田中右馬三郎の大坂繁昌詩の自註に曰く長坊は日本橋の南に在り
乞食の群居するところ婆聾叟唖子跛漢身に敗苞を蒙り腰に朽索を帯
び日に市に出て食を乞ふ夏の日は猶炎を避け涼を仰ぐを得たり冬の
夜は氷を枕にし雪を席にし凍死する者甚多し云々と又能く長街当時
の景況を写し得たりと云べし閑話休題斯て磐之助は長街の客廨に投
ぜしより身を変へ体を改め日に野菜果物の類を荷ひて諸方を売歩く
を以て業とす蓋し該地は各地流民の輻輳するところなれば因て以て
仇家の所在を捜るの便を得んが為なり抑長街の客廨なるもの戸数四
五十軒爰に寄留する者無慮千余人尽く無籍無産の窮人のみ買□帋者
あり鍋敗鍋者あり修烟管者あり補履歯者あり途上俳優あり呑刀走縄
者あり千差万別毎人異業然て摸掏路妓の類尤も多きにおるといふ旦
に去て四方に行き各自其業を執り夕に帰れば牛飮馬食或は骨牌を闘
す者あり或は□蒲を弄ぶ者あり喧嘩雑沓醜態実に言語に絶せり磐之
助も亦此輩と同く爾汝の交をなし朝夕相親む衆磐之助の人品自然と
他に異るところあるを以て怪で其履歴を問ふ即ち偽て曰く酒を被り
刑を犯し遂に今日の窮困におよべり今更後悔慚愧古郷を思ふの情に
耐ずと衆之を憐み或は慰め或は語る磐之助是を幸ひとしいよ/\懇
意を重ね親睦を通じ事に託し物によそへて仇家の容子を探る然而も
天に口なし人を以て謂はしむるとかや或日一人来て偶然に語て曰く
江戸角觝の松兵衛といふものあり年頃は云々客貌は云々貴様と斉く
深く酒を嗜み□□前土佐におゐて酔に乗じて人を殺し夫より姓名を
変換て当地にも久しく遊びおりしが其後堺の並松におり此頃聞に紀
州加田の砲台に役丁をしておるよしなり云々と磐之助之を聞き其年
齢容貌并に人を殺すの年月を案ずるに粗仇家三郎に似たり何気なき
面色にて尚能く其摸様を探るに十に八九は紛れなし爰に於て天に喜
び地に喜び即日勝先生の許に至りしが相憎先生には公事に拠て上京
せられし留主にて謁見るに暇あらず止ことを得ず劍を帯び服を改め
て将に行んとす門人佐藤高松の諸氏等曰く今にもあれ先生御帰宅あ
らば即刻に尾行くべし且安井九兵衞向に来て吾子を訪ふと蓋し安井
は大阪市中の長吏にして先生の命を受け磐之助のために三郎の所在
を探ることを担任する者なり磐之助急に去て安井を問ふ安井の告る
ところも亦己が聞くところに符合せり因て彌々意を決し直に紀州を
指て行く 〔以下嗣出〕
□……判読不能
著者:大坂日報
表題:廣井磐之助復讐始末昨日の続き
時期:18780830/明治11年8月30日
初出:大坂日報
種別:長町事情