米価の騰貴、貧民の困難

   飢饉の害は尚ほ怪我の如し其出血甚しと雖も是たゞ一時の事なり左

   のみ驚くに足ず然れども社会自然の趨勢より漸々生じ来るの疲弊は

   例へば労咳の如し一見左のみならざるが如くなれども次第/\に疲

   れ果て遂に一命を失ふを免れざるなり今日貧民の貧困果して飢饉に

   ありとせんか仮令如何なる惨毒の有様を現はすとも是れたゞ暫時の

   ことのみ深く憂ふるに足ねども若し社会自然の趨勢より来れるもの

   とすれば之を矯正すること決して易すからざるなり想ふに其原因何

   れにあるか、上来吾輩が論じ来りたる所に依れば不幸にも其原因前

   者に非ずして後者にあるを如何せん唯昨年以来の水害不作之が近因

   となりて俄かに今日の有様を致したるなれども若し夫れ是等の近因

   なしとても我貧民が斯る有様に堕落するは早晩遂に免れざるの運命

   なり我貧民の境遇愍むべし而して其愍むべきは目下の窮迫よりも寧

   ろ後来の窮迫にあるなり

   情勢此の如くなるが世人が不景気と叫び飢饉と恐れ囂々と立騒ぐも

   強ち其の理なきにあらねども如何に立騒ぎたればとて夫れが為めに

   不景気の挽回せらるゝにもあらず飢饉の消滅するにもあらぬのみか

   唯騒げば騒ぐ程ます/\人心の恐慌を高めるのみ貧民の苦情を増す

   のみ一層不景気を甚しくするのみ暴民の一揆を来すのみ火付け盗賊

   の横行を生ずるのみ嗚呼これ智者の事ならんや

   ソは兎も角、何れにしても目下貧民の貧之を救はざるべからず之を

   救ふは如何にせば可ならんか諺の云ふ貧すれば鈍すると、又云ふ凶

   歳には子弟頼しげなしと、彼の貧民は左なきだに貯蓄の念に乏しく

   唯今日あるを知りて明日の謀を為すを知らざるものなるに搗て加へ

   飢饉の恐慌を以てす彼等は唯自暴自棄に陥らんのみ、而して此自暴

   自棄に陥りたるの貧民に向て徒に金銭を恵與し米穀を施与せんか是

   れたゞ一時の急を救ふに過ぎず是れただ彼等の懶惰心を増すに過ぎ

   ず夫れ己れの額に汗して以て己れのパンを食ふべしと云へるにあら

   ずや然るに今額に汗せずして容易に之を得とせばソレ如何でか彼等

   を率ひて懶惰に陥れざらんや凡そ古来最も惰民を生ずるの多きは斯

   る場合に於て恵與を漫りにしたるの後に非ざるはなし近頃各地の有

   様を見るに富豪の輩有志の徒往々金穀を義捐して貧民に施与するも

   の少なからず彼等の志甚はだ嘉すべしと雖も其の結果は寧ろ恐るべ

   きものなきあらず仁声仁聞ありて徳民に及ばずとは蓋し斯る行をや

   称するならんか

   然らば彼等を救助するは如何にせば可ならんか、曰く唯彼等をして

   職業を得せしむべきなり、職業を得せしめ自己の骨折に依て以て自

   己の口を糊するの道を授くべきなり、其策如何、或は貧民救助の為

   めに職業会社を起すも可ならん臨時の土工を起すも可ならん徳川氏

   の当時にありては斯る場合に於ては常に御救助普請とて別段目下の

   急にもあらざる工事を起し老若男女に関はらず総て其工事に服せし

   めて賃金を与へてたることなり其賃金を与ふる、或は通常の労役よ

   りも其割を高うするを常としたれども兎に角それ丈の働をせねば夫

   れ丈の錢は取れぬことと為したるなり、思ふに此法素より完美なる

   ものと云ふに非ず然れども之を以て彼の漫りに米錢を施与して却て

   惰民を生ずるの結果あるものに比すれば其優ること萬々なり次に又

   貧民救助の一策として或は南洋諸島若くは北海道等の地に移住せし

   むるも可ならん我輩が過日も論述したるが如く畢竟我国は住民甚だ

   過多なるを以て其生計の困難を生じたることなれば臨機応変その住

   民を他に移すの手段を為さゞるばからず而して今日の如きは最も其

   機会なるべしと信ずるなり我輩は世の慈善家に向て世の有志家に向

   て又当局の為政家に向ひ敢て此挙に出られんことを望むものなり

   (完)

   

   著者:大阪毎日新聞
   表題:米価の騰貴、貧民の困難
   時期:18900616/明治23年6月16日
   初出:大阪毎日新聞
   種別:貧民論