金日成将軍と「代紋」  「釜ヶ崎」の現場から <2> 岩田秀一

 

「何をぼやぼやしとるんや。早よ起きて飯を食え。こんな雨で仕事を休んでたまるか」

そんな親方のせきたてる声は皆の労働意欲を半減させるに十分だった。しかしぼくと“入船三郎”と名のる男にとっては、どうしても働きたい一日であった。10日契約できている2人にとって、その日はちょうど10日目、つまり満期であったから。

正確な月日は忘れたが、一昨年の夏の事に間違いはない。この飯場こそはぼくにとって初めての経験であったのだから。日当2,100円、雑費と飯代400円を引くと1,600円しか残らないここは、今のぼくなら決して行きはしない。

手配師の車でこの飯場に着いたとき、一人の労働者は自分の名前を「入船三郎でよい」と言った。親方は親方で笑いながら「何でもエエわ」と帳簿がわりの大学ノートにつけた。そして「まあ満期までがんばってんか」とノートを閉じる。

こんなことはめずらしいことではない。飯場で氏名やその経歴が問題になること自体がおかしいのだ。大学出であろうと前科持ちであろうと、要はそこでの労働に耐え得るかどうかなのである。「何でもエエわ」と笑った親方の面構えもどちらかといえば後者に近い。

入船三郎は良く働いた。そして1日の労働を終えると、彼は必ず諸式で2合ビンを2本取る。諸式とは酒、煙草、軍手などの必需品一切のことだ。晩飯の副食をアテにチビリチビリやるのが唯一の楽しみでもあったようだ。それほど大きくない体を前かがみにして、2、3時間はかけてゆっくりとあけていくその姿は少少ユーモラスであった。飯場のまかない婦は彼を「サブローさん」と呼び、皆もこれに従う。親方などは名前を呼ぱず、彼のクリッとした目玉にとってつけて「オイ目玉」などと乱暴に呼んでいた。

 

◇「チョーセン」という言葉

入船三郎は朝鮮人であった。そのことがわかったのは満期のその日、雨のあがるのを待つ現場の道具置場の中だった。そこでの労働者4入の対話は、例にたがわず飯場の悪口であり、少々割引いて聞く必要のある各々の自慢話だ。飯のことから賃金の安さ、ひいてはまかない婦がブスであるか否かが煙草の火をつけるのももどかしいほどに出てくる。

「ここの親方はチョーセンや、金なんとか言うはずや。そやから金田組なんてもっともらしい名前を使うんや」

そんなことはだれに教えられるまでもなくぼくにはわかっていた。いや、皆もそうだったかもしれぬ。釜ケ崎で求入する業者の中で頭に“金”のつくのは例外なくそうなのだから。

「ホー、やっぱりそうか。まだ若いけどな」

そう控え目に口をはさんだのは入船三郎である。しばらくすると彼は「ワシもそうなんやけどな」と自分で切出してきた。そしてすぐ、言いわけをするように「ワシはこっちで生れたからむこうのことは全然知らんけどな」とつけ足すことを忘れなかった。それは同民族の親方に与えられた“チョーセン”という蔑称が自分にも向けられはしないかという危惧であっただろう。

その後、話は共産主義へと移っていった。それは半島―共産主義という単純な回路を通してであり、気まずくなった空気を刷新するための話題であった。

「ワシなんか共産主義にはついていけんな。働かざるもの食うべからずやろ」

そう言うのは親方をチョーセンといったヤクザくずれの労働者である。「むこうの人間」であるということで入船三郎は良く質問を受けていた。しかし、この国で生れた彼の知識は、皆より一歩も出るものではなかったからほとんどの質問は無駄であったようだ。

「チョーセン」という言葉は飯場の親方への反感・憎悪を合理化するために多く使わる。ピンハネする者への憎悪を感覚的に正当化できるものとしてもあるのだ。

しかしそんな言葉も、同じ世界に住む住人のあいだにあっては、その場限りのことてあったにしろ禁句とされた。それを保障したのは“もうどこへも転びようのない”人間同士のやさしさであり、仁義であったのか。それにもまして、飯場での生活をともにしなければならない仲間世界を分裂させることをのみ良しとはしなかったのか。ただぼくが感じたことは、彼らに共通した暗黙の連帯であり、より共同体的心情の内に生きているということだった。

雨が上がったのは11時を回っていただろうか。ほんの少し仕事をすればもう昼飯であった。

仕事も終り飯場に戻ると、ぼくと入舶三郎は真先に風呂に飛込んでいった。「これで帰れる」という解放感が先立ってか、簡単に汗を流した程度でさっさと上がり、帰り仕度を整えて飯を食いに行く。今日に限って酒は取らなかった入船三郎は、飯を食い終えると親方のところへ勘定をもらいに行った。しかし戻って来たその顔は渋かった。6,000何がししかないと言う。ぼくは13,000円と少々あった。要するに諸式の酒でこれだけ差がついたのである。

 

◇まかり通るピンハネ

帰りの電車の中で彼はぼくにウイスキーを勧めた。世話になったからというのだ。

「オヤジがえらくワシに残ってくれと頼むんや。ワシが同じ国の者やと知ってるんやろか。また行ってもエエとは思うが、あんまりエエところではないわさ」

そういってウイスキーを差出す彼の手は節くれだったすごい手をしていた。この道30年というキャリアを見事に示しているのだった。彼は金田組の飯場は初めてではなく、1年ほど前にも来たことがあるという。飯場では比較的無口であった彼であるのに、懇切丁寧に金田組のことを教えてくれた。朝の現場での話は、成行き上のオトボケだったようだ。

金田組の親方は“入夫出し”から出発し、請負業を始めたのは最近のことであるという。林組という山口組系暴力団の組員であって、俗に言うノレン分けをしてもらった。組とはほとんど縁は切れているが、月いくらかの上納金は納めねばならないのだ。

“人夫出し”とは労務供給業、つまり下請けなどの請負業者の必要に応じて人夫を送り込むだけの建設業者のことである。必要経費とマージンを差引くことによってしか利潤は得られない。簡単に言えばピンハネである。

いきおい利潤をあげようとすると、ピンハネできる額は一定のしれたものであるから、飯場の諸条件にひびいてくる。飯が悪くなり、布団が汚れっぱなしだったり、挙句の果てはハイライトが一個100円で売られたりして人肉商人の様相を呈するに至る。金田組でもビールが一本160円で売られていた。

彼はそのことについて「まあ、朝鮮入やから仕方ないわさ」との一語で片づけてしまう。ぼくなりにそれを解駅するなら、「歴史的背景を考えたら・・・・・」という朝鮮人同士の暗黙の肯定でしかない。そしてそれは同時に「タコ部屋」「半ダコ」という劣悪な飯場の代名詞の中に「チョーセン飯場」をも認めることに通じてしまう。

大阪駅で環状線に乗換え、電車が鶴橋駅にすべり込もうとした時、彼は「降りようかな」と呟いた。そして一瞬腰を浮かそうとしたが、すぐにやめてしまった。

「いやな、義理の姉さんが駅前の漬物屋で働いてるんやけどな。会うたところで話すこともないし、逆にグチでも聞かされたらたまらん。ワシやっぱり鼻つまみでな、こんな仕事してたらうるさいんや」

そういって大きく背伸びをする彼は、なぜか目のやり場に困っているようだ。

電車が新今宮駅に着いた時、ぼくは完全に酔いがまわっていた。駅から降り立った後の「それじゃあ」という別れは、10日間生活をともにしたもの同士にしてはあまりにあっけなかった。

 

◇そうなった歴史的背景

それから二カ月ほど後、釜ケ崎の路上で彼とばったり会ったことがあるが、それ以後彼を見かけない。金田組の求人も一度だけ見かけた。この時賃金は2,600円、飯代が500円に上がっていた。昨年の夏のことだ。

金田組のような飯場専門の業者とともに、あいりん総合センターに毎朝求入に来る朝鮮入の建設業者は多い。おそらく、半数近くにのぼるだろう。田中であり、山本であるようなごく平凡な名前の業者の中に彼らを見出すのはさほど困難なことではない。

彼らの多くは、東・西淀川区近辺、そして天王寺・生野区近辺の二ヵ所に集中している。前者が淀川の砂洲という排水の悪い場所に疎外され成立していた朝鮮人部落に、後者は在日朝鮮人街「猪飼野」にその関連は容易に見出せる。彼らの中になぜ建設業者が多いのか。それは建設業そのものの持つ問題ともあわせて、クズ拾いか日雇人夫にしかなれなかった歴史的背景の中に求められてしかるべきだろう。ただし、ここでいう建設業とは金田組に見たような“人夫出し”のことである。

大正12年9月の関東大震災の深刻な不況がおびただしい失業者を生み出していったのは有名なことだ。大学を出たところで・・・・・という状況であったから、朝鮮人たちにとっては想像を絶するものがそこにはあったのだろう。

「鮮人労働者ノ移入甚ク盛ニシテ其ノ約四分ノ一ハ大阪府下二住シ其ノ七割以上ハ不就職者ナルノ有様ニテ……」と当時の状況を、昭和7年に発行された大阪府失業防止委員会概要は記録しているが、はたして7割ですんだかどうか疑問は残る。

全国に先立って失業者対策として失業防止委員会が大阪府に設けられたのは、もはや「社会不安ヲ醸成スルノ憂ナキヲ保シ難キ」(前同書)状態とされた大正14年10月のことであり、同時に朝鮮人対策としての意味を持っていた。これは即刻、失対事業としての土木事業を起すに当って、委員会が翌11月、愛知県から岡山県に至る一府七県と朝鮮総督府宛に土木工事めあての移入防止措置を講じるよう依頼していることからもうかがえよう。これを受けた朝鮮総督府側も、翌大正15年からは「渡船証明」の発行という事実上の厳しい渡航制限をひいている。

大正15年2月、土木事業実施の審議が終った後、委員会は「鮮入労働者ニ付テハ特別ノ考慮ヲ払ウコト」との諮問案を府知事宛提出した。その「特別ノ考慮」が何であったのか知る術はない。ただ、その事業の一つであった平野運河(新平野川)を開く工事に朝鮮人労働者だけを集めたことと無縁ではないだろう。平野運河沿いに林立していった朝鮮人の飯場こそが、実は猪飼野が成立する前史を形づくっていったのだから。そして西淀川に含まれる神崎川の改修工事も一連の事業の中では最大規模であった。「失業無宿者二対シテハ適当ナル宿泊設備ヲ改研スルト共ニ浮浪怠惰ノ徒ニ対スル収容並ニ強制労働ノ法規又ハ施設ニ関シテ考慮セラレタキコト」というのは同じ年の11月の諮問案の一つに上げられている。「強制労働ノ法規」が成立されたかどうかは不明だが、厳しい経済状況のなかで、いわれなき「浮浪怠惰ノ徒」と呼ばれていた「本邦在留鮮人」にとって、その飯場も収容施設に等しかった。

日本人失業者とはっきり区別された彼らの受取る賃金は日本人のそれよりはるかに少なかった。全く同一の賃金が算定されていたのにもかかわらず、日本人監督たちによるピンハネが横行していたのである。それでも彼らにとっては魅力ある現金収入であり、文句の言える社会情勢では決してなかったのだ。

 

◇“人夫出し”という事業

日雇労働者が一般的に失業者視されていることに、なにも大正期の朝鮮人失業者の例を引くまでのことはない。それは民族の問題など全く抜きにして語り得る職業上の差別感と、土木建設業の特質そのものなのだ。要するに「土方」が賎業でなかった時代はないのだ。

土木建設業が産業として分化していなかった時代で、その役割を果していたのは奴隷、囚人、前科者であり、時には貧農たちであった。それには江戸時代の人足寄せ場であり、租税としての農民たちの労力徴用を思い起すだけでこと足りる。そして職業としての土建業・土建労働者が登場するのも明治以後の話なのだ。“ドケンヤ”“ドカタ”、という言葉のもつ一種独特の響きはそこまでさかのぼる。そして、そこにこそ賎業にしかつけなかった朝鮮入が建設業者として登場してくる歴史的意味が存在するのだ。

したたかさこそが下層で虐げられた者の特権であるとき、終戦後のドサクサの中でいくばくかの金を握った彼らは“人夫出し”を始めた。

“人夫出し”はコネさえあれば車一台と、二、三人もいれば始められる簡単な事業なのだ。そしてそのコネが何であったかに多言は要さない。

昨年の5月25日早朝、あいりん総合センター1階寄せ場は騒然とした状況に包まれた。血まみれになった一人の男は土下座し、頭をうなだれるように二度ばかり下げた。しかし、その男を取巻く労働者の群れからは、容赦のない牛乳ビンが飛ぶ。いつのまにか求人に来ていた業者たちは全く姿を消し、労働者もまた仕事どころではなくなっていた。

「お前らはヤー公を保護してやるんか」そんな叱責を受けたのは、駆けつけてきた警察官たちだった。男はその警察官に守られてどこかへ姿を消した。残っていたその男の配下たち数人は木刀、鉄パイプを手に労働者を手当り次第追散らす。警察官の目前ですら暴行をやめなかった彼らの一人が逮捕されたとき、取戻されたかにみえた静寂もすぐに労働者たちによって打破られた。男たちの乗用車は転覆され、放火されたのである。

この事件は鈴木組事件として記憶されているが、その時のなまなましさは現場にいたぼくの脳裏からは去らない。そのなまなましさこそは釜ケ崎労働者を包みこんでいる労働状況への直接的な反発であったと思えた。朝の乱闘事件はその夜の暴動へと受継がれ、しかも三日間そのやむところをしらなかった。

ちょうど一カ月後の6月26日、鈴木組の事務所は、労働者に対する傷害容疑で手入れされた。そして血まみれになった男、つまり鈴木組長を含む3人が指名手配され、3人が逮捕されることになる。「あいりん騒動の火元手入れ」、との見出しで報道された新聞記事は、鈴木組の内実をよく示していた。

捜索を受けた鈴木建設興業の営業所は文化住宅の一角。……室内には上部団体の暴力団天梅会から贈られた『綱領』や、『代紋』などがずらりと並び、組事務所そのものだった・・・・・」(46年6月26日付『朝日新聞』)

綱領や代紋が“建設業者”事務所にあっても不思議はない。しかしそれらと並存することが少々奇異な感さえ抱かざるを得ない“物”がここにはあった。その“物”とは「金日成将軍」の肖縁写真のことである。

くわしい事実経過を書く余裕はない。しかし少なくとも3日間にわたる暴動と、労働者・鈴木組双方合わせて40人を超える逮捕者を出すまでに至ったその責任は、鈴木建設こと鈴木組自身にあった。

この事件が起ると、ほとんどの業者は「鈴木さんは困ったことをしてくれた」という顔をした。鈴木組はセンターに求人にくる業者の中では“大手”であり、発言力は大きかったのである。鈴木組の問題が明らかになることは、とりもなおさず自分たちにはねかえることだ、しょせんは同じ穴のムジナなのだから。

鈴木はセンターに求人にくる建設業者のほとんどで構成されている「あいりん建設業者親睦会」の初代会長に就任している。その「親睦会」とはセンターの開設と合わせて大阪府が行政指導して結成されたものだ。

「親睦会」には、(イ)暴力団業者、(ロ)朝鮮人業者、(ハ)日本入業者の三つの派閥があるとされている。(ハ)は、正確には“小市民的”と頭につけた方がわかりやすいかもしれぬが、そうであるがゆえに最も弱小な存在でしかない。そんな彼らが会長のボストにつけないことは言うまでもないが、それを握っているのは(イ)か(ロ)なのである。(イ)と(ロ)に“大手”業者が集中し、そのあいだに明確な一線を画すことのできない複雑さのなかで、鈴木組がそのまとめ役としての初代会長に就任し得た背景は簡単に理解できるだろう。そんな「親睦会」の結成が、大阪府の意向はどうあれ、労働者の利益に通じているといえばウソになる。

 

◇民族とは何か

鈴木組は今、大阪地裁で凶器準備集合罪と職業安定法違反で裁かれつつある。職業安定法違反とは、“人夫出し”つまり有料の職業紹介、及び中間搾取の禁止条項違反のことだ。しかし、その今も、センターに求人にくる“人夫出し”たちは全然変っていはしない。

この現実は、いってみれば建築産業自体の構造そのものが放置されるかぎり続く。産業構造の下層を支えているのが、現実としての違法“人夫出し”たちであり“手配師”たちなのだから。そして“人夫出し”業者を語る場合、その説明としての朝鮮人の置かれた社会的、歴史的、経済的諸背景を抜きにしてはあり得ない。しかしながら、その現実を解決する具体的方法の中にその民族問題が顔を出す余地は全くない。朝鮮入問題、未解放部落問題がひんぱんに語られる昨今であるが、大流行とも言うべき「懺悔改悛」が何の実効ももたらしはしないのである。

はっきりと搾取者以外の何者でもないことを見きわめるならば、ここでの朝鮮入問題のほとんどが労働問題としてしか存在しないことが理解できるだろう。むしろその労働問題という枠内で、彼らと徹底的に闘うことが連帯への道を開くといえばおかしく聞こえるだろうか。

釜ケ崎に労働者としての朝鮮人はむしろ少ない。それは金田組の飯場での生活をともにした入船三郎を出すまでもなく、彼らは同胞たちに対して負い目すら感じざるを得ないからだ。苦境であり、厳しい経済状況の中でも誇りを捨てず、より強烈な共同体的心情の中に生きてきたその民族意識こそが、その負い目の絶対量を増大させてしまう。それは彼ら自身の“闘いの歴史”であり、ここの国の経済の安定が「浮浪怠惰ノ徒」としての“的”を釜ケ崎へと移行させつつあることと見事に重なる。

毎年二度の彼岸に、四天王寺境内で大阪府警鑑識課総出による無縁仏の縁者探しが行われる。昨年の秋、それを見に行ったぼくの友だちは一人の無縁仏の書類に目をとめ、写しとってきた。

一、発見日時 昭和46年1月22日

二、発見場所 西成区海道町32番地海道公園南東公衆便所東側

三、死亡人 ○村○沫 ○尾○洗 ○村○夫 ○行洗

大正15年11月23日生 1b70

右小指基部からなし

本籍 朝鮮済州道済州邑住所不定

四つの名前を持つ男は釜ケ崎のど真中にある西成署の裏塀のそばで息を引取っている。そして彼の右小指は基部からなかった。指紋照合でやっとこれだけ判明した彼は、元暴力団員であったのだろう。彼はヤクザとしてではなく、釜ケ崎労働者として一人寂しく死んでいったのである。ヤクザとして活路を見出し、指を三度つめたと思われる彼は、したたかさとやさしさの葛藤のなかにこの死を選んだのではなかっただろうか。

朝鮮人として生れ、釜ケ崎労働者として死んだ彼にとって「民族」とは一体何だったのか。「民族」というものを、むしろ疎外しかえす必要をぼくはここ、釜ケ崎で感じるのだ。

 (つづく)     (いわたしゅういち・救援活動家) 朝日ジャーナル 1973.6.29