毎土|曜日の夕には総ての孤児会堂に集り|音楽会を開く是れ彼等が
無上の快楽にして此|刹那こそは其父|母の事も同|胞の事も将た我
身の事も云ひ代ふれば総ての憂世の憂さを忘れ果てゝ|瀏亮たる楽
器の|音に聞き|惚るゝの時にてあるなれ|音楽室に貯ふる処の楽器
にはクラリヲチツト、コーチツト、アルト、バルトーン、シペモー
ルバス、バス、大小|鼓、|笛、手風|琴、ヴァイヲリン等あり而し
て彼れ孤児の中には頗る|音楽に堪能なるものありて去明治二十六
年末|音楽隊なるものを組織したるが間もなく此一団なるものは寄
付金募集の目的を以て岡山を出発し長|亭|曲清風に櫛り雨に|沐し
或時は山に臥し野に明し処々方々とさまよひ歩きて慈善家に|訴た
へ今は|辿り/\て四国路を巡回しつゝありと、彼等が寄付金募集
の方法は先づ慈善家を尋ねソが|周旋によりて其処に|音楽会を催し
傍ら|幻|燈等を示し其得たるものを本院に送付する仕組なりと、今
や物価|暴|騰事業不振の影響を受け平素に比して寄付金の額|著し
く減少せしにも拘らず尚ほ同院幾多の孤児が其日/\の|露命を維
ぎて敢て飢を|叫ばざるものは実に此|音楽隊の力与て多きに居ると
いふ
支部は前記するが如く日向国児湯郡茶|臼原に在り同所は一望際|涯
なき原野にして総て以て掩はる而して同院が有する処の地所は此内
約六十町歩とす是れは同院が青年の|殖民地に供せんが為め岡山市
の慈善家に|訴へ買入れたるものにして去明治二十七年四月始めて
青年六十名を之に移し開|拓に着手せしめたり爾来年を|経る四星|
霜目下|桑園四町歩、|耕作地六町歩、松林五町歩、牛馬五頭を有す
右の外|萩原精米所なるものをも有す地位は同国高鍋|萩原に在り昨
年五月の|創立にして敷地三反三|畝建物四棟、精米器|械四台を据
付け蒸気力を以て之を運転し一日|玄米六十|俵を精ぐといふ(未完)
著者:大阪毎日新聞
表題:岡山孤児院概見(承前)
時期:18980503/明治31年5月3日
初出:大阪毎日新聞
種別:社会事業