永遠に福祉の谷間として  「釜ヶ崎の現場から」<1>  岩田秀一

 

釜ケ崎労働者の使命が、建設・港湾関係のみにほぼ限定されていた時代はとっくに過ぎさってしまった。ここ10年来急速なテンポで推し進められた大企業の合理化と近代化のためである。

合理化なり近代化というものがあくまで基幹部門に対してなされた以上、付帯的な部分の多くは下請、孫請化されていった。自由な首切りと低賃金こそが下請化の利点であるなら、最も好都合な労働力として釜ケ崎労働者は浮上せざるを得ない。そして、そこにおける労働とは、劣悪な作業環境のもと、機械化しにくい単純な肉体作業がほとんどなのだ。一例をあげよう。ぼく自身の体験から日記風に―、

47年夏、現場は新日鉄堺工場。

6時半、あいりん総合センターから「太平工業」の手配師のさそいに応じてマイクロバスに乗込む。仲間は約30人。現場に着いたのは7時半であった。近代的大工場に似合わぬ木造の作業詰所で待機。

8時半作業開始。まずは竹ボウキで作業場の掃除。作業は、クレーンで運ばれてくる鋼板のロールを厚紙で包み、布のガムテープでとめていくだけだ。

単純作業ではあるが、素手で触れようものなら火傷を起す。ロールは圧延されてからそれほど時間がたっていないのだろう。

しかし軍手をはめたままだと布のガムテープはきれない。つめでひきちぎるのだ。3人で組み、厚紙を押える者、ロールの両側からガムテープでとめていく者、規則的にロールは送られてくるから休みはない。しかも禁煙であるから気がめいってしまう。

12時上がり。釜ケ崎から来た連中ばかりが先を競って洗い場へ急ぐ。

食堂も兼ねる詰所には、2通りの弁当があった。いわゆるAランチとBランチ以上の差の弁当がである。Aの方のおかずはスパゲティ、半切りゆで卵、ウインナ、パセリと色とりどり。Bはといえばコンニャク、ガンモドキ、ジャガイモのそれぞれ煮たもので、茶一色であった。

 

◇収入を決めるのは肉体

一人が両方見比べ、少々ためらった後Aを取る。むろん皆も右へならえ。「なんでお前らがええ方くらうんや」

遅れて戻ってきた太平工業の常用連申は、弁当のフタを取ってまわったあげくにそうどなったものだ。「馬鹿野郎、早い者勝ちだ」、顔にはあらわさずとも皆の腹のうちは同じだろう。

12時45分、非情に響くサイレン。昼寝をしていた労働者いわく「1時からとちがうんか」。弁当事件が尾を引いたのか、「文句言わんと、早よ出え」と常用に一喝された。

午後の作業は午前と全く同じであった。ちがうのはただ3時に10分間の一服があったことくらいか。5時きっかりに上がり。詰所で送りのマイクロバスを待つ、が30分を過ぎても来ない。皆は落ちつかず苛立ちはじめる。

「もうすぐバスは来るけど、7時までは帰られんからな」という常用の不機嫌な声。「なんでやねん」と聞きかえす労働者の口調も少々うわずってくる。

「ちゃんと求人票には7時までと書いてあったやろが」「風呂があるから入ってたら時間はくる」という常用の言葉に納得せず、さらに追及すると結局、大会社特有の管理上の問題という。

「ウチのバスは7時に門を出ることになっとる。それより早よ出る時は別に手続きせなならんのや。人数の計算にうるさいんや」

夕暮れの中、マイクロバスが門を出るときには、すでに何人かがウトウトしている。釜ケ崎の西境である国道26号にバスがとまると、ほとんどの者がアクビをしながら席を立つのである。

「おおきに」「サンキュー」、ある者は黙ったまま日当を受取りバスを降りる。「また明日も頼むで」とは、朝と同じ運転手兼求人連絡員こと手配師であった―。

以前は体を激しく動かすことの多い屋外作業中心の建築・土木関係の仕事が主だったし、また現在も求人件数としては最も多いが、最近は例にあげた屋内作業も増え、釜ケ崎の労働者はありとあらゆる産業・企業へ入っている。

「建設業では、鹿島・竹中・清水・大成……などの現場で働き、八幡製鉄・川鉄・鋼管・久保田・三菱重工・東洋高圧・セントラル硝子・ダイキン・住友セメント・大阪ガス・アサヒビール・サントリー・日立造船……など想像も出来ない大企業で働いている」とは釜ケ崎での就労斡旋事業を行う西成労働福祉センター発行の事業報告(42年度版)自ら示すところである。

そしてそこには、あくまで臨時雇いということからくる露骨な差別が貫徹している。

一例にひいた弁当の問題はささいなものと言ってよい。一クラス上であるはずの太平工業の常用たちも、実は差別構造の被害者なのである。彼らは釜ケ崎労働者をこきつかえる立場にあっても、決して本工にはなりえぬみじめな存在にすぎない。差別は二重三重に貫徹され、その最も下に位置してすべてを引受けねばならないのが釜ケ崎労働者なのである。

当時のこの現場で日当は2,500円であった。10時間半にも及ぶ肉体拘束の対価が、である。時給に直しても240円足らずで、月に20日働いたとしても5万円にしかならない。これを一人前の男の収入として多いと思う人がいるだろうか。

むろん強壮な肉体さえあれば、日当の高い建設・港湾関係の仕事にもつけ、月10万円以上は十分期待できる。つまり、年功序列などとはまったく無縁なここでは、その肉体の強さこそが収入を決定する。

工場仕事(労働者は会社仕事という)は雨天でも就労可能など、比較的安定した職種であり、一般的に軽作業であることから日当は安いが、これを好む労働者の年齢層が高くなっている。

「釜ケ崎に堆積した貧困者群は、ある時は低賃金労働力の供給源として、またある時は老廃した労働力の廃棄場所としてミゼラブルな歴史を形成してきたのである」とも西成労働福祉センター事業報告は言う。

労働力の老廃化に応じ、勇壮果敢なトビ職などの建設労働者から雑役夫、掃除夫まがいの片付け夫へと変転し、それよりなおささいな労働力すら見のがし得ない―あるいはそれでもなお一人で働き、生きていかねばならない人間の集積地が釜ケ崎なのだ。

 

◇過去を問う必要はなく

ぼくが釜ケ崎に来てすぐ知合った男にKがいた。Kは五島列島の福江の出身で、彼にとってぼくはただ一人の友だちであった。二人は同じ年であるということで意気投合し、そしていつともなく別れてしまった。

街をブラブラ歩いているときに、「どこかいい仕事ないか?」と彼が声をかけてきたのがそもそものきっかけだ。彼はかなり酔っていた。そしていきなり「友だちになってくれ」と言うのである。

彼はまだ釜ケ崎に来て1週間そこそこで何も知らず、ドヤに泊ってもいくら宿泊料をふっかけられるかわからないから、ずっと青カン(野宿)していたらしい。その一方、酒の値段は全国共通だから、という。また「寂しゅうてな」とももらした。結局2人はさんざん飲み歩くことになる。

彼は中卒後集団就職で名古屋に出てまじめに働いていたが、くる日もくる日も同じ単調な仕事に愛想をつかした。そのついでに職場の金を10万円持出したのだった。なぜ大阪に来たのかといえば、「ブラブラしていても食っていけるところがある」と聞いていたからだ。

結局持出した10万円の金も盗まれ、尋ね尋ねて釜ケ崎に来た彼の目に、釜ケ崎は恐しいところと映ったらしい。

ぼくは彼に手ごろなドヤと、安くてうまい飯屋を教えるなど生活指導をせねばならないはめにおちいった。そして同時に、ぼくは彼の人生の決定的な“変節”に立会わざるを得なかったのである。

Kをはじめ、労働者の釜ケ崎に来るに至った経緯には想像するに余りあるものがある。ある者は実にささいなことをきっかけに、ある者は必然的としかいいようのない経済的苦境のなかからここを選んだ。中卒で就職、以後職を転々組から、元炭鉱夫、最近の目立ったところでは沖縄組、あるいは懲役の出所、仮釈放組まで実にさまざまである。

時にはたまたま遊びに来て酒を飲みすぎ、そのまま居ついてしまった者もいるし、元新聞記者、銀行員もいる。

釜ケ崎は過去が決して問われることのない、また問う必要はない街である。それは問いかけたところで「何をいまさら」と返ってくるのがせいぜいで、お互いに傷つくことにならなければ運がよいからだ。それは労働者間のルールでもあり、問われてもよい経歴を持つ者も厳しく守らねばならない。

労働者は釜ケ崎を「これほど気楽なところはない」とよく言う。そのいささか嘲笑にも似た物悲しさのなかには、こうした多くの過去が含まれて余りあるのである。

釜ケ崎労働者を特別にすばらしい存在であるとはぼくは思っていない。しかし、わずかながらもすばらしさがあるとすれば、通りいっぺんの社会秩序から隔離され、あるいは自ら拒絶し、そのひずみをもろにあびた結果としての人間性の流露と、その生活総体を支える独自の労働のなかにそれは求められる。

いつしか肉体労働者が「労務者」という賎称を与えられ、ホワイトカラーが労働者階級の主体であるとされるに至った。そこでは肉体労働が職業以下のものとされ、いわれなき屈辱を強いられる。

 

◇浮んだ深い亀裂

部落解放運動に多大な理解を示し、その担い手の一入でもある作家の野間宏は、1969年6月8日号の本誌「被差別部落は変ったか」で次のように書いている。

「私は浅香町の部落の人たちの職業をきいたが、それは職業といえるようなものではなく、ヨセ屋(屑屋、その他廃品の)、鉄屑回収それに土建人夫、行商というようなものだった」(傍点筆者)

前後を通して野間の言いたいことは十分理解できる。しかし、この書き方は何なのか。部落差別のなかで職業差別がきわめて重大な意味をもっていることは、野間自身がよく知っていることではないのか。

社会体制の変化によってヨセ屋なり行商という職業が消える可能性はある。しかし土建人夫はどうだろうか。それを野間に聞きたいと思う。その答えがわかりきっているからこそ、こんな言いぐさは許されないはずなのだ。

野間は同じルポの(6月1日号)でこのようなことも書いている。「・・・・・・・(同盟西成支部は)〈文化温泉〉建設についで独身寮反対闘争をすすめることになる。それは府が西成の遊園地を買収して、部落内に釜ケ崎の立ちんぼ用の労働者住宅(独身寮)を建てようとしたことから起ったのである。・・・・・・当時、そのあたりは空襲による焼跡として残っていて、周囲は畑で、独身寮が出来ればここに飲み屋やパンパン宿ができるにちがいないと考えられた」(傍点筆者)

釜ケ崎は部落とは違って、家という生活基盤を持たず一代限りで終る労働者の街である。だからこそ、労働者住宅の建設はその団結の新たな基楚として欠くべからざるものとして、地域活動家たちの未だかなわぬ希望なのだ。

労働者住宅ができれば環境が悪くなる、というのはなるほどごく自然な受取り方かもしれない。しかしそこには、釜ケ崎労働者への蔑視がみられる。その理由はそれこそ、釜ケ崎労働者が現実の産業構造の中で果している役割への正当な評価がなされず、表面上の問題がすべてであるかのようなとらえ方に起因するのではないのか。

独身寮反対闘争に野間自身は直接かかわっていないから、この問題で彼を非難するつもりはないが、地図上は隣接している西浜部落と釜ケ崎のあいだに、深い亀裂が存在していることが浮び上がってくる。事実そうなのだ。

この闘争から20何年かたった今日、解放同盟の闘争は改良住宅の建設など西浜部落の環境浄化を推し進めた。そしてその闘争の成果がむしろその亀裂を一層深いものにしつつあるとすれば、なんと皮肉なことだろうか。

◇抑圧された生活が爆発

釜ケ崎が広く祉会的注目を呼んだのは、東京山谷よりちょうど1年遅れて起った昭和36年八月の第一次暴動であった。以後38年5月、39年12月、41年3月、5月、6月、42年5月・・・・・と、それこそ年中行事のように暴動はやむことをしらず続いている。ざっと数えあげただけでも10数回はあるだろう。

192人もの逮捕者を出した第一次暴動は1人の老人の交通事故処理問題に端を発した。5日間にわたる反乱は、安保闘争に際しての国会デモ以来のことといわれもしたが、その両者の相違は見逃された。

暴動のきっかけが重大事件である必要はまったくない。きっかけなどどうでもよいし、暴動に参加した労働者のほとんどはそのきっかけを知らずにいるものだ。

本当のきっかけは労働者がその日常生活の中に余りあるほど持っている。彼らを暴動にかりたてるものは、日々抑圧され続けている生活そのものなのだ。しかも、ポリ公をぶん殴り、車に火を放ち、食堂・パチンコ屋を叩き壊す彼らのすさまじいエネルギーは、そのきっかけゆえに不完全燃焼する。

「被告達が……その日ぐらしのため一日も早く釈放されるのを望んで法廷で主張すべきことをほとんどいわず大部分犯行をあっさり認めた……裁判が長びけば生活に困るという底辺に住む被告達の生活を物語っている」

これは第一次暴動の裁判結果を報じた38年8月1日付『朝日新聞』の一節である。

これをこの通り受取ってしまうのが一般社会だから、こうした報道では暴動は不完全燃焼せざるをえない。貧乏人ですべてをくくり、一視同仁的な見方をすることが実は完全な労働者蔑視なのだ。

36年暴動で、私選弁護人がついた労働者は何人いただろうか。しかもほとんどが労働者であるという理由にもならない理由で勾留されたまま裁かれざるをえなかったはずだ。

だれしも一日も早くシャバの土を踏みたい気持を持つ。しかしそれはその日暮しのためなんかでは決してない。単身であることは同時に養うべき対象もないということだ。むしろその日暮しゆえ、勾留されることが生活を保障し、裁判が長びくことと生活が困ることとはなんの関係もないのである。真の下層生活者であれば、刑務所生活は人生の一部であり、時折りの転居先にほかならないとは言えまいか。

釜ケ崎に来るに至った、そして足を洗えない理由の一つに前科があることはすでに述べた。暴動という集団行為の結末は、逮捕され起訴された労働者個々の前科前歴に新たに一項目を加えることでしか迎えることができない。彼らは逮捕されたその瞬間、そのことを本能的に察知し、まだ見ぬ新たな暴動を期待し、それに参加するためのきっかけを培養するだけにとどまるのだ。

今まで奪われてきたものを奪いかえそうとして立上がり、その結果がさらに奪われることでしかないことに気づいてしまえば、労働者はもはや不完全燃焼するしかない。

労働者のなかでその健康体を自慢できる者は少ない。それは燃えかすをつねに抱いている者として当然のことだ。燃えかすの残り火を消そうとし、忘我の、忘我を錯覚し得る酒を労働者は飲もうとする。

激しい肉体労働の疲れをいやす美酒と、そのニガイ酒とのあいだにはっきりしたちがいはあるまい。

 

◇自己の投影としての死

一杯が二杯になり、ついにはハシゴ酒で酔い倒れようと、それをだれが非難できようか。それは社会構造の矛盾を最下層で受けとめる者にとっては、当然ともいえる結果であり、矛盾は人間をそこにまで追いやってしまうということなのだ。そして、そういう彼らは、最後の最後まで自分の身を食ってでもなお生きざるをえない人間でもある。」

ぼくは2年前に見た一人の婦人のうつろな顔を今も忘れることができない。左腕の注射の跡のバンソウコウだけが白い、その婦人を見たのは血液銀行(バンク)のミドリ十字の採血待合室であった。

牛乳ビン2本、つまり400tの血を売って得る金は1,400円。普通はその倍の800tを売るのだが、彼女にはそれも無理だったのだろう。採血後の報酬の付録であるパンにかぶりつく彼女の姿には“生”の躍動感はみじんも感じられなかった。そして女は彼女一人であったし、しかも彼女は子連れであった。他の客は、といえばどの顔も日焼けですすけた釜ケ崎労働者の顔である。

売血を必要以上にくりかえすと、皮膚は蒼黒くなり、短時間での急激な労働ができなくなっていく。他に疾患をかかえている場合だと、問題は深刻にならざるを得ない。

雨が三日も続き、アブレ(失業)が続こうものならバンクの受付に長い行列ができるのは2年前も今も変らない。

この現実こそが、労働者の生活手段として大きな位置を売血が占めている証拠である。

安く仕入れた血液を独自の技術で加工することでミドリ十字はその10倍以上の利益をあげている。血がいかに高いものであるかは、身近に手術で輸血をした者がいればそれでわかるはずだ。プラズマ、あるいは止血剤として遠くはペトナムにまで送られているのである。資本のあまりに非情なからくりがそこでも展開されている。

釜ケ崎は資本の要請に応じてスラム街から労働者の街へと変化し、今日のようなドヤビルの街と化した。その変化のなかで奪われていったもののなかに“女”がある。下層生活者の活気ある街から、一代限りで使いすてられる単身者の街に明確化していった。わずか一畳のドヤの構造そのものも子どもを拒否してしまうのだ。現在の釜ケ崎が果す役割が、唯一安価な労働力を恒常的に供給する基地化してしまったといっても言いすぎではないだろう。行政官庁に、釜ケ崎の未来を決定する力はなくつねにその対策を後手へとまわらせる。労働力の廃棄場所でもあるここは、永遠に福祉の谷間にあるのだ。

釜ケ崎の街中数ヵ所にたむろする散娼たちの姿は、もはや労働力商品にすぎない労働者を真に慰めてはくれない。一般的には酒を飲むことによって性欲を忘れ、思い出せばドヤに備えつけられた週刊誌のグラビア相手に自慰にふけるのだから。

今年の冬、釜ケ崎の街中の公園の一隅で、ボール紙で位牌をつくり、果物を供え、友人の死をつまみに酒を飲む労働者たちがいた。仲間の死を、自己の投影として受けとりつつ飲む酒はどんなにかにがいものに違いはなかっただろうと思うのだ。

つづく)  (いわた しゅういち・救援活動家) 朝日ジャーナル 1973.6.22