釜ヶ崎小史試論 ーーー本間啓一郎

はじめに

釜ヶ崎は、 けっして絶海の孤島ではありません.。

地理的にも経済的にも周辺地域との密接な関係の中で釜ヶ崎は生き続けてきたのです。

ですから、稗史ではなく正史として、あるいは『病理』ではなく『生理』として釜ヶ崎が語られねばならないのではないでしょうか。

そしてそのようなものとして、釜ヶ崎の形成と変容が問われねばなりません。

言い換えれば、釜ヶ崎の歴史を問うことは釜ヶ崎を必要とする、あるいは不可欠の一分 肢とする近代社会の歴史を問うことであり、また釜ヶ崎の変容を明らかにすることは、そのような変容を必然化せしめた全体社会の動向を明らかにすることでもあるはずです。


おおまかな素描

釜ヶ崎の形成・展開のプロセスについては、その居住者たちの就業構造、生活実態(収入居住形態・世帯形成等)、社会意識(抵抗のあり方も含めて)、居住者の社会的形成過程行政等による諸施策、さらには資本主義の全般的な動向等を主な指標として、以下 のような時期区分を設定しました。

1.前史としての長町期

いまだ大阪の都市下層の集住地域はおおむね長町に限定されており、治安・衛生 対 策優先の対策(木賃宿の限定営業策、あるいは長町撤去・解体策)が何度も試 みられます。

前者、すなわち木賃宿の限定営業策は近世においてとられた、いわば木賃宿の長町への囲い込み策を踏襲したものですが、後者、長町撤去・解体策 は1886年に初めては登場したもので、失敗したとはいえ近代的なスラムクリアランスの試みとして無視できません。

またこの時期の長町居住者の職業は近世において優勢であった力役型の絞油職人や米搗職人等の比重が低下し、雑業的な色 彩が強くなっています。

2. 形成期

マッチ工業の勃興(釜ヶ崎の一角に電光社燐寸工場が設置されます)や国家的な殖産興行策の一環として開催された第5回内国勧業博覧会等のためのスラムクリ アランスによって、『細民』の集住地域として釜ヶ崎が形成され始めます。

そして 明治末期には既に『救済事業』の対象として注目されることになります。

3.確立期

第一次世界大戦をきっかけに重工業化の途を歩みはじめた日本の資本主義は当然にも建設・運輸業に従事する労働者の増大を招来することになります。

釜ヶ崎は 単身の男子労働者の流入によって一大ドヤ街として知られるようになります。また『米騒動』の発生を通して従来の『救済事業』とは異なるいわゆる『都市社会事業』が展開されることになります。

4.戦時期間

15戦争の開始にやや遅れて釜ヶ崎の戦時体制への動員がさまざまな形で企図さ れますが、45年3月の大阪大空襲により釜ヶ崎は灰塵に帰することになります。

5.戦後復興期

日本資本主義の復活・再生にともない、釜ヶ崎は仲仕(荷物運搬に専らあたる力役型の労働者)や土方(土木工事に専らあたる力役型の労働者)のプール地とし て復興していきますが、なお雑業(バタ屋・行商等)に従事する人達も多く見ら れました。

またこの時期には戦前期同様単身労働者とともに世帯持ちの居住者も少なくなくかったこと、行政不在であったことも指摘しなければなりません。

6.61年8月の『第一次暴動』を契機に行政施策の一定の展開が見られます。

交通事故の処理をめぐって発生したこの『暴動』は釜ヶ崎居住者の『人権宣言』であ るとともに市民社会にとっては『釜ヶ崎の発見』でもありました。

そして行政主 導のもとに居住者の単身者化が極限まで進行していきます。

7.現在

不況(アブレ)・好況(人手不足)といくつかの局面を含みつつ、就労職種がい わゆる減量経営をきっかけに建設土木業に特化され労働者の高齢化、高収入労働 者層の周辺地域(鶴見橋・岸ノ里等)への分散化、アジア人労働者の寄り場への 登場が見られるようになります。


近代までの釜ヶ崎

釜ヶ崎という地名は西成郡今宮村の小字名の一つとして、かなり古くからあったようです。

他の小字名(浜田,海道畑,今井船,甲岸,水渡等)を勘案すれば、この地域が海浜と 関わりが深いことが知られます.。

小字名としての釜ヶ崎は1922(大正11)年に廃止されます。

これは1910年から開始された今宮第一耕地整理事業(翌11年終了)のあ とをうけて同11年から始まった今宮第二耕地整理事業が20年に完了したことによる もので、

釜ヶ崎は今宮町 (町制施行は17年) 甲岸、東入船、西入船に分割されることになります。

この耕地整理は市街化を目途にしたものでしたが、大字今宮の小字名で釜ヶ崎同様廃止されたものは浜田、新家東裏、水渡東道、八田、馬淵,、西野,、永草、東川代田があります。

ただ、第一および第二の耕地整理事業の対象になっていなかった釜ヶ崎(このこと自体この時点で釜ヶ崎がすでに市街地化していたことの何よりの証左です )が小字名としては廃止されたのは、
釜ヶ崎が『ドン底』として、米騒動(1918年 )の『発火点』として、あまりにも有名になりすぎたことからイメージを一新しようと いう意図によると言えるでしょう。

なお今宮村は1897年大阪市の第一次市域拡張によって現JR関西線以南が大阪市南区に編入されます。

そして1900年にはこの南区の町名変更があり、水渡等と同様に釜ヶ崎は水崎町と改称されます。

ここから字名としての釜ヶ崎は関西線(当時は大阪鉄道と言われました)を跨がって拡がっていたことが知られますが、従来は南区の町名変更だけが取り上げられ、
本来釜ヶ崎でもないところ(要するに町名変更の対象にならなかった今宮村の一部)に何故釜ヶ崎という俗称が残ったのか、謎だとされていました 。


近世において、釜ヶ崎をその一部とする西成郡今宮村は周辺地域と同様に稲作に不適な土質 (海岸に見られる砂質土) であったことから
畑場八ケ村と呼ばれる、蔬菜栽培地 帯であり、特に千生瓢 (せんなりひさご)の産地として知られていました。

また幕末には塩風呂を敷設した料理店のあるところとしても知られており、
大消費地である大阪に 対する野菜の供給地としてまた田園の行楽地として今宮村はあったわけです。

近世において身分的に最下層におかれていた非人の居住地として『垣外』が大阪には 四ケ所設定されていました。そのうちの一つ,片桐検地 (1609年)で下置された鳶田垣外は今宮村にありました(垣外自体は天王寺支配でした)。

この鳶田には仕置場(刑場 )及び墓地がありました。近世・大阪のいわゆる七墓の一つだったわけです。この七墓は時期によって変動があるようで、梅田、葭原、蒲生、小長谷、高津、千日、飛田とさ れたり、梅田、浜之寺、吉原、野田、小橋、鳶田、千日となったこともあります。

釜ヶ崎の一角に太子地蔵がありますが、そこには大きな石碑が建てられており、明治の始めに鳶田墓地が阿倍野へ移されるまでの様子が伺えます。

すなわちこの石碑によると 『西生郡鵄田』は『荒陵寺』(四天王寺)の墓地であったが、『慶長之義戦』(大阪冬の陣 1614年)の際に戦場となって荒廃してしまった。そこで『先人之志意』を継 いで復興することにしたとのことです。時に1698年のことで、この碑文を記したは 『天台沙門融順』となっています。

なお今宮村に隣接する天王寺村にはこの太子地蔵のすぐ向かいに小字名として墓之前、国分寺があり(大正7ー8年大阪市内及び隣接町村番地入地図による)、きわめて示唆的です。

ただ鳶田垣外自体はいわゆる『解放令』(1891年)によって解体され、後年の釜ヶ崎の形成にはほとんど関与していないようです。


釜ヶ崎という地名の起源については従来から種々の説が見られました。

海浜の近くにあり、地形が鎌に似ていたことから付けられた、

元来入江であって、そ の岬が鎌に似ていた、

塩焼き釜が置かれていた、

朝釜を質屋に入れ昼食代に充て夕刻稼ぎでまず(先に)釜を質屋から出したことから付けられた、

あるいは居住者の多くは釜を共有しており地震等があればなによりも共有財産である釜を持ち出したことから名付 けられた等々があります。

今のところ釜ヶ崎と同一の地名を見つけだすことは出来ませんが、類似のものはあり ます。

一つは白石市(宮城県)の鎌先温泉です。これは釜崎とも称されたようですが、 いずれも「かまがさき」ではなく「かまざき」といわれたようで、樵夫が喉の渇きをいやすため水を求めて岩窟を探したところ温泉を見つけ、持っていた鎌で穿ったところから名付けられたものです。

いまひとつは同じく宮城県塩竃市の松島湾に浮かぶ内裡島・徳兵衛島と陸地との間の水道で釜ケ淵と言われているものです。

この地域は縄文期から製塩がおこなわれており 種々の遺跡が見られます。釜ケ淵の起源については次のような民話が残されています。

すなわち塩竃神社の末社である御釜神社には五個の塩土老翁神(塩竃神社の祭神の一柱で海上交通を支配し製塩を始めたとされいます)がつかったという塩焼き用のお釜があ りましたが、
その一つを昔盗人が盗み船で逃げようと、この水道にさしかかったところ大波が突然起こり、釜も船も盗人も海底に沈んでしまったとのことです。

このため御釜神社には現在では4個しかお釜がなく、毎年7月5日の満潮時にその4個のお釜を使って釜ケ淵から海水を汲み水替神事が行われています。

確定的なことは望むべくもないが、やはり地名の起源については多少なりとも製塩の釜が関わっているようです。

釜ヶ崎がスラムとして資本主義の動向と不可欠の関係をもつようになるのは近代以降のことです。近世においては大阪における都市下層の集住地域としては、今宮村のより 北方にある長町に注目すべきでしょう。


近世大阪における都市下層

長町という名称については、

大坂三郷の一部ではあるものの南部の難波村・天王寺村・ 今 宮村方面へ細長く伸びていることに由来するとするものと、

古代においてはこの辺りはすべて海辺で、呉の国からやってきた人々がこの浜辺に到着したことから
名呉の浜あるいは名呉の海といわれるようになり、
名呉町といわれたものが後に誤って名護町あるいは長町になったとするものとがあります。

いずれにせよ今宮村周辺が海辺であったことは間違いなく(字名に海浜に関係した も のが多いことは既に述べました)、平安時代には今宮村の住民が天皇に鮮魚を調貢 して いたとのことです。

江戸時代のはじめには長町は一丁目から九丁目までありましたが、
後述するように公官許の木賃宿営業地として、貧民の集住地域としてその南半分が著名になるにつれ商売がけっこう繁盛していたその北半分から切離しを求める声が強く出され、
1792年に は一〜五丁目は日本橋通一〜五丁目となり、南部は長町六〜九丁目と改められ ました。

なお近代に入り1872年には町の分合改廃に伴い長町という名称自体が消 滅すること になりましたが、通称としてはその後長く使われました。

長町は1615年に『公許旅人置ケ所』として東町奉行によって旅人宿が公認され ま したが、
商品経済の進展にともない、その約50年後には働人足(米搗人・油絞人 ・酒 造人等)ための木賃宿の設置が認められるにいたりました。

無宿・野非人等の大坂流入についてはその受け皿として、
また都市の手工業、(特に近世の大坂にあっては絞油業は重要な産業の一つで江戸・京都への移出品の首位をしめていました)をその底辺で支える力役型労働力のプールとして、
長町はきわめて大きな役割をになっていました。


1791年の記録によると長町六目から九丁目までに木賃宿が38軒、そこに働人 ( 米搗人・油絞人・酒造人等)が1,042人、浜立女(大坂では川原のことを浜といい、そこで売春をしたことからこの名がついてようである)が110人、袖乞が228人、 計1,380人が止宿していました。

つまり4分の3もの止宿者が力役型の働人によって しめられていたのです。

幕末が近づくにつれ、米価騰貴による生活苦から長町への流入者は増加し、またそれ ともない失職して働人から袖乞に、そして野宿者へと『転落』していく窮民は増えるばかりでした。

幕末の長町については『大阪繁昌詩』(田中金峰)、『守貞漫稿 』(喜 多川守貞)等に詳しく描かれていますが、
このような長町の困窮化と平行して進行したのが『長町四ケ丁宿屋同様ノ振合』の宿屋(ほうひきと言われていました) の長町以外の地での増加でした。

都市下層民の増大を物語るものですが、このような都市の下層民への施策は、近世においては木賃宿の規制(長町以外の地での営業禁止) 、働人足溜所の制限、御救小屋の設置でした。

ここで注目されるのは1860年に設置された働人足溜所の存在です。

従来から長町の木賃宿は地方から出稼ぎ等で大阪へ流入してきた労働者の身元を保証し搗米屋や絞油屋へ『口入れ』していましたが、
長町は大阪の南端にあり労働現場 (例えば絞油業は長堀川を中心に船場・島之内や天満で発展したといわれています) からはかなり離れていたため必要な労働力を時宜に応じて確保するため設けられたのがこの働 人足溜所でした。

これは後に『寄り場』と呼ばれるようになりますが、

業種別に設置さ れたようで、使用者に都合のよい、いつでも使い捨てできる労働力のプー ルが出来たわけです。

ただこの労働力のプールは現在の釜ヶ崎とはいくつもの点で異なっています。

すなわち働人足溜所に集まる労働者は長町の木賃宿に止宿し、かつ宿主によってその身元が保証されたもので
いわば家父長的労働関係のなかにあった『不 自由な』労働者であるといえますが、現在の釜ヶ崎労働者には基本的にはそういった関係は見られません。

なおこういったものとは別に大坂市中には絞油業等の単純な力役型の職業を紹介するいわゆる雇人請宿があったようです。

当時30株あった長町の木賃宿仲間の特権を浸食することになるわけで、
これに対しては雇人請宿から長町の木賃宿仲間へ月々500文が支払われたとのことでした。

近代にはいってからも、明治前期では長町の状況及びそれへの行政当局の対応の内容には大きな変化はありませんでした。

1868年1月の『制度法令等、一切先是迄ノ 通相定候事』とあるように
7月13日の府令は1859年3月9日の触れと全く同一の文言です(前者は『明治大正大阪市史第6巻』に、後者は『大阪市史第4』に収録されています)。


長町期

いわば前史とも言うべき時期で、

日清戦争後までの、

本源的蓄積過程(一般に資本主義が成立するためには農民が土地から切り離され「自由な労働力」になること、および 貨幣や生産手段の資本家への集中が必要です)の時期から

資本主義の本格的な確立に至るまでの、いわゆる助走の時期であり、

釜ヶ崎にはいまだスラムとしての様相は窺えない段階だと言えます。

西欧の本源的蓄積過程においては『自由になった農民』の『浮浪者化』が広範に見られ

いわゆるワークハウスが絶対主義権力によって設置されましたが、

日本においてはそのような現象はきわめて微弱だといわねばなりません。

それは言うまでもなく日本の本源的蓄積過程においては、農業部門の資本主義的経営に移行することがなく(寄生地主制 の発生)、農民層の分解は不徹底だと言えますが、
それはまたこの時期の都市の工業が必 要とする労働力が男性ではなく女性であったことにも起因します。

当時勃興しつつあった工業は言うまでもなく繊維業であり、西欧の最新技術を導入することで開始されたことから相対的に軽微な作業であり、若い女性労働者でも充分対応できたわけです。

賃金は世代的再生産を要しないことから低く、また資本家にとっては農業部門以外への投資機会が充分あったことも看過できません。

そのような事情から農民の都市流入は出稼ぎ的な色彩が強く、また就業機会を工業に見出すことは困難で、いわゆる力役的なもの(車夫、日雇い等)が多く見られました。

そ して大阪においてはそのような人々が長町で居住することになります。

近世との違いを就業職種からみれば、伝統的な三業(絞油、酒造、米搗)がその比重を低下させているこ とです。


近世の時期から絞油、酒造業については大坂市中ではなく在方にその中心が移動しておりまた、特に絞油業については機械化や石油の輸入により衰退しつつあったのです。

株仲間の廃止により、大坂市中の絞油業等の働人を統括するという長町木賃宿の機能は、失われてしまったのです。

かわって大阪府は、長町以外で営業されている雇人請宿を直接管理し取り締まっていくことになります。

このように明治期に入り長町は、その経済的な位置付けの変更を余儀なくされたのです。

前記したように明治初頭の大阪府の長町対策は近世のままでしたが、1886年にい たって大きな転換が見られます。

これは失敗に終わったものの
前年から流行していたコレラ(コレラ等の大流行はこの年だけでなく開国以来断続的にみられたものです)対策を契機に企図されたもので、
治安・衛生の観点から長町等(長町だけでなく市内東区 ・西区・北区の一部や西成郡福島村・同難波村の一部も含まれていました)の『不潔』な貧民窟を
難波村字久保吉に移転させようというものでした。

この年の8月、この計画が公表されるや秋にかけて関係各区、各町村会が開催され、難波村を中心に反対運動が展開され種々の曲折を経て頓挫することになります。

なおこの計画公表に先立って府は、長屋建築取締規則を制定(5月14日が最初で同年中になんと6月、10月、12月と3回も改定しています)しています。

衛生を前面にだして、一定の基準(敷地の高さ、敷地内道路の幅、他の建物との距離等)を満たさない長屋に対する『立ち退き命令』についての規定も含まれており
長町を念頭において制定 されたことは明白です。

長町移転計画はいわゆるスラムクリアランスと言えますが、
対象となった長町の『不潔家屋』は1,920戸で居住者は約6000人でした。

先に紹介した1791年の数字 と比較(対象が異なるため厳密なものではありませんが)すると4倍近くに膨張していることがわかります。

この『不潔家屋』に木賃宿が含まれていないとすれば、その居住者の増加はなお大きくなるでしょう。

86年という年は、たんに長屋建築取締規則が制定され、長町移転計画(実態は撤去・ 解体)案が浮上してきたというだけではありません。

その6月には内務省から訓令7号が出されています。

これは各地方に『乗合馬車人力 車宿屋ノ営業及街路』について『警察各其取締ノ方法ヲ設ケサル可サル』として「各其標準ノ趣旨」を示し規則制定を命じたもので
その宿屋取締規則標準の第四章木賃宿(第30条)では「木賃宿営業ハ場所ヲ定メ許可スヘキモノトス」とあり、以前の大阪府の府令と背馳するものではありませんでしたが、
府はこれに基づき12月(この段階では 移転計画の頓挫は確定的でした)、宿屋営業取締規則を制定しています。

木賃宿の営業を一定地域に限定するのは従来と同様でしたが、
ここにいたって『不潔家屋』移転計画を踏まえて、営業許可地域は大阪市外の六ケ所に、いわば大阪市の周辺地域に排除され るかたちで限定されることになりました。

なおその六ケ所とは次の区域です。

難波村字南川原・木津村ノ内・北平野町七、八丁目・上福島村字羅漢前・北野村綱敷天神附近・九条村字西九条

要するに釜ヶ崎は含まれていないのです。

前記したように千日前は江戸時代には七墓のひとつとして知られていましたが、明治の初めに墓地が阿倍野へ移転することになり
その跡地は見世物小屋等で賑わう歓楽地として発展していました。

ところが長町移転計画が論議されていた86年10月7日、鞠乗りの小屋から失火、見世物小屋の大半が消失してしまうという事件が起きました。

移転計画が頓挫したあと、この千日前の興行地を長町に移転させようという長町撤去・解 体案がまたも行政から提起されました。

しかし興行主の利害、長町家主の思惑等が絡み 、結局この移転案も陽の目を見ないことになります。

しかし、前記したように長屋建築取締規則および宿屋営業取締規則によって長町は一定の変容を強いられることになります。


つまり木賃宿は日払い方式の長屋に様変わりし 、

また劣悪な長屋の増設には一定の歯止めが加えられることになったのです。

なおこの86年の宿屋営業取締規則を最初として四つの宿屋営業取締規則が制定され ます。

すなわち91年、98年、それに1926年ですが、最後のものについては後に触れることにします。

この長町移転計画頓挫後の長町の状況については88年発表の鈴木梅四郎『大阪名護 町貧民窟視察記』に詳しく述べられていますが、

それによりますと『輓夫』や『マッチ 』が散見されるものの目につくのは『雑業』、『屑拾』、『被雇』です。

この前後、中之島や若松の監獄を大阪市外(堀川)に移転させる案が現実に移されており
通常のスラムクリアランスを越えた
大阪市内を貧民も囚人もいない安全で衛生的な 空間を創り出そうとする意図が見られますが、

長町については伝染病・火災等への対応策を根底において支えていたのは、先に触れたように大阪における力役型労働力管理上の長町の位置が決定的に変化していたことです。


なおこの時期に絞油労働者(前記のように機械導入により徐々に衰退していきますが )が団結して労働争議を起こしています。

当時、絞油労働者は絞油雇人請宿(絞油に使用する袋の販売も行ったので袋屋とも言われました)に宿泊し、
この請宿を通じて絞油商に雇用されていましたが、

1886ー87年の争議は、請宿業者による鑑札携帯義務付けに対する反対運動(ストライキ)でした。

その背景には『正規』の請宿業者と『モグリ 』業者との相剋があったが、それは近世期の労働力管理システムの崩壊、農村からの大量の労働者の流入に起因しています。

また87年には夏期割増賃金をめぐるストライキが発生し、さらに88−89年には請宿業者との争議が、89年には賃下げに反対するス トライキが起こっています。

これらの一連の絞油労働者の争議については不明の点も少なくありませんが、この時期に継続的に団結して自らの利益のために闘ったことは注目されていいのではないでしょうか。

また時期的には少し後のことになりますが、
物価騰貴があり、日清戦争時軍夫(朝鮮行人夫)に出稼ぎする米搗職人が多くなって労働力不足にもかかわらず、
その賃金(雇人請宿から搗米商へ通う場合と米搗商に住み込む場合とがありました)が据え置きにな っていたことから賃上げ運動を起こしています。

米搗商は同時に白米小売商であり、請宿同様市中に散在していたわけです。

これらの争議の資料をみても長町木賃宿による労働力の統制は完全に崩壊しており、また市中に散在した雇人請宿が力役型労働力のプール地として機能していることが明ら かです。