哀れ至極

   南区御蔵跡町九番地傘骨職常吉鶴吉は鶴の齢ひ六十有八に及び妻も

   なく子もなく我身の影を伴ふばかりの独暮しにて襤褸一枚の貧窶の

   上常に疝気症に悩み居たれば我腰骨も折やすき傘骨の職業さへ捗々

   しう出来べうもあらず元来此傘骨職といふものは血気壮の男にても

   一日の手間賃八銭より高々十銭を儲れば此職人中にての勉強者と言

   はるゝ程のものなれば病を持つ老の身には中々に終日油断なく働ら

   くも僅々三四銭の所得に過ず左ればあくせきとして骨を折り骨を削

   り終には用にも立かぬる老いの末竹虫入りて次第に朽も果なんづる

   傘の骨職こそ悲しけれ浮世の雨を凌ぐべき其傘の職はしながらに涙

   の時雨いつとても洩らぬ日のなき破庇我住む家の家賃さへ世を恨み

   の念と共に滞り/\て今は六円余りにもなりぬ家主如何程の慈悲心

   ありとも未だ凡夫を免れざればいつまでも地蔵顔たるべき今は中々

   に閻魔顔の其怠りを責るとにはあらねど鶴吉自ら安からず如何にも

   して是を償ひ果せんと生来飯より好てふ酒を雫も飲じと神に誓ひ夜

   を日に継で稼しが稼げど追つく貧乏は足弱車の是非もなく巡る因果

   か老の身を歎くの外はあらざりき扨しも去る八日の夜なりけん独り

   自宅に引籠りて何が故にやいつにもなく酒瓶を扣へ牛肉を煮る臭ひ

   芬々と破壁を洩れて両隣の人の鼻を劈き頻に杯を傾けつゝ果は面白

   気に歌などを謡ひ出しぬ扨は如何になしけんとて近隣の人々怪しむ

   までになりしが明て九日の朝九時も已に過たるに鎖せしまゝ音もせ

   ず今頃まで目覚ざる事やある這は唯事にてはあらじとて近隣の人々

   打集り破戸なれば難なく打あけて内に入るに哀れや鶴吉は奥の柱に

   太やかなる釘を打つけ夫に帯の心様のものを釣るし老の皺首縊れて

   ぞ死し居たりけるは扨は昨夕の酒盛は此世を別の盃にて貧乏神は又

   死神を招きしものにこそと人々哀れがりけるとなん是も又貧民の有

   様ならめ

   

   著者:朝日新聞
   表題:哀れ至極
   時期:18861111/明治19年11月11日
   初出:朝日新聞
   種別:貧困/自殺