと変わりない」これは43年6月20日の『朝日新聞』が指摘している点である。最近とみに著しく、ドヤの高層化と見かけだけの近代化が進んだ事情が、このことに拍車をかけていることも見逃せない。

保健所は保健所で患者探しを推し進めれば推し進めるほど身動きできなくなる状況がある。新たに発見した患者を、実際上の問題としてどうにもできないのだ。ベッドの回転率が悪く、利潤の少ない結核病棟は、患者の全国的な減少傾向以上に姿を消しつつある。

そういう状況の中で、入院後問題を起こす素地が多いとされる労働者を入れたがる結核病院はない。そして入院できる特定の病院で誠意ある治寮は期待できず、しかも街中の赤提灯がちらつくような環境にあっては、労働者に養生しろという方が無理なのだ。

Tさんは窃盗で半年間、大阪拘置所の病舎に入っていた。ただの自転車泥棒ともいう。拘置所の病舎で誠意ある治療を期待する方がおかしいかもしれない。しかしそこは“国立“に間違いはなく、しかも強制退院などということもなかった。

Tさんが別れ際にポツリともらした一言。「拘置所の病舎の方がええわ」という言葉の中に、労働者の弱さと、それをさらに傷つける以外の何物でもない今日の医療というものを見ることができる。(つづく)

(いわたしゅういち・救援活動家)  朝日ジャーナル 1973.7.13